第七話
王都にある王宮騎士団の詰め所。
そこには、奇妙な空気が流れていました。
「……貴様ら」
地を這うような低い声が響きます。
声の主は、騎士団長アレクセイ。
「氷の騎士」の異名を持ち、その冷徹な眼差しは泣く子も黙らせ、怠惰な騎士を震え上がらせると言われています。
彼が睨みつけているのは、先日「帰らずの森」への捜索任務から帰還した部下たちでした。
「報告では、『森は危険すぎて奥へは進めず、ヴィオラ嬢の痕跡もなし』だったな?」
「は、はいっ! その通りであります!」
部下たちが直立不動で答えます。
しかし、アレクセイの鼻は誤魔化せません。
「では、なぜ貴様らの鎧から、香ばしいニンニクと焦げた醤油のような匂いがするのだ?」
「ッ!?」
「それに、出発前より顔色が良く、肌も艶やかになっているのはどういうわけだ。過酷な捜索任務だったのではなかったか?」
部下たちの目が泳ぎます。
まさか「死んだことになっている令嬢に、極上のバーベキューを振る舞ってもらいました」とは口が裂けても言えません。
アレクセイは鋭い眼光を細めました。
彼は厳格な軍人ですが、同時に隠れ美食家としても知られています。
部下たちの身体から漂うその匂いは、王都の一流レストランですら嗅いだことのない、食欲をダイレクトに刺激する魔性の香りでした。
「……嘘をつく者は嫌いだ」
アレクセイはマントを翻し、剣を帯びました。
「私が直接行く。貴様らが何を隠しているのか、この目で確かめてやる」
◇
一方その頃、森の中のヴィオラたちは。
「うーん、これじゃないのよねぇ」
私は川辺で腕組みをしていました。
目の前には、グラさんが狩ってきてくれた魚――のような魔獣が転がっています。
「もっとこう、脂が乗っていて、焼くと皮がパリッとして、身がふっくらするような……精のつくものが食べたいの」
私の我儘なオーダーに、グラさんは呆れたようにため息をつきました。
「ガウッ(贅沢なやつめ)」
「だって、暑くなってきたし、スタミナが必要でしょう? ニョロニョロした長い魚とかいないかしら」
「ガウ?(長い魚?)」
グラさんがピクリと耳を動かし、川の澱んだ深淵を指差しました。
そこは「黒沼」と呼ばれる、誰も近づかない危険地帯です。
私たちはそこへ向かいました。
沼の水面が不気味に泡立ち、泥の中から巨大な影が現れます。
ザバァッ!!
全長五メートルはあろうかという、漆黒の大蛇。
いや、よく見ると鱗はぬめり気を帯びており、顔つきも蛇というよりは魚に近い。
黒沼大蛇。
猛毒の粘液を纏い、鋼鉄の鎧さえ溶かすという凶悪な水棲魔獣です。
「シャアアアアッ!!」
鎌首をもたげる怪物。
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出す光景です。
しかし、私の目は輝いていました。
「あ、あれは……!」
あのぬめり。
あの円筒形の長い体。
そして、泥の中に潜むことで蓄えられた滋味深さ。
「鰻……!! それも、天然物の特大サイズよ!」
私は歓喜の声を上げました。
異世界に来てからずっと恋焦がれていた、日本の夏の王様。
まさかこんなところでお会いできるなんて。
「グラさん、あの子をお願い! 絶対に逃しちゃダメよ! あれは国宝級の食材なんだから!」
「ガウッ!(食えるのか、あれ!?)」
グラさんは半信半疑ながらも、私の熱意に押されて飛び出しました。
魔王の力(小熊バージョン)が炸裂し、黒沼大蛇は一瞬で陸に打ち上げられました。
「よし、調理開始よ!」
私はすぐさまナイフを取り出しました。
鰻の調理はスピードと技術が命。
まずは目打ちをして固定し、背開きにします。
