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the 2nd flight 「古強者の独白 そして……」



 ――――おれが、飛行機を初めて見たのは、何時の頃だったかな?……周防光義が、そう自らに問い掛け始めて、すでに三ヶ月程が過ぎていた。




 その答えは自ずから出てくる……おれが、七歳になったばかりの頃だ。


 両手に他人の家から盗んできた柿の実を抱えて、家主の怒声を背に田舎の小道を駆け抜けていたとき、雲を縫って空に聞こえてきた爆音に、あの頃のおれは思わず立ち止まり、頭を上げたのだ。


 その先に見えた、翼に日の丸を描いた銀色の複葉機……高らかなエンジン音が「お前の悪戯を見届けた」と言わんばかりに轟き、そいつは田舎を囲むように聳え連なる山々を、軽々と駆け抜けていったのだった。


 それが、おれが自分の将来に空を意識した瞬間だった。


 後から追い付いてきた家主のオヤジと、家に帰った後で親父に交互に喰らった拳骨の痛さとともに、おれは空に生きたいという望みを噛み締めたものだ。


 そのためには、何をすべきか……それが以降のおれの生きる意味となった。当然勉強はしたし、体を鍛えるために一通り武道もやった。そうでなくとも、地方のしがない農家の五男坊に生まれたおれには、何がしか努力をして手に職を付けるか、頭に学を付けるかする必要があった。


 ――――それから七年後、工業学校に籍を置いていたおれは無断で家の判子を持ち出し、海軍飛行予科練習生―――通称「予科練」――――に志願した。そうでもしなければならない程、親父はおれの志望を許してはくれなかったのだ。当然、事が露見して親父は怒ったが、姉や兄の必死の制止でどうにか押し留まった。


 田舎から一つ山を越えた先にある町役場で、おれは一次試験を受けた。


 おれだけではなく、この地域一帯から集まってきた志願者達で、唯でさえ狭苦しく、みすぼらしい役場の中は一層狭苦しくなった。単に海軍航空兵だけではなく、その他一般の兵科の採用試験を受ける同年代の少年たちでその場は埋っていたのだ。しかも、驚くべきことにはその日の内に一次試験の合否は決まってしまう……!


 午前の筆記試験に、午後の身体検査……この予定で組まれた一次試験に、おれは、どうにか合格できた。どうにか……というのは語弊があるが、何しろ試験の予定が進む度に、前の時間に行われた科目で及第点に達しなかった者は、その場から容赦なく退場を命じられるのだ。


 退場を命じられ、すごすごと会場から出て行く受験者たちの後姿が、おれをいやが上にも緊張させたのだった。少年航空兵の志願者はおれを含め五人いたが、午後の身体検査を受ける段になった時には、志願者はおれ一人になっていた。


 一次試験の合格通知が郵送されてきた五月の半ば、おれは学校に退学届けを出した。五月の末に兄に付き添われて汽車に乗り、向かった先は横須賀海軍航空隊……当然そこが海軍航空教育の総本山であることなど思いも拠らないおれは、唯その敷地のでかさ、引っ切り無しに空の上を飛び回る練習機の爆音に、純粋に驚嘆した記憶がある。


 当時の定員二〇〇名に対し、「海鷲」たるを目指し日本中から集った青少年数万人が競って入隊試験に挑み、採用されたものは定数割れの一八〇数名……当時少数精鋭を貫いていた海軍航空兵の採用基準はとてつもなく厳しく、たっぷり一週間をかけて行われた厳重な適性検査の結果、多くの志願者が僅かに不備を露にしただけで、容赦なく即刻帰郷を命ぜられた……おれはといえばやはり、「どうにか」その予科練習生の末席に身を置くことを許された。


 大陸で戦争が始まったのは、予科練に入隊して二年目が過ぎようかという頃だ。続々と耳に入って来る先輩達の活躍……日本軍の快進撃……刻々と変化する国際情勢……他の同期生は兎も角、おれには、そんなものをゆっくりと吟味する暇など作れなかった。起きてから寝るまで分単位でぎっしりと組み込まれた課業と体力練成……教官や上級生の容赦ない叱責とシゴキ……ここは単なる飛行機乗りの養成所ではなく、軍隊の一部なのだ。その揺らぐことの無い現実におれがやっと気付いたのは、毎晩の巡検時間のとき、お決まりのようにケツにバッターを受けることの不条理さに気付いた頃のことだった。


 これで本当に飛行機乗りになれるのか?……果たしてなれるとして、どのような未来がおれを待っているのだろうか?……あの頃のおれは、本気で心配した。


 予科練に入ったからといって、そのまますんなりと飛行機を操縦できるわけではなかった。三年間に及ぶ予科練課程の中でも落第があるし、その最後の段階でも、適性に応じて操縦と偵察に専攻を分けられる。操縦に進むのは全体の半分ぐらいだ。


