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そして笛を吹く

神社から30分くらいの距離を歩いていくと、そこは住宅の密集する風景とは打って変わって、雑木林や田園が広がっていた。

そういえば、小学生の頃に一度だけ学校の遠足で、この風景の中をバスで通ったことがあった。

あの時は、アスレチックが有名な公園に行く途中だった。

そのアスレチックには、池に浮かんだ丸太のいかだがあって、ロープを手繰り寄せながら対岸まで行くというコースがあった。

泳げなかった俺は、リョウジたちに無理やりいかだに乗せられて、池の真ん中に放り出された。

恐怖でロープにしがみついていたけれど、リョウジたちがロープを思い切り揺らした所為で、結局池に落ちてしまい、ずぶ濡れのまま家に帰ることになった。

家に帰って、母に「みっともない格好で帰ってくるな」と怒られたのを覚えている。

それは叱るというよりは、蔑みに近いものだった。

そんな苦い思い出が振り返りつつ、俺はサクラと田園風景の中を歩いた。

「やっぱ夏っぽいね」

唐突にサクラがそんなことを口走った。

「そう思わない?子供の頃、よくこういう田んぼ道とかを、ランドセルしょって友達と歩いたりさ」

「俺にはそういう経験は一切ないんだけど」

「まあ、あたしもないんだけどね」

なんだか虚しいことを、サクラは歯を見せて笑いながら言った。

「子供の頃に読んだ本にさ、そういう景色の中を主人公と悪友3人が学校帰りに歩くシーンがあって、なんだか憧れたなー。大人になったら、彼らはこれが夏の思い出になるんだろうなって。あたしには出来ないってわかってたから、なおのこと憧れたもんだよ」

