『人食い』2
9/10
――日付が変わった。それでは予定通り、夜の散歩と洒落込もう。
「さて、アリナ」
「…………」
反応は無い。分かっている。こいつを起動させる為に必要なもの。それは――
「久しぶりの散歩だ。必要としてやるよ、伺坂アリナ」
「……あ」
ドクンと、心臓の音が聞こえるような錯覚。蘇生に他人を必要とし、他人を犠牲とする伺坂アリナ。こいつが生き返る為に必要なものは、つまり『必要としてくれる他人』だ。アリナは自分を必要としてくれる者の為だけに生き返り、そしてソイツを食い殺す。
「マキ……ノ……?」
瞳の焦点が徐々に合ってくる。緩慢で人間味の欠いた動きは、徐々に滑らかに。心臓が血液を循環させるように、生き返った脳が神経に思考を循環させる。まるでリボルバー。空だった薬莢は回転し、新たな弾丸を脳髄にセット。カチリ。
「マキノ……?」
「おはよう、アリノ」
そして――
「――わっはぁーっ!! マッキノーーっ!!! へぶしっ!?」
「いきなり飛び掛るな。怖いから」
……そして、馬鹿みたいに明るい声と共に、伺坂アリナは蘇生した。
俺が体を逸らしたお陰で、板張りの床に顔面スライディングをかましたアリナは、今までの緩慢な動作からは考えられない程にはきはきとした動きで起き上がり、俺を睨む。
「うっわ! うっわ! うっわ! 酷い酷いよマキノは酷いっ! せっかくの再開でせっかくのお喋りなのにわたしからのスキンシップを完全スルーチェンジ希望ですかこのヘタレ朴念仁!!」
「いや、待て。お前の今の台詞には色々ツッコミたいところがあるが、とりあえず音量を落とせ。もう夜だぞバカ野郎」
「関係無いったら無いったら無いね! 大体夜だなんていっても全然更けてないじゃん今何時か知らないけどっ。それに若者がこの時間帯にはしゃがなくてどうすんのさっ! 若者らしく隣人に構わず朝までフィーバー苦情が来ても気にしないっ! そんで次の日に二日酔いで二人激しく後悔しようぜっ!!」
「良いから黙れ、本当に苦情が来るだろ」
そりゃあもう満点の笑顔で、今まで喋れなかった分を発散するかのように言葉の弾丸を飛ばしまくるアリナに、額を押さえる。この音量なら隣の部屋まで筒抜けだろうが、隣は七号室。つまり城崎さんなので、コレくらいは我慢してもらおう。そもそもこの事態の元凶だし。
「ちょっとマキノマキノマキノーっ? わたしが居るのに他の娘のこと考えるとかちょっとばかし酷いんじゃないっ!? こういうときはわたしだけを見て欲しいという乙女心がスパーク爆裂驀進中なんですけどっ!!」
「相変わらず怖いくらいに鋭いなお前は。それとお前を見たいなんてまず思わないから。怖いから」
「えーっえーっ! なんて残酷冷血漢っ! 自分から起こしておいてアンタなんてお呼びじゃないですかっ! だったらわたしはどうしてここに居るのかなんて自己存在に疑問を持ちつつもやっぱり貴方から離れられないわたしってなんて乙女っ!」
「ポジティブに自惚れるな」
「もーっ! マキノってば否定ばっかりして一体わたしに何を求めているのかはっきりくっきり説明してもらわないとエアリーディングに長けるわたしでも流石に疑問符が浮かびまくるよっ!」
「とりあえず黙れ。求めているのはそれだ」
「らじゃっ!」
小さな手で可愛く敬礼をして動きを止めるアリナ。その様子に、それまでの儚さなど一切無い。俺の前に立つのは、ちょっと元気の良すぎるアホの子である。
「おやおやー? もしかしてマキノくんってばわたしに見とれちゃったりなんかしちゃったりしてー? やだもうだめだよマキノくんそんな熱い視線で見つめられたら勘違いしちゃうって言うかむしろ勘違いしたいというかマキノの真摯な瞳にわたしもちょっと傾いちゃうかなっていうか」
「だ、ま、れ」
「らじゃっ!」
……あー。なんで俺はこいつを起こしちゃったんだろうかなどと、後悔しても仕方がなく。俺はここ一ヶ月の事なんて知る筈も無いアリナに、顔を奪う女について、一から教えてやった。
「ふうん? 要するに夜出歩いてるいけない女の子を後ろからノックアウトして顔をバリバリ奪っちゃうわけ? その娘は?」
「そういうこと。ついでに可愛い娘限定」
「ふーん。うんちょっと待って? それでわたしを呼んだということはもしかしてマキノに美少女お墨付きをもらったということと同義と捉えてもよかったりなんかしちゃったりしてっ!?」
