『コットン水』
何だ、ノア、また聞きたいのか?
…って言っても、俺もそんなに――。あ、そうだ。あの話をしよう。
「なんだやっぱりあるんだ」って、まあ、あるけど…。
じゃあ…ホットチョコレート作ってやるから、飲みながら聞けばいい。
こら、ベッドの上で跳ねるな。ちょっと待ってろ。
…アンダーでもチョコレートだけは相変わらずあるよな。
少し熱いから気を付けろ。
ん?いや。俺は別に霊感無いし、幽霊は見えない。
…だから油断してたって言うのはあるかもしれない。
これは俺がまだ小学四年生の時の話だ。
俺は当時ダンススクールに通ってて、あまり遅くなるのはいけないんだけど、その日は発表会が近くて。ちょっと練習に熱が入りすぎて遅くなった。
それ自体は別に良い。家から迎えを呼べば良いことだし…。
まあ、実は俺はいつも一人で勝手に帰ってたけど。
けど一応、ボーダーラインって言うのがあって、小学生だし…七時を過ぎたら、『佐藤さん』を呼べって言われてた。
佐藤さんって言うのは本家の執事?みたいな人で、分かりやすく言うと運転手?
母さんが死んだ後は色々俺の、出かける時とか、病院行くときの送り迎えとかをしてくれた人だ。
俺はいつもレッスンの前に菓子パンとか、おにぎりとか、そういう物を食べてたけど、さすがに腹も減ってきた。
先生もそろそろお家の人を呼んで帰れって言った――。
■ ■ ■
「…?なんか、お腹空いたかも」
俺は首を傾げた。部屋の時計を見たら八時を十五分過ぎていた。
がちゃ、と扉が開いた。玉川先生だ。
「あー、やっぱりまだいた。速水君、もうこんな時間だよ、そろそろお迎えの人を呼んだら?」
「あ。はい。じゃあ帰ります」
そして、一階に降りて、いつものよう携帯で電話を掛けた。
「あ、佐藤さん?…はい、待ってます」
『明日は発表会の練習で遅くなります。八時ごろです』って昨日メールで伝えてあったし、問題は無かった。
―ん?ああ、携帯って言っても、子供用の連絡先の少ないやつ。日本じゃ良くある。
家と、佐藤さんと、兄貴と、病院。それぐらいしかかけられない。
…正直、公衆電話の方が役に立つ。
「じゃあ、先生」「ああ、またね。気を付けて帰るんだよ」
俺はそう言って、迎えの車を待つために道路に出た。
ここから家までは車で五分もかからない。今日もすぐに来るはず…。
けど、十分経っても迎えは来ない。
俺は不思議に思って、電話したけど話し中だった。
佐藤さんまた事故ったかな?思ってメール送って。
すぐに電話が掛かって来た。
『すみません、出雲さんが代わりに迎えに行くそうです。車取られました』
どうやら兄貴が現れて、佐藤さんの車をぶんどってしまったらしい…。
――なんだ、だったら勝手に帰ろう。迎えが来ないうちに。
兄の運転と聞いて、まだ死にたくない俺は決断した。
『歩いて帰る。コンビニでも寄って何か買って来たら?アイス食べたい』
兄貴に短いメールを送って、俺は歩き出した。
…夏だし、大丈夫だろ。歩いても十分くらいだし。
多分、それが間違いだったんだ。
■ ■ ■
八時台だけど、人通りはそれなりに多い。
なんだ、別に危険って事も無い…。
からんからんからんカラン…。
遮断機の下りた踏切で、俺は立ち止まった。
電車が通過する。
…踏切の音を聞きながら、俺はあー、そう言えばこの前もここで事故あったよな、って思った。
そこは近所で有名な、危ない踏切だった。
と、言っても遮断機が上がるまで待って渡れば、もちろん普通の踏切だ。
俺はそこを難なく渡った。
そして俺は、そのまましばらく街を歩き、住宅街へ出た。
街頭の下を選んで歩く。
途中、用水路に掛かった橋を渡る。
俺は橋を渡りながら、あー。そういや去年ここで子供が溺れたな、って思った。
そこは夏休みの前に、必ず先生があそこで遊ぶなって言う場所だった。
べつに降りなきゃ良い。俺はそこも通り過ぎた。
家の近くまで来た。
良かった、兄貴には会わなかった。これなら無事に家に着く――。
「……、」
と思った俺は、立ち止まった。
…だれか、ついてきている。
振り返ったら、少し離れたところ、電柱の下に立ち止まってる女の人がいた。
たまたま方向が一緒だったんだろう。
何でずっと立ち止まってるのかは知らない。
俺はまた歩き出した。
そこに、音楽をかけた騒がしい車が停まった。
「朔!ミーっけ!」
窓があいて、兄貴が顔を出した。
もちろんタバコは標準装備。
…えっと、兄貴は…当時、あれ?二十過ぎだったか…?まあ、今は過ぎてるよな。
暗いのにサングラスだし…だからよく事故とか起こすんだ。
その当時、兄貴は赤色のモヒカンだったな。
ん?ノア、どうしたむせこんで。
…大丈夫か?
