黒く染まる
校庭から見える晴れ渡った空が、いつもよりも高くて透き通っているように見えた。
ここ最近、寒さもまた一段と厳しさを増してきたため、昼休みに校庭に出てくる人間はほとんどいない。
こんな寒い時期にも関わらず、サッカーボールを追いかけたい元気の有り余った男子生徒たちと、俺と会話をするために外に出たヒメコは例外である。
「他の誰かに見られたら言い訳する前に変人扱いされるでしょ?」
と言った後に、「まあ今もそこまで周囲の反応は変わらないけど」とヒメコは付け加えた。
校庭の隅にあった、古いベンチに腰掛けると、ヒメコは1冊のノートとシャーペンを取り出し、自分の横に置いた。
「それじゃあ、まずは確認のために、あんたの名前と年齢を教えて。あと人間かどうかも」
ヒメコが考えたのが、筆談だった。
俺が物に触れられることはすでに目撃しているので、筆談できると思い至るまで時間はかからなかったようだ。
俺はシャーペンを取って、ノートに「カズオ・18歳・人間」と書き出した。
「へえ、意外と若いね。じゃあ、次はなんでそんな体になったのか教えて」
ヒメコは腕を組みながらそう言ってきた。
さすがにこの質問は当事者である俺ですら難しいが、サクラからの情報を思い出しながら、ヒメコにも理解できる範囲内で答えようとした。
「俺はもともとこの世界にはいない。別の世界からサクラに連れられてやってきた。姿が見えないのは、サクラの力不足」
そこまで書いて、これであっているのかと、頭を抱えた。
さすがに省略しすぎだと自分でも思う。
「なにそれ?」
ヒメコは不服そうな顔でノートの文字を見つめている。
「・・・まあ、つまりはあんたもよくわかっていないと」
しかし、ヒメコの理解力は抜きん出ていた。
彼女と会話するのは楽に感じた。
「じゃあ、姿が見えない以外に何か特殊能力とかあるの?例えば、壁をすり抜けられるとか、念力を使えるとか」
「いや、ない」
そう短く書くと、ヒメコは少し落胆したような顔をした。
「ふーん、なんだ。そこは人並みなのね」
改めて指摘されるとちょっとムカつくが、事実だから仕方がない。
「でも、何かとあんたも不便だね。誰からも認知されないなんて。でも、あのサクラって人は、あんたとは会話できるわけだ」
「うん」
「ていうか、あの人は何者?あんたを消した張本人でしょ?どういう出会いだったわけ?」
「それを書くと長くなる」
「いいよ、別に。時間はたっぷりあるから」
すんと真顔でそう言い切ったヒメコに、俺はノートにサクラと出会ったきっかけを書いた。
自分がもともといた世界では、家族から虐げられていて、それをサクラが救ってくれたこと。サクラは別の世界では猫だったこと。
色々書いていくことで、自分が経験したこれまでの出来事が整理されていく。
ちなみに、俺とヒメコが兄妹であることについては一切触れなかった。
それを話すのは、まだ先にするか、ずっと胸に秘めたままにしようと思っていた。
びっしりと書き終えたノートをヒメコは手にとって読み始める。
「・・・・ふーん。なるほど」
とてもじゃないが、通常の人が理解できる範疇ではない内容だとは思う。
しかし、ヒメコの反応は至って淡白だった。
「そんな奇天烈なことがあるんだね」
結局、俺が一生懸命書いた作文の感想は、そんな一言で終わった。
別に期待していたわけではないが、もっとこう、驚いたりとか、他に色々聞かれることを予想していただけに、拍子抜けだった。
「・・・ねえ、一つだけ聞いていい?」
ノートをまたベンチに置いてヒメコは聞いてきた。
「随分前に、私がリョウジに殴られているのを助けたのは、間違いなくあんただよね?三角コーンでボコボコにしたときのやつ」
「そうだ」と俺が書こうとする前に、さらにヒメコはこう続けた。
「リョウジは、今どうしてるの?」
それを聞いて、俺は手に取っていたシャーペンを一旦置いた。
「・・・答えたくないって?」
サクラから、ヒメコには話すなと言われたわけではない。
しかし、俺としては話すべきかどうか迷っている。
「リョウジ、行方不明になったって学校で噂になってる」
足をぶらぶらと揺らしながら、ヒメコは言った。
「あんたが何かしたの?」
そう聞かれて、俺はノートに「今回は違う」と書いた。
「本当に?」
「本当に」
「そう」
そう言いつつも、ヒメコは納得している感じではなかった。
記者をしているサクラの知り合いが警察から確認した話らしいが、リョウジの遺体がこの2つ隣の町の川で発見されたらしい。
川で釣りをしていた人がたまたま発見したらしく、かなり腐敗が進んでいて、持ち物の学生手帳から身元が判明したらしい。
まだ正式にニュースにはなっていないものの、いち早く知人がサクラに情報を提供してきたようだ。
遺体の状況から、複数の刺し傷と打撲痕、縛られた跡も確認できたらしく、状況から何度も殴られ、何回も刃物で刺されたことが推測されていた。
つまりは、相当な恨みを持っている人物が、リョウジを徹底的に痛めつけて殺したと考えるのが自然だという。
この話をしたら、ヒメコはどういう反応をするだろうか。
憎き相手が殺されたと喜ぶだろうか、それともショックを受けて悲しむだろうか。
そのどちらでもないかもしれないし、その両方かもしれない。
俺はノートにまた字を書いていく。
「リョウジは殺されたと言ったら、どうする?」
それを見たヒメコは一瞬目を丸くしたものの、また目を細めた。
「殺されたんだ」
しかし、ショックは受けている様子はなく、至って普通の反応だった。
見た感じでは、そう見える。
「別に、どうもしない。あいつとは付き合ってはいたけれど、そこまで長い期間ではなかったし。それに、日頃の行いを見ても、いずれは天罰が下るだろうなとは思ってたから。まさか死ぬとは思っていなかったけど」
まるで他人事のような反応をするヒメコに、俺はさらに質問をする。
「嬉しいか?嫌な奴がいなくなって」
「嬉しくはないよ。ただ、私の中の一つの懸念が消えたんだって思うだけ。永遠に」
ヒメコはベンチに深く腰掛け、空を見上げながら言った。
「DVするやつってさ。大抵みんな自分は悪くないって思ってる。自分を怒らせる相手が悪いから、もし相手が逃げたり離婚なんて口にしようものなら、裏切られたって勝手に解釈して、執拗に追いかけたり報復をしてくる。要は自分が所有している存在が反抗することに耐えられないんだよ。今の法律では、DVをして逮捕はするけれど、軽い刑罰で済むことが多い」
そこまで言うと、ヒメコは自分の左腕を捲りあげた。
そこには煙草の根性焼きのような火傷の痕が点々とついていた。
