the 15th flight 「飛翔」
「……ミツヨシ、また夢を見たね」
「ああ……夢を見た」
「ミツヨシ……すごくかっこよかった」
「そうか……」
絡み付いた小さな手が、大きな手をぐっと掴んだ。
「ファイは……優しい子だな」
海原を漂う靄のようなまどろみを脱し、光義は半身を起こした。傍で寝ていたファイも、慌てて身を起こそうとするのを、光義は押し止めた。
「まだ寝てろ」
「いや……」
ファイは、言い出したら聞かない。苦笑すると、光義は立ち上がった。寝床を出て、格納庫へ向かう光義をファイは慌てて追った……光義とともに見た夢の末、やがて沸き起こった心安らかならぬ予感を、その小さな胸に抱いて。
格納庫へ通じるドアを開けた途端。眼前に飛び込んできた光景にも、光義は無感動だった。
「じじい……何をした?」
「あっ……!」
背後から追い縋ってきたファイが、軽く声を上げる。
格納庫の一角。長椅子に腰掛けるゴフは、光義の問い掛けにも答える風でもなく、ずっと眼前の「作品」に見入っていた……夜通しで仕上げた自分の「作品」に。節くれ立ち、オイルにどす黒く汚れた腕に握られた酒瓶の中身は、半分近くが減っていた。
そこには、雷電が翼を休めていた。
一切の塗装を落とされた銀無垢の機体が、格納庫に刺し込んでくる朝日にまっ黄色に染まり、所々に口を開ける点検カバーからは、明らかに交換された新品の部品が顔を覗かせていた。ゴフたちが操縦者の同意無しに雷電に手を加えたのは、誰の目にも明白だった。
「じじい、答えろ」
「シィーーー……」
ゴフは、無言のまま雷電の足下を指差した。毛布を被って寝息を立てるリナの姿に、光義ははっとした。長椅子に身を腰掛け、ゴフとリナはずっと待っていたのだった……自分たちが仕上げた機の操縦者を。
「小僧、お前に弁済の機会を与えてやる」
「弁済……?」
「海賊狩りをやらないか? 賞金がたんまり出るぞ。オババに弁済分をくれてやっても十分お釣りが来る」
「…………」
光義は、無言だった。それを見て取ったゴフは、ニヤリと笑った。
「……やはり、そのつもりで来たか」
「勘違いするなよ。おれが奴らを叩き潰すのは、金目当てじゃねえ。落とし前をつけるためだ」
ゴフが、笑った。低い声で。
「……珍しく意見が一致したな。実はおれもそうなんだ」
「で、機体はどういじった?」
「プラグとオイルは総取替えだ。それとスピナーの調速機構にも少し手を入れた。これでペラヒッチの変更はもう少し楽になるはずだ。ガソリンも、ここにある最高のやつを呑ませる。これでちったあマシになるだろう。エンジンへの負担も軽くなるし、スピードも、お前が知っているよりもっと出るはずだ。その他にも色々あるが、それにしても……」
「…………?」
「貧乏臭え国だなぁ、てめえの国は」
「何ぃ……?」
「もう少し、マシな物を作れねえのか? 発想こそは立派だが、モノの造りがそれに付いて来ていねえ。これで雲の遥か天辺まで昇れたなんて、嘘みたいだぜ」
「……だろうな」
思い当たる節十分な光義としては、反論などしようもない。
「だが、こいつの機体設計は完璧だ。空冷エンジンで上昇力と速度を求めたのなら、こいつの機体は満点に近い答えだ。それだけは認めてやる」
「今すぐに飛びたい。やれるか?」
「慣らし程度だ、それ以上は止めとけ」
そのとき、ファイが光義の袖を引いた。
「…………?」
交錯する二人の視線……ファイは無言だったが、その瞳の奥が、「ダメ」と口に出すよりも強く語りかけてくる。
「ファイ……?」
ファイが、無言のまま首を横に振った。
「おれ、行かなくちゃあ」
「……だめ」
光義の袖を握る小さな手に、力が篭った。
「…………」
光義は、じっとファイの瞳を覗き込んでいた。その眼は怒ってはいなかったが、何故か、これ以上の自分の介在を拒むような「何か」をファイは幼心に感じていた。
光義は、言った。
「……いい子だから」
「…………」
手が、袖から離れた……ゆっくりと、潮の引くように。
光義は、ゆっくりと歩き出した。
「じいさん、行こうか」
雷電を牽引するカートのエンジンが、静かに目覚める。その向かう先は、ゴフの「作品」を空へ送り出すべく大きく開け放たれた格納庫の入り口。そこへと足を踏み出した光義は、もうファイを振り返らなかった。
小さな足を、そして肩を震わせながら、ファイは二人と一機が朝日の差し込む矩形の空間へと吸い込まれていくのを見詰めていた。
