壊したい世界
次の日から、俺はまたヒメコの監視に戻った。
彼女が襲撃されたあの日から、少しは俺も緊張感を持とうとしている。
朝早くから家の前でヒメコを待っていると、7時半頃に制服姿のヒメコが家から出てきた。
いつもよりも大きなスクールバッグを持っていて、右手には包帯がぐるぐると巻かれていた。
昨日あんなことがあったのに、学校に行かされるヒメコのことを思うと、少し不憫にも思ったが、そもそも大事な娘が通り魔に怪我を負わせられたというのに、学校に行かせる親の気が知れない。
まあ、俺の親なのだから、まともな思考の持ち主ではないのだけど。
しかし、俺が思うほどヒメコの足取りは重くはなかった。
むしろ、いつもよりも足早に通学路を歩いていく。
だが途中にある踏切の前で、ヒメコは一旦立ち止まった。
電車はまだ来ていないにも関わらず、彼女は立ち止まって俯いている。
まるで何かを考えているようにも映ったが、しばらくして踏切の信号がけたたましく鳴り響き、電車が突如現れた壁のように、俺たちの前を横切っていく。
その時、彼女は意を決したように、踵を返して来た道を戻っていった。
踏切の先には学校がある。
その反対へ向かうということは、彼女は学校へ行かないつもりのようだ。
先程までの表情を見る限り、直前まで迷っていて、ようやくサボる決心がついたかのようだった。
やがてヒメコは神社の隣りにある公園に辿り着き、公衆トイレへと入っていった。
しばらく待っていると、中から私服に着替えたヒメコが出てきた。
白いニット帽に灰色のピーコート、そして白いスカートを履いていて、背中に白いレザーバッグを背負っている。
傍から見ると大学生っぽい。
手に大きなスクールバッグを持っていたので、制服もおそらく、その中にしまっているのだろう。
どうやら、もともと学校をサボる予定ではあったようだ。
ただ、その決心がぎりぎりまで付かなかったということだろう。
それにしても、昨日あんな目に遭っているのだから、今日くらいは大人しくしてもらいたかったとは思う。
そんな文句も言えないなので、俺は仕方なく彼女の後をついて回った。
ヒメコは駅前へと向かうが、いつものネットカフェの前を通り過ぎて、駅の改札口へと直進した。
そのまま電車に乗り、以前俺とハルがデートをしに行った方とは反対側のホームへと向かった。
ちょうど電車もやってきたところだったので、そのまま到着した電車に乗り込んでいく。
電車の中は少し混んでいて、俺も何人かと肩がぶつかってしまったが、ヒメコの後に続いて奥の方に進んでいった。
混んでいるのは入り口の方だけで、奥はぽっかりと空間が空いていた。
やがて電車が動き出し、ヒメコはスマホをいじり始める。
俺は窓の外の景色をぼうっと眺めた。
こちら側は割と都会っぽく、大小様々なビルが乱立している。
以前にサクラと眺めた光の海も、こっち側の景色だったのだろう。
5つ目の駅でヒメコは降車した。
あまり見たことのない大きな駅だったが、ヒメコは慣れたようにずいずいと人混みをかき分けて進んでいく。
ついていくのに一苦労だったが、なんとかヒメコの後に続いて駅から出てきた。
バスとタクシーの広いロータリーと多くの飲食店が並んだ大通りが広がっている。
俺の住んでいた町よりも大きくて、まさに都会だった。
ヒメコは周囲の景色を気にすることなく、駅前のコンビニへと入っていった。
まだ朝の9時である。
こんな時間に、一体何をしに来ているのか。
ヒメコの行動が読めないまま、俺はひたすら彼女の後を追うだけだった。
ヒメコはコンビニでパンとおにぎり、そして飲み物を買って出てきた。
ロータリー付近の手すりに座ってそれらをささっと食べ、しばらくぼーっと過ごした後に、駅の先の交差点を渡っていく。
彼女の午前中の行動範囲だが、最初に大型チェーンの古本屋に入って漫画や雑誌を立ち読みし、次にレコード店に寄って今流行のCDやら映画のサントラを物色した。
その後はカフェでコーヒーとサンドイッチを注文して、一時間ほど仮眠を取っていた。
午後になると、ゲームセンターに向かったものの、そこでは何も遊ばずに、ただただ店内を見回るだけだった。
しばらくしてATMでお金をいくらか引き下ろし、よく知らないアパレルの店で洋服を選んだりしていた。
結局その場では何も買わず、店を出て駅前の広場に戻ってきた。
その辺りで、ヒメコはやたらと時間を気にしていたように思う。
腕時計をチラチラと見たり、スマホを頻繁にチェックしている様子だった。
やがて広場にある郵便ポストの隣に立ち、まるで誰かを待っているかのように佇んだ。
なんだか嫌な予感がした。
どうもヒメコは緊張している様子だったし、妙に怪しさが匂っている。
30分ほどそうやって待っていると、ヒメコがなにかに気づいたように駅の出入り口の方を見た。
おしゃれなスーツを着た30代くらいの男性が、ヒメコの方に駆け寄ってくる。
「ドールさんですか?」
男性はヒメコをそう呼んだ。
そう言えば、俺たちへの依頼メールもそんな名前で名乗っていた。
「はい、そうです。エイドさんですよね?」
「うん。ごめんね。遅れてしまって」
ヒメコにエイドと呼ばれた男性は、爽やかな笑顔を浮かべて謝罪をした。
しかし、見た目とは裏腹に、この男からきな臭さを感じてしまう。
「いえいえ。今日はよろしくお願いします」
ヒメコは男性にペコリとお辞儀をした。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
2人は挨拶も程々に、並んで歩いていく。
「そう言えば、その手はどうしたの?」
「あー、実は料理している時に手を切っちゃって」
「えっ?大丈夫?」
「はい。まだ少し痛いですけれど、なんとか」
そんな嘘を吐きつつ、他愛もない会話を始める2人だったが、なんというか、知り合いにしてはどうも様子がおかしい。
初対面同士にも見えるのだが、それにしては気心を許し過ぎているようにも見える。
「ところで、こういうのは初めてなの?」
男性がそう聞くと、ヒメコは照れくさそうに言った。
「まあ、実はそうなんです。たまたまアプリのことを知って、面白そうだなと思って」
「へえ。そんな子は初めてだよ。大抵はこういうことに慣れてる子ばかりだったから」
「エイドさんはよく利用するんですか?」
「まあね。金と時間はあるから。じゃあ、初めてってことは、色々とわからないことだらけだよね?」
「はい。そうですね」
「そっか。まあ、気楽にやればいいから。こういうのはさ」
会話の内容を聞く限りでは、2人は何かしらのアプリを使って知り合った者同士で、おそらく今日が会うのは初めてなのだろう。
それにしても、一体何が「初めて」なのだろうか。
もしかして、援助交際とかか?
