表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

第二話

「ごちそうさまでした」


私が手を合わせると、目の前の小熊も真似をするように、短い前足をちょこんと合わせました。

鍋の中身は綺麗に空っぽ。

一滴のスープも残っていません。


紅牙猪クリムゾン・ボアの肉は、想像を絶する美味しさでした。

特に、スープに溶け出した脂の旨味を吸った岩茸ロックマッシュの歯ごたえと言ったら。

思い出しただけで、また唾液が出てきそうです。


「さて、お腹も満たされたことだし、今夜の寝床を探さないとね」


日が傾き始め、森の中は急速に闇に包まれようとしています。

夜の「帰らずの森」は、昼間の何倍も危険だと言われています。

さすがに野宿は命取りでしょう。


私は残った猪の肉を、殺菌作用のある笹のような葉で幾重にも包み、蔦で縛って背負いました。

公爵令嬢らしからぬ姿ですが、背に腹は代えられません。

食料いのちの重みだと思えば、足取りも軽くなるというものです。


「じゃあね、くまさん。お付き合いありがとう」


私が歩き出すと、クイッとスカートの裾が引っ張られました。

振り返ると、さっきの黒い小熊が、私の服を咥えています。


「……どうしたの? まだお腹が空いているの?」


「ガウッ、ガウ!」


小熊は首を横に振り、森の奥を鼻先で指し示しました。

そして、私を促すように数歩進んでから、振り返ってこちらを見ます。


「もしかして……ついて来いって言ってるの?」


「クルルッ(肯定)」


賢い子です。

普通の野生動物とは思えない知性を感じます。

それに、この森の住人が案内してくれるなら、私が適当に歩き回るより安全かもしれません。


「わかったわ。案内をお願いしてもいい?」


私が頷くと、小熊は嬉しそうに尻尾を振り、トテトテと歩き出しました。

そのお尻がプリプリと揺れていて、なんとも愛らしい。

私は重い肉を背負い直して、小さなガイドさんの後を追いました。


   ◇


小熊に連れられて到着したのは、巨大な岩壁の裂け目にある洞窟でした。

入り口は蔦で巧妙に隠されており、外からは全く見えません。


「ここが、あなたのお家?」


「ガウッ」


小熊が胸を張って(いるように見えます)答えます。

中に入ると、意外なほど乾燥していて暖かく、嫌な湿気や虫の気配もありませんでした。

奥の方には枯草が集められていて、ふかふかのベッドのようになっています。


「素敵な物件じゃない。王宮の私の部屋より快適かもしれないわ」


私が荷物を下ろして座り込むと、ドッと疲れが押し寄せてきました。

緊張の糸が切れたのでしょう。

冤罪、婚約破棄、追放、そして魔獣狩り。

今日一日で一生分のカロリーを消費した気分です。


「ありがとう、助かったわ」


私が頭を撫でてあげると、小熊は気持ちよさそうに目を細め、私の膝の上にコロンと転がってきました。

温かい。

まるで湯たんぽです。


「あなた、本当によく食べるし、食いしん坊ね。……そうね、名前がないと不便だし、何か呼び名をつけましょうか」


小熊が片目を開けて、興味深そうに私を見ます。


暴食グラトニーなくらい食べるから……『グラさん』はどう?」


元婚約者のラシード王子が飼っていた愛玩犬には『シルキー・ダイヤモンド・プリンス三世』なんていう長ったらしい名前がついていましたが、私はシンプルイズベスト派です。


「ガウッ? ……ガウ(悪くない)」


どうやら気に入ってくれたようです。

グラさんは私の膝の上で丸まると、すぐに寝息を立て始めました。

私もその温もりに誘われるように、深い眠りへと落ちていきました。


   ◇


翌朝。

私が目を覚ますと、すでに太陽は高く昇っていました。

洞窟の入り口から差し込む木漏れ日が、埃をキラキラと照らしています。


「んんっ……よく寝たぁ」


固い地面の上でしたが、背中の肉襦袢(お肉)と、お腹の上の毛玉グラさんのおかげで、思いのほか熟睡できました。

グラさんはまだ私の横で、大の字になって爆睡しています。

警戒心ゼロです。本当に野生動物なのでしょうか。


さて、起き抜け一番に考えることといえば。


「朝ごはん、何にしようかしら」


昨日仕留めた紅牙猪の肉は、まだたっぷりとあります。

でも、朝からコッテリした鍋の残りというのも芸がありません。

それに、せっかくなら付け合わせも欲しいところ。


「ちょっと外を見てきましょう」


私は寝ているグラさんを起こさないようにそっと立ち上がり、洞窟の外へ出ました。

朝の森の空気は澄んでいて、深呼吸すると肺が浄化されるようです。


近くを散策していると、大木の根元に見慣れない植物を見つけました。

地面から突き出した、黄金色に輝く太い根っこ。


