第五話
甘いパンケーキの幸福な余韻は、唐突に断ち切られました。
ピタリ、と。
森のざわめきが消えたのです。
鳥のさえずりも、虫の羽音も、風が木々を揺らす音さえも。
世界が息を止めたような静寂。
それは、絶対的な捕食者が現れた合図でした。
「……グラさん、私の後ろに」
私は反射的にグラさんを背中に隠し、ナイフを構えました。
これまでとは桁違いの殺気。
紅牙猪や石化鶏が可愛く思えるほどの、濃密な死の気配が肌を刺します。
ズシン。ズシン。
地面を揺るがす足音と共に、森の木々がなぎ倒され、その怪物は姿を現しました。
「グルルルゥ……」
黄金の鬣を持つ獅子の頭。
背中から生えた山羊の頭。
そして、尻尾は毒々しい大蛇。
合成獣。
異なる魔獣の部位を魔法で繋ぎ合わせた、悪夢のような怪物。
この森の生態系の頂点に君臨する、「歩く災害」です。
「キシャアアアアッ!!」
獅子の咆哮と、山羊の奇声、蛇の威嚇音が重なり合い、不協和音となって襲いかかります。
「逃げるわよ、グラさん!」
私はグラさんを抱きかかえようとしました。
しかし、キマイラの動きは巨体に似合わず俊敏でした。
バッ!
一瞬で距離を詰められ、巨大な前足が振り下ろされます。
「くっ……【身体強化】!」
私は咄嗟に横へ飛び退きました。
直後、私が立っていた場所が爆発したかのように抉り取られます。
衝撃波で吹き飛ばされ、私は地面に叩きつけられました。
「うぅっ……」
激痛が走ります。
幸い骨は折れていませんが、ナイフを手放してしまいました。
起き上がろうとした私の目の前に、キマイラの蛇の尻尾が鎌首をもたげます。
「シャアアッ!」
蛇の口から紫色の毒液が滴り落ち、地面の草を溶かしています。
詰んだ。
そう悟らざるを得ない状況でした。
今の私の装備と実力では、この怪物には傷一つつけられません。
(ああ……せっかく美味しいものに出会えたのに)
(まだ、ドラゴン肉のステーキも、クラーケンの刺身も食べていないのに……!)
死への恐怖よりも、未食の食材への未練が走馬灯のように駆け巡ります。
キマイラが口を大きく開け、私を喰いちぎろうとした、その時でした。
「――下賤な獣風情が」
冷徹で、しかし雷鳴のように腹の底に響く声が聞こえました。
「余の料理人に、触れるな」
ドォォォォォンッ!!
黒い稲妻が天から降り注ぎ、キマイラの巨体を弾き飛ばしました。
煙が晴れた場所に立っていたのは、あの小さな小熊ではありませんでした。
夜空を切り取ったような漆黒の角。
月光を浴びて輝く銀色の長髪。
そして、健康的な褐色の肌を持つ、長身の青年。
その背中からは、圧倒的な魔力が蜃気楼のように立ち上っています。
彼の纏う腰布だけの半裸姿は、野性的でありながら、王族のような気品に満ちていました。
「え……誰……?」
私が呆然と呟くと、青年はチラリとこちらを振り返りました。
その瞳は、グラさんと同じ銀色。
けれど、そこにあるのは無邪気な食欲ではなく、万物を睥睨する王の輝きでした。
「キ、キシャアアアッ!?」
弾き飛ばされたキマイラが、恐怖に震えながらも、捨て身で炎のブレスを吐き出します。
森を焼き尽くすほどの紅蓮の炎が、青年に迫ります。
しかし、青年は動じません。
ただ面倒くさそうに、片手をかざしただけでした。
「消えろ」
言葉と共に、黒い霧が炎を飲み込みました。
それだけではありません。
霧はそのままキマイラを包み込み――。
パチン。
青年が指を鳴らした瞬間、圧縮された闇が弾けました。
断末魔すらありませんでした。
霧が晴れると、キマイラは綺麗に絶命し、地面に転がっていました。
外傷はほとんどなく、まるで魂だけを抜き取られたようです。
(※食材としての価値を損なわない、完璧な処理です)
静寂が戻った森の中で、青年がゆっくりと私の方へ歩いてきます。
その威圧感に、私は息をするのも忘れ、腰が抜けて動けませんでした。
彼は私の目の前で片膝をつき、視線を合わせました。
近くで見ると、息を呑むほどの美形です。
切れ長の目、通った鼻筋、そして少し意地悪そうな口元。
「怪我はないか? ヴィオラ」
私の名前を呼ぶその声は、甘く、低く、鼓膜を溶かすようでした。
「あ、あなたは……まさか、グラさんなの?」
「ククッ……『グラさん』か。その名は悪くないが、余の真の名はグラトニー・ヴァン・ルシファー。かつてこの地を統べた魔王だ」
魔王。
お伽話に出てくる、あの大魔王ですか。
熊だと思っていたら魔王でした。
異世界転移もびっくりですが、この展開も大概です。
「ま、魔王様が……どうして……」
「貴様の料理のおかげだ。あのパンケーキの魔力で、一時的にだが封印を破ることができた」
彼は私の顎を指先ですくい上げ、顔を近づけました。
銀色の瞳が、獲物を狙うように細められます。
「ヴィオラ。貴様の料理は素晴らしい。余の乾いた魂を潤し、力を与えた」
顔が近いです。
整った顔立ちが迫り、心臓が早鐘を打ちます。
これはまさか、吊り橋効果からの恋愛イベント発生でしょうか?
