悪役令嬢は、誰も来ない夜にガトーショコラを焼く
十三日の夜、侯爵家の厨房に灯っている明かりは、ひとつだけだった。
使用人たちはすでに下がらされている。
竈の火も、調理台の銀器も、磨き上げられた銅鍋も、夜の底に沈んだように静まり返っていた。窓の外では庭木が揺れ、枝の影が床の上をゆっくり這っている。
その中央で、エルゼミア・グラナートは歌うようにチョコレートを刻んでいた。
刃が黒い塊に落ちるたび、こつん、こつん、と小さな音がする。
甘い匂いはまだない。
あるのは、深く苦い香りだけ。
「甘すぎるものは、お好きではないのよね」
エルゼミアは、誰もいない厨房で微笑んだ。
黒いドレスの袖をまくり、白い指で刻んだチョコレートを鍋に入れる。そこへバターを落とし、赤い果実酒を少しだけ注いだ。銀の匙でゆっくり混ぜると、固かった欠片が熱に負けて、とろりと艶を帯びていく。
それを見るエルゼミアの目は、恋文を読む少女のように甘かった。
「ちゃんと覚えているわ。あなたのことなら、私は忘れないもの」
厨房の隅には、椅子が一脚置かれている。
来客用ではない。食卓用でもない。
背もたれには細い鎖が巻かれ、その上から黒いリボンが結ばれていた。乱暴な拘束ではない。むしろ、贈り物の箱に飾りをかけるような、丁寧で美しい結び方だった。
椅子の足元には、赤いシクラメンの鉢が置かれている。
夜の中で、その赤だけが妙に鮮やかだった。
「明日の十八時には、いつものようにお帰りになるのよね」
エルゼミアは鍋を混ぜながら、椅子へ視線を向けた。
「大丈夫。それまでには焼き上げておくわ。焦がしたりしない。あなたに差し上げるものだもの」
返事はない。
けれどエルゼミアは、返事を聞いたように頬を染めた。
卵を割り、砂糖を混ぜ、小麦粉をふるい入れる。砕いた木の実と、乾かした赤い花弁。それから小瓶に入った薬草の粉を、ほんの少し。
薬草の瓶には、古い文字で名が書かれていた。
眠りを深くする草。
夢を鮮やかにする草。
心臓の音を遠くする草。
医師ならば眉をひそめる。
薬師ならば量を問う。
神官ならば、きっと祈りを唱える。
けれどエルゼミアにとって、それはどれでもなかった。
これは扉だった。
ここではないどこかへ行くための、甘く苦い扉。
「怖がらないで」
エルゼミアは、型に生地を流し込んだ。
「明日こそ、私たちは本当になるの」
焼き型を竈に入れ、火加減を確かめる。
それから彼女は、椅子のそばへ歩み寄った。鎖に指をかけ、黒いリボンの形を整える。赤いシクラメンの花を一輪摘み、椅子の座面に置いた。
そこには誰も座っていない。
けれどエルゼミアは、愛しい人の肩に触れるような仕草で、空の椅子の背に頬を寄せた。
「明日は皆が見ているわ」
その声は、うっとりとしていた。
「陛下も、聖女様も、貴族たちも、民衆も。みんな、私たちを見るの。ようやくよ。ようやく、あなたと私の物語が始まるの」
竈の中で、ガトーショコラが膨らみ始めた。
夜は、甘く苦い匂いに満ちていった。
翌朝、王宮から召喚状が届いた。
侯爵家の執事が青ざめた顔で差し出した封筒を見て、エルゼミアは少女のように笑った。
「まあ。とうとうね」
「お嬢様」
執事の声は震えていた。
「これは、喜ばしいお知らせではございません」
「知っているわ」
エルゼミアは封を切った。
金の印章が割れる。上質な紙には、王家の紋章と、女王ヴェルレーヌの名があった。
聖女候補ミレーネ・リュシアへの脅迫。
王家の名を用いた虚偽の招待状の配布。
王家が認めぬ婚姻を、公認のものと偽った罪。
王宮への不敬。
夜会の席にて申し開きを命ずる。
文字は冷たく、簡潔だった。
「ほら。やっぱり、今夜なのね」
エルゼミアは便箋を胸に抱いた。
「皆の前で、私たちは認められるのよ」
「お嬢様、どうかお聞きください。これは断罪でございます」
「断罪」
エルゼミアは、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「素敵な響きね」
執事は唇を噛んだ。
侯爵家では、ここ数ヶ月、誰もが腫れ物に触るようにエルゼミアを扱っていた。
最初は、若い令嬢によくある恋の熱だと思われていた。
