24
フェイジョアへ旅立つ日の朝、シュロールは不思議な気分で邸を眺めていた。
息を吸い込み、邸を見上げる。
吹き抜ける…幾方向の風が、シュロールの髪とスカートを軽やかに揺らす。
これは追い風なのだろうか、それともこれから待ち受ける試練が起こす向かい風なのだろうか。
心に少しばかりの期待と不安をかかえながら、そっと目を閉じる。
大きな塀に囲まれ、綺麗な庭に包まれ、高く…高くそびえたつ、シネンシス公爵邸。
昔はこの邸を、大きな檻だと思っていた。
ミヨンと一緒に窓から見上げた空も、ユージンと共に座り込んで学んだ庭も、全てが懐かしく思い出される。
堂々とこの邸を、出ていける日が来るとは思っていなかった。
自分の足で旅立てることを、嬉しく感じる。
今はただ、この青空のように晴れやかな気分だ。
「エンジュ様!」
フェイジョアの騎士がエンジュの側へかけつけ、なにやら話しかけているようだった。
なにげなくその様子を眺めていると、後ろより肩を掴まれ力づくで振り向かされた。
驚きで身動きが取れないまま、何事かと視線をあげると…焦燥しきったお父様とクロエがそこには立っていた。
お父様は公爵として華やかな身なりではあったが、その様相にはやつれが見て取れる。
顔は青白く、目の下に刻まれた深いクマのおかげで、人相が変わっている。
髭は処理が甘く、髪の毛も所々に乱れがあり、整ってはいない。
しかし…目だけは濁った怒りに満ち、なにかの覚悟を持っている。
「シュロール…今からエンジュ殿に断りを入れなさい。お前の口からフェイジョアへは行かないと、はっきり告げるのだ。」
何を言うのかと思えば、この期に及んでお父様は、シュロールのフェイジョア行きを止めるつもりのようだ。
肩を掴む手に力が入る、お父様の指は私の肩に食い込み、力によって支配しようとしている様がわかる。
「お姉様、私の事を内密にしてほしいと伯母様にお願いして!」
「お姉様だって、私の醜聞は望んでいないでしょう?なら私の事を内密にして、どこか高位貴族に口添えをしてくれるようにお願いしてもいいじゃない!」
いつも可愛さを振りまくことに余念のないクロエ…だが、この時ばかりは、なんとしてでもシュロールに言うことを聞かせたいようだ。
叫ぶようにシュロールに向かって、命令ともとれる声を上げている。
二人を見ると、同じようにシュロールが従うと思っている。
いや…エンジュさえいなければ、従うに違いないと信じて疑わないのだ。
「ああ…。」
吐息とも、諦めともとれる、声を漏らした。
シュロールのその声に、従わせることに躍起になっていた二人は、勝利の笑みを浮かべていた。
このままでは、だめだ…私が強くならなくては。
私の口からきちんと決別を伝えなければ、いつまでも私は…二人の所有物のままなのだ。
ならば最後に、公爵令嬢として美しく別れの挨拶を告げるべきだ。
シュロールは肩にかけられたシネンシス公爵の手を払い、軽やかな足取りでくるりとまわり、シネンシス公爵とクロエから距離をとる。
「シネンシス公爵、今まで育てていただきありがとうございました。」
「今後公爵は爵位を落とすこととなるでしょう。辺境伯の令嬢として、私とは簡単に話す間柄ではなくなりますので大変寂しく思いますわ。また私の研究によって事業をされているようですが、この度研究の権利を他の貴族の方へ譲渡させていただきました。今後この権利を使用することは法に反しますので、他の事業を起こされた方が良いかと思います。」
あえてシネンシス公爵と告げるその声には、カメリアの様に柔らかく、誇り高い微笑みを浮かべて。
「そしてクロエ、今まであまりかまうことができず、申し訳ありませんでした。」
「ただ貴女を高位貴族へ口添えすることはできません。あなたがユージンより魔石をくすね売っていたのを、知らないと思ったのですか?手癖の悪い令嬢を紹介したとなれば、私の品位も問われてしまいます。」
令嬢としての品位を問うその視線には、ミヨンの様に真っすぐ、曇りのない力強い眼差しで。
「私はお二人の人生から、退場いたします。今後お目にかかることはないと思いますが、どうかこの先の…破滅の待つ残りの人生を心健やかにお過ごしあそばせ。」
そういうと、ダンスを踊るかのように優雅に、そして見惚れるような微笑みで最高位の礼を取る。
その姿はまるで、一枚の絵画の様に美しく、心に残るものだった。
二人はあっけにとられたように呆然としていたが、すぐにシュロールに向かい叫び始めた。
片手でスカートの裾を持ち、ふわりと振り返り二人を背にすると、何事も無かったかのように歩き出す。
そうすることが、自分らしさへの第一歩だというかのように。
◇◆◇
エンジュの元へ行くと、何やら急ぎの用件だと手紙が届いていた。
王家の封が施してあるそれは、王太子であるオルトリーブからエンジュに宛てたものだった。
なにか汚いものを見るようにエンジュはその手紙を眺めていたが、ふと思いついたようにシュロールに渡した。
「読み上げろ。」
手紙をもらった当人以外が、封をあけるのはマナーに反するのでは…とシュロールはエンジュを見上げるが、エンジュはそれを気にも留めず促すように片眉を上げる。
渡された手紙の封を開け、読み上げる。
最初の方は社交的に、王都に出てきたことを労う内容が書かれていた。
内容が中盤にさしかかり、シュロールは読み上げにくくなってきた。
「…なお、私の側室にフェイジョア辺境女伯令嬢シュロールをと申し出るのであれば、この度の無礼をなかったことに…。」
そこまで読むと、エンジュは便箋をシュロールに持たせたまま、指装甲で縦真っ二つに切り裂いた。
「無駄なことをさせた…出立するぞ。」
王家よりの手紙を、二つに切り裂く?
きょとんとしたシュロールに、エンジュは事も無げに答える。
「無礼だ、不敬だというのなら…私が一番無礼だろ?あの王太子は私を娶ればいい。」
私が鍛えなおしてやろう…と、皮肉のように言う。
口元を上げたエンジュと、声をあげて笑うシュロールは、二人並んで馬車へと向かい、乗り込んでいった。