第九話
「――調理開始です」
私は森の広場に設置した簡易キッチンの前で、気合を入れ直しました。
手にするのは、愛用の鉄鍋。
そして、目の前に並ぶのは、この森で採れた凶悪な食材たちです。
今回のメインディッシュは『麻婆豆腐』。
ですが、ただの麻婆豆腐ではありません。
味覚がお子様な王子と聖女に、大人の世界の厳しさを教えるための、特製・激辛地獄バージョンです。
まずは、お豆腐作りから。
森の奥地に自生する鬼大豆。
握り拳ほどの大きさがあるこの豆を、魔法ですり潰し、森の天然水で煮込んで、**岩塩の苦汁**で固めます。
出来上がったのは、大豆の味が濃厚で、煮崩れしないしっかりとした木綿豆腐。
次に、お肉。
ひき肉にするのは、昨日グラさんが「おやつ」として狩ってきた**牛頭獣**の肩ロースです。
赤身の味が濃く、噛むほどに野性味あふれる旨味が出るこの肉を、二本のナイフでリズムよく叩いてミンチにします。
そして、主役のスパイスたち。
真っ赤に熟れた地獄唐辛子。
一粒で口内を火の海に変えるという危険物です。
これを細かく刻んだだけで、空気がピリピリと痛み始めます。
さらに、痺れを加える爆裂山椒。
口に入れた瞬間、小爆発のような刺激と爽やかな香りが駆け抜ける、麻の要。
「ふふふ……楽しみね」
私は鉄鍋に、たっぷりの紅牙猪のラードを熱しました。
煙が立つほど高温になったところで、ミンチ肉を投入します。
ジュワァァァァァッ!!
爆音と共に、肉の焼ける暴力的な香りが立ち上りました。
肉の色が変わり、脂が透明になったところで、刻んだニンニク(大蒜根)と、自家製の**黒豆醤**を加えます。
さらに、真っ赤な地獄唐辛子と粉末にした唐辛子を、これでもかと投入。
ゴホッ、ゴホッ!
風下にいた騎士たちが、刺激臭に耐えかねて咳き込んでいます。
でも、私は止めません。
鶏ガラスープ(コカトリスの骨で取りました)を注ぎ入れ、豆腐を優しく滑り込ませます。
グツグツグツ……。
鍋の中は、まるで血の池地獄のように赤く煮えたぎっています。
最後に水溶き澱粉(白根芋の粉)でとろみをつけ、仕上げに爆裂山椒をたっぷりと振りかけ、熱した辣油を回しかければ――。
「お待たせいたしました。特製・地獄の麻婆豆腐です」
ジュウウウウ……。
土鍋の中でマグマのように泡立つ、真っ赤な料理。
私はそれを二つの盆に乗せ、ラシード王子と聖女リリィの元へ運びました。
◇
「な、なんだこれは……」
ラシード王子は、目の前に置かれた料理を見て引きつっていました。
赤い。とにかく赤いのです。
そして、鼻を刺すような刺激臭が、食べる前から目と鼻を攻撃してきます。
「これが料理だと? 毒沼の泥ではないのか?」
「失礼ですね。最高の食材を使った、この森一番のご馳走ですよ」
私はニッコリと微笑みました。
「お腹が空いているのでしょう? どうぞ、冷めないうちに召し上がってください。それとも、怖気づいて食べられませんか?」
「なっ……! 誰が怖気づくものか!」
安い挑発に乗ってくれるのは、こういう時とても助かります。
王子は震える手で匙を握り、豆腐とひき肉をすくい上げました。
聖女リリィもまた、「こんなの下品ですぅ」と言いつつも、空腹には勝てず、スプーンを手に取ります。
二人は顔を見合わせ、意を決して口へと運びました。
パクッ。
最初の一瞬。
森に静寂が訪れました。
王子が目を丸くします。
(……ん? 辛くない? いや、むしろ……)
最初に舌に触れたのは、滑らかな豆腐の食感と、濃厚な肉の旨味でした。
ミノタウロスの力強い肉汁が、黒豆醤のコクと絡み合い、とてつもなく深い味わいを醸し出しています。
「……う、美味い? なんだ、見た目ほどのことは……」
王子がそう言いかけた、次の瞬間でした。
ドガァァァァンッ!!
