妹は夜道を歩く
キーボードを叩く音と共に、機械的な声が単語を発音していく。
視覚障害者専用の入力ソフトによる読み上げ機能だ。
機械的な音声は小さな声で文字を読み上げていく。
以前、スドウが、この音声が耳障りでうるさいと上司に報告して以来、ボリュームはかなり低めに設定したものの、時折、周囲のコピー機の駆動音や雑談などでかき消されることもあったので、ハルはイヤホンを通じてその音を拾うようになった。
イヤホンをしていると、今度はスドウは「業務中に音楽を聞いている」と嫌味を言ってきた。だが上司には使用の許可を得ているので、ハルは極力無視していた。
目が見えない分、ハルは聴覚や触覚に神経を集中させて周囲の状況を把握している。
普段の生活では特にそうでもないが、仕事となるとあらゆる情報を取得する必要が出てくるため、否応なしに神経を使ってしまう。
その分、日々の疲労感も大きいが、それに加えてスドウのような性格に難のある人間の相手もしなければならないので、ハルは相当なストレスを抱えていた。
だからだろう。この間のカズオとのデートはいいリフレッシュになっていた。
あの後、家に帰ってすぐにハルはぐっすり眠ることができた。
夢を見ることもなく、いつの間にか気づいたら朝になっていて、すっきりとした気持ちで起きることもできた。
あんなに幸せな気持ちで朝を迎えられたのは、いつぶりのことだろう。
あの日のことを思い返しながら、ハルはキーボードを打ち込んでいた。
「ちょっと、あんた」
背後からスドウの鋭い声が聞こえる。
「は、はい」
ハルが声の方に振り向くと、スドウが舌打ちをしてきた。
「なに一人でニヤニヤしてるのよ。気持ち悪いんだけど」
「えっ!あ、その、すみません」
そう指摘されて、ハルは恥ずかしくなって顔を俯けた。
「そんなに仕事が好きなら、これも頼むわね」
すると、スドウはハルの机に分厚いファイルを投げ捨てるように置いた。
「えっと、スドウさん」
「何?まさかできないって言いたいの?後輩のくせに先輩の振った仕事ができないわけ?」
「い、いえ、そうではなく」
ハルが言わんとしていることは、そのファイルが紙であるから仕事ができないということだった。
大方、ファイルの資料をデータ化する仕事なのだろうが、紙で書いてある以上、ハルは読むことができないため、そもそも仕事にすらならない。
普段はデータ化された資料をもらって、それらのチェックや自社のクラウドシステムに入力するのがハルの仕事である。
それを伝えたくても、スドウの強い口調と態度に、なかなか言い出せずにいた。
「なんなのよ。はっきりしなさいよ。ていうか、そんな風にナヨナヨしてるから、タケシタさんから言い寄られたんじゃないの?」
その言葉に、ハルは体を強張らせた。
「そうやってきっぱりと断らないから、タケシタさんもいい気になってあんたにセクハラしたんじゃない。自分で種を撒いてるくせに被害者ぶってさ。少し若いからっていい気になってんじゃないの?」
「そ、そんなつもりは・・・」
「へえ。だったらどういうつもりよ?あんたはいつだって自分の芯がないものね。障害者だから人に助けてもらえることに慣れすぎて、自分ってものがないんじゃないの?」
スドウはハルを貶しつつ、周囲の女性社員の方もチラチラと見ていた。
まるで自分の言動は正しいと、同意を求めているようだった。
周囲の女性社員は、自分も巻き込まれたくないのか、否定も肯定もせずに、ヘラヘラと愛想笑いをしている。
「障害者だからって人に甘えすぎ。いつでも人が助けてくれるなんて思わないことよ」
スドウは勝ち誇った顔でそう言った。
「人に助けを求めることの何がダメなんですか?」
だが、そこに横槍を入れるように、ヒロキのハキハキとした声が響いた。
「誰だって、自分にどうしようもないことがあれば、人に助けを求めても良いと思います。犯罪者に出くわしたら警察を呼ぶし、火事や事故があれば消防隊を呼びますよね?それとも、スドウさんはそれらも全てご自身で解決なさるんですか?」
ヒロキはハルとスドウの間に入り、スドウを冷静な表情で見下ろした。
思わぬ援軍に、スドウは少し焦ったような表情をする。
「べ、別にそういう大げさなことを言ってるんじゃないわよ!この子はなんでも人に頼り過ぎだって言ってるの!」
「ハルさんはまだ若いですし、それに障害者です。新人に適切に教えることは年長者の仕事ですし、障害を持っている人を助けるのは社会のマナーです。決して甘えなんかではなく、合理的な配慮です」
その言葉に、スドウは悔しそうに目線を逸らせた。
ヒロキはまだ転職したばかりとはいえ、今では大きな仕事も任せられているし、上司からも一目置かれている。
そんな人間を敵に回すのは、スドウとしても良くないと思っているようだった。
「それに、タケシタさんの件は詳しく知りませんけれど、セクハラは行った人間に100%非があります。された人間は何も悪くありません。いつ誰が被害に遭うのかわからないのがセクハラですし、ハルさんを責めるのは筋違いだと思いますが?」
「な、何よ。最近入ってきたくせに」
自分より若い人間に言いくるめられたことに憤慨したスドウは、顔を真っ赤にして苛立ったように去っていった。
「ハルさん、大丈夫?」
「あ、はい。ありがとうございます」
思わぬ助けに、ハルは恥ずかしそうに頭を下げた。
ヒロキはハルのテーブルに置きっぱなしにされていた、スドウの持ってきたファイルを手に取り、中を開いて眺めた。
「・・・これは僕がやっておくから、ハルさんは自分の仕事に戻って大丈夫だよ」
「えっ、でも・・・」
ハルは遠慮しようとしたものの、ヒロキはすでにファイルを持って自分の席に戻っていってしまった。
その後、段々と周囲から感じる雰囲気が、自分の体に刺さっていくような感覚を覚えた。
ヒロキに助けられたことに対する女性社員からの嫉妬。そして何も言い返せなかったハルを情けないと思う憐憫の眼差し。
徐々に突き刺さる人の負の感情に、ハルは気持ち悪さを覚えていく。
またキーボードを触ろうとしたものの、たまらずハルはトイレへ向かった。
「ハルさん」
1時間の残業を終え、ビルの自動ドアをくぐると、ハルの方に手を振る人影があった。
「その声は、ヒロキさん?」
ハルがそう声を掛けると、ヒロキは少し駆け足で彼女の下に駆け寄ってきた。
「お疲れさまです。これから帰宅ですか?」
「え、ええ。まあ・・・」
「実は、僕もこれから帰ろうと思ってたところなんです」
ヒロキは笑顔を浮かべて、こう切り出した。
「よかったら、途中まで一緒に帰りませんか?」
「えっ!」
「ハルさんってバスですよね?僕も途中まで同じ方向なんですよ。だからご一緒しても良いかなって思いまして」
突然の誘いに、ハルは困惑したものの、断るのも変な気がして、コクリと頷いた。
「別に、大丈夫ですけれど・・・」
「よかった。じゃあ、早速行きましょうか」
ヒロキは無邪気な笑顔を浮かべながら、ハルと並んで歩き出した。
ハルの歩く速度に合わせるように、ヒロキはゆっくりと歩幅を揃えて一歩一歩踏み出している。
しばらく、お互い何も言わずにいたが、ヒロキが「ここ最近は過ごしやすいですね」と当たり障りのない会話から仕掛けてきた。
「とはいえ、もうすぐ寒くなってくるそうですけれど、ハルさんは寒いのは苦手ですか?」
「えーっと、私は寒いのも暑いのも苦手です」
「奇遇ですね。僕もそうなんですよ。やっぱり、秋みたいに暑さも和らいで、それでいて寒すぎない季節が好きですね。ハルさんは季節だとやっぱり春が好きなんですか?」
「えっ?どうしてですか?」
「いやー、なんとなくご自分のお名前と同じ季節が好きなんじゃないかと思いまして」
「私は、特にそういうわけでは・・・」
「ああ、すみません。でも、素敵な名前ですよね」
ヒロキは頬を掻きながら苦笑した。
こういう時、ハルはどんな会話をしたらいいのか、よくわからなくなる。
カズオの時はすらすらと話ができるのに、何故かそれ以外の異性と話をするのが得意ではない。
そうこうしているうちに、目的のバス停へと到着した。
バスはまだ到着しておらず、少しだけ人が列を作っている。
「次の到着まで少し時間がありますね」
ヒロキは時刻表を見ながらハルに語りかけた。
「あと5分くらいか。この時間になると、どうもお腹が空いてきちゃいますね」
「え、ええ・・・」
「今夜は何を食べるか決めてたりするんですか?」
「いえ、特には。いつも母が帰ってきて作ってくれるので」
「ああ、ご両親と暮らしているんですね」
「あっ、その・・・私、父はいなくて」
「おっと、それはすみません」
途端にまた気まずくなってしまい、ハルは早くバスが来ないか焦りだした。
「・・・すみません。僕といても面白くないですよね」
そう言ってヒロキは苦々しい顔をする。
「昔から、人とこうして話すのが得意じゃなくて。ハルさん、今日もスドウさんにいびられていたから、ちょっと心配して声をかけようと思って」
「えっ」
「余計なお世話でしたよね。すみませんでした。ちょっとカフェでも行って時間潰してきますね」
ヒロキはそう言って、足早にバス停から離れようとした。
「あっ、待ってください」
そんなヒロキをハルは少し大きな声で呼び止める。
その声に、列をなしていた人たちがちらっとハルの方を見た。
ヒロキは立ち止まって、ハルの方を見る。
なんとなく。なんとなくだが、このままだと失礼な感じがする。
それに、彼に心配をかけさせてしまったことに、少しだけお詫びをしないといけない気もした。
「えっと、その・・・私も一緒に行ってもいいですか?」
バス停近くのカフェに入ったハルとヒロキは、店員に窓際の席へと案内された。
ショウウィンドウ並に大きなガラス窓からは街を行き交う人の姿がよく見えるが、ハルにとってはそんな景色は見えないので、店内の音で周囲の雰囲気を感じ取るしかない。
流れてくる落ち着いたボサノヴァと、人の話し声、そして食器の触れ合う固い音。
普段、カフェに行くことのないハルにとっては、そのどれもが新鮮だった。
「すみませんね。付き合わせてしまって」
「いえ、いいんです」
ヒロキがコーヒーを2人分、トレイで持ってきて、1つをハルの手前に置いた。
コーヒーカップに淹れられた闇色から、ふんわりと大人の香りが漂ってくる。
「いい香りですね」
「ええ。ここのコーヒーは安いのに美味しいんです」
ヒロキは早速、カップに口を付けた。
ハルもミルクを混ぜてから一口飲んで、胸の奥にずんとくる深い味わいをしばらく楽しんだ。
「普段からよく行かれるんですか?」
ハルがそう尋ねると、ヒロキは笑顔で頷いた。
「はい。仕事終わりとかによく。出勤前にもテイクアウトしますしね」
「コーヒー、本当にお好きなんですね」
ハルは少し笑顔を浮かべた。
先程までの緊張感は、今はない。
