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第六話

「動くな! その黒い獣から離れろ!」


張り詰めた空気の中、騎士たちの怒号が響き渡ります。

白銀の鎧をまとった十名ほどの男たち。

彼らは王宮騎士団の別動隊――汚れ仕事を請け負う裏の部隊でしょう。


剣先は真っ直ぐに私とグラさんに向けられています。

普通なら恐怖で震え上がる場面です。

しかし、今の私にとって彼らは、命を狙う刺客というよりも、もっと深刻な「邪魔者」でしかありませんでした。


「……ちょっと、静かにしていただけます?」


私はため息交じりに言い放ちました。


「今、キマイラの血抜きの最中なんです。大きな音を立てると筋肉が硬直して、肉質が悪くなるでしょう?」


「は……?」


先頭に立っていた隊長らしき男が、呆気にとられたように口を開けました。

無理もありません。

森の奥で魔獣に襲われている(ように見える)令嬢が、助けを求めるどころか、肉の鮮度を心配しているのですから。


「な、何を言っている! 我々は貴様を……いや、貴様の安否を確認しに来たのだ!」


「安否なら見ての通りです。ピンピンしています。それより、そこをどいてください。獅子のロース肉を取り出したいので」


私は騎士たちを無視して、キマイラの巨体に向き直りました。

横たわる伝説の魔獣。

獅子の頭、山羊の胴体、蛇の尾。

これらが一つの体にあるということは、一頭で三種類の肉が楽しめるということです。


「グラさん、手伝って」


「ガウッ(了解)」


グラさんが器用に前足でキマイラの皮を押さえます。

私は解体ナイフを走らせました。


スパッ、ズバッ。


迷いのないナイフ捌き。

関節を外し、皮を剥ぎ、部位ごとに肉を切り分ける。

その手際の良さは、歴戦の狩人さえ裸足で逃げ出すレベルです。


「な、なんだあの動きは……」

「あれが公爵令嬢か? まるで職人だぞ……」


騎士たちが剣を下ろすのも忘れ、私の解体ショーに見入っています。

恐怖よりも困惑が勝っているようです。


   ◇


一通り解体が終わると、私はかまどの火を強めました。

今日は豪快に『キマイラのミックス・バーベキュー』といきましょう。


まず、長い木の枝を削って串を作ります。

そこに、一口大に切った肉を刺していきます。


獅子の肉は、赤身が強く鉄分豊富なサーロイン。

山羊の肉は、脂の乗ったバラ肉。

そして蛇の尾は、白身で淡白な筒切りに。


「味付けは、これで決まりね」


取り出したのは、森で採取した赤唐辛子のレッド・ペッパーと、野生の大蒜根ガーリック・ルート、そして先日手に入れた琥珀蜜。

これらを石ですり潰し、特製の『甘辛BBQソース』を作ります。


串に刺した肉に、タレをたっぷりと塗ります。

そして、炭火の上へ。


ジュウウウウッ……!!