「リョウジもそうだった。これだけじゃなくて、他にも色々されたよ。もちろん貞操は死ぬ気で守ったけれど、その代償は大きかった。DVのことはその時に調べたけれど、だからこそ思うんだよね。今の法律は加害者に甘いんだって」
左腕をまた袖で隠した後、ヒメコは更に続けた。
「だって、リョウジみたいな人間が本気で反省するはずないのにさ、今の法律は加害者の更生に重点が置かれている。だから刑罰を食らってもまたシャバに戻ってくる。それって、せっかく檻に入れた怪物をまた野に放つようなものじゃん。そういう連中がまた被害者を苦しめるかもしれないし、新しい被害者を作るかもしれないのに」
よく見ると、ヒメコの手がぎゅっと握りこぶしを作っている。
彼女は怒っているようだった。
「そもそも被害者が逃げて、DVをした奴がのうのうと生きるなんておかしくない?いじめもそうだけれど、何も悪いことしてないのに、なんでされた側が逃げなきゃいけないわけ?そういう状態じゃあ、被害者はいつまで経っても安らげるわけないじゃん。どんなに地の果てまで逃げても、自分を苦しめたそいつが生きてシャバにいるっていう事実がある限り、絶対に被害者は安心なんてできない」
そこまで自分の言いたいことを言った後、ヒメコは一度だけ深呼吸をした。
「・・・だから、リョウジが死んだことで、私はようやく一つ自由になれたことになる。誰がやったか知らないけれど、そいつには感謝しないとね」
そう言いつつも、ヒメコは笑っていなかった。
虚ろな目で、ヒメコはひたすら白い校舎をじっと見つめるだけだった。
やがて、静かに予鈴が校庭に響き渡る。
「そろそろ行こうか」
そう言って、ヒメコはノートをしまって立ち上がった。
俺も席を立ち、ヒメコと並んで校舎へと向かう。
ふと、何気なく上を見上げたとき、校舎の三階辺りで、こちらを見下ろす人影が見えた。
向こうはじっとヒメコを見つめている。
その顔には見覚えがあった。
以前、金髪のガラの悪い女子にいじめられていた三編みの黒髪の少女だった。
確か、ヒメコがミクと呼んでいたように思う。
彼女がヒメコを見る目は酷く険しいものだった。
だが、俺がヒメコの方に一旦視線を戻すと、その次の瞬間には少女は消えていた。
「すっかり冬になっちゃったね」
ヒメコはそう言いながら、自分の両手をすり合わせた。
「冬はいつだって嫌い。憂鬱な思い出しかないから」
そう呟いて、ヒメコは陰鬱とした表情で、校舎の出入り口をくぐった。
学校でのヒメコはいつも俯いていた。
たまに先生に指される時は顔を上げるものの、それ以外はずっと下を向いている。
そして、周囲から完全に距離を置かれているヒメコは、トイレに行く以外は、ずっと自分の席から動いたりしなかった。
まるで、彼女のテリトリーが自分の机の周りにしかないかのようで、最後の自分の居場所をじっと守り続けているように、俺には見えた。
心なしか、そんな彼女を見ていると俺は息苦しさを感じる。
こんな窮屈な狭い世界に閉じ込められて、ヒメコは息をするのもやっとなのではないだろうか。
周囲からの悪意や冷笑を浴びながら、こんな空間で毎日過ごしていれば、それは確かに自分を壊したいと狂っても仕方がないようにも思う。
最後の授業の前の休憩時間。
ハルは唐突にノートを取り出して字を書き始めた。
俺が覗いてみると、「今日もハルさん家に行っていい?」と書かれていた。
その文章の下に、「はい・いいえ」とも書かれている。
俺は周囲の様子を確認し、ヒメコのことを誰も見ていないのを確認して、素早くシャーペンで「はい」に丸を付けた。
それを確認したヒメコは、さっとノートをバッグにしまった。
全ての授業が終わり、ようやく解放されたヒメコは、足早に校舎を出ていった。
校門を抜けた辺りで、ヒメコはスピードを落とす。
「ねえ、行く前にちょっと寄っていくところがある」
そう言うと、ヒメコは途中のT字路を左に曲がり、駅の方向へと歩いていった。
そして、駅前のコンビニで小分けのチョコレートが詰まった袋を買っていった。
そのコンビニは、前の世界で俺が働いていたコンビニでもある。
今日も、あの頃のメンバーは見かけなかった。
コンビニを出たヒメコは、その足でハルの家まで向かった。
ちょうど夕日が沈み始めていて、西側の赤い空と東側の暗い空が綺麗に別れている。
団地に到着し、ヒメコは階段をずんずんと上がってハルの家に着た。
インターホンを押すと、ハルとは違う女性の声が聞こえた。
どうやらチヒロさんが家にいるらしい。
「はい」
「あの、昨日サクラさんから連絡いただいている、ヒメコです」
「ああ、いらっしゃい!ちょっと待ってね!」
インターホン越しの明るい声が途切れた後、すぐにチヒロさんがドアを開けて出迎えてくれた。
「どうもどうも!ハルから話は聞いてますから、どうぞ上がって!」
「あ、えっと、これ、よかったら」
そして、ヒメコはその場でコンビニで買ったチョコレートをチヒロさんに差し出した。
「昨日のお礼です」
「えっ!ああ、そんな、わざわざいいのに」
「いえ、そういうわけには・・・」
ヒメコは少し照れくさそうにそっぽを向いたが、チヒロさんはそんなヒメコに優しい笑顔を浮かべた。
「ありがとうね。ささっ、上がって。お茶でもしましょう」
「・・・お邪魔します」
チヒロさんの笑顔に戸惑いつつも、ヒメコはおずおずと中に入っていった。
俺は中には入らず、外で待つことにした。
中にいても、チヒロさんの前ではヒメコも俺とコミュニケーションは取れないし、少なくともここにいればヒメコも安全ではある。
階段を下りて、団地の駐輪場近くの段差に腰を下ろして、とりあえずぼーっとしてみる。
ここ最近、色々あったな、とこれまでのことをぼんやり思い返してみた。
「確かに、色々あったよねー」
ふと、背後から声が聞こえて、びっくりして後ろを振り向いた。
サクラがニヤニヤと笑いながら俺の後ろにいる。
まるで、俺の反応が予想通りであることを面白がっている感じだった。
「あのさ、そうやって脅かすのやめてほしんだけど」
「えー、それじゃあつまんないじゃん」
面白がるサクラは、俺の隣にすとんと腰掛けた。
「じゃあこれ、お詫びに」
そして、パーカーのポケットから、チョコバーを一個取り出して俺に渡してくる。
俺は怪訝な顔をしつつも、それを受け取った。
「ありがと」
見ると、サクラも同じチョコバーを持っていた。
彼女はビニール袋を破って、チョコバーを一口囓る。
「今日も寒いね」
「ああ」
「こういう時は、温かい部屋でぬくぬくしたいね」
「そうだな」
何気ない会話に、俺も適当に相槌を打つ。
「じゃあ、せっかくだし、中入ろうよ」
気づくとサクラはあっという間にチョコバーを平らげていた。
彼女は俺の手を掴んで引っ張った。
「中ってどこへ?」
「そりゃあ、あそこしかないでしょ?」
そう言って、サクラはハルの家の方を指さした。
