『ミミック』
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――君は他人の事なんて、心のそこからどうでもいいのだろう?
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目蓋を開く。カーテンの隙間から漏れる柔らかな陽光とは裏腹に、俺の気持ちは曇天の如く沈んでいる。それは、今日が休日の終わり、新たな週の始まりだからという、とても明確で共感を得やすい理由からで。
「……めんどくさ」
枕の隣で鳴り響く携帯のアラームを止めて、身返りを打つ。休み明けとはどうしてこうも気だるいのか。多分、休みの間中ごろごろしていたからだろう。なんて、どうでもいい事を思考しながら、もうちょい惰眠を貪ろうと布団を頭から被った。ああ、にしても、二度寝って言うのは、なんでこんなに気持ち良いんだろう……。
「…………」
丁度、意識が落ちかけたところを狙って、再び携帯が機械的なアラーム音を鳴らし始める。スヌーズ機能ってやつか。最近の文明の機器には、ありがたすぎて涙が出るわ。
「……っあー」
間抜けな声を出しつつ、身体を起こす。ついでに気だるさも抜けてくれると助かるのだが、人間の身体はそこまで便利じゃない。面倒くさいが、仕事を無断欠席するのはちょっとまずい。そういう所は厳しい職場だし。一日の休日の為にその後の懸本マキノとしての人生を棒に振るうのは、なんつうか馬鹿げてる。
「……決定。さっさと用意して向かうか。うん、洒落にならんし」
見栄えを気にするような仕事でもないが、外出するなら、それなりに見栄えは整えておいたほうがいいだろう。
「……っと」
少し思案した末に、携帯は置いておくことにした。持ち歩かなければ携帯とは呼べないが、こいつが鳴るときは、たいてい厄介事だ。ただでさえ面倒くさい仕事だというのに、これ以上面倒なことを抱え込みたくは無い。
「うわ、お兄」
階段を降りると、ちょうど学校に向かうリオと鉢合わせた。嫌そうな表情がちょっと腹立つ。うわってなんだ、うわって。
「つうかお前、学校に行くの早くね? 今から行っても、校門開いてるかどうかって時間だろ」
現在の時刻は朝の七時過ぎ。十四年程こいつの兄貴をやっているが、俺よりは真面目とはいえ、こんな時間に登校するほど優等生では無かったはずだ。
リオは靴を履きながら、片手で戸に立て掛けられた竹刀袋を指差す。
「今日から朝錬。今年から顧問が代わってさ。その先生が熱血のなんのって。目指すは全国だって。うちの中学、県総体も危ういのにね」
「はあん……。そいつは厄介なもんだな」
ため息を吐きながら愚痴るリオに、適当に相槌を打つ。こいつの練習量が増えたところで、俺には苦痛でもなんでもないし。それに全国大会とはいかなくとも、せめて地方大会くらいにまで出場してもらえれば、応援と称して観戦に行けるので、俺に利はあっても害はない。
「……お兄、あからさまに無関心な反応しないでよ。ムカつくから」
「んなことねえよ。靴履いたなら早くどけ。俺も仕事に向かわなきゃ行けないんだから」
「はいはい。じゃ、行ってきます。伺坂さんに宜しくね」
俺の相槌が気に入らなかったのか、微妙に嫌な捨て台詞を残して、リオは学校へと向かった。あんまり宜しくしたらザックリ殺されてしまうことが分かっていて言っているのだから、アイツは俺に死んで欲しいらしい。むう、どうしてこうも嫌われているのか俺は。実の兄なのに。
「……まあいいや」
考えても仕方の無いことだし、俺も急がないと遅刻する。走って向かうほど楽しい職場でもないのだが、心境どうこうは置いといても、やっぱりお金は大事です。
「んじゃまあ、さっさと、今日のお勤めに向かいますか」
♪
駅を中心とした市街地周辺はそれなりの賑わいを見せる割に、少し国道から外れると田園風景が広がる典型的な地方都市。その、都会と田舎の境目辺り、街外れに立つ古びたアパートの一室。そこが俺の職場である。