「……まあ、顔は可愛いだろ」
あくまでも、顔は。中身を知ったらとてもじゃないが可愛いなんて言えないが。
「うわーっうわーっ! 悪態を吐きまくって貶めまくったところで最後の最後に上げるなんて何これ何それどんなテク!? この女たらし! 落ちたっ!」
落ちるな。
「……話戻すぞ」
「そしてスルー! またスルーッ! なによもう照れちゃってーっ! でもそんなところが可愛いぞっ!!」
「……だ」
「らじゃっ!」
言い切る前に敬礼されて、開け放した口からは、言葉の代わりにため息が漏れる。
「……まあ、そんなわけだ。こいつをどうするかは任せる。とりあえず俺としては、こいつ自体に興味は無いからな」
「へえぇ。ねえ、それってさぁ」
「ん?」
いい加減おざなりな答えを返すと。
「――食べちゃっていいの?」
……一瞬、背筋が凍った。儚さなど皆無の笑顔。その擬態の下に隠れた本性が、ほんの少しだけ垣間見える。
騙されてはいけない。コイツの本質は、何処まで行っても変わらない。人に害を及ぼすものだ。コレはあくまでも擬態であり、相手が望む釣り餌を表面にまとっているだけ。……何だかそれだと、まるで俺のタイプがこんな女性のようだが、それは違う。
「それじゃいこうかっ! うっはーっ! マキノとお出かけなんて久々だよねーっ!」
「いや、待て。せめて着替えてからいくぞ」
「うええ? マキノのえっちー。こんなところでわたしの公開生着替えを見たいだなんてマキノくんったらもう大胆なんだからっ! だけどもそう簡単に見せられるほど安いものでもないのですっ!」
「いや、お前の裸なんて正直見飽きてるんだが」
誰が毎日世話してやってると思ってるんだ、こいつは。
「うわーっうわーっ! ま、いいか。そんじゃ着替えよーっ!」
切り替えの早さに、いい加減付いていけず、言葉の代わりに肩を竦める。
……いや、少し楽しいなんて、思ってないし。
外行きの服に着替えたアリナは、何処から見ても日の打ち所のない美少女である。不幸なのは、その姿を見ることが出来る人物が、非常に限られてしまうということか。
「やはーっ。久々のお出かけですよっ」
外に出た所為か、それとも服を着替えた所為か、単に時間が経った所為か。アリナはちょっとだけ落ち着いた。良いことだ。夜中に外で騒がれるのは、本当に困る。
「久々ってお前、アルトと出かけてただろ。一週間前だか二週間前だか忘れたけど」
楽しげに隣を歩くアリナに、適当に言葉を返す。会話に意味は無い。深入りは危険だ。
「いやいやいやそうだけどそうだけどそうだけどー、社長さんとのお仕事とマキノとのお出かけではなんつうかテンションが違うわけですよ、こう、トキメキって言うか乙女センサーって言うかなんつうか?」
「そんな大層なもん、お前には付いてないだろ」
「うーん。相変わらず失礼千万な物言いはさすがマキノと言いますかいくらアリナちゃんでもちょっと傷ついちゃうなって言うかー。でもそういうところがマキノの魅力というかだからその辺どうしようもないよねー。あれ、わたしもしかしてM?」
「いや、お前はSだよ、間違いなく」
「じゃあマキノがM?」
「失礼なことを言うな」
というか、人をそんなもんで区分するな。人間なんて千差万別、十人十色なのだから、たったの二種類に分けられるもんでも無いだろう。
「だよねだよねだよねー、マキノのその口の悪さがSじゃないわけないもんねー。ううん?あれあれあれあれ? 困っちゃうなー。それじゃあわたしたちの関係に亀裂が入ってしまいそうな気がしないでもないといいますか」
「いや、亀裂の前に何も無いから」
「うううん? これはこれでいったいどうしようかというかなんというかー、うううん、うん。まあいいやっ。よく考えたらそんなものでわたしたちの仲が壊れるわけでもないですしっ」
「始めから存在しないからな」
「わっはーっ! 相変わらずの辛口意見いっただきましたーっ! なんかもうそういう他人を気にしない物言いがアリナちゃんとしては大好きっていうかストライクゾーンまっしぐら過ぎてバックスクリーンに一直線っていうかっ!」
「打ち返してんじゃねえか」
あと、お前の場合は寧ろピッチャーライナーだろう。相手を故障させる点で。
「んやんやんやっ! わたしだったらフルスイングでバットのほうをぶん投げるからっ!」
