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悪役令嬢は、誰も来ない夜にガトーショコラを焼く

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/07/07

 十三日の夜、侯爵家の厨房に灯っている明かりは、ひとつだけだった。


 使用人たちはすでに下がらされている。


 竈の火も、調理台の銀器も、磨き上げられた銅鍋も、夜の底に沈んだように静まり返っていた。窓の外では庭木が揺れ、枝の影が床の上をゆっくり這っている。


 その中央で、エルゼミア・グラナートは歌うようにチョコレートを刻んでいた。


 刃が黒い塊に落ちるたび、こつん、こつん、と小さな音がする。


 甘い匂いはまだない。


 あるのは、深く苦い香りだけ。


「甘すぎるものは、お好きではないのよね」


 エルゼミアは、誰もいない厨房で微笑んだ。


 黒いドレスの袖をまくり、白い指で刻んだチョコレートを鍋に入れる。そこへバターを落とし、赤い果実酒を少しだけ注いだ。銀の匙でゆっくり混ぜると、固かった欠片が熱に負けて、とろりと艶を帯びていく。


 それを見るエルゼミアの目は、恋文を読む少女のように甘かった。


「ちゃんと覚えているわ。あなたのことなら、私は忘れないもの」


 厨房の隅には、椅子が一脚置かれている。


 来客用ではない。食卓用でもない。


 背もたれには細い鎖が巻かれ、その上から黒いリボンが結ばれていた。乱暴な拘束ではない。むしろ、贈り物の箱に飾りをかけるような、丁寧で美しい結び方だった。


 椅子の足元には、赤いシクラメンの鉢が置かれている。


 夜の中で、その赤だけが妙に鮮やかだった。


「明日の十八時には、いつものようにお帰りになるのよね」


 エルゼミアは鍋を混ぜながら、椅子へ視線を向けた。


「大丈夫。それまでには焼き上げておくわ。焦がしたりしない。あなたに差し上げるものだもの」


 返事はない。


 けれどエルゼミアは、返事を聞いたように頬を染めた。


 卵を割り、砂糖を混ぜ、小麦粉をふるい入れる。砕いた木の実と、乾かした赤い花弁。それから小瓶に入った薬草の粉を、ほんの少し。


 薬草の瓶には、古い文字で名が書かれていた。


 眠りを深くする草。


 夢を鮮やかにする草。


 心臓の音を遠くする草。


 医師ならば眉をひそめる。


 薬師ならば量を問う。


 神官ならば、きっと祈りを唱える。


 けれどエルゼミアにとって、それはどれでもなかった。


 これは扉だった。


 ここではないどこかへ行くための、甘く苦い扉。


「怖がらないで」


 エルゼミアは、型に生地を流し込んだ。


「明日こそ、私たちは本当になるの」


 焼き型を竈に入れ、火加減を確かめる。


 それから彼女は、椅子のそばへ歩み寄った。鎖に指をかけ、黒いリボンの形を整える。赤いシクラメンの花を一輪摘み、椅子の座面に置いた。


 そこには誰も座っていない。


 けれどエルゼミアは、愛しい人の肩に触れるような仕草で、空の椅子の背に頬を寄せた。


「明日は皆が見ているわ」


 その声は、うっとりとしていた。


「陛下も、聖女様も、貴族たちも、民衆も。みんな、私たちを見るの。ようやくよ。ようやく、あなたと私の物語が始まるの」


 竈の中で、ガトーショコラが膨らみ始めた。


 夜は、甘く苦い匂いに満ちていった。


 翌朝、王宮から召喚状が届いた。


 侯爵家の執事が青ざめた顔で差し出した封筒を見て、エルゼミアは少女のように笑った。


「まあ。とうとうね」


「お嬢様」