ああ。俺の兄貴は、ちょっと変なんだ。
ちょうどあの頃はグレてて――今も大して変わらないかな?
「あっ、お兄ちゃん!」
俺は駆け寄って笑った。
…吹き出しつつ微妙な顔で笑うな。だって小四だし。
「アイス買った?」
「買った買った!乗れよ」
「うん!…、……いや、やっぱ近いし歩く。近所迷惑だから音は下げてよ。めいわく!恥ずかしい!」
俺は思い直して断った。
「そうか?朔が言うなら。そうなんだろな。あ、ポテチも買ったから後で食おうぜー」
「サンキュー」
俺は喜んだ。
兄貴はボリュームを下げて、車は凄い速さで角を曲がって行った。
バリバリバリ!と、塀にこすった音がした。
「あ…」
親父がまたキレるな。佐藤さんゴメン。将来はちゃんと安全な運転を身に付けよう…。
俺はそう思いながら、また歩き出した。
「ばあちゃん。ただいま戻りました。お腹空いた…」
「おかえり、朔」
ばあちゃんが出迎えた。
「出雲はもう食べてるよ」「ランドセル置いて来る」
当時、俺の部屋は六畳くらいの和室で…ノアは畳って分かるか?―、ああ、その上にブルーの絨毯を敷いて、勉強机と、ベッド、本棚が置いてある。和洋折衷な感じだ。
俺はその部屋にランドセル…カバンを置いて、また戻って、兄貴、俺、ばあちゃんの三人で夕飯を食べた。
兄貴はたまに俺とばあちゃんが住んでた別邸に遊びに来てた。
親父は年に二回くらい?
…親父とばあちゃんは仲が良くなかったんだ。
だから盆正月は俺が一人で本家に行ってた。ばあちゃんは留守番。
いつも兄貴と親父の修羅場になる…。
俺は茶室に待避。…盆正月だけは、いつも厳しいお祖父さんが優しかったな…。
…親父の性格…?それはどうでもいい。
俺は二階の自分の部屋で宿題をしながら、二ヶ月ぶりくらいに兄貴と色々話した。
兄貴は倒したいチームがあるので、夜中にまた出かけるって言ってた。
俺は兄貴に『親父とお祖父さんは相変わらず五月蠅い?』とか聞いて。
兄貴に『朔は今何勉強してる?』とか、『ダンスはどう?』とかそんなたわいも無い事を聞かれた。
「…家継がないの?」
俺はずっと気になってた事を聞いた。
「朔に任せた!俺は走るよー!ぶーんってな!」
…兄貴は誰がどう見ても、時期家元としての道を外れている。
兄貴にも真面目な所はあるんだけど、親父は分かって無いから…。喧嘩ばかりだった。
「え。いや…俺、出来ればダンサーになりたいんだけど…」
「めんごっぴ!」
…俺は兄貴を蹴飛ばした。次それ言ったら殺す。
「死ねよ?」
兄貴がちょっとショックを受けた。俺はちょっと言い過ぎたと思った。
「……ごめん嘘。人は轢かないように」
「おう!……、ん?朔はそろそろ寝るか?」
ふぁ、とあくびをする俺を見て兄貴が言った。そう言えば、ダンスで疲れていた。
「うん…玄関の鍵は閉めて行って…」「ああ、おやすみ」
兄貴が来ただけの、何の変哲も無い一日だった。
俺は風呂に入って眠った。
■ ■ ■
かたん。
夜中…、俺は物音で薄目を開けた。
兄貴が出て行った?と思った。
…すい……、すい…、
俺はばっと、薄い布団を跳ねた。
何だ?と思って辺りを見回した。
「すい…、…い…たい」
人の声がする。
しかも、押し入れの奥から。
――どうしよう。
俺は冷や汗をかいた。
いや、もしかしたら…いつもの幻聴かもしれない。
俺はそう思って、ちょっと迷った末に、押し入れを開けることにした。