「早く入ろうよ。こんなところで震えながら待ってるのは嫌だし」
せっかくヒメコのことに配慮して出てきたというのに、また戻るのか。
だったら最初から中にいればよかったと思う。
「ついでにチヒロさんに挨拶もしておきたいし。さあ、早く早く」
サクラに手を引かれ、俺は立ち上がって歩き出した。
そこに、冷たい風がすっと横を過ぎていく。
思わず体を震わせた。
確かに、こんな日は温かい部屋でコーヒーでも飲みたい気分ではある。
コーヒーは飲めなくても、暖ぐらいは取りたい。
サクラに合わせて歩く足取りはいつもより早かった。
部屋の前に着いて、サクラがインターホンを押す。
「はーい」
「チヒロさーん、こんばんはー!サクラでーす!」
「あっ!ちょっと待ってね!」
中から先程も聞いた足音がして、扉がすっと開いた。
「サクラちゃん、いらっしゃい!今日はどうしたの?」
「まあ、挨拶がてら。ヒメコちゃんがお世話になってるみたいだから、顔を出そうかと」
「そうだったの。ありがとうね。どうぞ、あがって」
「はーい。おじゃましまーす」
サクラは元気な様子で玄関を上がっていった。
俺もその後に続いて中に入る。
部屋の中は丁度良い暖かさで、なんだか安心した。
リビングには、ココアを飲んでいるヒメコがいた。
「どうも。久しぶり」
「えっ?なんで?」
「ちょっと顔だしただけ。別にいいでしょ?」
サクラはソファーにどっと腰掛ける。
「ゆっくりしていってね。今お茶を出すから」
チヒロさんは笑顔でキッチンの棚からお茶の缶を取り出した。
「あっ」
「ん?どうしたの?」
「そうだった。お茶の葉切らしてたんだ」
「だったら、買ってくる?」
「いえ、大丈夫よ。確か、奥にストックがあったと思うから。ちょっと待ってて」
席を立とうとするサクラを制し、チヒロさんは奥の部屋に引っ込んでいった。
チヒロさんがいない間、ヒメコはじっとサクラを見てこう言ってきた。
「ねえ、カズオはそこにいるの?」
すると、サクラは俺の方をちらっと見て、「うん」と頷いた。
「いるよ。今ここに」
さらに、サクラは俺の方を指さしてくる。
「そう」
それだけ聞くと、ヒメコはまたココアに口を付けた。
それからすぐにチヒロさんが紅茶のティーパックの袋を持って部屋から出てきた。
「おまたせ。今淹れるからちょっと待ってね」
ティーポットにお湯を注ぐ音、そして茶器の重なり合う音。
なんだかそれらが、不思議と安らぎを与えてくれる。
ここには確かに平穏があった。
ヒメコも落ち着いているように見えて、俺もなんだか胸がほっと温かくなっていく。
やがて用意を終えたチヒロさんは、サクラに紅茶の入ったカップを渡した。
「ありがと。あっ、アールグレイじゃん。あたし、これ好きなんだ」
「よかった。私はこっちも好きだけど」
そう言って、チヒロさんはヒメコの差し入れを掴んで軽く揺すった。
「それも美味しいよね。ちょうど甘い物欲しかったし」
「ねえ、開けてもいいかしら?」
チヒロさんがヒメコにそう聞くと、ヒメコはコクリと頷いた。
それから、ちょっとした女子会が始まった。
甘いお菓子と紅茶、そして他愛もない雑談。
俺はそれをただただ黙ってみている。
それを羨む気持ちはない。
でも、見ているだけで新鮮な気持ちになった。
こういう光景を今まで俺はちゃんと見たことがない。
学校に行っていた頃は、教室で群れているグループの会話に憧れを抱きすぎて、虚しくなる一方だったから、ずっと下を向いていたように思う。
今、こうして彼女たちのこの一時に羨望を抱かないのは、孤独に慣れてしまったからかもしない。
「ねえ、今度はあなたの話を聞かせて」
雑談も一段落すると、チヒロさんがヒメコにそんな質問をしてきた。
その時に気がついた。
先程まで雑談をしていたのは、サクラとチヒロさんだけだったことに。
「私のこと、ですか?」
「うん。あなたの話。色々聞かせて」
「・・・話すようなことなんてないですよ」
ヒメコは途端に目線を落とし、暗い顔になった。
「そう?」
チヒロさんはきょとんとした表情を見せる。
「あなたにも、家族や友達はいるんでしょ?」
「いませんよ、友達なんて」
そう言い放ったヒメコは、マグカップを強く握っていた。
「正確には、過去形ではいましたけれど、今は友達なんていないです。欲しくもないし」
そっぽを向いたヒメコを、チヒロさんはじっと見つめていた。
「・・・ご家族は?」
「いますけれど、話したくないです」
「そっか」
それだけ言うと、チヒロさんは自分のティーカップに口を付けた。
一口飲んだ後、それをソーサーにゆっくりと乗せた。
「私ね。今、ソーシャルワーカー目指してるんだ。聞いたことある?」
「いえ。初めて聞きました」
チヒロさんの問いに、ヒメコは少しだけ顔を上げた。
「まあ、あまり聞かない単語だよね。簡単に言えば、障害者とか介護が必要な人たちとかのサポートをする人のこと。私ね、福祉の仕事に付きたいと思ってるの」
以前、そんな話を聞いた気がする。
チヒロさんの口から直接聞くのは初めてだが。
「最初はハルのために、知識を増やそうと思って、そういう仕事に興味を持った。そのうち、障害を持っている人の背景や、家族関係とかも知る必要があるんだって気づいたの。もちろん、対象は障害者だけじゃないよ。不登校とかいじめに苦しんでいる人とか、貧困や家族関係で悩んでいる人とか、色んな生きづらさを抱える人の話を聞いてみて、その人に寄り添ってあげたい。そう思うようになったの。だから、あなたに質問したのは、あなたのことをもっと知りたいと思って聞いてみた感じかな。気分を害したらごめんなさいね」
しばらく沈黙が続いたが、そのうち、ヒメコは口を開いた。
「・・・そんな風に、興味を持たれたことなんてなかったです」
「そうなの?」
「はい。私の話なんて、聞いてくれる人はいなかったから。それに、話したところで、嫌な空気になるだけだし、何も解決しないし」
ヒメコはまた俯き、チヒロさんは柔らかくもどこか寂しげな表情を浮かべ、サクラはそんな2人を交互に見ていた。
「あたしも聞きたいな。君の話」
そして、サクラは笑みを浮かべながら言った。
「ここには君の話を聞いて笑う人間はいないし、変に空気を読む必要もない。君が話したいだけ、話していいんだよ」
「・・・・」
ヒメコはサクラのことを一瞥した後、また俯いた。
「疲れたんです。色んなことに」
やがて彼女は小さな声で、ゆっくりと話し始めた。
「今まで、親や周囲の大人の言う通りに生きてきました。勉強を頑張って、人に迷惑をかけずに真面目になろうとして。でも、どんなに努力しても、終わりが見えなくて」
「うん」
チヒロさんはたまに頷きながら話を聞いていた。