王宮の夜会で見かけた誰かに心を奪われたのだろう。身分ある娘ならば、婚約や縁談への憧れが強くなる時期もある。
そう考えていた者たちも、やがて口を閉ざすようになった。
エルゼミアは、届くはずのない招待状を待つようになった。
誰も訪ねてこない応接室に茶を用意した。
庭園のベンチで隣の空席に話しかけた。
礼拝堂の席をひとつ空けさせ、そこへ向かって微笑んだ。
そして、聖女候補ミレーネが王宮へ上がると、彼女に向かってこう言った。
あなたは、あの方を奪うつもりでしょう。
ミレーネは何も知らなかった。
知らないからこそ、恐ろしかった。
誰もいない場所を見つめるエルゼミアの目は、本当に恋をしている者の目だったからだ。
「お嬢様。今からでも王宮へ弁明の書状を」
「必要ないわ」
エルゼミアは、鏡台へ向かった。
「ドレスを用意して。黒いものがいいわ。あの方は、私に黒が似合うとおっしゃったもの」
「お嬢様」
「それから、赤いシクラメンを」
「……はい」
「ガトーショコラも忘れずに。昨夜焼いたものよ。箱に入れて、リボンをかけておいて」
執事は、何か言おうとしてやめた。
言葉など、もう届かない。
エルゼミアは鏡の前に座り、自分の顔を見つめた。
白い肌。薄く色づいた唇。よく整えられた髪。瞳は、夜明け前の紫に似ている。
美しい。
誰からもそう言われてきた。
礼儀正しい。
優秀だ。
侯爵令嬢にふさわしい。
王子様に選ばれる娘になりなさい。
幼い頃、母はいつもそう言っていた。
「王子様は、強く美しい令嬢をお好きになるのよ」
鏡の中のエルゼミアが、微笑む。
「そうでしょう?」
彼女は背後を振り返った。
そこには誰もいない。
けれどエルゼミアは、誰かの視線を受けたように、恥じらって目を伏せた。
エルゼミアが初めて王子様の存在を知ったのは、五歳の頃だった。
母の膝に抱かれて、古い絵物語を読んでもらった夜である。
物語の中の王子様は、美しく、優しく、孤独だった。
王子様は塔に閉じ込められた姫を救い、悪い魔女を退け、最後には姫を馬車に乗せて遠い城へ連れて行く。
姫は言う。
あなたとなら、どこへでも行けます。
王子様は答える。
では、一緒に行こう。
幼いエルゼミアは、その言葉を何度も母に読ませた。
「王子様は本当に来るの?」
母は笑った。
「ええ。あなたが立派な令嬢になれば、きっと」
「私のところにも?」
「もちろんよ。王子様に選ばれるような娘になりなさい」
母にとって、それは貴族の母が娘に聞かせる、ありふれた教育の言葉だった。
王子様とは、高位の縁談。
選ばれるとは、礼法と教養を身につけること。
美しくなるとは、侯爵家の名に恥じない振る舞いを覚えること。
けれどエルゼミアは、そのまま受け取った。
王子様は来る。
私のところへ、迎えに来る。
だから私は、美しくならなくてはいけない。
完璧でなくてはいけない。
王子様に選ばれる私でいなくてはいけない。
母は、菓子作りの時間にも同じようなことを言った。
「甘すぎるお菓子は幼く見えるわ。高貴な方は、少し苦みのあるものを好まれるの」
「王子様も?」
「そうね。きっと、ビターなチョコレートがお好きよ」
それもまた、母にとっては礼法の一部だった。
けれどエルゼミアは覚えた。
王子様は、ビターなチョコレートが好き。
父が仕事から帰るのは、いつも十八時頃だった。
母は窓の外を見て言った。
「もうすぐ帰っていらっしゃるわ」
エルゼミアは、その横顔を見て思った。
帰ってくる人を待つのは、愛なのだ。
十八時に帰ってくる人を待つのが、妻なのだ。
だから、いつか王子様も十八時に帰ってくる。
自分はそれを待つ。
美しい菓子を焼いて、椅子を用意して、赤い花を飾って。
そうしているうちに、絵物語の王子様は、エルゼミアの中で名前を持った。
アルフェリオ。
古い舞台劇に出てくる王子の名だった。
母がたった一度、寝物語に読んでくれた悲恋劇の主人公。
姫と約束を交わしながら、戦場へ向かう王子。
戻らなかった王子。
それでも姫に待たれ続けた王子。
エルゼミアは、その名を忘れなかった。
王子様は、アルフェリオ。
王子様は、ビターなチョコレートが好き。
王子様は、十八時に帰ってくる。
王子様は、私と一緒に行く。