その憧れを、大人になって経験しているからか、サクラの足取りはとても軽かった。

るんるんと、たまにスキップをしたりして、田んぼと雑木林を挟んだ歩道を軽快に歩いている。

そういえば、俺はサクラの過去を知らないし、詮索すらしたこともなかった。

「知りたい?」

また、俺の考えを勝手に読んだらしいサクラは、くるっと俺の方に体を向けてそう聞いてきた。

「いや、プライベートなことだし」

「なんだよー」

俺が断ると、サクラは頬を膨らませた。

「せっかく気分がいいから、話してあげようかと思ってたのに」

「話したい、の間違いじゃないのか?」

「連れない奴」

そして、また前を向いて歩き出した。

だが、数歩進んで急に立ち止まる。

「あたし、一度死んでるんだよね」

「えっ」

「ある意味、殺されたのかな」

前を向いている所為で、サクラの表情は見えなかった。

「誰にやられたんだ?」

「やっぱ気になる?」

振り向いたサクラは、茶化すような笑みを浮かべている。

その所為で、今の話が本当のことなのかがわからない。

「まあ、いつか教えてあげてもいいよ」

サクラはそう言って、またスキップを始めた。

半年にもならない時間だけど、大半の時間を一緒に過ごしているのに、俺は彼女のことを殆ど知らない。

いや、俺自身が彼女のことを本気で知ろうとしていなかった。

今までの俺は、人間というものに興味がなかった。

人間そのものに、悪意とか絶望とかを感じて生きてきたからだろうか。

でも今の俺は、これまでの俺とは違う。

「是非、今度教えてくれ」

俺がそう言うと、サクラはくるっと振り向き、きょとんとした表情を浮かべた後、にっと笑った。

それからしばらく歩いたところで、サクラが前方を指差した。

数軒の民家の間に、郵便局がある。

その横には確かに、公衆電話のボックスがあった。

早足で近づいてみると、郵便局のベンチに、神社でよく見かける少年が、俯いた様子で座っていた。

「よっ、久しぶり」

サクラの到着に気づいた彼が顔を上げる。

彼の右の頬は赤く腫れていた。

それを見て俺は一瞬立ち止まったが、サクラはゆっくりと少年に近づき、バッグからペットボトルのお茶を取り出した。

「ほら、これ飲みな」

サクラが差し出したペットボトルを少年は恐る恐る受け取った後、蓋を開けてゆっくりと飲んだ。

少年の横に座ったサクラは、彼の赤く腫れた頬をじっと見つめる。

「そのぶたれた痕と、ここにいる理由は関係あるよね?」

「・・・うん」

お茶を飲んだ後に、少年は小さく首を縦に振った。

「もうどうしようもないから、私に助けを求めたんだよね?」

「うん」

「なら、お話を聞かせて。あと、君の名前も」

サクラは少年の小さな膝に手を当てて言った。

「あたしは君の味方だから」


その少年、シンゴは現在小学4年生だった。

その割には背も小さいし、とても痩せている。

着ている服も、彼と最初に出会った日と同じ格好だった。

シンゴの両親は彼の衣食住に金をほとんど掛けないようだった。

正確には、彼の本当の家族は母親だけで、彼らと一緒に母親の恋人が暮らしているのだそうだ。

そして頬の痣は、その恋人にやられたものだと言った。

その恋人、ケンスケはある日突然、シンゴの母親が連れてきて、それ以来家に居座っている。

特に定職に就いている様子はなく、シンゴの母から金をせびっては、どこかへとふらふら出かけて行くことはあるが、ほとんどは家でだらだらと過ごしているようだ。

時折、夜遅くまでシンゴの母親とケンスケが喧嘩をしているのをシンゴは耳にしている。大抵、何かが壊れる音と、母親の泣き叫ぶ声と共に喧嘩は終わるらしい。

シンゴによると、喧嘩の原因は基本的に金に関することがほとんどで、ケンスケがシンゴの母親に遊ぶ金を無心し、それを出し渋る彼女を最終的に殴るという展開だった。

ケンスケの暴力の矛先はシンゴにも及んでいるわけだが、顔が気に入らないとか、可愛げがないとか、自分に懐かないという些細な事でシンゴは頬を拳で殴られたり、腹を蹴られた。

シンゴに直接原因が無くても、ケンスケの虫の居所が悪ければサンドバックにされた。

大人の力で子供を殴ればどうなるかは誰でもわかる。

シンゴの母親もそれはわかっているが、ケンスケに逆らえば自分が殴られるため、シンゴに対する暴力を止められないでいた。

以前、シンゴの怪我を見た近所の人が児童相談所に連絡をしたらしく、シンゴの家に職員がやってきたことがあった。

でも、その時はシンゴの母親が対応し、職員も質問をするだけで特に何もせず帰ってしまった。

その後も具体的な対策を立てることなく、解決済みにされてしまったらしい。

家庭環境も最悪だったが、彼は学校でも地獄を見ていた。

真面に食事も与えられず、風呂も入れず、新しい洋服も買ってもらえないシンゴは、そのみすぼらしい身なりを理由に周囲から迫害を受けていた。

クラスにいる3人組の男子から、毎日のように虐げられ、クラスメイトからは無視をされ続け、担任の先生すらも彼の状況を止められずにいた。

どんなに暴言を吐かれ、暴力を振るわれても、彼は何も言わなかった。

正確には、周りの人とどう関わっていけばいいかがわからないらしい。

前述の家庭環境、そして周囲からの理不尽な扱いを受けていれば、どう他人と接していけばいいのかわからないというのも不思議ではない。

サクラに助けを求めた時に最初に無言だったのも、人に助けを求めた経験がなく、どう相手に話しかければよいのかがわからなかったから、だそうだ。

「それでも、あたしに声をかけてくれたんだね」

ここまで拙い言葉で語り終えたシンゴは、小さく頷いた。

「そっか。勇気を出したんだね。えらいえらい」

サクラはシンゴの頭をそっと撫でた。

シンゴはびくっと体を震わせ、困惑した表情を浮かべる。

きっと、こうして人から撫でられた経験もないのかもしれない。

まあ、俺もないけれど、だからこそ彼の心境が痛いほど伝わってくる。

次第に撫でられていくうちに、シンゴは照れ臭そうに顔を背けた。

「ここにはどうやってきたの?」

頭を撫で終えたサクラはそっと彼に尋ねる。まるで、繊細なガラス細工に触れるかのような、静かな声で。

「・・・あいつの車で」

シンゴは吐き捨てるように言った。

「さっき言ってたケンスケのこと?」

「うん」

「ケンスケはどこに行ったの?」

「家に帰った」

「つまり、置き去りにされたってこと?」

「うん」

「理由は?」

「・・・・」

しばらく黙った後、シンゴは絞り出すような声で言った。

今日、学校で彼は自分をいじめる3人組に、暴行を加えられた。

その光景をたまたま別のクラスの先生が目撃し、シンゴは3人組と一緒に職員室に連れていかれた。

三人組は「ただじゃれていた」という感じで、いじめをしていたわけではないと宣い、さらにシンゴが「自分たちと遊ぶ約束だったのに、ドタキャンした」などと、彼が悪いかのようなことを言い始めた。