口の中で、地獄の釜の蓋が開きました。
「――ぶべらっ!!?」
王子が奇妙な悲鳴を上げました。
遅れてやってきた地獄唐辛子の猛烈な辛味が、舌、喉、食道を灼熱の炎で焼き尽くしたのです。
さらに、爆裂山椒の痺れ(シビレ)が電気のように走り、口の感覚を麻痺させます。
「あ、あががが! か、辛い! 痛い! 口の中が爆発したぁぁぁっ!」
「ひいいぃぃっ! なんですかこれぇぇぇ! 痛いですぅぅぅ!」
二人は椅子から転げ落ち、地面をのたうち回り始めました。
顔は瞬く間に茹でダコのように赤くなり、滝のような汗が噴き出します。
涙と鼻水が止まりません。
「み、水を! 水をくれぇぇ!」
王子が水を求めて手を伸ばしますが、私は冷ややかに見下ろしました。
水など飲めば、辛味成分が広がって余計に痛くなるだけです。
しかし。
ここからが、この料理の真の恐ろしさです。
「か、辛い……死ぬ……でも……」
王子は涙目で悶絶しながらも、震える手で再びスプーンを伸ばしました。
そして、あろうことか、また麻婆豆腐を口に入れたのです。
「ラシード様!? 何をしているんですかぁ!?」
「わ、わからん! 手が勝手に……! 痛いのに……この肉の旨味が……脳に焼き付いて離れんのだ!」
ミノタウロスの強烈なイノシン酸と、黒豆醤のグルタミン酸。
旨味の相乗効果に、唐辛子のカプサイシンによる脳内麻薬物質の分泌。
それは、味の薄い宮廷料理しか食べてこなかった彼の脳を、完全にハックしてしまいました。
「ハフッ、ハフッ! 辛い! 美味い! 痛い! 美味い!!」
「いやぁぁん! 私も……私も止まりませんのぉぉぉ!」
聖女リリィも陥落しました。
激辛で化粧がドロドロに溶け落ち、聖女の仮面が剥がれ落ちて素顔が露わになりますが、彼女は気にせずガツガツと食らいついています。
鼻水を垂らし、涙を流し、ヒーヒーと喘ぎながら、真っ赤な料理を貪る二人。
そこには、王族の威厳も、聖女の清楚さもありません。
ただの「食欲の奴隷」と化した人間がいるだけでした。
周りで見ていた兵士たちが、ドン引きしています。
「あれが……殿下?」
「聖女様、顔が……すごいことに……」
「でも、なんか美味そうだな……」
ゴクリ、と兵士たちが喉を鳴らしました。
激辛の香りは、遠巻きに見ている者にとっても強烈な飯テロです。
私は呆然としている騎士団長アレクセイに近づき、こっそりと別の小鍋を渡しました。
「団長、こちらは『ピリ辛・マイルド仕様』です。兵士の皆さんと分けて食べてください」
「! 感謝する……!」
アレクセイは小躍りしそうなのを堪え、部下たちに配給を始めました。
そちらからは「うめぇ!」「ご飯が止まらねぇ!」という歓喜の声が上がります。
一方、激辛地獄の王子たちは。
「あ、あうぅ……もう食べられない……でも食べたい……」
完食しました。
そして、その場に大の字になって燃え尽きました。
唇は倍くらいに腫れ上がり、目は虚ろで、口からは魂のような白い煙が出ています。
私は倒れている王子の顔を覗き込みました。
「いかがでしたか、ラシード殿下? これが『帰らずの森』の味です。あなた方のような甘っちょろい覚悟で踏み込んでいい場所ではないと、お分かりいただけましたか?」
王子は腫れた唇を震わせ、掠れた声で呟きました。
「……ま、参った……」
それは降伏宣言でした。
味の暴力による、完全敗北。
「ヴィオラ……貴様は、こんな恐ろしいものを毎日食べているのか……。やはり、貴様は魔女だ……」
「ええ、料理という魔法を使う魔女ですわ」
私は優雅にカーテシー(お辞儀)をして見せました。
その時、グラさんがのっそりと近づいてきました。
彼は王子たちの皿に残った赤いタレをペロリと舐めると、「ガウッ(まだまだ甘いな)」と鼻で笑いました。
さすが魔王様、味覚も最強クラスです。
「リリィ……帰るぞ……」
「はいぃ……おトイレ行きたいですぅ……」
王子と聖女は、兵士たちに担がれて撤退していきました。
その姿は、来た時の威勢の良さは見る影もなく、ただただ哀れな敗残兵でした。
森を焼くどころか、自分たちの胃腸とプライドを焼き尽くして帰っていったのです。
彼らが去った後、森には平和な静寂――と、麻婆豆腐の残り香だけが漂っていました。
「やれやれ、やっと静かになりましたね」
私が伸びをすると、アレクセイ団長が、満足げに口元を拭いながらやってきました。
「見事だった、ヴィオラ嬢。あそこまで徹底的にやるとは」
「あら、私はただ、ご希望通りのお料理を出しただけですよ?」
「ふっ、そういうことにしておこう。……しかし、これで殿下も懲りただろう。しばらくはこの森に手出しはできまい」
王子たちは恐怖(と腹痛)を植え付けられました。
二度とこの森に近づこうとはしないでしょう。
「それにしても」
アレクセイは、私の隣でまだ豆腐をつまみ食いしているグラさんを見つめました。
「あの黒い獣……殿下の放った魔法を一瞬で消し去った力。やはり只者ではないな?」
「さあ? ただの食いしん坊なクマさんですよ。ねえ、グラさん?」
「ガウッ(そうだぞ)」
グラさんはすっとぼけていますが、アレクセイは何かを察しているようでした。
しかし、彼は深く追求しませんでした。
なぜなら、彼にとって重要なのは「国の安全」よりも「来週の食事が保証されること」にシフトしていたからです。
「ヴィオラ嬢。来週の演習だが……今度は『麺料理』というのはどうだろうか?」
「ふふ、いいですね。ちょうど、小麦代わりになる木の実を見つけたところなんです。ラーメンなんてどうですか?」
「ラーメン……! 未知の響きだ。楽しみにしている」
アレクセイは子供のように目を輝かせ、部下たちを引き連れて帰っていきました。
広場に残ったのは、私とグラさんだけ。
夕焼けが森を赤く染めています。
それは麻婆豆腐のような色でしたが、とても穏やかで美しい色でした。
「さて、私たちも夕飯にしましょうか。グラさん、激辛じゃない普通のが食べたいでしょう?」
「ガウッ!(もちろんだ! 白飯も大盛りで頼む!)」
私たちは笑い合い、森の奥の拠点へと戻っていきました。
断罪イベントは、激辛の宴として幕を閉じました。
そして私の手元には、平和な日常と、最強のパートナー、そして無尽蔵の食材庫(森)が残ったのです。
しかし、物語はここで終わりません。
私の料理の噂は、風に乗って、あるいは騎士たちの口伝えで、やがて国境を越え、さらに大きな騒動を巻き起こすことになるのですから。