それらはすべて、幼い彼女の中で、ひとつの真実になった。
王宮の大広間には、夜会の灯りが満ちていた。
幾つものシャンデリアが白い光を落とし、磨かれた床に人々の姿を映している。貴族たちは壁際に並び、神官たちは祭壇の近くに立ち、近衛兵は扉の前を固めていた。
中央には、女王ヴェルレーヌがいる。
若く、美しい女王だった。
銀の髪を高く結い上げ、深青のドレスをまとっている。その横には、聖女候補ミレーネが立っていた。白い衣を着た少女は、怯えた小鳥のように両手を握りしめている。
エルゼミアは、その姿を見て微笑んだ。
かわいそうに。
そんなに震えて。
けれど今日は、もう逃がしてあげる。
あなたは脇役なのだから。
「エルゼミア・グラナート」
女王の声が響いた。
「前へ」
エルゼミアは優雅に礼をした。
黒い夜会服の裾が、影のように床を滑る。腰には赤いシクラメン。手には、黒いリボンをかけた菓子箱。
ざわめきが広間を走った。
悪女。
誰かがそう囁いた。
エルゼミアは、その言葉を嫌いではなかった。
悪役がいるから、物語は始まる。
悪役が断罪されるから、ヒロインは輝く。
ならば、自分が悪女と呼ばれるのも悪くない。
最後に愛されるのが自分ならば。
「あなたに問う」
女王は冷ややかに言った。
「聖女候補ミレーネ・リュシアを脅迫したことに、相違はないか」
「脅迫などしておりません」
「彼女に、王子を奪うなと告げたそうだな」
「当然ですわ」
エルゼミアは、ミレーネを見た。
「他人の恋人を見つめるなんて、はしたないことですもの」
ミレーネの顔が青ざめる。
「私は、何も」
「嘘」
エルゼミアは優しく遮った。
「礼拝堂で、あなたはあの方を見たわ。庭園でも、廊下でも、舞踏会の壁際でも。私にはわかるの。あなたの目は、あの方を探していた」
「違います」
「違わないわ」
エルゼミアは、ひどく穏やかだった。
「あなたは私から奪おうとした。だから、少しだけ教えてあげただけ。あの方は私のものよ、と」
「そこには」
ミレーネの声が震えた。
「そこには、どなたもいらっしゃいませんでした」
広間が静まった。
エルゼミアは、ゆっくり首を傾げた。
「まあ」
その目には、憐れみすらあった。
「まだそんなことを言うの?」
女王が一歩前へ出た。
「次に問う。王家の名で、婚礼の招待状を配ったな」
「ええ」
「王家は、そのような婚礼を認めていない」
「今夜、認められます」
「誰との婚礼だ」
エルゼミアは、頬を染めた。
「アルフェリオ殿下と」
その名が広間に落ちた瞬間、貴族たちのあいだに奇妙な空気が流れた。
嘲りではない。
怒りでもない。
もっと冷たいもの。
誰もが、言ってはならないことを聞いてしまったような沈黙だった。
女王の表情だけは変わらない。
「その名の王族は、王家に存在しない」
「ひどい冗談」
エルゼミアは笑った。
「陛下まで、ミレーネ様の味方をなさるの?」
「エルゼミア」
「いいえ。大丈夫です。私は怒っていませんわ。今夜は特別な夜ですもの。誤解も、嘘も、嫉妬も、すべて甘く溶けてしまうのです」
エルゼミアは菓子箱を開いた。
ふわり、と香りが広がる。
苦いチョコレート。
赤い果実酒。
焼けた砂糖。
花。
薬草。
貴族の何人かが顔をしかめた。神官が眉を寄せる。近衛兵がわずかに身構える。
箱の中には、艶やかなガトーショコラが入っていた。
表面には赤いシクラメンの花弁が飾られている。
その横には、二枚の皿と二本のフォーク。
エルゼミアは、それらを広間の中央に並べた。
一枚は自分の前へ。
もう一枚は、自分の隣へ。
そこには誰もいない。
けれど彼女は、何の迷いもなく隣へ微笑んだ。
「お待たせしました」
その声は、恋人に向けるものだった。
「今夜のために焼いたの。あなたの好きな苦いチョコレートよ」
誰も動けなかった。
ミレーネは両手で口を押さえた。
「お願いです、やめてください」
「なぜ?」
「そこには、誰も」
「見えないふりをするのは、もうおやめなさい」
エルゼミアはナイフを取った。
ガトーショコラを丁寧に切り分ける。刃が入るたび、しっとりとした生地が割れ、濃い香りが立ち上った。
「あなたには、あげないわ」
彼女はミレーネに言った。
「これは、あの方のためのものだもの」