 それを無事に通過して飛行練習生となったときの喜びを、おれは今でも覚えている。だが……心から喜んだのは、このときだけで、後には厳しい飛行訓練がおれを待ち構えていた。専攻は艦爆。いかにも戦地帰りという感じの、いかつい顔をした教員に、後席から馬鹿だの糞だのと罵られ、さらには引き抜いた操縦桿で後ろからボコボコ殴られる……カッコイイ飛行機乗りの外見や外聞とは裏腹な、無茶苦茶な日々の繰り返しだった。


 ……が、乗り込む練習機も、訓練を重ねる内に上等になっていき、気付いた頃には俺は単独で富士の裾野を飛んでいた……「赤トンボ」こと九三式中間練習機の操縦席から臨む富士の雄大で美しいこと!……むき出しの操縦席に吹き込む風を、胸や頬に感じながら、おれは歌を謡ったものだ。


 海軍という組織の中で長い間抑圧され、シゴキ上げられてきたことで溜まっていた鬱憤が、一人で空に舞い上がった瞬間、自然に歌をがなりたてるという形で噴出したのかもしれない……翌年、おれは念願かなって戦闘機操縦専修者となり、延長教育を受けるべく、九州は大分海軍航空隊に旅立った。


 九五式艦上戦闘機。略して九五艦戦。それが、おれが初めて乗った実戦機であり、戦闘機だった。


 全金属製の複葉に空冷エンジン装備、胴体の後ろ半分が羽布張りで、当然脚は引き込まないしフラップも付いていない……今思えば余りに古めかしい機体だったが、その旋回性能の良さは他を圧倒していた。「格闘戦に秀でざるもの戦闘機に非ず」という考えが幅を利かせていたこの頃、良好な旋回性能の確保は戦闘機の至上命題だったのだ。


 大陸の前線から帰ってきたばかりの古強者、または前線に行きそびれた古参の教員が、大分にやってきたおれらを、てぐすね引いて待ち構えていた。


 その後に続いた空戦訓練では、空の上で勝つためのあらゆることを、それこそ徹底的に叩き込まれたし、それ以外のことも学ぶことができた。例えば酒、博打、そして女……それらは戦闘機乗りのみならず、その頃の飛行機乗りの必修教養のようなものだった。


 短く、太く、そして言い訳せず……それが、この時代の若者の理想の生き様だった……そしておそらく、死ぬまで止めないであろう煙草の味も、このとき覚えた。


 おれにとって、前線へ行く機会は、思いの外早く廻ってきた。


 それはまた旧来の九五艦戦から、新型の九六式艦上戦闘機に機種転換する機会をおれに与えることとなったわけで、かねてから話に聞いていた九六艦戦の美しい機体と高性能は忽ちおれを魅了した。重量軽減はもとより、機体を繋ぐ鋲の形状に至るまで、徹底的なまでに空気抵抗を排除した全金属製の機体。剃刀のように繊細で、あらゆる劣位にあっても忽ち攻守を逆転できる切れ味鋭い旋回性能……手っ取り早く機種転換訓練を終えると、おれは勇躍夢にまで見た大陸の基地へ一歩を踏み出した。「少年画報」に描かれるような一大空中戦。その中を緩急自在に飛び回っては敵機の姿を捜し求める自分自身の姿を、おれは自分勝手なまでに思い込んでいたものだ……だが、


 緒戦の度重なる空戦の結果、自軍の劣勢を悟った国民政府空軍は、我々の戦闘機の行動範囲の及ばない奥地へといち早く撤退し、遅れて来たおれらは「貴様ら今更何しに来たんだ」と言わんばかりの、先輩連中の訝るような視線に晒されながら、連日を地上軍の支援へと飛び上がり、「地上掃射」と称しては敵のいるのかどうかさえ判らない薄茶色の大地へと機銃をぶっ放したものだった……これでは、せっかく鍛えた空戦術も、九六艦戦の空戦性能も試しようがない。


 昭和一四年を、おれはそういう風にして過ごした。


 だが、昭和一五年になって、おれはその後の人生に少なからぬ影響を与えた出会いを体験した。


 ほぼ一年ぶりで帰ってきた内地でおれ達を待っていたものは、まだ試作段階にあった新鋭機で、その姿からしておれ達を驚かせた。


 九六艦戦よりも一回り大きく、競走馬の体躯のように流麗さを徹底させた機体。密閉式の風防。引き込み式の主脚。そして翼内には、複葉機程度なら一発で粉砕することが出来る二〇㎜機関銃……そしてそいつは何と言っても九六艦戦のそれを遥かに越えるアシの速さと、無給油で大陸全土を制圧できるほどのアシの長さを持っていた……そいつを一目見たとき、おれは思った……こいつとは、長い付き合いになる、と。


 航続距離の増大は、いままで作戦行動圏外だった大陸の奥地へと、さらに航空作戦を行い得ることになったことを意味した。おれたちは、奥地で戦力温存を図る敵空軍を捕捉撃滅するべく何度も出撃し、そして何度目かの出撃でその念願を果たした。


 雄大な、山がちの地形の上で繰り広げられる一大空戦の最中……光像式の照準器の中に、フラフラと入ってきた敵機の機影……それが、おれが戦闘機乗りとなって最初の獲物だった……一瞬の後、七.七㎜と二〇㎜機銃の一斉射で、そいつはあっけなく燃え上がり、火の玉のようにゆるい放物線を描きながら、地上へと一直線に墜ちていった。