シンゴはその場で何も言えなかった。

本当のことを言えば、3人組に後で何をされるかわからなかったから。

結局、先生も重大ないじめだと認識せず、彼らを注意しただけで終わった。

しかし、学校はそういう事態が発生したことを、シンゴの家に連絡してしまった。

そして運が悪いことに、その日はケンスケが家にいて、たまたま電話に出てしまった。

シンゴは帰って来るや否やケンスケに捕まり、いじめられた際にやり返さなかったことを責められた。

どうもケンスケにしたら、自分の子供がいじめられるほど弱い人間であることが我慢ならなかったらしい。

散々怒鳴りつけた後、ケンスケはシンゴに「病院に連れて行ってやる」と言って車に乗せた。

しかし、彼が向かったのは病院ではなく、ここから少し離れた雑木林だった。

ケンスケは「修行の一環だ」と言って、シンゴを無理やり車から降ろした。

「暗くなる前に家まで帰れるぐらいの度胸を付けろ」

そう言って抵抗するシンゴの頬を殴り、ケンスケはそのまま車を発進させてしまったのだとか。

そして、シンゴは自力でここまで歩いて行き、公衆電話の釣銭ボックスにたまたま残っていた10円玉で、サクラに連絡を取ったとのことだった。

「どうして、まず先にあたしに連絡してくれたの?」

サクラが尋ねると、シンゴはくしゃくしゃになったサクラの名刺を取り出した。

「他に頼れる人が思いつかなくて」

「警察には連絡・・・してないよね」

サクラは何かを察したように、途中で言葉を変えた。

俺もなんとなくわかった。シンゴは、警察には連絡したくなかったんだと思う。たぶん、彼はそうしたところで、何も変わらないと思ったのだろう。

もしかすると、彼はすでに警察を頼ったことがあるかもしれない。そして、その時に結果として何もしてもらえなかったと学習した可能性もある。

「ありがとうね」

サクラは空を見上げながら微笑んだ。

「呼ばれたからには、あたしは君を助ける義務がある。なんせ、君は依頼主だからね」

「いらいぬし?」

「そう。ここからはあたしの出番。依頼主の幸福のために働くのがあたしの仕事だからね」

ニカッと笑ってサムズアップをするサクラだったが、シンゴは途端におろおろし始める。

「でも僕、お金は・・・」

「わかってる。だから今回は出世払い」

そして、柔和な笑みを浮かべて、シンゴに語り掛けた。

「いつか君が大人になって、偉い立場の人間になって、いっぱいお金を稼げるようになったら、払ってくれればいい。こう見えてあたし、お金には困ってないから」

粋な計らいだな、と思いつつ、本当はサクラには何か別の思惑があるのではないかと俺は思ってしまった。

というのも、サクラはどんな背景があったにせよ、依頼主にはしっかりと仕事に対する対価を請求しているからだ。

例え子供でもそれは変わらないと、サクラは以前言っていた。

シンゴに対して、そんな例外措置を取るのは少し妙だった。

「ちなみに聞くけれど」

さらにサクラはこんなことを尋ねる。

「君は、具体的に彼らをどうしてほしい?君を苦しめ、痛めつけている連中に対して」

その一瞬だけ、微かにサクラの雰囲気が変わったように感じた。

いつも見ている彼女の微笑みのはずなのに、それが酷く冷たいもののように思えたのだ。

俺は少し体を引いた。

「・・・僕は」

俯いたままのシンゴは言葉を濁らせる。そのまま沈黙が流れる中、サクラは言った。

「今の君の現状を救うということは、彼らをどうにかしなくちゃならない。しかも、あたしたちのやり方はそんじょそこらの大人よりも甘くはない。もちろん、君に火の粉が掛からないようにはできるけれど」