ぬめりは熱湯をかけて包丁の背でこそげ落とせば、臭みも消えて綺麗な皮目が現れます。
「骨も捨てないわよ。タレの出汁に使うんだから」
中骨を取り出し、こんがりと焼いてから、醤油代わりの黒豆醤と琥珀蜜、そして酒代わりの木の実の果汁を合わせて煮詰めます。
これが命のタレです。
そして、お米。
こればかりは諦めていましたが、沼の近くに自生していた**真珠麦**を発見しました。
お米よりも粒が大きくモチモチしていますが、炊けば十分代用になります。
さあ、焼きの工程です。
串を打った身を、炭火にかざします。
「皮目はパリッと、身はふっくらと……」
ジュワァァァ……。
脂が炭に落ちて煙が上がり、食欲をそそる香ばしい匂いが森に充満します。
一度白焼きにしてから、蒸し器(葉っぱで代用)で蒸して余分な脂を落とし、柔らかくする。
それから、特製のタレにドボンとくぐらせて、再び炭火へ。
ジジジッ、パチパチッ。
タレが焦げる匂い。
甘く、濃厚で、どこか懐かしい香り。
これが嫌いな日本人はいません。
「よし、炊き立ての真珠麦を丼(木をくり抜いた器)によそって……」
その上に、黄金色に輝く蒲焼きをドスンと乗せます。
最後に、森で採れた山椒の実を挽いて振りかければ。
「完成! 黒沼大蛇の特上うな重(風)!」
その時でした。
「――見つけたぞ」
冷ややかな声が、背後から聞こえました。
振り返ると、そこには白銀の鎧を纏った長身の男が立っていました。
切れ長の瞳、凍てつくような冷徹な表情。
王宮騎士団長、アレクセイその人です。
「騎士団長……?」
「部下たちの報告が要領を得ないのでな。直接確認に来た」
アレクセイは剣の柄に手をかけ、ゆっくりと歩み寄ってきます。
その威圧感は、先日の部下たちとは比較になりません。
空気がピリピリと震えています。
「ヴィオラ・エル・フォレスト。貴女が生きていたことは驚きだが……それ以上に」
彼の視線が、私の手元にある「丼」に吸い寄せられました。
冷徹な仮面の下で、鼻がヒクヒクと動いています。
「……なんだ、その匂いは」
「お食事中ですが、何か?」
私は動じずに答えました。
今の私には、グラさん(魔王)という最強の用心棒がいますし、何より目の前の蒲焼きが冷めることの方が重大事です。
「黒沼大蛇の蒲焼きです。毒抜きは完璧、滋養強壮に効果抜群ですよ」
「……毒蛇を食うだと? 正気か」
「食べてから判断してください。騎士団長様は、食わず嫌いがお得意なんですか?」
挑発的な私の言葉に、アレクセイの眉がピクリと跳ねました。
彼はしばらく私と丼を交互に睨んでいましたが、やがて溜め息をつき、剣から手を離しました。
「……毒見だ。貴女を連行する前に、その料理が危険なものでないか確認する必要がある」
苦しい言い訳です。
お腹の虫が鳴いているのが聞こえていますよ、団長さん。
私は予備の器にたっぷりと麦飯をよそい、一番肉厚な尾の身を乗せて差し出しました。
「どうぞ。山椒が効いているので、ピリッとしますよ」
アレクセイは無言で器を受け取りました。
そして、疑り深い目で蒲焼きを見つめ、箸(私が削ったもの)で端を切り分けました。
スッ……。
「なっ……?」
箸を入れた瞬間、彼の目が驚きに見開かれました。
皮はパリッとしているのに、身は箸で簡単に切れるほど柔らかい。
中から溢れ出る脂と、絡みつくタレの粘度。
彼は恐る恐る、口に運びました。
パクッ。
静寂。
森の中に風が吹く音だけが聞こえます。
次の瞬間、アレクセイの「氷」が砕け散りました。
「――ッ!!?」
カッ、と目を見開き、彼は震え出しました。
(なんだ、これは……!?)