そう思うと色々と合点がいく。
今すぐにでも2人を引き離したかったが、ここは人通りの多い飲食店街なので、今すぐに行動に移すことは憚られた。
俺は警戒しつつ、2人の動向をチェックすることにした。
2人は雑談を交わしながら、先程ヒメコが入っていったアパレルの店に入っていった。
そこでヒメコが「これ気になってるんですよね」と言いながら、洋服を漁っている。
先程、ヒメコが手にとってチェックしていた服だった。
「じゃあ、特別に買ってあげるよ」
「えっ!本当にいいんですか?」
「うん。そういう約束だし。今日は初めましてもあるから、好きなもの選んでいいよ」
と言いながら、男性はニコニコと笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございます!すごく嬉しい!」
ヒメコはそう言いながらも、遠慮なしにその後も次々と洋服を買い物かごに入れていった。
なんというか、妙な茶番を見せられているようで、気分が悪くなった。
買い物を終えた後、上機嫌なヒメコは男性と会話を続けて歓楽街を歩いていき、やが3階建てのビルに到着した。
そして、男性は2階にあるイタリアンの店を指さして言った。
「この店に予約入れているから、行こっか」
「うわー、素敵な感じですね」
最初の緊張感はとうに消えてしまったヒメコは、嬉しそうに笑顔を浮かべている。
そのまま店の階段を昇っていく2人の後をつけようとしたとき、サクラからメールが入った。
「妹ちゃん、今日学校行ってないでしょ?」
その文面を見て、俺は朝方にサクラに連絡を入れることを忘れていたことに気づいた。
「ごめん。連絡するの忘れてた。今は〇〇駅にいる。よく知らない男と一緒にレストランに入っていった」
そう端的に返信した。
するとすぐにサクラから返事が帰ってくる。
「とにかく監視してね。ヤバそうになったら絶対に守ってよ」
とのことだった。
それはまあ、警戒はしているし、相手の男はそこまで強そうな感じでもないから、どうとでもできるとは思う。
俺なりに仕事はこなすつもりではあるが、一方で妙な好奇心というものがあった。
ヒメコとあの男の関係性が何なのか。
大したものではないかもしれないが、2人がどんな会話をして、これから何をするのか。
ただなんとなく、それが気になっている。
もし、男が変な真似をするようであれば全力で止めるが、それまでは少し2人を泳がせて見たいとも思った。
店の入り口で入れ違いに店から出てきた客に紛れて店内に入ると、食欲をそそる匂いがふんわりと立ち込めていた。
ヒメコたちを探すと、店の奥のガラス窓の付近にある席に座っていた。
「好きなものを頼んでいいよ。俺が全部出すから」
「いいんですか?なんかすみません」
男はリラックスした状態でメニュー表をヒメコに渡し、それをヒメコは笑顔を浮かべながら受け取った。
そういえば、彼女の笑顔をここにきて初めて見たような気がするが、その笑顔が本心なのかはわからない。
ヒメコは遠慮しているのか、この店で一番安いマルゲリータピザを注文し、男性はカルボナーラとコーヒーを頼んでいた。
「お酒、飲まないんですか?」
「実は下戸でね。一切アルコールが飲めない」
「へえ、なんか意外」
食事が届くまでの間、2人はとりとめのない会話をしていた。
どうやら、男はこの付近で営業職をしているらしく、今日は直帰でヒメコに会いに来ていたらしかった。
「お仕事は最近忙しいんですか?」
「まあね。今日も上司に叱られてきたばかりだし、最近ついてないことばかりでさ」
それからは男性の愚痴が始まった。
転職して2年目。以前の会社は相当ブラックだったらしく、なんとか転職した先で、必死に頑張っているらしい。
とはいえ、転職先もそこまで待遇は変わっていないようで、相変わらず人間関係で苦労していると話していた。
「大人になっても、人間関係って面倒くさいままなんですね」
「そうだよー。人生は長いって言うけれど、その長い人生で悩み続けないといけないなんて、うんざりだよね」
含みのあるヒメコの言葉に、男性は自分の肩を回しながら呟いた。
そのタイミングで、料理が運ばれてくる。
「わー、美味しそう」
「この店、評価は高いからね。値段も同じくらい高いけど」
2人は笑いながら、運ばれてきた料理を食べ始める。
その様子を見ているうちに、俺も腹の虫が鳴ってしまった。
そう言えば、まだ昼飯も食べていなかった。
食事もそこそこに楽しんでいた中、今度は男性の方がヒメコに質問をする。
「ドールさんは、今日は学校はお休み?」
「休んできちゃいました」
男性の質問に、ヒメコは少し苦笑いしながらそう言った。
「前にもチャットで話しましたけれど、学校にも家にも居場所がないので」
「ああ」
男性は眉をひそめながら聞いていた。
ヒメコは笑顔を浮かべているものの、なんだか力ない感じが滲み出ている。
「なんていうか、一応友達もいたんですけれど、ちょっといざこざがあって」
「いざこざっていうと?」
「まあ、ちょっと重たい話になるんですけれどね」
ヒメコはピザを一口囓ると、溜息混じりに学校でのことを話し始めた。
「その友達、高校1年の時のクラスメイトだったんですけれど、趣味も合うから一緒にライブに行ったりカラオケに行ったりとかする仲だったんです。私は普通にあの子とは友達だと思ってたんですけれど、彼女はそうじゃなかったみたいで」
「それは、相手がドールさんのことが好きじゃなかったってこと?」
「いや、好きではあったんですよ。でも、その好きの意味が違うというか」
口にするのが難しそうにしつつも、ヒメコは事の真相を話しだした。
「彼女、いわゆるレズってやつで、私のこと、恋愛対象に見てたんです。まさかとは思ったんですけれど、確かにそれとなくそういう雰囲気はあったというか」
「なるほど」
男性はたまに相槌を打ちながらヒメコの話を聞いていた。
その様子を見て、ヒメコも少し心を許したのか、さらに深い内容を語り始めた。