サクラは俯くシンゴの顔を覗き込んだ。

「・・・君は彼らにどんな結果を望む?」

すると、シンゴは目を伏せながら言った。

「僕は、ただ苦しみたくないだけ」

それを聞いて、サクラは少しだけ目を丸くした。

「また、お母さんと一緒の、幸せな毎日に戻りたいだけなんだ。あんな奴らをどうするかなんて、僕にはどうでもいい」

それを聞いたサクラはふんふんと頷いた。

「なるほどね」

そしてぴょんと立ち上がり、シンゴの頭をぐしぐしと撫でた。

「オッケー。じゃあ、契約は成立だね。あたしはサクラ、よろしく」

サクラがぐっと手を伸ばすと、シンゴは恐る恐る彼女の手を握り、ぎゅっと握りしめた。


サクラはどこかに電話をした後に、シンゴを連れてある所に向かった。

そこは俺にも見覚えがあった。

とある団地の一画。かつて、襲われていたハルを助けた場所だった。

シンゴは見慣れない土地に不安がっている様子だったが、サクラの手を握りながら大人しく付いて行った。

団地のマンションの2階に上がり、突き当りのとある部屋の前に立つと、サクラは慣れた様子でインターホンを鳴らした。

「はーい」

インターホンから落ち着いた女性の声が聞こえる。

「こんばんは。サクラです」

「ああ、いらっしゃい」

中から人の動く気配を感じ、足音がドアへと近づいてくる。

ドアがゆっくりと開くと、一人の年配の女性が出てきた。

「サクラちゃん、こんばんは」

髪を肩で緩く纏めた、おっとりした雰囲気の人だった。

「あれ?」

よく見ると、どこかで会ったことがある。

というよりもこの人は・・・。

「こんばんは、チヒロさん。ごめんなさい。急に連絡しちゃって」

「いいのいいの。ささっ、上がって。ハルはもう少ししたら帰ってくると思うから」

やはり、面影からして、その人はハルの母親だった。

昔、一度だけ見たことがあったけれど、あの頃とそこまで雰囲気は変わっていなかった。

それに、やはり親子というだけあって、今のハルと少しだけ輪郭も顔の形も似ている。

「お邪魔しまーす」

サクラは慣れた様子でハルの家に上がっていった。

シンゴはおどおどした様子で、サクラの後に付いて行った。

俺も後に続いて静かに家の中に入る。

「それで」

リビングに入ると、ハルの母親であるチヒロさんは、サクラの後ろに隠れるようにしていたシンゴを見て言った。

「その子が電話で話していた子?」

「うん、名前はシンゴくん」

「そっか」

そしてチヒロさんはシンゴの前でしゃがみこみ、彼に優しい微笑みを向けた。

「はじめまして。ようこそ、シンゴくん。私はチヒロ。よろしくね」

チヒロさんはシンゴの頭を軽く撫でた。

「ここまで疲れたでしょ?とりあえず、お風呂湧いてるから入る?上がる頃にはご飯も出来上がるからね」

そう言ってチヒロは笑顔のまま立ち上がった。

シンゴは訳が分からない様子でサクラの方を見た。

「君、どうせあの家にはすぐに帰れないでしょ?とりあえず、夕飯ぐらいはご馳走になっていきなって」

サクラも笑顔を浮かべて、シンゴの肩を軽く叩いた。

「あっ、お風呂の場所わからないわよね。案内してあげる。おいで」

チヒロさんは笑顔でシンゴを手招きした。

シンゴはサクラの方を一瞥した後、遠慮がちにチヒロに付いていった。

「一体、何を頼んだんだ?」

チヒロとシンゴが風呂場へ行っている間に、俺はサクラに尋ねた。

「別に。ちょっと保護した子がいるから、少しだけご飯食べさせてあげて欲しいって言っただけ」

「よく承諾してくれたな」

部屋の様子を見渡してみる。

ダイニングキッチンと、その正面に正方形のテーブル、そして椅子が2脚。2人がけのソファーと小さな薄型テレビだけの、シンプルな部屋だった。

物があまり置かれていないと感じるのは、おそらくハルのためだろう。

彼女にとって、生活しやすい空間にしてあるのかもしれない。

「ハルのお母さん、だよな?あの人」

「うん」

サクラは慣れた様子で椅子を一つ引いて腰かけた。

「チヒロさんも、シンゴと似たような経験してるからね」

「えっ?」

「小さい頃に親に捨てられて、孤児院で育った人だからさ。自分と同じような経験をしている子の力になりたいからって、今はソーシャルワーカーの資格を取ろうと勉強しているみたいだし」