店の雰囲気によるものなのか、それとも美味しいコーヒーを味わっているためか。
「私、実はカフェとかは初めてで」
「そうなんですか?」
「ええ。やっぱり一人で来るのは、どうしても勇気がいるので」
「なるほど・・・」
ヒロキはしばらく考え込むような間をおいた後、遠慮がちに言った。
「・・・ハルさんは、障害を持つ自分が嫌いですか?」
「えっ?」
「嫌な質問だったらすみません。ただ、いつもスドウさんに障害を持っていることを馬鹿にされたり、嫌がらせされているので、どう思っているのかな、と思いまして」
「・・・できれば、こんな体でいたくはないですね」
ハルは俯きがちにそう言った。
「嫌がらせを受けているから、というよりかは、他の人の足手まといになっているからですね。私がもっと一人前になんでもできるようになれば、そんなことも言われないですし、他の人からも信頼されるのにって」
「でも、努力でどうにかできることと、できないことはありますよ」
「そうかもしれないですけれど、自分でどうにかする以外、方法がないですから」
ハルは力なく笑うが、そんな彼女をじっと見つめながら、ヒロキはコーヒーをまた一口飲んだ。
そして、スーツのジャケットの内ポケットから、1冊の小さな手帳のような物を取り出した。
「・・・ここだけの話なんですが、僕も本当は障害者なんです」
「えっ」
ヒロキはそう言うと、ハルの手に先程の手帳を触らせた。
「これ、障害者手帳です。まあ、僕の場合は、精神障害なので、見た目でわかるものではないですけれど」
「そうだったんですね」
「理由があって、会社には内緒にしています。今のところは業務も支障がないですし、あの会社にいる限り、その方が都合がいいので」
「・・・・」
ハルが障害者手帳から手を離すと、ヒロキはそれをジャケットの内ポケットにしまった。
「僕も昔はよく思いましたよ。人の足手まといにならないように、頑張らないといけないって。でも、そもそも僕達は健常者とスタートラインも違うし、できないことの方が圧倒的に多いんです。それでも工夫しながら毎日を生きている。これ以上、何をどう努力すればいいのかなって、ある時思ったんですよ」
ヒロキは腕を組んで、窓の外の景色に目をやりながら話を続けた。
「僕も前の職場ではいじめを受けていました。当時は障害者枠で働いていましたけれど、障害者だから仕事ができないと一方的に決めつけられて、たくさん傷つけられました。だから、今のハルさんを見ていると、昔の自分を思い出すんです。今、ハルさんがスドウさんから受けているのは、立派ないじめです。仕事ができないからなんて、スドウさんの言い訳にすぎませんよ」
「そうでしょうか?」
「ええ。ハルさんは充分頑張ってますよ。これ以上、どうしたってスドウさんの態度は変わらないと思います。それよりも、僕としてはハルさんが当時の僕みたいにならないかが心配です」
ヒロキはさらに力強い言葉で言った。
「僕はいつだってハルさんの味方ですから。僕で良ければいつだって相談に乗りますよ」
そう言われたハルは、少し戸惑いつつも、悪い気分はしなかった。
「あ、ありがとうございます」
ハルがペコリとお辞儀するのを見たヒロキは、少し笑みを浮かべた後、腕時計に目をやった。
「バス、行っちゃいましたね。すみません、なんだか」
「い、いえ」
確か、次のバスは15分後だったと思う。
ハルはカップの縁に手を当てた。
「今日は少し、ゆっくりしてから帰ります」
店の雰囲気か、コーヒーの香りの所為か、なんとなく、今日は少しぐらい寄り道しても許されそうだとハルは思った。
ここの所、ようやく秋らしい肌寒い日が続いていた。
もうしばらくすると、この神社の周囲も紅葉に染まるのだろう。
春の神社も好きだけれど、秋の神社もなんとなく落ち着いていて雰囲気がいい。
朝の仕事を終えて、昼頃はずっとベンチに寝転がってうたた寝をしていた。
時折吹いてくる風が心地よくて、さらに眠気を誘ってきた。
「おっす」
そこに駆け足でサクラがやってきた。
「よお」
「いつも思うけどさ。この場所でよく寝れるよね」
サクラは不思議そうな顔で俺の顔を覗いてきた。
「まあ、ここの方が落ち着くから」
「でも、背中痛くならないの?」
「それはもう慣れた」
ゆっくりと体を起こし、うんと背伸びをする。
「まあ、今日は良い昼寝日和だもんね」
確かに、空は青いし風は心地よい。陽の光も妙にポカポカしている。
「休めるうちに休んでおかないとな」
「そうだね」
サクラは俺の隣に腰掛け、スマホをいじり始めた。
「あれから連絡はあったか?」
「いや、ないね。今日が会う予定の日だけれど」
しばらくスマホを注視していたものの、サクラはため息を吐いてスマホをパーカーのポケットにしまった。
「あの依頼、受けるんだな?」
「まあ、来る者拒まずだからね。基本は」
最近、俺とサクラが依頼用に使っているメールアドレスに、1件のメールが届いた。
『はじめまして。ドールと言います。
私は現役の高校生です。
ネットでこのアドレスのことを知って、連絡してみました。
仕事の内容は、絶縁と復讐です。
相手は私の両親と、昔つるんでいた友達です。
金額は相談させてください。
5日後に直接お会いして、詳細を話させていただきます。
よろしくお願いします。』
それ以外の情報は書かれていない。
大抵、依頼主は最初、偽名やニックネームを使ったりすることもよくあるし、名前は特に重要でもない。
サクラは5日後に会う場所を、この神社に指定した。
そして、時間は今夜の7時。
「今までも高校生の依頼とかは受けたけれど、大抵は親御さんからだった」
サクラはあぐらを掻きながら言った。
「最近はいじめとか先生からのハラスメントとかの依頼が多かったんだけどね。こうして直接依頼をしてくるケースは稀かな」
「なるほどな」
アドレスはサクラが作った特設のサイトから知ることはできる。
いたずらもたまにはあるが、どうもサクラはこのメールは本物だと思っているようだった。
一応予定を確認しようとスマホを取り出すと、メールが届いていた。
ハルからだった。
『すみません。
今日は予定ができてしまって、この後お会い出来そうにないです。
毎回申し訳ないです。』
文面を読んで溜息を吐いた後、俺はさっと文字を打った。
『お疲れ様。
気にしなくていいよ。
都合の良い時で大丈夫だから。
ご丁寧にありがとう。』
返信ボタンを押した後、スマホのカレンダーを確認する。
「ハルちゃんとはその後どうなの?」
サクラはニヤニヤと笑いながら聞いてくる。
どうやら、俺の様子を見て何か感づいたようだった。
「・・・最近は会う機会が減ったよ」
「へえ、そうなのね」
サクラは少し意外だったという顔をした。
「ああ。最近は仕事が忙しいってさ。最後に会ったのは3日前だしな」
「そっか」
話によると、このところ残業が増えているようだった。
電話はしてみたものの、なんとなく声に元気がない感じだったし、無理をしていないか少し心配している。
「それはそれは寂しいですなー」
サクラは薄ら笑いを浮かべてこちらを見ていた。
「まあ、向こうの都合もあるしな」
ベンチに深くもたれ掛かり、思わず空を見上げた。
あれから、俺たちの間に特に何か特別なことがあったわけではない。
いつもと同じ距離感で、いつものように話をするだけの、変わらない日々を過ごしている。
サクラとしては、もっと先に進めばいいのに、とでも思っているのかもしれないが、これ以上、何をどうすればいいのかが、俺にはわからない。
いや、本当のところ、今のハルとの関係が変わってしまうことを少し恐れている自分がいる。
そもそも、俺はこの世界にいない存在だというのに、ハルとどういう関係になれというのだろうか。
「これからまた寒くなってくるね」
サクラも空を見上げながら、ぼそっと呟く。
「寒いのはやっぱり苦手」
ベンチの上にそっと置いている彼女の手が、ぎゅっと握りこぶしを作っていた。
神社の隣の公園にある柱時計は、そろそろ7時を差そうとしている。
相変わらず境内は暗くて周囲がよく見えにくい。
隣を見ると、スマートフォンの青白い灯りで照らされたサクラの横顔があった。
その表情はなんだかアンニュイという言葉が似合うぐらいぼけっとしていて、それが伝染したように、俺もあくびを掻いてしまった。
約束の時間からほんの少し経った頃、サクラがさっと顔を上げる。
彼女の視線の先には、灰色のパーカーと黒いチノパンを穿いた華奢な人物がこちらに歩いてくるのが見えた。体格からして女の子だ。
パーカーのフードを目深に被っていて、おまけに夜ということもあり、顔までははっきりとわからなかった。
「ふーん。まさかとは思ったけど」
サクラは何かを察したようにふてぶてしく笑った。
「あなた、依頼人のドールさん?」
近寄ってきたその人物は、コクリと頷いた。
「そう。じゃあ、ひとまず顔を見せてもらえない?」
すると言われた通り、依頼人は両手でフードを捲った。金髪のセミロングの髪が露わになる。
その姿を見て、俺は瞠目した。
以前より髪は伸びていたものの、それは間違いなくヒメコだった。
サクラは俺に構わず、ヒメコに話を振っていった。
「君、半年前に会ってるよね?覚えてる?」
「うん」
ヒメコは苦々しそうに顔をゆがめて頷いた。
「あの男とはどうなったの?」
「・・・それは、これから話すつもり」
ヒメコは視線を逸らしてぼそぼそと言った。
「そう。とりあえずこっちにいらっしゃいよ」
サクラは俺の隣を空けて、手招きした。ヒメコは不愛想なまま、サクラの隣に座った。
ちょうど、俺とサクラがヒメコを挟んで座っている状態になった。
まさか、依頼人がヒメコだとは思わなかった。
そして、彼女の依頼内容を思う。
どうやら、俺はとうとう自分の家族の問題に、否応なしに向き合わなければならないらしい。
「確か、依頼には自分の家族と友達に復讐したいって書いてあったけど?あと絶縁したいとかも」
「うん」
「もう少し、詳しく聞かせてもらえる?」
ヒメコはこくりと頷き、ぽつぽつと今回の依頼の経緯について話し始めた。
俺がリョウジをボコボコにしてから、ヒメコはリョウジのいるグループと縁を切るべく、なるべく関わり合いを持たないようにしたらしい。
だが、リョウジとその仲間はヒメコに対するあらぬ噂を広めはじめ、さらには彼らの仲間である他校の不良たちを集めて報復に行くような話もしていた。
現に、ヒメコが自宅や学校にいるとき、謎の連中から脅迫めいた行為を行われるようになった。
ヒメコの家の前でバイクに乗った連中が、夜な夜な現れては爆音を吹かせ続けるという嫌がらせの他、いたずら電話や脅迫めいたメールが届いたり、自宅の壁に卑猥な言葉の落書きをするなどもあった。