押し入れは上の段に予備の布団とか、下の段は物置になってる。
人が入るスペースは…俺はベッドだけど、兄貴に予備の布団を貸したので、上の段なら…少しはあるかもしれない。
「…い…い…」
女性の声。
どうしよう。俺は迷った。
泥棒かもしれないが、ちょっと違う気もする。
「とん、すい…、すい…い」
その声はとても小さくて…あまり聞き取れなかった。
――これ、やばいやつだ。
押し入れに手を掛けようとするけど、怖くて出来ない。
俺は震えながら部屋を出た。
「ば、ばあちゃん…」
兄貴はもういなかったので、ばあちゃんに助けを求めた。
「朔?」
「押し入れに、すいすい言う、女の人がいる…!ばあちゃん見て来て!」
俺は半泣きで言った。今思うと…結構、無茶振りだったな。
「すい?」
ばあちゃんは首を傾げて、立ち上がった。
「分かった、朔はここで待ってなさい。退治してきたる」
ばあちゃんは頼もしかった。
「うん…」
俺は自分が情けなくなった。
気のせいかもしれないじゃないか…。小四にもなって…。
いや、でもハッキリ声は聞いたし、何なんだ…。やっぱり幻聴か…?
しばらく震えてたけど、…やっぱりばあちゃんが心配だと思って…俺は部屋を出た。
暗い廊下を辺りを見ながら歩いて、階段を上がる。
「朔」
「うぁあ!!」
上がった所でばあちゃんに出くわして、俺は飛び上がった。
「びっくりした!!」
危うく階段から落ちるとこだった。
「ああ、ごめんよ。押し入れを開けたけど、居なかったよ」
ばあちゃんはそう言った。
「…ほんと?ちょっと来てよ」
俺はばあちゃんを連れて、自分の部屋に戻った。
押し入れはあいてて、確かに何も居なかった。
「いない…。なんだろ、またビョーキかな…ばあちゃんには聞こえた?」
「こっとんすい」
ばあちゃんはそう言った。
「は?コットン水?」
「多分、朔が聞いたのはこっとんすいの鳴き声だね」
「―――」
ばあちゃん、変な事を言わないでくれ。俺はそう思った。
俺、ここで寝るんだけど?なにそれ妖怪?
「押し入れで鳴くのはそれだよ。昔、開けたら居た事があった。今日は居なかったから、大丈夫だろう。大丈夫、大丈夫」
ばあちゃんが笑って俺の頭を撫でた。
「…」
全然大丈夫じゃ無い。
俺、今日も明日も明後日も、この部屋で寝るんだけど。
ばあちゃんはもう終わった、と言わんばかりに下へ降りていこうとする。
薄情なと俺は思った。
「…ばあちゃん、今日、そっちで寝ても良い?」
もう小四だけど、さすがに無理だ。俺はそう思ってばあちゃんに言った。
って、ばあちゃんもう居ない。階段を下りる音がした。
…俺はあきらめた。
ばあちゃんが良いって言っていったなら、大丈夫だろう。
出てきたら五月蠅いって逆ギレすればいい…。
その夜は気合いと根性で眠った。
何も無かった。
…あれは…やっぱり幻聴だったんだろうか。
俺は次の日、ネットで調べたけど…こっとんすいは何か分からなかった。
佐藤さんにこっとんすいってしってる?って聞いたら、さあ、知らないですね。
ああ肉吸いってのは聞いた事ありますよ、って言われた。
美しい女性の姿をして、夜遅く、提灯を灯して歩く人に食らいつく妖怪。
「ふーん…。あの、今日もお迎え…お願いします…」
俺は色々な事を考えて、全部気のせいにした。
あの人どうして、線路の内側で立ち止まってたんだろうとか。
提灯持ってたらやばかった?とか。
…とりあえず、ノアも夜道は気を付けろよ。
〈おわり〉