六畳一間の部屋にはベッドとちゃぶ台。箪笥に食器棚と、生活に必要最低限なモノだけが存在する。そしてベッドに、何をするでもなく、座ったままぼんやりと宙を見上げる女の子が、一人。
「うん。アリナちゃんは相変わらず死んでいますね。重畳重畳」
肩に掛けた鞄を下ろすと、俺に見向きもしない少女へと視線を移す。
無造作に肩甲骨あたりまで伸ばした茶髪。やや釣り目がちの、光の無い瞳。童顔と華奢な体格。伺坂アリナという名の少女は、どこか小動物じみた、保護欲を掻き立てられるルックスと雰囲気を兼ね備えている。だが、気を許してはいけない。何しろアレは人を食う。兎を連想させるそれは擬態で、獲物が無造作に近寄った途端、その中身を反転させる。それはどう考えても人に害を与える存在でしかないので、こいつがこうして死体を演じてくれているのであれば、俺としては喜ばしいことなのである。
で、俺の仕事ってのはこいつの世話役。何しろこの女、一人では何も出来ないのだ。猛獣の飼育係とさして変わらないこの仕事だが、実際のところそこまでの危険は無い。
何しろコレは、普段はこの通り死んでいて、獲物が近くに居るときだけ蘇生する。俺があの擬態に騙されることは有り得ないし、そもそも、どうやら俺はコレの対象にならないらしい。半ば強制的に決められた仕事とはいえ、どうやらあの男、他人を見る目はあったらしい。それとも、俺が選ばれるまでに数多の人間を餌食にしてきたとか。無くは無い話だが、俺に害があるわけでは無いので、やっぱりどうでもいいことだった。
「さて、朝食でも作るかね」
腕まくりをして、添え付けのキッチンへと向かう。幾ら死んでいるのと変わらない状態だとはいえ、栄養失調で本当に死なれたら困る。クビになるのは勘弁だし、アリナに栄養を与えるため。ついでに、朝食も食わずに家を出た俺の腹を満たすためにも、何か作ることにしよう。
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俺がこんな仕事をする羽目になった経緯を説明すると、これがどうにも、少し小難しい話である。半月ほど通っていた大学をとある理由で中退し、束の間の自由と、これからの生活について頭を悩ませつつ、最寄りの喫茶店なんぞに立ち寄った時のことだ。
「失礼。この席は空いているかな」
低く通る声で俺に話しかけてきたのは、長い金髪を揺らす黒いスーツ姿の外人さんだった。
「……良いけど。わざわざ相席しなくても、この店、客なんていないじゃないか」
俺がマドラーでコーヒーを混ぜながら答えると、金髪は優雅に微笑む。その微笑みは完璧といってもいい微笑で、およそ人の形をしたものであればそれを笑顔以外に取ることは無いだろうという笑みだった。
「しかし、私は君と相席したいのさ。一人に慣れていなくてね。私は一人では何も出来ない人間だから。……ああ、すいません。カプチーノをひとつ」
男は俺の了承を取る前に席に座り、流暢な日本語で注文までしやがった。何かを言ってやろうかと思ったが、不思議なことに断る気もわかない。よく分からないが、そういった強制力が男の声にはある。
初めて男を正面から見た。彫りの深い精悍な顔立ち。整えられた金髪の下から覗く瞳の色は黄金。アンバーならともかく、人間の虹彩の色に金色なんてあったかと思案して、この男の異常さは、其処ではないと思い直す。あまりにも整った容姿。誰もが認める微笑を携えて尚、男には形容しがたい不気味さが漂う。いや、整っているからこそか。人間に似せて精巧に作りすぎた人形は、寧ろ恐怖を煽る。通常、人は左右非対称の不完全な容姿を持つが、人形は左右対称、完全な容姿を持つが故、逆に不気味だということだ。それを連想させる程の容姿。まるで、完璧というものを形にしたかのような。
「……なんてな」
妄想を振り払うかのように一口コーヒーを啜るが、それでも違和感は拭えない。俺たち以外、誰も客の居ない店内が、丸ごと異世界に飛ばされたかのようだ。これほどの非現実。どうして俺は、こんな男と相対している?
