中国誤事 覆水盆に返す
これは 中国"誤"事 です。
元の意味
覆水盆に返らず:一度離縁した夫婦は元に戻らない。転じて一度起きたことは元に戻らないということ。
大公望が本ばかり読んで働かないことに激怒した妻が離縁、出世したのちに復縁を迫った。
しかし大公望は、盆(ボウルもしくは鉢)の水をこぼし、その水が戻らないことから一度別れた夫婦はもう戻らないと説いたことから。
前漢の人物である朱買臣にも同様の逸話がある。
それは古代中国での出来事であった。
太公望呂尚が周に仕官する前の事、ある女と結婚していたが仕事もせずに書物ばかりを読んで暮らしていた。
そのため女は愛想をつかして離縁、どこかへと去っていった。
しかし殷の紂王が暴虐を尽くす中、軍師として周の姫昌に迎えられ頭角を現していった呂尚は、殷が倒されたのち斉に封ぜられ出世する。
そんなある日、かつての女が現れ呂尚に復縁を迫った。
◇ ◇ ◇ ◇
「お久しぶりです、呂尚様。私はかつてあなたが愛した妻でございます。」
突如訪ねてきた女に怪訝な顔をしながらまじまじとその顔を見る呂尚。
記憶よりだいぶ老けてはいるが、たしかに見覚えがある。
それは遠い昔に働きもしない呂尚に怒り、離縁状を書いて出ていった元妻であった。
「ああ、久しぶりだな。今さらいったい何の用だ。」
呂尚は毎日のように「書物ばかり読んでないで働け。」と言って怒っていたこの女が苦手であった。
表情を曇らす呂尚に女は艶っぽく、さらには哀れを誘うような声で言った。
「呂尚様、私はかつてあなた様が本ばかり読んで働かなかった事に業をにやし、なぜ私だけがこのように苦労しなければならないのかとわが身の運命を嘆くあまりあなた様から離れてしまいました。」
呂尚にとって捨て去りたい過去だった。確かにかつての生活を支えてくれたのは妻である。
だが好きな読書のたびに小言を言われる生活に嫌気がさし、妻が出ていった時にほっとしたのもまた事実なのだ。
「ですが逆にそれが良かったのでしょう、あなた様は私が居なくなった事で奮起され、大志をなして今の地位に就かれたことわが身のように大変嬉しく感じております。
もしあのまま私が支え続ける生活をされていたら、きっとあなた様は好きな書物を読むだけの安楽な生活を抜けられず、周に仕官することも無かったはずです。」
呂尚には「そのような事は無い、どちらにせよ自分は周に仕官しこの地位まで上り詰めたはずだ。」とは言い切れない気持ちがあった。
妻が居なくなり生活が困窮していく中、西伯公姫昌が占いで賢人を探していると聞きつけ、村民に根回しをして針のついていない釣り竿を用いてまで姫昌とのつながりを作ったのだ。
この女が居なければ、賢人と称されるまでの知識を本から得ることはできなかったであろうし、離縁して生活に困窮しなければ仕官しようなどとは夢にも思わなかったであろう。
「あなた様を最後まで支え切れなかった不甲斐ない私に思う所はありましょうが、今一度かつてを思い出し、夫婦として共に生きてくださいませ。」
呂尚は歳を経て老いが迫るかつての妻をまじまじと見た。
身なりは一見美しいが、よく見れば所々にほつれを繕った跡があり、帯の染めもやや色あせている。
頭に挿す簪は遠い昔に自分が贈ったもので、過ぎ去りし日の思い出をありありと映し出す。
きっとこの女は生活に苦労しているのだろう。だから今になって捨て去った自分のもとを訪ねて来たのだ。
「そなたの言いたいことはわかった。だが、私には弟子と過ごす今の生活が捨てられぬ。」
「どうか、どうか思い直してくださいませ。
それにもし領主ともあろうあなた様が過去の恩を忘れ、この哀れな女一人を無碍に扱ったとなれば民を治めていく上での大きな汚点となりましょう。
