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帰タラー 足早(2章)  作者: ちゃつね
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帰タラー 足早(2章)

二章


 机から顔を上げると、いつの間にか授業が終わっていた。周りからは、空きっ腹の胃液を活性化させるようないい匂いが漂ってくる。もう昼休みなのか? 三時限目が始まったあたりからの記憶が全くないけど、今までの今まで寝てた? 

 どうして誰も起こさないんだ……。もう起きないもだんと無視されてる?

 空腹に耐えきれなくなり、学校へ来る途中にコンビニで買っておいたパンを、鞄から引っ張り出す。みんな大好き焼きそばパンさ。

 ふと後ろを覗くと、この時間にも決まって絡んでくるはず韋駄がいない。

 別にさびしくはないね、めちゃくちゃ嬉しいっ! 鼻歌でも歌いたいくらいだ。

 でも、そんな悠長に能天気な気分には浸ってれない。

 朝に登校してくると、あの話題で学校中に持ちきりだったから。

 どうやら昨日の、ラグビー部、対、俺との抗争が噂になって広まってるらしい。

 そりゃあ、あんだけ騒げば無理もない、あいつらテンション高かったしなぁ。

 クラスの連中が話しているのに聞き耳を……たまたま聞こえてきた話には、ラグビー部の強引な勧誘によって生徒同士で争いとなり、校舎の一部を破壊し、他クラスに被害を加えたということ。それによって、ラグビー部の自主的な部活勧誘が一切禁止という処分が下されたらしい。しかも二年生の教室付近には、他学年ラグビー部は進入禁止とのこと。

 ――完全に俺の勝利だった。

 でもこの話には、少し気がかりなところもある。

 それは一般生徒という名で、俺の名前が匿名化されていること。

 並びに、部長がラグビー部の起こした自作自演だと言い、自主的に責任を取っていることだ。

 確かに俺は、正体がバレないよう鞄で顔を隠したり、ラグビー部員だという証拠をわざと落として偽装工作までしたけど、それは奴らが証言すれば事足りるだろう。

 庇う利点なんて――ま、まさか! まだ俺のことを諦めてないんじゃっ!?

 ちっ、やっぱり見せしめに一人くらい血祭りにしとくんだった。

「ねぇ、足早くん」

 頭を悩ませる俺を気にも留めず、空気を読めない奴が一人。

 隣の席から天ノ上がにこっと柔らかそうな白い頬にえくぼを作り、こっちを見ていた。

 今日はいつものふわっとした感じの髪型じゃなく、今日はそれを後ろで小さく髪を纏めている。こうしてると意外に大人っぽく見え――見えない。ただのロリ、全然可愛くない。 

「なんだよ、いつもいつも暇な奴だな」

 今は気分がいいからな。久々に相手をしてやろうか。

「最近足早おかしいよな、前にもまして。大丈夫か?」

 天ノ上は教室中を挙動不審にチラチラ見まわしつつ、小声で話してくる。

 そんな周り気にするなら普通に喋れって。いつも俺にだけ当たり強すぎんだろ。

「うるせーよっ! 変な心配すんな。常に頭のネジが数本見つからないようないかれた奴には言われたくないっての」

「はっはは、足早が皮肉とか珍しいなー。……で、俺に何かが欠落してるって? つまんねーよ、それ。友達いなさすぎて、ついに頭おかしくなった?」

「んなわけないわっ! ついにとか、すでにその予兆があったみたいな言い方やめろ」

 天ノ上が堂々とこんな喋り方をしてくるってことは……。俺も教室を見まわす。

「誰もいねぇじゃねーか! おかしいだろこれ、今昼休みでしょ!? さっきの食べ物の匂いしてたのは幻覚っ!?」

 教室には見事に俺たちしかいなくて、窓も扉も閉まった密室状態。

 ここで殺人事件でも起これば確実に犯人は天ノ……どうして俺が殺されてるんだ?

「ぷっ――」

 小馬鹿にしたように吹き出す天ノ上。

 もう一回くらい腹殴ってもいいよね。絶対に舐められてる。

「わりぃわり。今日は天気がいいし風も強くないから、みんなは外で食べるってよ」

 みんなってクラスのほぼ全員いなくなるかよ。すげぇ団体行動力だな、おい。

 ……あれ。でも俺と天ノ上は? 天ノ上ぼっちにされたのか? 可哀そっ。

「そうか――で、何でお前はここに残ってるんだ?」

「あー、いや……えーっとな……」

 良いことなのか悪いことなのか、最近はもう天ノ上のこの口調にも慣れて来たわ。でも珍しく言葉に詰まってる。いつもは周りに人さえいなければ理性の欠片もなく噛みついてくる癖に……なに? また汚らしい手口でも企んでんのか?

 天ノ上は俺が疑いの眼差しで見つめているのに気付いてか、慌てて目を逸らした。

 いつもなら「何ガン飛ばしてんだよ? あ? ぼっちが」とか言う癖に。 

 ――って、誰がぼっちだ。腹立ってきたっ! もうゆるさねぇっ!

「なに戸惑ってんの? おらっこいよ、どしたっ! お前、遠慮なんてもの持ち合わせちゃいないだろ? 天ノ――いや、アマの神。糞アマ中の糞アマ、糞アマの頂点めっ!」

 言いにくそうにしている所をさり気なくフォロー。ナイス俺、かっけぇよ。

 その表れか、天ノ上の表情も和らいだ気がするしな。

 天ノ上は頬を薄くピンク色に染め、口元を震わせつつも声を発する。

「うん……あ、あのね……」

「おう、どうしたよっ。遠慮せず言ってみろや」

「え、えっと、一人教室に残された足早を――――いじろうと思ってなぁぁっ!」

「この鬼畜女っ! さっさとどっかいけぇっ!」

 噛みついてくることは予期していたが、感情的になって思わず立ち上がってしまった。

憎たらしいほどの満面の笑みで、親指を下に向ける天ノ上を手で追い払う。

「言われなくても用が済んだら行くっての。俺がいかないと始まらないからな。さっきまで『美優ちゃーんいこーよー』って女どもに引っ張りだこだったんだ。お・れ・は」

 ふて腐れてるのか、張り合うようにしてそれなりの胸をはって主張する。

 もちろん俺はそれをガン見――あっいかん、つい。

「それならさっさといけよ。お前に構ってたら飯が食えん」

「まぁまぁ、そんな邪険にするなって。可哀そうな足早にいい話持ってきたんだからよ。ほんと慈悲深いよなー、俺。お前も崇めたっていいんだぞ?」

 明らかに何か企んでいそうな顔をする天ノ上は、俺の前の席へと移り、椅子に座らせようと肩を叩いてくる。そう思う通りになると思うなよ? 

「別にいらねぇよ、どうせいい話じゃないから。あと言っておくが、俺は絶っっ対クラスの連中みたいには洗脳されんぞっ!」

「あっ、そう? じゃあいいや。月曜日の朝に体調悪そうにしてたこと、実は足早に腹殴られたからだってみんなに言ぅー」

 天ノ上は、わざとらしくスキップして扉の方へ。

「――ちょ、ちょい。それはなし。ちょっと待ってよ。ごめんなさいって! あれはホントに悪いことしたって思ってるかっ――ら」

 かろうじて、逃げられる寸前のところで天ノ上の手を掴むことが出来た。

「さ、触るなっ!」

 指先に触れた手を勢いよく振り払われた。

 生娘かっ! ちょっと傷ついたんですけど……。

「そ、そこまで嫌がらなくてもいいだろ」

 憎らしくも天ノ上は、俺が触れたところを汚いものがついてしまったかのように、ふーふー息を吹きかけ始めた。その前に一瞬だけ口元を緩ませたのを、俺は見逃してない。

 ――こっ、このアマ狙ってやってやがるっ! もう許さん、絶対に。

 お前がそういう態度を取るってなら、こっちは口で言い負かしてやるっ!

「いい加減にしろよ! このクソ童貞っ! ――ってそれは俺じゃん! ……え? あっ、違う!?」

 あんなに嫌そうに吹いていた天ノ上が、きょとんとした顔で俺を見ている。

 勢いで罵声を浴びせてやったつもりだが、天ノ上の口元が少しずつ緩んでいき……。

「ったはっはっはっはっはっ! 何言ってんのいきなり。あ、足早クソ童て……ってはははははっ。童貞宣言っ、童貞宣言っ! ははっ、はぁはぁはぁ――」

「い、言い間違えたんだよっ! くたばれ、この性悪女ぁぁーーーっ!」

 天ノ上は腹を抱え、笑い転げる。

 俺は机に脚を取られながらも、無理やりその場を駆け、一目散に教室の出口へ。

 こ、このアマぁ……人の上げ足ばっかとりやがって。ここ最近は帰り以外も絡んでくるし……くっ、こんなことに屈してたまるかよ。これも全部俺が早く帰ることを阻止するための精神攻撃に違いないんだ。もう誰も信じるもんかっ! 人類は帰タラーの敵っ!

「――へ?」

 逃亡を決意したはずなのに、心とは反対に体が止まってしまう。

 感じたことのない、思わず心を許してしまいそうなぬくもり。か細い手のひらに俺の手首が優しく包み込まれていたから。それは――。

「えっ――天ノ上。お前、手を――」

「……う、うん」

 天ノ上は遠慮がちそうに微笑み、ゆっくりと顎をひく。

 手が温かい人は心が冷たい、と言うのを聞いたことがあるが、それは違うのかもな。

 あんな迷信まがいのことを吹き飛ばすような、安心感のある温もり。手が触れてるだけなのに体中が火照って来る。こんな優しい温かさを持ってる人が性悪なわけがない。

 実は俺のことが心配で一人残ったけど、素直に慣れなくて意地悪しちゃったみたいな? 好きな子に悪戯しちゃうような? ……だな、そうだ。それに限る。

 じゃないと後は、ホントに救いようのないほどの糞アマで、俺に追い打ちをかける為に引き留めたとしか考え――。

「まだ逃がさない」

「だぁぁよなぁーーーーっ! 誰かぁぁぁぁっ!!」

 俺の叫びが、締め切られた教室中に木霊していた。

「ふっふっふふ……誰が性悪女だって? 神様、仏様、美優様って自主的に百回唱えるまでこのパンは食わせないからな。ふっふっふっふっふ――」

「あ、おまっ――いつの間に」

 食い物を人質に取るなんて、とことん汚い女だ。汚れきってやがる。もう邪神だ、邪神。

だからってコソコソ汚い手を使うのなら、女だろうが邪心だろうが手加減はしない。

 少しでも隙を見した瞬間、すぐさま鳩尾にボディブロー入れ、そのまま服を掴んで引き寄せて背負い投げへと持っていく。全力で地面に叩きつけたあとは、泣き叫んで許しを請うまで腕十字固めで締め上げ、許しを請ったところで腕の骨を折ってパンを奪い返すっ! 