「時に……」
金髪の男は、テーブルの上で両手を組むと、笑顔のまま口を開いた。
「見たところ君は学生のようだけれど、こんな時間に学校は無いのかい」
「別に……学生だったのはチョイ前までの話。色々あって大学はやめたんだ。今は仕事を探してるところ」
男の笑顔から、視線を逸らして答える。何処からどう見ても笑顔だというのに、その顔を正面から見つめるのは、かなりの勇気を必要とする。
「ほう。それはそれは」
ますます口元を歪める金髪。そして、何がそんなに気に入ったのか、値踏みするように俺を見据えてくる。とんでもない威圧感。蛇に睨まれた蛙とは、こんな気分なのだろうか。
「――なるほど。中々面白い在り方をしているね、君は。気に入った。少し時間を頂けるかい、私の話を聞いてもらいたいのだけど」
「……まあ、所詮プー太郎だし。時間ぐらい有り余ってるけど。なんだよ、初対面の俺に話って」
視線を逸らしたままで、出来る限りの軽口を吐くと、男はますます満足げに、一度頷いた。
「そんなに堅くならないでほしい。君にとってもそこまで悪い話じゃないはずだから。そうだね……私の話というのは、有り体に言えばバイトの募集だ」
「バイト?」
「ああ、悪い話じゃないだろう」
思わず顔を上げる俺に、微笑む男の視線が、真っ直ぐに突き刺さる。
「出来たら、もう少し詳しく話をしたいのだけど、どうだろう」
「……話くらいなら聞いてやっても良いけど。その前にさ」
俺は、男の視線と、奇妙な圧迫感にどうにか耐えながら、
「名前。教えろよ。素性も知らない相手の話に乗るほど、頭が悪いわけじゃない」
その一言だけ、どうにか返すことが出来た。
「……おや」
男は、自分の失態を嗤うように口元を歪めると、俺に向き直り。
「失礼。私の名はアルトリウス。長ったらしい名前だから、アルトと略称で呼んでも構わない。それで、話というのは――」
アルトリウスと名乗った男の話を簡単に要約するとこうなる。とあるアパートの一室に、自分一人では何も出来ない少女が居て、仕事はその少女の介護。シフトは基本的に休日を抜かした毎日なのだが、不定期に休暇が入り、その時にはあちらから連絡があるとか何とか。んで、その給料なのだが、これがまた破格で、これだけ稼げれば家族にも文句を言われることは無い。
「どうだろう、そんなに悪い話でも、無いと思うのだけれど」
「ん……」
眉を潜める。確かに条件は破格なのだが、その分だけ裏が見て取れる。
「その娘、何歳?」
「二十かそこら、だったかな。君と同年代か、少し年上くらいだと思うよ」
「……それは、問題があるだろ」
仕事の内容は介護。内容の深さにもよるが、この男の言を信じるなら、「何も出来ない」女の子だ。それこそありとあらゆる世話をすることになるだろう。そんな事を、年頃の男に任せるなんてどうかしている。
だが、アルトリウスは微笑みを絶やさず、更にとんでもないことを口にした。
「君がこの仕事に従事してくれるなら、アレをどう扱おうと構わない。もし君がその気になっても、アレに抵抗する術はないし、そもそも抵抗なんてしないだろう。その結果は……もちろん自分で責任を取ってもらうことになるけどね。介護という仕事は綺麗なことばかりではないし。職務時間の間だけだが、アレは暫定的に君のものだ」
「……本気で言ってんのか? それ」
「もちろん。私は何時でも本気だよ。もっとも……」
アルトリウスは髪を掻き揚げると、目を細めて俺を睨んだ。非凡な容姿にはめ込まれた黄金の眼球が、凡庸な俺の姿を映す。
「……君は随分、賢明な人の様に見える。モノの真贋を捉える眼を持っているようだ。君なら、どう図り間違えても、アレを抱こう等と思わないだろうさ」
「そりゃどうも……」