 この日の出撃の後、この新鋭機は試作機扱いを脱し、正式名称を与えられた。正式名称、零式艦上戦闘機……略して零戦だ。


 以降、零戦隊はひっきりなしに大陸上空を飛び回っては空戦に勝利し、瞬く間に大陸の空の覇者となった。敵空軍にとって、自国の領土に安住の地はもはやなくなってしまったのだった。


 ……だが、大陸の空を我が物顔で飛んでいたところで、戦局は全く進展しなかった。おれ達が進撃すればするほど、敵は奥へ奥へと退き、攻めるおれたちを物理的にも、そして心理的にも消耗させたのだ。最強の戦闘機に乗り、敵の空軍をいくら蹴散らしたところで、おれ達は安寧と勝利感、その何れも得られることができないというおそるべき事実に、今更ながら気付かされていた。


 年が変わって昭和一六年となり、おれは内地に転勤を命ぜられた。命ぜられて向かった先は帝国海軍の誇る航空母艦……いわゆる「花の艦隊勤務」というやつだ。海軍航空兵は飛行機乗りであるのと同時に、船乗りであることをも求められる。空母勤務の経験なしに、海軍航空兵は他人にデカイ顔はできない。


 お決まりの離着艦訓練から始まる、厳しくも充実した艦隊勤務に馴れはじめた頃、艦隊は南九州に移動し、従来とは比較にならないほどの猛訓練を課せられることとなった。具体的にはこうだ……発艦した攻撃隊は鹿児島湾から市内に入り、低空で航過する……市で最もでかい岩田屋デパートの上空で旋回し、また低空で母艦まで戻ってくる……おれたちは戸惑った。一体何のために、おれたちは一見して何の意味も無いようなことをやらされているのだろうか?……士官連中の目を盗み、おれ達は艦内で語り合ったものだ。


 近い内、大きな作戦が始まる……それだけはおれ達搭乗員の間では一致していた。だが、相手が誰で、何処を攻撃するのかまでは判らなかった。


 その答えは一六年も暮れに近くなった頃に出た。


 一一月末のある日、九州、本土のあらゆる泊地から慌しく出港した各艦は、幾日かを経て、寒風吹き荒ぶ北方は択捉島の単冠湾へと集結した。おれたち搭乗員は旗艦「赤城」に集合を命ぜられ、艦隊司令直々に次のような一言を告げられたのだ。


 「我が機動部隊は、X日早朝、真珠湾に集結するアメリカ太平洋艦隊を攻撃する……!」


 おれたちは、驚愕した。


 大陸の戦争がまだ終結していない今、また太平洋で戦端をひらこうというのか?……しかも敵は、これまで相手にしてきた中国の軍隊よりもはるかに訓練され、規模も大きいアメリカの軍隊!……果たして日本には、そうした戦争を乗り切る国力は残されているのだろうか?


 ……それでも、おれ達はやれと言われればやる……何故なら、それが軍人の義務だからだ。その後のことは……お偉方の仕事だろ?


 泊地を出て、韜晦針路を繰り返すこと二週間余り……運命の日はついにやってきた。その日のまだ暗い内から叩き起こされ、事前の十分な打ち合わせを経て、おれたちは第一次攻撃隊の、それも制空隊として母艦の飛行甲板を蹴った……銀翼を連ねた三〇〇機の大編隊は雲を越え、一時間の飛行の末にハワイはオワフ島のカフク岬に達したとき、おれはもう後戻りが出来ないことを悟った。日本は、苛烈な太平洋戦に挑んでいったのだ。  


 ――――それからしばらくは、目覚しいまでの快進撃が続いた。


 おれたち機動部隊の搭乗員は、まさに攻勢を担った日本海軍の尖兵だった。その行くところに敵は無く、文字通り海賊の如く、おれたちは自在な場所から発進し、自在に敵地に攻撃をかけては、連中の心胆を寒からしめた。


 零戦は強く、その向かうところに敵はなかった。たとえ敵機がいたとしても、おれたちの強さに恐れを為して忽ち逃げ去ってしまう……開戦を告げられたときに抱いた漠然とした不安は、おれの胸からすっかり消え去っていた。翌年の半ば、おれは内地への転勤を命ぜられ、母艦を降りることとなった。


 内地の練習航空隊への転勤……それは、緒戦の勝利に酔い、若さに任せ、働き場としての戦場を希求してやまなかったあの頃のおれにとって、苦痛以外の何物でもなかった……だが、それが結果的にはおれの命を救ったのかもしれない。そのまま空母に居座り、おれを送り出した連中を待っていたものは、ミッドウェーの海水だったのだ!……緒戦の進撃を支えた主力空母四隻と、多数の熟練搭乗員を失った決定的な負け戦の全容を、辛くも生還した同期生から聞かされたのは、昭和一七年も秋のことだった。  