さらに、学校でもヒメコのスクールバックが刃物でずたずたに破かれていたり、生理用ナプキンを盗まれたり、罵詈雑言や殺害予告が書かれた紙をナイフの写った写真と共にロッカーに入れられたりもした。
決定的なのは、下校時にバイクに乗った謎の人物に、ひったくりをされそうになり、その際に転んで右腕に怪我を負った出来事だった。
さすがに命の危険も感じたヒメコだったが、両親に相談したところ警察には通報してもらうことにはなったが、学校にはいつも通り行くように言われてしまったらしい。
そして警察も周辺のパトロールを強化するとは言っていたが、それ以外の対応はしてくれそうになかった。学校としてもヒメコのことを「不良たちとつるんでいた」という理由で、誰も助けてくれない状態にあった。
そもそも、ヒメコ自身は望んで不良グループに入ったわけではなかった。
リョウジに成り行きで付き合えと告白され、断るのが恐くて付き合うようになり、それからリョウジたちの仲間に連れだされることが多くなっただけらしい。
それに仲間といっても、ヒメコは単に彼らの財布でしかなかった。彼らが遊ぶ金は、全てヒメコが出していたからである。
ともかくも、学校に行くこと事態もリスクが多いのに、両親(特に父親)は無理やりヒメコを家から出そうとしたらしい。それこそ、鍵を閉めたままのヒメコの部屋に、何度も父親が蹴破ろうとして、ドアが曲がるほどの修羅場もあったようだ。
さらには、ヒメコがいない間に、勝手に彼女の部屋に入った両親が、ヒメコの私物を全て捨てる事態にまで発展したそうだ。
どういう理論でそうなると思ったのか意味不明だが、そうすればヒメコも部屋から出るだろうと考えたらしい。
さすがに大喧嘩に発展したそうで、ヒメコは次の日、家出をしたものの、すぐに警察に補導されて、家に帰されてしまった。
それ以来、ヒメコは諦めを感じてしまって、言われた通りに学校に行かざるを得なくなっているようだった。
ただ、あの家にいること自体も苦痛であるため、ネットカフェに入り浸ったりして、遅く帰る日々を送っていた。
その状況下で、俺たちのサイトを見つけた、という次第である。
「それは、それは」
サクラは頷きながらそれを聞いていた。
「ちなみに、あなたはリョウジたちが嫌がらせを仕掛けてきていると思っているわけね?」
尋ねられてヒメコはコクリと頷いた。
「今も嫌がらせらしいことは行われてるの?」
「うん。学校では未だに。帰りは自転車を使ったり、人気のない道は避けるようにして気をつけているから、最近は変なことはないけれど」
ヒメコの話だと、リョウジは俺に殴られて全治1ヶ月の大怪我を負い、若干の後遺症も残ってしまって、学校を中退したそうだ。
それは知らなかったものの、俺は奴に申し訳ないという気持ちは一切湧いてこなかった。
あいつの性格上、俺のいないこの世界でも、この先多くの人間に迷惑をかけていただろう。ヒメコにも暴力を振るっていたのだから、それは間違いない。
しかるべき罰が当たった。そう思うことにした。
「それで」
サクラはさらに尋ねる。
「もし仮にそいつらが嫌がらせをしていたとして、具体的にどうしたいわけ?」
ヒメコは目を逸らし、拳を握りしめて低い声で言った。
「・・・復讐したい」
暗がりで見えづらいが、雰囲気からして相当な憎しみを抱いていることが窺えた。
「そいつらは、私を追い詰めた。私は何も悪いことなんてしてないのに。強いて言うなら、私を追い詰めた人間全てに復讐したい」
「それは自分の親も?」
サクラの一言に、ヒメコはさっと顔を上げる。サクラも俺も、ヒメコの今の家庭環境は知っている。
ヒメコの目は更に険しくなった。
「うん。あいつらは、私をただの操り人形にしたいだけ」
ヒメコは俯いて歯を食いしばるように言った。
「今まで、彼らの言う通りの生き方をしてきた。最初はそれに疑問も思わなかったけれど、次第に気づいた。あいつらが単に自分の見栄のために私を思い通りにしようとしているだけだって。私が思い通りにならなくなると、あいつらは私を捨てて、他人にゆだねようとした。自分たちは悪くない。思い通りにならない私が悪いんだって。今回だってそう。嫌がらせの話をしても、あいつらは私の話をちゃんと聞かなかったくせに、『いじめられるお前が悪い』って」
ヒメコは声を震わせて言った。
そんなヒメコを見ながら、俺はかつて隣にいる妹にされたことを思い出す。
彼女にとって、俺は取るに足らない存在か、それ以下の虫けらでしかなかった。
小さい頃から、俺のことを見下して、嫌味を言い続けていたし、両親の前でも「私だけが家にいればいいでしょ?」なんてことを言って、俺を追い出そうとしていた。彼女が悪さをしたときは、決まって俺の所為にされた。
大きくなるにつれて、俺のことを無視するようになったが、実は高校の頃からヒメコに脅迫されてもいた。
「この家を追い出されたくなかったら、月に2万円貢ぐこと」
という誓約を交わされてしまい、俺はなけなしのバイト代から捻出した2万円を毎月ヒメコに渡していた。あの世界から俺が消えるまで、それはずっと続いていた。
あの頃の俺は、ヒメコの操り人形だった。
そして、こっちでは彼女が親の操り人形になっているらしい。
心から同情はできないが、腐っても俺の妹である所為か、この世界のヒメコがとても痛々しく思えて仕方がない。
「で、具体的にどう復讐する?」
サクラはそこまで聞いて、足と腕を組んだ。
「復讐にも色々あるわけだけど、最終的にはどういう結末を望んでいるかだよね。あなたを苦しめた存在を物理的に社会から抹消するか、それとも命は取らずに社会的に再起不能にさせるか。リスク的にも法に触れる手段になればなるほど、依頼料は高くなるよ?どうする?」
サクラはヒメコを試すような目で見ている。
ちなみに、これまでサクラは殺しをしたことはない。
シンゴの父親の件は例外だが、大抵は徹底的に社会的な制裁を加えることの方が多い。
例えば悪事をネットやメディアに流したり、不利な証拠を入手して、相手を脅して多額の示談金を得るとかだ。
きっと、ヒメコに二択を迫ったのは、彼女の覚悟を尋ねる目的もあるのだろう。
ヒメコは一瞬俯いた後、ぐっと顔を上げて言った。
「どんな方法であれ、あいつらができるだけ苦しむ方が良い。あっさり死ぬよりも、生きながらにして苦しみ続ける末路になれば」
その時のヒメコの目は子供とは思えないほど、据わった目をしていた。
「・・・ふーん、そう」
サクラはあぐらを掻いて、縦肘を付きながら言った。
「それがあなたの願いなら、できる限りのことはさせてもらう」
人差し指をピンと上げて、サクラはヒメコを見据えた。
「でも、やり方は全部こっちに任せてもらう。あなたの口出しは一切受けない」
「わかった」
「それと、あなたは今まで通りの日々を過ごすこと。ちゃんと家に帰って、学校に行って、お行儀よく毎日を送るの。わかった?」
それを聞いたヒメコは渋い顔をした。
「できれば、さっさと復讐してほしいんだけど?」
「徹底的にやるなら時間は掛かるよ。復讐をするならそれぐらいの覚悟はしてもらう。それに、復讐の他に連中との絶縁を望んでいるなら、なおさら手回しに色々と時間が掛かるから」
「・・・わかった」
サクラの有無を言わせぬ視線に、ヒメコはたじろぎつつも、渋々と承諾した。
「で、早速だけど、今回の依頼料は100万円ね」
「えっ」
ヒメコは目を丸くして呟いた。
俺も思わずサクラを見る。
今まで、どんなに手間がかかる依頼があっても、そこまでの金額を一人からもらったことはない。それどころか、ヒメコはまだ高校生だ。いくらなんでも、払えるわけがない。
だが、サクラはいつになく真剣な表情で、俺を無視してヒメコを見据えている。
「どのタイミングで払うかはあなたの自由。分割でも構わない。ちゃんと誓約書は書いてもらうから。その上で今一度聞くけど、本当に私達に依頼するの?」
ヒメコは俯いて黙ってしまった。
サクラにも考えがあってのことだろうが、それが何なのかは、俺にもわからなかった。
ともかくも、100万円という金額は、大の大人でもそう簡単に出せる金額ではない。いくら分割でも良いとはいえ、ほいほいと約束できはしないだろう。
サクラは、ヒメコの依頼を受けるつもりがないのだろうか。
「・・・分割で良いなら」
だがヒメコはぼそりと言った。サクラの目をまっすぐ見ながら。
「ふーん。よほど憎いんだね。そいつらと、実の親が」
サクラはふてぶてしい笑みを浮かべ、「オッケー」と言って思い切り立ち上がった。
「じゃあ、契約成立ね。それじゃあ、諸々の詳しい話を始めようか」
サクラはヒメコの前に立ち、握手を求めた。
ヒメコは戸惑いながらも、サクラの手を軽く握りしめる。
俺はそんな2人を、釈然としない気持ちで眺めるだけだった。
ヒメコを助けることについて、俺はまだ迷いが生じている。
こっちの世界のヒメコは、俺がいた世界のヒメコとは無関係ではあるのだが、やっぱり根本にある性格に変化はないのか、彼女は自分に害を与えている連中に対して、とことん懲らしめてやりたいという思いが強いらしい。
「私をここまで苦しめたんだから、それ相応の罰を受けるべき」
とは彼女が言った言葉である。
こちらの世界のヒメコも、自分本位なところは変わっていないようだった。
しかし、そのために100万円の依頼料を納めるという誓約書にまでサインしたし、覚悟は確かなものなのだろう。
サクラには何か考えがあるらしいが、真意については今のところ聞けてはいない。
その一方で、ヒメコの依頼にしばらく注力するようにサクラから指示を受けている。
自分の両親がターゲットの一人になっていることについて、一応は考えてみたりもする。
以前の俺ならば、心から両親に対する復讐に同意できただろう。
しかし今のように、充実した日々を過ごしていれば、これまでの苦しみが、実は人生のごく一部の出来事でしかないことに気づいてしまう。
あの苦しい日々があったからこそ、今の俺がある。今の俺という要素を構築しているのは、そういう日々だったんだな、と。
それに気づいてしまうと、正直に言って両親のことはどうでもいいと思えた。
憎いことには変わりないし、これまでのことを許したつもりもないが、俺の中ではすでに彼らの存在は無に等しいし、今後関わっていくつもりもなかった。
自分の人生を手に入れた今、彼らに執着する理由はどこにもない。
今ではそう思っている。そう思っている中で、今回の依頼である。
ある意味、これは自分の過去とのけじめをつけろという意味なのだろうか。
「どうかされました?」
ハルの声に、ふと我に返る。
ちょうどいつもの、つかの間の息抜きの時間だというのに、俺の心は別のところに行ってしまっていた。
せっかく久々にハルと再会できたというのに、上の空というのは失礼だろう。
「もしかして、退屈してしまいましたか?」
「ちょっとかんがえごと」
俺は慌ててハルの手の平にそう書いた。