「そうなんだ」

もしかしたら、ハルが突然地元から引っ越したのも、それが理由の一つなのかな、とふと思った。

「ふう。さてさて」

やがてチヒロさんがパタパタとスリッパを鳴らしながらリビングに戻ってきた。

「シンゴくんはお風呂?」

「うん、結構汚れてたからね。今晩御飯の支度中なんだけど、せっかくだからサクラちゃんも食べていく?今日はカレーよ」

「うーん。そうしたいのは山々だけど、実はこの後ちょっと野暮用があって」

サクラはそう言って、ちらっと俺の方に視線を向けた。

きっと、食事が出されない俺に遠慮しているんかもしれない。

「1時間もしないうちに戻ってくるから、その後、シンゴくんを連れて帰るね」

「そっか、大丈夫よ。仕事は忙しいのね」

「まあね。また今度、ご馳走になるね」

「ええ。いつでもいらっしゃいな」

チヒロさんはにっこりと笑顔を浮かべた。


外に出て、しばらくサクラとぶらぶらとその辺を歩いていた。

「うーん」

途中からサクラは唸りながら顔を歪めていた。

「どうかしたのか?」

「いや、ちょっと音がね」

「音?」

「モスキート音っていうの?蚊を追い払う周波数があってね。それが耳障りで」

先程からそんな異音はしない。辺りには虫の鳴き声くらいしか響いていない。

耳を澄ませみても、聞こえなかった。

「あたし、耳は良いからさ」

サクラは溜息を吐きながら、足早にその場を去ろうとした。

「俺に遠慮しなくてもよかったのに」

あのまま家にいれば、そのモスキート音とやらに悩まされずに済んだだろう。俺がそう言うと、サクラは「何言ってんの」と笑いながら言った。

「君だけカレーが食べられないのは辛いじゃん。皆が美味しそうに食べているところで独りきりになんかしないって」

「・・・そうか。ありがとうな」

「気にしない気にしない」

サクラは前を歩きながらひらひらと手を振った。

このタイミングで、俺は少し気なったことを聞いてみる。

「シンゴに依頼料を要求しなかったのはなんでだ?」

「えっ?」

「今まで、子供相手にも仕事をしていたろ?」

ある時は悪い連中に毎日のように絡まれていた中学生を助け、またある時は部活で顧問からいじめにあっていた高校生の問題を解決した。

その時も、彼らから少ないものの報酬をもらっていた。

けれど、今回は出世払いで済ませている。

「さすがにあんな年齢の子からは取れないでしょ」

サクラは苦笑いしてそう言ったが、どうにも腑に落ちない。

確かに、小学生に金銭を要求するのは大人としてどうかとも思う。けれども、違和感はある。

「お前、以前に言ってたよな?子供であろうと、報酬を要求するのは対等な立場として見ているからだって」

彼らを子供扱いせずに、正式な依頼人として見る。

それは、彼女のポリシーだった。

何より、無償で仕事を請け負うよりも、報酬を要求して彼らがそれを対価として支払うことで、少なくとも俺たちに対する遠慮の気持ちはなくなる。

要は依頼人の気持ちの問題を優先しての行動だった。

「ああいう年齢の子供を相手に仕事をしたことない、ってわけじゃないだろ?」

「まあね」

「今回はお前にとって特別な何かがあるのか?」

「・・・・」

それは図星だったのか、サクラは立ち止まって夜空を見上げ始めた。

「あたしさ。弟がいたんだよね」

「弟?」

「うん」

俺は夜空を見上げるサクラの隣に立ち、一緒に空を見上げた。

「今生きていたら、どんな人生だったんだろうって、今でも思うよ」

「死んだのか?」

「さあ」

サクラはぼーっと星のあまり見えない夜空を見つめながら、寂しそうに語った。

「さっき、あたしは一度死んだって言ったでしょ?」

「ああ」

「もしその原因が、肉親だって言ったら信じる?」

「ああ」

そんな話を聞かせれても、驚くことはない。

サクラが一度死んだということについても不思議を感じなかった。

俺の存在を世界から消すくらいの力を持つサクラのことだ。その力を得た経緯に、何か常識ではあり得ない事情とかがあるのだと察しが付く。

親が子を殺すという話も、悲しいことに何ら珍しい出来事でもない。

俺ですら、実の家族と憎しみあっていたのだから。

「まあ、君の場合は家族に恵まれてなかったんだもんね。そりゃ理解できるか」

「虐待されていたのか?」

「うん。簡単に言えばね」

再び、サクラは夜道をゆっくりと歩き出す。

「親心子知らずとはよく言ったもんだよね。あたしは彼らの全てがわからなかった。なんで2人も子供を作ったのか。子供を産んでおいて、なんで育てないのか。なんで些細なことで執拗に怒るのか。どうして大人の力で子供を痛めつけられるのか。なんで愛情をかけてくれないのか」

なぜだか、サクラが歩くたびに、周りの闇が深くなっていくように感じた。

まるで彼女自身が、望んで闇に飲まれようとしているかのようだった。

「結局、その答えは今も分からずじまい。まあ、そんなもんだよね。親子でさえも、お互いのことなんて理解し合えない。でも、少なくとも弟とは理解しあえていた。あたしはそう思っていた」

「含みのある言い方だな」

「まあね」

サクラは川沿いの柵にもたれ掛かり、夜の闇の中で蠢く川の流れを見る。

「あの日の川は冷たかった」

「ん?」

「不意に母親に突き落とされて、あたしはずっと藻掻いていた。そんなあたしを、母も弟も静かに見ているだけだった」

川の流れを凝視する彼女は、恨めしさと苦しさの入り混ざったような顔をしている。

「溺れたのか?」

「うん。あたし、こう見えて泳げないから」

「事件じゃないか」

「そうだね。でも、誰もあたしのことなんて気にしない。あたしが世界から居なくなっても、何かが変わることなんてなかった。そんなものだよ、世の中なんて」

「事件にならなかったのか?」

サクラはこくりと頷いた。

話に聞く限りでは、完全に虐待事件だし、端から見れば水難事故でもある。

それなのに、何事にもならないなんて、そんなことがあるのだろうか?