「親をがっかりさせたくなくて、周りから嫌われたくなくて、色んなことを我慢して、真面目に生きていれば幸せになれるって、ずっと思ってました。でも、私がどんなに頑張っても、一生懸命真面目に生きても、誰も褒めてくれませんでした。むしろ、私がそうするのは当たり前だと思われて、頑張れば頑張るほど、その基準が高くなっていく感じで」
「うん」
「それで、私が少しでも不真面目だったり、努力を怠ったら、まるで親の敵みたいに非難されて。不真面目でも愛される人がいるのに、なんで私だけって」
「うん」
「次第に、真面目に努力して生きるのが、馬鹿らしくなったんです。これ以上嫌われないようにするのにも疲れたし、どんなに頑張っても意味ないのなら、いっそ人から嫌われて生きようって」
「うん」
「でも、そう生きようとしても、やっぱりうまくいかなくて。心のどこかでは、人に嫌われたくないって思っていて。なんだか、生きることも馬鹿らしくなって。結局、私は生きていても仕方ないって思って。人に嫌われる自分は、生きてる価値なんてないんだって」
次第に、ヒメコの瞳からポロポロと涙が伝っていた。
彼女は震える声で、自分の言葉を紡いでいた。
「私なんて、この世界にいても何もできない。誰かに求められても期待に応えられない。そんなの生きてる意味なんてないじゃないかって」
サクラがソファー横のサイドテーブルにあったボックスティッシュを手に取り、ヒメコの前に置いた。
ヒメコはティッシュを1枚取り、それで目元を慎重に拭っていく。
チヒロさんはじっとヒメコを見つめた後、静かにこう切り出した。
「生きていることに、意味を見つけることは必要なのかな?」
「・・・どういう意味ですか?」
ヒメコが訝しげにそう聞くと、チヒロさんは口元に柔らかい笑みを作ってさらに言った。
「ただ生きているだけじゃ駄目なのかなってこと。誰かのために生きるとか、人に好かれるために生きてるとか、そういうものに関係なく、ただ生きているだけでも素晴らしいことだと思うの」
「でも、そんなこと言われても・・・」
「生きてること自体に意味なんてないんじゃないかな?人って、自分の存在意義とかを見つけたがるけれど、じゃあ何もしない、何もできない人は価値がないってことになるのかな?それはちょっと違う気がする。人に嫌われやすい人は、死んだほうがいいって言われるのは、あなただって嫌でしょ?」
「それはまあ、そうですけれど」
「私ね。ハルが光を失ったときに、あの子が可哀想だって思った。でも、それは今では違うと思っている」
チヒロさんはテーブルに視線を落とした。
そこから先、彼女は静かにゆっくりと、心地よい調子の声で語り続けた。
「大抵は、目が見えないってことは不幸だって、誰だって思うでしょ。そう思うのは、不自由になって、できないことが増えるから。でも、私はそれ以上に、自分の娘が健康な体じゃなくなって、障害者っていうレッテルを貼られたことが可哀想だと思った。これから先、あの子は普通の人との差を感じて、辛い目に遭い続けるんだと思ったら、胸が張り裂けそうだった。ずっと、あの子に申し訳がないって思ってきた」
ヒメコも視線を落とし、サクラは目線だけそっぽを向いた。
俺はチヒロさんの言葉を少しでも聞き逃したくなくて、彼女の表情をずっと目で追っていた。
「でもね、あの子が光のない世界でも懸命に生きようとする姿を見て、次第に可哀想っていう感情は少なくなっていった。あの子は自分の宿命を受け入れて、日々を健気に生きている。あの子が社会の役に立てなくなったとか、人に嫌われるようになったとか、人並みの幸せを味わう機会を失ったとか、そんなことよりも、あの子が毎日生きて、私と一緒にいて、時々笑って、時々泣いて、ひたすら自分なりの幸せを追いかける。それだけでいいって思った。あの子は、ただ生きているだけでいい。誰かのためとか、存在意義なんて、もう関係ないんだって」
チヒロさんはそこまで言って、ヒメコをまた見つめた。
その笑顔は、優しいままだった。
「あなたが苦しんでいるってことは、すごく理解できる。なんで自分だけ貧乏くじを引いたんだって思ってるんだよね。ずっと私は頑張ってきたのに、人に認められたくて努力してきたのに、なんでこんな目に遭うんだって。だから、人に好かれることをやめて、自分なんかどうでもいいんだって、諦めたんだよね」
「・・・・」
ヒメコは静かに頷く。するとチヒロさんは、そんなヒメコの頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
「今までよく頑張ったね。そこまでのあなたの頑張りは、無駄なんかじゃないよ。だって、あなたは悩みながらも生きてるんだもの」
「・・・・」
「それに、頑張ることをやめたのも、間違っていない。今まで誰かのため、何かのために生きてきた分、今度は自分のために生きてみようよ。自分の幸せのために、ね」
「人に嫌われても、いいんですか?」
すると、ヒメコは小さくそう尋ねた。
「自分さえ良ければ、人に嫌われてもいいんですか?そうやって孤独になっていくのは、私は嫌です」
「そうだね」
ヒメコの問いかけを、チヒロさんは否定しなかった。
「確かに、それは辛いことだと思う。人に嫌われたくないと思うのは、自然な気持ちだよ。でもね、人に嫌われないために自分を押し殺して、無理をすることはないと思うんだ」
サクラをちらりと見ると、彼女も笑っていた。
普段のふてぶてしい笑顔ではなく、柔らかい笑顔だった。
「あなたらしいあなたで生きていくことも大切だってこと。そんなあなたを好きになってくれる人はきっといる。現に、私もサクラちゃんも、あなたが好きだもの。もちろん、ハルも」
「・・・本当ですか?」
「うん。ハルったらね、昨日あなたに聞く読書の話をしてもらって、すごく喜んでたの。あの子は、また本を読めるようになりたいって思っていたから」
そうやって、嬉しそうに話すチヒロさんを見て、ヒメコはまた顔を上げた。
その表情は戸惑いと嬉しさが混ざり合っているように見えた。
「・・・ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちだよ。ありがとうね、ハルに希望を与えてくれて」
そう言われたヒメコは、拳をぎゅっと握りしめて、唇を噛み締めていた。
「生きるってさ。こういうことの積み重ねなんだよね」
家を出た後、ヒメコを家まで送る中で、サクラがそう口にした。
「自分が見て聞いて感じる。そうやって体験したことが、人生を一つずつ構築していく。そういう体験の中で、なんだか今日はいい話が聞けたな、とか、美味しもの食べれたな、とか。そういうちょっとした良いことをたくさん見つけるために生きてるんじゃないかな?『生きててよかったな』って思える瞬間を少しでも多く作るために」
