第四話
「……甘いものが、食べたい」
朝、目が覚めた瞬間、私の脳内を占拠していたのはその一言でした。
昨夜のコカトリスの唐揚げは最高でした。
サクサクの衣、溢れる肉汁、濃厚なタルタルソース。
しかし、塩気と油の暴力を受けた翌朝というのは、無性に甘いものを欲するものです。
「ねえ、グラさん。あなたもそう思うでしょう?」
私が問いかけると、隣で寝ていた黒い小熊――グラさんが、パチリと目を開けました。
そして、私の顔を見るなり、激しく首を縦に振ります。
「ガウッ! ガウガウ!(うむ! 甘味だ! 余も所望する!)」
どうやら意見の一致を見たようです。
魔王様も甘党で助かりました。
「でも、砂糖なんて高級品、この森にあるかしら……」
私が腕組みをして悩んでいると、グラさんが私のスカートを咥えて、グイグイと引っ張り始めました。
森の奥深く、まだ私たちが足を踏み入れていない方向を指し示しています。
「あっちに何かあるの?」
グラさんは自信満々に鼻を鳴らしました。
その背中は「ついて来い、甘美な世界へ連れて行ってやる」と語っています。
◇
グラさんの案内で進むこと数十分。
森の木々が次第に巨大化し、空気の密度が変わったように感じられました。
やがて目の前に現れたのは、他の木々とは比較にならないほど巨大な、一本の大樹でした。
「うわぁ……大きい……」
見上げても天辺が見えません。
幹の太さは、大人が十人で手を繋いでも届かないほど。
長老樹。
森の主とも呼ばれる、意思を持った植物の魔物です。
普通なら近づいただけで枝に叩き潰される危険な相手ですが、グラさんが一歩前に出て「グルルッ」と低く唸ると、ざわついていた枝葉がピタリと静まりました。
まるで王の訪問に平伏す家臣のようです。
グラさんは大樹の根元に近づき、樹皮の裂け目をペロリと舐めました。
そして、私に「ここだ」と目で合図します。
私も恐る恐る指で裂け目をなぞり、滲み出ている琥珀色の液体を舐めてみました。
「……っ!!」
衝撃が走りました。
甘い。
ただ甘いだけではありません。
カラメルのような香ばしさと、花の蜜のような華やかさ、そして木の香りが複雑に混ざり合った、深みのある甘さです。
「これは……メープルシロップ? いいえ、それよりもずっと濃厚だわ」
琥珀蜜。
長老樹が長い年月をかけて体内に溜め込んだ、魔力たっぷりの樹液です。
市場に出れば小瓶一本で金貨数枚はくだらない幻の食材。
「でかしたわ、グラさん! これがあれば、あれが作れるわ!」
私は興奮してグラさんを抱きしめました。
グラさんは「苦しゅうない」といった顔で、鼻高々にふんぞり返っています。
◇
甘味は手に入りました。
次は生地です。
小麦粉はありませんが、森に来る途中で見つけた**鋼鉄胡桃**があります。
その名の通り鋼鉄のように硬い殻を持つ木の実ですが、中身は脂質が少なく、粉にすれば香ばしいナッツパウダーになります。
「ふんっ!」
私は石の上に胡桃を置き、【身体強化】をかけた拳で叩き割りました。
公爵令嬢の拳とは思えない破壊音と共に、硬い殻が粉砕されます。
中身を取り出し、石ですり潰して粉状にします。
そこに、昨日採取したコカトリスの卵を割り入れ、少しの水を加えて混ぜ合わせます。
砂糖が貴重な世界ですので、生地自体には甘みを入れず、素材の味を活かします。
さあ、焼きの工程です。
鉄の盆(調理用)を火にかけ、薄く油を引きます。
お玉一杯分の生地を流し込むと、ジュウゥ……と優しい音がしました。
ナッツの香ばしい香りが漂います。
「今日は厚焼きパンケーキよ」
弱火でじっくりと火を通します。
表面にプツプツと穴が空いてきたら、裏返す合図。
ひょいっ。
見事なキツネ色です。
両面がふっくらと焼けたら、お皿代わりの葉っぱに移します。
それを三枚重ねて、タワーにします。
そして仕上げです。
先ほど採取し、少し煮詰めてとろみをつけた「琥珀蜜」を、上からたっぷりと回しかけます。
