解放
「今回はこれを頼みたい」
スーツを着た中年の男ともう一人、若い学生ともとれる男が上から覗き込む。身動きはとれない。頭の中で痛みが暴れていて視界もはっきりしない。今朝家を出てからの記憶がない。ここは一体どこなんだ。こんな事、許されていいはずがない。
「わかった。これを使っても構わないか」
「好きにしろ」
目の前は未だにぼやけている。二人の顔をはっきり見ることは出来なかった。
「すごいな」
何をするでもなく、二人は去っていった。ふざけるな、早く解放しろ。早く。
――早く!
*
私が本当に憎いと思って人を傷つけたのは中学生の時だった。意図的に殴ったわけではなく、気がついたら手が出ていた。幼いながらも憎悪とかそういった感情は確かに存在していた。その時の感触と唇の端が変色したクラスメイトの顔を今でも思い出せる。数日経ってから彼、Tは「俺は寝ることも、食べることも、便所に行くことも。そういう事を全部しなくても平気になった」と触れ回っていた。彼を信じる者は私を含め一人もいなかった。睡眠、食、排泄などは人間じゃなくとも生の基本だ。平気なはずがない。
しかしTのでたらめな言動は結果的に間違いではなく、嘘をついているわけでもなかった。Tは一ヶ月間皆の前では食事を摂る事もなければトイレに行く事もなかった。彼は私に「お前に殴られてから調子がいいんだ。サンキュ」と言った。殴った相手を罵倒し、激怒する事はあっても感謝するなどどうかしている。調子が良いというのもおかしい。Tは異常だった。その発言を聞いてからすぐ、彼は死んだ。餓死だったそうだ。胸の中で何かが引っかかった。有り得ない。
彼はこう告げた。「お前に殴られてから」と。手が震え、鼓動が早くなった。彼を私が殺した……もし、だ。私の想像が馬鹿みたいに飛躍しているのはわかるがそれでも。もし彼の「生理的欲求の消失」を私が招いたのだとしたら。
未知の力に私は心を躍らせた。試してみる価値はある。
当時、家では猫を飼っていた。親がかわいがっていただけで私は興味がなかったし愛情もなかった。私はカッターを片手に庭で日向ぼっこをしている我が家のペットの元へと向かった。歩く足が自然と速くなった。春の生暖かい風が背中を押す。私は線をなぞるように猫の足をカッターを走らせた。切られている最中、猫は何事もないかのようにあくびをしていた。痛覚も機能しなくなってしまうのだろうか。その日から猫はエサを食べなくなり、排泄もしなくなった。
予測は確信に変わった。この日ほど両親に産んでもらったことを感謝した事はない。
私は神の力を授かった。
何匹か他の動物にも試しても結果は同じだった。通常餓死をしてもおかしくない日数よりもはるかに生きる事と、故意に傷つけなくては力が発揮されない事が実験していくうちにわかった。私が傷つけた生き物は生から解き放たれる為、それを解放と呼んだ。
私がこの力に覚醒したばかりの頃幼少期をよく思い出した。祭りでもらった数匹の金魚を同級生に取り上げられ、殺されてしまった時のことだ。コンクリートの壁にビニールごと叩きつけられ、金魚は地面に打ち付けられた。やがて動かなくなった金魚を見下ろし満足気に同級生は走り去って行った。そして私はその場所で、ひっくり返った金魚の前で泣いた。そばの街頭が丁度スポットライトのように筋を作っていた。光の円に入るように一人の男が突如現れた。びくりと体が跳ねる。暗闇で顔が影になり、男が私に近づく。
「一人か」男が私の目をまっすぐに見つめるのがなんとなく、わかった。頷くと男はフッと息を吐き、口角を上げた。男の目が輝いていたような気がした。金縛りにでもあったみたいに私は男に釘付けになっていた。
「そうか。また会おう」
私は何もせず、彼の大きな背中と後頭部に結ばれた揺れる髪の毛を見送った。死んだ金魚に目をやると一匹がピクリと体をひねり、また動かなくなった。
ただならぬ雰囲気を持った男だった。
高校生になってから力を使う事がなくなった。満足していたからだ。自分が特別な存在だと思い込み周りを見下していたように思う。実際私は他のどんな人間にも持ち得ない力を持っていた。
友達を作ろうともせず教室の隅でただ本を読む。成績も優秀。クラスでは変人だと噂されていた。「まるで死んでいるかのような歪な雰囲気を持っている」男が「同じ教室の中で声も発する事なく存在していた」のだから当然といえば当然だった。
