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the last flight 「ちがった空」



 風が、止まった。


 「蝕」が過ぎ、空の一面に微かな輪郭を残すクラダの背後から、レニスとドムナの輪郭がゆっくりと姿を現すのを、ファイは無心に眺めていた。


 ファイの小さな身体を取り囲むように描かれた魔方陣は、既に用済みとなっていた。魔導書にある通り、魔方陣はきちんと描いたし、呪文も唱えた。ミツヨシとの別れは辛いが、全てはうまく行ったはずだった。


 ……それでも、何か釈然としない感覚に少女の小さな胸は充ちている。


 「ファイ、どうだ?」


 さっきまで、安楽椅子に腰掛けて魔術の様子を見詰めていたゴフが、沈黙を破り語り掛けた。


 「…………」


 「あいつは、行っちまったか?」


 ファイは、黙ったままだった。


 「どうなんだ?」


 「……わからない」


 「…………?」


 ファイは、俯いたまま立ちすくんでいる。実際には、胸の奥に芽生えた不思議な予感に、少女は戸惑っていた。


 脳裏に浮かび上がる微かな輪郭は、時を置いて雷電の機影となり、ディスラークへと向かっていた。それが、ファイには信じられなかった。


 やがて、予感が実感に変わっていくのを受容れ始めたとき、少女は頭を上げた。


 「ミツヨシ……!?」


 ときめく胸、輝く瞳、喜びに震える足。


 風が、再び吹き始めた。






 飛行場を離れた定期便は、程なくして千切れ雲の連なりと同じ高度に達しつつあった。


 二週間前の海賊騒ぎの影響は、当然州の航空便運航にも影響を与えている。「辺境交付金」を元手に購入した新型機が、海賊の襲撃で修理不可能なまでに破壊されたため、やむなく格納庫で保管状態にされたばかりの旧型機を、再び引っ張り出して来なければならなくなったのだ。


 だが、操縦桿を握るジャック‐ローウェルは嬉しそうだった。その理由が「クラクティア工場」の上客としての彼を知るリナには何となくわかる。古いパイロットほど、空を飛ぶために必要な全てを、自分の手でやらねば済まない性分なのだ。そしてこういう古い機体は、その性分を満たすのに打ってつけの機体だった。


 何もローウェルだけではない。リナの父母がそうだったし、そしてこの日の午前、彼女のキスを土産に、「自分のいるべき世界」への帰路についたミツヨシもまた、そうだった。


 その「ポンコツ機」の座席に収まったリナは、ただ無心に窓からの風景に見入っている。


 彼女の目の前をゆっくりと流れていく雲、雲、また雲……そこから視点を転じれば、彼女が今しがた旅立ったディスラーク島は、すでに芥子粒程度の大きさになっていた。


 ミツヨシは、彼の世界に無事に辿り着いただろうか……すでに「蝕」を過ぎ、その三重の輪郭も微かに蒼空に浮かび上がる「三姉妹」の威容に、リナはあの青年への思いを重ね合わせるのだった。


 「離れていても、見上げる空は、何処でも同じ」


 いくら呟いてみても残るのは、やはり空虚感だけ……初めて口に出したときの高揚感と充足感は、やはり彼を前にしたときにしか得られないことに気付いたとき、リナは失ったものの大きさに愕然とするのだった。


 『ミツヨシ……会いたい』


 窓の風景に、リナは唇を噛み締めるようにした。不用意に瞳から漏れ、零れ落ちた滴が窓の縁で弾けたとき―――――


 何の前触れもなくぐらりと揺れる機体。


 急旋回だと、リナは直感した。おそらく、接近を回避したのだ。


 何が起こったのだろう?……乗客のざわめきと怒声を他所に、リナは外へと視線を廻らせた。


 「…………!」


 いきなり飛び込んできた信じられない光景に、リナの瞳が歓喜に震えた。


 「ミツヨシ……!」


 弾丸のような機影を、見忘れるはずがなかった。


 雷電の機体は酷く損傷してはいたが、それでも、確固とした勇壮さをリナはその翼に見た。操縦席から覗く飛行帽と白マフラーが、リナの眼前で鮮やかに映えた。


 操縦席の光義と、キャビンのリナの視線が、交差した。


 「離れていても、見上げる空は、何処でも同じ」


 震える胸で、リナは言葉を噛み締めた。


 言葉はまた、自分自身が空の高みへ昇るための決意でもあった。






 ディスラーク‐ホテルに面した浅瀬に、雷電はそのずんぐりとした肢体を横たえていた。


 四本のプロペラは無残なまでにひん曲がり、風防ガラスは、不時着寸前の段階でとっくに吹き飛んでいる。片方の主翼に至ってはその大半が千切れ飛んでいる。だが、それでも接地した下が砂地だったのは幸運だった。岩礁だったら、文字通りお陀仏だったろう。