「なんとなく彼女がそう思っているなってわかったら、少し距離を置きたくなって。そのタイミングで、クラスの他の友達の伝手で知り合った男に告白されて、なりゆきで付き合うことにしたんですけれど。その時にたまたま、その友達がレズだって話しちゃって」
「うーん」
「それから、噂がばばって流れて、その子はクラスの一軍の女子たちに目をつけられて、いじめられるようになったんです。それに、私に彼氏が出来たことも、彼女の怒りを買うことになったというか」
まるでそれは、ヒメコの告悔のようにも聞こえた。
さながら男性は懺悔を聞いている神父といったところか。彼は否定もせずに、ひたすらヒメコの話を頷きながら聞いているが、その目線は下を向いていた。
「私、本当に最低なことをしたなって思います。その罰を今受けている感じですかね。彼氏には殴られるし、今では仲良かったグループからも憎まれているし。・・・すみません、変な話しちゃって」
ヒメコは自嘲気味に笑うものの、男性は少し神妙な顔をしていた。
「いや。むしろ、俺に話してくれてありがとう」
「えっ?」
「なんていうかさ。俺たち、今日初めて顔を合わせたわけじゃん?」
「まあ、そうですね」
「それなのに、ここまで深い話をしてくれたのは、少し嬉しかったかな。俺を信用してくれている感じがしたし」
「そうなんですかね」
ヒメコは苦笑いを浮かべているものの、男性はずいっと前のめり担って話し始めた。
「なんというかさ。ドールさんの違う一面をまた見れて、俺は嬉しいよ。ありがとう」
俺はそこできな臭さを感じたが、ヒメコはどうもそれに気づいていないのか、少し照れくさそうにしていた。
「よし。今日は気分がいいから、ドールさんの好きなもの、もう一つ買ってあげるよ」
「えっ!いや、そんな・・・」
「いいっていいって。俺がそうしたいだけなんだからさ」
戸惑うヒメコをよそに、男性は嬉しそうにニタニタと笑いながらコーヒーを飲んだ。
俺は今までサクラの依頼人やターゲットを何人と尾行し、そして監視してきた。
この世界にいないことになっている俺は、気配すら気づかれることがない。
だから、この仕事は天職のようなものだ。というか、特性上これくらいしかできる仕事はない。
こうして様々な人の背後をついて歩いていると、彼らの色んな一面を見ることができた。
妻子に内緒でソープに行くようなサラリーマンもいれば、夫と子供が仕事や学校に行っている間に、若い男と逢引する主婦もいる。
彼らの大多数の人間の前では見せない別の一面を、俺は幾度となく見てきた。
そして俺は今こうして、妹のもう一つの顔を見ている。
そこにいるのは、10歳近く歳の離れた男と楽しそうにショッピングするいたいけな女子高生だった。
目の前のあらゆるものを憎み嫌悪するかのような鋭い眼差しと固い表情はそこにはなく、可愛いものや素敵なものに表情を和らげる年相応の女の子。
こんな風にヒメコを別人に変えてしまう、この男性の素性が気になるところだが、今のところ物腰柔らかな顔の裏にある胡散臭さだけしかわからない。
「あっ、これ可愛い」
フリルのついた洋服を手に取りながら、自分の両肩に合わせているヒメコの横で、男性はニコニコしながら頷いている。
「じゃあ、それも買っちゃおうか」
「いいんですか?」
ぱっと明るい顔で男性を見つめるヒメコと、そんな彼女にひたすら笑みを向ける三十路の男。
ヒメコはだいぶ男性に懐いているようだが、俺はやっぱり信用ならなかった。
アパレル店に入って約1時間後、ようやく買い物を終えた2人は、大量の服が詰まったかごをレジに持っていった。
男性は財布から1万円札を数枚取り出し、レジのトレイに放った。
「本当にありがとうございます。こんなに買ってもらって」
「いいよいいよ。金だけは余ってるから」
そう笑いながら、男性はパンパンに膨らんだ買い物袋を持ちながら、ヒメコと並んで店を出ていく。
「普段から色んな子に買ってあげてるんですか?」
「まあね。ある意味、道楽みたいなもんかな」
「道楽、ですか?」
「うん。その日その日に違う子と会うたびに、こうやって買い物に付き合ってる」
ふてぶてしい笑みを浮かべながら、男性はずんずんと前へと歩いていく。
買った荷物をコインロッカーに預けた後に2人が向かった先は、歓楽街の入り口だった。
「色んな事情の子がいてさ。家出して泊まるところに困ってる子とか、失業して転職先が見つからないからこういうことしてる子もいる。もちろん、君みたいに学校をサボってるとか、不登校の子もいる。そういう子たちの話を聞くと、やっぱりなんとかしてやりたいなって思うわけよ」
「そうなんですね」
男性の話に、ヒメコは相槌を打っている。
今どんな顔をしているのかは、後ろからではわからない。
「俺、金だけは腐るほどあるし、独身貴族だから、彼女たちに色々してあげる余裕はあるんだよね。別に慈善事業ってわけでもないけれど、せめてこの一瞬だけは現実を忘れて楽しんでほしいと思ってさ」
「そうなんですね。素敵ですね」
「まあ、お礼にちょっと体を貸してもらうこともあるけれど、別に強制はしてないから」
「あっ・・・」
そう言って、男性はヒメコの肩に手をかけ、自分の方にぐっと寄せてきた。
ヒメコはびくっと体を震わせ、俺は背後で身構える。
「この後、どうする?」
笑っている男性の目が、少しだけギラリと光ったように見えた。
俺はゆっくり2人に近づき、拳を握りしめる。
しかし、ヒメコはその男性の手をすっと退けて一歩下がった。
案外、スムーズに男性の手が離れたのには少し驚いた。
「えっと、すみません。まだ心の準備が・・・」
ヒメコは俯きがちに小さな声でそう呟いた。
手を後ろに回してスカートの裾をギュッと掴んでいる。
「・・・別にいいよ。強制じゃないから」
僅かに怯えるヒメコに対し、男性は首を横に振った。
「ドールさんも初めてで慣れてないっていうのもあるから、無理強いはしない」
それを聞いたヒメコは、鼻で深呼吸をしていた。
「ただ、もしこの後も付き合うなら、プラスで10万あげるけど。どうする?」