「何かお悩みでも?」
ハルは心配そうな表情を浮かべた。
こんな時なのに、余計な心配をさせてしまっただろうか。
とはいえ、少しハルの考え方も参考にしたいと思い、せっかくだから少しだけ自分の悩みを吐露することにした。
「ちょっと、『かぞく』のことをかんがえていた」
「カズオさんのご家族、ですか?」
「うん。『いもうと』と、『りょうしん』が、うまくいっていない」
「・・・そうなんですね」
ハルは少し心配そうな顔で聞いてきた。
「上手くいっていない理由はなんですか?」
どこまで話していいものか迷ったが、俺はできるだけ簡単に、知っていることを話した。
ヒメコが父親から教育的虐待を受け続けてきたこと。それを母が止められないこと。
彼女の手を通じて長い話をするのは大変だったが、ハルは真剣な表情で、時折頷きながら話を理解してくれた。
「そんなことが・・・」
全て話し終えるとハルはまるで自分の事のように、息を詰まらせていた。
「カズオさんは、ご家族のことをどう思っているんですか?」
その質問に答えるのは難しい。
あくまで、俺はこの世界のヒメコたちのことを、サクラから聞いただけに過ぎない。
だから、家族のこととはいえ、彼らのことを他人のようにも思ってもいる。
直接、俺がその場にいてヒメコと両親とのやり取りを一部始終見てきたわけではないから、どう思ったかを言葉にするのは簡単ではない。
いや、簡単なことであれば、「ムカつく」とか「胸糞が悪い」という単語で済ますことはできるだろう。
でも、ハルが求めている答えは、そんな単純なものではないはずだ。
「おれは、じぶんの『かぞく』がきらい」
だからその点については、これまで俺が経験した思いを語った。
以前の世界にいる3人のことについて、どう思っていたかを。
「おれは、いままでかれらにのけものにされてきた」
「妹さんにもですか?」
「おれはいじめられていた」
自分の目で見た家族を話すのは簡単だ。
俺にとっての家族というのは、搾取をし続ける存在に過ぎなかったから。
玩具やお小遣いを取られたこと。どんなに勉強を頑張っても褒められなかったこと。兄妹喧嘩ではいつも俺が悪者にされたし、食事を食べるのが遅いという理由で真冬の玄関に朝まで締め出されたこともある。
その一つ一つが、俺の中の家族という存在を作り上げている。
それはあまりにも歪でどす黒いものであるのは確かだろう。
全てを話終えた時、自然と目頭が熱くなってきた。
過去の苦しみが蘇ったから、ではない気がする。
これまでの自分の生き様を、人に聞いてもらう機会なんて全くなかった。
それを初めて人に話して、聞いてもらえた温かさを感じたからかもしれない。
自然と、胸の中がじんわりと熱くなっていた。
「辛かったんですね」
ハルは俺の手の甲に、右手をそっと乗せてきた。
その手のぬくもりに触れていると、自分の感情が溢れそうになってしまう。
「きいてくれてありがとう」
ハルの右手を取り、手の平にそう書き出す。
「今も、ご実家に住んでいるんですか?」
「いまはちがう」
「では、ご実家とは縁を切ったんですか?」
「そんなところ」
ハルも父親との確執がある。
だから、俺の話を聞いて、共感することがあるのかもしれない。
でも、彼女には優しい母親がいる。
俺と違って、ずっと一人きりでいたわけではない。
似ているようで、俺たちは違う。
それを僻むつもりも妬むつもりもない。
その代わり、ハルが俺の生い立ちを聞いて、本当はどう思ったのかが知りたかった。
「・・・よく頑張りましたね」
「うん」
「辛かったでしょう。今までずっと」
「うん」
震える手で、俺は質問した。
「いやなはなしだったよね」
「そんなことない・・・と言ってしまえば嘘になってしまいますね」
ハルは少し寂しそうに言った。
「カズオさんが私以上にお辛い経験をされていたんだと思うと、あまりにもこの世界が報われないものなんだって、突きつけられてしまいます」
ハルをそんな気持ちにするつもりはなかった。
彼女は自分のことのように、人の痛みを理解できてしまう。
やっぱり話すべきではなかったのだろうか。
「でも・・・」
再びハルは俺の手を優しく掴んだ。
「カズオさんは、そういう環境でも、諦めずに生きてきたんですね。それは、並大抵の人ができることじゃないと思います。今はこうして、独り立ちして自分の人生を生きているんですから」
そして、俺の好きなあの温かい微笑みを、俺だけに向けてくる。
こういうときにこれは、少し反則である。
「今まで耐えてきたことで、こうして私はカズオさんと出会えたんです。頑張って生きてくれて、ありがとうございます」
ああ、そうか。
俺は過去と決別したいと思っていた。でも、心のどこかで、これまでの自分を誰かに認めてもらいたかったんだと思う。
俺は、ハルの伸ばした手をぎゅっと握った。
その手は細くて暖かくて、とても落ち着く感触だった。
「こちらこそ、ありがとう」
そう書こうと思ったけれど、ハルの笑顔を見るうちに、その思いはすでにハルに伝わっていると思ってやめた。
「なんだか、変に思うかもしれないですけど」
恥ずかしそうにハルは言った。
「私、カズオさんと会うのが、あの時初めてじゃない気がするんです」
その言葉を聞いて、俺は複雑な笑みを浮かべるしかなかった。
「なんだか、とても昔に、カズオさんと会っている気がしていて・・・。変ですね、なんか」
こんなとき、どう返事をしたらいいのだろうか。
そう思っていると、鳥居の方からサクラがやってきた。
「ハルちゃーん!」
「あっ、サクラさん」
サクラは駆け足でハルの目の前に来た。
「元気だった?」
「はい。おかげさまで」
「そっかそっか。この間はうちのカズオが世話になったみたいで、ありがとうね」
サクラはそう言った後、俺の方に目配せをした。
「ハルちゃん、ごめん。ちょっと、カズオを借りてもいい?」
「えっ、ああ。お仕事のお話ですか?」
「うん。ごめんね、お話し中に。ちょっとだけ借りるだけだからさ」
「いえ、大丈夫です。どうぞ」
「ありがと」
ハルがぺこぺことお辞儀し、サクラは俺の手を引いて神社から連れ出した。
「いいねー、いいねー、なんかいいねー」
道路に出て2つ目の電柱のところまで来ると、サクラはニヤニヤと笑いながらツンツンと俺の肩を指で突いてくる。
「いいって何が?」
「ハルちゃんとのこと。その後どうなった?」
「どうって、今とそんなに変わらないよ」
「ほんとにぃ?」
「ああ、本当に」
すると、サクラは今度は深く溜息を吐いて、俺の前にずいっと出てきて人差し指を突き出してきた。
「あのね!君がそんなスタンスでいたら、ハルちゃんも君に飽きてきちゃうんだからね!」
「それはどういう意味?」
「だから、このまま君がなんのアプローチも仕掛けてこないなら、ハルちゃんも別の男に鞍替えするよって話だよ!」
そんなことを言われても、どうすればいいのか。
俺はこの世界に存しない人間なのだから、アプローチもなにもない。
この世界にいないことになっている以上、ハルとこれ以上の関係を望んだところで、彼女を不幸にするだけじゃないのか。
「・・・呆れた」
サクラはむすっとして腕を組んでいる。
「君がそんな意気地なしだと思わなかったよ」
「意気地なしって、そういう問題じゃないだろ」
「ふん」
勝手に機嫌を悪くしたサクラに対し、これ以上こんな話をしても無駄だと思い、俺はとっとと本題に入るよう言った。
「で、仕事のことは?」
「・・・妹ちゃんの件だよ」
そしてサクラは俺に灰色のビニール袋を渡した。
「ビデオカメラ。これで学校の様子を撮影してきて。一応オンラインで自動的にパソコンに保存されるようになっているから」
これで犯行現場を押さえるというわけだ。まあ、いつも大体同じようなことをしているから、手順はわかっている。
学校に忍び込むのも、今の俺なら特に問題はない。
「それと、君は妹ちゃんが危険な目に遭わないようにボディガードをしてもらいたい」
「なるほどな」
そういうことなら普段から慣れっこだが、今回守る対象がヒメコということもあり、少し複雑ではある。
「話に聞く限りでは、命の危険もありそうだからね。何かあったときは、君になんとかしてもらうしかない」
そうは言われても、俺はなかなか乗り気にはなれなかった。
相手が俺のことを散々邪険にしていた妹というのもあって、気持ちが乗らないというのもあるし、俺にもヒメコの案件以外の仕事がある。常に四六時中見張るというのは難しい話だ。
「とりあえず、君が持っている仕事は私が一旦預かる。今は、妹ちゃんの面倒みてあげて。いい?」
「・・・わかったよ」
サクラに真剣な顔でそう言われてしまい、俺はしぶしぶ承諾することにした。
「じゃあ、さっそく妹ちゃんのところへ行ってきて。たぶん駅前のネットカフェにいると思うから」
「えっ?今から?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「当たり前じゃん。今この瞬間も油断できないかもしれないんだし。ハルちゃんには急用ができたとか適当に言っておくから。さあ、善は急げ。駆け足」
びしっと、サクラに指を差され、俺はしぶしぶ歩き出す。
気は進まないが、これも仕事だと割り切るしかない。
俺が中学に入った頃には、ヒメコは両親から俺の扱い方を見て学んだのか。、俺を虐げるようになった。
例えば、お菓子を買ってこいという小間使いから始まり、最終的には金銭の要求まで、である。
当然、両親から小遣いはもらえなかったが、正月の親族の集まりの際にもらう俺のお年玉をヒメコが要求してきた。
小学校までは、両親が無理やり俺からお年玉を没収していたが、中学になってからは、没収されないための知恵を付けたので、俺は半分以上は守ることができていた。
しかし、それを知ったヒメコは、案の定その半分の金額を渡すように要求してきたのである。
当然、俺は断ったが、ヒメコはその日の夜に、両親に泣きながらそのことを話したらしい。
「お兄ちゃんにお金を貸してほしいって言ったら、断られて殴られそうになった」
というのが、ヒメコの言い分だった。
ありもしないことを鵜呑みにした両親はカンカンに怒り、父には殴られ、母には罵倒された。
「兄の癖に、かわいい妹のお願いも聞き入れられないのか」
「そんなケチな奴に育てたはない」
とかなんとか、そんな暴言を何時間も浴びせられた。
結局、俺はお年玉を全てヒメコに奪われ、それ以降毎年、お年玉を貢ぐことになってしまった。
それだけじゃなく、ヒメコの宿題を代わりにやらされたり、彼女が気に入らないクラスメイトの家にいたずら電話をしろとか窓に石を投げてこいなどの、理不尽な要求にも屈してしまった。
俺が断ろうとすれば、決まって彼女は両親への影響力をちらつかせた。
「私はいつだってあんたを家から追い出してやれる」
