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6/12

海のような人

8月になった。

日に日に増していた暑さは、今日でピークを迎えたらしい。

今日は朝からサクラと付き添って、とある不倫現場の証拠集めをした。

神社へは夕方頃に顔を出した。

煌々と照らされた西日は、しつこく熱を放っている。

容赦ない暑さに負けないくらいに、今日もセミがわんわんと喚いていた。

サクラによれば、セミは歓喜極まってあのように鳴いているらしい。

何が嬉しいのかはわからないし、1週間の短い命で、絶叫するほどの嬉しいことなんてあるのかと疑ってしまう。まあおそらく、サクラの冗談なのだろう。

そんなセミの鳴き声に包まれる神社を訪れるのは、俺だけではない。

「おまたせしました。仕事が長引いてしまって」

白いノースリーブのシャツと紺色のロングスカート姿のハルが、俺の前でペコリと頭を下げた。

彼女の手を取り「だいじょうぶ」と書いた。

「でも、外は暑かったでしょう?」

「それはおたがいさま」

気遣ってくれるハルだったが、別に俺は気にしていない。

ハルを待つ間、ペットボトルを1本空けたものの、彼女とこうして話をするためならば、暑さも苦にはならなかった。

やっぱり、俺は彼女に惚れているのかもしれない。

「いつもありがとう」

「いえ、こちらこそ」

ハルは少し疲れたような笑みを浮かべた後、俺の隣に座った。

その直後に、ふぅと小さくため息を吐いた。

ハルが溜息を吐くなんて珍しかった。

「なにかあった?」

「いえ、大丈夫です」

ハルはそう言ったが、なんだかその表情は浮かない。

「しごとはどう?」

「・・・まあ、それなりに忙しいです」

一瞬、言葉を詰まらせていた。

ここ最近、ハルはそんな調子だった。

どこか疲れた顔をしていて、いつものような明るさがなりを潜めているように見える。

仕事のことで、何か悩みでもあるのかもしれないが、無理に聞き出せそうもなく、俺はこれ以上この場でその話題に触れられなかった。

「そういえば、先日シンゴ君と会いました」

ハルも話題を逸らそうとした。

「げんきだった?」

「どうでしょう。でも、ちゃんと学校には行っているみたいです」

あれから、シンゴは児童相談所に一児保護された後、近くに住む親戚の家に引き取られることになって、正式に母親と引き離されることになった。

たまに学校帰りにハルの家に寄っては、チヒロさんに自分の現状について話をすることもあるらしい。

彼をいじめていた3人組については、サクラが正式に弁護士を立てて3人組の親にシンゴへの接近禁止令を出したのと、俺が撮影したシンゴをいじめている映像を教育委員会とマスコミに提出したのが決め手になり、地域に居づらくなって引っ越していったようだった。

これでシンゴを苦しめる要素はなくなったと考えてもいいのかもしれないが、問題はそれで解決できるほど、甘くはない。

シンゴが負わされた心身の傷は簡単には消えない。

これから、彼がどう乗り越えて生きていくかは、彼だけでなく、周囲の大人たちの対応にもよるだろう。

ハルもチヒロさんも、シンゴを心配して目をかけてくれているからまだいいが、結局は本人の行動次第なところもある。

人を助けるというのは、難しいものなのだ。

「やっぱり、母親が恋しんでしょうか」

ハルは少し寂しそうに言った。

「シンゴくん、時々自分の自宅周辺をうろうろしているみたいなんです」

その話は聞いたことがなかった。

サクラはそのことを把握しているのかはわからない。

「やっぱり、どんなに酷い毎日だったとしても、実の親のことは好きなんですね」

まるで、自分に言い聞かせるように話すハルを見て、俺は少し複雑な思いになる。

彼女は今、自身の父親のことと照らし合わせているのかもしれない。

「おとうさんのことをおもいだす?」

彼女の手の平にそう書き出すと、ハルは俺の方をはっと振り向いた。

「・・・サクラさんから聞いたんですか?」

「すこしだけ」

少しというのはだいぶ違う。

俺はサクラから詳細に、この世界のハルの父親のことを聞いている。

ハルが小さい頃に、父親は事業に失敗して多額の借金を抱えた。

そして、その借金をチヒロさんだけに残し、自分は雲隠れしたらしい。

事業が失敗してから夫婦喧嘩が絶えなくなり、それを間近で見ていたハルもその喧嘩に巻き込まれた。

ある時、父親がチヒロさんに向かって投げたガラスのアンティークが、ハルの頭に当たり、その破片が目に入って、彼女は失明した。

チヒロさんはすぐに夫と離婚を決意した。

その次の日、父親は家から出ていって、それ以来姿を見せなくなったという。

しばらくして、家に父親が金を借りていた知り合いや借金取りがやってくるようになり、チヒロさんは逃げるようにハルと引っ越しを繰り返したという。

「なんででしょうね。私から光を奪い、母を苦しめた父を許してはいけないはずなのに、どこかで切り捨てられないんです」

ハルは一度だって、父親から謝罪を受けていない。

彼女の言う通り、血の繋がりがあるからと言って、許されることとそうでないことはある。

それでも、彼女は思うところがあるようだった。

「たぶん、昔の優しい父を知っている分、どうしても同情してしまうというか、憎むことができないんです。・・・言葉にするのは難しいですが」

「だいじょうぶ?」

俺がそう書くと、ハルは赤く染まった空を見上げて言った。

「家族というのは、難しいものですね」

その言葉が、俺の心にも妙に突き刺さる。

家族でも愛せないし憎みたいという感情があるにも関わらず、俺たちはどこかで家族を捨てきれないでいた。

それが人として普通なのかもしれないが、だとしたら俺たちはいつまで、この感情に苦しめられなければいけないのだろう。

「深く考えるのもどうかと思うけどね」

突然、背後から声がして、俺とハルは同時に振り返った。

「なーに黄昏てんの?君たち」

サクラがニッと笑ってピースをしている。

「・・・えーっと、サクラさん、いつからそこに?」

ハルが恐る恐る聞くと、「最初から」とサクラはさらりと答え、ハルの隣にさっと腰掛けた。

「まあシンゴ少年のことは大丈夫だよ。私も一応、目を光らせているし、信頼できる人たちの支えもあるからさ」

「・・・だといいんですが」

「あれこれ考えてもしょうがないよ。人間ってのは、できることに限りがあるっていうでしょ?みんながみんな、他人のために自分の人生を削れる人ばかりじゃないんだよ。ハルちゃんはハルちゃんの幸せのために生きればいいんだって」

「・・・・」

サクラなりにあまり深く考えないように、と思っての発言だったが、ハルはなんだか納得いかないような顔をしている。

「やっぱり、考えちゃう?」

「ええ。サクラさんが言っていることは間違っていないですが、私はシンゴくんが少し心配です」

「ハルちゃんの心配事は、それだけじゃないよね?」

「えっ」

サクラはハルの何かを知っているような意味深な発言をした後、「よし」と言って立ち上がった。

「じゃあ、気分転換にカズオとデートしよう!」

「はっ?」

「えっ!」

俺とハルは同時に変な声を上げてしまった。

「悩んでいるときってさ。じっと考え込んでも答えなんてでないもんだよ。そういうときはクールダウンが必要ってこと。だから、2人でどっか遊びに行って、いっぱい美味しいもの食べて楽しんできたら?」