誰も目撃者がいないかったから、事件にならなかったということなのか。

だがそんなことより、サクラ自身は別のことに傷ついているようだった。

「弟は、あたしのことなんてどうでもよかったのかなって、時々思う。体力を奪われて、水の底に沈んでいくあたしを、弟は静かな顔で見ているだけだった。結局、あたしが一方的に弟を想っていただけで、本人はそれほどでもなかったのかもしれない」

「けど、だからって・・・」

「君だってわかるでしょ?妹ちゃんがいるんだから」

「それは・・・」

ヒメコと俺の関係。確かに似たようなものかもしれない。

同じ状況にあったら、ヒメコは迷うことなく俺を見捨てるだろう。

その様が容易に想像できて、俺は顔をしかめた。

「まあ、そんなものだよね。所詮、家族ってものはさ」

サクラは自嘲気味に笑って、吐き捨てるように言った。

「どんなにこっちが愛情を持っていても、一方通行だったら分かり合えない。血の繋がりがあったとしても、結局は他人なんだよ。あたしたちは」

その言葉の重みが、俺の胸をずんと押し込んでいく。

俺たちは似た者同士なのかもしれない。

家族という楔に、今でも苛まされている部分で言えば。

「でも、何だろうな。あの子を見ていると、急に弟のことを思い出しちゃって。他人事に思えなくてさ」

それが、サクラがシンゴを特別扱いした理由だとしたら、完全に彼女の気まぐれということになる。

それになんだか、理由がありきたりな感じもして、少し拍子抜けしてしまった。

でも、たまにはそういうことがあっても、いいんじゃないかと俺は思った。

「お前は」

サクラの隣に立ち、こんなことを聞いてみる。

「こんな風に思ったことはあるか?普通の家庭に生まれたかったって」

「わからない」

サクラは即答した。

「そもそも、普通っていうのが、何なのか知らないもの」

「だよな。俺もだ」

その後、サクラがふっと笑ったので、俺もつられて自嘲気味な笑みを作った。

「・・・そろそろ戻ろうか」

「ああ」

サクラが歩き出すのと同時に、俺も一歩を踏み出す。

彼女のすぐ後ろを、斜め2歩ほど離れて付いて行く。

俺たちの距離感なんて、そんなものでいい。

ハル親子の家の前に着くと、サクラはスマホを見ながら俺を止めた。

「ハルちゃん、帰ってきているみたい」

「分かるのか?」

「まあね」

スマホをしまうと、サクラはドアノブに手を掛けた。

「それじゃあ、シンゴ少年を連れて帰るから、君はここにいて」

「わかった」

ハルには俺の存在がわかってしまう。

そうなると、チヒロさんやシンゴに俺のことを説明するのは厄介だ。

大人しく、俺は玄関の前で待つことにした。

サクラが部屋の中に入って約10分後、彼女はシンゴの手を引いて出てきた。

「それじゃあ、チヒロさん。今日はありがとう」

「どういたしまして。それじゃあシンゴくん、いつでも遊びにいらっしゃいね」

「・・・うん」

チヒロに頭を撫でられたシンゴは、少しだけ安心したような笑みを浮かべた。

サクラに手を引かれたシンゴはその後も何度もハルの住む家を振り返った。

サクラはシンゴと手を繋いで歩きながら、彼に尋ね続けた。

「ゆっくり休めた?」

「うん」

「お腹いっぱい食べれた?」

「うん」

「また、あのお家に行きたい?」

「・・・うん」

最後の質問で、シンゴは少し間を置いて頷いた。

「そっか。よかった」

サクラは嬉しそうに笑った。

「これで、君の居場所が一つ増えたね」

「居場所?」

「そう。神社も悪くはないけれど、やっぱり誰かいた方が寂しくないでしょ?」

それを聞いて、俺も静かに頷いた。

シンゴも俺と同じで、他に行く当てもなかったから、あの神社に居座っていた。

でも、やがて避難所だったあの場所から、誰かのいる居場所へと辿り着いたのだ。

「家はどっち?」

分岐点に辿り着いてサクラが尋ねると、シンゴはまた暗い表情をした。

「・・・左」

「オッケー」

シンゴに言われるままに、サクラは左へと進んだ。

シンゴの表情は、みるみる曇っていく。

サクラはそんなシンゴの表情を知ってか知らずか、どんどん前へと進んで行った。

やがて、何度か入り組んだ住宅地を通り過ぎると、築30年以上が経っていそうなアパートの密集地帯にやってくる。

街灯も殆どなく、心細い雰囲気にさせる道だった。

「ここ」

シンゴはある一軒のアパートの2階を指差した。

その部屋からは明かりが漏れていて、男女の大声が聞こえてくる。

「ねえ、シンゴくん」

アパートを見上げた後、サクラはシンゴの方に向き直って言った。

「これを君にあげよう」

そして、サクラはポケットから白い笛を取り出して、シンゴに持たせた。

よく災害救助で助けを求める際に使うような、なんてことのない笛だった。

「何これ?」

「これはね、特別な魔法がかかった笛なのだ」