 執事の声は震えていた。


「これは、喜ばしいお知らせではございません」


「知っているわ」


 エルゼミアは封を切った。


 金の印章が割れる。上質な紙には、王家の紋章と、女王ヴェルレーヌの名があった。


 聖女候補ミレーネ・リュシアへの脅迫。


 王家の名を用いた虚偽の招待状の配布。


 王家が認めぬ婚姻を、公認のものと偽った罪。


 王宮への不敬。


 夜会の席にて申し開きを命ずる。


 文字は冷たく、簡潔だった。


「ほら。やっぱり、今夜なのね」


 エルゼミアは便箋を胸に抱いた。


「皆の前で、私たちは認められるのよ」


「お嬢様、どうかお聞きください。これは断罪でございます」


「断罪」


 エルゼミアは、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。


「素敵な響きね」


 執事は唇を噛んだ。


 侯爵家では、ここ数ヶ月、誰もが腫れ物に触るようにエルゼミアを扱っていた。


 最初は、若い令嬢によくある恋の熱だと思われていた。


 王宮の夜会で見かけた誰かに心を奪われたのだろう。身分ある娘ならば、婚約や縁談への憧れが強くなる時期もある。


 そう考えていた者たちも、やがて口を閉ざすようになった。


 エルゼミアは、届くはずのない招待状を待つようになった。


 誰も訪ねてこない応接室に茶を用意した。


 庭園のベンチで隣の空席に話しかけた。


 礼拝堂の席をひとつ空けさせ、そこへ向かって微笑んだ。


 そして、聖女候補ミレーネが王宮へ上がると、彼女に向かってこう言った。


 あなたは、あの方を奪うつもりでしょう。


 ミレーネは何も知らなかった。


 知らないからこそ、恐ろしかった。


 誰もいない場所を見つめるエルゼミアの目は、本当に恋をしている者の目だったからだ。


「お嬢様。今からでも王宮へ弁明の書状を」


「必要ないわ」


 エルゼミアは、鏡台へ向かった。


「ドレスを用意して。黒いものがいいわ。あの方は、私に黒が似合うとおっしゃったもの」


「お嬢様」


「それから、赤いシクラメンを」


「……はい」


「ガトーショコラも忘れずに。昨夜焼いたものよ。箱に入れて、リボンをかけておいて」


 執事は、何か言おうとしてやめた。


 言葉など、もう届かない。


 エルゼミアは鏡の前に座り、自分の顔を見つめた。


 白い肌。薄く色づいた唇。よく整えられた髪。瞳は、夜明け前の紫に似ている。


 美しい。


 誰からもそう言われてきた。


 礼儀正しい。


 優秀だ。


 侯爵令嬢にふさわしい。


 王子様に選ばれる娘になりなさい。


 幼い頃、母はいつもそう言っていた。


「王子様は、強く美しい令嬢をお好きになるのよ」


 鏡の中のエルゼミアが、微笑む。


「そうでしょう?」


 彼女は背後を振り返った。


 そこには誰もいない。


 けれどエルゼミアは、誰かの視線を受けたように、恥じらって目を伏せた。


 エルゼミアが初めて王子様の存在を知ったのは、五歳の頃だった。


 母の膝に抱かれて、古い絵物語を読んでもらった夜である。


 物語の中の王子様は、美しく、優しく、孤独だった。


 王子様は塔に閉じ込められた姫を救い、悪い魔女を退け、最後には姫を馬車に乗せて遠い城へ連れて行く。


 姫は言う。


 あなたとなら、どこへでも行けます。


 王子様は答える。


 では、一緒に行こう。


 幼いエルゼミアは、その言葉を何度も母に読ませた。


「王子様は本当に来るの?」


 母は笑った。


「ええ。あなたが立派な令嬢になれば、きっと」


