the 10th flight 「格納庫の夜」
皆が寝静まり、照明の落とされた格納庫に、リナはいた。
徹夜で練習機の羽布を張り終えたあとの風呂上り。湿りきったオレンジ色の髪の毛が、ジャスミンの香りを仄かに漂わせていた。
紅潮した、瑞々しい頬は成熟した少女特有の初々しさを沈黙の内に仄めかせ、時折海辺から吹いてくる涼風が、体の芯まで溜め込んだ熱気を徐々に奪いつつあった。
物音を立てないように、慎重に歩きながら彼女が歩く先に、翼を休める機影……それは、戦闘機と呼ぶには余りに巨大な機影だった。少なくとも、リナにはそう思われた。
だが……その巨大さには、胸を震わせるような力強さがある。
楕円形の胴体。大きく突き出した機首。ピンと張った四翅のプロペラ。広い主翼……そこからは、黒光りする二本の銃身がニュっと突き出ている。機銃の口径は、エアセイバーのものよりもすっと大きい。
「…………」
人三人が余裕で入れるほど太い胴体を、リナはそっと撫でてみた。冷たい外板の感触が、彼女の指には心地良かった。意を決すると、寝間着を汚さないように、彼女は主翼に上ってみた。
操縦席に腰を下ろすまでには、少し勇気が要った。何しろ雷電の脚は高い。落ちたら、唯では済まないだろう。
それでも無事に操縦席に腰を下ろすと、リナは照準器に手を延ばした。電気が付いた照星が、少女の端正な顔立ちを照らし出した。
照準器とリナを隔てるように設けられた分厚い防弾ガラスが、今自分が乗り込んでいるものが実戦機であることを、少女に強く印象付けていた。お陰で、前方視界はとてつもなく悪い。さらにはずんぐりむっくりとした機体が、飛び上がってからの難解な操縦性を、リナに容易に想像させた。
計器の数は……エアセイバーと大して変わらない。ただ、速度計などの目盛はエアセイバーよりもずっと大きく取ってあった。
延びた手が、そっと操縦桿に触れた。エンジンコントロールは……「旧来型」のスロットル、プロペラヒッチ、そして混合気比コントロールの三分割型だ。それでも、スロットルレバーしか付いていないエアセイバー系よりはずっと上等な部類に入る。トリムタブも固定式ではなく、ちゃんと調整できるよう重そうなダイアルが付いている。
リナにはすぐに判った……怖い飛行機だ、と。ほんの少しの練習で乗れるような飛行機ではない。
この機体を飛ばしてきたあいつの腕の程が判るというものだが、リナには、ファイが召還したあの男の技量を認める気にはなれなかった。
何よ、あんなやつ……顔を思い出すたびに、リナは不機嫌になる。
思えば……迂闊だった。
あの「事故」が起こるまで、彼女はあの男が自分を女性とみなしていなかったことに気付かなかった……それに気付いたとき、リナは烈しいまでにあの男――――光義を憎んだ。あの男の「非常識」さが、リナには信じられなかった。
同時に、その「非常識」な男の技量に瞠目した自分が、嫌いになった。
……だが、
その一面で、あいつには……何と言うか、不思議な雰囲気がある。
飛行機乗りとしても、人間としても十分若いはずなのに、「飛行機乗り」として、異様なまでに大人びているような感じがした。
血気に逸る風でもなく、また、自らの腕を誇る風でもない。ここに来て以来、唯淡々と帰る日を待っている。
ファイと一緒にいない時など、視線を転じるたびに空や海を飽きずに眺めているか、寝そべっている彼の姿があった。わだかまりを胸に宿しながらも彼の姿を眼にする度に、かつて空の彼方に消えた父母の姿をダブらせてしまう……気が付けば、何時の間にか光義のことを意識している自分がいた。それが一層、リナには不愉快だったのだ。
不意に、物音がした。
物音が足音として認識できるようになったときには、リナは急いで雷電の操縦席を抜け出し。物陰に身を潜ませていた。
誰?……そぉーーーっと、物陰からリナは茶色の瞳を細めた。
やがて、暗い照明の下に光義の姿を認めたとき、リナはその大きな瞳を一層開いたのだった。
その手には、酒の小瓶。食堂の物置を漁っている内に見つけ、くすねてきたものだ。それを少しずつそれを口に含みながら、光義は彼の愛機をじっと眺めるのだった。
ぐずるファイを寝かしつけるのには、少なからぬ手間が掛かった。
この世界に来て以来、毎日子供達に「おもちゃ」にされている雷電の各所を点検するのは、光義の日課のようなものになっている。どこか重要なところを弄られていては、帰還の際にトラブルが起きるかも知れない。一通り周囲を見て回ったあと、光義は主翼へと脚を懸けた。そこで、異状を見つける。