 隙を見つけ次第、付け入ってやろうと様子を窺っていると――ふいに天ノ上が、肩をびくつかして大きく目を見開いた! いつもなら吹き出してやる所だが、笑えない。 

 たぶん俺も同じような反応だったから。

 後ろの方から破裂したような音がしたんだ。

 不敵に笑う天ノ上の声をかき消すためかのように。

 誰か俺を助けに来てくれたのか? 

 向こう側、教室後方の扉が開いている。

 すごい音は、おそらく扉が勢いよく開いて壁にぶつかったものだろう。

(わだち)か……」

横から呟きが聞こえたような気がしたら、赤茶色というには優しすぎるほどの真っ赤で、相手を威嚇をするように派手な髪色をした女子生徒が入ってきた。

「誰もいな――ちっ、鬱陶しい」

 俺たちの方へと目を向けた瞬間だった。

 ぼーっと半目だった瞳を鋭くして睨む。今にも食いかかってきそうだ。

「ふん、昼間っからこんなとこで発情しやがって」

 嫌らしげに吐き捨て、扉を開けっぱなしで出て行ってしまった。

 発情――ある意味当たってるかもしれん。俺の場合、沸いてくる欲は食欲のほうだが。てか、俺たちそんな風に見られて……。

 そんなことより気になることが二つばかりあるんだが。

「なぁ」

 殺伐とした雰囲気の中、天ノ上に声をかけた。

 何故か天ノ上は、さっきの赤い髪の女子が居た方をずっと睨み付けている。

 俺に気づいてか、不機嫌そうにため息を吐いて口を開く。

「……なんだよ」

「あの人誰だ? なんかすっごい目立つけど……あんな人学校にいたっけ?」

「は? あいつは一個上の轍って言う――ってなんで知らないんだよ。もういい、ほらっ」

「お、おいっ! ――っと」

 今度は呆れたようにため息を吐いた天ノ上。

 使い古したおもちゃを捨てるよう、俺へとパンを放った。

 食物を粗暴に扱う奴は天罰が下るぞ。帰り道、後ろに気をつけな。

 天ノ上は開いた扉を見据えていたが、すぐに近くの机へと乱暴に座りこんで、ブレザーのポケットから取り出した携帯電話をいじり始める。もしかして機嫌悪い? いつも機嫌悪いときはとは違うような……。そんなに俺と勘違いされたことが嫌だったのか?

 足を組む瞬間、若干スカートが際どかったが、別に興味がわくことはなかった。

 他の男どもなら視線を釘づけだったろうな。白地に黒の水玉、それに黒いレースがついたファンシーだけど大人の魅力を感じさせる、お召し物でしたけど。

「これ。――見て」

「お、おぅ……」

 天ノ上の深い所を垣間見てしまったような気がしたからか、俺は何も突っ込まず大人しく言うことを聞くことに。深いところってのは見えたことじゃないからね? 

 間違えちゃいけないのが、見たんじゃなくて見えたの。ここ重要。

「携帯電話がどうしたんだよ」

 天ノ上が俺にスマートフォンを、これでもかというくらいに見せつけてきていた。

「……あ、あれ? 画面映ってない? おかしいな」

 俺に向けていた携帯電話を、訝しげに見つめる。

「なんだよ、最新機種のスマートフォンだからって自慢?」

「違うよ。まだちょっと慣れてないだけっ!」

 慌てて反論する天ノ上。……ん? 余所行きの言葉遣いになってんぞ。

 おかしいぞ? さっきまでとのギャップのせいか? アマが可愛いく見えるぞ。

「黙って待っとけや、ぼっち」

 どうして言い直したっ!? はい、ただの糞アマ。

 だけどあの轍って人、四組になんの用だったんだ? それに鞄が……。

「お! はじまったはじまった」

 嬉しそうに声を上げて、俺へと自慢げに携帯を見せてくる。

「は? これって……」

「よぉーく撮れてるだろー?」

 携帯に映っていたのは、一面に散らばったプリントの中に佇む俺の姿だった。


「お前こんな所まで撮ってたのかっ!?」

「はぁ? こんな所ってー? 見られちゃ不味いことでもあったのかぁ?」

 明後日の方向を見て白々しくとぼけやがる。これを俺に見せるために……いいや、ビビる必要なんてない。あれは事故。ちょっとした不幸な偶然なんだ。神様の悪戯さ。

 天ノ上が画面に触れると画面が切り替わり、俺の背中が映っている動画へと変わった。明確には聞こえないが、話し声らしきものが聞き取れる。

 踊り場から少し上がった所の階段で、覗き込むように撮っているからか、少し距離があった。アングル的に俺の姿しか見えないが、おそらく相手は教頭だろう。

 これは間違いなく俺が教頭を殺ってしまったときのもの……。

 画面に映る俺は何やら白いもの。おそらくプリントを渡されていた。

 そして小脇に抱えたと思えば、すぐさま振りかえり跳ねるよう階段を駆けあがる。

 天ノ上が俺の思わぬ逆走に慌てたのか? 急に映像がぶれまくっている。

 普段ならいつもの仕返しでおちょっくってやる所だが、小馬鹿にしてる余裕はない。

 この時、どんなふうにして教頭が逝ってしまったのか覚えてないから……。

 でもこれで俺が無罪だってことが証明でき、真相を掴むことも出来るかもしれない。

『お、おわっ――』

 あの時と全く同じ。俺は踊り場まであと数段の所でバランスを崩した。

 はたから見るとかなり危険。初めに後頭部から地面に着きそうな体勢で落ちている。

 危機感を感じてか、俺は手や足を延ばして手すりにつかまろうとしていた。

 だが階段の中央で転んだからか、むなしくも全く届きそうな気配はない。

 俺が地面と接触する間際のところ。天ノ上が移動してかアングルが変わり、倒れる姿が上から正面に映る。俺が倒れてくるのを見て、薄情にも数歩後ろに避けた教頭。

 あと少しの所で頭を打ち付けそうな体勢だったが、俺はブリッジを始めるかのように首の後ろに迫った床に、両手の平をついていた。

「こ、ここでだったか……」

 確かにあの時、最後の足掻きで手のひらが何かを掴んだと同時に力を入れた。

 人間が生命を守るための、緊急回避能力的なものだろうか?

 でも階段から落ちた勢いのせいで、俺の体勢はブリッジに近い状態から倒立へと変わる。

 そして安定を得るためか、身近なものへと足を絡ませた。――教頭の首に。

『あじぃはやぐぅん……苦じぃ……』

 倒立状態のまま、落ちてきた勢いを教頭の首を締め上げることによって軽減していた。

「――う、うそだろ!?」

『たっはははっはは、ふぅーふぅふぅ』

「たっはははっはは、はぁーはっはっ」

 動画と連動して笑う天ノ上。映像の方は気づかれると感じてか、声を押し殺して笑う。

 だがそれは、締め上げただけじゃ終わらなかった。

 俺は地面を掴む手のひらを軸にして、教頭の首を足で締め上げてつつも、残った余力と遠心力を利用するように、一階へと続く踊り場へと投げ落とした。

『ああぁぁぁぁあ、足早くーーーーっん!』

 教頭の悲痛な叫びが響き渡っている。

「いやいやいや、これCGだよね! 俺こんなことできないからね、おかしいって!」

 天ノ上が黙って首を振って俺の肩に手を置く。そういう慰めがほしいんじゃなくて!

 受け入れがたくも画面を確認すると、何事もなかったかのように起き上がる俺がいた。

 教頭が一階へと続く踊り場で倒れているのを見つけるも、呑気に散らばったプリントを呑気に拾っている。

 途中でおそるおそる教頭に近づき、脈を確かめ立ちすくんだところで映像が止まった。

「見事なヘッドシザーズ・ホイップだったぞ、足早」

 天ノ上がニヤニヤしながら顔を覗きこんできた。今のに技名なんてあるのかよ……。

「お、おう。今まで褒められてこんなにも嬉しくなかったことはないわ……」

 先ほどの天ノ上のように睨み返すことは出来ず、うるんだ眼を隠すのに精いっぱい。     

 もう自首するしかないよな……。明らかな証拠だ。

 実はあの時、足で何かを絡みつけた感覚がある。すいません黙ってました。

 絶望しきっている俺にこれ以上何を望むのか、天ノ上が不敵に微笑む。

「――ふっふっふ。あまりにも足早の顔が真顔で可哀そうだから、いいこと教えてやろう」

「なんだよ。教頭復活させる呪文でも教えてくれんのかよ……。」

 こいつ、どんなけ俺で遊べば気が済むんだ……。頼むから許してほしい。自首でもなんでもする。ちゃんと罪は償う。だから一縷でも俺に望みを……。

「教頭死んでないぞ」

 天ノ上が一言で教頭を復活させてみせた。

 だけどそんなことはただの気休め。一瞬だけ気は緩んだが、ただの世迷言に過ぎない。

「うそだっ! 脈確認した時には手遅れだった……はず」

 否定したくない事実。幾分か期待をしてしまったが、あの時の現状を思い出すとともに俺の声のトーンも落ちていった。

 芯が強いのか、この重い話の中でも天ノ上だけは、普段通り余裕のある表情をしている。

「いや落ち着けって足早。……正確に脈測れんのか?」

「そ、それは……」

「どうせ首筋あたりに手置いただけだろ? ちゃんと総頸動脈っていう下あごの骨の下あたりの所で測ったか?」

 知ったように語る天の上だが、呆れてるようにも見える。

「でも確かに動いてなかったぞ!」

「お前なぁ。教頭に生きててほしいのか、死んでてほしいのかどっちなんだよ?」

 人としての道徳を問ってきた。天ノ上にだけはされたくなかったわ……。

 俺も少し自棄になって洗いざらいぶちまけてやることに。

「そりゃあ、厳しくてしつこくてみんなの嫌われ者で、何回かスリッパ隠してやったこともある教頭だけど、生きててほしい。じゃないと俺……」

「余分なことまでサラリと暴露してるな。自責の念ってやつか?」

 うまい話を聞いたとでも思っているんだろう。天ノ上はニヤつきながらも言葉を続ける。

「――よかったな。教頭はぴんぴんしてるぞ。今も普通に職員室にいるんじゃねぇか?」

「何言ってんだ。あの落ち方だぞ? もし生きてたとしても、学校に来れないほどの後遺症はおってるはずだろ」

「お前も頑固だな。ていうか、それ以前に人間ってものをなめすぎだわ。人ってそんなに脆くないからな」

 考えてもみろ。人が頭から階段を転がり落ちて無傷なわけがない。それに死んでるなら生徒に内密にして原因を調べるかもしれないが、怪我くらいなら生徒内で情報が回ってきてもおかしくないだろ。

