第一話
「二度と私の前に顔を見せるな! この卑しい女め!」
背後で轟音と共に、国境の巨大な鉄門が閉ざされました。
あーあ、閉まっちゃいましたね。
冷たい風が吹き荒れる中、私は一人、ドレス姿で立ち尽くしていました。
目の前に広がるのは、鬱蒼と茂る巨木たち。
どこからともなく聞こえる不気味な獣の咆哮。
そして、鼻をつく腐葉土と死の匂い。
ここは「帰らずの森」。
凶悪な魔獣が跋扈し、一度足を踏み入れれば熟練の騎士団さえ骨も残らないと言われる、王国の天然の処刑場です。
本来なら、ここで絶望のあまり泣き崩れたり、恐怖に震えたりするのが「追放された元公爵令嬢」の正しい振る舞いなのでしょう。
でも、ごめんなさい。
今の私には、そんな余裕はこれっぽっちもないのです。
「……お腹、空いたなぁ」
私の口から漏れたのは、悲鳴ではなく、間の抜けた本音でした。
ぐぅぅぅぅぅ。
それに呼応するように、お腹の虫が盛大に鳴き声を上げます。
無理もありません。
冤罪をかけられて地下牢に放り込まれてから三日間、私は水一滴しか口にしていないのですから。
私の名前はヴィオラ。
つい先ほどまで、この国の公爵令嬢であり、ラシード王子の婚約者だった女です。
罪状は「聖女リリィへのいじめ」。
もちろん、まったくの事実無根です。
聖女が「手作りです」と王子に差し出したクッキーが、実は市販の安物を袋から出しただけだと見抜いてしまったこと。
そして、「ショートニングの匂いが強すぎて胸焼けがします」と正直な感想を述べてしまったこと。
私の罪といえば、その程度です。
「味音痴な王子様と、料理を冒涜する聖女様。お似合いのカップルだこと」
ドレスの砂埃を払いながら、私は森の奥を見据えました。
前世、下町の定食屋で包丁を握っていた記憶を持つ私にとって、空腹は何よりも耐え難い苦痛です。
死ぬのが怖いのではありません。
「最後に食べたのがカビの生えた牢屋のパン」という状態で死ぬのが、死んでも死にきれないほど嫌なのです。
ガサガサッ!!
突然、すぐ近くの茂みが激しく揺れました。
漂ってくるのは、強烈な獣臭。
「グルルルルッ……!!」
現れたのは、赤い剛毛に覆われた巨大な猪でした。
体長は優に三メートルはあるでしょうか。
口からは鋭い牙が突き出し、興奮した鼻息が白い湯気となって噴き出しています。
紅牙猪。
その牙は岩をも砕き、突進を受ければ城壁さえ崩れると言われる、森の殺戮者。
普通の人間なら、腰を抜かして失禁するレベルの怪物です。
けれど。
「……あら」
私の目は、恐怖ではなく、別の感情で見開かれていました。
じゅるり。
口の中に、大量の唾液が溢れ出してきます。
あの赤く輝く毛並みの下にあるのは、冬を越すために蓄えられた分厚い皮下脂肪。
そして、森を駆け回ることで鍛え上げられた、濃厚な旨味を持つ赤身肉。
(間違いない。あれは……極上の食材よ!)
「ブモオオオオオオッ!!」
紅牙猪が、私を獲物と認識して地面を蹴りました。
地響きと共に、巨大な肉の塊が突進してきます。
私はドレスのスカートをまくり上げると、太もものホルダーに隠していた愛用の包丁――ミスリル製の解体ナイフを引き抜きました。
父が「護身用」として持たせてくれた最高級品ですが、まさか娘がこれを料理するために使う気満々だとは夢にも思わないでしょう。
「食材の方から走ってきてくれるなんて、デリバリーよりも優秀ね!」
恐怖心?
そんなもの、食欲の前では無力です。
「スキル発動――【解体】!」
私は正面から突っ込んでくる猪に対し、一歩も引きませんでした。
むしろ、軽く膝を曲げ、迎撃の態勢を取ります。
私の視界の中だけで、世界が変わりました。
猪の体の上に、赤い「線」が浮かび上がります。
あれは生物としての急所であり、同時に食材としての「解体ライン」。
ドオオオオオッ!