「10万・・・」
突如発せられた金額に、ヒメコの目が一瞬変わった。
「うん。まあお礼というか、手当ってやつ?俺の我儘に付き合ってくれるわけだし、せめてそれくらいはね」
男性はこの手を取れと言わんばかりに、すっとヒメコに手を差し出した。
ヒメコが唾を飲み込んだのが、一瞬わかった。
そして一歩、彼女は前に足を出し、ゆっくりと手をスカートから離して前に出し始めた。
その瞬間、俺はヒメコと男性の間に割って入ろうとした。
だが、俺が手を伸ばそうとしたその瞬間、ヒメコはゆっくりと自分の手を引っ込めた。
「ごめんなさい」
そして素早く男性に頭を下げ、そのままじっと固まった。
「ふーん。そっか」
そんなヒメコに対し、男性は冷静な表情を浮かべ、伸ばしていた自分の手をポケットに入れた。
「まあ、嫌なら別にいいよ」
男性の表情を見ようと、ヒメコはゆっくりと頭を上げた。
「でも、惜しいことをしたね。俺ならきっと満足させられたのに」
男性はニヤッといやらしい目つきで、ヒメコをじっと見ていた。
口角も妙につり上がっていて、俺もぞっとなるほど不気味な笑みを浮かべていた。
「けどいいさ。今日はありがとうね。一人で帰れる?」
「・・・はい」
「そう。なら、これは今日のお礼」
男性は財布から何枚かお札を取り出し、ヒメコに差し出した。
見たところ、5万円くらいはある。
「またいつでも連絡していいから」
ヒメコは戸惑いながら男性とお札を交互に見た後、おずおずと男性の手に握られたお札を手に取った。
「それじゃあ、またね」
男性はヒラヒラと手を振って、歓楽街の奥へと消えていった。
ヒメコはしばらく男性の後ろ姿を見つめながら立ち尽くしていたが、やがて手に取ったお札をゆっくりと数え、自分の財布の中にしまい込んだ。
そして踵を返し、とぼとぼと駅の方へと歩いていった。
彼女は今日買ってもらった荷物をコインロッカーから取り出しに行こうとはしなかった。
駅に着くと迷わずに改札を抜け、人の混雑しているホームで電車を待った。
その間、ヒメコは虚ろな目で何かを見つめている。
目線の先には大きな看板があり、「君の未来はこの冬で決まる」というコピーライトが堂々と載った予備校の広告が掲載されていた。
ヒメコは自分の将来のことをどう考えているのだろうとふと気になった。でもその問いは俺自分がよくわかっていることじゃないかと自分自身に答えてみる。
この世界に来る前の俺は、あらゆる存在に追い詰められて、その瞬間を生き抜くこと以外、何もできなかった。
自分のことだけでなく、家族のことや今日と明日を乗り越えることだけで精一杯だったし、何より自分の将来がどうなっていくのかわかりきってしまっていた。
今日も明日も、その先の未来も、ずっと同じことが続いていく。どんなにあがいてもそんな未来しか見えない。
俺はとうの昔に、ずっと続いている道の先が見えてしまっていた。
なにか特別な奇跡でも起きない限りは何も変えることができなかったし、変えられる自信も気力も限りなくゼロだった。
諦めたくはなかったけれど、目の前に広がる道があまりにも険しすぎて、ただただ慄き、絶望するしかなかった。
ヒメコもきっと同じだ。
今の彼女に将来なんて考える余裕はないし、考えたくもないのだろう。
だって、彼女はわかってしまっているはずだ。
この先の人生が、どんなものであるのかを。
そんなことを頭の中で、一つずつ言葉として形にしている途中で電車が到着した。
混雑する電車に乗り込み、俺たちはまた住み慣れた町へと戻る。
俺たちはその町でしか生きられないのだと、誰かに言われているように思えてならなかった。
やがて目的の駅に到着する。
電車の扉が開いた瞬間、帰宅目的の人が一斉にホームに出ていった。
ヒメコもその流れに身を任せてホームに降り立つ。
足早に改札へと向かう人の流れの中、彼女は唯一重い足取りで一歩一歩を踏み出していた。
途中で中学生らしい制服姿の男子集団が、周りを見ずに会話しながら歩いていたため、ヒメコの肩に鞄をぶつけた。
少しのけぞるヒメコに対し、彼らは気づかないかのように会話に興じながら去っていく。
群衆の最後に改札を出たヒメコは、家の方角へとそのまま向かった。
しかし、途中で彼女は違う方向の道を選んで、迷わず歩いていった。
すっかり暗くなった冬の夜闇をぼんやりと照らす街灯を避けるように、ヒメコは力なくただただ歩き続けた。
どこへ向かっているのかはわからない。
まるで当てがないままに、ひたすら彷徨っているようにも見える。
ヒメコの後を追ううちに、見慣れた通りに差し掛かった。
この角を曲がって真っすぐ行けば、あの神社に辿り着くわけだが、ヒメコはそのことを知っているのだろうか。
案の定、ヒメコは神社の前で足を止めた。
彼女はそのまま右を向いて、じっと鳥居を見上げた。
「いるんでしょ?そこに」
右を向いた彼女は、よく通る声で確かにそう言った。
「誰かは知らない。いや、何かかもしれないし、私の勘違いかもしれない。ていうか、もしかしたら独り言になるかもしれないけれどさ」
神社の鳥居をじっと見つめながら、ヒメコはなおも声を発した。
「いるんだよね?ずっと私の近くに」
俺は少し驚いている。
この世界に、俺の存在を感じ取れるのは、サクラとハル以外にはいない。
だが、その様子からするに、ヒメコは気づいたのかもしれない。
思えば、彼女を2回も助けているし、その時に彼女は姿の見えない俺が何をしたのかを、その場にいて目撃している。
以前の世界のヒメコは賢かったし、勘も鋭かった。
こっちの世界のヒメコも、そこは変わっていないのだろう。
「私さ、自分で言うのもなんだけれど、頭が悪いってわけじゃない。そりゃあ、よくわかんない何かにこうして話しかけているのはどうかしてるって自分でも思うよ。そもそも、いるのかどうかもわからない存在にくっちゃべっているなんて、ただのヤバい奴だしさ」
ヒメコは自分の手を顔の前でこすりながら、息を両手にそっと吹きかけた。