視線を逸らしながらコーヒーを啜った。何やら随分と過大評価をされている様だが、俺とて歳相応の健康な男子である。どれだけ達観しているように見えても、そう言われてそうですねと即答できるほど、出来た人間では居ない。もっとも、この言葉の本当の意味は、アリナと対面したときに初めて理解出来たわけだが。
「……オーケー。その娘の詳細な情報は追々ということで。他に質問があるんだけど、良い?」
「どうぞ」
アルトリウスは、ようやく届いたカプチーノを一口啜ると、俺に先を促した。その様子が、鳥肌の立つほどに完璧だったので、暫く見とれてしまっていた。男相手にも関わらず。だ。
「……いや。後、聞きたいのは二つだ。ひとつは、どうして正規の介護士に頼まないのかってこと。もうひとつは……このアパート、メゾン浪漫だよな?」
けったいな名称のそのアパートは、通称、異世界アパート。この街の多くも無い都市伝説の一つで、郊外に佇むそのアパートには、見るだけで人を殺す殺し屋が居るとか、半ば異世界と化した部屋に住む引きこもりが居るとか、笑顔を絶やさない悪魔が住まうとか、とにかく奇天烈な噂が絶えない。因みに情報ソースは妹。
もちろん、進行形で中二病の妹でもあるまいし、そんな噂をそのまま鵜呑みにするようなことはしないが、火の無い所に煙は立たない。異世界アパートの住民たちは、そんな噂が立てられても仕方が無いような変人達なのだろうと、俺は勝手に解釈している。
「と、そんなメゾン浪漫なわけだが。何、その娘。そのアパートの住民なわけ?」
この街で生まれ育った人間なら、まず近づくなと教えられるアパートが、よりにもよって職場なわけだ。
「なるほど、中々面白い解釈だ。その二つについては、纏めて答えさせてもらうとしよう」
何が楽しいのか、アルトリウスはカップを置くと、更に口元を歪める。
「まず、前者の質問だけれど、実際のところどうでもいいんだ。正規だろうと非正規だろうと。大切なのは、あの娘の面倒を見る素質があるか、ということでね。そしてその資質とは、正規、非正規とは、まあ、関係が無いのだよ。その理由とは……」
要するに、あのアパートの住民ってことか。
「その通り。他の住民宜しく、彼女もまた『特殊』でね」
なるほど。大体合点が行った。
「そうなると、俺がその素質を有しているってのか?」
「そういうことさ」
俺の問いに笑顔で答えるアルトリウス。どうも、その素質とやらが何かは教えてくれないらしい。
「私の話は以上だよ。さて、どうだろう。中々面白い話だと思うけれど」
「…………」
面白い……か。確かに興味深い話ではある。何しろこの街の都市伝説に足を踏み入れることが出来るかもしれないのだ。もしかしたら、妹に良い土産話が出来るかもしれない。……しかし、そうは言っても、だ。この話自体が胡散臭すぎるし、何よりアルトリウス。……こいつは、危険だ。真っ当に生きたいなら、絶対に関わってはいけない類。こうして会話をしているだけでも、身体中の細胞が危険を訴えている。今更間に合うかは微妙だが、これ以上深く関わりを持つのは、出来ることなら避けたい……が。
「君は、受けてくれるよ」
「っ……」
アルトリウスの言葉が、俺の思考を断絶するどころか、精神に侵食する。心臓を鷲づかみにされているようだ。何もかも手のひらで踊らされているかのような感覚に、吐き気さえ覚える。
「まあ、詳しいことが聞きたいなら、この名刺の番号に連絡してくれるといい」
アルトリウスは胸ポケットから名刺を取り出し、机の上に置くと、優雅に席を立った。どうやら、これで本当に話は終わりらしい。
「ここは私の奢りにさせてもらおう。いい返事を期待しているよ」
最後まで微笑を絶やさず、完璧を形にした黄金は踵を返した。
「……ちょっとまて」
それを、どうにか呼び止める。
「なにか」