「これ、図鑑で見たことあるわ。**蜜芋ハニーヤム**ね!」


地中に強い魔力を蓄えて育つ芋の一種で、加熱するとねっとりとした甘みが出るのが特徴です。

市場では滅多にお目にかかれない高級食材が、そこらへんに生えているなんて。

さすが魔境、食材の宝庫です。


「よし、今日の朝食はこれに決まり」


私は解体ナイフを使って、慎重に蜜芋を掘り起こしました。

ずっしりと重い芋を二つ抱えて洞窟に戻ると、ちょうどグラさんが目を覚まして、私がいないことに気づいてオロオロしているところでした。


「ただいま、グラさん。いいものを見つけたわよ」


「ガウッ!(どこ行ってたんだ!)」


心配そうに駆け寄ってくるグラさんを撫でて安心させ、私は早速調理に取り掛かります。


今日のメニューは、『紅牙猪のカリカリベーコンと蜜芋のガレット風』です。


まず、昨日と同じように石組みの竈に火を熾します。

鉄鍋を熱し、そこに薄切りにした紅牙猪のバラ肉を並べます。


ジュウウウウッ……!


小気味よい音と共に、真っ白な脂身が透明になり、香ばしい匂いが洞窟内に充満します。

猪肉からたっぷりと脂が出たところで、肉がいったんカリカリになるまで炒め、皿代わりの大きな葉っぱに取り出しておきます。


鍋底には、猪の旨味が凝縮された黄金色のラードが残っています。

これを捨ててはいけません。これこそが最高の調味料なのです。


そこに、千切りにした蜜芋を投入します。


ジャアアアアアッ!!


脂と芋が出会った瞬間、爆発的な香りが弾けました。

甘い芋の香りと、野性味ある獣脂の香りが混ざり合い、なんとも背徳的なハーモニーを奏でます。


「ガウゥゥ……(ごくり)」


グラさんが鍋の最前列に陣取り、喉を鳴らして見つめています。

よだれがすごいことになっていますよ、グラさん。


「まだよ。焦げ目がつくまで待つの」


私は芋を平らに均し、あまり触らずにじっくりと焼き色をつけていきます。

表面が狐色になり、カリッとしてきたら裏返し。

両面をこんがりと焼いたら、先ほどのカリカリ肉を上に乗せ、最後に岩塩をパラリ。


「はい、お待たせ。森の特製ガレットよ」


熱々の鍋を火から下ろすと、グラさんは待ちきれない様子で鼻を近づけました。


「熱いから、少しずつね」


私がナイフで切り分けて差し出すと、グラさんはハフッと食らいつきました。


サクッ、ホクッ。


素晴らしい音です。

表面はラードで揚げ焼きにされてカリカリ、中は蜜芋の水分で蒸されてねっとりと甘い。

そこへ、塩気の効いた猪肉のパンチが加わる。


甘じょっぱい味わいは、正義です。


「おいしい……っ! 猪の脂のコクが、芋の甘さを引き立てているわ!」


私も一口食べて、天を仰ぎました。

朝からこんな高カロリーなものを食べていいのでしょうか。

いいえ、これからサバイバル生活を送るのですから、これくらい栄養をつけないと。


グラさんも夢中で食べています。

口の周りを脂でテカテカにしながら、一心不乱に芋を咀嚼する姿は、見ていて飽きません。

時折、「うまい、うまい」と言うようにこちらを見上げてきます。


「ふふ、そんなに慌てなくても誰も取らないわよ」


食事を終える頃には、私たちの間には奇妙な連帯感が生まれていました。

同じ釜の飯を食う、というやつです。


「さて、グラさん」


食後のお茶(川の水ですが)を飲みながら、私はグラさんに話しかけました。


「私、しばらくここで暮らそうと思うの。王都に帰る場所なんてないし、何よりここは美味しいものがたくさんあるから」


この森には、まだまだ未知の食材が眠っているはずです。

毒があるかもしれないし、襲われるかもしれない。

でも、この紅牙猪や蜜芋のような感動が待っているなら、冒険する価値はあります。


「あなたも、一緒にいてくれる?」


私が尋ねると、グラさんは満足げに腹をさすりながら、ニヤリと(クマの顔ですが確かにニヤリと)笑って頷きました。


「ガウッ(いいだろう、飼ってやる)」


なんだか上から目線な気もしますが、まあいいでしょう。

こうして、私と謎の小熊グラさんとの、美味しくも危険な同居生活が幕を開けたのです。


けれど平和な時間はそう長くは続きません。

なぜなら私は「美味しいもの」には目がないですが、この森に住む魔獣たちは、さらに「美味しいもの」に飢えているからです。


突然、洞窟の外から、鼓膜をつんざくような鋭い鳴き声が響き渡りました。


「キエェェェェェッ!!」


「……今の声は?」


私が立ち上がると、グラさんの瞳がスッと細まり、銀色の輝きを増しました。

ただの食いしん坊から、森の王者の顔つきに変わります。


どうやら、デザートの時間はまだお預けのようです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