照準器の電気が付いている?……手を延ばして、電気を消した。バッテリーが上がっては始動が出来ない。操縦席に身を滑らせた直後に漂ってくる妙な匂いに、光義は怪訝そうに鼻をヒクつかせた。
「…………?」
この匂いには、覚えがあった。
「…………」
物陰から光義を伺うリナは、気が気ではなかった。隠れる間際、照準器の電気を点けっ放しにしていたことに気付いたのだ。普通なら、考えられない過ちだった……これでは、あいつに勘付かれる。
「誰かいるのか……?」
思わず、光義は周囲を見回した……が、人の気配を感じることは出来なかった。
お願い、早く帰って……物陰に背を凭れ掛けながら、リナは本気で願った。光義にだけは、自分の飛行機への執着ぶりを見られたくなかった。もっと言えば、光義にだけは、自分の秘めた空への想いを悟られたくはなかった。
その彼女の足下で、なにやら黒い影が蠢くのに、彼女はまだ気付いていない。
「…………」
光義が込み上げてくる欠伸を噛み殺しながら腰を上げ、再び降り立ったとき―――――
「イヤャアアッ……!」
「…………!?」
驚愕に物陰から飛び出して来たリナの足下を、二匹の子ネズミが眼の回るような素早さで、遠くの物陰へと駆けて行った。
足下を庇うようにしながらもリナは、上目遣いに光義を睨んだ。
「おまえ……こんなところで何やってるんだ?」
「あんたこそ……」と、リナは悪びれる様子もない。
「……点検だよ。おれの機だからな」
「ファイを……寝かしつけてきたんだね」
「ああ……」
「あの子……男には懐かないのに、何であんたなんかに……」
「そうなのか……?」
リナは、無言で頷いた。
「おれ、本当はガキは嫌いなんだよなぁ……」
ばつ悪そうに、光義は頭を掻いた。苦りきった表情からして、それは嘘ではないのだろう。だが、正直なところに、リナは悪い感触を抱けなかった。
「でも、ファイはあんたが好きみたい」
「趣味が悪いガキだなあ……いい子なんだが」
「これさ、誰に造って貰ったの?」
と、話題を転じ、リナは雷電を指さした。
「こんな不恰好な飛行機、さぞインチキな技師が思いつきかなんかで製図やったんだろうねぇ……」
光義は、苦笑した。
「こいつはなあ、何処まで高く昇れるか、何処まで速く飛べるか、極限まで計算し尽くした末の、一つの結論なんだよ……操縦性なんて、二の次さ」
「高く昇るだけなら、速く飛ぶだけなら、空冷なんか使わなくともいいじゃない。横にデカイだけの空冷エンジンじゃ、返って空気抵抗が増すだけ無駄よ」
と、リナは言った。実は彼女なりの意見ではなく、技術書の受け売りのようなものなのだが、光義に対してだけは、彼女の意地が張り合わずにはいられなかった。
「そのまともに動く液冷エンジンが、おれの国にあれば、ねぇ」
と、光義はポツリと言う。彼女の指摘は、一面では確かに正しい。
「これって……あんたの国の実戦機なの?」
「まあ……そうだけど」
「こんなスピードレーサーの出来損ない見たいなものがぁ?」
と、リナの顔は半分笑いかけている。
「その割には、やけにこいつにご執心だったようだが」
リナはムッとした。
「どこがっ!……ただ、あんたが乗ってきた飛行機が、どんなにぼろっちいか、冷かしに来ただけよ。」
「おいおまえ、そこまで言うか普通?」
「ああーーーー言いますとも。この変態っ」
「あれは『事故』だ事故!」
「その割には、やけに得をしたような顔をしてましたっけねー……言っときますけど、あたしの身体はあんたが考えているほど安くはないわよ。本当なら、慰謝料取ってるんだから……!」
「おれはてめえなんかより、すっとスタイルのいい機体を、イヤというほど見て来たんだがな! それに比べりゃてめえのボディなんて、お蔵入りになった失敗作レベルなんだよ。この『欠陥機』……!」
「あんた最低っ!」
怒りに肩を震わせたリナが、バールを掴んだ。瞬時に、光義の顔色が一変する。
「オイ……ちょっと待て!」
「コラァ!……逃げんな!」
「話せば分かるって」
「逃げながら言っても、説得力ないわよっ!」
ファイでもやらないような、大人気ない追いかけっこを続けている内に、二人は大小の機体が並ぶハンガーに出た。眼前に飛び込んできた一機の前で、光義は不意に足を止めた。途端に、追い駆けてきたリナが立ち尽くす光義の背に突っ込んでくる形になる。
ドンッ!