「私のところにも?」


「もちろんよ。王子様に選ばれるような娘になりなさい」


 母にとって、それは貴族の母が娘に聞かせる、ありふれた教育の言葉だった。


 王子様とは、高位の縁談。


 選ばれるとは、礼法と教養を身につけること。


 美しくなるとは、侯爵家の名に恥じない振る舞いを覚えること。


 けれどエルゼミアは、そのまま受け取った。


 王子様は来る。


 私のところへ、迎えに来る。


 だから私は、美しくならなくてはいけない。


 完璧でなくてはいけない。


 王子様に選ばれる私でいなくてはいけない。


 母は、菓子作りの時間にも同じようなことを言った。


「甘すぎるお菓子は幼く見えるわ。高貴な方は、少し苦みのあるものを好まれるの」


「王子様も?」


「そうね。きっと、ビターなチョコレートがお好きよ」


 それもまた、母にとっては礼法の一部だった。


 けれどエルゼミアは覚えた。


 王子様は、ビターなチョコレートが好き。


 父が仕事から帰るのは、いつも十八時頃だった。


 母は窓の外を見て言った。


「もうすぐ帰っていらっしゃるわ」


 エルゼミアは、その横顔を見て思った。


 帰ってくる人を待つのは、愛なのだ。


 十八時に帰ってくる人を待つのが、妻なのだ。


 だから、いつか王子様も十八時に帰ってくる。


 自分はそれを待つ。


 美しい菓子を焼いて、椅子を用意して、赤い花を飾って。


 そうしているうちに、絵物語の王子様は、エルゼミアの中で名前を持った。


 アルフェリオ。


 古い舞台劇に出てくる王子の名だった。


 母がたった一度、寝物語に読んでくれた悲恋劇の主人公。


 姫と約束を交わしながら、戦場へ向かう王子。


 戻らなかった王子。


 それでも姫に待たれ続けた王子。


 エルゼミアは、その名を忘れなかった。


 王子様は、アルフェリオ。


 王子様は、ビターなチョコレートが好き。


 王子様は、十八時に帰ってくる。


 王子様は、私と一緒に行く。


 それらはすべて、幼い彼女の中で、ひとつの真実になった。


 王宮の大広間には、夜会の灯りが満ちていた。


 幾つものシャンデリアが白い光を落とし、磨かれた床に人々の姿を映している。貴族たちは壁際に並び、神官たちは祭壇の近くに立ち、近衛兵は扉の前を固めていた。


 中央には、女王ヴェルレーヌがいる。


 若く、美しい女王だった。


 銀の髪を高く結い上げ、深青のドレスをまとっている。その横には、聖女候補ミレーネが立っていた。白い衣を着た少女は、怯えた小鳥のように両手を握りしめている。


 エルゼミアは、その姿を見て微笑んだ。


 かわいそうに。


 そんなに震えて。


 けれど今日は、もう逃がしてあげる。


 あなたは脇役なのだから。


「エルゼミア・グラナート」


 女王の声が響いた。


「前へ」


 エルゼミアは優雅に礼をした。


 黒い夜会服の裾が、影のように床を滑る。腰には赤いシクラメン。手には、黒いリボンをかけた菓子箱。


 ざわめきが広間を走った。


 悪女。


 誰かがそう囁いた。


 エルゼミアは、その言葉を嫌いではなかった。


 悪役がいるから、物語は始まる。


 悪役が断罪されるから、ヒロインは輝く。


 ならば、自分が悪女と呼ばれるのも悪くない。


 最後に愛されるのが自分ならば。


「あなたに問う」


 女王は冷ややかに言った。


「聖女候補ミレーネ・リュシアを脅迫したことに、相違はないか」


「脅迫などしておりません」


「彼女に、王子を奪うなと告げたそうだな」


「当然ですわ」