生きていてよかった瞬間。
俺にもそう思えた瞬間は、確かにあったと思う。
あの神社の河津桜の下で、ハルと会う時間。
彼女と話して、笑って、アケミさんがたまに持ってくるお菓子を一緒に食べる。
あれは確かに、生きていてよかった瞬間だったかもしれない。
他にもたぶん、そう思える瞬間はあったと思う。
ただ、俺はその瞬間を虚しく思って、しっかりと記憶に留めようとしなかった。
その小さな喜びが薄れてしまう程、毎日が辛かったから。
「・・・ただ自分のために生きるって、どうすればいいのかな」
今度はヒメコがそう呟いた。
彼女の心に、チヒロさんの言葉は確かに届いたのだと思う。
でも、それをうまく消化しきれていないように見えた。
「私、まだ未成年だし。親に頼らないと生きていけないし」
「だったら、今はその生き方を真剣に考えてみたらいいんじゃない?」
サクラは俯くヒメコの顔を覗き込んで言った。
「誰だってすぐにそういう生き方を実践するのは難しいよ。でも、どうしたら自分のために生きていけるか、考える時間はあるんだからさ。そう焦らずに、少しずつ準備していけばいいよ」
「準備・・・」
ヒメコは自分の胸に手を当てて深呼吸した後、ゆっくりと頷いた。
チヒロさんの言葉は、俺の胸にも確かに響いた。
俺も今まで家族のために生きていた。
自分からそうしたかったわけじゃない。そうするしか手段はなかった。
やがて、それが俺の人生なのだと、自暴自棄になっていた。
でも、よくよく考えれば、その生き方を捨てるチャンスは、転がっていたのかもしれない。
自分の境遇から抜け出すなんてできないとか、何をやったってどうせ全て無駄だとか、そう思い込んで、目の前に転がっていたかもしれないチャンスを見ようとしていなかったのだと思う。
人に否定されてきた俺は、自分の人生の価値を勝手に決めつけていた。
自分の人生の価値は、誰かに決められるものではない。
自分がどんな風に生きて、どういう幸せを得てきたか。
それでいいじゃないか。
チヒロさんは、たぶんそう言いたかったんだと思う。
ヒメコは以前、死ぬことだってその人の権利だと言った。
だったら、自分のために生きる権利だって、俺たちは持っていることになる。
人間らしく、そして自分らしく生きること。
その権利があるのであれば、最大限それを使うべきなのだろう。そして、その権利は誰かに侵害されていいものではないのだ。
それが、ヒメコも理解してくれたのであれば、俺は何も言うことはない。
「ん?」
顔を上げた瞬間、ヒメコの視線が何かを発見していた。
俺たちがその視線を追うと、街灯の明かりの下にハルがいた。
しかし、その隣には見ず知らずの男がいる。
ハルは男に手を引かれて、俺たちの方向にゆっくりと歩いてきた。
その光景を見て、俺は胸が少しむず痒くなった。
俺は立ち止まって、その場に隠れるように留まった。
サクラは俺を一瞥したものの、気持ちを察してか、そのままヒメコとハルの方へと歩いていく。
「ハルちゃん。こんばんは」
サクラの元気な声がこだました後、4人の会話はぼやぼやとしか聞こえなくなった。
俺は、その様子を道の脇でじっと見ているだけだった。
ただなんとなく、ずっとその光景を見ているのが耐えられないような感覚に襲われる。
俺ではない別の男が、ハルの手を握っている。
その事実が、少しだけ心を窮屈にさせていた。
サクラたちは少し会話をした後、その場を離れていった。
俺も後を追いかける。
ハルにわからないように、慎重にその場を過ぎ去ろうとした。
「・・・今日はここで大丈夫です。ありがとうございます」
「いえ、僕で良ければまた」
2人が笑顔を浮かべているのが、視界に入ってきて、俺の表情が険しくなったことを自覚した。
足早にサクラたちを追いつつも、ハルの様子を確認しておきたい気持ちもあって、軽く感情が鬩ぎ合っていた。
今日も相変わらず仕事が減る気配がなかった。
気づいたらため息ばかりが出ている。
スドウがとにかく仕事を振ってくるし、要領が悪いといつものように怒ってきた。
わからないことがあって聞こうとしても、「それぐらい自分で調べなさい」といつものごとく言われ、怒られるのが怖くて、その通りに自分で調べてやってみたら、「なんで確認しに来なかった」と結局怒られた。
今日もそんな一日だった。
これがあと何日、いや何年も続くと思うと、気が重くて仕方がない。
一体、いくつ溜息を漏らせば、落ち着くことができるのだろうか。
溜息の数だけ幸せが逃げるなんて言うけれど、どうにもそれだけが幸せが逃げる原因ではないように思う。
私が障害者だからいけないのかな。
なんて途方も無いことが、ハルの頭の中で堂々巡りしていた。
「それじゃあお先に」
スドウはいつも定時で帰る。
自分の仕事をハルに押し付けて。
スドウがハルの机に向かってくる足音だけで、ハルは緊張する。
しかし、その日はスドウはハルの横を素通りして、オフィスを出ていった。
いつもとは違って小言を言われなかったため、ハルは少し戸惑うものの、また業務に戻った。
そういえば、スドウの様子が今日は少しおかしかったように思う。
なんというか、頻繁に誰かと電話をしていたようだったし、何かに焦っているのか、いつもより早足だった。
しかし、そんな詮索をしたところでどうにもならない。
目の前の仕事はまだ終わらないし、今日もまた残業をするという現実は変わらないから。
ぎこちないながらも、なんとか今日の分の仕事を終えて、7時過ぎにハルはオフィスを出た。
会社の外に出た瞬間、白い息が漏れる。
仕事を終えてほっとする間もなく、ハルの頭の中で明日の仕事のことが思い浮かんでくる。
それが憂鬱で仕方がない。
時々こう思うことがある。
私はなんでこんなに苦しいのかと。
「ハルさん」
背後から名前を呼ばれ、ハルは振り返った。
「お疲れさまです」
ヒロキの足音がハルに近づいてきた。
「お疲れさまです。何かありましたか?」
「いえ。ただ、僕も途中まで帰っていいかなって思って」
「えっ?」
「実は、最近引っ越したんです。それもハルさんの家の近くに」
「そ、そうなんですか?」
「だから、よければこれから一緒に帰ってもいいですか?」
急なことで、ハルは戸惑ったが、そこにちょうどバスが到着してきたので、仕方なくハルはヒロキと一緒にバスに乗り込んだ。
「あっ、そこ、空いてますよ」
ヒロキはそう言って自然な感じでハルの手を取り、彼女を空いている席に座らせた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
ハルが座ったのを確認すると、バスは発進した。