「性質悪っ」
……等と、本気で無意味な会話をしながら、夜の街を歩く。
「…………」
「うん? マキノ? マキノくんどうしましたかー?」
そうしてたどり着いたのは、何時かあの女と遭遇した車庫のある、狭い路地だった。
「ねえ、マキノ? 急に黙んないでよマキノー」
……さて、どうだろう。前に出会ったからまた会えるという保障は無いが、何しろ昨日の今日だ。いくら人通りが少ないとはいえ、大通りで反抗に及ぶようなことは無いだろう。
「マキノー、マキノマッキノマッキーノーッ?」
奴がこの辺をうろついているのは事実であり、そしてこの周辺でこの路地ほど人を襲いやすいところもない。何より犯人は現場に戻るとも言うし、ここは覗いてみるのが一番か。
「ねえ、マキノー? マキノちゃーん?」
「ちゃん付けすんなっ!」
「うぉっ!?」
というか、空気を呼んで少し黙れ。
「うわー、びびった。マキノちゃんがこうも感情を露にするなんて今までにありえないことですよマキノさんっ!」
「お前は誰に話してんだ……あとちゃん付けはやめろ、マジで」
「なんで?」
「なんでも」
名前に対するコンプレックスは、人に言って分かってもらえるもんでも無い。名が体を表さない苦悩を分かってくれるのは、せいぜいカオルぐらいなものだろう。
「とにかく……俺、ちょっと覗いてくるから、お前はここで待機」
「えー、どうしてー?」
「出会った時の為にな。ちょいと先に話しておきたい事があるんだよ。お前が一緒だと、先にそっちに食い付いちまうだろうから、だめ」
「むう……らじゃ」
一人で残されるのが嫌なのか、しぶしぶ頷くアリナ。その様子はお預けを喰らった猫のようで、良識のある人間なら保護欲を掻き立てられるような姿だが、俺は良識の無い人間らしく、特に何も思わなかったので、そのまま放置して足を進めた。
狭い路地へと足を踏み入れた。車が一台どうにか走れる程度の路地には、数の少ない街灯も更に姿を消し、民家の明かりも申し訳程度になる。何時かと同じ状況。同じ場所。お膳立ては十分だ。音の無い世界。こつこつと自分の靴音だけが響く路地に、雑音が混じる。コレまでの自分にすすり泣くような。これから逢う誰かをせせら笑うような。――ああ、何て分かりやすい。足元しか照らさない、意味があるのかも分からない街灯の下、悲劇のヒロインを気取るそいつは、まるでスポットライトでも浴びるかのように、そこに居た。
「……おい」
びくんと、身体を振るわせる。そんなところまで以前と一緒かと、いい加減うんざりしてくる。
「おーいって」
「……あ、あ、あな、あな、あなた」
ゆっくりと振り返る女。崩れた顔、瞳孔の開いた瞳が、俺を睨んだ。
「お久しぶり。こうして会うのは二度目だな」
「あなた、あな、あな、あなたどう、どう、どうして、どうしてどうしてどうして――」
俺の姿を確認すると、女は怯えたように後ずさる。どうやら、俺のことは覚えてくれているらしい。好都合だ。思い出させる手間が省けた。
「まあ、俺がこうしてあんたの前にやってきた理由、分かるよな?」
敢えて笑顔で、威圧するように語尾を吊り上げる。
「な、なに、わからない、わからないわからないわからない! なに、なに、なに、なんなのよ……! あな、あなた、あなた、あなたいったいいったいなんなの!なんでどうしてなんで!? なんでわたしのじゃ、じゃ、じゃまを、じゃまを、じゃまをするの!? わたし、わたし、わたしはなにもわるいことなんてしてない、してないのに!?」
「悪いことはしてないだって? ふざけた事言ってんじゃねぇぞ加害者」
この前は抑えていた嫌悪感を露にする。相手を考慮する必要も無い。目的は質問でも交渉でもなく、説教と制裁だ。そいつは正義の味方の役目であり、俺では役者が不足するが……ヒーローは今回お休みなので、俺が代理ということで。
――さて、それじゃあ容赦なく、こいつの罪を暴くとしよう。
「ち、ちがう! ちがうちがうちがう! わたしじゃないわるいのはわたしじゃない、これ、これ、これはわたしじゃないわたしはわたしじゃないからわたしはわるくないそう、そうでしょ? そうでしょねえそうでしょ!?」
「違わない。悪いのはお前だ。今のお前はお前でしかないし顔を奪っているのもお前自身だ。自分になりたいから顔を奪う? ふざけんな。他人の顔を付けようがお前がお前である限りお前でしかない。お前の中身は変わらない」