「……ミツヨシ」
その大きく開け放たれた瞳から溢れる涙を、ファイは拭わなかった。
……光義と見た夢を、少女は思う。
―――真白い零戦の列線は、狭い飛行場の一角を埋め尽くしていた。
新鋭機の受領以来、光義たちは完熟訓練もそこそこに、遥か東シナ海を隔てた大陸を臨む九州の飛行場に身を置いていた。
……それは、零戦がまだその名で呼ばれていなかった頃の話。
緒戦の航空戦では圧倒的な勝利を挙げ、大陸の沿岸部の殆どを制圧したものの、敵はその本拠地を味方地上軍の手の届かぬ奥地に移し、地上軍はその本来の戦略目標から大きく離れ、攻勢限界点ギリギリの線までの進攻を余儀なくされていた。
その奥地を空から叩くべく大陸の飛行場に展開した陸攻隊は、戦闘機の援護もままならぬまま、連日の爆撃行で温存されていた敵戦闘機隊の迎撃に遭い、多大な損害を蒙ってしまう。
従って、これらの陸攻隊を護衛するため、長距離を進攻できる戦闘機の配備と展開が急がれたのである。当時一二試艦上戦闘機と呼ばれていた零戦は、こうした任務に適任と目されたのであった。
誰もが羨み、憧れる帝國海軍航空隊の戦闘機操縦士……とはいっても、つい数ヶ月前までそのヒエラルキーの最下層の一等航空兵でしかなかったその頃の光義には、前線を飛んだ経験はあっても、未だ本物の「空戦」を経験したことはなかった。
緒戦のような規模からだいぶかけ離れた、「掃討戦」のようなものではあっても、確かに、空戦はあるにはあった。しかし、それも決まって光義が搭乗割から漏れた時にしか起こらない。帰還した艦戦隊の、敵機撃墜を示す宙返りを基地の地べたから見上げる度、地上に降り立った先輩や同期生の熱の篭った空戦談を耳にする度に、光義は悄然としたものだった。
本来なら眼前の空を飛ぶ敵機に向けられるべき機銃の銃口を、地上を這うように逃げ回る敵兵や動かない目標に向けて、光義はまる一年大陸の戦線を過ごしてきた。同じ対地攻撃でも、これでは爆弾が積める艦攻や艦爆のほうがずっとマシだと、若い光義は思った。
新鋭機受領のための内地への帰還組に選ばれた時の驚きを、光義は未だにはっきりと憶えている。実戦経験の殆どないひよっ子が……新鋭機の操縦士?
その先で主を待っていた零戦は、素晴らしい飛行機だった。
一度飛び立つやすぅっと引き込む脚。密閉式ながらも万全の視界を操縦する者に与えてくれる風防。九六艦戦と比較にならぬ高速、加速力、上昇力、そして操縦性の良さ。さらに九六艦戦はおろか他の戦闘機など問題にならぬほどの攻撃力……戦闘機の操縦桿を握って未だ二年も経っていない自分。一度も空戦を経験したことのない自分が、このような高性能機への搭乗を許されるなど、光義には想像の外であった。
大陸へ戻る前夜、光義はある決心をした。
決心……とはいっても、傍目から見れば些細な「背伸び」とでも言った方がいいのかもしれない。
なぜなら光義の決心とは、白マフラーを首に捲くことだったからだ。
「白マフラー」は、海軍航空隊搭乗員の象徴だった。襟元から顔の半分を包み込むほどの大きな白マフラーを巻いた搭乗員の颯爽とした姿に、多くの少年達が憧れ、海軍や予科練の営門を目指すのだ。光義もまた、かつてはそうした多数の中の一人だった。
……だが、現実は少し厳しい。
マフラーなど訓練課程を出たての若造に、おいそれと付けられるようなものではなく、捲こうものなら、古参の搭乗員に「半人前の分際で!」「まだ早い!」などと言われ、睨まれることになる。だから見た目の風格以外にも、見る者が見ればマフラーの有無、そしてその色褪せぶりで搭乗員の年季というものは大体判ってしまう。
……その晩。鏡に映った光義は、襟元から溢れんばかりにマフラーを捲いていた。
決意を行動に移しても、躊躇いを棄てきれない自分。十分に戦場の空気を吸い、戦場の日に肌を灼き、戦場の濁った風に衣を汚した自分……十分に経験を積み、腕を上げたはずなのに、練達の士の証を首に捲くことに躊躇いを感じる若者の姿がここにあった。
以前、戦場に赴く前に戯れに一度ならずマフラーを捲いたことがある。そのとき、無垢な少年の微笑みの中に、海軍航空兵となった誇りと戦場への期待を胸に抱いた自分は、もうここにはいない。
戦場の空に一度身を置けば、喩え一航空兵といえどその戦争の意味について深く考えさせられてしまう。泥沼そのものの戦場の現実を知り、多くの死を見た光義は、すでに戦う意味を失いかけていた……この戦いに、意味があるのか?
