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家騒動


ロンドンの朝は煤煙の味がした。

セシル・バーンは通りの角で紙コップの珈琲をすすり、今日こそは平穏に帳簿の整理でも──と、珍しく穏やかな未来を思い描いていた。

そんな未来は、たいてい馬車のブレーキ音にかき消される。


蹄鉄の甲高い音。二輪馬車がきゅっと横付けされ、ドアが勢いよく開いた。

栗色の髪を柔らかな波にまとめ、陽の光を抱え込んだような笑顔の女性が、ばね仕掛けの玩具のように飛び降りた。


「セシル! まあ、まあ、まあっ!」


抱きついた。正確に言うなら、飛びついてから抱きついた。

セシルの胸の珈琲が、ほぼ垂直に空へ舞い上がる。


「ぐっ……お、おはよう、エリザベス……!」


「リジーって呼んでって言ったでしょう?」


抱擁は続く。視界の半分が栗色に覆われ、残りの半分が青空と通行人の好奇の視線だ。

セシルを中心に人の輪ができ、ざわざわと「若い」「勇敢だ」「昼間っから」などの囁きが飛ぶ。


その輪の外、探偵事務所のドアから黒髪の少女がひょいと顔を出した。


「……どちら様?」


クロエの声は氷のように冷たい。


「あら、かわいい子。新しい──」


「看板です」


即答だった。「この事務所の」


セシルが慌てて眼鏡を直し、二人の間に割って入る。


「紹介するよ、クロエ。彼女はエリザベス・ハートフィールド。幼なじみで、昔からの友人だ。リジー、こっちはクロエ。相棒だ」


「助手じゃなくて?」


クロエがふっと笑う。「格上げ、早いわね」


「まあ、相棒さん!」リジーはぱっと笑顔を向けた。「だったら心強いわ。だって今日は、わたしの婚約者の無実を証明してほしくて来たんですもの!」


セシルの声は半音上ずった。「婚約者?」


リジーは胸を張る。「ええ。アーサー・ペンブローク。機械仕掛けの小物を作る人で、とても真面目で誠実で……とにかく、あの人は盗みなんてしませんの!」


クロエの視線が、リジーの胸→セシルの顔→また胸、と一定のリズムで往復する。


「“小物を作る人”ね」

言外に百の意味を含ませて、クロエはつぶやいた。


セシルは咳払いをし、「事件の概要を聞こうか。落ち着いて、順を追って」と促す。

リジーは頷き、籐のバッグから封筒を取り出した。


「真鍮の指輪が消えたの。父の形見で、婚約者のアーサーに預けてサイズを直してもらっていたのに……昨晩、屋敷の音楽室で皆が集まっている間に、彼の作業机から忽然と。部屋は鍵がかかっていたわ。鍵はわたしと執事、そして──」