「でも、前にリョウジをボコボコにしたのも、通り魔を撃退したのも、明らかに何かがそこにいて、私を守ったとしか思えない。今、この場にいるのかどうかはわからないけれどさ」
そして、ゆっくりと石段を登り、鳥居の前で立ち止まった。
「ちょっと付き合ってよ。今日は愚痴りたい気分だから」
再び歩き出したヒメコは、鳥居をくぐって、夜闇に包まれた神社の境内へと足を踏み入れた。
その後を、俺は静かに付けていく。
ヒメコは煌々と辺りを照らす自販機へと向かい、じっとそれを見つめていた。
「もし、そこにいるんだったらさ、何か買ってよ。お金は置いとくから」
そう言うと、ヒメコは地面に100円玉を2枚置いた。
「私、温かいお茶が飲みたい」
100円玉から一歩だけ後ろに下がり、彼女は何かが起こるのを待っている。
俺はどうするべきか少し迷った。
だけれど、彼女に俺の存在がバレたとしても、特に何かリスクが生じることも考えにくかったし、ここまで来たら別にバレてもいいかと、ほんの少し自暴自棄な気分だった。
俺は目の前に落ちている100円玉2枚を拾い上げ、自販機に投入して、言われた通り温かいお茶を買った。
その様子をヒメコは凝視していた。
彼女も半信半疑だったのだろう。
まさか本当に、そこに誰かがいるなんて思うわけがない。
それが普通だ。俺が普通じゃないだけで。
ヒメコは恐る恐る自販機から出てきたお茶の缶を取り出し、しばらくの間、ぎゅっと握りしめた。
しかし、呆然となったのも束の間で、缶の蓋を開けてちびちびと飲み始めた。
「・・・ありがとう」
そう呟く彼女に、俺は聞こえないとわかっていても言った。
「どういたしまして」
ヒメコは横を向いたまま、温かいお茶をゆっくりと飲み続けた。
「なんていうかさ。自分を無茶苦茶に壊したかったんだよね」
俺の定位置と化しているベンチに座り、飲み干したお茶の缶を握りしめながら、ヒメコは言った。
「なんか、色々なことがどうでもよくなる瞬間ってあるじゃん?学校に行くことも、友達との予定も、自分の将来のことも。そういうのひっくるめて、自分の世界の全部をぶっ壊したいと思った」
ヒメコは家に帰る気がなかった。
もともと、そのつもりだったのかもしれない。
学校をさぼったのだから、あの両親が黙っているわけもない。家に帰ればまた喧嘩が始まるのは目に見えている。
「だから、手っ取り早く壊す方法を考えた時、自分の貞操を捨てようって思いついた」
ヒメコはSNSで通じた人の家に泊まる予定だった。あのエイドとかいう男に援助してもらおうと考えていたようだが、途中でやはり怖くなったらしい。
「私、初めてがまだなんだよね。そりゃあやっぱり初対面の人とそういうのは怖いよ。でも自分を壊すためには、そういうの気にしてらんないじゃん?でも、最後の最後で初めては特別な人にあげたいって気持ちが急に出てきてさ」
大抵そうやって家出少女を泊めてやろうと考えている連中は、その対価を求めているわけで、ヒメコのような経済的にも裕福ではない年頃の少女にとっては、泊めてもらったお礼の仕方なんて、一つしか思いつかない。
ヒメコも当然それを考えていたようだが、最後の最後で恐怖が勝ってできなかったようだ。
「笑っちゃうよね。自分をぶっ壊したかったって言っときながら、やっぱり自分が可愛くてしょうがないんだよ。覚悟はできたって思っていただけで、内面は臆病なまま。本当にわたしって駄目な奴だよね」
自嘲気味に言った後、ヒメコは項垂れて深い溜息を吐いた。
「・・・本当に、駄目な奴」
俺の知っているヒメコは、一言で言えば厚顔無恥だった。
平気で人の嫌がることを好き好んでやったし、自分に絶対的な自信があって、どんなに間違っていることでも、それが常識なのだと周囲に認めさせる強引さがあった。
そんなことをしつつも、周囲からの批判を回避し、自分の味方に引き込ませる能力もあった。
ところが、目の前にいるヒメコは、そんな厚顔無恥さとは程遠い、弱い人間だった。
自分のことなんてどうでもいいと強気に振る舞いつつ、その内心は臆病で不器用な、どこにでもいる思春期の少女だった。
俺は近くに落ちていた木の枝を拾い、ヒメコの足を軽く突いた。
「ん?何?」
ヒメコが顔を上げるのと同時に、枝で地面に文字を書いていく。
「相手の男とはいつから知り合っている?」
「ああ、エイドさんのことね」
枝が勝手に動いて字を書いているこの状況に、ヒメコは驚きもせず、普通に答えた。
「つい先週かな。アプリで頻繁にやり取りしてて、趣味も合うし、話してて面白かった。まさかアラサーだとは思わなかったけれど」
ヒメコは他人事のように淡々と語る。
今の彼女は、自分のことすらどうでもいい、と思っている自分でありたいのだろう。
「オラオラしてる男じゃなかったから、この人なら初めてをあげてもいいかなって思ったんだよね。そりゃあ、乱暴されるのは嫌だし」
だが、そこで彼女は何かに気づいたように、「あっ」と声を上げた。
「それだと変か。自分をぶっ壊したいのに、手段を選ぶなんてさ。そこは誰彼構わずヤリまくる方がいいか」
自分の言葉の矛盾に気づいて、ヒメコはまた自嘲気味に笑った。
「やっぱり、私はどうしようもないね。自分を壊すなんて言っときながら、その覚悟なんかこれっぽっちもなかった」
そんなヒメコに、俺は自分でも以外だと思う言葉をかけた
「自分を大事にすることは悪いことじゃない」
地面に書かれたその文字をヒメコはじっと眺めた後、静かにこう言い放った。
「ねえ、あんたは死にたいって思ったことはある?」
不吉な単語に、俺は思わずヒメコを見る。
「私は何度もある。というか今時、そう思ったことがない人間の方が少ないんじゃないかな?」
確かにそうかもしれない。
俺だって、一度や二度の話ではないから。
しかしそう思った原因の一つは、今こうして俺に問いかけてきた目の前の彼女と、その親にあったのだけど。
