初午
鏡を置いて以来、体調不良にも、夢にもうなされることがなかった。
百合は今頃どうしているだろうか。
◇
悟はうちに来ることはなかった。
何度も誘いをかけているのに。
私は道満に当たり散らした。道満はニヤニヤしながらそれを聞いていたが、牛車の音を聞いて言った。
「ご到着ですよ、姫様。」
牛車に乗ってきたのは悟だった。部屋の前まで案内されると、ボーッとした顔でお決まりの挨拶をした。
「百合姫にはご機嫌麗しゅう……」
だが、ボーッとしたまま、身動ぎもしない。
「これはどういうこと?!」
道満がニヤニヤしながら言った。
「悟様がこちらに振り向けばいいとおっしゃったじゃありませんか。ですから、悟様をお連れしただけのこと。あとはご自由に。」
そう言うと道満は軽い足取りでどこかへ行ってしまった。
「悟さん……悟さん?!」
声をかけても返事もなく。ただただ
「ご機嫌麗しゅう……」
と繰り返す悟。
このまま既成事実を作ってしまえば、悟は私から離れようとはしないだろう。
だが、私の欲しいものはそんなものじゃなかった!!
私は悟の心が欲しかった!!
こんなお飾りのようではない、悟の気持ちに振り向いて欲しかった!
私は噎び泣いた。
◇
悟はあれからあまりうちに来なくなった。
私が悪夢を見たり熱を出したりしていたせいもあるが、文のやり取りも少なくなっていた。
私から積極的にならないとね!
私はそう思って文をたくさん出した。
しかし、返ってくるのは事務的な、表面だけ取り繕うような文ばかりだった。
そんな折、悟が百合のところに出入りしているとの情報が入ってきた。
百合のところに行ってたんだ……私は胸騒ぎがした。
私に文が少なくなった時期とそれが思い切りシンクロしている。
悟は百合に誘惑されているのだろうか?
そんなあらぬことばかりが胸をよぎって苦しくなる。まさか、あの夢みたいに、百合と悟は……
いや、そんなことはないだろう。だって目があった瞬間にわかりあったのだから。それは間違いない。
それに、悟は御用聞きに百合のところに行くことがある、ってお兄様にも言っていたのだ。私が疑ってどうするのだ。
私こそ悟を一番信じないといけないのに……
時間をもて余した私に、お出かけのお誘いがかかった。
伏見稲荷の初午を見に行かないかという、近所の姫ぎみからのお誘いだった。
お祭り大好きな私はすぐにこの話に乗った。
桃に言って衣装も新しいものへ買い直した。
重ね色目にも凝って、牛車も塗り直させた。
まるでもう一度正月が来たかのような賑わいになった。
お兄様もこれには賛同してくれて、新しい裳を買ってくれた。最近は私が体調不良だったりしたので、お兄様なりに心配してくださっていた様子。お兄様も初午を見に行こうとおっしゃっていた。
祭りの日、朝早くから私たちは出発した。すこしでもいい席から見たいからね。
誘ってくれた姫ぎみと途中から合流し、祭り見物へ急いだ。
祭り会場にはすでにたくさんの車がついており、私たちは中辺りの席から見物することになった。
笛の音が高らかに鳴り響く。
私たちは持ってきた弁当を広げると、外の舞いや行き交う人々を見物した。
上の神社まで行き着くには、大変な苦労があるらしい。徒歩で行った方が早いのでは、と桃に言うと、さすがにこのご衣装では無理でしょう、と言った。
近くを、見たことのある牛車が通りかかる。
百合だ。
百合の乗っている牛車を私たちが追い越そうとしていた。牛車は汚く、みすぼらしいものであった。