「アーサー本人だ」セシルが言葉を継ぐ。「状況だけ見れば、彼が最有力に見える」


「でも違うの!」リジーは勢いよく身を乗り出し、セシルの肩に手を置いた。「セシル、お願い。彼の無実を証明して」


クロエが椅子を引き、コーヒーをもう一杯淹れてテーブルに置いた。


「こぼさないでね、今度は。で、依頼人は“セシル個人”に依頼するの? それとも“事務所”に?」


「……事務所にお願いします」リジーは笑ってウィンクする。「もちろん、相棒さんにも」


相棒さんは、ふっと笑った。「了解。では、まず屋敷へ。現場を見てから妬くわ」


「妬く、の部分は要らないからね」


セシルは外套を羽織り、帽子を取った。「では、ハートフィールド邸へ」


こうして、平穏と帳簿の未来はまたブレーキ音の向こうに消えた。




ハートフィールド邸は、ロンドン西部の並木道の奥にたたずんでいた。

鉄製の門扉はよく手入れされ、蔦が絡む塀は新雪のように白い漆喰で塗られている。

噴水の水は細い弧を描き、陽光を反射して銀色にきらめいた。


セシルは、石畳に靴音が響くたびに背筋がしゃんとするのを感じた。

ここは、彼の父の代から出入りしたことのある旧家。

だが今日は客ではなく探偵として訪れたのだと、胸の奥で小さく念を押す。


「ようこそおいでくださいました」

執事のコールドウェルが、年季の入った燕尾服を着こなし、恭しく一礼した。

その声は落ち着いていたが、目の奥にかすかな険しさがある。

「例の件、まことに遺憾でございます。警察にも通報済みですが……お嬢様のご要望により、こちらで独自にご調査いただく運びとなりました」


セシルは軽く会釈を返した。「では、まず現場を拝見させていただけますか?」


案内された音楽室は、磨かれた寄木の床と天井まで届く大きな窓、壁一面に飾られた家族の肖像画が印象的だった。

グランドピアノは蓋が開け放たれ、譜面台にはショパンのワルツ。

昼下がりの光が鍵盤の象牙に反射して、白と黒のあいだで淡く踊る。


リジーが胸を張る。「この部屋でなくなったの。アーサーの作業机は、こっちよ」


机の前に立ったアーサー・ペンブロークは、少し強張った表情で会釈した。

彼のシャツの袖口には金属粉がかすかに付着している。

職人の手。器用で、だが繊細さゆえに不器用にも見える青年だった。


「指輪はここに入れていました。鍵は僕とリジー、そして執事が一本ずつ持っています。

昨夜、皆で音楽を楽しんでいる間に、誰かが引き出しをこじ開けたようです」


セシルはしゃがみ込み、引き出しの縁を指でなぞった。

「こじ開けた痕跡……確かにありますね。鋭利な鑢か、細いバールのようなもので」


クロエが隣に膝をつき、鍵穴の周囲の煤を指先ですくった。

「真鍮を削った匂い。……でもこの煤は新しくないわ。以前にもここで何度か作業をした痕跡がある」


セシルは頷き、床を軽く叩いた。「底板が微妙に浮いていますね。……コールドウェル、この机をここに置いたのはいつから?」


「ご主人様の時代からでございます。奥様が音楽室を好まれて」


「なるほど。では、一度動かしても?」


執事の許しを得て机を動かすと、底板の裏に小さな真鍮片がいくつか残っていた。

クロエはそれを紙に包み、慎重にポケットへしまう。


「誰かがここで細工をしたのは間違いないわね」


リジーは心配そうにセシルを見上げた。「アーサーじゃないでしょう? 彼はそんなことしないわ」


セシルは微笑んだ。「今のところ、断定はできません。でも、事件は昨晩だけの出来事ではなさそうです」


クロエは窓辺に立ち、外を眺めた。「芝生が湿ってる。昨夜雨は降ってないのに、泥がついてるわ。……誰かが庭から入った可能性がある」


セシルはメモ帳を取り出し、痕跡を丁寧に書き留めていった。

手帳に記すペン先の音が、音楽室の静けさを一層深める。





 音楽室の空気は、いまだ昨夜の拍を残しているようだった。

 窓辺の薄幕が風に揺れ、誰も触れていないのにピアノの弦がごく微かに共鳴する。耳を澄ませばわずかな金属音——真鍮の粒子が、まだ部屋のどこかに舞っているのかもしれない。


 セシルは手帳を開き、最初のページに小さく一、二、三、四と拍を打ってからペン先を置いた。話を聞く順番を決めるのは、演奏の流れを決めるのとよく似ている。入口から中盤、そして終奏。まずは家主側の“表の顔”から入って、次に家の骨を支える者たちへ降りるのが筋だ。


1 ハートフィールド夫人——「上流の呼吸」


 応接間は午後の光で満ちていた。暖炉の上の鏡には、夫人の姿が淡く二重に映る。

 ハートフィールド夫人は、まっすぐ背筋を伸ばしてソファへ腰掛け、指先を組んだ。その姿勢は、教会の長椅子で祈る人のように乱れがない。乱れがないということは、乱れを見せる場所を知っているということでもある。


「昨夜は音楽会でしたの。ごく内輪。娘のお友だちが二、三人、それから婚約者のアーサーさん。最初のワルツが終わった頃合いで、わたくしは給仕にお茶を頼みまして……」


「その間に、アーサーさんは席を外した?」とセシル。


「ええ。『道具を取りに作業机へ』と。三分もなかったと思います。戻ったときの彼は、少し息が上がっていたけれど——」夫人は言葉を宙に浮かせ、鏡越しに自分の横顔を確かめる。「若い方は、踊る前から息が上がるのね」


 リジーがむっとする。こういう母娘の掛け合いの最中に、クロエはなぜか視線を窓へ滑らせ、外の芝生の陰影を観察している。喧噪の外で、静かに呼吸の乱れを拾うのは彼女のやり方だ。


「奥様は音楽室を離れましたか?」セシルが穏やかに尋ねる。


「わたくしはずっと室内に」

 夫人は小首をかしげる。「ただ一度だけ、コールドウェルが廊下に誰かの影を見たと言って、確認に行ったような気もしますけれど」


「どのタイミングで?」クロエが挟む。声は水の温度で、波紋だけ残した。


「……最初のアレグロが鳴っている最中。三曲目の前だったかしら」


 セシルはペンを滑らせ、譜面に書き込むように、三曲目の前=三分弱の死角と記す。夫人の言葉の端に、無意識の拍が見える。

 夫人の視線がふっとリジーへ寄る。「アーサーさんは誠実な青年です。娘が選んだ人だから、わたくしも信じたい。——ただ、家の物に手を付けるような人では困るわ」


「お母さま!」

 リジーは膝を鳴らし、ソファから半分浮いた。セシルがさりげなく袖を引く。リジーの感情の弦は、触れるとすぐに鳴る。素直で、曲げようがない——そして、こういう弦は、誰かに悪用されやすい。


