第5話 前触れ
赤月夜も今日で半分が過ぎる。
猫の体で屋敷の外に出ると、夜の空気はいつもよりも冷たく感じる。
森の奥深くや山には魔物が棲んでいることは、子どもの頃から知っていた。けれど、普段は人のいる場所に近づくことはない。
この夜の間だけ、彼らは興奮して町や村の近くまで降りてくることがある
――それが世界の常識だった。
私は塀の上に跳び乗り、庭を見下ろした。
赤い月明かりに照らされた花壇や芝生は、昼間とは違う色に見える。
猫の体は小さく、夜の音や匂いがいつもよりも鮮やかに感じられる。
風が木々を揺らし、遠くでフクロウの声が響いた。
そのとき、森の奥で何かが動く気配がした。
私は身を低くして、じっと様子をうかがう。
黒い影が木々の間をすばやく横切る。
それは人間のようにも、獣のようにも見えた。
私は思わず息をひそめた。
影はしばらく屋敷の方をじっと見ていたが、やがて森の奥へと消えていった。
しばらく動けなかった。
心臓が早鐘のように打ち、全身の毛が逆立つような不安が広がった。
赤月夜の間は、魔物が興奮して人里に降りてくることがある――頭では分かっていたけれど、実際にその気配を感じると、なんとも言えない思いがじわじわと広がっていく。
私はそっと塀から庭へ降り、花壇の間をすり抜けて、自分の部屋へ戻って母の隣で丸くなった。
けれど、なかなか眠れなかった。
あの影は、ただの動物ではないと思う。
もしかすると、魔物かもしれない――そんな思いが胸に残った。
朝になり、人間の姿に戻った私は、朝食の席で両親に昨夜のことを話した。
「お父さま、お母さま。昨日の夜、森の方に黒い影がいた気がするんです。人間みたいだけど、獣みたいで……」
父と母は顔を見合わせ、すぐに真剣な表情になる。
「……魔物かもしれないな。念のため、警備を強化しよう」
父はすぐに執事や使用人たちに指示を出し、屋敷の見回りを増やすよう命じた。
母も家中に結界を張り直し、窓や扉の魔除け札を新しいものに取り替えた。
「リディア、何か気づいたことがあったら、今朝みたいにどんな小さなことでも教えてちょうだいね」
母は私の手を握り、優しく微笑んだ。
その日から、屋敷の空気はいつもより緊張感に包まれた。
父は夜になると窓辺で外を見張り、母はルカと私を寝室に集めて一緒に眠るようにした。
メイドたちも戸締まりを何度も確認し、皆が少しだけ不安そうな顔をしていた。
けれど、赤月夜が終わるまで、結局何も起きなかった。
魔物も、森の黒い影も、二度と姿を見せなかった。
家族は少しずつ安心し、屋敷の空気もまた穏やかさを取り戻していった。
ルカは「もう大丈夫だよね?」と私に笑いかけ、母も「きっと、リディアが気づいてくれたから守れたのよ」と優しく言ってくれた。
私は家族の温もりを感じながらも、心のどこかで安堵の気持ちが膨らんでいくのを感じていた。
――けれど、その油断が、思いもよらぬ悲劇を招くことになるとは、
このときの私はまだ知らなかった。
***
赤月夜が明けてから、季節はすっかり夏に変わっていた。
重苦しい夜の空気も、今はどこか遠い出来事のように感じる。
屋敷の中は久しぶりに明るく、父も母も穏やかな顔を見せていた。
ルカは汗をかきながら庭を駆け回り、私は日傘を差してその様子を見守っていた。
ある朝、父が「今日は家族みんなで出かけよう」と言った。
「郊外の湖まで足を伸ばそう。クララやエミールたちも一緒にな」
母も「みんなでピクニックなんて久しぶりね」と微笑む。
ルカは「やったー!」と大はしゃぎだった。
クララやエミール、そして若いメイドのマリアも、バスケットや毛布、飲み物を手際よく用意してくれた。
「お嬢さま、帽子をお忘れなく」