 操縦席は、既に無人。


 その浅瀬から、ディスラーク‐ホテルのカフェテラスへと跨る砂浜に、転々と続く足跡。


 「ねーちゃん。何か冷たいもんくれや」


 首をゴキゴキ鳴らしながら、光義はホテルのカフェテラスに足を踏み入れた。編み上げ靴が、海水にぐっしょりと濡れていた。


 応対したウェイトレスが、顔を曇らせる。昨今の海賊騒ぎで、本来かき入れどきのはずが客はすっかり減ってしまっている。そこに光義のような、風体の悪い客に来られてはいい顔をしないのは当然だろう。


 「…………」


 ジュークボックスが奏でるピアノ曲をBGMに、光義はカフェテラスに面した砂浜に視線を巡らせる。サファイア色に染まる浅瀬の一点に、変わり果てた愛機を見出したとき、彼は軽い嘆息を禁じえなかった。


 「今度帰るときは、おれはジジイか……」


 苦笑とともに、懐をまさぐる。最後に残った一本の「チェリー」。無事に還りついたら、基地で吸おうと思っていたのだが……


 貧乏臭い黄燐マッチで火を点け、「チェリー」の煙をじっくりと噛み締めるように吸い込む。


 雷電はまた飛べるだろうか?……否、あそこまでやられたらゴフの工場でも修理は難しいだろう。「お先真っ暗」とは、まさにこういう時のための言葉。


 たとえ修復が可能としても、やはりそこはカネが要るだろう。殆ど無一文の今、ゴフのオヤジに下げたくない頭を下げ、後払いで修理してもらうしかなさそうだ。そのカネはどうやって工面するか……そこまで思い当たって、光義は苦笑する。


 「お客様。ここは禁煙ですよ」


 強いるようなウェイトレスの口調に、光義は舌打ちとともに煙草を放った。当然ウェイトレスは眉を顰めたが、テーブルにトロピカルジュースを置き、それ以上は何も言わずに離れていく。


 BGMが、止まった。


 光義は頬杖をつき、再び眼前の海原に目を凝らした。勢いづく陽光を反射しぎらつく群青。その上を颯爽と舞い上がる鴎の群れに、彼はごく近い将来の自らの姿を重ね合わせていた。


 カシャッ……


 突然のことに、唖然として光義は音の主へ視線を転じた。その先には、ポラロイドカメラを構えた、貧しい身なりの少年。


 少年は、笑顔とともに写真を差し出した。


 「お兄さん、写真買わない?」


 「…………」


 しばらく考える素振りを見せて、光義は写真を取った。やがて苦笑とともに、光義はポケットから硬貨を取り出し、少年に握らせた。


 「ありがとう」


 勢い良く駆け出そうとする少年を、光義は呼び止めた。


 「ボーズ、その……箱を動かしてくれないか?」


 「ジュークボックスのこと?」


 光義は頷く。


 「お金を入れないと、動かないよ」


 そう言われて、ポケットをまさぐる。ややあって取り出した硬貨を、光義は少年に握らせた。握った硬貨を数え、少年は神妙な顔つきで光義を見詰める。


 「……チャッカリしてやがるなぁ」


 少年の取り分を握らせたときには、持ち金は殆ど無くなっていた。


 「お兄さん、さっきの曲が好きなの?」


 「ああ……」


 「あの曲が好きな人をもう一人知っているけど。お兄さんと雰囲気が似てるね」


 「どんな奴だった?」


 「背が高くて、カッコイイ女の人だった」


 「飛行機乗りか?」


 「さあ……わからない」


 ちょっとした会話の後、ジュークボックスは再び動き出した。


 カフェテラスの外、椰子の木に繋いだ有翼竜に飛び乗る少年。頚木から解き放たれた有翼竜が、熱い陽光の下を勢い良く羽ばたいて行く。


 光義の眼が有翼竜を追った。やがて有翼竜の飛び立つ先に、三重に重なる「三姉妹」の姿を見出したとき、光義の口元に笑みが宿った。


 「そうか……この世界には、月が三つあるんだったな」


 それ以外は、光義の知っている空と、殆ど同じ……不時着する前に擦れ違った旅客機のリナが、別れる間際に口走った言葉を、光義は思い出していた。


 ……確かに、見上げる空は、何処でも同じ。


 そういえば、静かな空を見たのは久しぶりだった。






―――――ツバサトユウキ 終――――


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