 未だ納得する気配のない俺を見て、天ノ上は怠そうに首を回した。

「だいいち、足早に階段の上から叩き落されたくらいじゃ、傷一つ付かないっての。まぁ教頭の場合、記憶障害になってるけど……。今度やってやろうか? お前ならたぶん、いや万が一の可能性で無傷かもしれん」

「おい、言ってること矛盾してるぞ。後遺症残ってんじゃん! 大問題だろっ!」

「それがなぁ、にっくたらしいことに。誰に階段から落とされたかって所だけ覚えてないらしくてな。ましてや自分で足滑らしたとすら思い始めてるときた。――とんでもなく足早擁護主義の世の中だな、全くよぉ」

 天ノ上にとって受け入れたくない現実なんだろう。吐き捨てるように異を唱えた。

 要するにこういうことか? 教頭は生きてて、体は無事。でも俺との接触部分だけの記憶が無いと……?この天ノ上の不満げな態度を見るに、本当のことだと信じてもいいだろう。

「――おい、気のせいか? なんかあからさまにほっとしてない?」

「いいじゃんいいじゃん、よかったじゃんか。あー、教頭無事だったのねー。やっほぉーっ! これで罪悪感に怯えずに安心して寝れるーっ!」

「何言ってんだよ。足早さっきの授業思いっきり爆睡してたろ? 絶対調子のってるな、マジで。ちくるぞ、全部ちくるぞ。教頭に動画見せるし、スリッパ隠してたことも言うし、わいせつ行為まがいの童貞宣言も報告する。――もちろんパンツ見たこともな」

「あ、天ノ上っ! お前、どうしてそんなことまで知ってんだよ!?」

「大げさに驚いてっけど、半分は自分で暴露したことだぞ。女の洞察力なめんなよ、こら」

 気性の激しい奴だな。呆れてると思ったら今度はキレてやがる。

 これ絶対パンツのことで一番怒ってるだろ。たまたま見えただけなのに……。

 せっかく今日の帰宅への希望が見えてきたってのに、ここでまた追い込まれたら面倒だ。

「ひぃぃごめんなさい。神様、仏様、美優様ぁぁ」

「……ったく、これじゃあ俺が陰湿ないじめっ子みたいじゃねーかよ」

 天ノ上って持ち上げるとすぐ調子になるんだよな。とりあえずこのまま従順なふりをして、一旦この場から避難だ。もう空腹さにも限界が……。

 俺は出来る限りの誠意をこめ、目の前に居るアマさんに手を合わせる。

「神様、仏様、美優様。神様、仏様、美優様。神様、仏様、美優様――」

「そんなに大人しく出来んなら最初っからしてろよ。――しょうがねぇな」

 ちょろ過ぎる。たった四回唱えただけで許してくれやがった。

 自分で言われてて恥ずかしくなってきてたのか、若干頬が赤くなってる始末。

「よしっ。ホントはすぐにでも言いふらしてやるつもりだったけど、条件付きで黙っておいてやるよ」

 咳払いをして再び偉そうに語り出す天ノ上。従順なる俺は腰を低くしてお言葉を待つ。

「ありがとうございます糞ぁー美優様。なんなりとお申し付けを」

「糞とか聞こえたような……気のせいか?」

 天ノ上は耳が悪いらしい。変な幻聴が聞えるそうだ、

 俺はこれっぽっちも身に覚えがないから、素知らぬ顔をしてよう。

「とりあえず言いたいことは、俺の快適な学校生活を邪魔すんな。もし前みたいに俺が猫被ってるとか馬鹿なこと誰かに言ったら……その時はわかってるよな?」

「……はい?」

 そんなこと誰かに言ったっけ……あぁ、韋駄か。

 その程度のことに気を揉んでたとは意外だ。

 それより――何が快適な学校生活だ! 

 むしろ邪魔してるのはお前――いや、お前らの方だろっ!

 こっちこそ俺の帰宅街道を邪魔するなと言ってやりたい。

「別に何言ったところで、みんな俺の方を信じるに決まってるが。念のための保険ってやつだ。ぼっちにも仲間が出来ないとも限らないしな」

 さっきまでは悦に浸っていたが、俺が意外と素直に従ったからか、負け惜しみっぽく嫌味を言ってくる。

 でも俺は相手にはせず、さっさと教室を出ることに。

「それじゃあ俺は行くからな?」

「行け行け。俺がいないところでチクっても解るからな。足早口軽そうだし気をつけろ」

 もちろん天ノ上の忠告は無視。腹減り過ぎて腹痛くなってきたわ。

「そういえば、今から足早も一緒に昼食でも――」

 天ノ上が何を言ったか聞き取れなかったけど、どうせ下らん捨て台詞だろ?

 俺は一人、パンを持って教室を出た。

 

 昨日、天ノ上と約束をしてから、やっと学校で自分だけの時間を作ることが出来た。

 休み時間になって席を離れようとするたび、

「足早くんどこ行くの? ……わかってるよな?」

 と天ノ上から脅しを掛けられてたせいで、ロクにトイレすら行けてない。

 席から動かないと韋駄が永遠と喋りかけてきて、俺の睡眠時間や帰宅プラン作成の時間の邪魔をしてくるし、席から立とうとするたび脅されるはで何も出来やしなかった。

 でもやっとの昼休みっ!

 天ノ上はクラスの女子に呼ばれて昼食をとってるはずだし、韋駄には購買で二人分買ってくるから待ってろと言ってある。

 もちろん俺は、いつも学校に来る前にコンビニで買って来てるから、この焼きそばパンがある。購買なんて行く必要がない。だから韋駄はずっと俺の帰りを待つ羽目に……。

 仕方がないだろ? いつも俺の邪魔をしてくるんだから。

 帰タラーを敵に回すとどうなるか、これで身に染みたろう……。

 今日はいつもと違う見方で帰宅ルートを作成してみたい。

 そう考えた俺は、渡りを通って隣の校舎に移り、最上階の五階を目指してる。

 二年四組のクラスがある北校舎より、この東校舎の方が見晴らしがいい。

 北校舎の五階では一年の教室があるが、この東校舎の最上階には会議室や資料室くらいしかないから、全くと言っていいほど人通りがない。

 来るとしても、ごく稀に教師が資料を取りに来るほど。

 だから、高い所から色々考えながら試行錯誤するのに最適だ。

 五階へと続く、最後の一段を昇りきって廊下に足を踏み入れる。

 まさに不良が溜まってそうなスポットだけど、不良と言うほどの生徒を見たことがないこの学校で、こんな場所に溜まる奴なんか――。

「あれ? なんでこんなとこに……」

 ――いた。

 昨日の昼休みに教室に入ってきた、轍って人が廊下に座り込んでいる。

 髪の色のおかげか、瞬時に誰だか解った。窓からさす光に照らされた髪が真っ赤に光り輝いていて、なんとも近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

 目を瞑っているが起きていたらしい。

 顔をあげると、前髪の隙間からこちらを覗く瞳と目が合う。

 すると、気怠そうに立ち上がって腰に巻いたブレザーの埃を払い、奥の方へ歩き出してしまった。なんか邪魔したのか……?

「ちょ、ちょっとどこ行くの?」

「――ああぁっ?」

 話しかけたのが失敗だった。

 昨日とは雰囲気が少し違うような気がしたから声をかけてみたが、もの凄く睨まれた。

「別に敬語を使えとは言わないが、いくら同じクラスでも私は先輩なんだが?」

 不機嫌そうな口調ながらも返事はしてくれるらしい。

「えっ、同じクラス? あぁだから昨日教室に入って来て……でも一つ上なのに同じクラスって――あ! すいませんなんか……」

 轍、先輩? とやらの人の足元を見る。

 俺と同じ赤色のスリッパだ。三年なら緑のスリッパのはずなんけど……あっ。 

 ――この人履いてないじゃん!?

 堂々と見るのも躊躇われるし、目線のやり場に困る。

 どうして靴下履いてないんだよ……。

 普通、女子は紺色のハイソックスを履くるのが校則のはず。

 でもこの人、ただでさえ周りの生徒よりもスカート短いし、それに女子にしては身長が高い。なのに靴下を履いていないときた。……脚線美がエロい。

 発育具合を見るに、学年が上と言われても疑う余地はないな。

 俺が勘ぐるのをやめたってのに納得していないのか、先輩は不満げな顔だった。

「逆に謝る方が失礼だ。私を、クラスメイトすら把握してないのか……まぁいい」

 もう用はないと言わんばかりに、去り際に右手を挙げた轍先輩。

 ……この人やっぱり留年を。だからこんな突っ張った感じに?

 それよりも轍先輩が昨日教室に来た時から、気になってることがある。

 確か今日はまだ教室に来てないはずだし、もちろん今も見る限り持ってない。

「すいませんっ! 一つだけ聞いて良いですか!?」

 意外にも無視をせずに止まってくれた。

 でも振り返った表情は、早くしろと言わんばかりにイライラしているように見える。

「轍先輩、なんで鞄持ってきてないんですか?」

 ぴくっと細い眉が動く。少しだけだが、表情が和らいだような気がするのは気のせい?