「いや、何言って・・・」

俺がサクラに意義を申し立てると、サクラはいたずらっぽい目で俺を見て笑っている。

なにか企んでいる。というより、楽しんでいるという目だった。

「いいじゃんいいじゃん!ハルちゃんもまんざらでもないでしょ?ていうか、あんたたち毎日こうして会ってるけれど、そろそろ次のステップに上がるべきじゃない?」

「え、えっと・・・」

ハルは少し顔を赤らめて俯いていた。

俺も、突然のことでテンパっている。

というかデートって言ったって、俺は誰にも姿が見えないのに、どうすればいいんだ?と考えてしまう。

「ていうか、カズオ。今度の仕事はこれね。ハルちゃんのために最高なデートプランを考えて実行する。はい、業務命令」

「そんな無茶苦茶な・・・」

俺は文句を言うが、サクラは面白がっていて話にならない。

「ハルちゃんはどう?うちのカズオとのデート」

「・・・その、私は・・・」

そう聞かれたハルは、顔を赤らめつつもこくりと頷いた。

なんというか、俺に配慮して断れずにいる、という感じだった。

「オッケー!よかったね、カズオ!んじゃ、そういうことで!」

俺がじっと睨みつけると、サクラはあっかんべーをして去ってしまった。

「えっと、ご迷惑ですよね」

ハルは顔を赤らめながら言った。

「私なんかと、その、デートだなんて」

その時のハルが、なんだか妙に愛おしく感じてしまう自分がいて、俺も顔が熱くなった。

「そんなことない」

と、俺はハルの手の平に書き出す。

思えば、こうして彼女の手を取っているのもどうかと思うのだが、他に自分の言葉を伝える手段もない。

今になって、変に意識してしまった。

「で、でも、私、障害者ですし、カズオさんにきっと迷惑をかけてしまいますよ!」

ハルは慌ててそう言い出した。

その言葉を聞いて、俺はかつてハルと話したあの頃のことを思い出す。


「だって、まだこの世界は、私たちには冷たいから」


障害者だから迷惑をかける?

俺はそう思いたくなかった。だって、ハルも言っていたじゃないか。

好きでこんな体になったんじゃないって。

「おれはいきたい」

「えっ?」

「きみとデートしたい」

「そ、そんな・・・」

ハルは困惑していた。

嫌なら強制はしたくないが、俺も少し意固地になっていたと思う。

ハルと一緒にいることは、絶対に迷惑なんかじゃないと証明したかった。

だから、俺は少し意地悪な質問をした。

「おれとはいやだ?」

「いやじゃないです!あっ」

ハルは口を滑らせたことを恥ずかしがるように、顔を俯かせた。

「なら、おれとデートしてほしい」

「・・・・」

「きっとたのしいものにするから」

「・・・はい」

ハルは小さく頷いた。

こうして、俺はハルと初めてのデートに挑むことになった。


とはいえ、俺は生まれてこの方デートなんてしたことはないし、そもそもどこかへ遊びに行ったという経験もほとんどない。

どんな場所に連れて行ったらハルが喜ぶのかなんて、全くわからなかった。

ネットに上がっているお決まりのデートスポットを検索してみると、遊園地などのレジャー施設や、景色の美しい行楽地とか、水族館に映画館、美術館や一風変わったカフェとかがピックアップされている。

でも、ハルは目が見えないから、視覚で楽しめる場所はあまり意味がないように思えた。

それに、あまり遠くに行くのは彼女の負担にもなるだろうし。

頭を悩ませていると、サクラがメールをしてきた。

「デートなら人の少ないところがいいんじゃない?参考にいくつかピックアップしておいたから」

という文章の下に、URLが載っていた。

クリックしてみると、とある温泉宿のホームページが出てきた。

以前俺とサクラが行った海の近くにあるようで、そこには宿泊客以外が利用できる足湯があるようだった。

周囲の景色の写真も風光明媚で、散策スポットも多いようだ。

景色はともかく、足湯ならばハルも楽しめることだろうし、ついでに海に行くのもいいだろう。

彼女は昔から潮の匂いと波音が好きだと言っていたから、泳がなくても楽しみ方はある。

今度のデートはここで決まったも同然だった。

「ありがとう。参考にするよ」

サクラにそう返信した。

距離的にも日帰りで行けそうだし、よく調べてみると、この時期は駅前で夏祭りも開催するようだった。

ハルも喜んでくれるといいのだが、とりあえず今度会ったときに伝えてみるのもいいだろう。

しばらくして、サクラからメールが返ってきた。

「私からハルちゃんに伝えておいてあげる。たぶん、この辺りは人も少ないと思うから、君も安心してゆっくりしなよ」

サクラなりに俺を気遣ってくれているらしい。

ともかく、デートの場所も決まったことだし、後は当日を待つだけだった。

しかし、時間が経つにつれて、俺は段々と不安になった。

実際にデートになったときに、ハルとのコミュニケーションはどうすればいいのか。

普段から会話はしているけれど、こういうときには何を話したらいいのか。

そもそも、今のコミュニケーション手段では、色々と不便なところもある。

ハルだって、簡単に手の平に書かれた文字を解読しているわけではない。無駄に疲れてしまわないだろうか。

というか、俺はまず周囲に見えないということをハルは知らない。

ハルが俺に話しかけてきたときに人がいたら、ハルは独り言を話すやばい人だと見られないだろうか。

・・・などと、いろんなことが不安要素として頭の中にぽつぽつと浮かんできた。

やっぱり、旅行なんて無理なんじゃないだろうか?

色々考えた挙げ句、サクラに相談することにした。

それを聞いたサクラは、「なんだ。そんなことね」と、まるで気にもしていないように答えた。

「別に大丈夫だよ。そんなことでいちいち悩まなくてもいいんじゃない?」

気楽にものを言うが、やはりあれこれと不安は尽きない。

「なら仕方ないな。あたしが特別に君たちに魔法をかけてあげよう」

サクラはえっへんと胸を張った。

「どんな魔法だ?」

「周囲の人が、君たちに興味を持たなくなる魔法だよ。つまり、君たちのことが見えないのと同じ状況にするわけ。そうすれば、心置きなくデートできるでしょ?」

そんなことが可能ならば、俺のことも見えるようにしてくれればいいのにと思う。

「それは無理。君はこの世界にいないっていう前提があるからね」

そこはさらりと否定されてしまった。

ともかくも、今はそのサクラの魔法とやらに頼るしかない。

そうこうしているうちに日にちは過ぎていき、いよいよサクラとのデート前日となった。


「・・・そういうわけで、今度の土曜日なんだけど、大丈夫?」

「はい。私は大丈夫です」

「オッケー。じゃあ、カズオのこと、よろしくね」

「ええ。こちらこそ、よろしくお願いしますと伝えてください」

「うん。休み時間中にごめんね。それじゃあ」

サクラとの通話を終え、ハルは携帯をしまった。

話をしている間、少し心臓が高鳴っていた。

男性と二人きりで出かけることなんて、人生で一度だってあったか思い出せない。

基本的に学生時代は独りで過ごすときが多かったし、友人だってサクラやアケミのような女性ばかりだった。

自分に男性の免疫がないことは十分理解している。

これまでデートなんて言葉とは無縁すぎて、いまいち何をするべきなのかわからず、今から緊張しているのが情けなかった。

決してカズオのことが嫌いというわけではない。

一緒にいて安心するし、話をしても楽しい。

それにどうしてか、初めて会ったときから、どことなく昔からの知り合いのように、気を抜いて話せる相手のようにさえ感じていた。

でも、そうだとしても流石にデートというのは、変に意識をしてしまう。

「カズオさん・・・」

思わず名をつぶやいてしまい、はっとなる。

もしかしたら、自分はカズオのことを、異性として意識しているのだろうか。

誰かを好きになったことはあるけれど、その時とは違うような感覚が、胸中にあった。

私は、あの人に何を求めているんだろう。

ふと、そんな疑問が浮かんでくる。

「ちょっと」

ふいに背中を小突かれ、ハルはびくっと体をこわばらせた。

「邪魔なのよ、さっきから」

声からして先輩のスドウだった。

「あっ、はい!すみません!」

「いつまで休んでいるつもりよ。午前中の仕事は終わったの?」

「あっ、課長からはお昼はしっかり休んで、午後からやればいいからと・・・」

「何?終わらせてないわけ?全く、これだから障害者は」

スドウの尖った言葉が、ハルの胸に突き刺さるように発せられる。

「せっかくうちの会社に入ったんだから、早く戦力になりなさいよ。うちにお荷物はいらないの、わかる?」

自分のコーヒーカップを洗いながら、スドウはハルのことを汚物を見るかのような目で睨みつけていた。

ハルにはそれがわからないが、声色でその人が自分のことをどう思っているのかぐらいはわかる。

「ちょっと、聞いてんの?めくらなんだから耳ぐらい開いときなさいよ」

「す、すみません」

「あたしたちが手取り足取りあんたに教えてやるなんて思わないでよ。私は障害者だからって甘やかすのは嫌いだし、社会人なら自分で調べて自分で行動するのなんて当たり前だから」