ほぼ時を同じくして、おれは前線への転任を命ぜられた……「地獄の最前線」こと、ラバウルへ。


 横須賀……小笠原……サイパン……トラック島……間に赤道をも入るこれらの海路を零戦で越え、はるばる辿り着いたラバウルの大地に、第一歩を踏み入れた時に感じた衝撃を、おれは今でも忘れることが出来ない……そこは、まさにこの世の果てだった。


 背景には、蒙蒙と不気味な煙を噴き上げる活火山……皮肉なことに、そいつの名は花吹山といった。その花吹山の麓、無造作に造営された砂塵吹き荒れる飛行場。その傍らに居並んでいるのは、使い込まれ、塗装の剥げた零戦。粗末なバラック造りの兵舎には、何処からとも無く現れたハエが無数に集り、現地の将兵を悩ませていた。


 ……が、そんな地獄のような場所にも、それらの悪条件を差し引いて十分にお釣りが来るほどの取り得があった。


 なにせ毎日のように空戦ができるのだ。邀撃に、船団護衛に、そして制空戦闘に、翌日から俺は飛びまわり、敵機も相当墜とした。ラバウルの戦闘機隊は強く、滅多な事では負けを喫することはなかった。おれは働き場を得た……と、おれは本当に喜んだものだ。


 やがて戦局は次第に激しくなり、数度の鍔迫り合いの末、斜陽はおれたちの側で傾き始めた。戦域はラバウル周辺からさらに東方のソロモン方面へと拡大し、零戦はその破格に長い航続距離を駆使して戦場を飛び回った。


 零戦隊の活動を妨げるものは敵機だけではなかった。気紛れな南方の空は、そこを征く者を、千変万化な雲と風とを以てその機位を失わせ、自らの体内へと飲み込んでいった。さらには南方特有の熱帯病の蔓延はたちまち搭乗員の体力を奪い、戦力を低下させていく……それでも、補充と予備に乏しいおれたちは全ての困難を圧して毎日のように、それも何度も飛び上がらねばならない……おれたちが大陸のそれとは違う、この戦争の異常さに気付いた時には、全てが遅かった。


 敵機も、いくら弾を撃ち込んでも墜ちなくなった。おれの腕が落ちたわけではなく、防弾を徹底するようになったのだ。墜ちにくくなった敵機の一方で一〇〇〇馬力級のエンジンで極限に近い性能を出すべく何もかも切り詰めた零戦に、防御のための装備を施す設計上の余裕など、なかった。


 緒戦であれほどの力を発揮した零戦の神通力は、もはや薄れ掛けていた。そこに畳み掛けるように、敵は零戦の格闘戦法に対抗できる、速度と武装を生かした一撃離脱の戦法を開発し、次々と新手の敵機を繰り出した。


 戦いに明け暮れた一日が終わり、食堂で飯を食う新顔の搭乗員……食堂の席が全て埋るのも彼らが着任した僅か一日だけ……一日、二日、三日……連日の空戦に、日を追うごとに席は欠けてゆき、気付いたときには古参のおれと僅かな搭乗員だけになっていた。


 そこに新たにラバウルに一歩を踏み出した補充の搭乗員が新たに席を占める……彼らもまた、日を追うごとに欠けていく。そういう光景を何度も繰り返すうち、補充の搭乗員も、短期間の速成教育で送り出され、空戦はおろか離着陸すら覚束ない若造の顔が目立つようになっていた。


 兵舎の外には、出撃して二度と戻らなかった搭乗員の私物が山積みにされ、これまでラバウルには滅多に来なかった敵機の来襲する頻度は、異様なまでに高まっていた。当然、邀撃に上がる度にさらに何人かが欠けていく。


 「骨にならなければ還れない」


 何時の間にかそのような言葉が搭乗員の間で囁かれ、おおっぴらに言われるようになるまでに、それ程時間を要しなかった。大陸で感じたのと同じような焦燥感はやがて死への諦観となり、おれをも死神の懐へと誘うのだった。


 近い内、おれもここで死ぬんだろうなァ……そう考えるようになって間も無いある日の空戦で、おれは身体に被弾の末九死に一生を得て生還し、重症を負って内地へ後送された。


 結果的におれは……生き残ったのだ。


 ――――出撃を待つ搭乗員の待機所。


 心中で独白を終え、遠方から聞こえてくるエンジン試運転の音を子守唄に、うつらうつらと眠りこける周防光義にとって、戦いの場はもはや本土の空にあった。






 傷の癒えた昭和一九年から僅かな間、光義は再び内地での教員任務に就いた。が、この男にとって、内地でフーコラと学生相手に九三式中間練習機《赤トンボ》なぞ飛ばしているような生活など、性に合うわけがなく、日を置かずして任務に膿み始めた頃、待望の転勤命令が出た。


 「第302海軍航空隊に転勤を命ず」


 302空って、何処?……真顔で、光義は聞いたものだ。ラバウル? それともフィリピン?……やがて302空の所在地が内地、それも教育部隊のある横須賀は追浜にあることを知ったとき、光義は内心憤慨したものだ。