笛を持たせたシンゴの手を、サクラはぎゅっと握った。

「まあ、要はお守りみたいなものだよ。誰かに助けてもらいたい時にそれを吹けば、どんなピンチでも助かるから。絶対に失くさないでね。いい?」

シンゴは戸惑いつつも、こくりと頷いて、笛を拳でぎゅっと握りしめた。

それをしっかり見届けた後、サクラは俺の方をちらっと見て目配せをする。

「じゃあ、後は一人で大丈夫?」

「・・・うん」

「オッケー。じゃあ、これからはお姉さんが君を助けてあげるから、また少し経ったら会いに来るね」

「うん」

そして、サクラはシンゴを送り出した。

シンゴは笛を握りしめながら、何度も俺たちの方を振り返った。

やがて、シンゴがアパートの二階の部屋のドアを開けて中に入るのを確認してから、サクラはアパートにこそこそと近づいた。

「さっきの笛だけどさ」

「うん。君にちょっと仕事を頼みたい」

俺とサクラはシンゴの部屋を凝視しながら話した。

「あの子のことを、しばらく見守ってあげてて。それで、あの子が笛を吹いたら・・・」

「俺が何とかするってわけか?」

「そういうこと」

やがて、シンゴの部屋が先程よりも騒がしくなった。

男性の怒鳴り声と、女性の金切声。

聞いていて、気分の良いものではなかった。

「あたしは少し情報を集めて、対策を考える。それまで、あの子を頼んだよ」

「ああ。任せろ」

しばらくしてサクラが暗い夜道を歩き出す。

俺はそんな彼女の背を、静かに見送った。


シンゴにとって、家族は母親だけだった。

生まれた時から、シンゴには父親という存在はいない。

彼の父親については、聞く限りでは死んだことになっているが、シンゴが母に自分の父親の話を聞こうとすると、決まって母の機嫌が悪くなった。

幼い頃のシンゴも、会ったこともない自分の父親が、母にとって良い思い出の無い人間なのだと、なんとなく感じてはいた。

だから、自分の父親に会いたいと思うことは、これまでなかった。

だが父親という存在が欲しいと思ったことはある。

周囲のクラスメイトが授業参観で父親を連れている時や、休みの日に自分よりも小さな子供が、公園で父親と一緒に遊んでいる様を見ると、思わず羨望の眼差しを送ってしまう。

クラスメイトに指摘されたこともある。

「なんで、シンゴん家はお父さんがいないの?」

そのたびに返答に困った。

理由を尋ねたくても、母に聞ける雰囲気ではない。

そもそも、母は夜遅くまで仕事をしていて、一緒にいる時間が全く取れなかったから、会話も殆どない。

自分の家は普通の家庭ではないんだと、次第にシンゴは自覚するようになった。

そんなある日、母が男を連れてきた。

正確には、学校から帰ってきたら、すでに男が家にいた。

珍しく昼間に家に居た母は、「今日からあなたのお父さんよ」と、シンゴに紹介した。

浅黒い肌に金色の厳ついベリーショートの髪型。汚らしい顎鬚。

ぎらついた瞳とヤニの匂い。

一瞬で、この人は真面でないとシンゴは感じた。

その男、ケンスケは母親よりも一回りも年齢が下だった。

なぜ、母がその男を好きになったのかはわからない。

でも、この男のどこかしらに惚れて、家に連れ込んだのは間違いなかった。

最初はケンスケに惚れて家に上げていた母も、次第にケンスケを恐れて家に上げるようになった。

家に上げなければ、何をされるかわからなかったから。

ケンスケは深夜になると、理由はわからないが母に暴力を振るうようになり、それを止めようとしたシンゴも怪我をした。

ケンスケの暴力は突発的に、何の前触れもなく振るわれる。

まるで夕立のように、一度降ったら容赦なく降り注ぎ、そしてあっという間に止む。

シンゴも母も、ケンスケを恐れて、彼に何も言えなくなり、何もできなくなった。

母は家を空ける時間が増え、シンゴも帰り道の途中にある神社で時間を潰して、帰宅する時間を遅らせた。

そんな毎日を送りながら、シンゴは何とか生きていた。

ただ生きているだけで、何もできずにいる。

それは、殆ど死んだも同然ないんじゃないかと最近になって気が付いた。

重い足取りでアパートの階段を昇り、家の前のドアに立つ。中からは母の甲高い怒鳴り声と、低い唸るような大声が響いている。

ドアノブに手を掛け、静かにドアを開けた。

「あんな小さい子を置き去りなんて、何考えてんのよ!」

「はあ?知るかよ!あいつが勝手に降りたっつってんだろ?」

「だったらなんで連れ戻さなかったのよ!」

「知らねえよ!なんで俺がそこまでしなけりゃなんねえんだよ!」

ドアを静かに閉め、ただいまの挨拶もせずに、シンゴは足音も立てないよう、そっと一歩を踏み出した。

「だいたいガキ一人でぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃねえよ!あいつなら自力で帰ってこれるに決まってんだろうが!」

