第4話 外出
朝、父が「今日は家族みんなで街へ出かけよう」と提案した。
「遠くの国からサーカスが来ているらしいぞ」と父が言うと、ルカは目を輝かせて「サーカス!見たい!」と大はしゃぎ。
母も「たまにはいいわね」と微笑み、私も心の奥が少しだけ弾むのを感じた。
馬車の準備が整うと、クララが手際よく乗り降りを手伝ってくれる。
「おねーちゃん、サーカスってどんなの?」
ルカが私の手を握る。
「動物や曲芸師さんがいろんな芸を見せてくれるんだって」
「わくわくするね!」
馬車は春の花が咲く並木道を進み、街へと向かう。
街の広場は、サーカスの大きなテントと人々の熱気で賑わっていた。
色とりどりの旗がはためき、屋台では甘いお菓子や果物が売られている。
「ルカ、はぐれないようにね」
母が優しく声をかけると、ルカは「うん!」と父の手をぎゅっと握った。
サーカスの開演を待つ間、私たちは屋台で焼き菓子を買い、ベンチに腰掛けて人々の様子を眺めた。
「おねーちゃん、あの人、ボールの上ででくるくる回ってるよ!」
ルカが指差した先では、道化師が玉乗りをしながらチラシを配っていた。
「すごいね。落ちないのかな」
「きっと毎日たくさん練習してるんだろうね」
父がそう言って、ルカの頭を撫でる。
やがてサーカスのテントに入ると、会場は子どもたちの歓声でいっぱいだった。
猛獣使いがライオンを操り、空中ブランコの少女が宙を舞う。
ルカは夢中で拍手し、母も思わず声を上げて驚いていた。
私は家族の笑顔を横目に見ながら、胸がじんわりと温かくなるのを感じていた。
サーカスの途中、ピエロたちが観客席にやってきて、子どもたちに小さな風船を配り始めた。
ルカは「おねーちゃん、これ見て!」と赤い風船を嬉しそうに振る。
私は「よかったね」と微笑み、母も「ふうせんか!手を離さないようにね」と優しく声をかけた。
空中ブランコの演技が始まると、会場は一瞬静まり返った。
私と変わらない年齢の少女が高い場所から飛び出し、華麗に宙を舞う。
私は思わず息を呑む。
父が「リディア、すごいだろう?」と囁く。
「はい……とても」
口から出た言葉は少なかったけれど、心の奥がふるえていた。
サーカスが終わると、広場は再び賑わいを取り戻した。
父が「今日は楽しかったな」と言った。
「またみんなで来たいね!」
ルカがはしゃぎ、母も「ええ、次はセシリアちゃんたちも誘いましょう」と微笑んだ。
帰り道、馬車の中でルカはすぐに眠ってしまった。
母がそっと毛布をかけ、父は静かに外の景色を眺めている。
私は窓の外に広がる春の空を見上げながら、家族の温もりを胸いっぱいに感じていた。
屋敷に戻ると、みんなが「お帰りなさいませ」と迎えてくれる。
「今日は楽しかったね、おねーちゃん」
ルカが眠そうな目で私を見上げる。
「うん、とっても楽しかった。また行こうね」
その夜、私はベッドの中で今日の出来事を思い返していた。
サーカスの華やかな音楽やたくさんの人の歓声が、まだ耳の奥に残っている。
私は静かに目を閉じ、家族の笑顔を思い浮かべながら眠りについた。
***
三ヶ月に一度、世界が静かにざわめく。
赤い月が夜空に昇ると、屋敷の中もどこか落ち着かない空気に包まれる。
外には魔よけの結界が貼られ、メイドたちは戸締まりを念入りに確認していた。
その夜、私は母と一緒に寝ることになった。
「リディア、今日は私と一緒にいましょうね」
母が優しく手を差し伸べる。私は母の隣でベッドに入り、毛布にくるまった。
母の腕の中はあたたかく、心細さが少しだけ和らぐ。
「赤月夜は、怖い?」
母が静かに尋ねる。
私は小さく首を振った。
「もう慣れました。でも……やっぱり、少しだけ不安です」
母は私の髪を撫で、「大丈夫。みんな、あなたのそばにいるわ」と微笑んだ。
部屋の外からは、父がルカを寝室へ誘う声が聞こえてくる。
「おねーちゃん、こわくない?だいじょうぶ?」
ルカが心配そうに私の部屋を覗く。
「大丈夫よ、ルカ。お姉ちゃんは強いから。おやすみなさい」
私はそう言って微笑み、ルカの頭をやさしく撫でた。
私はそっと目を閉じた。
――次に目を開けたとき、私はもう人間ではなくなっている。
赤月夜の間、私は猫になる。
変身の瞬間は、夢の中の出来事のようだ。
体が軽くなり、指が縮み、柔らかな毛が生えてくる。
痛みはなく、ただ世界が少し遠くなる。
感情の波も、まるで水の底に沈んでいくみたいに静かになっていく。
私は寝息を立てる母の腕の中からそっと抜け出した。
人間のときには到底できない軽やかさで、ベッドの下へと潜り込む。
部屋の扉も窓も、しっかりと閉ざされている。
けれど、私は知っている。
この部屋の片隅に、小さな抜け穴があることを。
それは、子猫の体だからこそ通れる秘密の道。
ベッドの下からそっと床板を押すと、隙間ができる。
私は細い体をくねらせて、床下の通路を進んだ。
暗闇の中、土と木の匂いが混じっている。
やがて、廊下の端にある物置部屋の中に出る。
そこには、低い位置に小さな窓があるのだ。
誰にも気づかれていないその窓の鍵を、昼間にこっそり緩めておいた。
窓枠に前足をかけ、外の空気を吸い込む。
夜風が毛皮をくすぐり、赤い月の光が庭を照らしている。
私は静かに窓から外へ出た。
庭の草むらをすり抜け、花壇の間を走る。
猫の体は軽く、どこまでも自由に駆けていける気がした。
塀の上に跳び乗り、屋敷を振り返る。
大きな窓には灯りがともり、家族がこの中で眠っているのだと想像する。
私は少しだけ寂しくなりながらも、家族のいる屋敷を見守るようにしばらく佇んだ。
その後、夜の庭を歩き回り、遠くの森や街の方を眺める。
赤い月明かりの下、すべてが普段とは違う色に染まっている。
この体でしか味わえない静けさと、自由の感覚。
私は夜の世界を存分に楽しんだ。
やがて屋敷に戻ると、また小さな窓から中へ入り、床下の抜け穴を通って自分の部屋へ戻った。
寝息を立てたままの母の隣にそっと丸くなり、静かに目を閉じる。
――私の赤月夜の一週間は、こうして始まる。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
楽しんでいただけていたら嬉しいです。
いいねやブックマーク、評価などよろしくお願いします!
次回は第5話「前触れ」
更新は7/2 10時です。