そう言われてしまえば、俺は何もできなかった。
今でなら立派な虐待に当たることでも、当時の俺は相談できる場所があることをもちろん知らなかったので、家を追い出されることは、俺の人生の破綻を意味していた。
そんな狂った家でも、そこは俺にとっては帰る場所だったのだ。
これまでのことを、駅前のネットカフェに辿り着くまでに思い出し、ふつふつと怒りが湧いてくる。
これ以上、俺はあの家族に関わりたくはなかった。過去のことを忘れて生きていこうと思っていたのに、結局関わろうとすればするほど、当時の憎しみが湧き上がってしまう。
俺のいなかったはずの世界のヒメコと両親には何の罪もない。そもそも俺がいなかったんだから、俺を苦しめようがなかった。
それでも、結局は根本には残酷な人間性はあるはずである。
なんで俺がヒメコを守らないといけないのかともやもやした思いを察してなのか、サクラからメールで、「もし妹ちゃんのことを故意に助けなかったりしたら、君にも罰があるよ」と釘を刺されてしまった。
サクラがなぜそこまで、ヒメコのことを守ろうとするのかはわからない。
俺がいた世界のサクラには、ヒメコとの接点はなかったはずだ。
まあ、考えたところで答えは出てこない。
そうこうしている内に、実家の前にまで来てしまった。
小さい頃は、この家の佇まいを見るたびに胃が痛んだものだが、今となってはただのちんけな一軒家としか俺の目には映らない。
実家からは全く生活音もせず、1階からは人の気配もない。
父はきっと会社に行っているだろうし、母も出かけているのだろう。
2階のヒメコの部屋らしき窓は、カーテンが閉じられており、それだけでなんとなく他者を一切寄せ付けない感じがにじみ出ていた。
しばらくその場で家を凝視した後、俺は駅の方へと歩き出す。
駅前のネットカフェといえば、一つしかない。
以前、最初に俺がこの世界で本当に姿が消えたのか実験をしてみた場所だ。
ネットカフェに着いてすぐに、フロントに入ってブースの利用表を覗いてみた。
どうやら、ヒメコは1時間前から店内の奥ブースを利用しているらしい。
早速、足音を消しながらヒメコのいるブースへと向かった。
ブースは黒いガラス板を隔てているだけのちゃちなもので、中に人がいる気配を確かに感じた。
この中で、ヒメコは何をしているのかはわからないが、ひとまず俺はそのブースの前で、地べたに座りつつ待機した。
それから2時間近く、その場で待機していると、中からゴソゴソと音が鳴り始めた。
たぶん、荷物をまとめているのかもしれない。
やがて席から立ち上がる音も聞こえ、ガラス板を乱暴に開けてヒメコが出てきた。
制服のままだったので、学校帰りにここに寄ってきたのだろう。
ヒメコはそのままフロントで会計を済ませ、店を出ていった。
早足のヒメコを、適当な間隔を開けて追いかける。
こんな生活がこれからしばらく続くのかと思うと、またげんなりとした気持ちになった。
3日間、俺は昼夜問わずヒメコの監視を続けた。
初日の夜、実家に帰宅した父が苛立った様子で母に不満を当たり散らし、母もそれに反論する。
そんな聞くに堪えない口論をずっと続けていた。
その大声は、外にいる俺にもはっきりと聞こえるくらいだった。
「お前の教育がなっていない所為で俺が恥を掻いている」と父は言い、母は「私だって好きで家事や育児をしていたわけじゃない」と反撃する。
そんな感じのやり取りをかれこれ一時間も続けていた。
夫婦喧嘩を聞かされているこっちにしたら、両方ともヒメコのことではなく、自分のことしか考えていない時点で、どっちもどっちだとしか思えない。自分たちの非を互いに擦り付け合うことほど、醜いものはない。
2日目。
ヒメコが朝から制服を着て家を出て行った。
その足で学校への道を歩いて行く。学校が始まる時間よりも1時間遅れての通学だった。
その時間は制服を着た他の生徒の群れがなく、ヒメコは独り、俯いて足早に校舎へと入って行った。
そこにサクラから電話が入る。
「妹ちゃん。ちゃんと学校に行ってる?」
「ああ。今校舎に入って行った」
「オッケー」
ヒメコの後ろ姿は、まるで黒いオーラを出しているように、陰鬱で禍々しい感じだった。
昔の俺も、あんなオーラを出しながら学校に通っていたのかもしれない。
「それじゃあ、引き続き妹ちゃんの護衛、頼んだよ。あと、ついでにこの間渡したビデオカメラでの撮影もよろしく」
「了解。ちなみにお前は今何してんだ?」
「まあ、ちょっと立て込んだこと。それじゃあ」
サクラは意味深なことを言って電話を切った。
何をしているのかはわからないが、たぶんヒメコに関することか、別の依頼をこなしているのかもしれない。
サクラに渡されたビデオカメラを手に取り、俺もヒメコの後に続いて校舎へと入った。
ヒメコがその足で職員室に向かったので、俺は窓越しに中の様子を見てみた。
ある男の先生とヒメコが何かを話しており、ヒメコが頭を下げていた。
わずかながら、話の内容も聞こえてくる。
「・・・すみませんでした」
ヒメコの目の前にいる男の先生は、険しい表情で仁王立ちしながら謝るヒメコを見下ろしていた。
中の様子を撮りたかったので、人が周りにいないことを確認して窓にビデオカメラのレンズを当てて撮影を始めた。
ビデオカメラと言っても、スマートフォン並みの薄さと小ささだ。隠れて盗撮するにはもってこいである。
男性教諭は鬱陶しそうな顔をして、吐き捨てるようにヒメコに言った。
「そういうチャラい格好をしているから、変な連中に絡まれたり、周囲からの信用も無くすんだろう。現に不良連中と付き合った所為で事件に巻き込まれただろうが」
「・・・・」
ヒメコは俯いたまま、何も答えない。
そんな彼女の態度に苛立ったのか、男性教諭は溜息を吐きながらこう言った。
「だいたい、お前は何しに学校に来ているんだ?親に家を追い出されたか?引きこもりに飽きたのか?それとも俺たちに助けを求めにきたのか?」
男性教諭は鼻で笑った後、自分の席に腰かけた。
「悪いが、学校としては力になれん。誰かがお前をいじめたという証拠もないしな。正直、お前の自作自演の可能性だって拭いきれない。学校に行かないための口実にはうってつけだからな」
ヒメコは男性教諭の顔を睨みつける。その目を見た彼は不機嫌な顔でヒメコを睨んだ。
「なんだ?俺に文句があるのか?そもそもお前が撒いた種だろう。身から出た錆だ。俺たちに文句を言われる筋合いはない。まあ、いじめられた証拠があるというなら、聞いてやらなくもないがな」
最低だな、とカメラを回しながら俺は思った。
ヒメコが無理やり不良たちの仲間にされたという事実を知っていようがそうでなかろうが、さっきから一切、ヒメコの話を聞こうという態度が見られない。一方的に自分の考えを嫌味ったらしく言っているだけだ。
教師という立場を利用して、ヒメコのような生徒を見下し、偉そうにしているだけ。
単に、厄介な物事を面倒くさいと感じているだけかもしれないが、それにしても酷い。
だが、この場面は証拠としていつか役に立つかもしれない。
「まあ、俺も鬼じゃないしな。今日の遅刻は大目に見てやるよ。次はないけどな」
男性教諭は面倒くさそうに机に向き直って事務処理をし始めた。
「はい。すみませんでした」
ヒメコはまた頭を下げ、その場を後にした。
職員室から出てきたヒメコの顔は、能面のような形相をしていた。
1限目の授業が終わる鐘が響き、生徒たちが教室から出てくると、彼らは廊下をしずしずと歩くヒメコの姿を見つけ、急に彼女から離れ始めた。
ヒメコはそんな彼らを無視して自分の教室へと向かって行く。
だが途中で前から来た男子生徒のグループの一人が、わざとヒメコの肩にぶつかり、ヒメコは痛そうに肩を擦って立ち止まった。
「やめとけって。かわいそうじゃん」
「別にいいだろ」
男子生徒たちはヒメコを見てゲラゲラと笑いながら立ち去って行った。
ヒメコはその場でしばらく立ちすくんだ。周囲にいる生徒たちが、ヒメコを見てはひそひそと話すか、くすくすと笑っていた。
そんな連中の背を睨みつけた後、ヒメコは自分の教室へと足早に向かった。
その後を追いかけ、ヒメコが教室に入ったところからビデオカメラを再び回し始めた。
ヒメコが教室に入った途端、周囲で騒いでいたクラスメイトが急に静かになった。彼らはヒメコを凝視している。
そんな様子もお構いなしに、ヒメコは自分の机へと向かって行った。
ヒメコの机は、教室の隅にあった。
特に落書きがされているわけでもない。だが、ヒメコはふと何かに気づいて、自分の机の中を覗き込んだ。
机の中に手を差し込むと、彼女の手に1枚の封筒が握られているのがちらっと見えた。
ヒメコはそれをまた机の中に戻す。
そして、何食わぬ顔で自分の机に突っ伏した。
やがて次の授業が終わり、俺は一旦録画を切って、しばらく教室の前で待機することにした。
それからの時間はゆったりと過ぎていった。
ヒメコは退屈そうに授業を受け、周囲の生徒たちはヒメコのことを空気のように扱っていた。
ヒメコ自身も、自分は空気なのだという認識で過ごしているかのようだった。
それにしても、学校で受ける授業というのは、こんなにも退屈なものだったろうか。
たった3年前のことなのに、俺が中学生の頃はどうだったか、今では思い出せない。
教室の外の廊下で授業の様子を窓ガラス越しに眺めながら、わずかに聞こえてくる教師の抑揚のない声を聞いていると、嫌でも睡魔に襲われてくる。
こんなつまらない時間を、半日も聞かされ続けるのだから、たまったものではない。
そんな一種の拷問のような時間が終わり、昼休みになった。
ヒメコは教室をふらふらと出て行って、人気のない校庭の端っこでひっそりとコンビニで買ったパンを食べた。
食べながら、ヒメコは制服のポケットから先程の封筒を取り出す。
中を開けて文章に目を通す彼女の顔色がさっと変わった。
俺も彼女の背後から文章に目を通した。
「絶対にお前を許さない。絶対にお前を殺す」
ワードの文字は赤色で、かなり大きめに拡大されていた。
これは、いわゆる殺人予告というものだろうか。
リョウジによる嫌がらせの類だと思うが、どうやらヒメコが危害を加えられている事実は本当のことらしい。
端的な文章ではあるが、確かな憎しみが込められているようにも感じる。
ヒメコは溜息を吐いて、それをぐしゃぐしゃに握りつぶしてポケットにねじ込んだ。
本人は不機嫌そうではあるものの、それを恐れている様子はなかった。
そういえば、以前にも殺人予告のような手紙を送られたと本人が言っていたし、この手の嫌がらせにもう慣れてしまっているのかもしれない。
とはいえ、どうも俺はその手紙の主が本気でヒメコに殺意を抱いているように思えてならなかった。
やはり注意しておくに越したことはない。