ヒロキはハルの横でつり革に捕まり、じっと立っていた。
「お家はどの辺りなんですか?」
「〇〇駅から徒歩5分位の距離です。ちょうど、ハルさんの家の前を通るんですよ。先日、買い物帰りにハルさんが団地から出るのを見かけましたし」
「そうだったんですね」
プライベートの自分を会社の同僚に見られていたことに、少し恥ずかしさを覚えた。
「今日もお仕事は大丈夫でしたか?」
「えっと、まあ、今日の分はなんとか」
「別に急いでやる必要はないですよ。見た感じ、急を要する資料はなかったので」
ヒロキはそう言って笑ってみせる。
しかし、ハルにとってはそういう問題ではなかった。
「でも少しでも間に合わないと、スドウさんが怒るので」
今のハルは、スドウに怒られないために仕事をしているようなものだった。
そういえば、常に自分は誰かの迷惑にならないことに気を使って生きていたように思う。
何をするにしても、誰かの顔色を伺っていたし、人に迷惑にならないように、極力なにかに関わることをやめていた。
自分が何かをして失敗すれば、きっと周囲の人が嫌な顔をして自分を非難するだろうから。
それを回避することが、ハルの中で習慣になっているのは確かだった。
「・・・実は、スドウさんのことなんですけれど」
すると、ヒロキは声のトーンを落としてハルに囁いた。
「彼女のお子さん、発達障害かもしれないんです」
「えっ?」
その瞬間に、バスが停車してドアが開いた。
少しずつ人が乗り込み、バスの中が少し混雑してきた。
もう一度、その話を聞こうにも、人混みが増えた以上、なかなかに聞ける内容でもなかった。
やがてお互いにしばらく沈黙が続き、目的の停留所に近づいていく。
「あっ」
ハルが停車ボタンを押そうとすると、同じタイミングでヒロキがボタンを押した。
その瞬間に、ヒロキと手が触れてしまう。
「す、すみません」
「いえ」
やがて、バスは次の停留所にゆっくりと停車し、ハルとヒロキは人混みを掻き分けてバスから降りた。
ハルが降りる時、大半の人が配慮して避けてくれるのだが、中には小さく舌打ちをする人もいる。
今日はそういう人はいなかったが、ハルはいつそういう悪意に襲われるのか、びくびくしながらバスを降りることが増えた。
でも今日は、ハルがバスを降りるまでヒロキがずっと彼女の手を握っていた。
カズオに手を繋がれるのとは違い、妙に緊張してしまった。
「大丈夫ですか?」
「ええ、慣れてますから」
ハルが歩くタイミングに合わせて、ヒロキも歩き出す。
「その、さっきの話ですけれど」
「ん?ああ、スドウさんの件ですよね」
それからヒロキは知っていることを軽やかに話し始めた。
「スドウさんのお子さん。小さい頃から落ち着きがないらしくて、よく周りの人に迷惑をかけていて、学校からも病院を受診することを進められたらしいんです。けど、スドウさんがそれを拒否しているらしくて」
「えっ?どうしてですか?」
「たぶん、自分の子供が障害者だって言われるのが、耐えられないんじゃないんですかね。そういう親は割といますよ。僕の親も、最後まで僕が障害を持っているって認めてくれませんでしたから」
「そんなのって・・・」
そこまで言いかけて、ハルは口をつぐんだ。
母は障害を持っているハルと、ずっと向き合ってきた。
でも、世の中にはそうではない親も、少なからずいるのだということは、なんとなく理解できる。
障害を持つ子供を育てるのは綺麗事で片付けられる程、簡単なことではない。
チヒロだって苦労してきたことは娘であるハルもずっと感じていたし、そのたびに申し訳無さを感じていた。
「自分の子供が他人より劣っているとか、人に迷惑をかけて、いじめられたりしたらとか、そう思うだけで、親としては苦しいだけですから」
ヒロキは寂しそうにそう言った。
「自分の子供を愛するからこそ、なんとかしたいと思うじゃないですか。でも、その答えがでないからこそ、なおのこと苦しむ。自分の育て方が悪かったんだって、直接人に言われたり、そうでなくとも、そう言われているように思ったりして。そこに家庭の事情を知らない赤の他人から、障害かもしれないなんて言われたら、まるで自分の子供が出来損ないって言われているように思うんじゃないですかね」
まるで自身が見てきたように話すヒロキに対し、ハルはなおのこと心が痛んだ。
「でも、それじゃあその子が・・・」
「確かに可哀想ですよね。親がどう思うかは別として、一番苦しんでいるのは子供であることは間違いないですから。でも、その親心も間違いじゃないんですよ。だって、子供のことを憂いてこそ、頑なに否定してしまっているんですから」
それでは全く救われないじゃないか。
そう思いつつも、言葉が出てこなかった。
たぶん、私は恵まれている方なのだろうと、ハルは思った。
「・・・スドウさんが、私に冷たく当たるのは、それが理由なんでしょうか?」
「さあ。断定はできませんが、少なからずそれはあると思います」
今まで、ずっとスドウは障害者が単に邪魔で憎いだけだと思っていた。
だからこそ、ハルもスドウのことを苦手に感じていたし、きっとこの関係が変わることはないと思っていた。
理由もなく嫌ってくる人間ならば、もうどうしようもないと諦めるしかない。
でも、スドウも苦しんでいる人間であるならば、なんとかできる余地があるんだと、少しだけ希望も見えてきたように感じた。
「ありがとうございます」
「えっ?」
「そのお話を、私に聞かせてくれて」
ハルはその時の精一杯の笑顔をヒロキに向けた。
ヒロキも口元で笑みを作る。
「いえ、こんなことで良ければ。でも、僕からその話を聞いたってことは、スドウさんには内緒ですよ」
「ええ、大丈夫です」
「あっ、この辺りですよね?」
やがて、ハルの家の前の道に差し掛かる。
そのままヒロキはハルの手を握って、団地の入り口まで連れてきてくれた。
「ハルちゃん。こんばんは」
そこに、聞き慣れた声がして、ハルは声の方向を振り向く。
異なる足音が2つ、ハルの方にやってきた。
一つはサクラで、もう一つはごく最近聞いた足音だった。
「サクラさん?それと・・・」
「うん。ヒメコちゃんも一緒」
「ああ、そうだったんですか。こんばんは」
「うん」
ハルがお辞儀をすると、ヒメコは軽く頷いた。
「で、この人は?」
サクラに尋ねられ、ヒロキはハルの手を離した。
「ああ、僕、ハルさんの同僚でして」
そして、サクラたちに対して一礼をした。
「そう。ハルちゃんと一緒に帰ってくれたんだね」
サクラはニコニコと笑いながらヒロキをじっと見つめていた。
「はい。ヒロキさんもこの近くに住んでいるらしくて」
「ええ、最近引っ越してきたので」
「ふーん、なるほど」
サクラはまじまじとヒロキを見た後、ペコリとお辞儀をした。