 『オイオイ……また教育部隊かよっ!』


 ……が、どうも違うらしい。教育航空隊の基地司令は、光義に言ったものだ。


 「302空は近い将来、本土への空襲を想定し編成された防空戦闘機隊だ。そこの司令が、ぜひとも貴様を欲しいそうだ」


 司令は、続けた。


 「302空にはまだ制式採用も済んでいない新鋭戦闘機が回されるそうだ。どうだ? 新鋭機に乗れるんだ。ひとつやってみんか?」


 光義は、二つ返事で飛びついた。戦地において零戦の限界を見極めていた光義にとって、まだ試作段階にある新鋭戦闘機は興味があった。


 ……が、行ってみて愕然とした。


 「何だこれ……」


 たしかに、光義を待っていたのは新鋭機だった。が、それは光義の想像を超えて異様な姿をした機体だった。


 本来爆撃機用に開発された、離昇出力一八二〇馬力の高出力空冷エンジンを、陸攻とタメを張れるほどずんぐりとした、太い楕円形の胴体に詰め込んだお陰で、幅の広い主翼が胴体より小さく、不似合いなものに見えた。


 流線型に整形された機首の先、太いスピナーからは、四枚の薙刀のように長大なプロペラがピンと突き出ては、見る者を圧倒させた。コクピットは異様に広く、席を詰めれば三人乗りまではいけそうだ。


 ただ、機内各所に施された防弾鋼板と防弾ガラス、そして主翼からニュっと突き出た計四丁の二〇㎜機関銃が、零戦に無い頼もしさを感じさせた……というより、何から何まで零戦と違う。


 ……それが、周防光義と、海軍局地戦闘機「雷電」との出会いだった。




 操縦のりにくそう……という第一印象は、文字通り的中した。


 まず、太いエンジンのせいで、前が見えない。離陸滑走時に座席を最大限に上げても、なお視界が足りないのだ。前に障害物があれば当然危険だし、特に着陸のとき、少しでも勘を誤ったら一巻の終りだ。


 その離着陸のときもまた、気が抜けない。


 まず、離陸速度が一六七km/時に達するまでに主脚を上げてしまわないと、風圧で引き込みがスムーズに出来なくなる。かといって離着陸時に変に速度を落とそうものなら、揚力を失った機体はたちまち沈み、最悪の場合失速して地上に激突だ。


 「殺人機」


 「爆弾」


 と、若手の搭乗員は雷電のことをそう呼んで嫌っていることを、光義はあとで知った。実際、雷電の専修班では不慣れな搭乗員による離着陸時の事故が多発していたのだ。


 空に上がっても、苦労は続いた。


 まず目に付いたのが零戦と比べ、格段に劣る旋回性能。


 日本機にはお決まりのエンジンからの滑油漏れ(これは、当時はまだ生産が進んでいなかったので仕方が無いとも言えるのかもしれない。初期故障というやつだ)……が、雷電がそれらを補ってあまりある高性能を持っていることに光義が気付くのに、それ程時間は掛からなかった。


 高度六〇〇〇mで最高速度六〇〇㎞/時近くの最高速度!……この高度でこんな快速は、零戦では到底出せない。悪い悪いと言われた格闘戦性能もまた、宙返り等の縦の空戦と、零戦よりも素早い横転を多用すれば何と言うことも無い。


 そして旋回性能の悪さを補って余りある破格の上昇力……僅か一〇分を経ずして高度八〇〇〇に達し、翼端越しに丸みを帯びた水平線の彼方を目に入れた瞬間、光義は驚嘆し、決心した……気に入った! おれは最期まで、お前と一緒に戦い抜く!……と。




 ……それから、一年あまりが過ぎた。


 「発動――――っ!」


 の怒声が敵機の襲来を告げるサイレンとともにこだまする。


 既に眠りから覚め、飛行場のピストで物思いに耽っていた光義を、整備員が呼びに来た。


 「周防分隊士。よろしくお願いします!」


 「おーう……」


 光義は煙草盆に愛用の「チェリー」の燃え滓をねじ込むと、ゆっくりと立ち上がった。


 重厚な救命衣と縛帯を纏った茶色の飛行服は重々しく、いかめしい、アミダに被った飛行帽の裾は、無造作に上へ曲げられ、捲り上げられた飛行服の襟もまた、だらしなく上を向いていた。敵味方識別のため服の上腕部に縫付けられた日の丸が、夏先特有の刺す様な日差しの下、赤く燃えていた。


 無精ひげと、ボサボサの髪の毛のお陰で、他人にそうは見られることは滅多に無かったが、光義は俗に言う「男前」だった。背も高く、彫りの深い容貌は見る者が見れば大いに惹き付けられるほどの魅力をも持っているかもしれない。だが、惜しむらくは本人にその自覚が無い。


 海軍航空の大半を占める下士官搭乗員。分隊士は飛行隊の下士官搭乗員を統括する名誉と責任の伴う地位、いわば搭乗員の兄貴分だ……昔は、分隊士と呼ばれるまでになるには、最低でも八年は必要だった。