食事を食べ終えた後、ヒメコはグラウンドを囲むフェンスの周りの雑木林をぼうっと見つめて時間を潰した。
彼女の目には何が映っているのだろうか。
本当は、もっと遠くの景色を見つめているのではないか。
この小さな町の、もっと先にある、どこか別の世界へと、視線が向けられているのではないか。
ヒメコもきっと、この狭い町から抜け出したいと思っているのかもしれない。
少なくとも、あの頃の俺と同じく、彼女も自分のいる環境を憎んでいるのは確かだ。
誰だって生まれる環境を選ぶことはできない。
俺たちはずっと、環境に縛られて大人になっていく。
大人になるまでに生き残れるかどうかもわからない中で、漠然と良い大人になることを求められる。
大人になるまでの間、自分の抱えている不満を吐き出すこともできないし、大人になっても、その不満を抱えて生きていくことを強いられる。
そんな風に世界を作ったのは、一体誰なんだろうか。
やがて予鈴が鳴り響き、ヒメコは重い足取りで教室へと戻っていく。
俺は彼女の後を離れて追いつつ、ポケットに入れていたツナおにぎりをさっと頬張った。
サクラが持たせてくれた食事だが、なんで毎回ツナ系なのかはわからない。もしかすると、彼女が猫だったことに関係しているのだろうか。
軽く腹ごしらえをしながら、ヒメコの後を足早に追うと、廊下の奥でヒメコがある女子集団に囲まれているのが見えた。
その集団の横に、地面に伏している黒髪のおさげの女子がいる。
「その目がムカつくんだよ。偉くもないくせにスカしやがってさ」
声の主は以前見たことある顔だった。
サクラと海を見に行ったあの夜、駅前でリョウジと一緒にいた連中の一人だった。
その女は金髪の先端に赤色を入れていて、派手なピアスをしていた。
確か、ヒメコからもらった情報によれば、リョウジがヒメコと別れた後に奴の彼女になった女だったと思う。
女の背後にいる連中も、なんだかガラが悪い。
「だからその目をやめろって言ってんだよ。わかんねえのか?」
「・・・・」
女は低い声で唸っているが、ヒメコは何も言わずに彼女をじっと見据えている。
「リョウジはてめえのこと許してねえからな。そのうち覚悟しとけよ」
やがて女は舌打ちをして、ヒメコの肩を突き飛ばしてその場を去っていた。
女の取り巻き連中も、ヒメコと膝をついて倒れているおさげの子を交互に睨んで立ち去った。
「・・・ミク」
ヒメコはボソリとそう呟く。
女たちが完全にいなくなると、おさげの少女は立ち上がって膝の埃を叩いて払い落とした。
「気安く呼ばないで」
そして、彼女もまたヒメコを睨みつけて、さっさと足早に去っていく。
その時の視線は、あの女よりも冷淡で憎悪に満ちていた。
ヒメコは複雑な表情で俯く。
やがて授業開始のチャイムが鳴り、ヒメコも自分の教室へと戻っていった。
ホームルームも終わり、ヒメコは真っ先に荷物を纏めて教室を出た。
そんなヒメコをクラスメイトは冷やかな目で見送っていた。
帰宅する際も、ヒメコは足早に通学路を歩いていた。
自宅には人の気配はないものの、ヒメコは音が出ないように慎重に門を開けて、家の扉をゆっくりと引いて中に入って行った。
とりあえず、今日のヒメコはこれ以上動きそうにないと思う。
あとは、神社でゆっくり過ごしながら、ヒメコの家の周囲を監視カメラで確認するだけである。
ヒメコの家から神社へと続く線路沿いの道を通った時、大きな赤い西日が顔を見せていた。
ふと地面に視線を落とす。コンクリートの上には、俺の影すらも見当たらない。
俺はこの世界に触れることができるのに、世界は俺の存在を否定している。
影の無い自分の姿を見るたびに、俺の存在がこの世界と矛盾しているのだと感じる。
ヒメコは自分に兄がいることを知らない。そして、その兄に見守られていることも当然わかっていない。
俺に守られていたという事実を、彼女は永遠に知ることはないだろう。
彼女だけでなく、これまでの依頼人たちもそうだ。
名もなき英雄、というフレーズが頭に浮かんだが、そんなかっこいい存在ではない。
俺は単に、この世界に俺という存在がいるとアピールしたいだけなのだろう。もしくは、世界から否定されている事実に抗う行為に近いのかもしれない。
何にせよ、今の俺はこういう形で世界と繋がることができている。
今は、それだけいい。
西日の眩しさに目を細めつつ、俺は神社への道をゆっくりと歩き出した。
その時、スマホが振動したので、素早くポケットからそれを取り出す。
サクラからのメールだった。
「今日は問題なかった?」
メールにはそう書かれていた。
「一つ気になることがあった」
俺は初めにそう打ち込んだ後、今日ヒメコに送られた殺人予告について、できるだけ詳しく書き出した。
メールを送って数分後に、サクラから返信が届いた。
「2時間後に駅前に集合ね」
スマホの時計はちょうど3時を指している。
ここから駅までだいたい15分くらいだから、まだまだ余裕があった。
わざわざ2時間後を指定してきた理由はわからないが、ヒメコに関係することであるのは確かだ。
とりあえず神社へ向かい、少し仮眠を取ることにした。
久々に夢を見た。
河津桜の咲く神社の境内で、俺がハルと手を繋いで歩いていた。
そこでの俺は他の人にも姿が見えるらしく、アケミさんにも挨拶をしたり、行き交う人たちが俺たちに会釈をしてきた。
その人たちは、俺とサクラがこれまで助けてきた人たちだった。
夢には見たことのある人しか出てこないらしい。
彼らは皆、幸に溢れた柔らかい表情をしていた。
夢の中なのに、何故か握りしめたハルの手は温かかった。
起きてみると、野良猫が舌を突き出して、俺の手を恐る恐る舐めていた。
どうやら動物には、俺の存在が感じ取れるらしい。
時計を見ると、すでに集合時間を過ぎていた。
さっと俺が体を起こすと、野良猫は驚いてどこかに消えてしまった。
「やっちまった」
とっぷりと暗くなった境内を急いで後にして、駆け足で駅へと向かう。
スマホには何も通知は入っていなかった。
「ごめん。遅れる」
走りながらサクラにメールを打ち込み、全速力で駅前へと走った。
駅の出入り口に到着すると、そのタイミングでメールが入る。
「ゲーセンの裏。中華料理屋の前」
サクラからの返事はただそれだけだった。
ゲームセンターと言えば、ヒメコの使っているネットカフェの2軒隣にある。
その路地には確かに中華料理屋があった。
早足でそこに向かうと、店の前の電柱にもたれかかりながら腕を組んでいるサクラの姿があった。
「おそーい!」
こちらに気づいたサクラは俺をジトッと睨みつけた。
「悪い。仮眠取ってた」
嘘を吐いたところで彼女にはお見通しなので、俺は正直に寝坊したと話した。
「まあ、一日中妹ちゃんに張り付いていたから疲れてはいると思うけど、ちょっと弛んでるんじゃない?」
「ごめん」
そう指摘されては何も言えない。
確かに、今回の仕事に関しては、これまでに比べて本気になれないでいる。
「痛っ!」
すると、突然ヒメコが俺にデコピンをしてきた。
「今回はこれでチャラにしてあげる。目も覚めたでしょ?」
「ああ」
サクラはいたずらっぽく笑い、俺はおでこを擦りながら目線を下に向けた。
「ん?それって血か?」
ふと、サクラの右手の袖口に、わずかに血痕らしき赤い点が付着していた。
「え?ああ、これ?ちゃんと拭いたと思ってたんだけど」
サクラは袖口を見てため息を吐いた。
「はあ、洗濯面倒くさー」
「一体何があったんだ?」
「うん。ちょっとね」
サクラは腕を組み直し、また電柱にもたれかかった。
「さっきリョウジの仲間の一人を締め上げたんだけどさ」
「うん」
物騒な言葉を聞いて動じない俺は、少し感覚が麻痺してきているのかもしれない。
具体的にどう締め上げたのかは、彼女の袖口の血痕が物語っている。
「最初の頃は確かにリョウジの指示で妹ちゃんに嫌がらせはしてたみたい。家の前にバイクで登場とか、そういう脅し的なことはやっていたってさ」
「ああ」
「でも、あくまでビビらせるのが目的であって、直接危害を加えてはいないって。妹ちゃんがひったくりに遭って怪我したって事件、聞いたでしょ?あれは連中の仕業じゃないらしい」
「そんな言い訳、本気で信じられるか?」
「まあ、こっちも半端に痛めつけて吐かせたわけじゃないから。そいつが言っていたことは9割5分は本当のことだと思う。それに」
「それに?」
「リョウジの奴、行方不明になったんだってさ」
「はあ?」
俺は思わず変な声を上げてしまった。
「ある日、突然家を出てそれっきり。それが今から2週間前」
2週間もの間、家に帰らないというのは、本来なら家族もおかしいとは思うだろう。
だがリョウジは不良だ。
自分の家に帰らないことなんてざらにあるのではないか。
「忘れたの?リョウジ、今は脳に後遺症持ってるって話」
「あっ」
そう言えば、ヒメコからそんな話を聞いていたように思う。
「君がボコボコにしたおかげで、リョウジは脳機能に重い障害を持ってしまったみたい。そんな人間が、突然家族に何も告げずに家を飛び出して、1週間も帰ってこないなんてやっぱりおかしい。仲間のところにも顔を出していないみたいだし、連絡もない。ということは・・・」
「リョウジは失踪した?」
「優しく言えば、そうなるね」
失踪という言葉が優しい響きであるならば、実際はもっと残酷な現実になっている可能性があるということなのか。
サクラの言っていることは、そう暗示しているように思った。
「つまりね」
サクラは人差し指を立てて、推理を展開する探偵の如く言った。
「リョウジがいなくなったということは、その嫌がらせを指示する人間がいないってこと。要は、復讐の理由がなくなったってわけ」
「それって・・・」
「リョウジの仲間たちは、あいつに言われてヒメコに嫌がらせをしていたようなもの。それ以上の理由はない。リョウジの仲間って言っても、お互いに淡白な利害関係で成り立っていたみたいだから、そこまで深い関係にはなかったようだし、そうなるとヒメコを襲撃する理由は見つからないってことになる」
「じゃあ、ヒメコはもう襲われないってことか?」
「そうでもないよ」
俺の答えに、サクラは首を横に振った。
「リョウジが失踪したのは2週間前。でも今日だって、殺人予告の脅迫状は届いていた。つまり脅威はまだ続いているってこと」
「・・・・」
俺も無い頭で考えてみる。
リョウジがいなくなったことで、ヒメコに嫌がらせをする動機がそもそも無くなった。
しかし、ヒメコへの嫌がらせは続いている。
となると、一体誰がそれを指示しているのかだ。
ヒメコに強い憎しみを持つ人間が他にもいるということなのだろうか。
だが、学校での彼女を見る限り、周りの人間全てが敵という感じだった。
「とりあえずはリョウジの関係者に絞ってみたら?」
そこにサクラがヒントを出してくる。