とろ~り。
黄金色の液体が、パンケーキの山を伝ってゆっくりと落ちていきます。
熱々の生地に蜜が染み込み、バターのようなコクのある香りが立ち上りました。
「完成。長老樹の蜜たっぷり、木の実のパンケーキ」
森の中で食べる、優雅なティータイムの始まりです。
「どうぞ、グラさん」
待ちきれない様子のグラさんの前に置くと、彼は一瞬動きを止めました。
その瞳が、キラキラと輝いています。
野生の熊とは思えないほどお行儀よく、前足でパンケーキを切り分け(器用です)、口に運びました。
モグッ。
「……!!」
グラさんの動きが止まります。
私も一口、頬張りました。
「ん~っ……幸せ……」
口に入れた瞬間、ふわふわの生地が解け、ナッツの風味が広がります。
そして何より、琥珀蜜の濃厚な甘さが脳髄を直撃しました。
疲れた体に、糖分が染み渡っていく感覚。
昨日の唐揚げの塩気がリセットされ、幸福感で満たされます。
「甘さは正義ね……」
私がうっとりしていると、隣で異変が起きました。
パンケーキを食べたグラさんが、あまりの美味しさと魔力回復効果に、全身から凄まじい光を放ち始めたのです。
「ガウウウゥゥゥ……ッ(う、うまい……! この味は、かつて王宮で食べた菓子よりも……)」
「えっ? グラさん?」
光が強すぎて、直視できません。
眩い光の中で、小熊のシルエットがぐにゃりと歪み、一瞬だけ――人間の、それも大人の男性の姿に見えたような気がしました。
褐色の肌に、銀色の長髪。
そして、切れ長の美しい瞳を持つ青年が、パンケーキを食べて恍惚の表情を浮かべている幻影。
『……ヴィオラ、礼を言う。これは絶品だ』
低く、甘く、鼓膜を震わせるようなセクシーな声が聞こえました。
「えっ……誰?」
私が目をこすると、光はスッと収まりました。
そこには、いつもの可愛い小熊の姿がありました。
ただ、口の周りをシロップでベタベタにして、満足そうに寝転がっています。
「……夢? 幻覚かしら?」
急激に糖分を摂取したせいで、幻を見たのかもしれません。
あんな色気のある男性が、こんな森の中にいるはずがありませんし。
「ガウッ?(どうした? もっとないのか?)」
グラさんが首を傾げて、おかわりを催促してきました。
その仕草はいつもの愛らしい熊そのものです。
「ううん、なんでもないわ。まだ生地はあるから、どんどん焼くわね」
「ガウッ!(頼む!)」
私は気を取り直して、次のパンケーキを焼き始めました。
けれど、グラさんは内心、冷や汗をかいていたのです。
(危なかった……。あまりの美味さに理性が飛んで、封印が解けかけてしまったぞ)
実はグラさんの正体は、かつて世界を統べた魔王。
その強大な魔力は今、可愛い熊の肉体に押し込められていますが、美味しい料理による魔力回復で、徐々に本来の力を取り戻しつつあったのです。
(この女……ヴィオラと言ったか。ただの料理人ではないな。余の胃袋だけでなく、魔力の源まで支配するとは)
グラさんはパンケーキを頬張りながら、私を見る目を少し変えました。
それは単なる「餌付けされた熊」の目ではなく、もっと独占欲に満ちた「男」の目でした。
「(絶対に逃がさん。一生、余のためにこのパンケーキを焼かせてやる)」
そんな魔王様の決意を知る由もなく、私は呑気にパンケーキをひっくり返していました。
甘い香りに包まれた森の朝は、平和に見えて、実は着々と「溺愛ルート」へのフラグを積み重ねていたのです。
しかし、そんな甘い時間の裏で、現実は着実に迫っていました。
森の入り口で野営していた騎士団たちが、コカトリスの唐揚げの匂いに続き、今度は甘いパンケーキの香りを嗅ぎつけてしまったのです。
「隊長! 今度は甘い匂いがします!」
「馬鹿な……こんな魔境でスイーツだと? しかし、この芳醇な香りは……」
食欲に抗えない騎士たちが、ついに森の深部へと足を踏み入れようとしていました。