「ちがうちがうちがうちがうちがう! わたしはわたしじゃない!! わわ、わた、わたしはあたらしい、か、かおを、みつけてかわ、か、かわるの!! わ、たしはわたしじゃな、なく、なくなって、ほほほ、ほんとうのわたしになるの!!!」
「だーかーらー、それがふざけんなって言ってるんだよ俺は。いいか、どんだけ外側を変えようと、あんたの中身が変わるわけないだろ。他人のアイデンティティを奪おうが、あんたはあんたである限りあんた以外にはなれないんだよ。魂の形ってのは決まってるんだ。そいつはどんだけ形を歪めようが、全く違うものにはなれない。あんたの歪みはどう足掻いたって解消されないよ。それを含めてあんたの形なんだから。自分を他人に求めるな。いい加減認めないと、その劣等感は何時までも付いてまわるぞ」
別に特異な主張ってわけでもないだろう。人間、それまで積み上げてきた自分はどう足掻いたって解消できない。何てのは当たり前のことだ。今の自分に劣等感があるから新しい自分に変えようなんて、簡単に出来るのであれば世界中の人間がやっている。結局それは変えられない。劣等感をひた隠しにしても、本質はそうそう変わらない。それを含めて自分だと、納得するしかないのである。
「――ところがどっこい。最近じゃ見た目を簡単に弄れるからって、中身まで変えられると思っている奴が多すぎる。あんただってわかっていたんだろ?だから、崩れるまで弄っても、自分に満足が出来なかったんだろうが」
「――!!」
見開かれる瞳孔。女の本質を突く言葉は、そのまま今の女の行動を根こそぎ否定することになる。
「――わ、わた、わたし、わたし」
口に出す、もう、幾度聞いたかも分からないその言葉は、という、自ら否定し、見失い、そのくせ探し続けていたもの。
「わたし、わたし、わたし、は、わた、しは、わたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしわたしわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしは――わた――し?」
探し物をようやく見つけた筈のその顔は……何よりも、絶望に満ちていた。
「違……う……わたしじゃ、わたしじゃないわたしじゃない!! わたしは、わたしは、わたしが悪いの? ちがう、ちがうちがうちがう! わたしは悪くない! 悪くない! 悪くないっていってくれた!! わ、わた、わたしはこれでいいっていってくれた!!! わたしはこれでいい! わたしは、わたし……? ちが、ちがう! わたしじゃない……!!」
「……まあ、あの人に出会っちまったのは、ほんの少し同情に値するが」
本来なら、もう少し早く気付けるはずだった真実は、悪魔の甘言によって覆い隠された。自分を見失っているこの女にとって、『他者による是認』は支えとなったはずだ。だが、その悪魔も既に剥がれ掛けている。そもそも、認識できる『わたし』を、こいつは否定し続けてしたのだから。確かな形として肯定されてしまえば、それは要するに、自我の認識に他ならない。要するに、そろそろおしまいですよって事で。
「……んじゃまあ、説教タイムはおしまいだ。そんなわけで制裁タイムに入るわけだけど……覚えてる? 俺との交渉」
「…………?」
女は蹲ったまま、震える両手で頭を抱えながら俺を見つめた。
「その一。これ以上この街でことを起こすな。やるなら他の街でやれ。……まあ、これは守られるとは思ってなかったし、俺自身が正直どうでもいい。だから、その二。今後絶対に、うちの妹に近づくな。絶対にアイツに姿を見せるな。……問題はこっちだ」
「……なに、なに? なに、なに? なんなの?」
俺の言葉が理解できないように困惑した様子をみせる女。ああ、別に、理解してくれなくても構わない。理解してもらおうとも思わない。進んで関わりなんて持ちたくはない。
「別にさ、ここまで来ておいてなんだけど、俺はどうでも良かったんだよ。アンタがどれだけ他人の顔を剥ぎ取ろうと。自分から進んで悪党を倒そうなんて正義感も無いし。もちろんアンタ自身に興味も無いし、アンタにやられちまった人たちにだって特別な感情なんて浮かばない。どうでもいいんだ。アンタなんて。俺に被害が無ければ、俺は何処までだって無関心でいたよ。でもさ――」