「……は? お前そんなこと聞いてどうするんだ?」

「べ、別にどうこうするってことはないですけど、ただ気になって……」

 普通こういうやさぐれた感じの人だと、家で勉強する気がないから教科書を持ち帰る必要ない。と、勉強用具全てをロッカーに詰め込んで、鞄を持ってこないのが一般的。

 でも上級者の帰タラーになると最軽量化のため、鞄すら持ってこないと聞いたことがある。もしかしたらこの人がその上級者の――。

「そんなの答えるほどの事じゃない。呼び止めてそんなどうでもいいこと聞くな」

 一蹴されて会話を打ち切られてしまった。

 そりゃあ簡単に自分は帰タラーだって言えないか、俺だってそうだしな。

 もし周りに知れたら妨害される可能性が高くなる。仕方がないか……。

 でもこれで会話を終わらせたら聞いてくれそうにない。ここはなんとか引き留めないと。

「ど、どうしてそっち行くんですかっ!? そっち言ったって何も――」

「……なんなんだお前はさっきから」

 静かに振り返った轍先輩。目と目がくっつきそうなほどに眉間にしわを寄せていた。

 さっきから苛立っていたのは解ってたけど、怒らしてしまったらしい。

 先輩は怒りを堪えているのか、歯ぎしりが聞こえてきそうなほどに噛みしめた口を開く。

「私はトイレに行きたいんだ。邪魔するんじゃない」

「トイレですか……」

 奥を見ると、確かに轍先輩の行こうとしている先には資料室とトイレがあった。

「わかったなら早くどっかいけ」

 そう告げると、再び奥へと歩き出してしまった。

 なんだ、ただのトイレか。

 それならここで待っている間に帰宅ルートを考えて、出てきたらもう一度真偽を確かめよう。でも轍先輩、その昼食が入ってるだろう購買の袋を持ってトイレに行くのは衛生的にどうかと――あれ? これって……。

「先輩っ! もしかして便所飯ですか?」

 即座に身をひるがえした轍先輩。俺の方へ向かってきた。

 おそらく衛生的に不味いことに気づいたらしいな。良いこと言ったな、俺。

 俺の目の前まで来ると購買の袋を渡そうと腕を伸ばし――俺は腹に拳が入った。

 消化物を待っていた胃液が待ちきれず口から出てきたような、胃そのものが出てきてしまったかのような。腹の中の酸素すら全て出てきてしまったようで、息をしたいけど何故か腹に空気が入ってこない。だんだん苦しくなって……。 

 そこから記憶がない。


 目の前には真っ白い天井。教室とは違った生暖かい異質の空気。

 手には白いものが触れていて、その手触り滑らかでひんやりと冷たい。

「……?」

 俺は布団をかぶってベッドで寝ていた。どうやらここは保健室らしい。

 体を起こすと、薬品棚らしきものの上に申し訳程度に置かれた時計が目に入る。

 今は午後一時五十五分、あと十五分で五時限目の授業が終わるところだった。

 見る限り保健室の先生はいないみたいだし、六時限の授業に途中から加わることになったら、面白おかしくクラスの連中に絡まれることは避けられないな。

 職員室にでも行けば誰かいるだろう。余裕を持って今のうちに先生を探して教室に――。

 布団をめくり足を出そうとするけど、布団がめくれない。

 何故なら俺の膝あたりにあるものが、布団を捲ることを拒んでいたから。

 ――轍先輩だ。

 なんでこんなところに寝てんだよ!

 しかも俺のブレザーまで肩に掛けて寝る気満々じゃねーか。自分の腰のやつ使えよ。

 そういえば俺、この人に腹殴られて……あぁ、ダサすぎる。

 この人の顔をまじかに見れる気がしない。それに真っ白なシーツに広がる赤い髪の色も、鮮血のように見えて少し嫌な気分だ。暴力的なことをされた後だからか、女子と保健室で二人っきりだってのに、いい想像が湧いてこない。

 俺は慎重に右脚を、布団の中からベッドの外へ。

 覆いかぶさる轍先輩の重心を、左脚へと移動させる。

 起こさないように起こさないように……。

 轍先輩の頭を左脚の太ももにのせ、手に汗かきながらも、なんとかベッドの外へと右脚を出すことに成功。

 ――だけど、それは失敗でもあった。

 左脚一本に重心を移したから、片足で全ての重心を支えることに。

 人一人分の体重が俺の片脚び集中している。

 さすがに辛い。ぷるぷると俺の脚が震えていた。

 起こさないよう落とさないよう足を突っ張るけど……もうダメだ。

 轍先輩の上半身が、ベッドの上から行き場をなくして床へ落ちる。

「うっ――」

 鈍いうめき声が下から聞こえた。

「やばっ」

 反射的に布団を被り直して寝たふり。

 そういえばこの人、どうしてここに? サボり……いや、口封じかっ!?

「あれ? 私いつの間に床で――」

「……誰?」

 この全く耳に抵抗なく入る声。むしろ耳がこの透き通るような声を欲してる。

 轍先輩はこんな声質じゃあ――他に誰かいるのか!?

 寝たふりをしてるつもりだったが、思わず下を覗きこんでしまう。

「あ。……足早」

 そこには轍先輩しかいなかった。思わず目が合う。

 初めて見る睨みをきかしてない表情は、意外にも大人っぽく綺麗な顔立ちをしていた。

「はっ、はい……」

 どうして俺の名前……あぁ、同じクラスだったな。

 そういえば何回か、轍先輩が遅れて教室に入ってくるところを、見たことあったりなかったり。それより顔が合わせずらいってのに、がっちりと目が合いすぎなせいで逆に逸らしづらいんだけど……。

「お、お前っ大丈夫……もう起きてもいいのか?」

「へ? いや……はい。大丈夫ですけど」

 轍先輩は昼間に喋った時とは違って、何故かよそよそしい。

 借りてきた猫みたいでちょっと可愛いな。これがギャップ萌えってやつか?

「ならいいか……うん、よかったよ」

 どうしたのか、もごもごいいながら俯く轍先輩。

「……………?」

「な、なんか言えよっ!」

 つばの悪そうな感じだ。前に教室に入ってきた時とも全然雰囲気が違う。

 クラスの番長みたいにすごい勢いで扉を開け、どうどうと席に座る。騒がしかったクラスも静まり返って、咳払いをするとクラスの連中が話しだす。みたいな存在感だったのに。

 もしかしてこの人、二人っきりになると優しくなるタイプか?

 意外といい人なの? 腹殴られたけどさ。

 俺がそんな疑問を抱いていると、保健室の扉が開かれた。

「足早くん大丈夫っ! はぁ――はぁっ」

 いきなり保健室に入ってきたのは和気先生。何故だか息を切らしている。

「い、いや、全然大丈夫ですけど……どうかしたんですか? そんなに慌てて」

「どうって――はぁ。足早くんが倒れたって聞いたから急いできたんだよ。で、でもちょっと外に出てたから遅く……ここら辺の地域まだ慣れてなくて。私担任なのに、ごめんね」

 和気先生は空回り気味ながらも説明してくれた。

 心配してきてくれたのは嬉しいけど、倒れた理由が……申し訳ない。

「倒れたって言ってもホント対したことじゃないんで……」

 俺は横目で轍先輩を見る。

 理由はわからんが、ガチガチに固まっていて動く気配がない。

「あれ……亜矢ちゃん。どうしてここに? ま、まさか!? 足早くんに何かしたんじゃ……」

 和気先生が呼吸を整えつつ、轍先輩へとせまる。

 クールな外見の分、和気先生の威圧感が半端なく感じる。轍先輩ですらひいてるし。てか、亜矢って轍先輩の名前か? 下の名前で呼ぶほど仲いいのか、この二人?

「――い、いや知らないっ! 私が昼休みに学校に来て廊下を歩いてたら、いきなり後ろで人が倒れるもんだから……それがこいつで。だからここまで運んできただけで……」

「えっ?」

 この人何言ってんだ? まさか俺を殴ったこと隠してるの? もみ消す気?

 俺がじーっと見ていたのに気付いたのか、

「――だよな。足早」

 すごい剣幕で目配せしてきた轍先輩。

 もう目配せって言うより、ガン飛ばしてるだけでしょ、それは。

「…………はい」

 自分から女子に腹殴られて気絶したなんて失態を、暴露する必要もない。

「そ、そうなんですよー。最近ちょっと寝不足だったんで、助かりました」

 あえてその誘いに乗っておこう。このまま否定しても和気先生に心配をかけるだけだ。

「そうなの?」

 和気先生が俺たちの顔を、射抜くような鋭い視線で見比べてくる。

「……確かに足早くん授業中よく寝てるね。家ではちゃんと寝ないとダメだよ」

 なんとか理解してもらえたようだ。俺の頭にポンポンと手を置いてくれる。

 照れるって。顔の筋肉が緩みそう……いかんいかん! 今は不良の手前だ、舐められると面倒だ。必死に耐えないと。

「それじゃあ私はこれで……」

「亜矢ちゃん」

 いつの間にか、そそくさと保健室から出ようとしていた轍先輩が呼び止められる。

 肩にかけていた俺のブレザーは、ベッドの上に放られていた。

「はっ、はぃ……」

 怯えた様子で振り返る轍先輩。もしかして和気先生のこと苦手なのか?

「明日は遅刻しないように」

「はい……」

 逃げるようにして轍先輩は出て行った。

 あの人結局何しに来たんだろうな。もしかしたら責任感じて保健室にいたのかと思ったけど、やっぱり単なるサボりだったか。

「はぁ、あの子遅刻ばっかりしてると、また……」

 いつものように困った表情で頬を押える和気先生。

 遅刻ばっかって、やっぱり俺と昼に遭遇したときに来たのか? 