 だが、おれは戦闘機の操縦桿を握って六年。他の部隊には、おれより若くして分隊士と呼ばれる者もいると聞く……光義は、そんなことを考えながら脱兎の如く駆け出し、愛機雷電の操縦席に身を滑らせた。


 間髪入れずして始動し、目覚める高出力空冷エンジン!……眠りを妨げられた猛獣の唸り声のような轟音は、やがて強制冷却ファンの奏でる切り裂くような金属音に取って代わられ、光義と操縦席に取り付く機付長の耳を襲う。


 機付長が、酸素マスクを付けている光義の肩を勢い良く叩き、耳元で怒鳴った。


 「お願いしますよ! 分隊士!」


 口元を渋く曲げ、親指を立てて見せる。老練な機付長の顔が、一瞬にして和らいだ。


 機付長が、主翼から飛び降りた、機付長の身体に隠れていた操縦席付近に描かれていたのは、撃墜戦果を示す斜線を施された四機の四発機の黄色い機影――――雷電最大の獲物にして、最強の敵、B―29超重爆の機影――――だった。


 両手を頭の上に持ち上げ、開くようにした、主脚の車輪を拘束していたチョークが解かれ、雷電はスルスルと前へ滑り出す。異常に大きいエンジントルクにより、機首が左に振れるのを抑えるため、この間右フットバーを踏みっぱなし……だが、それももう馴れた。滑るようなタキシングで、滑走路へと進む……その間にも、同じく始動を終えた雷電隊の戦闘機が、続々と滑走路の真ん中へタキシングを始めている。


 エンジンと冷却ファンの立てる金属音は、滑走を続ける内に次第にその勢いを増し、横を向く光義の眼前で視界が徐々に水平に戻っていく……前方が見えない雷電では、横の光景を指標に機位の移動を判断する必要があるためだ。


 機が水平になりかけた―――機尾が完全に浮いた―――ところで、操縦桿を僅かに引く。スロットルを全開にしても、重い雷電では完全に浮き上がるのにまだ時間が掛かる。軽い零戦に馴れた連中には、アドレナリン出まくりのこれは耐えられないだろう……だが、おれにはそれがいい!


 速度計は……一〇〇ノット/時程を指している。一二〇ノット/時ぐらいで引き込むか……と、取り留めの無いことを考えてみる。一二〇ノット!……今だっ……とばかりに、スウィッチを入れる。


 脚を引き込む油圧の響きとともに、脚位置表示灯が赤に点る。そこから加速を付け、雷電は空を一直線に駆け上がった。


 零戦のように、機首上げの姿勢で加速するという真似など出来ないが、雷電は着実に、そして他の追随も許さないほどの上昇を見せる。列機も、何の卒なくこちらに追従している……しばらくすると、その内一機が主翼を翻して、降下していく……エンジンの不調か? 


 オクタン価の下がった燃料……エンジン材質、工作技術の低下……そして後方支援能力の不足……退勢により相乗したこれらの悪条件は、日本においてはより高性能化していく機材の発達に生産と戦闘の現場が適応できないという事態を引き起こしていた。海軍のみならず、陸軍の航空部隊でも同じような問題に直面している。


 故障を頻発するだけでなくカタログ値通りに飛ばない機材は、戦争を経るに従って導入が進んだ新鋭機のみならず、旧来の機材の中にも現れ始めていて、出撃の度に不調を起こして引き返す機材が出るのは、今ではごく普通の話だ。


 それに、問題は他にもある……視線を廻らせた先を飛ぶ味方機。引っ切り無しに機首を小刻みに上下しながら互いに接近、上昇、下降を繰り返している……思い通りの位置に機を付けることが出来ずに苦労していることを、光義は一目で悟った。


 その目は苦々しくも寂しい。あんな未熟者に乗られるようでは、雷電もさぞかし内心で泣いていることだろう。


 彼ら若輩を教え諭すべきラバウルやフィリピンの航空戦を生き残った古強者の殆どが、折角生きて内地に戻ってもやはり本土の防空戦で死んでいく。同期生やかつての同僚の死を風の便りに聞く度、光義には寂寥感が募るのだった。「空戦では腕のいいやつから死んでいく」……その教訓はもはや昔のものとなり、今では「腕に関わらず飛んだやつは皆死んでいく」……特攻なんか、まさにそうではないか……!


 酸素供給ホースを軽く掴み、酸素の流入を確認する……以前、酸素の供給をきちんと確認しないまま上昇したとき、供給がうまく行かずに酸欠状態に陥り、危うく墜落する寸前まで行った経験が、光義をそこまで神経質にさせている。


 雲を抜け、間近に青空を眼にする高度に達するまでに、わずか七分……眼下に雲の絨毯を見る頃には、目指す敵機は大体そこらに居る。


 本当なら敵機が本土に達するまで十分に高度を取って待ち構えていたい所なのだが、満足な電探もなく、詳細な情報をマリアナからの敵通信傍受に頼っている現状では如何ともし難い。


 ガタガタガタガタッ……!