そう。
「――あんた、うちの妹を傷付けたろ」
俺に、被害が無ければ。
「アレばっかりは、見過ごせないんだわ。……ああ、興味の無い他人がいくら犠牲になろうと、俺は知ったこっちゃ無いが――俺のパーソナルスペースを荒らしたことだけは、許さない」
「ひ……っ」
女の瞳に、初めて感情の光が宿る。俺に初めて向けられた感情は――恐怖の色をしていた。
「逃げんなよ。面倒だからさ。今からアンタにとってのとっておきを呼ぶから。未だに他人に成り代わりたいってんなら、今から来る奴の顔でも奪えばいい。あんたの方がよっぽど強いから、簡単に殺せると思うぜ」
そう言い捨てて、振り返る。路地の入り口のほうに目を向けると、既にアリナはそこに立っていた。本当に、気味が悪いくらいに鋭い。
「はろーはろー、ぐっどいっぶにーんぐ。ふむふん。その子が件の顔泥棒さんですか」
「ああ。後は好きにやってくれ。言いたいことは言った」
興味津々と女を覗き込むアリナと入れ替わるように、その場を退く。それまで虚ろさと恐怖に彩られていた女の瞳が、アリナを見るやいなや再び光が宿った。
「あ、あな、あなた……」
「お、はい。わたくし伺坂アリナと申しますが」
「ああ、あの……もう、もう少し、もう少し近くに、来てくれる……?」
「はいはいー」
危機感の無いアリナの声に、女は悟られない程度に重心を移動させる。蹲っていた姿勢から、今にでも飛びかかれるような体勢に。獲物を狙う獣のようだと、少し離れたところから見つめつつ思った。どうも、既に俺のことは忘れ去っているらしい。
「あ、ああ、あの、あの、あり、アリナ……さん……その、すこし、て、手を貸して、いただけないかしら……た、立てなくなってしまって……」
「ええ!? 大変ですねっ! どうぞっ!」
女の、遠めにも分かる三文芝居と、それにしっかりと乗るアリナ。つくづく空気の読める奴。女は掛かったと思っただろう。差し出された手を掴み、引き寄せ、押し倒し、あっという間にマウントを取る。
「は、はいっ?あれ、あれあれあれ!?ちょっとちょっとちょっとおねえさん!?これじゃあ逆にわたしが立ち上がれないんですがっ!」
「い、いいの、立ち上がらなくていいの。あなたは、あなたは、こ、このまま、このままで」
「は? いや、いやいやちょっ!? なに、なにそのナイフっ! わー切れ味が鋭そうですねーっ! って、ちょ、ちょっと、ほんとうに、本当に笑えないんですけどっ!!」
女に押さえられつつも、両手両足でもがきつつ脱出を試みるアリナ。だが悲しいかな、引きこもりのアリナには、女に抵抗するだけの筋力が無い。
「あ、あの……ちょ、ちょっと……っや、やめて……」
徐々に声に力が無くなり、明らかな恐怖が滲み始めるアリナの声に、女の嘲笑が聞こえる。
「だ、だいじょうぶ。わた、わたしが、あなたに、なってあげる……し、しんぱいいらない、あなた、すてきだから、わたし、わたしが、ふふ……」
「…………」
絶句するアリナ。女は笑顔でナイフを構える。アリナの顔は恐怖に歪む、女の顔は幸福に軋む。
「いや……あの……それじゃ……」
恐怖のあまり、泣き出すアリナ。嗤う女が構えるナイフは、既にアリナの首筋に刃を立て、そして――
「――それじゃあ、頂きます」
アリナは、その擬態を脱ぎ去った。
「は――?」
女の口から、間抜けな声が漏れたのも、一瞬。アリナの白すぎる両手が女の頭に絡みつき、その顔を抱き寄せる。
「あ、ああ? な、なに? わた、わた――!?」
そして、混乱する女の唇を、アリナの唇が塞いだ。
「――――!!?」
状況に対する女の驚愕は、やはりほんの一瞬。それから後は、驚愕を超える未知への恐怖。
――曰く、伺坂アリナは人食いで、奴が食うのは人の中身だ。それはつまり、先ほどから延々と述べた、目には見えない『魂』なんてものに他ならない。
「――っ! ――っ!」
幾度も痙攣する女の体と、微動だにしないアリナ。女の体からは、それまで培ってきた『自分』というものが吸い出され、アリナの中で消化されていく。要はアイデンティティの崩壊だ。自分という事も、自分という記憶も、何もかも吸い出され、最後には廃人になる。原理なんて知らない。ただ、アリナがしているのはそういうことだと、その事だけ、俺は知っている。