振り向くアルトリウス。黄金の瞳が、再び俺を映し、その威圧感に呼び止めたことを後悔する。……それでも、聞いておきたいこと、聞いておかなきゃいけないことが、ひとつ、あった。
「なあ、どうして俺なんだ」
素質どうこうは置いといて、どうして俺じゃなきゃいけないのか。俺じゃないといけないのか? それを知りたい。それが聞きたい。
「誰でも良かった、と言ったら?」
「そんなことはありえない。そうじゃなきゃ、アンタと俺に接点なんてない。人間は、関係無いものと関わるなんてこと、ありえないんだから」
「……ほう」
アルトリウスが目を細める。初めてこの男の、微笑み以外の顔を見た気がした。
「なるほど。やはり君は面白い。君なら、どう間違えても、アレに食われるようなことは無いだろう」
「食わ……何だって?」
「こっちの話だ」
だが、それもほんの一瞬で、アルトリウスは再び微笑むと、俺に視線を向ける。
「君は正しい。圧倒的に正しい。ふふ……私の目も、衰えていなかったということだ」
「ちょっとまて、何が言いたいんだ、アンタ――」
「なに。君の性質についてだよ。実に面白い。要するに、」
黄金の瞳を細めて、完全無欠は、嘲笑する。
「君は――」
/
「…………」
誰も居ない喫茶店に一人、すっかり冷えたコーヒーを啜る。現実感の欠如した、白昼夢の如き遭遇。出来ることなら夢であったと信じたい記憶は、しかし俺の掌に乗る、一枚の名刺によって、現実だと思い知らされる。
名刺の名前の欄には『Arthur=Schwanheim』と記されていた。
「アーサー……いや、ドイツ読みっぽいから、アルトゥールか……?」
いずれにせよ、あの男が名乗った名前とは違う。どちらが偽名なのか、それとも両方とも偽名なのかは定かでないが、確実に言えるのは、信用はできないということだ。
「……どうすっかねえ」
まったく。どうして俺が、こんな厄介ごとに巻き込まれなければいけないのか。手の中で白い名刺を弄びながら、ため息をひとつ、吐いた。
――回想終了。初めから関わってはいけない、関わるべきではない事は分かっていたのだが、色々あって、関わるどころか後に引けない程度に足を踏み入れてしまった。今の俺には、せいぜい自分の生活のために、こうして職務を守るほかにすることが無いのである。
朝食の後片付けをしてから床に寝転がる。後は昼まですることが無い。普段はこの通り暇を持て余すような仕事だし、何より、何だかんだで給料は良いので、文句なんてつけようも無いのだが。
「でも、やっぱりなあ……」
寝転がったままベッドの上を見上げる。この角度では見えないが、少女は今もこの上で、ぼんやりと宙を見つめているのだろう。
……何のかんの言っても、コイツは人にとって害悪だ。本当ならば速やかに警察に引き渡すか、精神病院にでも送ったほうが言いのだろう。しかし、それを知った上で、自分の利益の為に匿っている俺も、やはり同罪なのだろうか。
1/10
「今日のお勤めご苦労さんでした」
部屋中の明かりを消したのを確認してから、扉を閉める。時刻は夜の九時を回ったところ。結局、昼飯を作り夕飯を作り、身包みを剥いで風呂にぶっこんで……と、今日も代わり映えの無い日常を送った。それが一番だ。ここでおきる非日常なんて正直考えたくも無い。
「ん、お帰りですか? マキノくん」
鍵を掛け終え、さて帰るかと踵を返した所で、今帰宅したらしい城崎さんと鉢合わせた。城崎さんはここから電車で一時間ほどの所にある専門学校生で、伺坂アリナの住まう八号室の隣、七号室の住民である。決して高くも無ければ低くも無い身長に、当たり障りの無い笑顔を浮かべ、人ごみに紛れてしまえばすぐに見失ってしまいそうな印象。だが侮る無かれ。この人もまたこのアパートの住民であり、妹が言っていた、『七号室の悪魔』その人だ。曰く、悩める人を救済する。とかなんとか。
