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第8話 赤月夜の邂逅

また、空には赤い月が昇る。

屋敷の中は、いつも以上に静かだった。

この家を我が物顔で歩き回る三人も、今夜は早くに自室へ引き上げる。

メイドたちも「魔物が出るから」と言い訳して、さっさと持ち場を離れてしまう。

私は一人、誰もいない薄暗い廊下を歩きながら、心の奥に冷たいものが広がっていくのを感じていた。

夜が更けていくと、私は自分の部屋で静かにベッドに横になる。


やがて、体がふっと軽くなる。

指先が縮み、毛皮が生え、視界が低くなる。

相も変わらず、私は赤月夜に猫になる。

母がいた頃は、赤月夜は必ず一緒に眠ってくれた。

けれど今は、誰の腕も、私を守ってはくれない。

私は小さな体でベッドを抜け出し、いつもの抜け穴を通って屋敷の外へ出た。

庭は、赤い月明かりに照らされて不思議な色に染まっていた。

草花は昼間よりも鮮やかで、空気はひんやりとしている。

私は塀の上に跳び乗り、屋敷の全景を見下ろした。

大きな窓には灯りがついていて、もしかするとルカがまだ勉強しているのだろうか、と想像する。

あの部屋で、たった一人の弟はどんな気持ちで夜を過ごしているのだろうか。


外の道に出ると、街はひっそりと静まり返っていた。

家々の窓には魔除けの札が貼られ、誰も外を歩いていない。

猫の体は軽く、私はどこまでも自由に走れる気がした。

けれど、胸の奥にはぽっかりと穴があいている。

もう私は森の方には近づかない。

あの時、両親を奪った黒い影が、今もどこかにいるかもしれない。

それを確かめる勇気もなかった。

(あの時の影が何だったかなんて、今となっては、もう……)