衝撃でバランスを崩しかけたリナを、光義は抱き止めた……が、光義の眼はそのまま前方の機影に奪われている。
「…………!?」
気付いたときには、あいつの腕に抱かれている自分がいた。そして、自分を抱くあいつが振り向いてくれることを期待している自分がいた。それを自覚したとき、リナは慌てて自分を抱きとめる腕を振り解くようにした。紅潮した頬は、何も風呂上りのせいだけではなかった。
「これは……?」
「街のお金持ちの自家用機……」
全金属製のボディは、女神の彫像のように流線型に、細く纏められ、低翼単葉の主翼は長く細く延び、先端で上向きに曲がっていた。
並列式の操縦席を収める大きなキャノピーには一本の枠も無く、一旦空に上がれば、素晴らしい視界を乗る者に与えてくれるであろうことは容易に想像できた。
前輪式の降着装置を収める長い機首は、見る者を魅了且つ圧倒し、ピンと延びた二枚のプロペラブレードは、使用目的にそぐわなそうな外見を一層際立たせる。
「本当に、自家用機?」
「作らせるのに、すごくお金が掛かったみたい……」
「……だろうなぁ」
「……あたしらみたいなのには、縁は無いから」
と、リナは目を逸らすようにする。
「乗っていいか?」
「ダメ……!」
リナが制止したときには、光義は既に主翼に飛び乗っている。
キャノピーを開けた途端に漂ってくる香水の芳香に、光義は顔を曇らせた。
キャビンは、光義の知る零戦や雷電のそれよりはるかに機能的に纏められていた。機関車のような計器板に馴れた光義にはかえって違和感を禁じえない。
驚いたことには、ラジオやレコードプレイヤーまで付いていた。
シートに身を沈め、ラジオに手を延ばしたところで、昇ってきたリナが叫んだ。
「降りて……!」
光義は、口元に笑みを湛えながら、隣のシートを指差した。「座れよ」の仕草だ。
「…………」
躊躇いがちに、リナはシートに腰を下ろした。革張りのシートがリナを心地良く迎え入れ、思わず顔を綻ばせた。
「あんた、こんなことして……」
「バレなきゃ、いいさ」
スウィッチを入れたラジオは、深夜放送の女性DJの声を明瞭に響かせていた。
『――――日の出予想時刻は、午前五時一二分。本日は、快晴になるでしょう―――』
計器板に眼を落としながら、リナは、呟くように言った。
「ねえ……飛行機を飛ばすのって、どんな気分?」
「…………?」
「初めて飛行機を操縦したのは、幾つのとき?」
「……お前ぐらいの年かなあ」
「ふうん……あんたの家って、お金持ちだったんだね」
「おれは、農家の五男坊だ。家は貧しかったし、田舎じゃ食ってけないんで、十四になるかならないかの内に軍隊に入った……それで、運良く操縦士になれた」
「いいなあ……あんたは。あたしなんか、パパとママがパイロットだったのに、今じゃこうやって燻ってる……」
「よかったのかな……今は判らない」
「何故?」
「戦闘機の操縦士になったときには、おれの国は戦争を始めていた。その内、戦は劣勢になって、仲間も大勢死んで行った。おれも……本当なら死んでるところを、今日まで生きている。それが、いいことなのかどうか……」
「生きてるだけでも、よかったじゃない……ファイとあたしなんか……!」
「親が死んだっけ……」
リナは、黙って頷く。
「海賊に……殺されたんだ」
「で、仇を取りたいから、飛行機乗りになりたいのか?」
リナは力強く頷いた。
「取るもん……!」
「海賊なんて、おれの世界にはいないから……わからないな」
「……でも、あんたの世界は平和じゃないみたいだね」
光義は頷いた。
「海賊とやらよりも、おれの世界には悪いやつがいっぱいいるからな。ここは平和でいい……国に帰らずに、ここで暮らすのもいいな」
光義の一言に、リナは形のいい眉を顰めた。
「いい気にならないで。ファイは許しても……あたしは、イヤだから……!」
「イヤか?」
「イヤ……!」
思わず背けたリナの頬に、また紅さが宿った……が、暗がりのせいか光義は気付かない。
『――――ここ数日の内に、海賊の動きが活発になっています……海路、空路を利用するリスナーの方はご注意下さい―――』
「平和だと思ったら、そうでもないか……」
光義は、懐から煙草を取り出した。口に咥えた途端、咄嗟に延びたリナの手が、煙草をひったくった。
「おい……」
「ここは禁煙よ。あんただったのね。ここで毎回吸殻落としてたのは……!」
「あ、すまん……」
リナは、腰を上げ、操縦席を跨ぐようにした。
「とにかくさぁ……時が来たら、さっさと帰ってね」
機から降りたリナが、もはや光義を振り返ることはなかった。