 クロエは夫人の手元へ目を落とす。「奥様、手袋の縫い目に細い青糸。衣装係は?」

「メアリよ。仕立てはうちでやらせています」


 青糸。——後で、布置図の既視感と結びつく色だ、とセシルは心に留める。




2 アーサー・ペンブローク——「職人の手、遅い語り」


 作業部屋には、磨き棒と小さな金床、極細の鑢が整然と並んでいた。窓から斜めに入る光が、細かな金属粉を浮かび上がらせる。

 アーサーは机の前に立ち、緊張を持て余した手を何度も擦り合わせている。手の甲に残る微細な傷が、職人の時間の長さを語っていた。


「リジー嬢の指輪は真鍮製ですね。あえて銀ではなく?」セシルが道具をひとつずつ眺めながら問う。


「お父上の形見で、当時の家計では真鍮しか。傷はつきやすいが、温かい色で好きなんです」

 アーサーは、言葉を選ぶとき、喉でいったん留める癖がある。話のテンポが、拍の二で少し沈む。


「昨夜、席を外した三分間、どこへ?」


「机へ。サイズを確かめたくて。引き出しを開けたら、なくなっていた。鍵は……ここに」

 差し出したキーフックには三本の鍵。一本は新しく、二本は古い。

「古い方は机と作業棚、新しいのは部屋の鍵です」


 クロエが鍵の刻みを指先でなぞる。「新しい刻みは粗い。急いで作った癖。誰が?」


「先週、コールドウェルに——」アーサーは慌てて言い直した。「いえ、僕が頼んで鋳掛け屋に。部屋を新しく施錠した方がいいと言われて」


「誰に?」クロエが目だけで問う。


「……メアリに。盗難の噂があるなら、と」


 セシルは微笑む。「用心深いのは良いことです。ただ、用心深さが“段取り”になってしまう場合がある」

 アーサーは言葉の意味を測りかねたように黙った。彼の沈黙は無実の方向を向いているが、誰かに導かれやすい沈黙でもある。


 リジーはすぐそばで両手を握りしめ、アーサーの横顔を見上げている。クロエが一歩だけ近づき、リジーの肩の高さからアーサーの指先へ視線を落とした。

「この粉、真鍮だけじゃない。……土ね。窓際の泥と似てる」


 アーサーは目を丸くする。「僕は外に出ていません」


「ええ。“あなた”は」クロエは短く言い、窓枠の蝶番へ寄った。「ここ、油のさし方が雑。家の人の癖じゃない。外から入って、一度だけで癖が出る油の差し方」


 セシルは手帳に蝶番/油=外からの手と走り書きした。——これで、庭からの侵入可能性が現実味を得る。





3 執事コールドウェル——「家の骨」


 廊下の突き当たり、執事室は簡素で清潔だった。磨かれた靴べらが整列し、書類は革のフォルダに収まっている。

 コールドウェルは椅子を譲り、立ったまま答えた。立っているほうが本音から遠くなれることを、彼は知っている。


「影を見た、と奥様に?」セシル。


「はい。廊下の角を曲がる帽子の影を。客の誰とも帽子の形が違いましたので、一応見回りに」

 語尾に“恐縮”が滲む。責を独りで引き受けようとする人の声だ。


「昨夜、裏口は?」とクロエ。


「施錠済み。——のはずでしたが、朝の巡回で下側の閂だけ外れているのに気づきました」


「下だけ?」セシルの眉が微かに動く。「上は?」


「上はかかっていました」


 セシルは想像する。夜、背の低い者が急いで出入りし、手が届く下の閂だけを扱った。上はそのまま。

 コールドウェルは、苦いものを嚙みしめたように唇を結んだ。「家の恥です。誰かが外から出入りしたなら、私の落ち度。その点は、先に申し上げておきます」


「落ち度を言える人は、たいてい落ち度が少ない」セシルが柔らかく返す。「それより、出納帳を拝見できませんか。錠前や窓の補修に最近の支出は?」


 執事は一瞬だけ逡巡し、それでも鍵束を取り出した。

 帳簿は彼の字で整然と並び、最近の項に「修繕費」「雑費」が小刻みに混ざる。

 クロエが斜めから覗き込み、ページの端を指で弾く。「同じ金額が、二日おきに三回。帳尻合わせの匂いがする」


 コールドウェルは眉根を寄せた。「屋敷の体面上、どうしても……」


「どなたの指示で?」

 問いは鋭くない。だが、逃げ道を塞ぐ角度で置かれている。


 執事は息を吐いた。「——奥様と、メアリ嬢の相談で。客を招く予定が続いたもので、体裁を整える必要がありました。急ぎの職人に頼ると、どうしても……」


 メアリの名が自然に出てきた。“裏方の段取り”を仕切れる位置にいる証拠だ。

 セシルはメモに、費目の分散/メアリの進言/帳尻と書く。






4 料理長プリチャード夫人——「台所の風」


 台所は暖かく、香草の匂いと肉の脂が混じっている。

 プリチャード夫人は大きな腕で鍋を振りながら、「あたしは何も知りませんよ」と言いつつ、たいていのことを知っている人の目をしていた。


「昨夜、裏口の出入りは?」とセシル。


「うちは八時に食器が上がって、九時過ぎには片付け。裏口は閉めましたとも——メアリが“念のため”って一度見に来ましたけどね。あの子、段取りが好きでねぇ。悪い意味じゃないよ」


 段取り。台所は段取りで回る場所だ。そこに顔を出す者は、家の時間割を掌握したい人でもある。

 クロエはふっと鼻を動かす。「この匂い、シナモンと……ロジン」


「ロジン?」夫人が目を丸くする。「台所にロジンなんて持ち込みませんよ。お嬢さん、鼻が利くね」


「誰かの服から移ったのかも」クロエは天井の梁を見る。空気の流れを読む癖だ。「音楽室から台所へ来た人がいた」


 夫人は骨太な眉を上げた。「昨夜なら、音楽室から来たのはメアリと、庭師のネヴィルが一度。帽子を掴んで走ってきた。『お客様の馬車が早く来た』とか何とか。でも正面玄関から呼ばれたのは別の小僧だよ」