ミレーネは泣き出した。
「私は、あなたから何も奪っていません」
「奪ったわ」
「奪っていません」
「では、なぜ震えているの?」
「あなたが怖いからです」
その言葉だけが、まっすぐに広間を貫いた。
エルゼミアの手が止まる。
ミレーネは涙をこぼしながら続けた。
「礼拝堂で、あなたは空席に向かってずっと話しかけていました。私はそれを見てしまっただけです。庭園でも、舞踏会でも、あなたの隣には誰もいませんでした。なのにあなたは、私がその方に笑いかけたと言いました」
「やめなさい」
「私は王子様を知りません」
「やめて」
「あなたの言う王子様を、誰も知らないんです」
エルゼミアはミレーネを見つめた。
それは怒りの目ではなかった。
迷子の子供が、知らない場所で母を探す時の目だった。
「嘘よ」
小さな声だった。
「だって、あの方はここに」
彼女は隣を見る。
誰もいない。
だが、エルゼミアには見えている。
黒髪の王子。
優しい瞳。
少し怯えたような唇。
自分だけを見てくれる人。
彼はいつもそこにいる。
礼拝堂でも。
庭園でも。
舞踏会の壁際でも。
十八時の厨房でも。
彼はいつも、何も言わずにそこにいる。
エルゼミアの目が、再び甘く溶けた。
「ほら。いらっしゃるわ」
女王ヴェルレーヌは、目を伏せた。
それから、静かに命じた。
「記録官」
王家の記録官が進み出る。
古い台帳を抱えた老爺だった。
「王家の直系に、アルフェリオという名の王子は存在するか」
「存在いたしません」
「先代王の子は」
「現女王陛下、お一人でございます」
「その前の代は」
「王女二名。王子はおりません」
「王家に、現在、王子は存在するか」
「存在いたしません」
広間に、決定的な沈黙が落ちた。
エルゼミアは笑った。
「そんなはずないわ」
記録官は、感情を殺した声で続けた。
「アルフェリオという名は、王家の洗礼台帳にも、貴族名簿にも、臣籍降下の記録にもございません。三百年、どこにも」
「そんなはずない」
女王が、侍女に合図した。
侍女は銀盆を持って進み出る。
そこには数通の手紙と、黒いリボンが乗せられていた。
「あなたが王子からの文だと主張したものだ」
女王は言った。
「筆跡は、すべてあなたのものだった。封蝋も便箋も、グラナート侯爵家の品。黒いリボンに至るまで、王宮のものではない」
「違う」
「あなたが王子と踊ったと語った夜、あなたは壁際でひとり、誰もいない空間に手を添えて揺れていた」
「違う」
「庭園のベンチにも、礼拝堂の席にも、あなたの隣には誰もいなかった」
「違う!」
エルゼミアの声が、初めて広間に鋭く響いた。
シャンデリアの光が揺れたように見えた。
彼女は両手を胸に当て、息を乱した。
「違う。違うわ。だって、お母様が言ったもの。王子様は来るって。私が立派な令嬢になれば、迎えに来るって。甘すぎるものより苦いものがお好きだって。私はずっと、ずっと待っていたのよ」
誰も笑わなかった。
誰も嘲らなかった。
それが、かえって残酷だった。
エルゼミアは、隣の皿を見た。
ガトーショコラは、少しも減っていない。
当然だ。
誰も座っていないのだから。
誰もフォークを取っていないのだから。
誰も彼女の隣で、苦いチョコレートを口に運んでいないのだから。
「……食べないの?」
エルゼミアは、隣に尋ねた。
返事はない。
「どうして?」
返事はない。
「あなたのために焼いたのよ」
返事はない。
「苦すぎた? 甘さが足りなかった? 花が嫌だった? それとも、ミレーネ様が見ているから?」
彼女はふらりと視線を上げ、ミレーネを見た。
ミレーネは泣いていた。
泣いているだけだった。
そこに勝利はなかった。
奪った者の顔ではなかった。
エルゼミアは、ようやく気づきかけた。
ミレーネに奪われたのではない。
誰かに隠されたのでもない。
最初から、席などなかったのだ。
その事実は、あまりにも寒かった。
だから彼女は、信じないことにした。
「いいの」
彼女は、急に穏やかな声で言った。
隣の皿を、自分の前へ引き寄せる。
「あなたが食べられないなら、私が食べてあげる」
「エルゼミア、やめなさい」
女王の声が飛ぶ。
近衛兵が動いた。