「学校でさ、何度か自殺防止の講習会があったんだけど、皆揃って言うんだよ。『生きていれば何かしら良いことは起きる』って。『自分の命は自分だけのものじゃない』ってさ。確かに、その講習会で話をした人の中には、実際に自殺未遂を起こした人もいたから、説得力がないわけじゃない。でも思うんだよね。その人達はたまたま運が良かったんだってさ」
お茶の缶をベンチに置いて、ヒメコは夜空をじっと見上げながら更に続けた。
「だって、これからを生きるのが怖いって思った時、じゃあどうすればいいんだろって思う。明日も誰かに非難されて、死ぬほど殴られるってわかっている人はどうすればいいの?逃げ場のないほど追い詰められている人は、どうすればいいの?ってさ。その人達は、本当に自分の力じゃどうしようもない辛い経験を本当にしてきたのかなって」
ヒメコの言いたいことはなんとなくわかる。
人が死ぬのに理由なんていらない。
人は自分の人生に意味があるのかという疑問を抱くが、自分の死に価値があるのかについてはあまり考えない生き物なのだ。
そこまで思って、ふと考えてみる。
では、死の価値とは何だろう。一体何を基準に価値を決めるのだろうか。
自分の死に涙を流す人の数か、はたまたその人の死で発生する損失なのか。
もし、両方だとしたら、俺が死ぬ価値はゼロだと思う。
「人ってさ、単純な理由でも命を絶ててしまうんだよね」
ヒメコが再び語りだし、俺はまた彼女の言葉に耳を傾ける。
「生きていくのが辛いとか、あらゆる苦しみから楽になりたいとか、大きな絶望を感じて未来に希望を抱けないとか。若者の自殺が増えているってテレビではよく言ってるけれど、若くない人たちが、若者の自殺率を見て首を傾げながら、的外れな自分の考えを述べ連ねてるのは馬鹿馬鹿しいなって思うよ。『自殺はよくない』、『生きていればなんとかなる』ってさ。大人たちは皆言っている。でも、そんな言葉にすら希望を抱けないくらい、今の世の中は腐ってるって、なんで気づかないのかな」
暗闇の中でも、ヒメコの瞳から一滴の涙が零れ落ちたのがわかった。
彼女も、この不幸な社会の犠牲者で、その犠牲者の気持ちを代弁しているかのようだった。
「私だって、自分が生きていることも死ぬことにも意味も価値も見いだせていない。生まれた時から両親の言いなりになって、できなければ言葉と暴力で追い詰められて、挙句にそんな両親に見捨てられる。学校にも家にも、どこにも自分の居場所がなくて、起きている間はずっと周囲への恨みつらみを抱くことしかできない。少なくとも私には大人たちの台詞は響かないよ」
俺にもそんな時期があったからわかる。
世の中の全てに気持ちだけでも反発して、自分はこう思うから認めたくないと意固地になった頃が。
でも、今の俺も少なからず思っている。
今生きていくので精一杯という中で、幸福な未来を描くことなんかできないし、そもそも不幸な現実から逃れる選択肢がないのであれば、究極の手段に出るしかない。
ヒメコの言う通り、理由はいつだって単純なのだ。
単純な理由で、人はいつだって命を絶ててしまう。
「あんたはさ。自分で死を選ぶことも、その人に与えられた権利だと思わない?」
その問いかけに、俺はさらに質問で返した。
「今のお前は死にたいのか?」
「・・・わからない」
俺の問いかけに、ヒメコは力なく答えた。
「今の私は、生きながらにして死んでいるようなものだもの」
ヒメコは前かがみになり、顔の前で両手をぎゅっと握りしめ、額を当てながら言った。
「私はずっと、自分の親の呪縛から逃れられない。そして、この世界にも縛られている。まるで操り人形みたいに、親の言うとおりに勉強して、いい大学に入って、一流企業に就職する。でも、もしかしたら、親も操られてるのかもしれないよね。この世界にはびこっている、『当たり前』っていう言葉にさ」
ああ。だから「ドール(人形)」か。
メールにあった偽名は、そういう自分への皮肉が込められていたというわけだ。
「・・・お腹すいた」
ヒメコがそう呟いた直後、俺の腹も少し鳴った。
散々自分の境遇への不満を漏らし、それを静かに全て聞いていた俺たちには、今は休息と食事が必要というわけだ。
「この後はどうするつもりだ?」
そう書き出すと、ヒメコは首を横に振った。
「言っとくけれど、家には帰らないよ。今更帰ってもろくなことないし」
そうだよな、とは思う。
だとすると、どこに行くべきか。
少し頭をめぐらして、一つだけ良い場所を思いつく。
あそこなら、きっと彼女も受け入れてくれるだろう。
俺は地面に、その場所への住所を書き出した。
「・・・ここ、だよね?」
白い団地の建物を見上げながら、ヒメコは疑り深そうな顔をした。
「本当に、ここに私を受け入れてくれる人がいるわけ?」
肯定しようにも、ここはアスファルトなので、地面に何かを書けるわけでもない。
今はただ、彼女に信じてもらうしかない。
ちなみにサクラを経由して、ここに俺たちが来ることは、ハルとチヒロさんには伝えている。
ちなみに今日はチヒロさんは夜勤で夜遅くまで帰らないらしいので、今は家にハルしかいないことになる。
「その、ハルって人は、あんたのことがわかるんだよね?」
俺に回答する手段がないことはわかりつつも、ヒメコはそう尋ねてきた。
少し緊張しているようだった。
「・・・まあ、とりあえず行ってみるか」
一歩踏み出すヒメコの後に、俺も続いていく。
ヒメコは恐る恐る階段を上がり、ハルの部屋へと少しずつ近づいていく。
階段の蛍光灯も、薄気味悪い感じでぼんやりと灯っていて、余計に彼女の足取りを重くしているようだった。
ハルの部屋の前に来ると、ヒメコは深呼吸してインターホンを鳴らした。
「はーい」
しばらくしてインターホン越しにハルの声が聞こえてくる。
「あの・・・サクラさんの紹介で来ました。ヒメコです」
「あっ、今開けますね」
ヒメコは周囲を少し見渡しながら、ハルがドアを開けるのを待った。
やがて、鍵の開く音と共に、白杖を持った部屋着のハルが出てくる。
どうやら風呂上がりなのか、黒い髪が少し濡れていて艷やかに光っていた。
「すみません、おまたせしました。どうぞ」
「あっ」
ヒメコはハルを見て驚いている。