しかし私は一部の女子にはなぜか人気があった。それと同時にそれをこころよく思わない男子もいた。私はある日クラスメイト、Nに呼び出され、暴行されそうになった。ポケットに常備していた果物ナイフをとっさに出した。こちらに向かってきたNの腹に果物ナイフが突き刺さった。Nは目を丸くした。確かに刺した感触はあったがNはなんともなさそうで、更に驚いた顔をした。彼を解放してしまった。勿論わかってやった事だった。前回と違ったのはすぐに血が止まったという点。傷口が瞬時に再生したのだろうか。力が変化、もしくは進化したのではないかと私は考えた。
しばらく経ち、次は私が他のクラスメイトに見つからないよう学校の屋上にNを呼び出した。真実を交えた嘘を吐き、お前は不死身になってしまったのではないかと結論付けそれを告げた。「食事、睡眠を摂らず生きていく事が出来、更に何をしても痛みはない。そうだな」そう同意を求めるとNは興奮したように首を何回も縦に振った。そしてNは「お前に刺されてからだ」と付け加えた。Nは私がほのめかすと喜んで飛び降りて見せた。心臓が踊り体を突き破りそうになって震える声が漏れた。下には真っ赤な水溜りの上に首や、腕や、足がおかしな方向に捻じ曲がった死体があった。動く気配は全くなかった。どうやら不死身にはならないらしい。私は誰にも見つからないように帰宅した。
次の日の朝Nが自殺したという噂が流れた。そして全校生徒が集まる朝礼では校長がNが死んだ事を話した。
*
渇望していた。自分の力を行使する事に。それもただの動物ではなく、人間に。もっと試したかった。T、Nに続く実験体を探したが、人の目につくところで力を使ってしまうと誰かにばれてしまう可能性もある。慎重に機会を伺った。大学一年の時に思いついたのが「私から離れた所で私が故意に人を傷つけた場合力は働くのか」という実験だった。すぐに実行した。私は食堂や講義室の椅子、机に画鋲の針を上に向けて設置した。偶然を装う為、色々な教室を使用し、掲示板の近くを選んだ。更に画鋲の他にも針金など様々な道具で罠を仕掛けた。効果はすぐに確認する事が出来た。三日も経つと保健室の前に人の列が出来るようになったからだ。その半年後、私が通っていた大学の生徒が大量死した。死因はみな同じだった。食べ物を口にしなくなり、餓死。思ったよりも大きくニュースなどで取り上げられた為少しびくいびくしていたが、専門家の見解は全て的外れでテレビを見ながら何度もほくそえんだ。そしてこの件で満足したのでまたしばらく力を使わなかった。
マリという女が居た。私と同じ大学、学科の生徒で、人懐っこく素直な性格をしていた。交友関係は広く人と仲良くなるのに時間がかからない質の人間だった。友達を作りたがらない私にわざわざ近づいてきたのは、皆が必死に友達を作ろうと躍起になっている入学当初を除いてただ一人、マリだけだった。
マリと話をするのは楽しかった。こちらが特に話題を考えなくても向こうが話しを作ってくれた。絶妙な距離の取り方だったように思う。決して喋り過ぎず、普段人と関わらない私も気疲れするようなことはなかった。そして私が好きだと言った音楽や本、様々なモノは次に会う日までに勉強してきていた。私に気がある事はすぐにわかった。
昼休み、私が気に入っていた庭園でいつもマリと会話をした。私はコンビニなどで購入した弁当を食べていて、マリは母親の手作り弁当を食べた。
二年生の冬が終わる頃、彼女からの告白を受け私たちは付き合い始めた。
*
就職活動についてぼんやりと考えていた。「ある組織の一員」と名乗る怪しいスーツ姿の男に出会ったのは、電車を待ちながらかじかんだ手をコートのポケットに突っ込んでいる時だった。
彼らは私の存在を随分前から知っている風だった。組織は「一生遊んで暮らせる程の金を用意するから、お前の力を貸してくれないか」と申し出てきて、私のことをKと呼んだ。ただ能力を発揮するだけで良い。朝飯前だ。それに、気兼ねなく力を使う事が出来る。私にとって一石二鳥の最高の仕事だった。唯一の条件は組織の事を誰にも口外しない事。組織に対する不信感や疑念よりも好奇心の方が強かった。私はすぐに了承し、携帯電話の番号を教えた。男の内ポケットから見たこともないぐらいに太った封筒が私の前に差し出された。私はその金ですぐに一人暮らしを始めた。実家で両親と暮らすよりも便利で都合が良いからだ。アルバイトもしなかった私が親の援助なしで一人暮らしなど出来るはずがないのに、両親は勝手にしろといった具合だった。元より放任主義の親だ。好きにしようと思った。