 高度にして七〇〇〇mを越えた辺りから、エンジンが不気味なまでの振動と共に息をつき始める。これは何も不調ではなく、過給機の作動が必要な高度にまで機体が達していることを意味していた。


 把柄を捻り、過給機を作動させる……プロペラ回転がいきなり不連続になり、油温が危険水域にまで上昇するが、それも少しの間の後……エンジンはすぐに元通りの力強い鼓動を奏で始める。


 寒い……暖房は全開で効いているはずなのだが、それを打ち消すほどに蒼空の主は容赦なく冷たい息吹を機内に送り込んで来る……まるで人間の侵犯を頑ななまでに拒んでいるかのようだ。


 巨大な層雲を前下方に見ながら、雷電の編隊は一路南西へと進んでいた……強烈な偏西風をほぼ正面から被った機体の速度は著しく落ち、敵機の補足を一層困難にさせる……だが、ここが我慢のしどころだ。


 「いた……」


 呟いたとき、光義は前方、蒼い大気を背景に、うっすらと白く浮かぶ飛行機の連なりを見ていた……四条に連なるそれは、規則正しい陣形を保ったまま、此方の眼前を横切るように進んでいる。


 機種は……紛う事なき超重爆撃機B―29。


 高度は?……同じくらいか。去年の暮れに来襲を始めた頃は、此方が容易に近づけないような高高度を飛んで来たものだ。


 今では、よりぐっと下がった中高度域……爆撃の精度を上げるためか、それとも此方を侮っているのか……恐らく両方?


 四発機のくせに、B―29のアシは速い。何せ一〇〇〇〇m以上の高高度を零戦の最高速度以上の速度で飛ぶのだ……真面目に後方を追尾し攻撃を加えることなど先ず不可能に近く、最悪尾部砲塔の餌食となる。


 墜とすには、鼻先を押さえるしかない……当然、それは一撃限りの勝負だ。


 光義は、機銃の装填ボタンを押した。


 遠距離から敵編隊を見ながら暫く同航の位置を保った末、雷電の編隊はB―29を追い抜いた。


 やがて、左後方に編隊を目にする位置にまで達したとき、光義は機を上昇させ、僅かにフットバーを右に踏み込む……一機が急に高度を下げ、慌てて回復動作に入る。それに光義は眼を剥く。


 ばか!……慌てて操縦桿を急に引くからだ……怒鳴りたいのを押さえ、敵機の追尾に専念する。


 もう少し……もう少し……たのむ、変針してくれるな……照準器に突っ込んでくるように入ってくる銀色の気体……コックピットを狙うべきか、それとも主翼の付け根か……酸素マスクの下で舌なめずりしながら、光義は機銃の引鉄に指を掛ける。


 胸の高鳴り……細まる目……今だ!……引鉄を押さえる指に力が篭った。


 ドドドドン!という発射の鼓動……当った?……確認する間も無く主翼を翻し、背面の姿勢で退避する。


 翼端から水蒸気を引き摺ったまま宙返りから回復し、視線を廻らせたとき、敵編隊はすでに再攻撃の叶わぬ彼方に在った。


 蒼い大気を背景に、四条の飛行機雲の一群に、集るように絡みつく幾重もの飛行機雲……敵編隊に攻撃をかける味方機だ。おれが攻撃をかけたやつは?……主翼の半分をもぎ取られ、錐揉みに陥りながら、機首からまっ逆さまに雲中へと墜ちていく。


 「こちら周防……一機撃墜」


 基地へ報告しながら、視線を転じた密雲の割れ目……その先に広がっていた空戦の環に、光義は目を剥いた。何処からか飛び上がった零戦隊と、B―29と期を同じくして来襲した艦載機群との戦闘だった。


 零戦隊は?……苦戦している。炎を吐きながら地上へと向かって死の放物線を描く零戦。なす術もなくF6(グラマン)に追い回される零戦……たとえ背後を取ったところで、垂直面の空戦に持ち込まれるか、急降下に転じられては、加速と機体強度に劣る零戦では忽ち対応できなくなる。


 零戦隊を助けるべきか……光義は迷った。


 純血種の迎撃機として設計された雷電は、対戦闘機戦闘をあまり考慮していない。本来なら敵機に一撃を掛けた後は、速やかに基地へ帰還するのがいい……だが、おれなら下の連中を救うことが出来るかもしれない。


 光義の決心とともに雷電は横転に転じ、機首から密雲に突っ込んだ。空戦の環を掻き乱し、味方が逃げる道筋を作ってやればいいのだ。


 密雲を何層も抜けた先……真正面から鉢合わせたF6Fに一斉射を打ち込み、上昇に転じる。はなから命中など期待してはいない。加速が付いた雷電はF6Fでも滅多に追いつけず、背後に付かれても横転を連続させ軸線を逸らせばいい。


 雲に突っ込み、雲から出ては敵編隊に何度も突進を繰り返す。数機のF6Fに白煙を噴かせたときには、零戦隊はおおかた離脱に成功し、周囲はすでにF6Fが飛び回っていた……そろそろ潮時か?……当然、死ぬことなぞ覚悟していない。退く潮時のことを光義は考えている。意地でも生きて還るつもりだった。