けれどエルゼミアは、フォークでガトーショコラを切り取り、口へ運んだ。
一口。
甘く、苦い。
薬草の香りが、舌の奥でほどける。
「おいしい」
彼女は笑った。
「ねえ、おいしいわ」
もう一口。
もう一口。
丁寧に。
二人分を、一人で。
女王が命じる。
「止めろ!」
近衛兵が彼女の腕を掴む。
それでもエルゼミアは、皿の欠片を指でつまみ、口に入れた。
「怖くないわ」
彼女は誰もいない隣へ囁いた。
「あなたとなら、怖くないもの」
視界が揺れた。
シャンデリアの光が溶ける。
貴族たちの顔が遠ざかる。
ミレーネの泣き声が、どこかの舞踏曲のように聞こえた。
女王の声も、近衛兵の足音も、神官の祈りも、すべて水の中から聞こえるようにぼやけていく。
その代わり、隣の気配だけが鮮やかになった。
黒髪。
白い手。
優しい目。
少し震えた唇。
エルゼミアだけを見つめる王子様。
いる。
やっぱり、いる。
皆には見えないだけ。
私だけが、知っている。
「ほら」
エルゼミアは、うっとりと笑った。
「こっちを見てくださった」
赤いシクラメンが床に落ちた。
黒いリボンがほどける。
皿に触れた鎖の飾りが、ちりん、と小さく鳴った。
エルゼミアは、誰もいない空間へ身を預けるように倒れかかった。
近衛兵が支えた。
けれど彼女には、王子の腕に抱かれたように思えた。
「やっと」
彼女は微笑んだ。
「二人きりね」
そのまま、エルゼミアは意識を失った。
エルゼミア・グラナートは処刑されなかった。
王家は彼女を、心を病んだ侯爵令嬢として北の修道院へ送った。
グラナート侯爵家は多額の罰金を納め、領地の一部を王家へ返上した。偽の婚礼招待状は回収され、王宮での一件は、王家の威信を揺るがす醜聞として早々に封じられた。
聖女候補ミレーネは、しばらく人前に出られなかった。
それでも半年後には聖女として正式に認められ、王都の大聖堂で祈りを捧げるようになった。
女王ヴェルレーヌは、以後、王宮内で「王子様」という言葉を不用意に使うことを禁じた。
子供向けの絵物語からも、いくつかの文言が改められたという。
けれど、北の修道院では、十三日の夜だけ甘い匂いが漂うようになった。
エルゼミアは、驚くほど静かに暮らしていた。
暴れない。
泣かない。
誰かを責めない。
日中は庭の手入れをし、礼拝堂の花を替え、修道女たちに礼儀正しく挨拶をする。
ただ、毎月十三日の夕方になると、彼女は厨房を借りた。
小さなガトーショコラを焼く。
赤いシクラメンを一輪飾る。
皿を二枚並べる。
椅子を二脚用意する。
片方の椅子には、黒いリボンを結ぶ。
修道女の一人が、初めてそれを見た時、そっと尋ねた。
「どなたを待っていらっしゃるのですか」
エルゼミアは、幸せそうに微笑んだ。
「王子様よ」
修道女は、それ以上何も聞かなかった。
十八時の鐘が鳴る。
エルゼミアは背筋を伸ばし、誰も座らない椅子へ向かって微笑む。
「おかえりなさい」
返事はない。
それでも彼女は、嬉しそうにガトーショコラを切り分ける。
ひとつは自分の皿へ。
もうひとつは、黒いリボンを結ばれた椅子の前へ。
「今日は上手に焼けましたの」
夜が更ける。
蝋燭が短くなる。
赤いシクラメンの影が、壁の上で揺れる。
エルゼミアは、誰も来ない夜に、誰かを待ち続ける。
翌朝、修道女が厨房を覗くと、エルゼミアの前の皿だけが空になっている。
黒いリボンを結ばれた椅子の前には、冷たく固まったガトーショコラが、手つかずのまま残っていた。
その国に、アルフェリオという王子が生まれたことは一度もない。
それでも十三日の夜になるたび、エルゼミア・グラナートはまた、誰も来ない夜にガトーショコラを焼く。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、とある曲の甘くて不穏な空気から、「誰かを待つこと」と「物語のヒロインでいたい気持ち」を悪役令嬢ものに落とし込んでみました。
恋の話のようで、実は恋する相手そのものよりも、「愛される自分」を手放せなかった令嬢の話です。
ガトーショコラの甘さと苦さ、誰も座らない椅子、冷めていく二人分のお皿。そのあたりに少しでもぞくりとしていただけたなら嬉しいです。