最初の仕事は春、四年になってすぐだった。猫を解放したのを思い出しながら施設へと向かった。
組織に指定された住所に到着すると、そこは何の変哲も無い一軒屋だった。組織の人間が私を手招きした。住宅街から少し離れた場所にどっしりと庭を構えている立派な家だった。都市から離れた郊外の町で自然が多かった。玄関に足を踏み入れる。土足で良いらしい。組織の人間はフローリングの廊下を真っ直ぐ歩き、玄関の正面にある部屋の扉に手をかけた。
「こっちだ」そう言いながら彼はクローゼットを開く。中を覗くとコンクリートで出来た無機質な地下階段が現れた。「驚いただろう。ようこそ、研究所へ」
そこは病棟のような雰囲気だった。天井にはいくつものライトがあり薄暗い地下を眩しく照らしていた。空間全てがコンクリートで出来ているようだった。それでいて、白い。無機質な通路を組織の人間と歩く。かかとの音が四方八方に反射した。秘密の入り口はこの一軒屋だけではなさそうだった。
「今回はこれを頼みたい」いくつもある部屋のうちの一つに通された。手術室を彷彿させるような雰囲気だった。男がベッドの上で動けないように縛られていた。
「わかった。これを使っても構わないか」ポケットから果物ナイフを出し、見せた。「好きにしろ」私は男の手の甲から手首当りまですっと刃を滑らせた。皮膚が裂け中から血が顔を出すと同時に皮膚が元通り再生していく。男の精気を直接掴んで抜き取るような言いようの無い感覚。瞬間的に感情が高ぶる。心臓が叫ぶ。口の中がカラカラだった。死神にでもなった気分だった。
「すごいな」男が感心するようにつぶやく。
思わず笑みが零れた。
一人暮らしを始め、卒業を待つだけの毎日。好きな事をする時間がいくらでもあった。仕事の後、組織から何回かに分けて莫大な金が振り込まれた。就職活動をする理由も無い。
それとは逆に忙しくなっていくマリと一緒に過ごす時間は少なくなっていった。マリはなぜそんな余裕があるのかと私に問う。そしていつも私は就職する事に魅力を全く感じないと答える。会って話す事はいつも同じ。堂々巡りだった。
しばらくして二回目の依頼が来た。
*
「おい。誰か」私は返事をしない壁に怒鳴る。「誰もいないのか」何度も怒鳴る。それでも反応するものはこの部屋に無い。ここに来てから数日。なぜこんな事に巻き込まれてしまったのか。考えても無駄な気がした。
この部屋は白く広い。玄関、キッチン。扉をはさみ十畳程の空間。トイレ、風呂。窓。部屋の中にあるテレビ、冷蔵庫等の家電やソファ、本棚などの家具。その全てが白い。その中で全裸の私だけが色を放っていた。家具の質感は普段使っていたものと違いがほとんど感じられなかった。ソファには高級感とツヤのある布。ふかふかしているクッション。異常に白いという事を除けばいつもと変わらない生活を送れそうだ。ただ窓は外の景色を切り取る事なくただ無機質に白いし、テレビの画面も同じ。無意味な玄関扉。
誰にぶつけていいかわからない怒りが、胸の内でずっと漂っていた。
また何日かが過ぎた。時を示すものがないので具体的な日数はわからないがそれでも体感的に数日は経過しているはずだった。
この空間ではやる事など無い。しかし、懺悔する時間は嫌になる程あった。今までの人生でやってきた色々な事。これから過ごす日々のやるせなさや無意味とも言える私の命。色々な所を調べてみたがここは完全に外界と遮断されていた。閉じ込められてから、徐々に脱力感や虚無感に体が支配され始めていた。
*
マリの言いたい事はわかっていた。ストレスが溜まっていてつらい事も。喧嘩が目に見えて増えた。黙りこくる私に、マリが怒り泣き喚いた。繰り返されるその状況を私は諦めていたのかもしれない。それでも彼女は私にぶつかり続けた。今まで共に歩んでいた道が突然分かれ、別々の道を歩くのかもしれない。悲しいがそれはそれで良いと思った。
「最後の依頼になる」組織の男の重苦しい声が電話口から聞こえる。組織の仕事が終わってからは何をしよう。金を稼ぐ必要はないし、卒業後の事は考えていない。ゆっくりするのもいいかもしれない。私は男に返事をし、通話を切った。