「リョウジと最も親しくて、妹ちゃんを憎む理由が確かに存在する人間。意外と近くにいたんじゃない?」
その時、ここ最近の学校での状況を思い出してみる。
そう言えば、ヒメコを恨んで、なおかつリョウジと親しい人間が一人いたように思う。
「まさか、リョウジの新しい彼女か?」
ご明察、とでも言うように、サクラがニヤリと笑ってみせた。
「あたしもそう思う。今のところはね」
そうなると、確かに辻褄は合いそうだ。
それがわかったら、後は簡単そうだった。
「でも、まだ行動を移すには早いよ」
「わかってる。まずは証拠だろ?」
「その通り」
サクラは人差し指を俺に向けて言った。
「ひとまず、情報は教えたから、引き続き君は妹ちゃんの護衛と、その周辺の状況をこっちに報告してね」
「お前はどうする?」
「あたしはもう少し調べ物があるから、それを引き続き行う。それと、これ以上妹ちゃんが危害を加えられないよう、手を回したりとかね」
「わかった。で、この後は何をする?」
わざわざこんなところに呼び出したのだから、俺にしかできない仕事があるということなのだろう。
「いや、仕事はないよ。せっかくだからご飯でも食べようと思って」
「は?」
サクラはいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「ここ最近、あんまりちゃんとご飯食べれてなかったでしょ?だからご馳走してあげるって話」
そう言って、サクラは目の前の中華料理屋に入っていこうとした。
「いや、ちょっと待て。俺が入ったところで・・・」
どうせいないことになっているんだから、レストランで食事なんてできるわけない。
と、言おうする前に、サクラは店の中に入ってしまった。
その際に手招きされたので、俺は首を傾げながら仕方なく店へと入っていった。
乾いたドアベルの音と共に、香ばしい匂いがすっと流れてきた。
「あっ」
狭い店内の端っこにあった中華テーブルには、レバニラ炒めや回鍋肉、青椒肉絲、そして海老チャーハンなどがズラッと並んでいて、テーブルの奥にはハルがちょこんと座っていた。
俺たち以外、客も店員も見当たらなかった。
「ハルちゃん、おまたせー」
サクラはハルの肩にそっと手を乗せてそう声を掛けた。
「いえいえ。カズオさん、こんばんは。お仕事お疲れさまです」
ハルはぺこりとお辞儀をしてきたので、彼女には見えてないとわかっていても、俺も自然とお辞儀をしてしまった。
「今日は貸し切りにしてもらったから。ここのマスターと店員さんとは顔馴染みだからね」
サクラはぐっとサムズアップをして言った。
「でも、店の人もいないみたいだけど?」
俺がそう聞くと、サクラがそっと耳打ちしてくる。
「マスターたちにも今日はもう帰ってもらった。その方が都合がいいでしょ?」
その都合というのが、俺に関する配慮であるのはわかった。
それにしても、ここまでしてもらう理由が今のところ思いつかない。
「とりあえず、食べようか」
戸惑っている俺に、サクラは席に掛けるよう促してきた。
とりあえず着席し、目の前の料理を眺める。
こんな風に、店で食事を取るのは久しぶりだった。
バイトをしていた頃は、1ヶ月に1回だけ、ファストフード店でハンバーガーセットを食べるだけで、それが俺にとっての唯一の贅沢だった。
その時はずっと一人だったから、誰かと一緒に店で食事を取るなんてことも、生まれてはじめてかもしれない。
「ちょっと、飲み物出してくるから、待ってて」
そう言って、サクラは足早に厨房の方に向かっていった。
しばらくハルと二人きりになる。
そういえば、ここ最近ハルとあの神社で会う回数も減っている。
以前は毎日のように、夕方には会って話をしていたというのに。
「カズオさん」
するとそんな俺の気持ちを察したのか、ハルがこんなことを言ってきた。
「最近はすみません。なかなかお時間が取れなくて」
少し申し訳無さそうな顔をするハルの手を取り、俺は「きにしないで」と書いた。
続けて、「しごとがいそがしいの?」と書き出す。
なぜだか、ハルのは小刻みに震えていた。
「そうですね。ここ最近は残業も増えてしまって。それに・・・」
と、ハルは何かを言い掛けたものの、「なんでもないです」と途中で口を噤んだ。
「つかれてない?」
そう尋ねると、ハルは少し力なく笑った。
「少し疲れは溜まっていますが、まだ大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「あまりむりはよくない」
「ええ。心配おかけしてすみません」
その時のハルの笑顔に違和感を感じた。
その場の雰囲気に合わせて口元で笑みを作っている感じ。
こういう笑顔をする人は、何度か見たことがある。
それも、サクラと一緒に仕事をしている時に。
こういう笑顔をしている人は大抵、本当は誰かに助けを求めていることが多かった。
「なにかなやみがあるの?」
そう書き出そうとハルの手を取った時、突然部屋が暗くなった。
驚いて俺が周囲を見回すと、厨房の方から小さな炎が灯り始めた。
「イエーイ!」
サクラが厨房の奥から、火の付いたろうそくを刺したロールケーキを持って現れる。
ハルの方を見ると、彼女もぼんやりとした暗闇の中で、いたずらっぽい笑みを浮かべ拍手をしていた。
「・・・どういうこと?」
「ちょっとしたサプライズだよ!」
サクラは楽しそうに言いながら、テーブルの上にロールケーキを乗せた。
小さなろうそくの火が、ゆらゆらとくねっている。
これが何を示しているのかはわかっている。
「あのさ、言いにくんだけど」
俺はサクラとハルの顔を交互に見て言った。
「俺、今日誕生日じゃないんだけどな・・・」
すると、サクラは拍手を止めた。
一気に気まずい空気が流れると思ったが、サクラはぽんと俺の肩に手を乗せて言った。
「知ってるよ」
「えっ?」
「今日は君の誕生日じゃない。そんなことはわかってる」
「なら、なんで?」
逆に驚かされることになり、ますます頭が混乱してきたが、そんな俺の横でハルが口を開いた。
「サクラさんからお聞きしました。カズオさんが今のお仕事を始めて、今日で半年だって」
「えっ」
「いやー、あたしとしたことが、君の歓迎会も誕生日の時のお祝いもしてなかったなーって思い出してさ」
サクラは頭を掻きながら舌を出して茶目っ気のある表情をしてみせた。
「だから、こうして半年が経った今日に、一気にお祝いしてあげようと思って」
そう言われて、俺はそんなに時間が経っていたのかと思い知らされる。
そして、理解も追いついてきたところ、思わず笑みがこぼれた。
「そっか。そうだったんだな」
「まあ、半端な時期ではあるけれどね」
確かにそうかもしれないが、こんな風に誰かにお祝いをされること自体、初体験のようなものだったから、その衝撃は大きいことに代わりはない。
「あのー、お気に障りましたか?」
ハルは俺のことを心配して声を掛けてきたが、彼女の手をゆっくり取って、「ありがとう」と書き出した。
「ありがとうな。二人共」
「まあ、いいってことよ」
サクラは歯を見せて笑い、ハルも安心したように柔らかい笑みを浮かべる。
そして、俺も自然と口角が上がってきた。
「まあ、そういうわけだから、ふーってやって」
サクラに促され、俺は深く息を吸い込み、目の前の小さな炎へと吹き付けた。
1週間前から2人はこのサプライズを計画していたらしい。
サクラと仕事を始めて半年が経った記念日。
こんな風に誰かからサプライズを企画されたことも初めてだったし、そもそもこうして自分のために人が祝ってくれる経験すら皆無だったから、こんな時にどういう顔をしたらいいかわからない。
だけど、サクラはそんな俺を見て満足そうにしていたし、ハルも喜んでいる様子だった。
「私、こうして誰かのお祝いをするのは、母以外では初めてでした」
ハルもまた、初めての経験だったらしい。
それにしては、サプライズに慣れている感じだったが、本当は緊張していたようだった。
そう言えば、ハルの手を取った時に、彼女の手が震えていたけれど、つまりそういうことだったんだろう。
「でも、ハルちゃんを誘って大正解だったね。カズオをしっかり驚かせてくれたし」
「そんな!私、ずっと緊張しっぱなしで!」
慌てた様子のハルはとても可愛らしかった。
ともかくも、人生初めてのサプライズは和やかな空気の中で流れていき、俺たちは温かい食事を楽しむことができた。
食事を終えた後、サクラは店に残って後片付けをするとのことで、俺にハルを家まで送るように言ってきた。
ハルの手を引いて夜道を歩く間、店を出るときにサクラに耳打ちされた内容を思い出す。
「せっかく二人きりにしてやるんだから、感謝してよね」
サクラが俺に何を求めているのかはわからない。
単に送り迎えするだけでは不正解なのだとは思うが、これ以上俺はハルに何をしたらいいのだろうか。
だって、俺は・・・。
「今日は楽しかったですね」
考え事をしていると、ハルが不意に声をかけてきた。
「カズオさんといると、楽しいことばかりです」
夜の闇の中でもわかるくらい、ハルの表情は晴れやかだった。
「おれもたのしかった」
一度立ち止まって、ハルの手にそう書いてやる。
すると、ハルは少し恥ずかしそうに顔を俯かせて言った。
「私、今とても充実しているんです。カズオさんもサクラさんも、私が今まで経験できなかったことをさせてくれるので」
俯きながらも、ハルが笑顔を浮かべていることはわかった。
今この瞬間だけ、周囲の一切がハルの言葉を待っているかのように沈黙していた。
「だから、ちゃんとお礼を言おうと思って」
ハルの手に力が入り、俺の手を胸の前に寄せて言った。
「ありがとうございます。カズオさんとサクラさんに出会えたことは、私にとっての宝物です」
少し照れくさくなって、俺はそっぽを向いた。
すると、ハルは今度は緊張した面持ちで俺の方に顔を向ける。
「それで、その・・・私、ずっと思ってたんです。こんなこと言われたら、きっと迷惑かもしれないですけれど。でも、やっぱり言わずにはいられなくて」
その次の言葉を予想して、俺にも緊張が走る。
この流れで言われることなんて、たった一つしか思い浮かばない。
体が動けずにいると、ハルは意を決したように言った。
「カズオさん。私・・・」
「きゃああ!」
ハルの言葉を遮るように、女性の悲鳴と何かが倒れる音が響いた。
俺もハルも音のする方に顔を向ける。
悲鳴は曲がり角の方から聞こえてきた。
ハルから手を離して、曲がり角へとかけ足で向かう。
角を曲がって見えたのは、倒れた自転車と血に濡れた手を抑えてうずくまるヒメコ、そして血の滴った銀色のナイフを持つフードを目深に被った人物だった。
フードの人物は、ナイフを振り上げてヒメコにジリジリと迫っている。
俺はすぐに駆け出して、フードの人物にタックルした。
「ぐっ!」