クララが私の頭に麦わら帽子をのせてくれる。
「ありがとう、クララ」
「今日は暑くなりそうですから、しっかり水分もとってくださいね」
エミールが父の荷物を馬車に積みながら、にこやかに声をかけてくれる。
馬車に揺られて郊外へ向かう道すがら、私は窓の外に広がる濃い緑の野原や、遠くにきらめく湖面を眺めていた。
ルカは父の膝の上で歌を歌い、母は私の髪をそっと撫でてくれる。
使用人たちも、時折笑い声を上げながら、同じように楽しそうだった。
湖に着くと、夏の日差しが水面をまぶしく照らしている。
クララがバスケットを広げてランチの準備をし、マリアはルカと一緒に小石を拾って遊んでいる。
エミールは父と湖畔の木陰で談笑しながら、周囲に目を配っていた。
「おねーちゃん、見て!大きなカエルだよ!」
ルカが私の手を引き、湖のほとりに連れていく。
「本当だね。逃がしてあげようね」
「うん!」
私たちは小さな冒険を楽しみ、母とクララはその様子を見守っていた。
昼食のあと、父が「少し森の中を歩いてみようか」と提案した。
母も「夏の花が咲いているかもしれないわ」と微笑み、私たちは森の小道へと足を踏み入れた。
クララとエミールも、荷物を片付けてから後ろをついてくる。
マリアはルカの手をしっかり握り、はぐれないように気を配っていた。
森の中は、木漏れ日がきらきらと揺れ、蝉の声が響いていた。
ルカは「あっ!おねーちゃん、あっちにきれいな花があるよ!」と私の手を離れた。
私は「待って、ルカ。あんまり遠くに行かないで」と声をかけた。
そのときだった。
森の奥から、突然、何かが駆け抜ける音がした。
父が「危ない、こっちに来なさい!」と叫ぶ。
次の瞬間、木々の間から黒い影が飛び出してきた。
それは、あの夜に見た影と同じ、不吉な気配をまとっていた。
父は私とルカをかばうように立ちはだかり、母はとっさに結界を張ろうとした。
クララとマリアはルカを抱き寄せ、エミールは父のそばで警戒する。
だが、影はあまりにも素早く、私たちのすぐそばまで迫っていた。
私は恐怖で体が動かず、ただ父と母の背中を見つめることしかできなかった。
父はとっさに魔法の印を空中に描き、救援の光を放った。
その光が空高く舞い上がり、遠くの村や騎士団の詰所へと届いていく。
影は大きな音とともに私たちの前を横切り、木々の向こうへ消えていった。
けれど、その一瞬で、父と母は私たちをかばい……倒れてしまった。
「お父さま! お母さま!」
私は叫びながら二人に駆け寄った。
父は私の手を握り、「リディア、ルカは……無事か……」と、かすれた声で言った。
母は私の顔を見て、微笑みながら「あなたたちが無事でよかった……」とささやいた。
私は何もできず、ただ二人の手を握りしめていた。
「……なんで、こんなことに」
ルカは泣きじゃくり、クララもマリアも涙をこらえながら私たちを抱きしめてくれた。
エミールは震える手で父の肩を支え、声をかけながら救援が来るのを待っていた。
やがて、森に駆けつけた村の人々と騎士団が、父の魔法の光に導かれて私たちを見つけてくれた。
でも、父と母は、そのまま目を覚ますことはなかった。
騎士団に護衛されながら屋敷に戻っても、私は現実を受け止めきれなかった。
家の中は静まり返り、どこか遠い世界にいるようだ。
ルカは私の腕の中で泣き続け、私はただ弟の背中をそっと撫でることしかできなかった。
――あの日、私の世界は音もなく崩れ落ちた。
不吉な影は消えたはずだったのに、
私たちの幸せは、あっけなく終わりを告げた。
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次回は第6話「新しい訪れ」
更新は7/5 10時です。