「――っ!」
「…………」
女の手からナイフが離れ、音を立てて床に落ちる。アリナの首から赤い雫が一筋垂れた。顔を高揚させながら、血を流しながらも相手の唇を貪るアリナ。耽美な光景を、特に何かを思うことも無く見続ける。
「…………」
……アリナが人を食う姿を見るのは、コレが二度目だ。一度目は……思い出したくも無い。
「――っ!!」
一際大きな痙攣の後、女の身体から力が抜け、アリナの上に倒れこんだ。
「ぷはっ」
口を離すアリナ。どうやら終わったらしい。
「……お疲れさん」
「うー。マキノ助けて、重い……」
近寄ると、食事を終えたアリナは、もう一度擬態を被りなおしている。
「はいはいっと」
アリナに圧し掛かる女の身体を退けた。この身体は生きているが、中身はとっくに死んでいる。状態としては深昏睡。脳死に近いが、脳に障害が出来たわけでもないから正確には違うのかもしれない。分かっているのは、二度と復活しないということだけだ。今度ばかりは、間違いなく。例え悪魔が囁いても。
けじめは付けた。懸本マキノはもう、この女と、一切合切関係が無い。
「……んじゃ、まあ帰るか」
その前に、今度はちゃんと警察を呼ぶことにしよう。ただまあ、事情聴取はやっぱり面倒なので、さっさと撤退することにするが。
10/10
「連続殺人事件の犯人、逮捕。と」
そんなこんなで次の休日。霜月は、テーブルの上に広げた新聞から俺に視線を向ける。
「ふうん、それじゃあ、ようやく一連の事件は幕を下ろしたわけだ。お手柄だったね、懸本くん。まあ、元々君のせいってのもあるんだけど」
「いや、俺は何も悪くないだろ……」
いつかと同じように霜月を喫茶店に呼び出し、再び事の顛末を伝えると、霜月は肩を竦めて呟いた。
「どうかな。前に出会った時点で、病院に連れて行くなり警察に通報するなりしておけば、少なくとも君の妹さんが襲われることは無かったと思うのだけど?」
「…………」
言葉に詰まる。そこを突かれると、俺は沈黙するしかないわけで。
「私が言ったとおり。だから言ったよね? 君はもう少し、周囲に関心を向けるべきだって。君が気にしなくても、全く関係の無いところからとばっちりを喰らう事だってあるんだよ。人は、一人で生きてるわけじゃないんだから」
「……一人で生きてるわけじゃない……ね」
それは、あの女にした俺の説教とは、間逆の観念の様でいて、別にそういうわけでもない。人は自分でしかない。コレは絶対だ。だが、自分の行動は、周囲の状況や他者の介入によって制限され、方向付けられる。例えば今回、霜月から得た情報と、妹の行動と、そして城崎さんの余計なお世話によって、俺がこの事件に関わることになったように。
「でもさ、そういうの含めて自分だろ。周囲の影響があろうと、結局その中心にあるのは自分だし、どう行動するかは自分自身だ。そこは、揺らいじゃいけないもんだと思う」
あの女は、そこから揺らいでいた。他人に依存なんてものじゃない。自分を捨てて他人と入れ替えようとしていたのだから。
「それが気に食わなかったのかい?」
「……別に、やっぱりどうでもいいことさ。俺にとってアレは、心からどうでもいい、必要の無い相手だからな」
それに、既に関係は断ったしと、吐き捨てるような言葉に、霜月は苦笑する。
「でもね、懸本くん」
「ん?」
「君の生き方を否定するつもりは無いけれど、誰もが君のように、割り切って生きられるわけじゃないんだよ」
「……そうだな。コレは俺の価値観だ。誰かに押し付けるつもりも無い。俺が気に入らなかったのは、単にリオに手を出したってその一点だけだ」
だから、社会の為でも他人の為でもない、自分の為。俺が動くのは、俺と、俺に関係するモノの為だけだ。そこに他者の意思の介入は無く、故に誰に憚られる事も無い。
「自分勝手だね、君は」
「そうさ、だから――」
――だから。他者を必要としない俺は、アリナの餌になり得ない。一人でも生きられるから、他人を求めることは無い。
ただ、それだけのことだ。
「懸本くん、家に帰ったら、妹さんに謝っておくと良い」
「あ? なんでよ」
問い返すと、霜月は呆れたように首を振るう。
「何でも。謝っておいて損はないよ。やれやれ、少しは理解したのかと思いきや、結局本質的には何も変わらないんだね。君は」