 あんまり俺の女神さまを悩ませないで欲しいな。

 さっきまでと違って隣にいるのは小汚い不良じゃなくて、メシアのような存在。

 このままの沈黙だと退屈させてしまう。それはいけないことだ。何か喋らないと。

「和気先生はここにいてもいいんですか? 五限目の授業は……」

「あぁ、私水曜の五限目は授業ないから……それより足早くん体調は大丈夫? もしよければ六時間目もここに……あ、でも私六限目には授業が……」

 次は和気先生は授業があるらしい。残念だ。

「そういえば、保健室の先生はいないんですか?」

「あ、それなんだけど。今日は急にお休みになったみたいでね。学校の決まりで生徒を保健室で休ましてる時は、誰か一人教師がついている規則だから。でも他の六時限目に授業のない先生に頼めば……」

 と、いつになく饒舌に説明してくれる和気先生。

 確かにこのままここで休んでるのは楽だな。

 けど、六時限終わってから教室に鞄取りに行くのも面倒だし、スタートに遅れる。

 このままここにいて、メシアの代わりにおっさん教師が来ても冷めるし……。

「このまま足早くんここに置いてくのは――あっ。それか今日は残りの授業一つだけだし、早退するって手も――」

「早退しますっ!」

 その二文字を待っていた。俺は帰宅の次に好きな言葉だ。

 俺が急に大きな声を出してしまったせいで、和気先生を脅かしてしまった。

「えっ? そ、早退かぁ……」

「はい! 早退させてください」

 ほんとに早退すると言い出すとは思ってなかったのか? 和気先生は少ししぶっている。

 誠心誠意。臆することなく、瞳に映る俺と目が合うほどに和気先生を見つめる。

「うん……わかった。じゃあ教室から荷物持ってくるから待ってて」

 早退することを認めてくれた。さすがは俺の帰宅の女神。

 和気先生は俺の額に手を置き、少し困ったような顔をして笑い、保健室を出て行った。

 まさに怪我人の役得。癖になりそうだ。


 昼休みになって、今日こそは帰宅ルートの作成をしようと教室を出ると、渡りを通って校舎を移動する轍先輩を見つけた。肩で風を切って進んでいく轍先輩の後をつけていくと、やはり東校舎の五階につく。

 購買の袋を片手にトイレへと向かう姿を見るに、今日も便所飯をすることがわかる。

 前に和気先生に念を押されていたようだから、最近は遅刻しずに朝からいた。

 ほんとはもっと早くに轍先輩に葬ってもらって早退を――。

「おい、お前こんなところで何してるんだ?」

「――へ?」

 便所飯へと向かったはずの轍先輩が目の前にいた。

「轍先輩。便所飯にいったんじゃ――ごはっ!」

 また腹を殴られた。

 前と違い唐突じゃなく、自分でも覚悟が出来ていたせいか気絶できなかった。

 くっそ、もう一回殴ってくれないかな……歪んだ性癖が生まれてきそうだ。

「私が話してるんだ。質問に答えろ」

 ものすごい剣幕で睨んでくる。

 これ以上怒らせたらいけない気がする。俺も真剣に先輩へと向き合うことに。

「……はい。もしかしたら轍先輩が帰タラーだと思って追ってきました」

「は? 帰タ……なんだ、それ?」

「いやいや、何言ってるんですか。俺は気づいてるんですよ?」

 やはり簡単に正体を明かす気はないらしい。

「噂で聞く通り変な奴だな、お前」

「噂? でも便所飯しに来る先輩もそうとう――ひぃ、ごめんなさい」

 轍先輩がこれ見よがしに腕を振りあげてきたので謝ってしまう。

 噂? 言い方変えたら陰口じゃない? 

 陰口とかいじりの限度超えてるだろ。もういじめなじゃい? これ。

「まぁいい、ちょっと話したいこともあるからついて来い」

「えっ? 話……? 轍先輩?」

 俺が卑屈になっているのを余所に、轍先輩はトイレの方へと一人歩いて行く。

 おいおいおい、ちょっと待て。話ってなに? 

 トイレに向かってるってことは、トイレの中で話しするってこと? 

 この階には女子トイレしかないから、二人で便所飯しながら? 

 何この全然嬉しくないシュチュエーション。逃げていい? 俺逃げた方がいいよね? 

 話ってのは口実でシメられる可能性もあるかもしれないし――はい、ダッシュ。

 俺は咄嗟に踵を返して、轍先輩とは反対方向へ。

「待て」

 いつかのよう、またしても腕を掴まれて逃げれなかった。

 また殴られるな。そう思って後ずさりしつつも、轍先輩を見ると。

「い、行くなよ……。そんなに私と話するの嫌か?」

 いつもの傲慢な態度とは違って、遠慮がちに告げてきた。

「全然っ! 全くもってこれっぽっちも嫌じゃないですよっ! むしろ嬉しいです。行きましょ今すぐに行きましょ」

 ダメだろ、そんなギャップは反則だ。いきなりそんな弱気なところ見せられたら困る。

 もう覚悟は出来た。便所飯でもなんでも来いってんだ。

 口調とは裏腹に、血液が滲み出そうなほどの握力で、手首を掴まれ連れて行かれる。

 ダメだ、血が止まりそう……。

 こりゃあ、トイレに着くよりも先に、あの世に先に付きそうだわ。

「ここだ」

 女子トイレの前に着くと、轍先輩が自慢げに胸を張って言う。

 まぁここでしょうね。てかここしかないでしょ、便所飯なんだもん。

「いくぞ」

 轍先輩は、あっけなく俺の手を放して足を進める。助かった……。

 でも、せめて中に入るまでは手を引いてて欲しかった。まだ誰かに見られても言い訳ができる可能性があったのに……。これじゃ自分から好んで入ったとしか思われん! 

 だが、轍先輩はトイレを通り過ぎて――あれ? 便所飯は?

 購買の袋を腕に通して、壁へと飛びつく。

「え? 何やってるんですか?」

 ひたすら壁に向かって、ジャンプしている轍先輩の姿はかなりシュール。

「何って――ふっ! はっ。これだよ」

 再び壁にジャンプすると、轍先輩は壁にぶら下がった。

 そこには、少し高い位置の壁につけられた手すり。上を見ると屋上に通じるんだろう、梯子のような手すりが天井のふたのような所まで続いていた。

「上にのぼるん……だ。んしょっ」

 轍先輩は慣れた手つきでタッタッタとリズミカルに上がっていく。

 かなりのぼり慣れた手つき。さては、いつもこの時間はここにのぼって――あ。

 轍先輩のスカートがかなりきわどい位置まできていた。

 俺は頭痛がするほどに勢いで顔をうつむかせる。

 見ちゃいかん見ちゃいかん。見たら絶対殺される。それに別にみたいとか思ってないし……いや待てよ。ここで轍先輩になんらかのことで保健室送りにされれば、また早退出来るかもしれないな。

 ――よし見よう。見たって怒られるだけさ。これは早く帰るために見るんだ。

「何やってるんだーっ!? 早くしろーっ!」

 かなり声が上の方から声が聞こえた。

 轍先輩はすでに一番上まで登ったらしく、穴から顔を覗かせている。

 ……帰りは俺から先に降りてやる。


 屋上は立ち入り禁止。そのためか、手入れが行き届いていない。

 所々塗装が剥がれてコンクリートがむき出しになっていた。

「うっ」

 思いのほか風が強いな……。屋上だし当たり前か。

 あれ? さっきまで俺を引っ張り上げてた轍先輩は? ――もしかして!?

 場所が場所なせいか嫌な予感がよぎったけど、見渡しがいいからすぐに見つかる。

 でも見事に予感は的中。轍先輩は端の方でふらふら風に揺られていた。

「あぶないですって! ここ普段入っちゃいけない場所ですよ!? 柵も無いのにそんなに近づいたら落ちますよからっ!」

 わかってはいたけど、当然のように俺の忠告に聞く耳持たない。

 轍先輩は屋上を縁取るコンクリートに片足をのせ、景色を眺めていた。

 山の上に学校があるから凄く見晴らしがいい。だんだんと森から市街へと変わっていく景色はなんとも言い難い絶景。改めて自分の住んでいる世界を実感させられるような……。

 でもこの景色を見せるために連れてきた。なんてキザなことじゃないんでしょ?

 俺は出来るだけ近くに寄って戻るよう促す。

「ちょっと轍先輩。そろそろ危ないから戻って――風が」

「……どうした? 突き落とさないのか?」

 流し目で俺の方へと視線を向けると、今日の昼ご飯は? と言わんばかりのあっさり口調でとんでもないことを言ってくれた。

「はぁっ!? そんなふざけた事言ってないで、自殺願望でもあるんですか?」

 突き落とすとかやめろよ! 教頭思い出しちゃうからっ!

 もう犠牲者は出したくないんだって……。

「あるわけないだろ。お前があいつの彼氏ならそれくらいするかと思っただけだ」

「か、彼氏!? あいつって誰ですか! 俺誰とも付き合ってなんか……」

 弁解で恋人いない宣言するって悲しいな。俺、今彼女いないぜー。みたいな軽いアピールっぽくならないじゃんかよ。どういうことだ、虚しくなって最後まで言えなかったわ。

「オーバーリアクションだな、白々しい。教室でべたべたしてるのを見られたことは忘れたのか?」

「え、それってまさか……」

 誰とのことか予想はついてたけど――またこれか。どうして勘違いされるんだよ。

 さっきから忌まわしげに語る轍先輩に、求めているであろう答えを提示してやる。

「天ノ上のことですか?」

「あいつしかいないだろ、お前と普段喋るような女なんて」

 轍先輩は憮然とした顔をでサラリと言ってくれる。確かに事実だけど傷つくわ……。

「勘弁してくださいって。あんな糞アマこっちからごめんですよ。だいいち普段のあいつときたら――っ!?」

 目が合った。いや、合ったような気がした。でもそれは轍先輩じゃない。

 北校舎の四階右端の教室。二年四組の窓から顔を出している女子生徒がいる。

 遠目だから確証は出来ないが、おそらく……。

「どうした? 急に黙り込んで。普段がなんだって?」

 急に口を閉じたことに不信感を抱いてか、轍先輩はあからさまに疑った目をしていた。

「すいません、言い間違えました。なんでもないです……」

「嘘つくな。あんなに嬉しそうに言っておいて、今更間違いはないだろ」

「そ、そそそ、そんなことないですっ! 気にしないで、気にしないでください。大したことじゃないですからっ! それより早く!」

 俺は、いつまでも屋上の風を肌に感じている轍先輩を無理やり引っ張る。

「そんなに動揺してますます怪しいなっ! まさかはぐらかそうと――ちょっ! どうしたいきなり!? そんなに手引っ張るな。誰かに見られたら恥ずか――戻るからっ戻るから落ち着けっ!」

 もう怖ぇよ。なんなんだよあいつ……。確信はなかったけど天ノ上にしか見えなくなってきた。考えればこんな見晴らしのいい高いところに立ってたら、校舎内にいる奴らが見つけるっての。立ち入り禁止だしさ。こんなところに呼び出して話し合いとか、二人共グルなんじゃねーかってくらい、嫌なタイミングで噛み合ってるわっ!

「…………もう手離してくれないか?」

「あ――っと大丈夫です。ここまでくれば安全なんで」

 轍先輩はあからさまにムスッとしているようだった。

 急に引っ張ってきたから怒らせてしまったかもしれない。顔もうっすら赤い。

「言いにくいんですけど――何か興奮してません? 手がすごいヌルヌルして……」

「ふ、ふざけるな! お前がいきなり手を、指まで絡まして握ってくるからこんなことになってるんだぞっ!」

「――ちょ、ちょっと」

 肩が一周回りそうなくらいの勢いで振り払われた。

 咄嗟に掴んだせいで指まで絡めたのは、自分でも気持ち悪いと思う。けど、そんなに振り払う必要ない……よね? 今思えば、俺が触ることみんな嫌がってない?