 セシルとクロエは目を合わせる。

 ——帽子の影。下の閂。庭。

 手帳に、ネヴィル/台所通過/帽子目深の三行が増えた。





5 メアリ——「微笑の段取り」


 青い糸のエプロン。髪はきちんと留められ、目元に出しゃばらない光。誰からも好かれる“良い娘”の顔を、メアリはゆるみなく纏っていた。

 小間使いであり、奥方の身の回りも見る。屋敷の境目に立つ役目だ。


「わたし、何もお役に立てなくて」メアリは両手を重ねた。「ただ、最近は盗難の噂が多いと聞いて、アーサー様にも『お部屋の鍵を新しく』と申し上げたくらいで……」


「良い心がけです」とセシル。「裏口の施錠も、あなたが?」


「はい。奥様に言われて。用心は大切ですから」

 答えは正しい。正しさは、ときに隠れ家になる。


 クロエは視線だけメアリの手元へ落とす。

 爪の縁に淡い煤、エプロンの布目に微細な金色。真鍮粉は光を捉えにくいが、光を知っている。

「裁縫の青糸は、夫人の手袋と同じ?」


「ええ。家の倉庫から。必要なものは帳簿に記してあります」


「出納の“雑費”、あなたが起案?」

 メアリの目が半拍だけ泳いだ。

「いえ、コールドウェル様と相談の上で。——奥様のご意向です」


 クロエは“意向”の重さを天秤に載せてから、ほんのわずか首を傾けた。

 セシルが話題を変える。「昨夜、音楽室から台所へ?」


「お茶の様子を見に一度だけ。プリチャード夫人は頼りになりますけど、お客様が多いときは確認が必要で」


「庭師のネヴィルも来たそうだね」


「……そうでしたかしら」メアリは笑ってみせる。その笑みは薄く、すぐ乾く笑いだった。「彼は働き者ですから」


 リジーが、セシルの袖口をつついた。

「メアリは小さい頃から家にいるの。ちょっと几帳面なだけで……悪い子じゃないわ」


 クロエが小声で問う。「几帳面は段取りに強い。段取りは、舞台に向く」


「舞台?」


「嘘を演出するとき、裏で動く人」


 リジーは言葉に詰まり、視線をそらしてアーサーを探した。

 セシルはその横顔を横目で見て、メアリをやさしく辞した。

 彼女の退室の足どりは、二拍目でわずかに深く沈む。見送る者に安心を与える歩調だ。安心は、油断とよく似ている。




6 庭師ネヴィル——「芝の足跡」


 庭は、昼の光が鋭く、影もまた濃い。

 ネヴィルは背は低いが筋肉質で、帽子を目深に被り、土に馴染んだ手をしていた。

「お嬢様の婚約指輪が、って話は聞いとります。恥なことです。庭から入るやつがいたなら——」


「昨夜、台所へ走った?」セシルが直截に切り込む。


 ネヴィルの指が、無意識に帽子の庇を押さえた。「馬車が早う来たって言いに。裏口のほうが早いと思うて」


「裏口の下の閂だけ開いてた」クロエが言う。「あなたの背丈なら、上まで手を上げるのは無理しないと届かない。——無理をしなかった」


 ネヴィルは口をつぐみ、芝の一点を見た。

 沈黙の仕方が、罪を認める沈黙ではない。誰かを庇う沈黙だ。

 リジーが割って入る。「ネヴィルはずっと働いてくれてるの。乱暴なことをする人じゃないわ」


「乱暴である必要はないわ」クロエは芝生の縁、濃い緑が薄く途切れる箇所にしゃがみ込む。「ここ、昨夜の踏み替え。芝の向きが二度変わってる。往路と復路。二回、同じ人が通った」