「だから、契約を結べ」
「け、契約?」
「ああ。貴様を余の『専属料理人』として認めてやる。一生、死ぬまで余のためだけに美味いものを作り続けろ。その代わり、この森のすべてを貴様の食材として捧げよう。誰にも邪魔はさせん」
それはプロポーズと呼ぶにはあまりに独善的で、けれど食いしん坊の私にとっては、どんな愛の言葉よりも魅力的な提案でした。
「一生、美味しい食材が手に入る……?」
「そうだ。断るとは言わせんぞ」
彼は私の左手を取り、薬指に唇を寄せました。
チュッ。
指先に熱い痛みが走ります。
見ると、そこには黒い紋様が浮かび上がり、やがて銀色の指輪の形へと変わりました。
魔力で作られた、契約の指輪です。
「これで貴様は余のモノ(番)だ。……覚悟しておけ」
彼は満足げに笑い、私の頭を撫でようと手を伸ばし――。
ポンッ。
間の抜けた音と共に、青年の姿が白煙に包まれました。
「あれ?」
煙が晴れると、そこにいたのは、いつもの黒い小熊でした。
「ガウッ!?(なっ、もう魔力切れか!?)」
グラさんは自分の短くなった手足を見て、ショックを受けたように頭を抱えています。
どうやら、完全復活にはまだ魔力が足りなかったようです。
先ほどまでの圧倒的なカリスマ魔王様とのギャップに、私は思わず吹き出してしまいました。
「ふふっ、あはははは!」
「ガウガウ!(笑うな! 余は至って真剣だぞ!)」
私は笑いながら、左手の指輪を撫でました。
指輪は消えずに残っています。
夢ではありませんでした。
「わかったわ、グラさん。契約、受け入れてあげる」
私は地面に転がるキマイラの死体を見つめました。
獅子の肉、山羊の肉、蛇の肉。
一粒で三度おいしい、夢の食材です。
「その代わり、これからも美味しいお肉をたくさん狩ってきてね? 私の『魔王様』」
「ガウッ(任せておけ)」
グラさんは照れ隠しのように顔を背けましたが、その尻尾はブンブンと振られていました。
こうして私は、最強の用心棒(兼ペット)と、正式に雇用契約を結ぶことになったのです。
魔王の指輪が左手にある限り、もうこの森で怖いものはありません。
さあ、キマイラの解体です。
獅子のロース肉はステーキに。山羊肉は香草焼きに。蛇の尻尾は……そうね、蒲焼き風にしてみましょうか。
「今夜は祝勝会よ! キマイラのフルコースといきましょう!」
私がナイフを取りに行こうとした時でした。
ガササッ……。
森の茂みから、複数の足音が聞こえてきました。
魔獣ではありません。
規則正しい、金属が擦れる音。
「……誰?」
グラさんが低く唸り、私の前に立ちます。
現れたのは、白銀の鎧に身を包んだ一団。
胸には王家の紋章。
「――発見したぞ! 公爵令嬢ヴィオラだ!」
「あの黒い獣から離れろ! 討伐する!」
王宮騎士団の別動隊でした。
どうやら、私の作った料理の匂いを嗅ぎつけて、ここまで辿り着いてしまったようです。
彼らは剣を抜き、殺気立っています。
しかし、私の反応は冷ややかなものでした。
(せっかくのキマイラ肉の鮮度が落ちるじゃない……)
魔王の加護を受けた今の私にとって、王宮騎士など、ただの「調理の邪魔者」でしかありませんでした。