彼女が通り魔に襲われたあの日に、救急車を呼んだのがハルだったから、再びこんな形で会うことになるとは思っても見なかったのだろう。
「何か?」
「あっ、いえ、なんでも、ないです」
ヒメコはバツが悪そうな顔をして、ハルに促されるまま部屋に入っていった。
「今日はカズオさんが連れてきてくれたんですね」
ハルは嬉しそうに笑い、ヒメコは背後をキョロキョロと見渡して、すぐに納得したようだった。
リビングに入り、ハルに座るように言われたヒメコは、遠慮がちに椅子に腰掛ける。
「今、飲み物出しますね」
そう言って、ハルは冷蔵庫から小さめのお茶のペットボトルを1本取り出した。
「すみません。こんなものしか出せないですけれど」
慣れた様子で、ハルはテーブルにペットボトルを置いた。
その一連の様子を、ヒメコは無表情な顔で見ていた。
「こいつ」
「えっ?」
「カズオって言うんだね。知らなかった」
そういえば俺の名前を、まだヒメコには伝えていなかったことを思い出す。
「なんだか、ありきたりな名前だね」
「うーん、私はそうは思わないですけれど」
ハルも椅子に腰掛け、白杖をテーブルに付けられた金具に固定して立てかけた。
「・・・・」
それからしばらく2人は黙ったままでいた。ヒメコはペットボトルを見つめ、ハルはその場でじっと固まっている。
「あっ、母は今夜は遅いので・・・」
「知ってる。サクラさんから聞いた」
「あっ、すみません・・・」
この空気に俺もいつまで耐えられるか自信がなかったが、仕方なく彼女たちの横で佇んだ。
「・・・あの時はありがとう」
「えっ?」
「昨日、救急車呼んでくれたでしょ?私が襲われた時」
「・・・・」
「気づいてるよね?あれが私だって」
ヒメコに追求され、ハルは戸惑いながら小さく頷いた。
「はい。声を聞いて、もしかしたらとは」
「あの時は、ごめんなさい」
「えっ?」
ヒメコは慣れない様子で、ハルに頭を下げた。
「目が見えないってわかってたけれど、酷いこと言っちゃったから」
「そ、そんな、気にしないでください」
「そうは言っても、やっぱり良くないことだったから」
なんというか、こんなに律儀なヒメコも珍しい。
まあ、別の世界のヒメコなんだから、それもそうかと思う。
とはいえ、見ていて悪い気はしなかった。
「おまけに、こんな私を泊めてくれるって言ってくれたし」
それを聞いて、軽く戸惑っていたハルは、少し悲しい顔をし始めた。
たぶん、ヒメコの事情に少し心を痛めているのかもしれない。
「えっと、その・・・」
「サクラからどの程度聞いてる?」
「あ、あんまり詳しくは・・・」
「そっか」
ヒメコは深く椅子にもたれかかり、腕を組んでみせた。
「まあ、聞きたければ話すよ」
「そ、その・・・」
ハルはどうするべきかまた戸惑った。
ハルでなくても、俺だって尋ねるべきか迷う内容だし、その反応は仕方ないと思う。
それにしても、こうして他人の家で堂々とした態度を取るところは、やっぱりヒメコなのだと思った。
またしばらく沈黙が流れたが、そこでふとヒメコが周囲を見回しながら、ハルに聞いた。
「そういえばさ、ハルさんはカズオとは知り合いなんだよね?」
「えっ?あっ、はい」
「普段、どんなふうに会話してるの?」
「えっ!あ、その・・・」
それを聞かれて、ハルは少し恥ずかしそうに顔を俯かせた。
俺も、それを答えられてしまうと、少し恥ずかしかった。
「いや、なんか気になってさ。それに、ハルさんがいるなら、こいつともっと話もできるし」
悪意はなさそうだし、たぶん興味本位で聞いているだけなのだろう。
「・・・私の手に、字を書いてくれるので、それを読んで・・・」
「えっ!マジ?」
しかし、それでも真面目な性格のハルは、律儀にヒメコの問いに答えてしまった。
それを聞いてヒメコも引いているのがわかった。
「えっ!いやいや、あんたらって、そういう関係なの?」
「なっ!いやっ!そういうわけでは・・・」
「ていうか、そもそもカズオって・・・」
ヒメコがそれ以上言わないように、俺は彼女の椅子を軽く蹴った。
ヒメコには事前に、ハルは俺が見えない存在だということを知らないと伝えていた。
そう言っておかないと、ハルが俺の真実に気づいてしまうからだ。
「・・・い、いや、なんでもない」
ヒメコはしまったという顔をして、軽く咳き込んだ。
「ともかくさ、ハルさんがいればカズオとも会話できるってことだよね?」
「えっと、まあ、そういうことになるかもしれませんが」
「そっか。じゃあ、今度はカズオのこと、色々聞かせてほしい」
なんだか、先程のよそよそしさはどこへやら、ヒメコは興味津々そうに言った。
俺は溜息を吐いた後、ハルの手を取って、彼女の手の平に文字を書いていく。
「・・・『何を聞きたいの?』って言ってます」
俺の書いた字を、ハルはそのままヒメコに伝えた。
「えー、そうだなー」
そうやって、しばらく考えていたヒメコだったが、やがて困った顔をし始める。
「・・・ヤバ、いざとなると何聞けばいいのか、思いつかないんだけど」
その様子に、俺もハルもくすりと笑ってしまった。
「いやー、なんというか、こういうときって、何を聞いたら良いのか、何故か頭の中から飛んじゃうんだよね。そういう経験あるでしょ?」
「はい。私もありますよ」
「あー、何聞こうとしたんだっけ」
そうやって頭を抱えるヒメコと、それを見て微笑むハル。
そして俺は、そんな2人を見ながら、ほくそ笑んでいた。
なんだか、こういう感じも悪くないと思う。
ここにヒメコを連れてきたのは正しかったと、確信を持って言えた。
それから1時間ほど、ヒメコとハルはお互いのことを話した。
すっかり饒舌になったヒメコは通っている学校のことや両親との確執を。
ハルは職場のことやいつから目が見えなくなったかについて。
自分のことを相手になるべく聞いてもらいたいという思いが、2人の放つ言葉の一つ一つに滲み出ていた。
お互いの趣味のことについても話していた。