「どうした? 今にも泣きそうな顔して。そんな腐るとまるで私が悪いみたいじゃないか」

「別に腐ってなんかないですよ……」

「急にダウナーな感じになられたらいくらなんでも気づく。ったく男の癖にウダウダと」

 不良には、慈悲と言う慈善的な感情はなかった。……むしろあったら気持ち悪いか。

 轍先輩は、素知らぬ顔で腕を組み吐き捨てた。

「ダウナーって。いつも俺こんな感じですから。それにさっきは別にはぐらかそうとしてこういう行動とったわけじゃ――」

「もういい。さっきのことは聞かなかったことにする。別に興味ないからな。でも足早が自分から話したいっていうなら話は別だが?」

 めんどくさくなったのか、空気を読んでくれたのかはわからんが、轍先輩は身をひいてくれた。

「それならまぁ……。なら機会があれば、またその時にでも」

 このまま尋問され続けてたらおそらく洗いざらい吐かされてた。でもこの人はこんなことを聞くために俺を連れてきたのか? それとも天ノ上みたいに俺をおちょくる気で……。

「はっはは、にしても糞アマかぁー。意外に言う奴だな」

 さっきまでご機嫌斜めっぽかったくせに、ニヤリと八重歯を見せて笑う。

 まるで悪ガキが面白いことでも思いついたかのようだ。

 不良も笑えるのか。常に眉間にしわを寄せてるイメージがあるせいか、逆に怖いけど。

「ま、まぁ事実ですから……」

「事実――はっはっは。そんなに天ノ上が嫌なのか?」

「嫌ってレベルじゃないですよっ! いつも色々と邪魔ばっかりしてきますし、そうとう暇なんですかね。あのアマ」

 このくらいのことなら言っても大丈夫だろ。あいつだってそこまでの監視体制は組んでないはずだ。さっきのだって天ノ上じゃないかもしれない。

「……邪魔? 天ノ上に何かされてるのか?」

 俺の言ったことが癇に障ったのか。笑みを消して鋭い目つきに変わる。

 ――いかん、つい流されて話し過ぎた。この流れだと、また天ノ上の本性について触れそうに……。なんとか話をそらさないと、更に面倒なことになりかねん。

 俺はすぐさま訂正を入れる。

「えっと、邪魔っていうかタイミングが悪いっていうか……。邪魔は言い過ぎました。まぁ何ですかね。そり? が合わないんですよ」

「なんだそれ。邪魔っていうから手でも出されてるのかと思ったのに。つまらん」

 不良の癖に心配してくれたのかと思ったのにっ! やっぱり暴力沙汰とかじゃないと燃えないのかよ……。確かに手出したり、出されたりはしてるけどさ。

 轍先輩は何やら難しそうな顔をして腕を組んでいた。

「これは私の考えだから当たってるとは限らんが……」

 噛みしめるように頷くと、顔をあげる。

「おそらく天ノ上は猫を被ってるぞ」

「……そ、そうなんですか?」

「あぁ。あれは普段にこにこした面をしてるが、腹ん中は何考えてるか解ったもんじゃない」

「でも普段、クラスの連中と接してるときは、そんな素振りは見えないですけど?」

 保身のためとはいえ、あいつの肩を持ってやることになるとは……。

 露骨に苛立った様子でつま先で地面を叩く先輩。

 感情と比例してるのか、足音が早くなったり遅くなったりと不規則的だ。

「足早と話してる時だけは、あいつの雰囲気が何処となく違う気がする……わからないか? あの明らかに作ってるようなキャラ。気に食わんな、それを何の疑いもなく受け入れてる連中どもも気に食わん」

 おい天ノ上。俺に口止めしなくても勘づいてる人もいだぞ。……あれ? ちょっと待て。

 轍先輩も明らかに嫌ってる感じだったから、てっきり俺と同じ扱いでも受けてるのかと推測してたけど、話聞いてる限りだと受けてるの俺だけじゃないか?

「それが事実なら許せんっ! あのアマっ! 糞まき散らして死ねばいい――」

「何をいきなり熱くなってるんだ。死ねは言い過ぎだぞ」

「えぇっ! なんで俺怒られんの!?」

 またしても言われたくないような人に道徳を問われてしまった。

「どんなに憎くても死ねは人としてどうかと思うぞ。まぁ相手のことをよく知らないのに、嫌いだと決めつけてる私もが言えたことじゃないが」

 哀れむような半眼で俺を見つつも、轍先輩は饒舌に語る。

「でもあいつだけは無理だ。仕方ないだろ? 今まで第一印象で気に食わなかった奴とは上手くいった覚えがない」

「……轍先輩って意外とまともな部分合ったんですね」

 不良に叱られるとか俺……。ていうか先輩マジメ過ぎだろ、ホントに不良なの? 

 ファッションで不良ぶってるんじゃないの? ファッションヤンキーじゃないの?

 面白いことなんて一つも言ってないのに、轍先輩は「ふっ」と鼻で笑う。

「意外とはなんだ、意外とは。失礼な奴だな」

 先ほどまでと轍先輩の雰囲気が変わったような気がする。

 俺の見方が変わったからか、先輩が警戒を解いてくれたからかは解らない。

 でもこの瞬間なら尋ねても変な意味にとらわれない気がするな。

 思い切って聞いてみるか。

「でも今普通に喋ってるってことは、俺のことは嫌いじゃないんですね?」

「うーん……別に嫌ではない。さっきまでお前らが付き合ってると思ってた時は、にくたらしい天ノ上の前に、とりあえず足早の方から消そうかと思ったけどな」

「やめてくださいってっ!」

 少しは照れたりしてくれた方がこっちも聞きがいがあったってもんなのに、轍先輩は意外とあっさり答えた。

 もし俺が天ノ上と付き合ってたら消すつもりだったのかよ……。

 天ノ上嫌われ過ぎてこえーよ! それに人に説教しといて消すとかやめろって!

「まぁ。軽い冗談だ」

「なっ……からかうんならもう帰りますよ! もう話は十分しましたよね?」

 茶化されてるような気がしてムッとしてきた。

 こりゃあ先回りしてパンツくらい見たって文句言われんだろ。もう俺行くわ。

「ちょっ、ちょっと待ってくれっ!」

 その場から立ち去ろうとする。けど、先輩が忙しなく引き留めてくる。

「なんですか? 俺、早くパン……昼飯のパン食べたいんですけど」

「す、すまん。本当はな……えっと、その」

 さっきまでの達観したような態度からは窺い知れないほどに、見ているこっちがもどかしくなるような困窮した姿の轍先輩。

「この前はすまなかったっ!」

 いつもの流れ的に茶化されると感じて、耳を傾けることなく帰ろうとすると、轍先輩が綺麗な最敬礼で謝ってきた。

 この前っていつのこと? 心当たりあり過ぎて逆にわかんないんだけど……。

「変なこと言うものだから、ついかっとなってしまって。まさか倒れるとまでは思わなかったんだ。ほんとにすまない」

 おそらく倒れると言うに、俺を保健室送りにした……。

 変に邪推していたせいか罪悪感にかられてくる。なので俺もちゃんと向き合うことに。

「ああ、それのことを。確かに痛かったですけど、こっちもありがたかった――いや、ありがたくはないですけど。ありがた迷惑というか、それは違うな。でもどっちかというとありがたいというか……とにかく終わったことなんで気にしてないです」

 俺がそう告げると、轍先輩はほっと小さく息を吐いて胸をなでおろした。

 うやむやにされたと思ったから、まさか謝られるとはね。にしても、お辞儀綺麗すぎだろ。不良が成せるレベルじゃねーぞ。不良って謝らないイメージあるけど、実は謝り慣れてんの? 

「途中から何を言ってるのか理解できなかったが、ありがとう。快く水に流してくれると助かるよ」

 先輩は嬉しそうにニコッと笑った。いつものような強情なものいいじゃなく、それは前に保健室で聞いたような安らぐような声だった。

 お詫びに一発殴ってくれとか言いそうだった。けど、意外な提案をしてくる。

「それのお詫びと言ったらなんだが、今日の授業後は時間あるか?」

「ないです」

「……へ?」

 もちろん即答。

「だって早く――とにかく帰りは駄目です」

 まさか断られると思っていなかったのか、いつも吊り上っている目をパチパチさせて、先輩は間の抜けた顔を見せた。当日に帰りの時間にアポ取りに来るとか、帰タラーとしてマナー違反ですよ?

「す、少しだけだから付き合ってくれよ。これじゃあ、なぁなぁで許してもらったようで気がすまないんだ。あまり時間はとらせないから」

「いやホントに大丈夫なんで。お詫びなら言葉だけで十分ですから」

「迷惑か? そ、それか、帰りに用事でもあるのか?」

 先輩はどうしたらいいのか解らないといった様子。そんな不安そうな顔されたら無視はしたくないけど、こればかりは俺も譲れない。

「別に用事とかはないですけど、帰りは駄目なんですよ」

「やっぱり私が嫌か。……そうだな。あんなことされて簡単に許してもらえるわけなかったよな」

 轍先輩がボソッとネガティブ発言をしたところで、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。

「そういうわけじゃないですよっ! ホントに何とも思ってないですから。むしろ嬉しかったですから! ――でも駄目です」

「あーーっもう! なんだよそれっ! 意味がわからん。腹殴られて嬉しいとか気持ちが悪いっ!」

 自棄になった轍先輩は、梯子の方へと向かって帰って行ってしまう。

「とにかく今日の帰り付き合ってもらうからな! 逃げるなよっ!」

 念を押すように振りかえって指をさす先輩。

 その手に持つ購買の袋は、いつの間に空になっていた。

「あ、昼飯……」

 これから昼ご飯なんか食べる時間なんかない。

 でも昼は食べておかないと……。

 帰って教室で食べる時間はないし、俺はクラスで快く思われてないんだろ? そんな俺が休憩時に食べ物の匂いに酔わせてたら、周りを不快にさせて帰りのエンカウント率を上げてしまうかもしれない。もう五、六時限の間の休みの間しか――便所飯確定か。