「・・・すみません」

スドウの口調は、明らかに自分に敵意を持っている声だった。

一応、新人のハルに対して業務を教える立場である彼女だが、出てくる言葉は教育にはいらないような罵詈雑言と障害者への差別発言だった。

めくらだからって何でもおんぶ抱っこしてもらえるなんて甘ったれないでよね」

本人はハルと対等に接しているなんて言っているが、実際のところ、彼女の言動は明らかな差別と障害者へのいじめだった。

ハンディキャップは甘えだと思っているようだが、ハルを雇っている以上、会社は彼女に合理的配慮をする義務がある。

しかし、そんなものはスドウにとってはどこ吹く風だ。

「すみません」

「さっきからすみませんばっかりじゃないの。本当にわかってるわけ?そんなんだからいつまでもお荷物なのよ」

スドウに肩を小突かれ、ハルは体を震わせて萎縮した。

スドウはハルのような若い娘に対しては、常にイライラしたような口調で話している。

特に、言い返したりしないハルなんて、丁度いいストレスのはけ口なのだろう。

一体自分の何が嫌いなのか。自分が障害者だから嫌いなのか。

それを知りたくても、取り付く島がない。

「スドウさん?今、課長が呼んでましたよ?」

そこに給湯室の壁をノックしながら、男性社員のヒロキがやってきた。

「えっ?ああ、ごめんなさい。すぐ行くわ」

スドウはヒロキの方を振り向いて、足早にその場を去ろうとした。

去り際にハルを睨みつけ、ヒロキの横を通り過ぎていく。

それと入れ替わるように、今度はヒロキが給湯に入ってきた。

「ハルさんもコーヒー飲む?」

ヒロキは給湯室に入り、冷蔵庫の上に置かれていた紙コップを一つ取って、コーヒーメーカーのボタンを押した。

「あっ、私は大丈夫です」

「そう」

ヒロキは笑顔を浮かべながら、ドリップされたコーヒーが紙コップに注がれる様を眺めている。

ヒロキはハルが入社する少し前に転職してきたらしく、歳は6つ上だった。

新しく入ってきた割には、事務作業にも慣れており、会社のシステムを使いこなしている。

「コーヒーは嫌いだった?」

「あっ、そうではないんですが、今はその・・・」

「気分じゃない?」

ヒロキの質問に、ハルはコクリと頷く。

「まあ、ここのコーヒーって、すぐに飽きちゃうよね。安物だし」

コーヒーが注がれたカップを手に取り、ヒロキは一口だけ口を付けた。

「うん。相変わらず酸っぱいね。そういえばハルさんはコーヒーはブラック派?」

「えっと、いつもミルクを入れてます」

「そうなんだ。僕はやっぱりブラックだね。どうにも、コーヒーに限っては甘いのは苦手で」

先程のスドウとのやり取りを、彼に聞かれただろうか?

ハルはそれが気がかりだった。

怒られているところを人に聞かれるのはやっぱり恥ずかしい。

「あ、あの・・・」

「ん?何?」

先程のやり取りを聞いていたか、思わず聞こうとしてしまって、ハルは口を噤んだ。

「やっぱり、なんでもないです」

「ああ、そう」

ヒロキはそんなハルに、爽やかな笑みを浮かべた。

彼はよくハルに話しかけてくる。何を考えているのか、正直わからないときは多い。

でも何かと雑談をしてくるヒロキに、最初は警戒していたハルも、今では質問をしに行けるようにはなった。

「なんか、良いことでもあった?」

「えっ?」

「さっき、楽しそうに電話してたのが聞こえたから」

「あっ!それは・・・」

電話していることを知られているということは、スドウに怒られていたのも聞かれていたのかもしれない。

ハルは恥ずかしさで、俯いてしまった。

「す、すみません。もう行きますね」

「ん?ああ」

耳を真っ赤にしながら、ハルは白杖を持って給湯室を足早に出た。

やっぱり恥ずかしい。

スドウだって、よりにもよって誰かに聞こえるような声で怒らなくてもよかったのに。

いや、そもそもあんな言い方をしなくてもいいのに、とハルは後からムッとなった。

ヒロキもヒロキだ。

せっかく聞いていたのなら止めてくれても良かったのに、とさえ思う。

・・・いや、待てよ、とハルはあることに気づいた。

ヒロキがずっとそこで聞き耳を立てていたのなら、課長にスドウを探すようにいつ頼まれていたのだろうか。

もしかして、全てを聞いていたから、嘘を吐いて自分からスドウを遠ざけたのでは?