「二回?」セシル。


「一回目は軽い。二回目は重い。——何かを持って戻った」


 ネヴィルの喉が上下した。「……庭は、よう音を覚えてる」


「誰の音?」

 ネヴィルは答えない。帽子の庇の影で、眼差しだけが揺れた。その揺れは、姉弟に似ている、とセシルは思った。

 誰かが荷を持つとき、誰かは手を空ける。

 誰かが罪を背負うとき、誰かは手を汚さない。





7 小間使いエルシー——「細部の証言」


 裏階段の踊り場で呼び止めたエルシーは、怯えた小鳥のような目をしていた。

「昨夜、帽子の影を見たって?」セシルが優しく問う。


「は、はい。音楽室の曲が変わる前、廊下の角で。影だけで、顔は……。でも、青い紐が揺れてたのを見ました。あの、メアリ様のエプロンの紐みたいな色で——」


 クロエが視線を交わす。青い糸は、朝から何度も出てきている。

 エルシーは慌てて付け加えた。「でも、メアリ様はいい人です。いつも私らにパンの余りを分けてくれて」


「いい人ね」とクロエは言い、にこりともせず礼を言った。

 “いい人”のベールは、時に最強のコートになる。





 音楽室へ戻ると、光の角度が少し変わっていた。

 セシルは譜面台に手帳を置き、ページをめくる。情報は散乱しているが、拍で束ねれば流れになる。

•夫人:三曲目前に小さな死角。

•アーサー:三分の離席。鍵は三本、新しい鍵は“進言”による。窓際に土の微粒。

•執事:裏口は下閂のみ外れ。出納帳に細切れの支出、メアリの進言。

•台所:ロジンの匂いが痕跡として漂う。ネヴィルが“帽子”で台所を通過。

•メアリ:青糸、微細な真鍮粉、段取り。用心を言い出す立場。

•ネヴィル:芝の往復、二度の荷重差。沈黙は庇う沈黙。


 セシルは指先で一、二、三、四と机を叩き、曲を組み立てるように息を整えた。

 クロエはピアノの蓋に手を置き、ささやく。「二拍目で人の心は沈む。そこを掬い上げれば、三拍目は勝手に戻る」


 彼女の言葉は、いつも音楽の比喩に落ちる。

 セシルは頷き、視線をリジーへ向けた。「リジー、君に頼みがある」


「なに? セシルの頼みなら何でも聞くわ」


 クロエの睫毛が、音もなくぴくりと動いた。

「今夜も音楽室に皆を招いてほしい。昨夜と同じ段取りで。——ただし、こちらの用意した“段取り”をひとつだけ、混ぜる」


 リジーはぱっと笑顔になり、すぐセシルの腕に絡みつく。「わかった。ねえ、クロエさん、あなたも綺麗なドレスを着たらきっと——」


「看板は制服が似合うの」クロエは涼しく言った。「それに、私は舞台を見る側」


 その言葉に、リジーがほんの少し口を尖らせる。

 セシルは二人を交互に見て、内心で小さくため息をついた。火花は、灯りにもなるし、失火にもなる。使い方次第だ。


 窓の外では、午後の光が芝生の上を移動し、午前とは逆方向に影が伸び始めていた。

 屋敷という大きな楽器は、次の曲に備えて静かに調律されていく。

 そして、調律の音はいつも、誰にも聞こえないところで鳴る。



 日が沈むと、屋敷はまるで別の家になった。

 昼間の陽光で柔らかかった壁の色は、ランプの明かりの下で深い琥珀に変わる。

 音楽室のピアノは静まり返り、白鍵と黒鍵が見えない指にそっと撫でられたように光る。


 セシルは囮として用意した真鍮の指輪を机の引き出しに入れ、鍵をかけた。

 クロエが鍵を確認し、机の周囲に細かい白亜の粉を撒く。侵入者が来れば足跡が残る算段だ。


「完璧ね」とクロエ。「あとは待つだけ」


「待つ時間が一番骨が折れるよ」

 セシルは椅子を二つ並べ、ひとつに腰掛けた。

 クロエは窓辺の椅子に腰掛け、膝に頬杖をついた。長い髪がランプの光で金にも黒にも見える。


「退屈なら話をしてあげるわ」

「なにを?」

「あなたがまだ子どもだった頃の話。こっそりお菓子を盗んで庭に隠してたでしょう」


 セシルは苦笑して眼鏡を押し上げる。「どうして知ってるんだ」

「埋めた場所、ぜんぶ覚えてる。掘り返したのも、わたし」


 セシルが返す言葉に迷っていると、廊下の時計が静かに一時を告げた。