私は心の中でそっとつぶやいた。

ただ、森の暗がりを見ないようにして、広場のいちばん高い塀へ登った。

しばらくして、街道の方に松明の明かりが見えた。

騎士団が、赤月夜の警備にあたっているのだろう。

私は興味を引かれて、そっと塀の上から彼らを見下ろす。


その中に、一人だけ他の騎士とは違う雰囲気の青年がいた。

背が高く、銀色の髪が月明かりにきらめいている。

彼はふと立ち止まり、こちらを見上げた。

猫の私と、彼の視線が一瞬だけ交わる。

その瞳は、どこか優しく、けれど鋭い光を宿していた。

私は驚いて身を低くしたが、青年は微かに微笑んだように見えた。

胸の奥に、なぜか小さな灯がともる。

――誰かに優しく見つめられたのは、どれくらいぶりだろう。

私はしばらく動けずにいた。

不気味な月明かりの下、静まり返った街並みと、遠ざかる騎士団の背中を見送る。

あの青年の横顔が、なぜか心に焼きついて離れない。


しばらくして、私は屋敷の庭へ戻った。

花壇の間をすり抜け、噴水の縁を歩き、夜露に濡れた草の匂いを胸いっぱいに吸い込む。

猫の体は自由だけれど、心の奥にはどうしようもない孤独が残っていた。

ふと、夜空を見上げると、赤い月が雲の切れ間から顔をのぞかせていた。

私は塀の上に戻り、もう一度屋敷を振り返った。

この中には、ルカがいる。

セシリアは、今ごろどこで何をしているのだろう。

私は心の中で、二人の名前をそっと呼んだ。

ルカが、セシリアが、幸せでいてくれたら、それでいい。

けれど、夜風に吹かれながら、私はほんの少しだけ、自分のことも誰かに気にかけてほしいと願ってしまう。

抜け穴を通って自分の部屋に戻ると、ベッドの上で丸くなった。

外の世界で感じた自由と孤独、そしてあの男の人に見つかったという不思議な余韻が、胸の奥で静かに渦巻いていた。

窓の外には、何も変わらないままの赤い月が静かに輝いている。

世界中を赤く照らすその光を見上げながら「いつか、何かが変わる日が来るのだろうか」と、問いかける。

――私はまた一人きりで、静かな祈りを胸に抱いて眠りについた。



***



夜が明け、朝の光がカーテン越しに差し込んでくる。

私はベッドの上で目を覚ました。

自分の手を見下ろすと、そこにはもう柔らかな毛も、しなやかな尻尾もない。

人間の姿に戻った私は、昨夜の出来事をぼんやりと思い出していた。

――あの銀色の髪の青年。

塀の上から見下ろした騎士団の中で、ただ一人だけ私の存在に気づき、

優しい瞳で私を見上げてくれた人。

猫の姿の私と、彼の視線が交わったあの瞬間の温度が、まだ胸の奥に残っている。

「……夢、だったのかな」

私は小さくつぶやいた。

夜の静けさも、誰かに見つけられた心地も、あまりにも鮮明で、夢と現実の境が曖昧になっていた。


朝食の席に着くと、イザベルが冷たい声で「遅いわよ」と言った。

カタリナは新聞を読みながら、私には目もくれない。

エドワルドはルカにだけ話しかけ、私は空気のような存在だった。

「リディア、今日は裏庭の掃除をしておきなさい」

イザベルはパンをちぎりながら、当然のように命じる。

「はい」とだけ返事をし、私は静かに席を立った。


裏庭に出ると、夏草が朝露に濡れていた。

私はほうきを手に、草むらの間を歩きながら、昨夜のことを何度も思い返した。

猫の体で感じた夜の風、塀の上から見た街の静けさ、

そして、あの青年の瞳――

名前も知らない彼の姿が、どうしてこんなにも心に残るのだろう。

「リディア様、そこ、まだ掃除が終わっていませんよ」

メイドのエリザが、わざとらしく声をかけてくる。

私は「すみません」と頭を下げ、黙々と作業を続けた。

エリザは鼻で笑い、他のメイドたちと小声で何かを話している。

私は、誰にも気づかれずに生きていくことに慣れていた。

けれど、昨夜だけは違った。

誰かに見つけられたあの一瞬が、私の中に小さな灯をともしていた。


昼過ぎ、ルカが裏庭の方にやってきた。

「姉さん、大丈夫?」

私は微笑んで「大丈夫よ」と答えた。

ルカは何か言いたげに私を見つめていたが、イザベルの呼ぶ声がして、

「また後で」と小さく手を振って去っていった。

私はほうきを置き、空を見上げた。

雲の切れ間から夏の日差しが差し込んでくる。


屋敷の中に戻ると、相変わらず冷たい空気が流れていた。

けれど、私は昨夜の余韻を胸に、小さな希望を手放さずにいようと決めた。

午後、サロンの窓辺で静かに本を開く。

けれど、文字は頭に入ってこない。

窓の外には、夏の強い光が差し込んでいる。

いつか、セシリアが堂々と会いに来てくれた時のことを思い出す。

あのときの勇気や温かさも、今は遠い記憶のように感じられた。

「リディア様、ぼうっとしていないでサロンの花瓶も替えておいてくださいね」

エリザがまた命令口調で声をかけてくる。

私はまた「はい」とだけ答え、花瓶を持って廊下を歩く。

途中、他のメイドたちがまた私を見てくすくすと笑っているのが聞こえた。


夕方、ルカが再び私の部屋を訪ねてきた。

「姉さん」

私は「どうしたの?何かあった?」と微笑む。

ルカは少しだけ顔を下に向けて、「呪い、解けなくてごめんね」と言った。

「そんなこと……ルカは気にしないでいいの」

ルカが私を気にかけてくれている。私はその言葉に救われる思いだった。


夜になり、私はベッドに横になる。

窓の外には、赤月夜の名残がまだほんのりと空に残っている。

――世界は何も変わらないようでいて、毎日ほんの少しずつ、動いている。

私はその変化を、待ってみようと思った。


翌朝、私はまたいつも通りの新しい日常に戻る。

けれど、胸の奥には小さな希望の灯が消えずに残っていた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。

楽しんでいただけていたら嬉しいです。

いいねやブックマーク、評価などよろしくお願いします!

次回は第9話「突然の話」

更新は7/14 10時です。

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