 結局、轍先輩には先に降りられるわで今日は踏んだり蹴ったりだ。

 帰りにまで影響が出なければいいけど……。


「ほら、早く歩け」

 制服の生地が悲鳴をあげるほどの力で、轍先輩が俺の肩口を掴んで引っ張る。

 女の子が袖口を遠慮がちに掴むようなのと思っちゃいけない。体の重心さえ先輩が主導権を握ってるからね。こんなに密着してるってのに、少しもときめかないのが証拠だ。

 5、6時限をいつもしている帰宅プランのイメトレをやめてまで轍先輩から逃げる方法を考えたってのに、全部無駄になった。

 STが終わって真っ先に逃げようとしたら、後ろにいるはずの韋駄の席に轍先先輩がいるんだもの。いきなり肩組んできたと思ったら、有無を言わさず腹パンされて連行。

 クラスの連中の目を見るに、これからシバかれると思われたな……。

 でも教室を出てからは、轍先輩といるおかげか誰も声を掛けて来ない役得はあったけど。このまま帰れればベストタイムも期待できそうなんだけどなぁ。

 轍先輩は、俺の自転車がある二年生の駐輪場を通り過ぎる。

 どうやら方向から考えるにに、正門へと向かってるらしい。

「轍先輩、どこに向かってるんですか?」

 ただひたすら無言で俺を引っ張って進む先輩に、声を掛けてみた。

「どこって、帰るに決まってるだろ」

「えっ? なら俺、自転車なんですけど……」

「自転車? ……あぁ、それなら問題ない」

 俺が抵抗をしないからか、轍先輩はどことなく機嫌が良さそうだ。

 何が問題ないの? わけがわからん。口答えすると怒られそうだから黙っとくけど。

 せっかく機嫌がよさそうなのに、わざわざ怒らせるような趣味はないからね。

 だけど、一つだけ言いたいことがある。

「もうここまで来たら逃げませんから、自分で歩きますよ」

「駄目だ。お前絶対逃げるだろ――ほら、逃げる気満々の目だ」

 振り返って俺に目をやると、轍先輩は更に手に力を入れてきた。

 ――ちっ、バレてたか。最後の望みまで簡単に絶ちやがって。逃げる気なんてないのに……。隙さえあれば一人で帰ってやろうと思ってるだけだ。

 遂に校外へ出てしまった。俺はなすがまま轍先輩に引っ張られ、すぐ右側の歩道へ。

 いつも帰る時に使う道とは反対車線。いつも下に河川敷が見える向こうと違って、こっち側は鬱蒼とした森が道なりに続いている。

 どこに向かってるのか皆目見当もつかん。確かに帰るとは言ってたが――。

「まさかとは思いますけど、このまま歩いて帰る気じゃないですよね?」

「は? 足早は歩いて帰りたいのか?」

「そういうわけじゃ――いっ! ……ちょっと、急に止まらないでくださいよっ!」

 急に立ち止まられたせいで、轍先輩の頭に鼻をぶつけた。

 打ち所が悪かったのか血が……って、あ。轍先輩の髪か。

 ちょっとイラついて強い口調で言っちまったわ。

「私のせいにするのかっ! 人に身を任せてないで自分でちゃんと歩け!」

「……ごめんなさい」

「ふんっ――」

 肩を掴んでいた手を惜しげもなく放す轍先輩。

 さっき逃げるからとか渋ってたのは、どこいったんだ。それに逆に放して欲しかったのに、いざ放されると寂しく感じる。この感情はなんなの?

「どうして不安そうな顔をしてるのかは知らんが、もうすぐ着く。ちゃんとついてこい」

 すると先輩が、いきなり道をそれて森の中へと入っていった。

「――え? どこ行くんですか?」

「どこって……見てわからないのか? 森だ、森」

 そこは人一人通れるほどのけもの道だった。

 俺がおかしなことでも聞いただろうか。轍先輩は、どうしてわからないんだとでも言いたそうな呆れた口調で答えてくれる。

「……森?」

「あぁ、着替えるからな」

 不良ってこんな場所で普通に脱ぐの!? 刺激的すぎるわっ! 

 それにどうして今着替える必要があるんだよっ!

「いいから変に勘ぐるな。黙って着いて来ればいいんだ。誰かに見つかるだろ」

 少しも後についていく気のない俺にあぐねてか、轍先輩が腕をぐいぐい引っ張って森の中へと引きずり込もうとして来る。

「ちょ、ちょっと! それって俺も入る必要あります!?」

「無――いやっある! 私一人だけこんな所で着替えてたら恥ずかしいじゃないか」

 恥ずかしいって自覚はあるんだな。顔を背けられてるからわからんけど、ホントに少し照れてるように見えるのは気のせい? いつもに増して色っぽく見える……。

 にしても、どこで何されるかと思えば、まさかこんな展開だったとは……ね。

「わかりましたってー。仕方ないですね」

「どうした? 急にノリ気になって。理由はわからんが、何故かものすごく不快だ」

「気にしない気にしない。行きましょーっ」

「まぁ……嫌々に連れて行くよりかはいいか。早く来いよ」

「はいっ!」

 エロ期待してもオッケーっ! 今日は楽しむぞー。

 俺は喉の奥からこみ上げてくる熱いものを感じながら、轍先輩と茂みの中へと入っていった。


「足早くっつき過ぎだ」

「あっ――はい。ごめんなさい」

「……今度は離れ過ぎ」

「す、すいません。えっと――」

「だからくっつき――あぁもうっ! いい! そのままで」

 俺は今バイクの後ろに乗せられている。……どうしてこうなった?

 ヘビーなバイクを乗りこなして運転するのは轍先輩。俺は借りてきた猫のように大人しく後ろに座っている。さっきから怒られてばっかだけど。

 でもそんな俺にも、ただ一つ解ったことがある。

 ――エロは死んだ。

 ていうか、エロなんて最初からなかった。

 騙された。これは悪質な詐欺だ。年上の女の人と二人っきりになったって、もう二度と期待するもんか。エロなんて信じない、帰宅だけが俺を裏切らないんだっ!

 ちくっしょー、轍先輩め。上手く着替えやがって。

 茂みに入って、先輩が鞄から出した自前らしきジャージに着替えようとするところまでは文句はなかった。俺のリピドーも、おそらく人生最高潮だったはず。

 後ろを向いていろとも指示されないから、俺堂々と見てたもの。

 そしたら、腰に巻いたブレザーを外して轍先輩は鞄へと放っていて、ワイシャツのボタンへと手をかけ始めた。――と思えば、一つボタンをはずした途端またかけ直し、その上からジャージを羽織りやがった。年が一つ上とだけあってか、発育のいいナイスなスタイルに期待してたのに。やられた……。

 でも轍先輩はサービス精神がある人だったらしい。

 色っぽい目つきで俺を見てきたが、文句の一つも言わなかった。

 特別気にすることでもないといった様子。

 先輩はそのままスカートの折り目に隠れたチャックへと手を掛けた。そして半分近くチャックを降ろし――下から潜らせるようにしてジャージの長ズボンを履きやがった。

 あとは流れるようにしてスカートを下まで降ろし、足でペッと鞄に入れた。

 俺の視線をどんな風にとらえたのか、

「……履くか?」

 と轍先輩がスカートを拾い上げたときは、本気でイラッとしたね。

 思わず腕振り上げそうになったもの。

 大切に大切に可愛がって育ててきたペットに逃げられたこと思い出したわ。

 悲しさや虚しさを通り超して、ただ腹が立った。憎悪すら湧いてくる。

 それから奥に進むと神社があって、轍先輩のバイクあって、神主が親の知り合いで置かせて貰ってるとか、これで登校してるとか言ってたが、そんなことはどうでもいい。

 俺は高ぶった気持ちを落ち着かせるために、ずっと轍先輩の尻のラインを見てたからな。

「――おい。動くからちゃんと捕まってろよ」

 轍先輩がフルフェイスのヘルメットをかぶった頭で肩越しに見てくる。

 ヘルメットのシールドにはスモックがかかっているせいか、表情が見えないのが怖いな。

「は、はいっ!」

 止まっていた信号が青になると、轍先輩がハンドルを握った右手を手前に引き絞る。

 体の芯まで伝わる轟音をバイクが吹き鳴らす。急発進した。

「うわ――っ!」

 ふいに後ろに飛ばされそうに、というより引っ張られた感じ。

 先輩の腰に捕まっていたおかげで、なんとかバランスを崩さずに済んだ。

 バイクはだんだんとスピードに乗ってきて、俺が羊飼いに邪魔された一直線上の道へと入る。後ろからでメーターは見えないが、ゆうに制限速度の五十キロは超えている勢いだった。自転車のときとは、比べ物にならないほどの強い風が頬を打つ。

「わ、轍先輩っ!」

「ん? なんだーっ?」

 激しい風の中、かすかに轍先輩の声が聞こえる。

「うちの高校ってー、バイク通学禁止ですよねー?」

「そ、そうなのかー? 初めて知ったなーっ」

 とぼけやがって、知ってるからわざわざ隠すよう神社にバイク止めてるんでしょ?

 にしても風のせいか、声が聞き取りづらいな。轍先輩はヘルメットのせいで声がこもって聞こえにくい。

 ……ていうか俺のヘルメットは? バイクでノーヘルって捕まるよね? ねぇ。こんなスピードでこけでもしたら……その前に、バイク通学禁止なのに堂々と制服で乗って帰るのは――って自分だけ着替えやがって! やっぱり確信犯じゃん!