 屋敷全体が息を止めたかのように静まる。


 やがて、遠くで軋む音。

 下の階の床板が一枚きしむ。クロエがそっと立ち上がり、指先でランプの火を絞った。


 暗闇が訪れる。光は細い芯だけ残し、音楽室の空気が急に冷たくなる。

 セシルは息を殺し、耳を澄ませた。


 ——かすかな金属音。閂が外れる音。

 続いて、靴底が芝を踏む音。

 一定の拍で、しかし急いでいる。侵入者は迷っていない。まるで稽古した舞台の動きのように、迷いなく窓の下へ。


 クロエが窓際に身をかがめ、セシルに合図した。

 影が、窓の外を横切る。月明かりに帽子の影が浮かび、次いで窓が静かに押し上げられた。


 その瞬間、セシルは立ち上がり、ランプを掲げた。

「動くな!」


 影が弾かれたように後退し、走り出す。

 セシルは窓を飛び越え、庭へ。冷たい夜気が肺に刺さる。


 芝生が靴底を返す音を頼りに追う。

 ネヴィルの背中が月光に浮かび上がる。背は低いが、脚は速い。

 セシルは時計塔の鐘が二度鳴るのを聞きながら、肺の奥で拍を合わせた。


 一、二、三、四——

 呼吸と歩幅を揃え、距離を詰める。

 ネヴィルが裏口へ差しかかると同時に、クロエが回り込み、閂の前に立ちはだかった。


「止まれ」

 彼女の声は低く、夜気を震わせる。

 ネヴィルは思わず立ち止まり、次の瞬間、走り抜けようと身を低くした。

 しかしクロエはひらりと体をかわし、帽子を掴んで引き剥がす。


「離せ!」

 少年の声。怒りと恐怖と、わずかな安堵が混じった声だった。


 セシルが駆けつけ、肩を押さえた。「落ち着け。君に話を聞くだけだ」


 ネヴィルはしばらく抵抗したが、やがて力を抜いた。

 クロエは掴んだ帽子をくるりと指に掛け、静かに言った。


「一度なら偶然。でも二度通った。往路と復路、どちらも芝が覚えてる」


 ネヴィルは唇を噛み、黙った。

 その沈黙は、罪を認める沈黙ではない。誰かを守る沈黙だった。


 セシルは深く息を吐き、クロエと目を合わせる。

 ——核心まで、あと一歩。






 朝の光が、昨夜の緊張を少しも洗い流してはいなかった。

 音楽室はまるで舞台の開幕前のように張りつめている。

 グランドピアノの蓋は閉じられ、黒い天板に窓の光が四角く落ちている。その四角の中に、全員が集まっていた。


 セシルは深呼吸し、ゆっくりと口を開いた。


「皆さん。ここに集まっていただいたのは、真実を明らかにするためです。

 昨夜、我々は囮を仕掛け、侵入者を捕らえました。ネヴィル——君だ」


 部屋の空気が重くなる。

 ネヴィルはうつむき、帽子の庇をぎゅっと握りしめた。

 だが顔は上げない。まるで、顔を上げた瞬間に何かが崩れてしまうとでも言うように。


 セシルは急かさなかった。沈黙が部屋を満たすのを待つ。

 やがて、ネヴィルが押し殺した声で言った。


「……俺がやった。指輪も、机も、ぜんぶ俺が」


「全部か?」セシルは優しく聞き返す。「指輪を動かしたのも? 机の底板を外したのも?」


 ネヴィルの肩がわずかに震える。

 嘘をつく者の肩ではない。誰かを守ろうとする者の肩だ。


「姉ちゃんに罪を着せるなよ……! 俺がやったって言ってるだろ!」


 声が音楽室に反響する。リジーが思わず息を呑み、アーサーが彼女の肩に手を置いた。


 セシルは一歩踏み出し、机の上の真鍮片を指で示した。


「見てくれ、ネヴィル。これは昨夜のものじゃない。もっと前から削られていた痕跡だ。

 君が昨夜急いで侵入したときに残したのは、芝の足跡だけだ」


 クロエがゆっくり近づき、ネヴィルの視線の高さにしゃがむ。


「君は二回通った。往路は軽い足取り、復路は重かった。

 誰かに何かを運ぶために。ねえ、運んだ先はどこ?」


 ネヴィルは歯を食いしばる。

 涙が一滴、芝生の泥と混じった靴に落ちた。


「……姉ちゃんに、渡した」


 その言葉で、部屋の誰もがメアリを見た。

 メアリは背筋を伸ばし、微笑を崩さない。

 その微笑は、鉄でできているかのように固い。


「皆さん、誤解なさらないで。私は家を守りたかっただけです。