落胆したように息を吐いて、手元のコーヒーを啜る霜月。……むう、なんだかよく分からんが、一体何だというのだろう。
「別に。私が言いたいのは、それだけ」
そう言うと、霜月はコレで話は終わりと言わんばかりに視線を逸らした。微妙な沈黙が続く中、こちらに聞こえるか聞こえないかくらいの声で、霜月が呟く。
「……全く。君が妹さんを大切にしているように、妹さんも、それなりに君を必要としているなんて、どうすれば気付くんだろうね、君は」
「なんだって?」
「なんでもないよ。結局君が、他人に感心を向ける時が来るのかどうか。ってことだから。……ああ、でも、考えてみたら、他人に興味を持つって事は、伺坂さんの獲物になるってことか。なるほど……ふふ、ままならないね」
「……いや、怖いことを言うなよ」
これでも結構ビビッてるんだぞ。こちとら毎日猛獣の檻にいるようなものだ、下手に刺激したら食われてしまう。本当は昨日連れている時だって、最善の注意を払っていたというのに。
「まったく……リオにしろお前にしろ、そんなに俺に食われて欲しいのか」
「私はともかく、妹さんは君がそうなる日を心待ちにしてるだろうねぇ」
冗談交じりに呟くと、霜月は幾分真面目そうに怖い台詞を返してくる。……駄目だ、奴の思考は理解不能。どうでもいいといえばどうでもいいが、これ以上無視されるのは俺の心境に悪すぎる。
「……ま、君の心境はともかく、今回は許してくれるさ。何しろ自分の為に、君が動いてくれたんだから」
「そうかあ……?」
とはいえ、アイツの尻拭いは一度や二度じゃないわけで、こんなことで許してくれるなら、アイツは今頃お兄ちゃん大好きっ娘になっている筈である。うん、自分で言ってて気持ち悪くなってきた。
「あの娘は君のこと、十分許してると思うけどね……まあ、その辺は私が口に出すことじゃないか。後はご自由に。懸本くんの言葉を借りるなら、選択するのは君だから」
「そうだな……じゃあ……」
……まあ、帰ったらとりあえず、話をしてみることにするか。
♪
……さて、どうしたものか。結局昨日もろくに会話をしなかったし。そもそも何を話せば良いのやら。昨日の事件の結末は、コレだけニュースになっているのだから、とっくに知っているだろうし。
「んー……」
妹の部屋の前で立ち尽くす兄。傍から見るとどれだけ気持ち悪いのかは、つい先ほど廊下を横切っていったお袋の表情から見て取れる。
「さーて……第一声はどうすっか。……とりあえず謝るか?いや、そもそも何を謝れってんだ畜生」
妹の部屋の前で独り言を呟く兄の気持ち悪さは、先ほど廊下を横切っていった親父の視線から見て取れる……つうかなんなんだ両親は、俺を監視しているのか。
「あー……いや、いい。もういい。どうとでもなれ」
決意を決める。結局何一つ纏まっちゃいないが、何時までも突っ立ってるよりはよっぽどマシだ。
「よしっ、リ――」
「……さっきから何やってんの、バカお兄」
……何時の間にやら開いた扉の先で、呆れ顔のリオが、俺を見つめていた。
「いや、えっとだな……えっと、その……」
突然のことに混乱する。駄目だ。決意を決めたはずなのに、あっという間にぶっ飛んじまった。
「……何?」
「いや、なんだ……その、正直すまんかった」
「…………」
何故か、すごく軽蔑の目で見られる。ただ、その視線にも結構慣れてしまっている自分が少し悲しい。
「お兄さ、何に対して謝ってんの」
「いや……なんだろうな」
そう聞かれると、対応に困る。何しろ俺は、こいつがどうして怒っていたのか未だに分かっていないからだ。
「……呆れた。なのに謝るんだ」
「そう言われると返す言葉も無いんだが、なんとなく俺が悪い気はするというか……うん。その、悪い」
正直に頭を下げる。分かってはいないが、この気持ちに偽りは無い。
「……はあ」
リオは、俺の後頭部を暫く見つめていたが、呆れたような、何かを諦めたような、やけに重たいため息をひとつ、吐いた。
「リオ……?」
「……終わったんだよね、一応」
「ああ、一応じゃない。それは、間違いないから」
結局、俺の詰めの甘さがこいつに怪我をさせてしまったわけで。だから、今度こそは間違いない。一応でもなんでもなく、この件はコレでおしまいだ。
「お兄が、解決したんだよね」
「まあそうだな」
「……あたしの為、なんだよね」