なんて勘ぐっては見たものの、確証はなかったので、やっぱり思い込みだろうと思うことにした。

スドウの言う通り、自分はお荷物だ。

仕事もまだまだ遅いし、ミスだって多い。

自分が困っていても、助けてくれる人はいないし、声を掛けても忙しさを理由に断られることも多かった。

こんな自分に手を差し伸べる物好きなんているわけがない。

さっきのだって考えすぎだ。

ともかく、午後も集中しなければ。

今日中に仕事を終わらせないと、またスドウに怒られる。

それが嫌だから仕事を頑張っているようなところもある。

気持ちを入れ替えるように、ハルは白杖をギュッと握りしめた。


エレベーターが到着し、ゆっくり中に入った途端、ハルは溜息を吐いた。

自宅の付近の匂いが近づいてきたところで、いつも肩の力が抜ける。

なんとか今日も一日が終わった。

頼まれていた仕事も一応片付けたものの、明日もスドウにその件で怒られそうな気がしてならない。

彼女は重箱の隅をつつくように、細かな訂正やミスを指摘してくる。

ミスをする自分が悪いのだが、やり直しと言われるたびに、いつも余計な一言を付け加えられるのだから、辟易してしまう。

いつになったら、自分は認めてもらえるのだろうか。

時折、漠然とした不安がハルの胸中に灯のようにぽっと現れてくる。

自宅に着いて、母と食事を共にし、シャワーを浴びて自分の部屋のベッドに腰掛けた。

その時、メールが届いたことを知らせるバイブが響いた。

携帯に内蔵された機能で文章を読み上げると、サクラから「今度、カズオにメールアドレス教えるように言っておくね」という内容が返ってくる。

ハルはボタンを丁寧に押して、「ありがとうございます。よろしくおねがいします」と打った。

目が見えないハルにとって、未だにボタンのあるガラパゴス携帯は重宝する。

とはいえ、そろそろ寿命なのか、最近電池の消耗が激しいし、周囲の人間がやっているSNSを使うことができないのは、少し難儀なところだった。

スマートフォンにも視覚障害者向けの機能があることも知ってはいるが、今の経済状況では、新しくスマートフォンを買うのは当分先になりそうだった。

今の会社には障害者枠で入社したが、その場合の給料は大抵、一般の社会人の手取りよりぐっと少なくなる。

理由は色々とあるが、障害者はできることが健常者よりも限られているから、というのが暗黙のうちに存在している。

一応、障害者年金という制度もあるし、ハルも受給をしているが、それでも入社して約半年のハルの給料は健常者の初任給と比べるとだいぶ少なかった。

母と一緒に毎日働いていて家計を支えても、父の残した借金の返済が生活を圧迫している。

返している借金も、父がアングラなところから借りてしまったものはどうしようもないので、正規の借金だけコツコツと払っている状況だった。

そこの部分は、以前にサクラと再会したときに、彼女に整理を頼んでもらって、やっとなんとかなった経緯もある。

「・・・・」

そのままベッドに横になり、携帯を軽く握りしめた。

こんな状態では、将来への不安が募る一方だった。

結婚も自立も、いつになったらできるのかわからない。

もしかしたら、一生このままなんじゃないかとさえ思う。

障害者にも活躍のある社会を、と政府がスローガンを掲げてはいるが、今のハルにはそんなものは彼らの都合と利権によるものでしかないと考えていた。

どんなに頑張ったって、障害者は健常者よりも劣るのだから、人並の幸福も自立する力も得られない。

なのに、社会から自立を押し付けられているようにさえ感じていた。

握りしめていた携帯がまたバイブした。

驚いてむくっと起き上がり、急いで携帯を開いた。

またサクラからだった。

「カズオ、本当に楽しみにしてたよ!ハルちゃんも楽しんでね!」

読み上げられた文章は機械音で感情がこもっていなかったけれど、さまざまとサクラの弾んだ明るい声が想像できた。

「わかりました」

と打とうとした手を、ハルは途中で止めた。

本当に、カズオは自分なんかとデートをしたいと思っているのだろうか。

目の見えない自分なんて足手まといでしかないのに。

側にいる人と景色や光景を共有できないことが、どんなに虚しくて寂しいことなのか、カズオもサクラもわかっているのだろうか。

ネガティブな思考に入ろうとした時、こうも思った。

カズオはそんなことぐらい知っている。

だって、彼はしゃべれないのだから。

自分の思いを相手に伝えられないことだって、残酷なことだ。

私とハンディキャップのある部位が違うだけで、抱えている葛藤に差異はない。

だから、あの人は私の気持ちをわかっている。

私も、あの人の気持ちはわかる気がする。

その上で、あの人は私と一緒に同じ時間を過ごすことを選んでくれた。

なんでだろう。

その理由は、まだ答えられないけれど、もしかしたら・・・。

ハルの親指が再び文字を打ち始める。

「楽しみにしています」

送信ボタンを押し、再び携帯を閉じた。

深呼吸をした後、ゆっくりと天井の方に顔を上げた。

「カズオさん・・・」

もしかしたら、デートの中で理由がわかるかもしれない。

いや、それ以上に、デートを通じて何かが変われそうな気がする。

そう考えただけで、ハルは少しだけ心が弾んだ。


待ち合わせに指定した駅前のコンビニの駐車場にはベンチがあるので、そこに腰掛けてハルが来るのを待っていた。

この辺りは午前中は人通りが少なくなる。だからここを待ち合わせ場所に選んだ。

目を閉じて、サクラが言っていたことを頭の中で反芻する。

相手が「待った?」と聞かれたら、「俺も今来たところ」と答えるのが正解らしい。

初めてのデートということもあり、サクラからそれなりの心構えを聞かされた。

道路を歩くときは、さり気なく自分が車道側を歩くとか、ソファーと椅子があったら、絶対に女の子をソファーに座らせるとか。

どこまで実践する機会があるかはわからない。

でも、覚えておいて損はない、と思う。

異性とのデート。

そんなものが現実に起こる日が来るだなんて、思いもよらなかった。

予定の日が近づくにつれて、それまでなんともなかった気持ちが、次第にそわそわと落ち着きを失っていった。

情けないことに、俺は緊張していた。

こんなに気持ちがはやるのは、今までなかった。

恥ずかしい話、明日がハルとのデートだと考えただけで、昨日の夜はなかなか寝付けなかった。

こんなに予定を楽しみに待つという感覚が初めてで、正直動揺している。

唯一の救いが、そんな不甲斐ない俺の姿をハルが見ることがないという事実だけだ。

駅前の時計塔を見ると、時刻は9時55分になる。

そっとスマホに目をやるが、特にメールが受信された形跡はない。

約束の時間まであと5分。

先程からずっと、ハルの姿を自然と探していた。

たまにコンビニの前を通り過ぎていく女性の姿を目で追ってしまうが、ハルに似ている髪型や雰囲気の女性に、少し期待をしてしまう自分がいた。

実に恥ずかしいが、俺はいても立ってもいられなくて、1時間前からここにずっといた。

暑さなんてもはや気にならない。

大人げない自分の気持ちが本当に恥ずかしいと思いつつ、高揚を抑えられない自分に戸惑いもしていた。

一旦落ち着こうと思い、ベンチから立ち上がってコンビニの中に視線を向けた。

ここは元いた世界での、俺の職場だった。

今日は外国人の若い女性店員が、やる気のなさそうな表情でレジのお金を計算していた。

そこに買い物カゴを持ったクールビズ姿の男性がやってきて、女性店員が気づいてカゴを受け取った。

そういえば、このコンビニで俺の世界にいたアルバイトや社員の姿を見たことがない。

彼らはこの世界では、何をしているのだろうか。

少なくとも、俺よりも苦労を重ねていてくれればいい。

なんて意地悪なことを考えていた時、鈴の音が等間隔で聞こえた。

音のした方を振り向くと、白いワンピースと薄いピンクの麦わら帽子を被った女性が、白杖で地面を軽く叩きながらこちらに歩いてくる。

地面を叩く度に、白杖に付いた鈴がチリン、チリンと震えていた。

僕はゆっくりと歩き出し、彼女の横に来た。

彼女も気づいたのか、足を止めて俺の方に顔を向ける。

素早く彼女の手を取り、「おはよう」となぞった。

すると彼女はぱっと明るい顔になり、「おはようございます」と声を弾ませた。

「暑い中、お待たせしてすみませんでした」

そこで、俺はサクラから教えてもらったセリフを彼女の手に書く。

「おれもいまきたところ」

こういうときに吐く嘘はなんだか優しい感じがする。

「そうでしたか、よかったです。私、こんな感じなので、歩くのが人より遅いので」

そこにちょうど、時計塔が10時の時報を鳴らした。

「タイミングばっちりだね」

「そうみたいですね」

ハルがニコリと笑い、俺も釣られて笑った。

「いこうか?」

「はい」

なぞっていたハルの手を離し、俺たちは並んで歩き出した。

時折、駅の階段や段差の部分で誘導する度に、彼女の手を引いて歩いた。

駅の改札を抜けて、次の電車を待つ間、俺たちはさんさんと照らす日光を避けるように、日陰にあるベンチに腰掛ける。

「・・・・」

ハルも緊張しているのか、あまり話しかけてこない。