 昨今、盗みの噂が絶えませんでしたから、用心のために鍵を新しくさせたのです。

 それがそんなに罪になりますか?」


 声は落ち着いているが、指先がわずかに椅子の肘掛けを掴んでいる。

 クロエが歩み寄り、その手元を覗き込む。


「爪の縁、煤が残ってるわね。昨夜、机の引き出しを開けたのはあなた」


 メアリの笑みが一瞬だけ凍った。


「煤なんて、台所の竈を見れば誰でも付くでしょう」


「違うわ。これは真鍮を削った煤。

 昨夜、あなたは机から指輪を取り出し、別の場所に隠した。

 ——アーサーを試すために」


 セシルが続ける。「あなたは彼を信じきれなかったんだ。

 彼が家の財産を狙っているのではないかと疑った。

 だから一度、指輪を消して、反応を見た。

 だがその間に、外部の者が本当に盗みに入った」


 メアリの唇が小さく動く。否定の言葉が出かかり、喉で止まる。


「あなたは家を守るために動いた。だが、その結果として、アーサーは濡れ衣を着せられた」

 セシルの声は叱るでも、責めるでもない。

 ただ、真実だけを置く声だった。


 リジーが涙声で言った。「メアリ……お願い、言って。あの人を疑ってたの?」


 メアリは視線を落とした。

 肩がかすかに震え、やがて深く息を吐いた。


「……そうよ。わたしがやった。

 アーサー様を試すつもりだったの。……でも、あんなことになるなんて思わなかったのよ」


 ネヴィルが姉の肩を掴んだ。「姉ちゃん……」


 メアリはネヴィルの手を握り返す。「ごめんね。全部、わたしが悪い」


 コールドウェルが深々と頭を下げた。「屋敷の名にかけて、事後の処置は私が責任を持ちます」


 セシルは小さく頷き、最後のページに結論を書き付けた。


「これで事件は終わりだ。アーサー、君は自由だ」


 アーサーは深く息を吐き、リジーの手を握った。

 リジーの瞳は涙で濡れていたが、その奥に強い光があった。


 クロエはピアノの蓋にそっと手を置く。「舞台は閉じたわ」



 事件が終わり、音楽室にはほっとしたため息が広がっていた。

 リジーは深々と頭を下げ、「本当にありがとう、セシル」と繰り返した。


 クロエは腕を組んだまま、ふいっと横を向く。

「感謝はセシルにしなさい。私はただ観察していただけ」


「そうかしら? 観察しているだけであんなに鋭く人を見抜けるなんて、ずるいわ」

 リジーはにこりと笑い、わざとクロエの近くまで歩み寄る。

「ねえ、クロエさん。あなた、セシルと随分息が合ってるみたいじゃない?」


「看板と柱が同じ家に立ってるだけよ」

 クロエの声は涼しかったが、頬がほんのわずか赤くなっている。


「でも柱が倒れたら看板も困るでしょう? だから大切にしてね」

 リジーが茶目っ気を込めてウィンクすると、クロエは軽くため息をついた。


「あなた、やっぱり苦手だわ」

「まあ、それは光栄!」リジーは朗らかに笑う。


 アーサーがそっとセシルの肩に触れた。

「あなたがいなければ、僕は今頃牢屋でした。ありがとう」

 セシルは眼鏡を直し、少しだけ照れた笑みを返した。


「君は誠実すぎるんだ、アーサー。誠実な人間は、疑われると黙ってしまう。

 黙る前に、友人を頼るといい。僕はいつでも話を聞く」


 アーサーの目がわずかに潤む。「心に留めておきます」


 リジーが駆け寄り、アーサーの腕を取った。「さあ、これで胸を張って婚約パーティーが開けるわ!」


「舞踏会の招待状はすぐに送りますから」

 リジーは再びセシルの腕をつかんだ。「絶対来るって約束して。クロエさんも一緒に」


「行かないって言ってるでしょう」クロエがむっとする。

 セシルは苦笑し、二人の間に割って入った。「まあまあ、看板は無理に踊らなくてもいい。僕が踊るから」


 クロエは小さく目を丸くし、すぐ視線を逸らす。「……馬鹿ね」


 玄関先で別れ際、リジーはもう一度手を振り、「また来てね!」と明るく笑った。

 その声は屋敷の庭を抜け、朝の空気に溶けていった。


 馬車に乗り込むと、クロエは窓の外を見たままぼそりと言った。