「何時もお勤めご苦労様です。介護のお仕事なんて大変ですね」
「別に……。自分で決めた仕事だし。慣れればそう大変でもないっすよ」
苦笑を浮かべる城崎さんに、肩を竦めて答える。実際、『介護』ということに限れば、アリナは扱いやすいほうだろう。基本的になすがままだし。
「そうですか。でも、普通に尊敬してしまいます。僕なんて、バイトもしないで日々凡庸に過ごしているだけですしね」
君より年上なんですけどね。と、城崎さんは毒にもならない笑顔を浮かべる。悪魔なんて呼ばれている人に尊敬されても嬉しくないので、俺は無言を貫いた。
「そういえば、僕は未だここの……えっと、アリナちゃん。でしたっけ? に会ったことが在りませんね」
「……なに、会いたいの? さすがに今からは無理だけど、平日なら大抵俺が居るから、会わせることくらいなら出来ると思うよ。……結果は自己責任でお願いするけど。アンタなら多分食われないだろうし」
何時かのアルトリウスの言葉を真似しながら問いかけると、城崎さんは冗談と受け取ったのか、呆れたように苦笑した。
「何やら物騒な言い方ですね。残念ながら、平日は大抵、学校に行かなきゃならないですから。どうやらお顔を拝見することは出来そうにないです。いえ、それならそれで構わないんだけど、カオル君が偶然見かけたらしいので。ふと思い立っただけですから」
「アイツが……見た? アリナを?」
カオル君というのはこのアパートの四号室の住民。俺と同年代か少し下くらいの、何時も不機嫌そうな長身の少年である。今時珍しいほどに実直そうな少年ではあるが、そこはそれ、やはりこのアパートの住民であり……いや、それはともかく。
「はい。茶髪で色白の、とても可愛らしい女の子だったと言っていました。それで、出来たらと思ったのですが。いえ、ただの興味本位です」
「相変わらず俗物だな……じゃなくて、それって本当にアリナだったんすか? 見間違いとかじゃ?」
俺が知る限り、アイツを外に出したことはない。そうなると俺が居ないとき、アイツが勝手に外に出ていたということになるが……だとしたら大問題だ。封印されていた怪物が解き放たれたとか、そういう類の。下手したら俺の首が飛ぶことになる。物理的に。
「さあ……何しろ僕も聞いた話ですし。何でも、外人さんと一緒に八号室から出てくるのを見たとか。もしかしてアリナちゃんって、その外人さんのほう?」
「いや。アリナはカオルの言うとおり、茶髪の美少女だけど……あー、なるほど。合点が行った」
要するに、俺の知らない『お勤め』だったわけだ。そういえば最近、少し長い休暇があったっけか。なるほど。だとすれば、そういうこともあるだろう。
「……しかしカオルの奴、アリナだけに飽き足らずアルトの姿まで目撃するとは。相変わらず運が良いというか間が悪いというか」
自覚も無しに物事の確信に踏み込んでしまう体質は相変わらずらしい。こういう奴は早死にするもんだが、その割に平凡に生きているという異常こそ、カオル少年の性質である。
「あの?」
「ああいい。こっちの話。アンタには今後も一切関係ないから、気にしないでくださいな」
この人は日常の中でこそ真価を発揮するタイプなので、恐らくは永遠に、アルトリウスなんて非日常と遭遇することは無いだろう。深海に住まう生き物が、空を翔るモノに出会うことは無い。その必要も無い。
「じゃ。俺はそろそろ帰るよ。アンタが本当にアリナに会いたいなら、明日行きにでも声を掛けてくれ。あまり推奨はしないけどさ」
「お引止めして申し訳ありません。それと、遠慮しておきましょう。学校に遅刻してはいけませんしね」
肩を竦めて踵を返す城崎さんに、賢明だよとだけ答えて、俺も踵を返した。
♪