マフラー姿の自分に満足を覚えても、その格好で飛行場に立つかどうか、決心がつかないまま、光義は旅立ちの朝を迎えた。
――――そして、旅立ちの時。
吹流しは、離陸に適した向かい風を地上の海鷲たちに示していた。
指揮官の訓示に一心に聞き入る搭乗員達の列。その中に立つ光義の首に、マフラーは無かった。
未だ、決心は付きかねている……そんな自分が、実は光義には内心で可笑しい。
そう……光義には、もう判っていた。
あれ?……おれ、何でこんなことで悩んでいるんだろう? そんなこと……これから経験する戦争に比べれば、大したことないじゃないか。
飛行機乗りとしての希望と努力は、やがて熟練者としての余裕に代わり、その余裕は若者に戦争そのものについて考えさせる機会を受け容れたのかもしれない。
「発動―――――っ!」
号令とともにエンジン部に差し込んだ転把を回す整備員のリズミカルな腕捌き……零戦のエンジンは間を置かずして目覚め、後は主を受け容れるのみとなった。
新しい愛機に駆け寄り、始動ボタンを押した整備員に替わって座席に腰を沈める。同時に嗅覚に押し寄せてくる新品の純粋なオイルの香りは、何度嗅いでも飽きることはない。
光義は、決断した。
すかさず、懐に延びた手が真白いマフラーを引き出した。一瞬の後、前夜に練習した通りの鮮やかな手付きで、マフラーは光義の首元に捲かれた。
「いくぞっ……」
小声で叫び、空を見上げるのと同時に、背筋に何か震えるものが走った。
地上員の手旗信号に従って発進を始める零戦の一群。光義もまた、その一員だ。
スロットルレバーの開度によって促進される加速、滑走を続ける狭い滑走路の先に、まだ十分な余裕を残して零戦は空へ浮き上がった。九六艦戦ほどではないが、零戦の離陸は軽やかで、鮮やかだ。見方を変えれば、九六艦戦の、奔馬のような手に余る軽快さに比して、零戦の調教され、抑制の効いた軽快さは、性能の余裕の表れとも言える。
零戦の卓越した航続距離は、従来の戦闘機では不可能とされたこの距離を、その日の内に渡りきる。
巡航に十分な高度に達したときには、零戦はすでに飛行場に面する海岸線の全容を見下ろしていた。光義の零戦の下にも、周りにも、昨日はあれほど雄大なまでに、青空を背景に聳え立っていた雲は、今日はその一欠片も姿を見せていなかった。
夏場の茹だる様な暑気が、地上にその手を延ばしかけている時間帯でも、零戦隊の征く蒼空には、背筋を震わせるような冷気が一帯を覆っている。
三機一組で小隊を組む編隊飛行は、二年前の延長教育修了時よりも、その後に続く九六艦戦を駆って大陸で飛び始めたときよりもずっと上手くなっていた……とはいっても、未だしがない一等航空兵でしかない光義は未だに三番機。彼がその先頭を飛べるようになるまで、通例なら未だ五年近くは掛かるだろう。
だが、それでもいい……そう光義は思う。希望を持って飛んでいる限り、何時かは空は、おれに何かを示してくれるはずだ。生きて飛んでいれば、何時かは編隊長になれるときが来る。敵機を撃墜できる時が来る……じっくり待つのも、また一興。
大陸の空の戦いは、新たな段階に差し掛かろうとしている。
九州から東シナ海を西進した遥か先には、動乱の大陸が待っている。
そして大陸の空は、そこに生き、新たな段階を踏み出そうとしている者を、再び迎え入れようとしていた。
――――それは、リナにとって見たこともない、流麗な機体だった。
