第八話
その日の朝、私は森の特等席で「燻製」作りに励んでいました。
「いい色……。これよ、私が求めていたのは」
目の前の簡易的な燻製器(中をくり抜いた古木を利用)から、香ばしい煙が立ち上っています。
中に入っているのは、塩漬けにして乾燥させたオークのバラ肉。
この森に生息するハイ・オークは、筋肉質ながらも脂の融点が低く、加熱するととろけるような甘みが出るのが特徴です。
それを、香りの良い**桜桃木**のチップでじっくりと燻すのです。
蓋を開けると、黄金色ならぬ飴色に輝くベーコンが現れました。
「完成。ハイ・オークの自家製ベーコン」
ナイフを入れると、パリッという音と共に、断面からピンク色の肉と白い脂が顔を覗かせます。
燻煙の深く渋い香りが、肉の獣臭さを完全に消し去り、食欲をそそる芳醇な香りだけを残していました。
「ガウッ……(たまらん)」
グラさんがよだれを垂らして見上げています。
私は切り分けたベーコンをフライパンで軽く炙り、カリカリになったところを一切れ、グラさんの口へ。
「どう?」
「ガウガウ!(うまい! 香りが鼻に抜ける!)」
脂の甘みとスモーキーな香り。
噛めば噛むほど味が染み出す、保存食の王様です。
これでスープを作ってもいいし、卵と焼いても最高でしょう。
「平和ねぇ……」
温かいお茶を飲みながら、私は呟きました。
美味しい食事、可愛いペット(魔王)、そして時々遊びに来ては食材を置いていく騎士団長。
処刑されるはずだった私の人生は、予想外に充実していました。
しかし。
その平穏は、無粋な足音によって踏み荒らされることになります。
ドス、ドス、ドス。
地面が小刻みに揺れていました。
魔獣ではありません。
これは、もっと規則的で、数の多い足音。
「……来たか」
グラさんがベーコンを飲み込み、スッと立ち上がりました。
その瞳が、愛らしい黒目から、冷徹な銀色へと変わります。
「数がやけに多いな。百……いや、二百はいるぞ」
「そんなに? 騎士団の演習にしては大規模すぎるわね」
私は嫌な予感を覚え、燻製器を魔法で隠すと、森の入り口の方角へと向かいました。
◇
森と平原の境界線。
そこには、信じられない光景が広がっていました。
「進めーっ! 草一本残すな! この不吉な森を焼き払って、我が国の農地にするのだ!」
ヒステリックな号令が響き渡ります。
豪奢な、しかしどこか薄汚れたマントを羽織り、馬上で剣を振り回している男。
私の元婚約者、ラシード王子でした。
その隣には、純白のドレス(森に来る服装ではありません)を着た聖女リリィが、日傘をさして控えています。
彼らの後ろには、国軍の兵士たちが松明や斧を持って並んでいました。
ただ、兵士たちの顔色は一様に悪く、頬はこけ、目は虚ろです。
王都の食糧難は、私の想像以上に深刻化しているようでした。
「止まりなさい!」
私は茂みから姿を現し、堂々と彼らの前に立ち塞がりました。
「この森は王家の管理地ですが、みだりに破壊することは禁じられているはずです!」
私の声に、軍の行進が止まります。
ラシード王子が私を見下ろし、目を丸くしました。
「……ヴィオラ? 貴様、生きていたのか?」
王子の驚愕は、単に生存していたことに対してだけではありませんでした。
彼の目の前にいる私が、あまりにも「健康的で美しかった」からです。
毎日のようにコラーゲンたっぷりの魔獣肉を食べ、ビタミン豊富な森の果実を摂取し、ストレスフリーな生活を送っている私。
肌は内側から発光するように白く艶やかで、髪は潤いを帯びて輝いています。
対して、王子はどうでしょう。
目の下には濃いクマがあり、肌はカサカサ。
豪華な服が浮くほど痩せてしまっています。
美味しいものを食べていない人間の顔です。
「な、なぜだ……? なぜ追放された貴様がそんなに美しく、輝いている!? 泥水をすすって野垂れ死んでいるはずだろう!」
「残念ながら、泥水よりも美味しいスープをいただいておりますので」
私が微笑むと、隣の聖女リリィがキーッと叫びました。
「嘘よ! 魔力で若作りしているに決まってますぅ! ラシード様、あの女はやっぱり魔女です! 早く処刑してください!」
「そ、そうだな! リリィの言う通りだ!」
王子は焦燥に駆られたように叫びました。
「総員、構え! ヴィオラを捕らえろ! そして森に火を放て! この忌々しい森を平らにして、小麦畑に変えてやる!」
兵士たちがざわめきます。
飢えている彼らにとって、農地開拓という名目は希望に見えるのでしょう。
しかし、この森は魔素が濃すぎて、普通の作物は育ちません。
それを知らない無知な命令。
生態系を壊せば、国を守る天然の要塞を失うことにもなります。
「やりなさい! 逆らう者は反逆罪よぉ!」
リリィの甲高い声に押され、兵士たちがジリジリと迫ってきます。
松明の火が揺らめき、森の木々を脅かします。
私がナイフを抜こうとした、その時でした。
ガシャアアアンッ!!