それに私はあなた様を捨てた後何度も後悔し、あなた様を想わぬ日などありませんでした。
それでも私を捨てると言うのでしたら、どうかこの場で斬り捨ててくださいまし。
愛するあなた様の手にかかって死ぬのでしたら本望でございます。」
呂尚は思いつめたような表情をする女の行動がすべて打算から来るものだと見抜いていたし、復縁する気など全く無かったが、自分を支えてくれた過去を持つ女に対して頭ごなしに拒絶はできなかった。
それにこの女をうまく納得させてやらねば、後々の禍根を残すことになりかねない。
「そこまで言うのであれば条件を付けよう。それができるのであれば、再び貴女を妻として迎えようと思う。」
女の顔が希望に輝く。
「本当でございますか、あなた様の為ならなんなりとやってみせましょう。ですが無事に条件を成したあとで、やはりだめだなどとは言いますまいな。」
「ああ、これでも一国を預かる領主、約束をたがえることは無い。」
呂尚はわずかの思案ののちに言った。
「少しここで待ちなさい。」
呂尚は家の奥から水を満たした鉢を持ってくると、その中身をびちゃびちゃと地に流した。
渇いた大地が水を吸って黒く染まり、泥と化していく。
「さあ、今こぼした水をこの盆に戻しなさい。それが条件です。」
女は水を吸った地面を必死にかき集め、泥にまみれながら水を戻そうとする。
しかし水を吸った大地から再び水が湧き出ることなどあり得なく、いつしか女の眼からあふれた水がぽつぽつと地を黒く染めた。
「一度こぼしてしまった水は二度と盆に戻っては来ない。自分を支えてくれた貴女には感謝しているが、その関係は盆の水のようにもう元には戻らないのだよ。」
涙を流す女に呂尚は出来うる限り優しく語りかけた。
突如、女は意を決したように濡れた頬を上げて呂尚をじっと見つめた。
「鍬とふたのついた大鍋、鍋のふたをいくつか、薪とかまどをお借りします。」
彼女が何を言っているのかわからずに呆然とする呂尚をよそに、凛とした声で家人に命じて道具を用意させる女。
女は土と泥を鍬で掘り返し、それをせっせと大鍋に放り込む。
「一体何をするつもりなんだ。」
慌てる呂尚に女がきつい声で答えた。
「あらん限りの水を盆に戻します。早くしないと多くの土に水がしみ込み手遅れになりますので、あなた様は少し黙っていてください。
これは書物では学べぬ女たちの知恵です。かまどの前に立たなかったあなた様にはわかるまいでしょうが。」
やがて大鍋の中には泥と黒く湿った土が入り、ふたをすると女は家人と共にそれをよろよろとかまどへ運んでいく。
大鍋に火がかけられると、泥土の温度は徐々に上がり、白い蒸気を吐き出し始める。
女はふたに着いた水滴をせっせと鉢に戻しながら、冷えた別のふたを大鍋にかぶせる。
一晩が経ち、渇いた泥のこびりつく服を着て目の下に大きな隈を作った女が持つ鉢には、取り戻された水がキラキラと朝の光にきらめいていた。
「さあ、私はあなた様が出された条件を満たしました。
盆の全てを取り戻した水で満たすことが叶わないように、かつて過ぎ去った日々、わたしの過ち全てを取り戻すことはできません。
ですがこの盆に戻った水のように、終わった事柄でも取り戻せるものは確かにあるのです。
取り戻せない分の水はこれからの私とあなた様で共に注いでゆきましょう。」
これにいたく感動した呂尚は女との復縁を許し、それ以降は書物だけではなく多くの経験から得られる知識も著書の六韜に纏めていったという。
中国誤事
覆水盆に帰す:夫婦は別れても再びよりを戻せる、転じて終わった事柄でも取り戻せる物があるということ。
2017/05/18 本文改定
大公望の参考文献:Wikipedia