 ……が、敵は渋どく、入れ替わり立ち代りに背後に忍び寄っては、機銃を撃ち込んで来る……ドドドドドドドッという腹に溜まるような連射音が、防弾板越しに背後から聞こえる度に首を竦め、フットバーを蹴る足に力が入る……何度も回避を繰り返しているうちに次第に高度が下がってくる……くそっ、早く帰れよ! 苛立ちと恐怖に震える内心……覗き込むように目をやった背後には、一機が追尾してこちらを狙っている。眼下は濃緑色の海……急降下でかわす術が使えるほどの高度は、とっくに失われている。


 暑い……低高度。照りつける太陽。海原からの輻射熱が、操縦席の温度を上げる。


 頬を伝う汗がマフラーを濡らし、本人の意思とはお構い無しに供給される熱い酸素が喉を灼く。向こうと此方を比較した場合、操縦席の不快度だけはダントツで此方の勝ちだろう。


 逃げる時期を逃した……痛憤にも似た後悔が、沸々と沸き起こってくる。その間も、例のドドドドドッ……という射撃音が背後から聞こえてくる。主翼を飛び越えた弾幕が前方の海面を叩き、水柱を吹き上げた。その瞬間、光義は自分を追っているF6Fが、相当の手練であることを知った……あの射撃は試射だ。今度は照準を修正し、きちんと狙って撃ってくる!


 そのとき……前方に浮かぶ黒点の連なりに、光義は目を見張った。黒点はやがて零戦の特徴ある機影となり、一気に降下し、距離を詰めてくる……やった! 味方の救援だ。


 背後からの殺気が、光義に咄嗟に機を右に滑らせた……滑らせるとは、一口で言えば進行方向を保ったまま機位を移動する動作のことだ……滑らせた直後、光義が元いた位置を、背後から延びた弾幕の鞭が撓りながら海面を烈しく叩く。


 光義は操縦桿を左に倒し、垂直旋回の姿勢に転じた。両者の距離が覆いかぶさるように詰り、咄嗟のことに驚いたF6Fは、光義の雷電を飛び越えるように上昇に転じた。


 旋回を終えた上方……機首を上げ、上に逃げるF6Fを追う。


 上昇力ではこちらは引けをとらない……忽ち距離が詰り、雷電は照準器いっぱいに機影を捉える。


 「終りだぜ……」


 その瞬間、光義は異常なまでに冷静だった。その冷静さによって、光義は引鉄を引いた……一連射で、F6Fに黒煙を吐かせた。


 二連射目で黒煙とともに火花を発したF6Fは、巨大な火の塊となって八方に破片を撒き散らし、陽光の下で煌く破片が、光義の眼前で鮮やかに映えるのだった。撃墜から反転に転じた雷電の操縦席から横目で断末魔に喘ぐ敵機に目を遣りながら、光義は内心で自分を追い詰めた敵機に敬意を表した。


 さて……帰るか。


 上昇に転じた雷電の前に聳える密雲……あの雲を越えれば、ぐっと基地に近付くはずだった。再び雲を越え、安堵の溜息とともに密雲へと向かう。


 「雲か……」


 機を進めるに従い、否、機が密雲の上空に達した途端。密雲は次第にその領域を広げ、あたかも意志を持つかのごとく、光義の駆る雷電を飲み込まんとするかのような勢いで広がっていく……何かがおかしい……と感付いたときには、雲は雷電の主翼と接せんとばかりにまで迫り、前方は完全に雲の壁に塞がれた。


 いかん……横転で回避しようとした瞬間、光義の周囲で何かが光った。眼前の雲の壁が光を発し、光はやがて円形の環に刻まれた文字盤となったのだ。


 見たことも無い紋様に目を凝らした瞬間、光は烈しく雷電を照らし出し、光義は思わず頭を伏せた。光は瞬時の内に機体を包み、同時に光義の意識が飛んだ……漸く意識を取り戻したとき、暗くなった操縦席の中で、光義は困惑した……雲の中に入った?


 計器板に目を凝らす。周囲の状況がつかめなければ、機位も姿勢も判断できない。頼りになるのは計器からもたらされる情報だけだ。


 必死に姿勢を保とうとしている中、機体が大きく揺れた……横風?……暗闇の中、風は一層強まり、四方八方から風雨に晒される難破船のように雷電を揺り動かす。


 くそっ……まるで積乱雲の中にでも入ったみたいだ……さっきの変な紋様といい、どうなっているのだ?……戸惑いと不安を抱きながらも、光義は一心に計器盤を凝視するのだった。




 ――――昭和二〇年八月某日付けの、第302海軍航空隊の戦闘詳報は、次のように記されている。


 『周防光義 飛行兵曹長は、関東近辺の海上上空で列機とともにB―29編隊を邀撃。正面からの突進で一機を撃墜し離脱した後。同時期に下方で行われていたF6F群と零戦隊との交戦において窮地に陥った味方の離脱援護に加わり未帰還。F6Fと交戦し戦死したものと推定される』


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