真白い胴体は女神の腰のように膨らみ、同じく丸みを帯びた主翼端もまた、上空を吹き荒ぶ気流をその美しさで篭絡し、味方に出来そうだった。見るからに今にも飛び上がり、軽々と空を駆け巡りそうな機体。これが戦闘機であることを示す唯一の箇所は、機首と主翼に穿たれた銃口ぐらいなものだ。戦闘機というより、十分に調教され、鍛え上げられた競走馬という印象を受ける。
……が、その操縦士たちの顔は、見るからに厳しく、恐ろしい。絵に描いたような歴戦の勇士という印象を受ける。
その中に、あのミツヨシもいた。
その操縦席に腰を下ろす彼は、少年の顔をしていた。
リナから見て躊躇いがちな表情でマフラーを捲く少年。大仰なまでに襟からはみ出したマフラーが、彼女の眼にはかえって不恰好だった。
……それでも、彼女はミツヨシの中に、少なからぬ空の経験の中で培われてきた何か――――風格を見ていたのだ。
―――――リナ?……リナ?
―――――ん……?
―――――ミツヨシ……行っちゃうよ。
―――――え……?
……ゆっくりと眼を開けた先には、寝息を立てたファイの姿。
ミツヨシが見た夢を、ファイはリナにも見せてくれたのだ。リナがそう気付くのに時間は掛からなかった。
どうして……?
自然と延びた手が、問いかけるようにファイの灰色の髪の毛を撫で付け、弄んだ。
毛布をファイの肩までかけてやったとき、夜を徹して整備していた機体の姿がないのに、リナは気付いた。
外に運び出された?……もしかすれば、すでに機体は空に在るかも知れない。
リナは立ち上がり、脱兎の如く駆け出した。眠気など、若い身体からはとうの昔に吹き飛んでいた。
顔を出したばかりの烈日は、アスファルトの大地を灼き始め、遥か彼方で翼を休める機影を歪めていた。駆ける内に、背中や額に何やら湿っぽいものが沸いてくる。それ程、今日は暑い。
ずんぐりとした銀色地肌の機影に取り付く人影……やがて彼は操縦席に身を沈めた。
そして、リナは見た……操縦席の光義が、その懐から白いマフラーを取り出すのを……!
リナは立ち止まった。その視線の先にいるのは、もはや彼女の知っている光義ではなかった。襟からはみ出さんばかりの白いマフラー。ゴーグルを下ろした飛行帽。顔の下半分を覆う酸素マスク……それは紛れも無く、戦闘機と一体化した一個の「空戦の鬼」の姿だった。
「ミツヨシ……?」
暑さによるものではない汗が、リナの額から形の良い首筋へ一直線に流れ落ちた。
雷電の巨大な四翅プロペラが、ゆっくりと回転を始めた。覚醒したエンジンはたちまち落雷のような爆音を奏で、まさに雷神の如く晴天の飛行場を圧した。
……が、それもまた一瞬。絹を裂くような強制冷却ファンの回転音が、腹の底から轟くようなエンジンの鼓動と同調し、やがては壮絶なまでの鉄の交響曲を形成する。リナ自身の手で交換された鍛造冷却ファンは、地上では何の過誤も無く稼動し、雷電の心臓に冷たい空気を送り続けているのだった。
後は、空に上がるだけだ。
土ぼこりを巻き上げながら始まった滑走……雷電は、嵐のようにリナの眼前を通り過ぎた。
そのとき、リナは見たのだ。
凄まじい勢いで通過する一瞬、地上より遥かに高い雷電の、開け放たれたままの操縦席から、光義が彼女を見下ろすのを。
「…………!」
二人の視線が、交錯した。ゴーグルに覆われた眼が笑っているのを、リナははっきりとその瞳に感じた。
全開に下げられたフラップは、機が浮き上がる頃にはすでにあらかた広い主翼の中に納まっていた。地上から脚を離した雷電の後姿を見送りながら、リナは自分でも知らない内に微笑を浮べている自分に気付いた。
『ありがとよ、ねーちゃん』
空の男の眼が、確かにそう言っていた。




