第7話 二人の内緒話
夏の午後、強い陽射しが庭の芝生を白く照らしている。
私はサロンの窓辺で、ぼんやりと外を眺めていた。
イザベルの命令で花瓶の水替えを終えたばかりで、手のひらにはまだ冷たい水の感触が残っている。
そのとき、玄関の方から賑やかな声が響いた。
「リディア! 会いに来たよ!」
サロンの扉が勢いよく開き、セシリアが明るい笑顔で飛び込んできた。
その後ろには、グランツ家の立派な馬車と、セシリアの母親が控えているのが見える。
「セシリア……どうして!」
私は思わず立ち上がった。
セシリアは私の手をぎゅっと握り、「久しぶり!ずっと会いたかったんだから!」と大きな声で言った。
イザベルやカタリナも、さすがにセシリアたちの来訪には驚いた様子で、玄関で慌てて応対している。
「今日は、お母様が“たまには堂々とリディアに会いに行きましょう”って言ってくれたの。だから、アイツらに何を言われても気にしないで!」
セシリアはそう言って、私の肩を抱きしめてくれた。
久しぶりに、人の温もりを感じて、胸がじんわり熱くなった。
「おねーちゃん、ぼくも一緒に行っていい?」
廊下の向こうからルカが駆けてくる。
けれど、イザベルがすぐにルカの腕をつかんだ。
「だめよ、ルカ。あなたは家の跡取りなんだから、余計なことに首を突っ込まないで」
ルカは悔しそうに唇を噛みしめ、私の方をじっと見つめていた。
「ルカ……」
私は弟に微笑みかけ、「ごめんね、すぐ戻るから」と小さく声をかけた。
ルカは何か言いたげだったが、イザベルの強い視線に押されて、その場に立ち尽くしていた。
セシリアは私の手を引いて、サロンの奥へと連れていく。
窓からは夏の強い光が差し込み、二人きりの時間が始まった。
「リディア、最近ずっと手紙しか出せなくてごめんね。…でも、今日はどうしても顔が見たかったの」
セシリアは真剣な顔で言った。
私は首を振る。
「そんなことない。手紙、すごく嬉しかったよ」
「本当にリディアが心配でたまらなかった。大丈夫?無理してない?」
セシリアの優しい声に、私は心の奥に溜まっていたものが少しずつ溶けていくのを感じた。
「大丈夫。私は平気だよ」
そう答えながらも、声は少し震えていた。
「……本当は、怖いときもある。でも、私がどうなってもいいの。ルカが幸せでいてくれたら、それだけでいいと思ってる」
セシリアは私の手をぎゅっと握りしめ、「そんなこと言わないでよ」と涙ぐみながら言った。
「リディアが幸せじゃなきゃ、ルカだってきっと幸せになれないよ。私だって、リディアが笑ってくれなきゃ嫌だもん」
私は、セシリアのまっすぐな言葉に胸が熱くなった。
「ありがとう、セシリア。…でも、今は私がルカを守らなきゃって、そればっかり考えてしまうの」
セシリアは「やっぱり、リディアは強いね」と微笑み、「でも、本当につらいときは絶対に頼ってよね。私もお母様も、みんないつでも味方だから」と言ってくれた。
しばらくの間、私たちは黙って手をつないだまま、窓の外の青空を見上げていた。
セシリアと過ごすこの短い時間が、私の心に小さな光を灯してくれる。
やがて、馬車が帰る時間になり、セシリアは「また必ず来るから」と約束してくれた。
私は玄関まで見送りに出た。
イザベルは遠巻きに私たちを睨んでいたが、セシリアの母親が毅然とした態度で「またリディアをお借りしますね」と言うと、何も言い返しはしなかった。
馬車が去ったあと、私はそっとルカの部屋の前を通る。
扉の向こうで、ルカが小さな声で私の名前を呼んでいる気がした。
私は扉に手を当て、「今日はごめんね」とつぶやいた。
――私はどうなってもいい。
ルカが幸せなら、それでいい。
けれど、これでルカは本当に幸せなの?