 エルゼミアは、ミレーネを見た。


「他人の恋人を見つめるなんて、はしたないことですもの」


 ミレーネの顔が青ざめる。


「私は、何も」


「嘘」


 エルゼミアは優しく遮った。


「礼拝堂で、あなたはあの方を見たわ。庭園でも、廊下でも、舞踏会の壁際でも。私にはわかるの。あなたの目は、あの方を探していた」


「違います」


「違わないわ」


 エルゼミアは、ひどく穏やかだった。


「あなたは私から奪おうとした。だから、少しだけ教えてあげただけ。あの方は私のものよ、と」


「そこには」


 ミレーネの声が震えた。


「そこには、どなたもいらっしゃいませんでした」


 広間が静まった。


 エルゼミアは、ゆっくり首を傾げた。


「まあ」


 その目には、憐れみすらあった。


「まだそんなことを言うの?」


 女王が一歩前へ出た。


「次に問う。王家の名で、婚礼の招待状を配ったな」


「ええ」


「王家は、そのような婚礼を認めていない」


「今夜、認められます」


「誰との婚礼だ」


 エルゼミアは、頬を染めた。


「アルフェリオ殿下と」


 その名が広間に落ちた瞬間、貴族たちのあいだに奇妙な空気が流れた。


 嘲りではない。


 怒りでもない。


 もっと冷たいもの。


 誰もが、言ってはならないことを聞いてしまったような沈黙だった。


 女王の表情だけは変わらない。


「その名の王族は、王家に存在しない」


「ひどい冗談」


 エルゼミアは笑った。


「陛下まで、ミレーネ様の味方をなさるの?」


「エルゼミア」


「いいえ。大丈夫です。私は怒っていませんわ。今夜は特別な夜ですもの。誤解も、嘘も、嫉妬も、すべて甘く溶けてしまうのです」


 エルゼミアは菓子箱を開いた。


 ふわり、と香りが広がる。


 苦いチョコレート。


 赤い果実酒。


 焼けた砂糖。


 花。


 薬草。


 貴族の何人かが顔をしかめた。神官が眉を寄せる。近衛兵がわずかに身構える。


 箱の中には、艶やかなガトーショコラが入っていた。


 表面には赤いシクラメンの花弁が飾られている。


 その横には、二枚の皿と二本のフォーク。


 エルゼミアは、それらを広間の中央に並べた。


 一枚は自分の前へ。


 もう一枚は、自分の隣へ。


 そこには誰もいない。


 けれど彼女は、何の迷いもなく隣へ微笑んだ。


「お待たせしました」


 その声は、恋人に向けるものだった。


「今夜のために焼いたの。あなたの好きな苦いチョコレートよ」


 誰も動けなかった。


 ミレーネは両手で口を押さえた。


「お願いです、やめてください」


「なぜ?」


「そこには、誰も」


「見えないふりをするのは、もうおやめなさい」


 エルゼミアはナイフを取った。


 ガトーショコラを丁寧に切り分ける。刃が入るたび、しっとりとした生地が割れ、濃い香りが立ち上った。


「あなたには、あげないわ」


 彼女はミレーネに言った。


「これは、あの方のためのものだもの」


 ミレーネは泣き出した。


「私は、あなたから何も奪っていません」


「奪ったわ」


「奪っていません」


「では、なぜ震えているの?」


「あなたが怖いからです」


 その言葉だけが、まっすぐに広間を貫いた。


 エルゼミアの手が止まる。


 ミレーネは涙をこぼしながら続けた。


「礼拝堂で、あなたは空席に向かってずっと話しかけていました。私はそれを見てしまっただけです。庭園でも、舞踏会でも、あなたの隣には誰もいませんでした。なのにあなたは、私がその方に笑いかけたと言いました」