「ハルちゃんのこと、ありがとう」
「いえ、僕は別に・・・」
「よかったら、連絡先を交換しても良い?」
「えっ?」
唐突にサクラがスマホを片手にそんな提案をしてきた。
「・・・別にいいですよ」
戸惑うハルに対して、ヒロキは冷静な態度で自分のスマホを出してきた。
そして何食わぬ顔でサクラと連絡先を交換する。
「ありがとう。もし、ハルちゃんに何かあったら、あたしにも連絡ちょうだいね。あたし、こう見えてハルちゃんとは付き合い長いから」
「わかりました。こちらこそよろしくお願いします」
「んじゃ、ハルちゃん、またね」
サクラは手をヒラヒラと振って、ヒメコと一緒に歩き出した。
「・・・今日はここで大丈夫です。ありがとうございます」
ハルも、ヒロキに一礼をして、別れようとした。
「いえ、僕で良ければまた」
「はい。では、また明日」
ヒロキから背を向けて、ハルは家の方へと独りで歩き出す。
今日も忙しい一日だった。
でも、ほんの少しだけ新しい発見があったことは、つまらない日常に変化をくれたと思う。
ハルの足取りは、先程よりも軽くなっていた。
ヒメコの家は、いつものように電気がついていた。
家の前に到着すると、ヒメコは一旦立ち止まって、じっと自分の家の方を向いていた。
「どうかした?」
「・・・どうして」
ヒメコは消えそうなほどの小さな声で言った。
「どうしていつも、明かりがついているんだろう」
「ん?」
ヒメコの視線を追うようにサクラも家の方をじっと見つめた。
「今までは気にならなかったけれど、思えば私が帰ってくるときは、いつも明かりがついていた。私が深夜を過ぎて帰ってきたときも、玄関の明かりだけはついてたっけ」
その時のヒメコの顔は、少し柔らかくなっていたように思う。
「なんだかんだ言っても、私が帰ってくるのを待っているのかな」
そして今度は、申し訳無さそうにして視線を落とした。
入れ替わるように、俺も家の明かりを見つめる。
暖色の明かりが、玄関の窓から漏れている光景は、確かに誰かが自分の帰りを待っているかのように思える。
家の中にいる両親は、今日もきっとヒメコを叱ったりするだろう。
「こんな遅くにどこにいた?」とか「学校へはちゃんと行ったのか?」とか。
でも、やっぱり彼らはヒメコの親なんだと思う。
どんなことがあっても、ヒメコがちゃんと家に帰ってくることを、彼らは信じているということなのか。
「あたし達はもう行くけれど、大丈夫?」
「うん」
サクラがそう尋ねると、ヒメコはその目を見つめて頷いた。
「オッケー。じゃあ、明日も頑張れ」
ヒメコの表情を確認できたサクラは、手を振って軽やかなステップを踏みながら、離れていった。
俺はヒメコが家の中に入るまで、しっかりと見守ってやった。
静かに門を開けた後、ゆっくりとドアノブを引いたヒメコの表情は、以前とは少し違っているように思えた。
ヒメコを見送った後、俺もサクラをゆっくりと追った。
川に掛かった橋の上で、サクラは待っていた。
柵に肘をかけて、遠くの夜景を見つめている。
彼女の表情は、どこか清々しかった。
俺はそっと近づき、隣で同じ景色を眺めた。
しばらくそこで夜景を見ていると、サクラがゆっくりと口を開いた。
「あの男の人に嫉妬した?」
「・・・・」
「まあ、あの人、ちょっとかっこよかったからね。君も嫉妬するのは無理ないか」
「・・・デリカシーなさすぎないか?」
「それはごめん」
せっかく頭から切り離そうと思っていたのに。
俺はサクラを睨みつけたものの、そんなことをしても仕方がないと思って視線を落とした。
心のどこかで、俺はこういうことがいつかは起きると思っていた。
なにせ、俺は姿が見えない。
ハルとの会話だって、手に文字を書いてやっているくらいだ。
そもそも、この世界に存在しない俺が、誰かに恋をするなんて、馬鹿げていることだったのかもしれない。
「そう悲観的になってもしょうがないよ」
今だけは、サクラに考えを読まれたことに少し苛立ってしまう。
しかし、俺は怒る前に自分にもう一度問いかけてから、サクラに言った。
「・・・どうしようもないだろ。それに、俺とは違って、ハルはこの世界で幸せになることができる」
「君はなれないとでも?」
「俺は今でも幸せだ。けれど」
その先の言葉が一瞬詰まって出てこなかった。
「俺の幸せを、ハルと享受することはできないよ。俺がこの世界にいない人間だって事実は変わらないから」
「・・・・」
俺の横顔をサクラがじっと見ているのが、なんとなくわかった。
「俺が人並みの幸せを求めるのは、やっぱりおこがましかったんだよな」
すると、サクラは柵からすっと体を離し、俺の後ろに立った。
「・・・チヒロさんの言葉、君には届いてなかったんだね」
サクラを怒らせたかと思い、振り向くものの、彼女は怒ってはいなかった。
その代わり、寂しそうな顔をしていた。
今、自分が放った言葉が、まるで彼女を責めているような響きを持っていることに、俺は気づいてしまった。
俺はサクラを傷つけたことに罪悪感を抱きつつも、謝る言葉が出てこなかった。
「先に戻ってる」
サクラはさっさと暗い道を歩き始める。
その後を追って、彼女に謝罪することはできたと思う。
でも俺はその場を動けなかった。
何を言ったところで、目の前の事実が変わるわけでもないし、俺が間違ったことを言ったわけでもないから。
恥ずかしさと後悔はあった。
でもそれをどうにかする方法が思い浮かばなかった。
目の前の夜景とは裏腹に、周りの闇はただただ暗いままだった。
ホテルに戻る頃には、深夜になっていた。
あれから、少し頭を冷やそうと思って、ホテルへの帰路を敢えて遠回りした。
すっかり夜風で体は冷えたものの、その甲斐もなく、頭の整理はうまくできなかった。
ホテルの部屋の扉は開いていた。
部屋に入ると、サクラが手を後ろで結んで、窓の方に立っていた。
その傍らのテーブルには、薄茶色の液体の入った小瓶が、封を開けられて置いてあった。
コンビニで働いていた時、よく見かけたメーカーのウイスキーだった。
「・・・酒、飲めないんじゃなかったのか?」
「今日は飲みたい気分なの」
サクラは窓から目を離さずに答えた。
「こっち来て」
そのまま手招きされ、俺は彼女の隣に立った。
窓から繁華街の夜景が見渡せた。
「あたしは何を見ていると思う?」
そう問われた俺は、サクラの方を振り向いた後、また夜景を見た。
「あたしが見ているものと、君が見ているものは違う。同じ立場に立っていても、見ているものや見えているものは、人それぞれに異なる。当たり前のことだけれど、意外と気づかない人は多い」
「つまり?」
「人それぞれは異なる生き物だけれど、それが当たり前だと覚えていられる人間は少ないってこと」