***
――あれから、いくつもの季節が過ぎた。
相変わらず、屋敷の中はひどく静かなままだ。
朝、目を覚ましても、誰も「おはよう」と声をかけてくれない。
廊下を歩く足音も、食堂の食器の音も、すべてがよそよそしい。
私の居場所は、どんどん小さくなっていった。
いつからか私は「お嬢さま」ではなく、ただの「リディア」になった。
新しく雇われたメイドや執事たちも、イザベルたちの顔色をうかがい、私に家事や雑用を次々と命じた。
ルカは、以前よりもずっと大人びた顔つきになった。
朝食の席では、イザベルの隣に座らされ、
「ルカ、今日の勉強はこれとこれよ。無駄話をしている暇はないわ」と冷たく言われている。
私がルカの隣に座ろうとすると、カタリナが「リディア、あなたは食後にサロンの掃除をしなさい」と命じる。
私は「はい」とだけ答え、冷えきったパンを飲み込む。
ある日、私は図書室の前を通りかかった。
扉の隙間から、ルカが机に向かって分厚い本を読んでいるのが見えた。
私はそっと扉を開けて「ルカ……」と声をかけた。
ルカは顔を上げ、「姉さん」と小さく微笑んだ。
けれど、その瞬間、イザベルが背後から現れた。
「リディア、何をしているの? あなたは手伝いが山ほどあるでしょう」
私は「ごめんなさい」と頭を下げ、扉を閉めた。
仕事をしながらも、私はルカのことが気になって仕方なかった。
サロンの花瓶の水を替えながら、廊下の向こうでルカが勉強する姿を思い浮かべる。
そのとき、そばにいた新しいメイド――背の高い金髪のエリザが、わざとらしくため息をついた。
「リディア様、水がこぼれていますよ。お嬢さまなんだから、もう少し丁寧にできないんですか?」
その言い方は、まるで私が“お嬢さま”であることを嘲笑うようだった。
私は「ごめんなさい」と小さく答え、黙々と手を動かす。
エリザは鼻で笑い、「イザベル様に叱られますよ」とわざと大きな声で言った。
他のメイドたちも、エリザの背後でくすくすと笑っている。
イザベルや親戚たちが偉そうな顔をしているせいで、屋敷の空気はすっかり変わってしまった。
今や、この家に私のことを本気で気にかけてくれる大人は、誰もいない。
午後、ルカがこっそり私の部屋にやってきた。
「姉さん、少しだけ話せる?」
私は驚きながらも、ルカを部屋に招き入れた。
ルカは扉をそっと閉めてから、小さな声で言った。
「最近、ずっと調べてることがあるんだ」
「調べてる?何を?」
「……姉さんの、呪いのこと」
私は息を呑んだ。
「姉さんが猫になってしまうの、ずっと前からおかしいと思ってた。
でも、どうしたら治せるか分からなかったから……。
今は、家の本も、父さんの書斎の資料も、全部読んでるんだ。
絶対に、何か方法があるはずだって思ってるんだ」
ルカの目は真剣だった。
私は思わず彼の手を握りしめた。
「ルカ……ありがとう。でも、無理はしちゃだめよ」
「無理なんかじゃないよ。姉さんが幸せじゃないと、僕も幸せじゃない」
ルカは力強くそう言ってくれた。
私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
ずっと「自分はどうなってもいい」と思ってきたけれど、
ルカがこんなにも私のことを考えてくれている。
それだけで、私は救われるような気がした。
ルカは少し照れくさそうに笑い、「姉さん、僕は絶対に諦めないからね」と小さく呟いた。
その言葉は、私の心に深く染み込んだ。
「ありがとう、ルカ。……本当に、ありがとう」
私は、言葉にならない思いを込めて、ルカの手を強く握り返した。
その夜、私は久しぶりに日記を開いた。
「ルカが、私のために頑張ってくれている。
私は、彼の幸せだけを願っていたはずなのに、本当は、私も誰かに幸せを願ってもらいたかったのかもしれない」
窓の外には、夏の夜風がそっと吹いていた。
家の中はひどく静かで、遠くから虫の声が聞こえてくる。
私は小さな希望を胸に、静かに目を閉じた。
――また、新しい朝が始まる。
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次回は第8話「赤月夜の邂逅」
更新は7/11 10時です。