幸い、ここは小さな駅で人もいないから、今なら会話をしても困らない。

でも、俺も急に何を話したらしいいのかわからなくなった。

麦わら帽のつばのおかげで、ハルの表情がよく見えない。

普段は会話のネタは尽きないのだけど、こんなときに限って適当な話題が見つからない。

何か無理にでも話した方が良いはずなのに。

ひたすら、俺たちの周りで鳴くミンミンゼミの喧しい歓喜だけが、辺りにこだましていた。

ふと話題を思いつき、俺が彼女の手に触れた瞬間だった。

「あの」

ハルも同時に声を掛けてきた。

「あっ、すみません。先にどうぞ」

俺が手に触れたことに気づいたハルは、遠慮して俺に先に話させようとした。

「さきにどうぞ」

と俺が彼女の手に書くと、彼女は戸惑いつつも、「では」と軽く咳き込み、質問してきた。

「今日は、ご飯はどうされる予定ですか?」

それを聞いて、俺は思わず笑ってしまった。

「おれもおなじことをきこうとした」

「えっ!あっ、そうだったんですね!」

偶然の一致に、ハルも口元に手を当てて笑った。

少しだけ、お互いの緊張が解れた気がした。

「実は、今日母がお弁当を作ってくれたんです」

ハルはそう言って、持っていた自分のショルダーバッグを軽く叩いた。

「それはよかった」

一応、お昼は適当にどこかで買って食べようと思っていたので、チヒロさんの気遣いには嬉しくなった。

そこに電車の到着のアナウンスがホームに鳴り響く。

「ありがとう」

ハルの手にそう書くと、ハルは照れくさそうにふっと顔を背けた。

「い、いえ、そんな大したことでは・・・」

赤くなるハルの横顔を見て、俺は胸がきゅっとなった。

ハルは俺にいろんな顔を見せてくれる。そのどれもが、等しく愛おしかった。


乗り込んだ車内はほとんど人がいなかった。

せいぜい、大口を開けて寝ているスーツ姿の男性と、イヤホンをしながらスマホを弄っている若い女性しか乗っていない。

こうまで人がいないのも珍しいと思った。

この駅の前の駅は繁華街なので、そこで大量に降りる人はいるけれど、休日の昼前だというのに、人は少なすぎやしないだろうか。

ふと、サクラが言っていた「魔法」とやらの話を思い出した。

俺たちを他の人間から興味を失わせる魔法。

冗談半分だと思っていたが、もしかしたら、本当に効いているのかもしれない。それも俺が思っていた以上の効果もありそうだった。

電車はゆらゆらと揺れながら、音を立てて自然豊かな風景を通り過ぎていく。

以前は夜だったから、外は暗闇に包まれていたし、俺は少しうたた寝をしていたからよく見ていなかった。

改めて外の景色の移ろいを目にすると、広々とした田んぼと、それを囲む山々の麗しい緑、そして白い雲の漂う青い空が、陽の光の中で強烈に各々の色を発している。

電車のスピードに合わせて移ろいゆくそれらを見て、俺は少しだけ夏を感じた。

そしてこの景色を、ハルにも見せてやりたいとも思った。

「カズオさんは、海に行ったことはありますか?」

車窓から景色を眺めていた俺に、ハルが小さな声でそう尋ねた。

「あるよ」

「私も、昔一度だけあります。まだ、目が見えていたときに」

そう。

俺は彼女のおかげで、海に興味を持った。

それは初めて俺が、外の世界というものに憧れたきっかけだった。

「海の浅いところは透明でも、遠くの方に行けば行くほど、底は見えないですよね?」

ハルは真っ直ぐに前を見つめながら、そう語った。

「小さい頃は、光の届かない海の底の暗闇が少し怖かったんですけれど、今では思うんです。その深さには、別の世界が確かに存在しているんだって」

「別の世界・・・」

思わず口に出してしまったが、ハルは構わず続ける。

「光を失った私と、そうでない人の見る世界も違う。光があるかないかで、見えている景色は全く違うんです。海にはその2つの世界が同時に存在している。だから、私は海が好きなんだと思います」

それを聞いて、俺は思った。

ハルは常に闇しか見ることができない。

それを大抵の人は不幸なことだと言う。

けれど、本当はハルにはハルにしか見えていない世界が、確かに存在しているのかもしれない。

それは光のある世界に生きる俺たちには、決して見ることのできない世界。

ハルの目には、世界はどう写っているのだろう。それが気になった。

「いまのきみは」

俺はハルの手の平に指をなぞらせる。

「うみはどんなふうにみえるの?」

そう尋ねると、ハルは即答した。

「この目では見えないですけれど、イメージはありますよ」

「どんなイメージ?」

「それは・・・」

そこで電車が次の駅で停車する。

そこから少しずつ人が入ってきて、俺たちの近くの席にも座り始めた。

「・・・言葉にするのは難しいですね」

ハルは小さな声でそう呟いた。

それから数駅を過ぎた頃に、ようやく海が見えてきた。

海岸には、海水浴に来ている人々が、黒い砂粒のように密集して蠢いている。

人気のなくて、それでいて海を眺められる場所はあるだろうか。

それだけが心配だったが、サクラの魔法があるのであれば、なんとかなるかもしれない。

やがて、目的地の駅に到着した。

乗客が全員降りた後、俺はサクラの手を取って、さんさんと陽の光を浴びるホームへと一緒に降り立った。

俺たちが降りるのを待っていたかのように、電車のドアがすーっと閉まった。

「あっ」

ハルが突然声を上げた。

「潮の香りがします」

嬉しそうにそう言って、俺の手をぎゅっと握りしめてくる。

「海が近いですね。行きましょう」

高揚するハルの手を握り返し、俺は彼女の手を引いて、ゆっくりと改札を抜けた。

海水浴場は人で溢れかえっていた。

人混みが苦手な俺たちは、人で埋め尽くす砂浜を通り過ぎ、人気のない浜を見下ろせる堤防の近くの木陰に腰を下ろして、潮風とさざ波の音を楽しむことにした。

なるべく喧騒の少なく、それでいて海をはっきりと見下ろせる場所。

春に来たときと違って、今日の海は少し忙しない感じに見えてしまった。

人がいるかいないかで、見えてくる景色はこんなにも違うのかと、しみじみと思った。

浜辺で海水浴と日光浴を楽しむ大半の人とは違う俺たちは、どこか世界から切り離されているようだった。

海にだって、人それぞれの楽しみ方があるはずなのに、今日の海は俺たちの楽しみ方を否定しているように見えて、少し寂しかった。

ごうごうと吹く風に帽子を飛ばされないよう、ハルはずっと右手で帽子を抑えていた。

「さっきの質問ですけど」

ふと、ハルがこんなことを聞いてきた。

「カズオさんには、この海はどんな風に見えていますか?」

彼女の左手を取って、文字を書こうとするが、ぱっと良い言葉が見つからない。

今、目の前に見えている海は、俺の理想とする海ではない。

正直に書くとするなら、「人の垢で汚れていそうな海」だと答えるが、ハルはそんなセリフを求めているわけではないだろう。

もっと抽象的な、もしくは精神的な回答を期待しているのかもしれない。

「正直に答えて大丈夫ですよ」

そんな俺の胸中を察したのか、ハルはこう言った。

「今、カズオさんに見えているこの海を、一緒に共有したいので」

俺は少し考えて、彼女の左手に文字をなぞった。

「ざわついている」

「それは、人がですか?」

「ひともうみも」

そうなぞると、ハルはうんうんと頷く。

「私もそんな気がします」

俺たちの間を、一際大きな風が通り過ぎて行った。

「この海は、私のイメージする海とは違うってわかるんです」

「どうちがうの?」

「私が最後に来た海は、大きい感じがしました」

「どういうこと?」

「今日みたいに、風は荒々しかったですし、人の喧騒もありました。でも、その海は人を優しく包み込む穏やかな波と、喧騒さえも霞んでしまうほどの、雄大さがあったんです」

つまるところ、この海はハルにとっては小さいと感じているのだろうか。

「小さい頃は、海の広さと大きさに、心が吸い込まれそうな興奮を覚えました。でも、私が海に浸かってみると、波はゆっくりと、そして優しく私を受け入れてくれているようで、海水の冷たさとは裏腹に、なんだか心がぽっと温かくなりました。人に例えるなら、器の大きな人、みたいに」

言葉の一つ一つが、ハルの感受性の高さを匂わせていて、俺はまるでポエムを読むように、彼女の

言葉を噛み締めながら聞いていた。

「でも、それは子供の時の私が感じたことであって、こうして大人になって来てみると、当時のような途方も無い大きさは、なんだか感じられなくて。・・・やっぱり大人になるって、嫌なものですね」

最後の言葉は意味深に感じた。

「なにかあったの?」

「いえ、ただ・・・」

ハルは一瞬言葉を濁そうとしたが、考え直したのか、続けて俺にこぼし始める。

「・・・ただ、大人になると、世界が広すぎて、自分の立ち位置がどこなのかわからなくなってしまいますね」

ずっと海の方を向いていたハルは、急に顔を俯かせた。

「自分の存在が、あまりにもちっぽけすぎて、時々、私は何者なんだろうって、悩むことがあるんです。人に迷惑をかけて、冷たい視線を浴びせられるたびに、私が立っている場所が、少しずつ崩れて失くなっていくように感じるんです」