 もしかして、このまま変なところに連れてかれないよな? 廃墟とか倉庫とか。

「……これからどこに行くんですか?」

「ん? なんか言ったか?」

「今っ! どこに向かってるんですかっ!?」

「どこって、授業が終わったら帰るに決まってるだろ?」

 今度は聞こえたらしい。ナイスな返事がかえってきた。

 学校が終わったら帰る。なんて良い響きだ。轍先輩、解ってるじゃないか。

「それに足早、早く帰りたそうにしてただろ? ……その、なんだ。せめてもの罪滅ぼしをとして協力してやろうとな」

「さすがっ! 好きになりそうです」

「き、気持ち悪い! いきなりくっついてくるなっ! 送ってかないぞっ!」

 俺は腰に添えていた手を、お腹のあたりまで伸ばすと、轍先輩はびくっと体を動かし、肘で俺を後ろに追いやってきた。

 気持ち悪いって……そんなに照れなくてもいいのにね。ほんとに。

「……送ってく? もしかして家まで送ってってくれるんですか?」

「あぁ。じゃないと今日どうやって帰るんだ?」

「いや、何かされたあとはそこらへんに放りだされると思ってたんで」

 普通は帰りちょっと付き合えと言われれば、どっかよるもんだと思うだろ。帰タラー同士なら、おそらく一緒に帰ろうって意味になるけど……。やっぱり先輩も帰タラーだったという決定的な証拠だな、これは。

 てっきり、送るのは家じゃなくて地獄だ。とでも言われると思ったけど……。

「そんなことはしない。私がそんな理不尽な奴に見えるか?」

 何を根拠に自負してるのか、轍先輩の口調からは不満だと言う意思表示が見てとれる。

「もちろん見えます……あれ? どうして俺の家がこっちの方だって知ってるんですか?」

「それか。それなら前に足早が学校の帰り、この通りでたくさんの犬と戯れているのを見たからな」

「えっ!? 見てたんですか?」

 くっそぉっ! 見られてたのか! あの赤い自転車の奴に抜かれた腹いせに、毒でも盛ってやろうと画策してたところを……。実行しなくて正解だったな。

「ん? 見られたら不味かったか?」

「そんなことはないですけど……」

 俺が言いたく無なそうにしているのを察してくれたのか、今まで饒舌に舌を動かしていた先輩が黙った。

 轍先輩って意外と優しいのか? わざわざ家まで送ってくれるなんて……でも駄目だ。

 バイクだと普段より帰るのが遅くなる。俺はいつも道路の信号待ちやらで捕まっている車を何台も抜かす。車道を使って走るものは、自転車より規制が多く縛られているから遅いに決まってる。……まぁ、送ってもらえるのは嬉しいけど、俺のベストタイムには到底及ぶことはないな。

 でもそんな考えとは裏腹。いつの間に飛ばしていたのか、さっきまでサイドミラー映っていた後ろの車が小さく見えるほど離れていた。

 今まで以上に風を切る音も強くなってる。法定速度なんてゆうに超えてる勢いだ。

 その勢いのまま、あっという間にこの長い一直線上の道を抜ける。

 そして、ほぼ減速はしずにタイミングよく青信号で交差点を通過。

「轍先輩、こんなに飛ばしてたらまずいですって!」

「なんだ、心配してくれるのか?」

「別にそういうんじゃ……」

 警察に止められでもしたら時間食うんだっての。

「大丈夫だ。スピード違反を賄えるくらいのポイントは持ってる」

「いや、誰も轍先輩の免許の心配なんかしてないですからね」

「なんかってなんだ、引きずり降ろすぞ」

「罪滅ぼしは?」

「……すまん」

 小声で言ったつもりだったが聞こえていた。轍先輩が申し訳なさそうに謝ってきた。

 脅すつもりで言ったわけじゃ……でもちょっとこの人の扱い方解ってきたかも。

「安全運転でお願いしますよ」

 信号を抜けて少し進むと、駅が近くなってきたからか店が多くなる。車の通りも増えるはずだが、今日は目に留まるほどしか見当たらない。

 轍先輩もそれをわかってか、更に加速し始める。

 風で目が開けづらくなるほどの勢いに。

「轍先輩の家はこっちの方なんですかーっ?」

「ん? あぁ! こっから二十分くらいのところだ」

「じゃあ俺と、家近いかもしれないですね」

 轍先輩は、信号が変わって動き出す車の左側。空いた隙間を器用に通り抜けていく。

 自転車ですら躊躇しそうなときがあるってのに、なんてハンドルテクだ。横をすり抜けるときは車が動きそうだと臆した瞬間終わり……。

 でも意外と行けるときがあるから、ここは一瞬の判断力が決め手になる。

 そこにこのでかいバイクで入るとは……。バイクは乗り手を選ぶらしいな。

「――てかスピードっ! 安全運転は!?」

 ここの交差点の信号も止まることなく、軽快に走り抜ける轍先輩。

 更に風は強くなって聞こえにくいのか、返事をしてくれない。

「そういえば、轍先輩ってどうしてバイクで来てるんですか? 俺くらいの家の距離なら自転車でも交通機関を使ってもこれるはずじゃ……」

「は? どうしてって寝坊するから自転車だと間に合わないだろ? 寝坊するから電車の時間も間に合わずに遅刻になる。それが理由だ、悪いか?」

 なんで逆ギレしてるの? 全部寝坊すること前提で話さないでよ。起きなさいよ。

 ……でも今が聞えてるってことはさっき無視したな。

 不良って都合の悪いことにだけスル―スキルついてんのかよ。

「普段の遅刻してくるのって寝坊なんですね……。親とか起こしてくれないんですか?」

 突っかかるのもあれだから、当たり障りのなさそうな質問をしておく。

「入学してきた時、こっちに引っ越してきてから一人暮らしだ。親とは住んでない」

「……えっ? 一人暮らしなんですか?」

「あぁ」

「すごいですね。自分で家のこともやって学校にもきちんと……家のことだけはちゃんとやってるかもしれなくて偉いですね」

「しかたないだろ。朝は苦手……ってなんで言い直すんだ? それは家のことすらも何もやってなさそうだって言いたいのか? それは心外だ。弁解してもら――」

 轍先輩が後ろを振り向いてくる。

「ちょっと轍先輩っ! 前見て、前っ!」

 こんなスピード出してるのに後ろ向くな! 殺す気かっ!

 ……今のは、どうせ不良だからやってなさそうだなって偏見で言った俺が悪いけどさ。

 気を付けないといけないな。本人は解ってるか知らないけど、轍先輩の感情に左右してスピードが上がったり下がったりしてる。

 あんまり下手なこと言うとこっちが死にかねないな。

「でも朝弱いってのに、よく親が一人暮らし許してくれましたね」

「これでも結構親が厳しいから必死に頼んだんだ」

「へ、へぇー……そうなんですか」

 親が厳しいか……。嘘だな。厳しかったらこんな風になるわけ……いや、逆に厳しさゆえにぐれたってこともあるか。

「ここら辺の女子校で私立金城学園高校ってあるだろ? 私の父親はあそこの理事長なんだ」

「ん?」

「嘘じゃないぞ。調べて見ろ、私の苗字と同じだから」

「…………えっ? 今なんて?」

 いきなり言われたことに頭を悩ましていると、轍先輩が一人坦々と語り始める。

「疑問に思うか? 無理もない、あそこは幼稚園から大学までのエスカレーターだから、普通はそのまま上に行くしな。私だってあそこで幼、小、中と過ごしてきた」

 私立金城学園。あそこは確か女子高だったか。県でも有数のお嬢様学校だって聞いたことがある。そんな堅苦しそうなところに……。

「でも私は理事長の娘。校内では普通の生徒とは違った。格式のある学校だったからな、媚を売ってくるような奴らもいれば、面白くないと思う連中もいたよ。教師にも生徒にも。いつも誰かに見られていて、常に神経を張っていないといけないような生活だ……馬鹿らしい。人の目を気にして生活するなんてな。そんな生活がこれからも続くって考えると、耐えられたものじゃない……」

 表情が解らなくても雰囲気が物語っているようで、不思議と轍先輩の背中が寂しく見えた。俺にはどう返事をしたらいいのか解らなかった。

 俺の返事を聞くことはなく、先輩は吹き荒れる風の中、自分に言い聞かせるように話す。

「だから高校入学は違うところに行きたいと父親に頼んだんだが、なかなか許してもらえなくて……。はっきしとした理由を言えなかったからな。責任を感じそうだったから。でも何度も何度もお願いをして、父親の知り合いがいる春日野高校ならいいってことで許可をもらえたんだ」

 おそらく轍先輩は俺の返事は求めていない。ただ何かしらを話してすっきりしたいといった感じだった。だから俺は黙って耳を傾け、過ぎ行く景色を見ている。

「新しい学校での始まりは最初が肝心だ。第一印象でなめられちゃいけないってのを聞いたこともあったから、髪も派手な色に染めてきた。目つきで人のことは大体わかるっていうだろ? だから目つきも少し鋭くするように心がけもした。……そしたら何故か悪い方向に受け取られてしまってな。それから改善しようと試みたんだが上手くいかなくて……。結局、この状態に留まってるってわけだ。笑えるだろ?」

 さっきより過ぎる景色の鮮明に見えるようになってきた。轍先輩が落ち着いてきたんだろう。心なしかスピードもさっきより下がってきたような。

「それに去年、寝坊しすぎて留年してしまったせいで、父親から条件が付けられてしまってな……。何か問題でも起こしたら即強制送還とも言われてる」

 確かではないけど、俺のは轍先輩は何か言葉を欲しがってるように思えた。

 どう声を掛けたらいいのか漠然としてる。考えても考えても口先だけの言葉になってしまいそうな……。そうだ。俺が轍先輩に対して思ってる気持ちをぶつけるのがいい。それが今、俺が出来る一番の返事だろう。

「そうだったんですか……。轍先輩も意外と苦労してるんですね。まだ最近知り合ったばっかりの俺が、こんなこと言って真に受けてもらえるか解らないですけど、先輩って意外と優しくて他人への気遣いとかが出来るんですよね。最初のイメージからは全然思いもよらなかったけど。周りの人も先輩のことを知ればきっと……少なくとも、俺は轍先輩のこと好きです」

 これが俺が言える精一杯。こんなくらいで轍先輩の抱えているだろうことを解消してあげられるわけはないだろうけど、俺の言えることは言った。

 すると、ずっと真っ直ぐの道の筈なのに、轍先輩はバイクを左に寄せて止めた。

 勢いよくヘルメットを脱いで振り返る。

「あっ、ああ、足早。お前は急に何を言って――す、すす好きってそれは告、告は……」

 あからさまに動揺していた。ちょっと臭すぎて、逆に軽い感じに受け取られたか?

 頬を真っ赤にして、口元をピクピクさせてる表情が怒ってるように見えないこともない。

 やっぱり帰タラーには、こういうシュチュエーションは役不足だったな。

 俺はすかさずフォローを入れる。

「まっ、もしなんか困ったことがあったら俺が力になりますよ」

「あ、ありがとう……」

 時折聞かせてくれる優しい口調の中でも、一番優しいありがとうだった。不覚にも、帰りに助けを求められても、帰宅よりも優先してあげたいと思ってしまうほどの。

 にしても、少し適当に返事し過ぎたか? 風が強すぎてほとんど何言ってるのか解らなかったけど……。確か金城学園の名前が出てきたところまでは聞こえた。

 轍先輩は金城高校にでも憧れてて編入したいのか? 

 もっと無難に「ああぁ、うん。そっかぁー」くらいの当たり障りのない返事の方がよかったかもしれない……。まっ大丈夫か。轍先輩を見る限り機嫌が良さそうだ。

 これで早く帰れたら、今日は俺も満足かな。

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