思わぬ衝撃にフードの人物の体は吹き飛び、ナイフが宙を待って地面に転がっていった。
無理にタックルしたため、俺もその場で転んでしまったが、すぐに起き上がってフードの人物を捕まえようとした。
「カズオさん!何があったんですか?」
そのタイミングでハルが駆けつけて大声を出したため、フードの人物は起き上がってそのまま全速力で逃げていってしまった。
追いかけようとしたものの、血を流しているヒメコをそのままにもできなかったため、追跡を諦めた俺は、代わりに道に転がったナイフを拾った。
ナイフは折りたたみ式で、そのままポケットにしまい込めた。
「うっ」
うめき声と荒い呼吸をしているヒメコに近づくと、ヒメコは俺の足音に気づいたのか、とっさに俺の方を見上げた。
「カズオさん」
ハルもヒメコの方にやってくる。
彼女は血の匂いでヒメコに気づいたのか、蹲るヒメコの前でしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか?怪我してるんですか?」
「・・・見りゃわかるでしょ」
ヒメコも困惑していたのか、白杖に気づかなかったのか、目が見えないハルにそんなことを言った。
「あっ、す、すみません。私・・・」
ハルは申し訳なさそうにして俯いた。
さすがに見ていられなくて、俺はハルの手を取って「きゅうきゅうしゃ」と書き出した。
「は、はい!わかりました!」
ハルはそれで状況を理解したらしく、携帯を取り出して電話をかけ始めた。
ここまでのやり取りを見て、ヒメコはハルのことを不審者を見る目で見ていた。
まあ無理もない。
なにせ彼女の目には、一人で見えない誰かと会話をしているように見えているのだから。
だが、そんな風にハルのことを見るヒメコに対し、僅かながら怒りを抱いた。
謎の人物に怪我を負わせられて混乱しているのはわかる。
でもそれでも、助けに入ろうとした人間に対する態度がこれなのかと、不愉快さを感じた。
たぶんこの時、俺は自分の記憶にあるヒメコのことを、そこに投影していたんだと思う。
そんな俺は、痛そうに手を抑える彼女をただただ眺めるだけだった。
メールでサクラに状況を報告すると、彼女はすぐに現場へと駆けつけてくれた。
その直後にハルが呼んだ救急車がヒメコを乗せて病院へと連れて行った。
目の見えないハルに代わってサクラが病院に付き添っていき、俺はハルをひとまず家に送ることにした。
ハルは少し動揺しているようで、握る手が小刻みに震えていた。
送っている間、俺たちは一言も話すことはなく、家に着くと玄関でハルは立ち止まった。
「今日はありがとうございました」
そしてハルはすっと頭を下げる。
俺がハルの手に、「きょうはゆっくりやすんで」と書き出す。
そのまま手を離そうとするが、ハルは俺の手を掴んだままだった。
そして急に、俺の胸にハルが勢いよくもたれかかってきたのである。
「・・・・」
何も言わずに、ハルは小刻みに体を震わせた。
急なことだったので、俺もなんでそんなことをしたのかわからないが、その時にふと思いついたのが、震えるハルを抱きしめることだった。
少しでもハルの震えを抑えたかったのか、それとも俺の中にあるハルへの衝動がそうさせたのか。
なんにせよ、ハルは俺に身を預けながら震え続けた。
「ありがとうございます・・・」
ハルは震えながらも、俺にそう呟いてきた。
やがて、ゆっくりと俺から離れ、無言のままお辞儀をして、ドアの鍵を開けて中に入っていった。
しばらく経ってから、俺はドアの前からゆっくりと離れる。
ハルの温もりと残り香が、俺をじわじわと高揚させていく。
アパートから出てすぐに、サクラからメールが来た。
ヒメコは今も治療を受けているらしく、出血は酷かったものの、傷はそこまで深くないらしい。
サクラはしばらくヒメコに付き添うことになったようで、俺に今日は適当にどこかで時間を潰すようにと言ってきた。
俺はその足でまた神社へと向かった。
その道のりを歩く間、先程のハルの行動の意味を考えた。
ハルは俺のことが好きなのだろうか。
あのとき話そうとした言葉の続きは、なんだったのだろうか。
ハルの気持ちを知りたいのだが、それを恐れている自分の気持ちが、ぎゅうぎゅうと胸を締め付けていく。
神社につくと、冷たい風が俺の肌を刺すように吹いてきた。
自販機で温かいコーヒーを買って、いつものベンチにゆっくりと腰掛けた。
ふとホットカイロを買っていたことを思い出し、早速取り出して、ぎゅっと握りしめながら、熱を帯びてくるのを待った。
コーヒーを飲みながら、ポケットにしまったナイフのことを思い出し、慎重に取り出して眺める。
見た目はシンプルな構造で、派手な意匠もない。
木製の柄についたボタンを押し込むと、折りたたんだナイフを取り出せる仕組みだった。
これが、ヒメコの命を奪おうとした凶器。
こんな小さなものだけれど、人に怪我を負わせ、命を奪うことができるからか、それなりの重量を感じた。
妹がこのナイフで怪我を負わされたというのに、俺は何も感じなかった。
悲しみとか怒りとか、そんな感情さえも湧いてこない。
ただ、目の前で起きた出来事を淡々と思い出していた。
俺はヒメコのことをどう思っているのか。
いい加減に、この問題に向き合うべきなんだと思う。
彼女を許せないのか、それとも妹としてやはり大切に思うべきなのか。
その答えを出さない限り、俺は自分自身の過去にけじめをつけることはできないんじゃないだろうか。
けじめをつけることで、俺はようやくこれまでの過去から解放され、この世界で生きるカズオとして新たに生まれ変われるかもしれない。
どういうわけか、俺はそう考えている。
根拠なんてないけれど、そうすることで俺の気持ちが満足できるのであれば、それでよかった。
コーヒーをゆっくりと喉に流し込む。
いつものほろ苦さではない、異様な苦味が舌全体に広がってきて、せり上がってくる気持ち悪さがあった。
それの気持ち悪さも飲み干して、俺は深く深呼吸した。
コーヒーを飲んだ後にうたた寝をしていたらしく、サクラにゆすり起こされた。
「こんな寒いのによく寝れたね。凍死しちゃうよ?」
「ああ、ごめん」
座りながら寝ていた所為で、少し体が固くなっていた。
そしてとてつもなく体が冷え切っている。
「君はすぐに謝っちゃうよね。何も悪いことしてないのに」
サクラの指摘に俺は戸惑った。
指摘されて気づくが、確かに俺はなにかと「ごめん」という一先にが出てしまう。
「昔から人に非難されてきたからかな。考える前に、先に謝罪の言葉が出てきてしまうんだと思う」
「うーん。そうか」
サクラは納得がいっているのかいっていないのか、微妙な顔をしつつ俺の隣に座った。
「・・・ヒメコはどうだった?」
「おっ?やっぱり妹ちゃんの事が心配だった?」
俺が彼女のことを心配したのが意外だったかのような口ぶりだが、少なくとも心の底からあいつを心配しているわけではない。
「別に、今後の仕事のこともあるから」
「ふーん」
サクラはニヤニヤと笑った後、姿勢を正して言った。
「とりあえず、怪我はなんとかなった。私も妹ちゃんも、病院で警察に軽い事情聴取は受けて、その後は母親が迎えに来たよ」
「そうか」
どうやら、ヒメコは俺がいなくなったあとに、家を抜け出してネットカフェに行っていたらしい。
そして帰り道で事件に巻き込まれたようだった。
「私達の関係は明かしてない。私は通りがかりの赤の他人ってことにしておいた。妹ちゃんも賢いからね。きっと同じように口裏は合わせてると思う」
ヒメコを信頼しているサクラの言葉に、少し複雑な気持ちはあったものの、ひとまずは今後の仕事をどうするかについて聞きたかった。
「これからはどうなるんだ?」
「うーんと、さすがに警察も事件性があるからってことで、捜査はすると思う。ここ最近、通り魔も増えてるんだってさ。知ってる?」
「いいや」
「男女問わず襲われているらしいよ。それもなんと、フードを目深に被った人物にね」
サクラの情報を聞く限りでは、ヒメコもその通り魔の被害者だったことになる。
つまり、ヒメコが襲われたのは偶然だったのだろうか。
「さすがにどうかな。もしかしたらその通り魔を真似て、本気で妹ちゃんを殺しにかかった誰かかもしれない。それにあの殺人予告の手紙の後でこれだからね」
あの手紙は単なる虚仮威しではないらしい。
気が重いとは感じなくなかったが、次にまたヒメコが襲われた際に、その身を守ることができるかは自信がない。
なにせ、相手は本気でヒメコを殺しにかかった人物である。
これまでもサクラの仕事の中で、それなりに腕に覚えのある人間の相手はしてきたが、その時は丸腰の人間を相手にしていた。
あの時、ポケットにあるこのナイフで俺が怪我をしていたらと思うと、今更ながらに少し血の気が引いてくる。
「そのナイフ、見せてくれる?」
俺の思考を読んだのか、サクラが俺の目の前に手を出してきた。
ポケットに手を入れ、犯人の落としたナイフを取り出してサクラに渡した。
「ふむふむ。アウトドア用のジャックナイフだね」
まじまじとナイフを見ながら、サクラは考え事をしている。
しばらくナイフを隅々まで凝視した後、サクラはそれを自分のリュックに入れた。
「ひとまず、これはこっちで調べてみる。まあ、なにかしら痕跡は残ってるはずだから」
「警察には渡さないのか?」
「今更持っていってもね。今度はあたしが疑われかねないし」
サクラはあまり警察を信用していないようだった。
警察は事件が起きてからしか動かないし、起きたとしても行動が遅いこともある。
それに、警察で働いているのも皆人間だから、中には楽をしようとして適当なことをする輩もいるから、あまり信用できないのだそうだ。
「日本の警察は優秀なんだろうけれど、その分嫌なやつも多いからね」
溜息を吐いた後、サクラはベンチから立ち上がった。
「今日のところは妹ちゃんも家から出ないと思うし、あたし達もホテルに戻ろっか」
そして俺の前にすっと手を差し出してくる。
「待たせてごめんね。寒かったでしょ?」
「いや」
そこで、俺は「そんなことない」と言おうとしたけれど、その言葉を直前で飲み込んだ。
「・・・そうだな。早く温まりたい」
そう言ってサクラの手を掴むと、彼女はふてぶてしく笑ってみせた。
「そうそう。自分に正直になって良いんだよ。ここには君を非難する人間はいないんだから」
サクラの手には心地よいぬくもりがあった。
俺が手を取ると、彼女は俺をぐっと引っ張って立たせた。
「さて、明日の朝ごはん買って帰ろうか。何がいい?」
「ツナサンドかな」
「おっ、わかってるじゃん。君もあたしの色に染まってきたね」
「どういう意味だよ、それ」
天真爛漫なサクラに少しだけ元気を分けてもらったからか、足取りが少し軽く感じる。
こんな風に、誰かと他愛もない会話をしながら歩く夜道も、悪くはなかった。