兵士たちの前に、立ちはだかる影がありました。
白銀の鎧をまとった一団。
王宮騎士団長アレクセイと、その精鋭部隊です。
「……騎士団長? 何の真似だ? そこをどけ」
王子が不機嫌そうに言いました。
しかし、アレクセイは動きません。
彼は涼しい顔で、しかし絶対的な威圧感を放ちながら言いました。
「殿下。この森への放火は、騎士団長として看過できません」
「何だと?」
「この森には貴重な生態系……もとい、未知の資源が眠っています。焼き払えば、国益を損なう恐れがあります。調査もなしに破壊するなど、あまりに短絡的」
アレクセイの言葉は正論ですが、その腹の底には別の理由があります。
(ここで森を焼かれたら、あの極上の鰻も、焼き鳥も、二度と食えなくなるではないか!)
(俺の週末の楽しみを奪う気か、この馬鹿王子は!)
彼の背後にいる騎士たちも、同じ思いでした。
彼らは知っています。
この森が「恐怖の魔境」ではなく「至高のレストラン」であることを。
そのオーナーシェフであるヴィオラに手を出せば、二度とあの味にありつけないことを。
食欲という名の忠誠心は、王への忠誠よりも強固です。
「き、貴様ら……! 王族の命令に逆らうのか!」
王子が顔を真っ赤にして怒鳴ります。
「いいだろう! 騎士団が動かぬなら、魔導師部隊を使えばいい! おい、ファイアボールで森ごと焼き尽くせ!」
後方に控えていた宮廷魔導師たちが、杖を掲げました。
彼らは騎士団とは違い、王子のイエスマンばかりです。
「放てぇぇぇっ!」
数十発の火球が生成され、私と森に向かって放たれました。
紅蓮の炎が迫ります。
さすがのアレクセイたちも、広範囲の魔法を全て防ぐことはできません。
「ヴィオラ嬢!」
アレクセイが私を庇おうと駆け出しました。
しかし、それより早く。
「――騒々しいぞ、羽虫ども」
私の足元から、漆黒の闇が噴き上がりました。
炎の赤を塗り潰すような、絶対的な黒。
「ガウッ!!(消え失せろ!!)」
グラさんが咆哮しました。
それは小熊の可愛い鳴き声ではありません。
大気を震わせ、マナを霧散させる、王の号令。
フッ。
迫り来る火球が、蝋燭の火を吹き消すように、一瞬で消失しました。
物理的な衝撃ではなく、魔法の構成そのものを強制的に解除されたのです。
「な……魔法が、消えた?」
魔導師たちが呆然と杖を見つめています。
闇の霧の中から、グラさんがゆっくりと歩み出ました。
今は小熊の姿ですが、その背後には巨大な影――角を生やした魔神の幻影が揺らめいています。
「ヒッ……!」
最前列にいた兵士たちが、恐怖のあまり腰を抜かしました。
生物としての格が違う。
本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしています。
「なんだあの黒い獣は……! ただの熊ではないのか!?」
王子が馬の上で後ずさりました。
馬も怯えていななき、暴れ出しそうです。
私はグラさんの隣に立ち、王子を見据えました。
もう、かつてのように怯えるだけの令嬢ではありません。
「お帰りください、ラシード殿下。この森は、あなた方が手を出していい場所ではありません」
私の声は静かでしたが、よく通りました。
「それとも……空腹のあまり正常な判断ができなくなっているのですか?」
図星を突かれた王子が、屈辱に顔を歪めます。
「だ、黙れ! 誰が空腹だと!? 余は毎日豪華な食事を……」
グゥゥゥゥゥ……。
王子の言葉を遮るように、彼の腹の虫が盛大に鳴り響きました。
続いて、聖女リリィのお腹も、兵士たちのお腹も。
まるで連鎖するように、空腹の合唱が始まります。
「ぷっ」
騎士団の誰かが吹き出しました。
それが呼び水となり、シリアスな戦場に、なんとも言えない弛緩した空気が流れます。
顔を真っ赤にして震える王子。
このままでは、恥の上塗りで終わるでしょう。
逆上して無理な突撃を命じれば、グラさんが本気を出して国軍が壊滅しかねません。
それはそれで、食材(兵士たちではありませんよ?)調達の手間が増えて面倒です。
私はため息をつき、一つの提案をすることにしました。
これは慈悲ではありません。
彼らに「格の違い」を味覚で理解させるための、残酷な復讐の始まりです。
「わかりました。そこまでお腹が空いているのなら……私が何か作りましょうか?」
「は、はぁ? 何を言って……」
「この森の食材を使った、とびっきりの料理です。国では食べられない、刺激的な味ですよ」
私はニッコリと笑いました。
その笑顔を見て、アレクセイ団長だけが「あっ、これはやばい」という顔で一歩下がりました。
「ちょうど、地獄唐辛子と爆裂山椒がたくさん採れたんです。たっぷり振る舞って差し上げますわ」
お腹を空かせた子供舌の王子と聖女に、大人の激辛料理を与えたらどうなるか。
想像するだけで、ご飯が三杯はいけそうです。
「準備ができるまで、そこで待っていてくださいね。逃げ帰るなら今のうちですけれど?」
挑発された王子は、売り言葉に買い言葉で叫びました。
「ふん! 食べてやる! 毒など入れたら即座に処刑してやるからな!」
愚かですね。
毒よりも恐ろしい「味の暴力」が待っているとも知らずに。
私は竈の方へ戻りながら、グラさんに耳打ちしました。
「グラさん、豆腐を作るための大豆の木、あっちにあったわよね?」
「ガウ(あるぞ。まさか、あれを作る気か?)」
「ええ。真っ赤な、地獄の麻婆豆腐をね」
断罪の宴、調理開始です。




