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シュロールは朝食を済ませ、まだ見たことのない邸を見渡しながら、エンジュの執務室に向かっていた。
案内すると申し出てくれたミヨンを断り、ゆったりと自分の速度で邸の中を移動する。
朝起きた時の日差しと違い、廊下から見上げる空は、雲が重くのしかかっている。
今にも崩れそうなその空模様を、秋口にはよくあることだとミヨンは言う。
「エンジュ様に、お話しを聞かなければ…。」
外の景色をぼうっと眺めながら、シュロールは呟く。
エンジュの執務室に向かう前に、一人で考える時間が欲しかった。
シュロールはエンジュの養子として、フェイジョアへ来た。
それはエンジュの後を継ぎ、辺境女伯となるべく迎えられたということなのか。
しかしシュロールに、フェイジョア特有の戦闘のセンスやカリスマ性は、今のところ現れてはいない。
今から学ぶにしても、それで間に合うのだろうか?
もしもシュロールに一族の加護がなかった場合、どうすればいい?
もう求めてもなお、求められないことにはうんざりだった。
相応しくあるためならば、令嬢らしくなくても構わない。
フェイジョアの為、エンジュの為になるのであれば、シュロールは努力を惜しむつもりはなかった。
たとえそれが今まで触れたこともない、戦いを体に刻み込むことであっても。
◇◆◇
思考に捕らわれ、注意も散漫に歩みを進めていると、進む先にフェイジョアまでの旅で一緒だった護衛の騎士が立ち話をしていた。
「お嬢様、ゆっくりお休みいただけましたでしょうか?」
シュロールに気が付いた騎士は、にこにこと声をかけてきた。
フェイジョアへ来て間もないシュロールには、声をかけてくれる存在がありがたく感じられる。
話しかけてきてくれる騎士に対して、微笑みを向けて答える。
「ありがとうございます。思いのほか深く休めたようで…恥ずかしい限りです。」
声をかけた騎士は、シュロールが頬を染め恥じらう様子を微笑ましく見つめ、頷いた。
そして思い出したように、隣にいた男性を紹介してきた。
「こちらはこの邸で騎士や使用人、領民を見てくれています医師の先生です。少し前まで王都にいらしたらしく、私達よりはお嬢様のお話に合うと思いますよ。」
紹介された男性は、立ち襟のベストの胸に片手を添え、軽く礼をとり名乗る。
「アリストロシュ=パルミエと申します。こちらで騎士の方を中心に、医師として駐在させていただいております。」
男性は顔をあげ、口元に笑みを浮かべた。
アリストロシュと名乗る男性は、医師と紹介されるには若い男性だった。
シュロールより、ひと回り位上にあたるのだろうか…。
思慮深く落ち着いた口調は、とても穏やかで医師としての誠実さを感じる。
礼を取る所作にも流れるような気品が漂い、優雅さがみえる。
明るめの軽さを感じるブラウンの髪の毛を後ろでひとつにまとめ、優しそうなグリーンの目元にかけている眼鏡は、女性がほっておかないだろうという相貌だった。
「先生、すみません…俺はもう行きますので、良かったらお嬢様をご案内してあげてください。」
騎士の頼みに、アリストロシュは会釈で返す。
安心した騎士は、片手を上げて足早に去っていった。
「ご迷惑でないのなら、よろしくお願いできますか?」
「喜んで。先程までも彼とお嬢様の話をしていたのですよ。少し、お話をしながら歩きましょう。」
そう言うと、腰に軽く手を添え、移動を促される。
シュロールも頷き、それに従う。
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何気ない会話を交わしながら、執務室へ向かう廊下を歩く。
エンジュの執務室に向かうにつれ、すれ違う人は少なくなっていった。
「お嬢様はフェイジョアを、どのような土地だと感じましたか?」
「ええ、街並みがとても美しく、人々にも活気があり、魅力的な場所だと感じました。」
初めてフェイジョアを見た時の感動を、思うままに伝える。
お互いの顔を見合わせながら、微笑み頷く。
すると、アリストロシュの顔から…すっと表情がなくなり、足を止める。
数歩先で気づいたシュロールは、足を止めアリストロシュを振り返る。
「その魅力的な土地で…貴女は何をなさるつもりなんですか?」
表情がないまま、口元だけ微笑みを張り付けた表情でアリストロシュは言った。
気品のある真っすぐとした佇まい、両手を後ろに組むその姿勢はとても綺麗に見えた。
ただ…なにかが違う。
アリストロシュの纏う空気の違和感に、記憶の糸を手繰る。
シュロールは知っていた、何度も味わってきたからこその確信…そこにあるのは悪意だった。
「…どういう、ことですの?」
シュロールは体半分を、アリストロシュに向け問いかける。
「聞けば何でも答えが返ってくると思ってらっしゃる?」
変わらずの表情で続けるアリストロシュの返答には、嘲りも滲んでいた。
シュロールは口元を隠し、ほうっと息を吐く。
「いえ…なにやら、私の事は何でも知っているというような口調でしたので…。それは少々、妄執すぎるのではないかと。」
「ご心配には及びませんよ、私は知っているのです。」
そう言い一歩近づいたアリストロシュの顔は、完全に表情が抜け落ちていた。
もう口元に微笑みを張り付ける事すら、やめてしまったらしい。
「王都で王族を謀った『聖女のなりそこない』…そして『傾国の毒婦』だと、私は知っております。他の者の様に盲目に貴女に信頼を寄せている者ばかりではないと、知っておいていただきたい。」
そう告げるアリストロシュは、勝ち誇ったように口端を上げた。
シュロールは、内心動揺していた。
まだ「聖女のなりそこない」はわかる…しかし「傾国の毒婦」?
「誰かの妄言だとだけ、申しておきましょう。」
「本当にそうでしょうか?」
「ええ…それともなにか他に、証拠となる物でもあるのでしょうか?」
シュロールは呆れながらも、探るように返す。
そのまま互いに、視線を外さずに睨みあう。
次の一手が読めぬまま、時間だけが過ぎようとしていた。
先に感情をだしてきたのは、アリストロシュだった。
眉間に皺を寄せ、しかしその目には光はなく、淀んだ悪意だけが澱のように沈んでいく。
「……毒婦め…。」
そう言いながら、唇を噛む。
その時アリストロシュの後ろから、聞いたことのある声が責めるように話しかけてくる。
「楽しそうだな、先生。俺も話にまぜてくれよ。」
腰に手をあて、鋭い視線をアリストロシュに向けるヴィンセントが少し離れたところに立っていた。
後ろから不意を突かれた形になった、アリストロシュは焦りを見せずに、再び穏やかな雰囲気を纏う。
「…ブッドレア殿がおいでになったのなら、私のエスコートは必要ありませんね。」
廊下の道を、ヴィンセントに譲りつつシュロールに挨拶をする。
「楽しい時間をありがとうございました、お嬢様。また近いうちに、お話しできる機会をいただければと思います。」
「ええ、私こそお話ができて嬉しかったですわ。必ず、近いうちに…。」
そう返すと、アリストロシュは礼を取り、踵を返し去って行った。
姿が見えなくなるまで視線を反らさずにいたシュロールは、ヴィンセントに手を添えられた瞬間…足から崩れ落ちた。