思いつめているハルに、何か声をかけてあげたくて、俺は彼女の次の言葉をじっと待っていた。

「すみません。せっかくのお出かけなのに、愚痴なんて聞かせてしまって」

しかし、彼女はすぐに気を取り直した。

「お腹、空きましたか?」

これ以上、聞き出すのも野暮だと思い、俺は「うん」と一言なぞった。

「少し早いですが、お昼にしますか?」

「うん」

「じゃあ、準備しますね」

ハルがバッグに手を入れると、風呂敷に包まれた四角い物体が出てきた。

風呂敷が解かれると、二段重ねの黄色いお弁当箱が姿を現す。

「一番上がカズオさんの分ですよ」

ハルが指を指した上の段の弁当箱を取って中身を見ると、左側に昆布の乗った白いご飯、そして右側に塩唐揚げと卵焼き、ミートボールとポテトサラダが入っていた。

すべて手作りであることが見てもわかる。

「お気に召しますか?」

ハルがそっと聞いてきた。

「母が、その・・・カズオさんと会うからって、気合を入れて作ってしまって」

照れくさそうなハルを見て、俺は自然と笑顔になった。

「とてもおいしそう」

彼女の左手になぞった。

彼女はぱっと明るくなり、「良かったです」と嬉しそうに言った。

早速、ハルと一緒にお弁当を食べてみた。

ハルのお弁当は、味玉の黄色いふりかけのご飯以外、俺と同じだった。

ハルが食べやすいように、時折彼女の箸を持つ手を弁当箱に誘導してあげた。

「いつもすみません」

その度に、ハルは申し訳ない顔をする。

「本当は食事も一人で食べられるようにならないといけないのですけど」

そんなハルに、俺は「あやまらないで」と書いた。

「できないことがあるのはあたりまえだから」

「ですが・・・」

「むりにやろうとしなくてもいい」

困惑する彼女に、俺は思ったことを必死に書いた。

「だれかにたよることはわるいことじゃない」

この世界でサクラやたくさんの依頼人と出会って、俺は気づいた。

自分にできないことがあったら、それを克服しようと努力することは正しい。

だけど、それは誰かに強制されることではない。

自分ではどうしようもない事が起きたら、誰かに助けを求めたっていいのだ。

それは弱いことでも、甘えたことでもない。

だってそのために人は、一人で生きていないのだから。

ハルは俯いて顔を上げ、海の方に顔を向けて呟いた。

「・・・潮風ってこんなにも強いんですね。飛ばされて、どこかに消えてしまいそう」

俺も海の方を見て、そして横を通り過ぎていく潮風を体全体で感じた。

その時、無意識にハルの左手をぎゅっと握っていた。

「おれがいるかぎりとばされないよ」

彼女の左手にそう書いてみた。

「とばされそうになったらおれがつかまえる」

ハルはこちらに顔を向けた後、少し嬉しそうに笑っていた。

「私、人よりも軽いから飛びやすいですよ」

「おれはおもいからだいじょうぶ」

そう書くと、ハルは声を出して笑った。


食事を済ませ、俺たちは手を繋ぎながら、ぶらぶらとその辺を歩いた。

途中で潮風に煽られ、飛んでいったハルの帽子を回収しに行ったり、防波堤に意味ありげに置かれた鐘を鳴らしたりした。

夕方頃、バス亭に戻って足湯のある旅館まで行こうとした。

俺たちがもうすぐ到着するというタイミングでバスが行ってしまい、30分ほどバスを待つことになった。

その間も、ハルといろんなことを話した。

彼女がジャズとクラシック音楽を愛していること。

昔からトマトが苦手で、大人になっても未だにあのぐしゃっと潰れた感触が苦手であること。

彼女は成長するにつれて、お淑やかで、それでいて可愛らしいところのある女性になっていた。

もし、俺がこの世界に生まれ落ちていたとしたら、彼女と出会うことはあっただろうか。

今の俺達は出会って日の浅い関係だが、子供の頃からの付き合いだとしたら、どうなっていただろう。

もしくは、俺が元いた世界でまた彼女と出会えていたら、俺はこんな風に彼女とデートができただろうか。

やがて話し込んでいるうちにバスが来て、俺たちはそれに乗り込んだ。

海を背にしてバスに揺られ、2つ目の停留所で降りた。

停留所の目の前の坂の上に、古めかしい雰囲気の旅館が建っている。

写真で見た景色が、そのまま眼下にあった。

「ここはとても良い香りがしますね」

ハルが周囲を見回しながら言った。

「どんなかおり?」

「葉っぱの青々とした香りと、木の匂いがします」

確かにここは森の中だし、自然の放つ独特の匂いはしてくる。

「あと、虫と鳥のさえずりも聞こえてきますね。自然のある場所に来るのは久しぶりなので、なんだか落ち着きます」

ああ、そうか。と、俺は合掌した。

ハルにとっては、これも普段から味わえない香りと音なのだ。

少しでもハルが非日常を味わってくれたのであれば、来た甲斐もあったと思う。

「いこうか」

そのままハルの手を引いて、旅館の横を通り過ぎ、無料の足湯へと向かった。

舗装された道の両側に、緑の葉をつけた木々が伸びていて、陽の光をうまく遮ってくれている。

この光景をハルにうまく伝えられないのがもどかしかったが、ハルも何かを感じているのか、時折、木漏れ日の中で上を向いたり左右を気にするような素振りをみせた。

やがて足湯に着くと、そこには誰もいなかった。

まだ陽が高いし、なんだかんだ暑いのもあるのだろう。

この時間は、あまり人が立ち寄らないのかもしれない。

ハルがお湯に触れて、「気持ちいいですね」と一言呟いた。

彼女はそのままサンダルを脱ぎ、白くて細い足を湯に入れた。

俺も靴を脱いで一緒に湯に浸かる。

外の暑さとは違い、体の中からホカホカと温まってくる熱に、思わず溜息が漏れた。

隣にいるハルは、湯の中で小さく足をバタつかせている。

「なんだか、幸せですね」

急に、ハルが俺の方にすっと体を近づけてきた。

俺はそれにドキッとなるものの、ハルは幸せそうに笑って、水面へと顔を向けていた。

その姿が妙に艶っぽくて、思わず凝視してしまった。

こんな至福の時を味わう権利を、俺がまだ持っていたなんて。

そう思いつつも、頭の隅で「いいんじゃない?」とサクラが語りかけてもいた。

今日ぐらいは、俺も色んなことを忘れて、くつろいだっていい。

自分で自分を許せているのも、この足湯のおかげなのだろうか。

ふと、ヒグラシの鳴き声が切なく頭上で響いていることに気づく。

「セミって、喜びに感極まって鳴いてるんですよ」

どこかで聞いた話だった。

ハルも頭上を見上げている。

「サクラさんが教えてくれました。そう考えると、なんだかセミの声もうるさいだけじゃないって思えますよね。彼らも短い生涯の中で、溢れる喜びを伝えようと必死なんですよ」