ヒメコは意外にも読書家で、毎日必ず1冊は本を読むようにしているらしく、ハルは好きな音楽のことを話した。
「今読んでるのは、ロアルド・ダールの短編集なんだけれど、結構面白いよ。特に『南から来た男』はオススメ」
「そうなんですね。でも、私は字は読めないのですが」
「最近は、聞く読書っていうのもあるよ。声優とかが朗読してくれるやつ。アプリをダウンロードすればいいだけだから」
すっかり、女子の会話になってしまい、俺の出る幕はなかった。
本気でヒメコはここで一夜を過ごすつもりなのだろう。
まあ少なくとも、得体のしれない輩と寝床を共にするよりはかなりマシだが。
「・・・・」
ふと、スマホを取り出してハルにアプリを教えていたヒメコの手が止まった。
「どうされましたか?」
「・・・親が電話してきてた」
俺が少し覗いてみると、ヒメコのスマホの画面には10件以上の着信が来ていた。
「・・・今日はどうされますか?」
ハルがそう聞くと、ヒメコは一旦渋い顔で考えた後、すくっと立ち上がった。
「今日は帰るわ。やっぱりいきなり他所様の家に泊まるのは、申し訳ないし」
「大丈夫ですか?」
「うん。なんとかする」
ヒメコはそう言って、少し苦しそうな面持ちで自分の荷物を手に取った。
ハルも立ち上がり、ヒメコを玄関まで送っていく。
「ねえ」
ヒメコはドアノブに手をかけて、ハルの方を振り返っていった。
「また、ここに来てもいいかな?」
それを聞いたハルは優しい笑顔を浮かべる。
「はい。いつでも来てください。また、お話しましょう」
「ありがと」
ヒメコは照れくさそうにして、玄関のドアを開けた。
一気に冷たい空気が部屋の中に流れ込んでくる。
「今日は本当にありがとう。お邪魔しました」
「はい。お気をつけて」
ペコリとお辞儀したヒメコに、ハルは軽く手を振って返す。
ドアを閉めた後、ヒメコは深呼吸をして、階段を降りていった。
「さて、どうすっかなー」
軽くぼやきつつも、その顔はやっぱり硬い。
大方、あの親になんて言い訳をしようか、考えているところなのだろう。
「今もいるんだよね?」
団地を出た辺りでそう聞かれたので、俺は道に落ちていた大きめの石ころを少し蹴ってみる。
それを見たヒメコは、うんうんと頷いていた。
「あの時は聞かなかったけれどさ。あんたのことについて、色々と聞きたいことは山程ある」
真顔で歩きながらヒメコはそう言ってきた。
「まず、なんでそんな風に他の人間には見えないのか、とか。そもそも人間なのか。人間だったら名前からして男なんだろうけど。あの場だとハルさんを通して聞きにくい内容だったろうし」
どうやら、ヒメコなりに状況を見て配慮をしてくれたらしい。
そういうところは、かつての世界でのヒメコも見習ってほしいところだった。
「まあ、いつかは教えてもらうから。今日のところは、あんたがいるっていうことだけわかればいいや」
なんだか吹っ切れたような台詞ではあるが、その割にヒメコの足取りは重たそうだった。
それから30分程かけて、ヒメコは家に辿り着いた。
「・・・明日もいるんだよね?」
家の正門の前で、ヒメコは立ち止まってそう聞いてきた。
「イエスなら、なんか反応してみせて」
そう言われたので、俺は正門を開けて見せた。
「そっか」
ヒメコは納得したように、そのまま家の敷地に入っていく。
「じゃあ、今日はありがとう。明日もよろしく」
そう言って家の中に入っていった。
心なしか、ドアの開く音がいつもよりも鈍く感じた。
ヒメコが中に入っていくのを見届けて、一旦後ろを振り返る。
「よっ。今日も寒いね」
すると、待ち構えていたかのように、ガードレールに腰掛けたサクラがいた。
「ああ。そうだな」
「妹ちゃん、案外鋭いんだね」
「まあ、昔からそういうところは・・・」
俺が言いかけたところで、家の方から何かが割れる音と、騒がしい鈍い音が響いた。
それに続く、曇った怒鳴り声と甲高い悲鳴。
俺とサクラはそれをじっと見ているだけだった。
「行こうとしないんだ」
サクラにそう指摘されて、俺は自分が至って冷静であることに気づいた。
「以前の君だったら、すぐに駆けつけたのに」
「・・・あいつなら、大丈夫だと思ったから」
今の俺は、ヒメコのことを憎む気持ちが和らいでいる。
助けに行かないのは、彼女が嫌いだからではない。
ヒメコなら、こういう状況下でもなんとなく上手くやれそうな気がしたからだ。
「信頼してるってことでいいわけ?」
「どうだろうな」
信頼、か。
さすがにそこまでヒメコを認めたわけではない。
ただ、なんとなく、ヒメコは打たれ強いと考えを改めただけだ。
彼女ならなんとかできる。
俺の感覚が、そう言っている。
「ふーん。そっか」
すると、サクラは俺の頭をポンポンと撫で始めた。
「君も成長したね」
「それもどうだろうな」
俺もガードレールに腰掛けて、家の動向を観察した。
「正直、そこまで自分があの頃よりも変わったとは思ってないよ」
「変わることと成長は違うよ」
サクラはパーカーのポケットに手を突っ込んでそう言った。
「変わるとは今までと180度違うことをすること。成長とは自分の中にあるものをさらに昇華させていくこと」
「ほう」
「だから、君の中にある優しさや人を労る気持ち、人を信じて汲み取る気持ちが、また一つ上の段階に上がったってことだよ。今、妹ちゃんに対して思っている気持ちは、本来君が持っていたものってこと」
だとしたら、俺はヒメコのことを完全に憎みきれていなかったというのか。
いや、そうじゃない。
俺の中にある思いやりとかが、ヒメコにも向けられたということなのだろう。
「そういうこと。だから成長したんだねって言いたいわけ」
「なるほどな」
サクラの言葉は不思議だ。
すっと俺の中の深いところに溶け込んでいく。
だから、俺は元気づけられるのだろう。
俺の心地よさとは裏腹に、家の方はまだ荒れそうな雰囲気が出ていた。
「ところで、君に伝えておくことがある」
「何だ?」
「リョウジの遺体が見つかった」
サクラのその一言で、俺はまた自分の仕事を思い出してしまった。