マリとはすっかり会わなくなってしまっていた。お互いに会う理由が無い。少し手が冷える。
「最近、寒くなってきたな」私はポケットの中で拳を握った。
この地下研究所に足を運ぶのは三度目だった。電話の男はいつも同じだが、案内役の男は毎回違った。一体何の研究をしているのか私には見当がつかなかった。私が前回の仕事で解放した人間達は一人を除き死んだらしい。死に方は人それぞれで、自殺した者、餓死した者、精神が狂って脳が機能しなくなった死んだも同然の者。私が、殺したのだ。
次はどんな人間なのだろう。男は部屋の扉を開けた。ベッドとライトしかない手術室の部屋だ。男に視線をやると、男は三日月の形をした、気味悪い笑みを顔にべったりと貼り付けていた。
「さあ、仕事だよ、K」
脊髄が氷の棒にすり替えられてしまったような感覚に陥った。焦点が定まらず、意識が私から離れようとする。次第に息が荒くなって呼吸が困難になった。肩が激しく上下する。血液は全身をまわっていく。心臓の鼓動がうるさいぐらいに鳴る。マリは目を閉じ、ゴムのようなバンドで縛られていた。上半身から、下半身まで均等に、バンドがマリの体と寝台を結びつけていた。
目の前の光景を信じられなかった。私が次に殺すのはマリらしい。
「……これはどういう事だ」声と、拳が震える。それでも尚男の薄気味悪い笑みは消えなかった。この男が憎くて堪らない。
「なんの事だい」私を挑発するように、ふざけた口調で答えた。得体の知れない大きな存在に私は戦慄した。
マリの姿がフィルムのように細切れで再生される。目から一滴、涙が零れた。久しぶりだった。プライドなど棄ててしまった方がいい。
「やめてくれ。なんでもする」
「ほう。それ程大切かね。それならばお前が代わりに被験者になるんだ。簡単だろう。そうすればこの女の安全は保障しよう」
私自身を犠牲にすれば、マリは助かる。だが組織が本当にそのような約束を守るだろうか。
自分とマリ。どちらを生かすか、その選択権が今、私に託されていた。
*
私はただ白と同化していた。決して動かず、じっと白を見つめていた。調和し始めていた。白は神秘的だった。限りなく輝いていて、全てを包み込むような優しさがあった。その感覚は胎内にいる赤子と同じようなものかもしれない。不思議な力が働いているのだろうか。
目を閉じた時だった。耳が随分久しぶりに音を拾った。コン。コンコン。それはどこかから壁を叩く音だった。体を起こすが自分の物ではないかと疑うくらい重たい。部屋を見渡す。また鳴った。
「誰だ。どこにいる」これも、まるで自分の声ではないような気がした。
「まだ元気そうだな。ちょっと、失礼するよ」冷蔵庫が開き、男の声が大きくなった。中は何もなく、奥が暗い通路らしきものと繋がっていた。そんな所に、と思った。前に冷蔵庫を開いた時は扉など無かったはずだ。
「ひどい格好だな」男は黒いスーツズボンにカッターシャツ、蝶ネクタイをしていた。ヒゲを耳の下から顎まで薄く延ばしている。茶色い髪の毛だ。前髪を後ろに流して縁のないメガネをかけていた。説明もなしに男は全裸の私を見て服を投げた。呆気に取られている私に、彼は優しい父親のような顔をして手を差し伸べてきた。彼がここにいるだけで全てが白く染まっていたこの部屋のバランスがひどく崩れたように感じる。
「ここで死ぬか、私と逃げるか。どっちがいい」彼の目には生気がみなぎっていた。それに強く惹かれた。魂が震え、引っ張られるような感覚。ここで死ぬのはごめんだ。
「外に、出たい」蚊の鳴くような声が自然と喉から出てきた。まだ自分に生きる気力があったのかと少し驚いた。良いね。と彼が同調し、彼は私の手を掴んで立ち上がらせる。
「さあ、早く服を着てくれ。目のやり場に困るだろ」ジーンズとTシャツ。着替える事がこんなに難しいと思ったのは初めてだった。
「田舎とかいいな」手間取っている間、男は一人でぶつぶつと今後の事を呟いていた。服を着ると突然、あ。と男が思い出したように言った。
「君の名前を決めよう。Kじゃあれだから土が二つの圭なんて、どうだ」今更名前などどうでもよかった。
「まあ、おいおい決めるか。それじゃ、行こう」
不思議な雰囲気をまとった背中と後頭部に結ばれた揺れる髪の毛。それに引き寄せられるように、私は奥へと続く冷蔵庫の扉を潜った。