そうだろうか。

やっぱり俺には、やかましさしか感じない。

人に例えたとしたら、単に馬鹿騒ぎして大笑いしている集団と変わらないようにも思う。

そもそも、セミが何に歓喜しているのかもわからない。

しかし、サクラの話を信じて、セミに愛おしささえ感じるハルの感受性には恐れ入る。

「だけど、ヒグラシはとても切ない声で鳴きますよね」

確かに、ヒグラシの鳴き声はやかましさよりも、哀愁の方が聞いていて勝る。

聞くたびに、夕闇とか夏の終りとかを感じさせる寂しさがあった。

「彼らも喜びを伝えようとしているのなら、なんでこんなにも哀しくなるのでしょうか」

ハルは自分の心臓を掴むように、右手をギュッと握って左胸を抑えていた。

彼女にとっては、音は世界を認識する大部分を占めている。

そんな彼女だからこそ、ヒグラシの鳴き声一つ取っても感じるものが普通の人よりも多いのかもしれない。

ふと、急に喉が渇いてきた。

確か、少しここから歩いた先に、自動販売機が並んだ屋根付きの休憩所があったように思う。

「のみものをかってくる」

「はい。わかりました」

ハルの手にそうなぞった後、一度手を離して湯から足を出した。

そしてもう一度彼女の手を取り、「きみはなにかいる?」と聞いた。

「私は大丈夫ですよ」

ハルはこちらに顔を向けてニコリと微笑んだ。

「わかった」

そう手の平に書いて、俺はまた彼女の手を離し、その場を後にした。

赤と白、そして青色の自動販売機が3台並んだ四角い丸太屋根の小屋は、なんとなく湿っぽくて、そこだけ薄暗かった。

飲み物の種類は豊富だが、少し不気味な雰囲気の所為か、人っ子一人いない。

人も寄り付かない部分で言えば、俺としてはありがたい限りである。

ハルはいらないと言っていたけれど、それでも買っておいてやろうと思い、2人分のペットボトルのお茶を購入した。

ペットボトルを両手に持ちながら、夕暮れの木漏れ日で赤く染まりつつある石畳を歩いた。

虫たちの合唱、そして木々のせせらぎ。

自然と足取りもゆっくりになっていく。

ふと、ポケットに入れていたスマホがバイブした。

画面を開くと、サクラからメールが入っていた。

「調子はどう?あんまりがっつきすぎると引かれるから注意ね!あと、なるべくハルちゃんを一人きりにしないこと!それと、しっかりエスコートしてあげるんだよ。頼りがいのある男はモテるからね!」

最後はサムズアップの絵文字で締めくくられていた。

「わかった。言われたとおりにする」

そう返信しておき、なるべく早めにハルの元に戻ろうとした。

足湯の看板が見えたところで、2人の若い男がハルの背後にいるのが見えた。

彼女との距離は近い。

ハルも気配を感じて、彼らの方に振り向いていた。

その瞬間、一方がハルの口に手をやり、もう片方の腕で彼女を羽交い締めにした。

ハルは訳がわからないという顔で、抵抗している。

「お姉さんさ。こんなところで一人きりだと危ないでしょ?ていうか、目見えないみたいだし」

もう一人の男はそう言いながら、横に置いていたハルの鞄を漁り始めていた。

「にしても良い体してるよな。ちょっと俺達と付き合ってよ」

ハルはモゴモゴと抵抗しているが、その抵抗も虚しく、男はしっかりとハルを捕まえていて、微動にすらしていない。

すかさず、持っていたペットボトルを2人に向かって投げつける。一つは外れたが、もう一つは鞄を漁っていた男に当たった。

「いてっ!なんだ?」

男たちはペットボトルの投げられた方を見るが、もちろん彼らには俺の姿は見えない。

少し脅かしてやろうと、音を立てながらその足で足湯に浸かってみせた。

「お、おい・・・」

人の足の分だけ穴が空いたように、湯が凹んでいるのを見て、男たちは瞠目していた。

「や、やばっ!」

「お、おい!逃げろ!」

そのままゆっくりと近寄ってみると、男たちは尻尾を巻いて逃げ出した。

解放されたハルは、その場にへたりと倒れてしまう。

すかさず駆け寄り、彼女の左手を取って「だいじょうぶ?」となぞった。

「大丈夫・・・ではないです」

彼女の体を起こしてその場に座らせた。

男が漁っていた所為で、彼女の鞄の中身はその場に散乱している。

一つずつ拾い上げて、鞄に戻してやった。

幸い、彼女の財布と携帯は奪われていなかった。

ハルの横に座り、「ごめん」と左手になぞった。

「きみをひとりにすべきじゃなかった」

「いいんです。こういうのは慣れていますから」

ハルは立ち上がり、濡れた足を来客者向けに置かれていたタオルで丁寧に拭いた。

「障害者だから。あと女性だからというのもあるのでしょうが、以前からこういうことに巻き込まれやすいんですよね」

彼女は力なく笑った。

「よくひったくりに遭ったり、痴漢にあったり、道を歩いているだけで変な難癖をつけられることもありました。会社でも、以前の上司からセクハラを受けましたし。夜道はさすがに一人きりで絶対に歩かないようにしていますが、それでも色んな所で、こういうトラブルには出くわしやすいみたいで」

使ったタオルを元の場所に戻した後、ハルはこちらを見て笑った。

その笑顔は、酷く痛々しかった。

「そういう星の下に生まれてしまったんでしょうね。だから、慣れたものです。それよりも、助けていただいてありがとうございました」

ハルは深々と頭を下げた。

俺も立ち上がり、彼女の前に来て、左手を握った。

「かえろうか」

「・・・はい」

俺もタオルで足を拭き、その後は一緒に来た道を戻った。

その間、俺たちは一言も口を開かなかった。

無言のまま、手を繋いで帰り道を歩く間、いろんなことを考える。

ハルはさっきみたいなことには慣れっこだと言っていたけれど、そう思うほどに様々な悪意を向けられてきたのだとしたら、それは不幸という言葉で片付けられるものではない。

どうして彼女だけがそんな目に遭い続けなければならないのだろうか。

彼女が障害者だから?彼女が女性だから?

やっぱり納得はいかない。

口ぶりからして、彼女はこうなることに諦めを抱いている。

おそらく、ハルのことだから誰かしらに助けは求めたのかもしれない。

でも、それでも根本的な解決には至らなくて、どうしようもなくて諦めてしまったようにも見えた。

自分にはどうすることもできなくなって、そして他人の力にも頼れない。

その時初めて、人は絶望する。

どうすることもできない現状を受け入れて、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つだけ。

それでも諦めずに、自分で行動を起こして立ち向かう人なんて、架空の存在だと思うし、絶望を感じる中でも諦めずに誰かに助けを求めることができる人間も、ごく少数しかいない。