「やめなさい」


「私は王子様を知りません」


「やめて」


「あなたの言う王子様を、誰も知らないんです」


 エルゼミアはミレーネを見つめた。


 それは怒りの目ではなかった。


 迷子の子供が、知らない場所で母を探す時の目だった。


「嘘よ」


 小さな声だった。


「だって、あの方はここに」


 彼女は隣を見る。


 誰もいない。


 だが、エルゼミアには見えている。


 黒髪の王子。


 優しい瞳。


 少し怯えたような唇。


 自分だけを見てくれる人。


 彼はいつもそこにいる。


 礼拝堂でも。


 庭園でも。


 舞踏会の壁際でも。


 十八時の厨房でも。


 彼はいつも、何も言わずにそこにいる。


 エルゼミアの目が、再び甘く溶けた。


「ほら。いらっしゃるわ」


 女王ヴェルレーヌは、目を伏せた。


 それから、静かに命じた。


「記録官」


 王家の記録官が進み出る。


 古い台帳を抱えた老爺だった。


「王家の直系に、アルフェリオという名の王子は存在するか」


「存在いたしません」


「先代王の子は」


「現女王陛下、お一人でございます」


「その前の代は」


「王女二名。王子はおりません」


「王家に、現在、王子は存在するか」


「存在いたしません」


 広間に、決定的な沈黙が落ちた。


 エルゼミアは笑った。


「そんなはずないわ」


 記録官は、感情を殺した声で続けた。


「アルフェリオという名は、王家の洗礼台帳にも、貴族名簿にも、臣籍降下の記録にもございません。三百年、どこにも」


「そんなはずない」


 女王が、侍女に合図した。


 侍女は銀盆を持って進み出る。


 そこには数通の手紙と、黒いリボンが乗せられていた。


「あなたが王子からの文だと主張したものだ」


 女王は言った。


「筆跡は、すべてあなたのものだった。封蝋も便箋も、グラナート侯爵家の品。黒いリボンに至るまで、王宮のものではない」


「違う」


「あなたが王子と踊ったと語った夜、あなたは壁際でひとり、誰もいない空間に手を添えて揺れていた」


「違う」


「庭園のベンチにも、礼拝堂の席にも、あなたの隣には誰もいなかった」


「違う!」


 エルゼミアの声が、初めて広間に鋭く響いた。


 シャンデリアの光が揺れたように見えた。


 彼女は両手を胸に当て、息を乱した。


「違う。違うわ。だって、お母様が言ったもの。王子様は来るって。私が立派な令嬢になれば、迎えに来るって。甘すぎるものより苦いものがお好きだって。私はずっと、ずっと待っていたのよ」


