真夜中
吉嗣は明日は早起きとのことで、早々に屋敷へ入っていった。
私は少しホッとしていた。吉嗣なんかに初めてを奪われたくないからだ。
今日の夜だけどうしても、と桃にお願いして、桃に横で寝てもらうことにした。
何かあってからじゃ遅いからね。
「なぜそうしてまで吉嗣様をお嫌いになられるのですか?」
「吉嗣だからってわけじゃないわ。今はまだ、誰にも抱かれたりしたくないだけよ。」
「抱かれるなんて、その様に恥じらいもなくおっしゃらないでくださいまし。姫様は少しお言葉が乱雑でございますよ。」
桃が注意しながら横に床を準備した。
「もし、万が一吉嗣が入って来たら……わかってるわよね?」
「はいはい、追い払えば良いのでしょう?」
「絶対よ!?」
「わかっております。桃は姫様をお守りいたしますわ。」
そう言って二人で床についた。
真夜中。
シャラシャラ衣擦れの音がする。
私はなんとなく眠れずにいたので、その音を聞き逃さなかった。
「桃、桃!!」
と、桃を起こすと、音の正体を確認することにした。
ギッ、ギッ、という床を踏む音が近づいてくる。
桃は御簾越しに音の来る方を確認した。
「……吉嗣様です……」
「桃、わかっているわね?」
「はいはい、姫様。」
吉嗣は違えることなく、この部屋の御簾をあげた。
桃の姿を見て、一瞬止まった。
「……吉嗣様。大変申し訳ございませんが、姫様はお加減が悪いとのこと。今宵のことは諦めてくださいませ。」
桃が頭を下げた。
吉嗣は
「相わかった。」
とだけ言うと御簾から出ていった。
たったそれだけのことなのに、私は緊張しすぎたのか、握りしめた手がほどけずにいた。
桃は御簾の奥にいた私に声をかけて、握りしめた手をほどいてくれた。
「姫様は緊張しすぎでございます。これから殿方がお訪ねに来られる度に桃が側に居らねばならなくなりますね。」
フフ、と桃が笑った。
「初めてのことだったからビビっただけよ!!」と言い返すが、事実、桃がいなければ今頃どうなっていたかわからない。
「きちんとお断りすれば良いだけのお話でございますよ。きちんと、ね。」
さも私が何もできないかのような言い回しに少しカチンときた。
「きちんと断れますよ、きちんとね。」
と言い返す。
「姫様はお心に決めた男性がおありになられるのですか?」
お心、と言われて一瞬悟のことを思い出した。
悟……
悟と喧嘩しながら登校したことも、今となっては懐かしい思い出だ。
「姫様?」
と声をかけられ、ハッと我に返った。
「どなたかおありになるのですね……?」
「ないわ!」
思わず否定した。
フフ、とまた桃は笑うと、私たちは再び床へついた。
翌朝。
吉嗣が挨拶にやって来た。
「綾姫様、大変お世話になり申した。」
「こちらこそ、充分なご用意が出来たかわかりませぬが……」
型にはまったような挨拶だけ交わすと、では、と吉嗣は出ていった。
◇
私は悟のことを思い出していた。
悟と出会ったのは小学校へあがる前だった。
小学校へあがる前に私は引っ越しをした。それまでの友達も一切いなくなって、私は一人ぼっちだった。
そんなときに公園で出会ったサッカー少年……それが悟だった。
悟は私に、無言でサッカーボールをパスしてきた。私も無言のままパスを返した。そのあとしばらくパスのやり取りをしていた。
「俺、悟。」
「私は綾。」
やっと自己紹介をしたのは、夕食よ、と母が迎えに来たときだった。
「また明日!!」
と言い合って、そのままその関係が続いてきた。
『好き』
その一言が言えないままだった。