「あ、お兄お帰り。お風呂入るの? さっきお湯抜いたところなんだけど」
「じゃあ何故聞いた……いや、入らないけどさ。アパートで入ってきたし」
家に帰ると、丁度風呂上りらしいリオが、タオルで頭を拭きながら、ジト目で俺を睨んできた。
「……なんだよ」
「変態」
「失礼なことを言うな」
アリナを風呂に入れるとき、結局俺も濡れてしまうのだ。それなら、一緒に入ってしまったほうが効率的だと思うのだが、どうだろう。何にせよ、どう間違っても俺があいつに反応することは無いし。
「お兄なんて、伺坂さんに殺されてしまえばいい」
「お前が言うとマジでそうなりそうだから止めろ」
顔を顰めるリオ。折角ノッてやったのに、結局こいつは俺がどう反応しようと気に食わないらしい。俺がこいつの機嫌を取るには、死ぬくらいしか残されてなさそうだ。もちろん妹の為に死んでやるほど、死にたがりでもシスコンでも無いので、俺は肩を竦めてやるに止める。
「……ふん」
リオは鼻を鳴らすと、自分の部屋へと戻っていく。その背を見送りながら、アレでも昔は可愛かったんだが……とか、時の無常を嘆こうとして、よく思い返せば昔からあんな妹だったことを思い出した。全く、「お兄ちゃんだーい好き」とか言ってくれる妹はどっかに居ないものか。
……いやまあ、それはそれで、どうかと思うけど。
2/10
さて。ここらで、魂というもの。あるいは心というものを定義してみよう。
俺は別に霊魂だの前世だの、スピリチュアルなことを言うつもりは無い。ここでの定義はあくまで、その人物の性格や性質といったもののことである。
この定義は案外で難しい。そもそも、概念でしか語れないものを定義付けすること自体、徒労というか、時間の無駄な気はするが、何、どうせ暇な身分だ。たまには思考に没頭するのも良いだろう。脳も人間の機構の一つだ。使わなければ鈍ってしまう。
ひとまず、わかりやすく例えを交えながら区分するのが良いだろう。人間の機能をPCで例えるなら、肉体は外装。眼球等の五感はスキャナやマイクといった外部出力である。そして、脳はHDと言ったところだろう。ではこの場合の魂とは、要するにインストールされているOSのことだろう。WindowsでもMacでも構わないが、そういう類。
眼で見ることは出来ない。しても、そこに形を見ることは叶わない。空気のように形の無いもの。
でもちょっと待って欲しい。確かに魂とやらを見ることは出来ない。まあ、中には見ることが出来るとか言っちゃう人も居るのかもしれないが、ここではあくまで一般論として、魂というものは、見ることが出来ないものである。だが、形が無いわけではない。空気のようにと比喩したが、空気だって形はある。酸素には酸素の。窒素には窒素の形がある。ただ見えないだけで、O2がNに変容することは無い。
魂にも、形はある。パソコンのOSが、0と1によって綴られた規則性を持つ存在であるように。魂もまた、脳神経の繋がりとそれを流れる電流によって、複雑ではあるが確かな規則性を持っている。そして、WindowsとMacが違うものであるように、やはり人の脳髄に組み込まれたそれも、人によって違う形を持っている。
その形は、歪んだりへこんだりすることはあれ、全く違うものに変わることは無い。どれだけ歪もうとも、あるいはどれだけ正そうとも。
その人の本質は、やはり変わることは無い。……のだと思う。
……さて。それなら。
このアパートの住民は、いったいどんな歪な魂を内蔵しているのだろう。
或いは俺を、こんな世界に引きずり込んだ、決して汚れることのない黄金は。
或いは何時か遭遇した、血に塗れ尚、世界を肯定する白銀は。
或いは――いや。
――そして、ベッドの上に佇む少女は、果たしてどんな、魂の形をしているのだろう……?