途端に、森の中に爆発的な香りが広がりました。

焦げた醤油のような香ばしさと、ニンニクの食欲をそそる刺激臭。

そこに肉の脂が落ちて煙となり、燻製のような深みを加えます。


「うっ……」


騎士の一人が、小さく呻きました。

見ると、喉仏が上下しています。


「なんだこの匂いは……暴力だぞ……」

「俺たち、ここに来るまで携帯食の干し肉しか食ってないんだぞ……」


騎士たちの包囲網が、目に見えて揺らぎ始めました。

彼らは王都から数日間、過酷な森の中を行軍してきたのです。

疲労と空腹は限界に達しているはず。


パチパチッ。

炭が爆ぜ、肉が汗をかくように脂を垂らします。

表面はカリッと飴色に輝き、中はジューシーに焼き上がっていく。


「グラさん、焼け具合はどう?」


「ガウッ、ガウッ!(もういい! 早く食わせろ!)」


グラさんが涎を垂らして私の足にまとわりついてきます。


「はい、どうぞ」


私は焼きあがったばかりの獅子肉の串を一本、グラさんに渡しました。

グラさんはハフハフと熱がりながらも、肉に食らいつきます。


ガブッ。


溢れる肉汁。

グラさんは目を細め、恍惚の表情で肉を咀嚼しています。

その咀嚼音が、静まり返った森に響き渡ります。


グゥゥゥゥゥ……キュルルルッ……。


連鎖反応が起きました。

騎士たちのお腹の虫が、大合唱を始めたのです。


隊長が顔を赤くして咳払いをしました。


「ご、ごほん! ヴィオラ嬢、我々は聖女リリィ様の命により、貴様の生存を……その、確認しに来たのだ。直ちに同行を……」


「あら、お腹が空いているんですか?」


私は焼きあがったばかりの串を十本ほど、大皿代わりの盆に乗せて差し出しました。


「毒なんて入っていませんよ。そこのクマさんが美味しそうに食べているでしょう?」


「我々を買収しようとしても無駄だ! 騎士たるもの、そのような餌に……」


隊長は拒絶しようとしましたが、視線は肉に釘付けです。

鼻先をくすぐるニンニク醤油の香り。

滴り落ちる脂。


「……一本だけだ」


隊長が震える手で串を掴みました。

そして、意を決して口へ運びます。


ガブリ。


時が止まりました。

隊長の目が見開かれ、手から剣がカランと滑り落ちました。


「な……なんだこれはぁぁぁっ!?」


絶叫。

隊長は狂ったように串にかぶりつきました。


「硬いと思っていた獅子の肉が、なぜこんなに柔らかい!? 噛むたびに旨味が溢れてくる! それにこのタレ! 甘辛くて、疲れた体に染み渡るようだ!」


「隊長!?」


「お前たちも食え! これは命令だ! この味を知らずに死ぬのは騎士の恥だぞ!」


隊長の陥落は一瞬でした。

許可が出た部下たちは、飢えた狼のようにバーベキューに群がりました。


「うめぇぇぇ!」

「なんだこの山羊肉! 臭みが全然ない! むしろ香草のような香りがする!」

「こっちの蛇肉はプリプリで、まるで極上の鰻だ!」


先ほどまでの殺伐とした雰囲気はどこへやら。

そこは一転して、野外バーベキュー会場と化していました。


私は追加の肉を焼きながら、彼らの様子を観察しました。

どうやら彼らは、「聖女リリィにヴィオラの始末を命じられた」ものの、本心ではこの任務に疑問を持っていたようです。


「あー、生き返る……」

「正直、聖女様のワガママにはうんざりしてたんだよな……」

「ヴィオラ嬢を殺せなんて、やっぱりおかしいですよ」


美味しいものを食べると、人は本音が出やすくなるものです。

胃袋を掴むとは、心を掴むこと。

前世の祖母の教えは、異世界でも正しかったようです。


一通り食べ終え、満足して地面に転がっている騎士たちに、私は冷たいお茶(ミントラ水)を出しながら尋ねました。


「さて、皆さん。お腹もいっぱいになったところで、これからどうしますか? 私を殺して首を持って帰ります?」


騎士たちがビクリと体を起こしました。

隊長が慌てて立ち上がり、居住まいを正します。


「とんでもない! これほどの料理の腕を持つ方を手に掛けるなど、国の損失だ!」


「では、どう報告するつもりですか?」


「うむ……」


隊長は口元のタレを拭い、真剣な表情で言いました。


「『帰らずの森』はあまりに危険で、捜索は難航した。ヴィオラ嬢の痕跡を発見することはできず、おそらく魔獣の餌食になったと思われる……。これでいきましょう」


「まあ、死亡扱いにしてくださるの?」


「貴族社会に戻るより、ここで料理を作っている方が貴女らしい。……それに」


隊長はチラリとグラさんを見ました。

グラさんは串を爪楊枝代わりにして、ニヒルに笑っています。


「あの黒い小熊……ただの熊ではないですね? 彼がいる限り、我々が手出しできるとは思えん」


さすが隊長、勘が鋭い。

騎士たちは「また必ず食べに来ます!」と言い残し、森の出口へと撤収していきました。

その背中は、来た時よりもずっと軽やかでした。


「ふふ、チョロいですね」


「ガウッ(人間とは単純なものよ)」


私は残った肉を片付けながら、笑みをこぼしました。

これで王都からの追手は一時的に止まるでしょう。

当面の安全と、私の「死」という隠れ蓑が手に入りました。


しかし。

事態はそう簡単に収束するものではありません。

戻っていった騎士団長(隊長の上司)は、部下たちの報告に違和感を抱くはずです。


「……やつらの鎧、妙に焼肉臭くないか?」


数日後。

部下たちが持ち帰った「残り香」と、激痩せしていたはずの彼らが肌ツヤ良くなって帰還した事実に、一人の男が疑念を抱くことになります。


王宮騎士団長アレクセイ。

「氷の騎士」と呼ばれる堅物にして、実は隠れ食通の彼が、自ら森へ乗り込んでくるのは、もうすぐ先の話。


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