ましてや、どっかの誰かが不意に手を伸ばして助けてくれるなんて展開は、夢物語だ。

この世の中は弱い人間にはとことん冷たいのだから。

その時、ハルが俺の手を強く握ってきた。

見ると、彼女は険しい目をして顔を歪めている。

それが涙を堪えているということに少しして気がついた。

そうだ。

彼女には俺がいるじゃないか。それにサクラだって。

俺には夢物語の中の展開を、実現する力を持っている。

ハルのために、俺には何ができるだろうか。

今度はそれを考えてみる。

木々のアーチを抜けると、西日が半分ほど沈みかけていた。


バスを待つ間も、バスに乗り込んだ後も、俺たちはずっと手を繋いでいた。

離した途端に、彼女の存在が遠くなってしまうように感じて、それが怖くて手を離せなかった。

それはハルも同じだったのか、今までより確かな感触で俺の手を握っていた。

陽は徐々に沈んでいって、窓の外も次第に暗くなっていく。

外を眺めながらも、時折ハルの様子をチェックしていた。

ハルは目を閉じて、バスの揺れに身を任せていた。

やがて彼女の頭が俺の肩にことんと乗っかってくる。

どうやら疲れて寝てしまったらしい。

それでも、ハルはちゃんと俺の手を握っている。

周囲の客もスマホをいじるか、同じように居眠りをしているかで、こちらの様子に目もくれていない。

色々と連れ回しすぎたのは、彼女にとって負担だったのかもしれない。

それに、最後は嫌な思いもさせてしまった。

サクラの警告通り、俺が片時も側を離れずにいればよかったのか。

いや、そもそも俺は他の人に見えないのだから、連中はどっちにしろハルに襲いかかっただろう。

けれど、俺が近くにいれば、ああなる前に対処はできたはずだ。

終わりよければなんとやらだが、終わりが最悪の場合はどうなのだろう。これまでの楽しみも打ち消されてしまうものなのだろうか。

だとしたら、それはなんとも悔しい。

駅のロータリーに差し掛かり、俺はハルの肩を軽く揺すって、彼女を起こした。

ハルはゆっくりと目を開けて頭を振った後、バスが停まるまでじっと待っていた。

その間も、言葉は一言も交わさない。

ふと、窓の外にぼんやりとした灯りがいくつも見えたのに気がついた。

そしてわずかに響いてくる太鼓の音。

ハルもそれに気づいたようで、窓の方に顔を向けていた。

停車したバスから順番に降りた後、俺たちは駅前の商店街の方に振り向いた。

赤、黄、緑、ピンクの小さな提灯が至るところにぶら下がり、太鼓と笛のお囃子が鳴り響いている。

道の両側には、紅白の垂れ幕が張られ、様々な出店が商店街の奥まで続き、威勢の良い掛け声が頻繁にこだましていた。

浴衣を着た若い男女の姿や、騒ぎながら走り回る子供たちなど、異様な活気と熱がそこにあった。

「お祭りですか?」

それまで黙っていたハルが口を開いた。

「すこしよっていく?」

そう聞くと、彼女は首を横に降った。

だがその直後な、隣でぐうと大きな音がする。

「す、すみません」

ハルは少し照れくさそうに顔を背けて、お腹を抑えた。

確かに、普通なら今頃は夕食を食べている頃合いだ。

「おれもはらがへった」

そう書いた後、続けて提案してみる。

「なにかたべようか?ひとのいないところで」

すると、ハルは小さく首を縦に振った。

俺は彼女の手を引き、人の賑わう大通りを避けて、少し離れた公園へと向かった。

「少しお手洗いに行ってきます」

ハルがそう言って一人で公園のトイレへと入っていくのを見届けた後、俺は急いで祭りの中へと戻っていく。

とはいえ、俺一人で露店の品物を買うのは難しい。

だから、出来上がった品物を少し拝借して、お金を置いておく作戦を考えた。

混雑した通りは避けて、露店の裏側に当たる歩道を歩いて、店を物色する。

「こらこら」

すると、背後から柔らかい何かに頭を叩かれた。

「今になって盗みに目覚めるなんてね」

いつの間にか、ピコピコハンマーを持ったサクラが立っている。

頭にはアニメキャラクターのお面をつけているし、片手には食べ物の入ったビニール袋を下げていた。

完全に祭りを楽しんでいる姿だった。

「・・・いつからここにいたんだ?」

「割と早い時間にね。君たちがいつ来るのかずっと待ってたんだけど」

サクラはニタニタと笑っている。

彼女の手にかかれば、俺たちの居場所なんてあっという間にわかるのだろう。

「それより、ハルちゃんはどうしたの?一人きりにしないでって言ったのに」

その言葉が少し胸に刺さって、俺は気まずい気持ちになる。

「・・・彼女なら、トイレに行っている」

「ふーん」

サクラは何か察したように眉をひそめ、俺にビニール袋を渡してきた。

「これは?」

「焼鳥と焼きそば。お腹空いてると思って買っておいた」

「あ、ありがとう」

サクラに手渡されたビニール袋から、食欲をそそる匂いがしてくる。

「あ、それとさ」

そして俺にそっとささやく。

「この後、花火が上がるらしいよ。その時がチャンスだから」

「はっ?チャンスって?」

「まあ、彼女をものにするかどうかは君次第ってこと。それじゃ」

サクラはそのまま人混みの中に消えていった。

彼女が何を言いたいのかは分からずじまいだが、でも良いことを聞いた。

せっかくだし、花火を眺めてから帰るのもいいかもしれない。

人気のない道を選んで、俺は公園へと急いで戻った。

頼りない街頭の灯りを頼りに、薄暗い公園の中でハルの姿を探すと、トイレの近くのベンチにちょこんとハルが座っているのが、かろうじて見えた。

俺の足音に気づいたハルはすっとこちらに顔を向ける。

サクラからもらった食事を横に置き、ハルの隣に腰掛ける。

「美味しそうな匂いですね」

ハルはすんすんと鼻を動かした。

「やきとりとやきそば」

彼女の手にそう書いた後、ビニール袋から透明なタッパーに包まれたそれらを取り出す。

焼き鳥はねぎまとつくね、そしてぼんじりの3種類で、タレと塩が一つずつあった。

タレと塩のどちらを食べたいかハルに聞くと、彼女はタレと答えた。

ハルの右手にタレのねぎまを持たせる。

「いただきます」

小さく呟いて、ハルは一口ほおばった。

「・・・おいしい」

ハルの口角がゆっくりと上がり、優しい笑顔を取り戻していく。

俺も塩のつくねを取って一口囓った。

時間は経っているものの、まだ熱が中に残っていて、食べやすい温かさだった。それにどこかほっとする味である。

冷めないうちにと、焼きそばのタッパーも開いて、ねぎまを食べ終えたハルの右手に割り箸を持たせる。

彼女と焼きそばをシェアしつつ、焼き鳥も順に平らげていった。

黙々と食べ続けたので、すぐに空のタッパーと串だけが残った。

「まんぞくした?」

「はい。おかげさまで」

ハルはニコリと笑って言った。最後の最後で、またこうして笑顔を取り戻せたのは本当に良かった。

「きょうはありがとう」

「いえ、こちらこそ。カズオさんのおかげで、明日からも頑張れそうです。ありがとうございました」

ハルはそう言うと、さらに俺の方に体を近づけた。

どきっとなって、心臓が少し熱くなる。

その時、遠くの空からピューと甲高い音が鳴り響き、その直後に空がぱっと橙色に明るく照らされた。

ハルは驚いて体をびくつかせ、不思議そうに空を見上げた。

「はなび。そらにあがっている」

彼女の左手にそう書いて教えてあげた。

「そうなんですね」

何の音かわかったハルは、少し安心した様子だった。

そして花火の上がる黒い空をしばらく2人で見上げた。

「あなたと一緒に同じ光景が見れたら、幸せなんでしょうね」

やがてハルがぼそりと呟く。

「きにしないで」と書こうとしてやめて、別の言葉を彼女に手に書き出す。

「きみといるだけでじゅうぶんだよ」

ハルは俺の方に顔を向けた後、少し俯いて言った。

「・・・私の中の海がどんなイメージなのか、少し言葉にできそうです」

ハルは照れくさそうな、それでいて柔らかい笑みを浮かべていた。

「光のある明るい浅瀬と、包まれるような深い底。見えている部分よりも、海はもっともっと深い。・・・まるで、カズオさんみたいですね」

「えっ?」

思わず俺は声を出してしまった。

「カズオさんがどんな顔をしていて、本当は何を思い、何を考えているのかはわかりません。でも、その心は本当に大きくて深くて、優しさで満たされている」

やがて、ハルは俺の方を見て、柔らかな笑みを湛えた。

その笑顔が、緑と黄色の花火の灯りで照らされる。

「話せば話すほど、関われば関わるほど、カズオさんという人が知りたくなってしまうんです。だから、カズオさんは海のような人なんだと思います」

「・・・・」

すぐに答えられないでいると、彼女は急にはっとなって、顔を赤らめた。

「す、すみません!変なこと言ってしまって・・・」

彼女の言わんとしていることはわかる。

でも、ハルには俺がそんな風に見えていることに、驚きよりも嬉しさの方が込み上げてきた。

俺が気づかない自分自身も、彼女には見えて感じられるのかもしれない。

「ありがとう」

そう書き出した後、その手をぎゅっと握りしめた。

「カズオさん」

ハルも俺の手を握り返しくれる。

その手のぬくもりに、心までが温かくなっていくようだった。

「私が、どこかへ消えそうになったら、この手を握ってくれますか?」

「うん」

その言葉の真意はわからなかったが、俺ははっきりとそう答えた。

俺はいつだって、彼女のことを見守る。

いや、見守るだけじゃなくて、実際に守っていくつもりだ。

俺の姿は他の人に見えない。

それでもいい。

俺がいるということを、彼女だけが知っていてくれれば。

打ち上がる花火が輝くのは、あっという間の時間だけ。

でもその一瞬を、人は目に焼き付けようとする。

その一瞬だけでなく、今このときのハルの手の感触さえも、脳裏に焼き付けておきたいと思った。

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