 誰も笑わなかった。


 誰も嘲らなかった。


 それが、かえって残酷だった。


 エルゼミアは、隣の皿を見た。


 ガトーショコラは、少しも減っていない。


 当然だ。


 誰も座っていないのだから。


 誰もフォークを取っていないのだから。


 誰も彼女の隣で、苦いチョコレートを口に運んでいないのだから。


「……食べないの?」


 エルゼミアは、隣に尋ねた。


 返事はない。


「どうして?」


 返事はない。


「あなたのために焼いたのよ」


 返事はない。


「苦すぎた? 甘さが足りなかった? 花が嫌だった? それとも、ミレーネ様が見ているから?」


 彼女はふらりと視線を上げ、ミレーネを見た。


 ミレーネは泣いていた。


 泣いているだけだった。


 そこに勝利はなかった。


 奪った者の顔ではなかった。


 エルゼミアは、ようやく気づきかけた。


 ミレーネに奪われたのではない。


 誰かに隠されたのでもない。


 最初から、席などなかったのだ。


 その事実は、あまりにも寒かった。


 だから彼女は、信じないことにした。


「いいの」


 彼女は、急に穏やかな声で言った。


 隣の皿を、自分の前へ引き寄せる。


「あなたが食べられないなら、私が食べてあげる」


「エルゼミア、やめなさい」


 女王の声が飛ぶ。


 近衛兵が動いた。


 けれどエルゼミアは、フォークでガトーショコラを切り取り、口へ運んだ。


 一口。


 甘く、苦い。


 薬草の香りが、舌の奥でほどける。


「おいしい」


 彼女は笑った。


「ねえ、おいしいわ」


 もう一口。


 もう一口。


 丁寧に。


 二人分を、一人で。


 女王が命じる。


「止めろ!」


 近衛兵が彼女の腕を掴む。


 それでもエルゼミアは、皿の欠片を指でつまみ、口に入れた。


「怖くないわ」


 彼女は誰もいない隣へ囁いた。


「あなたとなら、怖くないもの」


 視界が揺れた。


 シャンデリアの光が溶ける。


 貴族たちの顔が遠ざかる。


 ミレーネの泣き声が、どこかの舞踏曲のように聞こえた。


 女王の声も、近衛兵の足音も、神官の祈りも、すべて水の中から聞こえるようにぼやけていく。


 その代わり、隣の気配だけが鮮やかになった。


 黒髪。


 白い手。


 優しい目。


 少し震えた唇。


 エルゼミアだけを見つめる王子様。


 いる。


 やっぱり、いる。


 皆には見えないだけ。


 私だけが、知っている。


「ほら」


 エルゼミアは、うっとりと笑った。


「こっちを見てくださった」


 赤いシクラメンが床に落ちた。


 黒いリボンがほどける。


 皿に触れた鎖の飾りが、ちりん、と小さく鳴った。


 エルゼミアは、誰もいない空間へ身を預けるように倒れかかった。


 近衛兵が支えた。


 けれど彼女には、王子の腕に抱かれたように思えた。


「やっと」


 彼女は微笑んだ。


「二人きりね」


 そのまま、エルゼミアは意識を失った。


 エルゼミア・グラナートは処刑されなかった。


 王家は彼女を、心を病んだ侯爵令嬢として北の修道院へ送った。


 グラナート侯爵家は多額の罰金を納め、領地の一部を王家へ返上した。偽の婚礼招待状は回収され、王宮での一件は、王家の威信を揺るがす醜聞として早々に封じられた。


 聖女候補ミレーネは、しばらく人前に出られなかった。


 それでも半年後には聖女として正式に認められ、王都の大聖堂で祈りを捧げるようになった。


 女王ヴェルレーヌは、以後、王宮内で「王子様」という言葉を不用意に使うことを禁じた。


 子供向けの絵物語からも、いくつかの文言が改められたという。


 けれど、北の修道院では、十三日の夜だけ甘い匂いが漂うようになった。


 エルゼミアは、驚くほど静かに暮らしていた。


 暴れない。


 泣かない。


 誰かを責めない。


 日中は庭の手入れをし、礼拝堂の花を替え、修道女たちに礼儀正しく挨拶をする。


 ただ、毎月十三日の夕方になると、彼女は厨房を借りた。


 小さなガトーショコラを焼く。


 赤いシクラメンを一輪飾る。


 皿を二枚並べる。


 椅子を二脚用意する。


 片方の椅子には、黒いリボンを結ぶ。


 修道女の一人が、初めてそれを見た時、そっと尋ねた。


「どなたを待っていらっしゃるのですか」


 エルゼミアは、幸せそうに微笑んだ。


「王子様よ」


 修道女は、それ以上何も聞かなかった。


 十八時の鐘が鳴る。


 エルゼミアは背筋を伸ばし、誰も座らない椅子へ向かって微笑む。


「おかえりなさい」


 返事はない。


 それでも彼女は、嬉しそうにガトーショコラを切り分ける。


 ひとつは自分の皿へ。


 もうひとつは、黒いリボンを結ばれた椅子の前へ。


「今日は上手に焼けましたの」


 夜が更ける。


 蝋燭が短くなる。


 赤いシクラメンの影が、壁の上で揺れる。


 エルゼミアは、誰も来ない夜に、誰かを待ち続ける。


 翌朝、修道女が厨房を覗くと、エルゼミアの前の皿だけが空になっている。


 黒いリボンを結ばれた椅子の前には、冷たく固まったガトーショコラが、手つかずのまま残っていた。


 その国に、アルフェリオという王子が生まれたことは一度もない。


 それでも十三日の夜になるたび、エルゼミア・グラナートはまた、誰も来ない夜にガトーショコラを焼く。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、とある曲の甘くて不穏な空気から、「誰かを待つこと」と「物語のヒロインでいたい気持ち」を悪役令嬢ものに落とし込んでみました。


恋の話のようで、実は恋する相手そのものよりも、「愛される自分」を手放せなかった令嬢の話です。


ガトーショコラの甘さと苦さ、誰も座らない椅子、冷めていく二人分のお皿。そのあたりに少しでもぞくりとしていただけたなら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
>執事は唇を噛んだ。 >侯爵家では、ここ数ヶ月、誰もが腫れ物に触るようにエルゼミアを扱っていた。 >最初は、若い令嬢によくある恋の熱だと思われていた。 >王宮の夜会で見かけた誰かに心を奪われたのだろう…
読み始めた時『かつてそういう王子がいて、それは何かの醜聞で名前が抹消された存在』みたいなのを予測してました。そうしたら……それよりもひどい(誉め言葉です)話でした。自分もお話を書くので、『きれいに納め…
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