「あなた、楽しそうだったわね」


「久しぶりだったからな、幼なじみに会うのは」

 セシルは肩をすくめる。「でも疲れたよ。家族の感情がぶつかる場面は、どんな事件よりも骨が折れる」


「そうね」クロエは小さく笑った。「でも、少し羨ましいかも。あなたの知ってる過去を、わたしは知らないから」


 セシルはしばし黙り、それから静かに言った。「君ももう、僕の家族みたいなものさ」


 クロエはわずかに目を見開き、窓の外に視線を戻した。

 外套の襟を指でつまみ、赤くなった頬を隠す。


 事務所に戻ると、セシルは手帳を開き、事件の経緯を細かく記録した。

 最後のページにペンを置き、深く息を吐く。


「さて、次は帳簿の整理を——」


「無理よ」クロエが即答した。「どうせまた依頼が来るわ」


 窓の外では、ロンドンの空が再び曇り始めていた。

 だが、セシルの胸には小さな光が灯っていた。

 ——謎が待つなら、答えも探しに行こう。




 音楽室の視線が一斉に自分へ集まった瞬間、メアリは息が詰まった。

 部屋の光が眩しい。窓の外の芝生まで見渡せるほど明るいのに、胸の奥は暗い。


(私がやった? そうよ、私がやった。でも、あの夜の私は、そうせずにはいられなかった)


 思い出すのは、家計簿をつける夜のこと。

 奥様は昼間よりずっと小さな声で「もう少し出費を抑えられないかしら」と言った。

 コールドウェルは黙っていた。使用人たちは口には出さないが、皆不安を抱えていた。


(家を守るには、まず“疑わしい者”を洗い出さなきゃいけない。

 アーサー様は誠実な方に見えた。でも誠実な人ほど、心の奥で何を考えているか分からない。

 だから試したの。指輪を動かして、どう反応するか……)


 あの夜の音楽室。笑い声と拍手が響く中、メアリは静かに席を立った。

 机の引き出しを開けるとき、手が震えていた。

 真鍮の指輪は思ったより軽く、冷たかった。


(これがなくなったと知ったら、彼はどんな顔をするだろう?

 怒る? 泣く? 黙る? ——黙ったら、駄目)


 だが結果は、彼を傷つけ、リジーを泣かせただけだった。


 現実に引き戻されると、セシルが目の前に立っていた。

 責めるでもなく、ただ真実を待つ目。


「あなたは家を守ろうとしたんですね」

 セシルの声は静かだった。


 メアリの喉がかすかに鳴る。

 肩に乗った重りが、急に形を持ったかのようにずしりと重くなる。


(もう、嘘を重ねられない)


 唇が震え、言葉が零れ落ちる。


「……私がやりました。全部、私が。

 アーサー様を試すために指輪を隠して……でも、外の泥棒に狙われて、こんなことになって……!」


 声が涙に濡れ、音楽室に響いた。

 リジーが椅子を蹴る勢いで立ち上がり、メアリの手を握った。


「どうして言ってくれなかったの? 私、あなたを信じてたのに」


「信じてたからこそ、言えなかったのよ……!」

 メアリは声を張り上げる。「お嬢様を傷つけるくらいなら、私が悪者になればいいと思ったの!」


 沈黙。

 その沈黙は、重いけれども、どこか救いのある沈黙だった。

 ネヴィルがそっと姉の背中に腕を回す。二人の肩が触れ、かすかに震える。


 クロエはその光景をじっと見て、ぽつりと言った。


「人は守ろうとするとき、いちばん脆くなるのね」


 セシルは頷き、最後のページにゆっくりペンを走らせた。



 事件のあと、メアリは台所の隅で一人、青い糸を指で千切っていた。

 その切れ端は、彼女が何年も家のために繕い続けてきた証のようだった。


(これからは、ちゃんと話そう。奥様とも、お嬢様とも。

 試すんじゃなく、信じて——守ろう)


 涙を拭ったとき、外から風が吹き込み、千切れた糸が床を転がった。

 それを拾ったネヴィルが、姉の手をぎゅっと握った。


「姉ちゃん、もう一人で抱えんなよ」


「ええ……もう抱えない」


 彼女の声はかすかに震えていたが、そこには確かな芯があった。

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