口に入れた瞬間、香ばしい皮目の食感。
それに続いて、舌の上で雪のように解ける、ふわふわの身。
黒沼大蛇特有の濃厚な脂の甘みを、少し焦げたタレの塩気と苦味が絶妙に引き締めている。
噛む必要すらない。
旨味の奔流が喉を駆け抜けていく。
「美味い……! なんだこれは、本当にあのグロテスクな蛇なのか!?」
アレクセイは叫び、猛烈な勢いで麦飯をかき込み始めました。
タレの染みたご飯。
それだけでもご馳走なのに、蒲焼きと一緒に食べれば、口の中が旨味のオーケストラです。
山椒の爽やかな痺れが、脂っこさをリセットし、次の一口を誘います。
「ハフッ、ハフッ! うまい、うまいぞ!」
もはや騎士団長の威厳などありません。
ただの食いしん坊な青年です。
グラさんも負けじと隣で食べていますが、二人の食べっぷりはいい勝負です。
あっという間に完食したアレクセイは、空になった器を見つめ、呆然としていました。
「……私は、今まで何を食べていたんだ。王宮の晩餐会で出る料理など、これに比べればただの飼料だ」
彼はゆっくりと顔を上げ、私を見ました。
その瞳には、先ほどの冷たさは微塵もありません。
あるのは、崇拝に近い熱情。
「ヴィオラ嬢」
「はい」
「……おかわりはあるか?」
「ふふ、ありますよ」
二杯目を食べ終えた頃、アレクセイはすっかり毒気を抜かれていました。
彼は満足げに腹をさすりながら、真剣な表情で私に向き直りました。
「ヴィオラ嬢。私は今日、ここへは来なかった」
「え?」
「部下の報告通りだ。森の奥は瘴気に満ち、生存は絶望的。……貴女は、魔獣に食われて死んだ。そういうことにしておこう」
それは、騎士団長としての職務放棄であり、国への裏切りです。
しかし、彼の表情は晴れやかでした。
「あんな愚かな王子や聖女のために、この神懸かった料理の腕が失われるのは、世界の損失だ。貴女はここで生きるべきだ」
「団長……」
「その代わり、頼みがある」
彼は少し頬を染め、咳払いをしました。
「週に一度……いや、三日に一度。部下の訓練という名目で、ここへ来てもいいだろうか? もちろん、食材になりそうな魔獣の手土産は持参する」
要するに、また食べに来たいということですね。
「ええ、構いませんよ。常連様は大歓迎です」
「感謝する!」
アレクセイは私の手を取り、騎士の礼をとりました。
その横で、グラさんが「ああん? 余の料理人に気安く触るな」とばかりに威嚇していましたが、美味しい鰻のせいで眠いらしく、すぐに丸まってしまいました。
こうして、私を捕らえに来たはずの最強の騎士団長は、私の「胃袋の軍門」に下りました。
王宮騎士団は、実質的に私の私設護衛団となったのです。
◇
一方、王都の王宮では。
「なんだ今日の食事は! 味が薄い! 肉が硬い!」
ラシード王子が、豪華な銀食器を床に叩きつけていました。
テーブルに並ぶのは、高級食材を使ったコース料理。
しかし、最近の王子の舌には、何を食べても砂を噛んでいるようにしか感じられませんでした。
「申し訳ありません殿下……しかし、料理長も最善を尽くしておりまして……」
「黙れ! ヴィオラがいた頃は、もっとこう……食べた瞬間に体が熱くなるような、力強い料理が出てきたはずだ!」
隣に座る聖女リリィも、不満げにクッキーをかじっています。
「ほんとぉ。最近の料理人って無能ですねぇ。私の祈りの力が足りないのかしらぁ?」
「リリィは悪くない。悪いのは無能な料理人たちだ!」
王都では原因不明の食糧不足が囁かれ始め、民衆の不満も高まりつつありました。
そして何より、王宮騎士団の主力メンバーが、頻繁に「森の方角」へ演習に出かけ、帰ってくるたびに幸せそうな顔をしていることに、王子たちはまだ気づいていませんでした。
「ええい、もういい! 近々、あの森を焼き払って、農地に変えてやる! そうすれば食料問題も解決だ!」
愚かな王子の思いつきが、自らの破滅を招く引き金になるとも知らずに。