そう言って、サクラは窓に手を伸ばして、ガラスにそっと触れた。
「人にはそれぞれの悩みや考え方や価値観があって、弱さも強さも違う。でも、自分もそうだから人もそうだろうと思うのも、また人間。妹ちゃんは自分が不幸だから、他人のことが見えていなかった。でも、君やあたし、そしてハルちゃんやチヒロさんと出会って、違う考え方や価値観を知った。君だって、この半年の間に、色んなものが見えてきたはず」
「・・・さっきはごめん」
ここでようやく、俺は謝罪の言葉を述べた。
そこから先は何も言わない。
どうせ、自分に対する言い訳しか出てこないから。
「君がハルちゃんを幸せにできるかどうかは、あたしにもわからない」
サクラはそれから、俺の方にゆっくりと顔を向けた。
「でも、ハルちゃんは間違いなく、君といて幸せを感じている。それだけは忘れないで」
「・・・ああ」
俺の答えを聞くと、サクラは窓から離れて、テーブルに置いてあった酒の小瓶を掴んで、一口飲んだ。
「今回の妹ちゃんの事件。いろんな人間のいろんな思惑が混ざり合っている」
そしてパーカーのポケットから、1枚の紙を取り出す。
「それは?」
「先日、リョウジの家に行ったときに見つけた」
紙を手渡され、俺は折りたたまれたそれを開いてみた。
赤くて大きなワープロの文字で、「絶対にお前を許さない。絶対にお前を殺す」と書かれていた。
ヒメコの殺人予告と同じ内容だった。
「これが、リョウジの家に?」
「うん」
「忍び込んだのか?」
「まあね。簡単だったよ。今更そのことを責めたりはしないでよね」
言葉を発する代わりに、俺はため息を吐いた。
不法侵入の件はこの際どうでもいい。
問題は、この手紙がリョウジの家から見つかって、そして奴が死んでいるということだ。
「この手紙から、リョウジを殺した奴はわからないのか?」
「それは難しいかな。あたしでも」
「そうか」
「でも、一つはっきりしたことがある」
サクラは人差し指を立てて言った。
「この手紙と同じものを妹ちゃんがもらって、リョウジの家からも発見されている。つまり、リョウジを殺した犯人は、妹ちゃんを襲った犯人と同一人物だということ。要は仮説が証明されたってわけ」
それは確かにそうかもしれない。
手紙をもらってすぐにヒメコが襲われているわけだし、合点がいく。
「そうなると、あたしが立てたもう一つの仮説は崩れるわけだけどね」
「もう一つ?」
サクラはまたウイスキーを一口含んで、俺に向き直って言った。
「妹ちゃんに恨みを持つ人間が、もしかしたらリョウジの彼女かもしれないって前にも言ったよね?でも、先程の推理を立てた場合、その可能性は低くなる」
「そうか。その彼女にリョウジを殺す理由はないからな」
「まあ、もしかしたらその子にも別にリョウジを憎む理由があったかもしれない。けれど、今はひとまずその彼女は犯人ではないという路線で行こうか」
ウイスキーの瓶を摘むように持って、サクラはソファーにゆっくりと腰掛けた。
「・・・でも、そうなると容疑者は増えないか?」
俺は少し頭を抱える。
リョウジは大勢の人間に恨まれていた。
奴を殺したいと思うかと聞かれたら、大半の人間が手を上げるだろう。
「少なくとも妹ちゃんを襲撃したのは男だった。よほどのことがない限り、体格はさすがにごまかしきれないからね。でもそいつは単なる実行犯で、別に計画している人間がいる可能性もある」
「そうだな」
「あたし達の目的はあくまで妹ちゃんを自由にしてあげること。彼女が憎んでいる相手が誰なのかを突き止めない限り、襲撃は終わらないと思う」
ふと思い返せば、ヒメコの依頼内容はかなり曖昧だったと思う。
きっと、彼女はどんな形でもいいから助けてほしかったのかもしれない。
誰でもいいから、自分を包む暗闇から解き放ってほしかったのだろう。
「それに、気になることはある」
「なんだ?」
サクラはウイスキーの瓶を指で弾きながら言った。
「リョウジと妹ちゃんの共通点。2人が付き合っていたから、それに嫉妬して今の彼女が妹ちゃんをけしかけたとも考えられるけれど、なんとなく違う気もする。もっと、違う理由がありそうな気がしてる」
「例えばどんな?」
「それを考えてみたんだけど、もしかしたら2人だからってわけじゃないかもしれない」
「どういう意味だ?」
少し訳が分からなく俺と違って、サクラは冷静な表情で一点を見つめていた。
「・・・いや、それはまだわからないか」
しかし、何かを言おうとしたサクラは、自分の中で納得したように頷くだけだった。
そのままウイスキーの瓶をテーブルに置いて、ベッドにダイブした。
「何だよ。気になるだろ」
「・・・・」
問いかけたものの、サクラは全く答えない。
「サクラ?」
うつ伏せに寝ているサクラに近寄ってみると、彼女は枕に顔を埋めて、一定の呼吸を繰り返していた。
もしかしたら、酔って眠くなったのかもしれない。
仕方なく、俺は毛布を手にとって、サクラにかけてやろうとした。
「・・・ごめん」
すると、枕の下からくぐもった声がした。
俺が振り返るものの、サクラはそのまま微動だにしていなかった。
「君のこと、そんな体で連れてきちゃって」
「・・・・」
サクラに毛布をかけてから、彼女が先程まで座っていたソファーに深く腰掛けた。
「俺は、別に後悔はしてないよ」
「・・・・」
「まあ、不自由なところはあるけれど」
そう付け加えたが、後悔をしていないのは事実だった。
俺が今、こうして色んなことを経験できているのは、サクラのおかげなんだから。
「あのまま、元の世界にいたら、俺はずっと腐ったままだった。そんな俺にこんな形でやり直すチャンスをくれたんだから、お前には感謝しているんだよ。本当だ」
サクラならわかるはずだ。
俺のこの気持ちは、本心だって。
すると、サクラは手をゆっくりと上げて、指をひょいひょいと曲げた。
手招きされた俺はサクラの近くに来る。
すると、サクラは俺の手に指を伝わせ、ぎゅっと握りしめた。
「酔ってるのか?」
「・・・・」
その問いにも答えない。
俺はベッドの傍らに座り、そのまま手を握り続けた。
サクラの手が意外にも温かいことに、初めて気づいた。
「・・・意外って何?」
そこでサクラがムクリと枕から顔を上げる。
ぼさっとなった前髪から、じとっとした目線が覗いていた。
「いや、お前と手なんて握ったことなかったから・・・」
その瞬間、背中に重量感を覚える。
もたれかかったサクラから、浅い呼吸が体中に伝わってきた。
「・・・あたしだって生きているんだよ」
そう呟いたサクラは、さらに俺の手を握る手に力を入れた。
「そうだな」
俺はただ頷く。
彼女は特別な力を持っていても、やっぱり女の子だった。
彼女の髪から香るシャンプーの匂いを、より近くに感じた。