♪
「懸本君。こんなところで奇遇だね」
折角の休日。何の益にもならない思考を展開しながら町をうろついていたら、ちょっとばかし懐かしい声に呼び止められる。
「ん?……ああ、霜月か。……どうしたお前。髪、切ったのか」
振り返ると、黒髪を肩口で切りそろえた霜月ユキナが立っていた。俺の半月ばかりの大学生活で知り合った女性で、その頃には腰ほどにまで伸ばした長髪だったのだが、どういう心境の変化だろう。
「ん……あ、これ? ふふっ。君に振られたからね。今時、こんなことをする女性も稀だとは思うけど、まあ、ひとつのけじめみたいなものかな」
不敵な笑いと共に髪を掻き揚げる霜月に、俺は顔を顰める。振られたも何も、俺はこいつに告白されたこともないし、そんな素振りを見せられたことも一切無い。つうかなんだそりゃ。俺の所為みたいで、何もしていないのに心が痛む。……まあ、正直どうでもいいが。
「ふふ……冗談だよ。これはただの心機一転。あんなことがあったしね。ちょうど良い機会だから、私も何か変えてみようと思っただけ」
「……あんなこと? なにかあったっけか」
なにしろ最近、色々と非日常な事件が有りすぎて、どれがどれだか分からなくなっている俺に、霜月はやれやれといった感じに苦笑して、肩を竦めた。
「うん、君に取ってはその程度のことだったのかもしれないね。じゃあ、私からは何も言わない。……でもまあ、君に興味があったのは本当だよ。だからあの後、君が退学したと聞いて、私はちょっとショックだったもの。せめて連絡くらい、してくれても良かったんじゃない?」
「あー……あのことね」
霜月と俺が出会ったのは大学のサークルで、その時の出来事が大学を辞める間接的な原因となった。端的に説明してしまうと、サークル内のごたごたを俺が引き受けてざっくり解決した。といった感じで、完全に忘れていたわけではないが、その結末があまりにも壊滅的だったので、出来ることなら思い出したくない記憶でもある。それに、俺の人生としては、大学を辞めた後のほうが更に厄介なことになってきてるので、忘れがちになっても仕方が無いだろう。
「あんなことが無ければ、俺も未だキャンパスライフを楽しんでいたのにな……」
「ふふ……そうかもね」
でも……と、霜月は言葉を区切る。
「でも君は、何も無くとも、何時かサークルを辞めていたんじゃないかと、最近は思う。大学まで辞めたのは、さすがにやり過ぎだと思ったけどね」
「むう……」
霜月の言うことは、確かに一理ある。だがあの状況では、俺は大学から逃げ出すしか、方法が無かったわけで。そして、あんなことさえ無ければ、いつか辞めるとしても、出来る限り続けたかったとも思う。
「ふうん……そっか。まあ私も、もう少し懸本くんと一緒に居たかったかな」
霜月の言葉に、俺は両手を軽く上げた。
「自覚無いのかもしれんが、男の前で、あんまりそういう台詞を軽々と吐くもんじゃないぞ。お前、顔は可愛いんだから。誤解する輩が出てくるかもしれないだろ」
「大丈夫だよ。君以外には言わないから」
「だから、そういう台詞をだな……」
「それと、自覚はあるからね」
「…………」
言葉に詰まる俺を見て、霜月は笑う。
「ふふ……じゃあまた。あ、どこかに行く前に、せめてメールアドレスくらいは教えてくれない?こうして偶然出会えるのを待つのも中々詩的だと思うけど、確立は低いからね」
「狭い街だから、無くは無いと思うけど……まあ、そうだな」
別に霜月とまた会いたいわけではないが、職場的に、って言葉がどうも好きになれない俺は、素直に頷いた。
「でも俺、今は携帯を持ってないんだ。お前のアドレス、何かにメモしてくれないか?」
「仕方無いね」
霜月は鞄からメモ帳を取り出し、適当にめくったページにアドレスを書くと、やぶって俺に渡す。
「はい」
「ありがと。家帰ったらメールするな」
「ああ。これからは、出来たら持ち歩いてくれると助かるけど」
霜月の言葉に、肩を竦めて答える。仕方が無い。これまで、鳴るときには迷惑メールか憂鬱なニュースしか運んでこない携帯だったが、これからはもう少しマシな連絡が来ることを祈って、名前の通り携帯してやることにしよう。
「それじゃあ。暇があったら、また会うのも良いかもね」
「はいよ。お前も元気に」
霜月と分かれる。一ヶ月ぶりに出会った旧友は、髪型以外は大した変わりも無く、俺としては懐かしい気持ちと、同時に思い出したくない記憶でなんとも複雑な心境だった。
「……帰るか」
もともと意味の無い放浪だ。その気が失せてしまった今、さっさと帰って、霜月にメールを送ってやるほうが有意義だろう。
次回投稿は11月19日20時予定