鼻先が私の目の前を通過する瞬間、私は貴族として叩き込まれたダンスのステップで、紙一重にかわしました。
そして、すれ違いざまにナイフを一閃。
スパッ。
手には、ほとんど抵抗がありませんでした。
ミスリルの切れ味と私のスキルが合わされば、鋼のような猪の皮も豆腐のように切り裂けます。
紅牙猪は数メートル先でどうと倒れ、痙攣した後、動かなくなりました。
首の動脈を正確に切断した、苦しませない一撃です。
こうすることで、肉に余計なストレスがかからず、味が落ちるのを防げるのです。
「ありがとう、命。美味しくいただくわね」
私はすぐに猪の足をつかみ、近くに水の音が聞こえる方へと引きずっていきました。
三メートルの巨体ですが、火事場の馬鹿力ならぬ「空腹場の馬鹿力」で、不思議と重さを感じません。
小川を見つけると、私はすぐに解体作業に入りました。
血抜きはスピード勝負。
冷たい川の水で肉を洗い、内臓を傷つけないように取り出します。
「うーん、いいレバー。新鮮そのものね。でも今日はやっぱり……これよ」
私が切り出したのは、脂がたっぷりと乗ったバラ肉。
ピンク色の赤身と真っ白な脂身が美しい層を成しており、見ているだけで喉が鳴ります。
「さて、調理開始といきましょうか」
私は追放される際、宝石類はすべて没収されましたが、この小さな鉄鍋だけは「これがないと死んでしまいます!」と泣き落としで持ち出すことを許されたのです。
衛兵たちは「あんな古びた鍋一つで何ができる」と鼻で笑っていましたが、私にとってはダイヤモンドよりも価値がある宝物です。
手早く石を組んで竈を作り、生活魔法で火を点けます。
鍋に川の水を張り、沸騰するのを待つ間に、私は周囲を探索しました。
「あったあった、香草ミントラ。これでお肉の臭みを消して、爽やかに。それから……お、木の根元に**岩茸**も発見。いい出汁が出るのよねえ」
沸騰したお湯に、ちぎったミントラと岩茸を投入します。
すぐに、ハーブの清涼感ある香りと、キノコの土の香りが湯気となって立ち上りました。
そこへ、薄くスライスした紅牙猪のバラ肉を、一枚ずつ丁寧に広げて入れます。
ジュワァ……。
脂が熱湯に溶け出し、鍋の表面に金色の油膜が広がります。
灰汁が浮いてきたら、丁寧にすくい取る。
この一手間が、野性味あふれる魔獣肉を洗練された料理へと変えるのです。
最後に、ポケットに忍ばせていた岩塩をひとつまみ。
「完成。紅牙猪のバラ肉を使った、シンプル塩鍋」
鍋からは、暴力的なまでに食欲をそそる香りが漂っています。
もう我慢の限界でした。
私は木の枝で作った即席の箸で、肉をたっぷりと掴み上げました。
熱々の湯気をまとった肉が、ぷるぷると震えています。
フーフーと息を吹きかけ、口の中へ。
「……んっ!!」
噛んだ瞬間、口の中で脂の爆弾が破裂しました。
甘い。
信じられないほど、脂が甘いのです。
普通の豚肉よりもずっと濃厚で、それでいてミントラの効果で後味は驚くほどさっぱりしています。
赤身の部分は噛みごたえがあり、噛めば噛むほどに旨味を含んだ肉汁が溢れ出してくる。
岩茸から出た滋味深い出汁と岩塩の塩気が、肉の甘みを極限まで引き立てていました。
「おいしい……! 生き返る……!」
ハフハフと熱い息を吐きながら、私は夢中で肉を貪りました。
胃袋に熱いものが落ちるたび、凍えていた体が芯から温まり、生きる力が湧いてきます。
王宮で出される冷めた料理なんかより、この森の野外料理の方が何百倍も贅沢です。
その時でした。
ガサッ。
背後の茂みから、また何かの気配がしました。
私は箸を止め、反射的にナイフに手を伸ばします。
また紅牙猪でしょうか? それとも別の魔獣?
警戒して振り返った私の視界に入ってきたのは――。
「……くま?」
そこには、黒い毛玉のようなものがちょこんと座っていました。
体長は五十センチほど。
つぶらな瞳をした、真っ黒な小熊です。
ただ、普通の熊とは少し違いました。
額には小さな黒い角が生えており、その瞳は吸い込まれそうなほど美しい銀色をしています。
小熊は、私を襲う様子はありませんでした。
その視線は、私ではなく、私の手元――正確には、箸で掴んだ肉に釘付けになっています。
ヒクヒク、と小さな鼻が動きました。
そして、その口元から、タラリとよだれが垂れます。
「くぅ……」
切なげな声。
それは威嚇ではなく、明らかに「おねだり」の声でした。
「……もしかして、食べたいの?」
私が問いかけると、小熊はビクッと体を震わせ、警戒するように一歩下がりました。
でも、食欲には勝てないらしく、すぐにまた一歩近づいてきます。
その瞳は「置いていかないでくれ」と訴える捨て犬のよう。
「ふふっ」
私は思わず笑みをこぼしてしまいました。
こんな恐ろしい森の中で、私以外にもお腹を空かせた食いしん坊がいるなんて。
私は鍋の中から、特によく煮えて脂の乗った肉を選び、大きな葉っぱの上に乗せました。
少し冷ましてから、小熊の目の前に置きます。
「どうぞ。熱いから気をつけてね」
小熊は私と肉を交互に見つめ、恐る恐る鼻を近づけました。
そして、意を決したようにパクッと一口で頬張ります。
その瞬間。
小熊の銀色の瞳が、カッと大きく見開かれました。
「ガウッ!?(なんじゃこれは!?)」
全身の毛が逆立ち、驚愕に震えています。
そして次の瞬間、小熊は猛烈な勢いで咀嚼を始めました。
ハフハフ、ガツガツ。
あっという間に肉を飲み込むと、小熊はキラキラした目で私を見上げ、前足で私のスカートをペシペシと叩きました。
「ガウガウ! ガウガウ!(うまい! もっと寄越せ!)」
言葉はわかりませんが、言いたいことは痛いほど伝わってきます。
「あはは! そんなに気に入ったの? 大丈夫、お肉はまだまだたくさんあるわよ」
私は鍋からおかわりをよそってあげました。
小熊は尻尾を振り切れんばかりに振って、夢中で肉にかぶりつきます。
その姿を見ていると、一人ぼっちで食べる寂しさが、ふわりと消えていくようでした。
「おいしいね、くまさん」
「ガウッ(うむ)!」
この時の私はまだ知りませんでした。
この愛らしい小熊の正体が、数百年前に封印された最強の魔王様であり、この一食がきっかけで私が国をも揺るがす溺愛を受けることになるなんて。
ただ一つ確かなことは。
絶望の森で出会ったのは、恐ろしい怪物ではなく、最高の「食事仲間」だったということです。
焚き火の暖かさと、美味しい料理、そして隣にはもふもふの小熊。
私の追放スローライフは、意外と悪くない滑り出しなのかもしれません。