「いや、それは違……っいえ、はい、はい。そうですその通りです」
「……なら、別に良い」
一瞬恐ろしい形相を見せたリオだが、どうにか納得してくれたらしく、そう呟いて、扉を閉める。
「あ……」
扉の前に一人、残される俺。
「えっと……ん……?」
……あれ、どうなんだろう。これ。結局許してもらえたのかどうか、微妙すぎて、判断に困る。
「……はあ。まあ、一応会話もしたし、謝ったし。良いとするか」
……何だか納得いかないが、無理やり納得するしかない。今の俺に出来ることは全てやったのだから。俺を許すか許さないかあいつが決めることで、俺が介入できるわけじゃない。
踵を返す。何時までも扉に向かってにらめっこをしていても意味が無い。今日は部屋に戻って、気分を一新するために寝ることにしよう。
「……お兄」
「うえ?」
1ラウンドKOしたボクサーの如く肩を落とし、妹の部屋の前から立ち去ろうとすると、不意に、やけにしおらしいリオの声が、俺を呼び止める。振り向くと、扉を微妙に開けて、リオが部屋の中から覗いている。
「何、どした」
リオは、顔だけ扉から覗かせたまま、いつも通りの、不満げで無愛想な表情で、
「……ありがと」
そう呟いて、直ぐに扉を閉めた。
「…………」
数秒、状況が理解できずに硬直し、状況を理解してから、更に困惑する。……いや、だってさ……。
「ありえないだろ……」
あの、リオが。俺に死ねだのなんだの言いまくる、反抗期真っ只中の、超生意気な妹が――
「――デレやがった」
9・9/10
「うはー! もう着いちゃったよちくしょうめーっ! もっとマキノとお話したかったなーっ!」
「冗談いうな」
夜の散歩の帰り道。顔を奪う通り魔は再起不能になったし、先ほど静かな夜の街にサイレンの音が響いていたので、コレでこの件はおしまいだろう。そうなると、何時までもこの人食いを起こしておくのはあまりにも危険すぎるので、俺の隣で喋り捲るアリナを適当にあしらいながら十数分。ようやくアパートにたどり着く。
「ねえねえねえねえマキノーっ! 今度はお部屋でもっともっともっとお話しようよーっ! どうせだったら止まっていっても平気だしさーっ! お? うん、むしろそうしちゃいなよわざわざ家に帰る必要もなくなるし明日も楽だしーっ!」
「嫌だよ。俺が帰らなかったら、お前何時までも覚醒状態じゃねえか。それに明日は休日なの。休みにまでお前の世話をするなんて、最高に最悪だ。ほら、良いから部屋に入れよ。何時までも外ではしゃいでるんじゃありません」
「ぶーっ!」
頬を膨らませるアリナの背中を押して、部屋に入れる。夜も更けたし、良い子はお休みの時間です。
「むー、折角マキノと楽しくおしゃべり朝までオールコースだと思ったりなんかしちゃったりしたのにそんな簡単にスルーされるとちょっと悲しいっていうかなんていうかーっ」
「はいはい。お休み」
「うわーっ! うわーっ! うわーっ! 今完全にスルーしましたねわたしの言葉一切合切全くもって聞いてなかったでしょこの鬼畜ーっ!」
「ああ、うん。いいから寝ろ。マジで寝ろ。さっさと寝ろ」
「ちぇーっ!」
あからさまに杜撰な態度を取ると、アリナは不満げではあるが、一応ベッドにダイブする。全く……こいつの扱いは、本当に疲れる。
「うーんっ。まあいっかっ! 明日ー、は休みなんだっけ? そんじゃあ次の仕事の時には会えるもんねーっ!」
「そうそう」
もっとも、その時のアリナは死んでいるわけで、意識なんて無いのだろうが。俺としては、そちらのほうが楽で良い。
「うーん、でもさーっ! あのさ、マッキノー? たまには用が無くても起こしてよねっ!わたしだってわたしだってマキノとお話したいんだからねーっ!?」
「はいはい。たまにはな」
もちろん嘘である。起こす気なんてさらさら無い。
「んーっ。じゃ、お休みーっ! また会おうねーっ」
「おう、お休み」
ベッドに眠るアリナに手を振って、部屋を出る。
困ったものである。どれだけ懐かれようと、それはただの擬態で、アイツの本質は無機質な人食いだ。行動も感情もすべて演技なのだから、何かを思う方が空しいだけである。
……願わくば、二度とアレが目覚めることの無いよう。ささやかな祈りと共に、俺は扉を閉めた。
……ささやか過ぎて、とてもじゃないが叶いそうに無いが。