「そうかもしれないけどさ・・・」

「ああ?ならなんだよ?」

「・・・・」

ケンスケと言い争っていた母が急に口を閉じる。

その様子を見てか、ケンスケはこんなことを言い出した。

「お前、サツのこと心配してんのか?」

「ま、まあ・・・」

「大丈夫だろ。いつもみたいにお前が表に出て対応すりゃあ、あいつらもすんなり帰るって」

「でも、なんて言い訳するのよ!あの子が一人でそんな遠くまで行くことなかったんだから!」

「そんなの問題ねえって。俺が適当に考えておいてやっからよ。だから・・・」

途中でケンスケの声が止まった。

そして、どたどたと玄関の方へと乱暴な足音がやってくる。

廊下の扉が開き、シンゴはケンスケと目を合わせてしまった。猛禽類に睨まれたネズミのように、シンゴは動けなくなる。

シンゴの顔を見て、ケンスケはにやりと気味の悪い笑みを浮かべた。

「おお!やっぱり一人で帰ってきたか!お前なかなかやるな!」

ケンスケの声に、母も慌てた様子で廊下にやって来た。

「シンゴ!」

「お母さん・・・」

母はシンゴの下に駆け寄り、彼の頬を思い切り叩いた。

まさかのビンタに、シンゴは瞠目する。

「なんですぐに連絡くれないよ!誰かにバレたらどうするのよ!」

「ご、ごめんなさ・・・」

「本当にあんたはお母さんに迷惑かけてばかりして!」

母の怒鳴り声に、シンゴは身震いした。

ケンスケが来て以来、母もシンゴを殴るようになった。

そして、よく理解できないことで彼を怒ることも増えた。

「まさか警察に言ったりしてないわよね?どうなの?」

「い、言ってない」

シンゴがかろうじてそう口にすると、母は体中の空気が抜けたように肩を落とし、そのまま口元を押さえて奥に引っ込んでしまった。

すると、今度はケンスケがシンゴの下にゆっくりと歩み寄ってきた。

「なかなかやるじゃん。これでお前も男だな」

ケンスケがにやけ顔を浮かべて、シンゴの頭をくしゃくしゃと撫でてきた。

「な?言ったろ?心配ねえってよ」

ケンスケは奥に引っ込んでいった母の方を向いて、自慢気にそう言った。

まるで自分が諸悪の根源であることを忘れたかのようなケンスケを、シンゴはじっと見つめる。

その視線に気づいたケンスケが、シンゴの方に向き直った。

「ああ?なんか言いたいことがあんのか?」

ケンスケの威圧的な態度に、シンゴはすぐに視線を落とした。

「言ってみろよ。今日は特別に聞いてやっからよ。ほら」

ケンスケはしゃがみこみ、シンゴの顎に手を掛けて揺さぶった。

シンゴは目を逸らし、何も言わない。

そんなシンゴを見て、ケンスケは嘲笑うように言った。

「けっ。てめえは本当に弱えよな」

立ち上がったケンスケは、部屋の奥に戻ろうとしたが、最後に立ち止まって、低い声でこう言った。

「・・・マジでサツに言ってねえよな?」

そしてゆっくりと振り向き、シンゴを見下ろして睨みつける。

「わかってんだろうが、誰かに何か余計なことしゃべったら、お前だけじゃなくて母親も容赦しねえから」

ケンスケの恐ろしい威圧感を前に、シンゴはコクリと頷いた。

「わかったら今日はもう寝ろ」

そう言われ、シンゴは逃げるように自分の部屋に駆け込んで行った。

シンゴの部屋と言っても、襖を1枚分けただけの2畳の空間だった。

部屋の隅に蹲ると、急に恐怖で体が震えだす。

シンゴは震える体をぎゅっと両の腕で押さえた。

シンゴにとって、今でも父親という存在はいない。

あんな野獣のような男を、父親だなんて意地でも認めたくなかった。

とはいえ、自分が奴を毛嫌いしている態度を見せれば、何をされるかわからない。

そして、自分の態度によって、母が苦しめられる様は見たくなかった。

「お母さん・・・」

奴が来てから、母も変わってしまった。

最初はケンスケの暴力を止めようとしていたのに、次第に止めることをせず、見て見ぬふりを決め込むようになった。

ケンスケに楯突けば、その矛先が自分に向かう。

母もケンスケを恐れているのだ。

いや、恐れているのはケンスケだけではない。

母はやたらと外の目を気にするようになった。

シンゴが虐待を受けていることを、周囲に悟られたくないのだろう。

だが、母が思っている以上に、シンゴの周りの大人たちは、彼に冷たかった。

このボロアパートに住む人間は、周りで何かが起きても、一切自分に関係ないとわかれば何もしてこない。

学校の教師たちも、シンゴのことを見るだけで、彼に声を掛けたり、心配をしてくる様子はなかった。

誰もが自分に関係のないことだとわかると、見て見ぬふりをする。

いや、自分に火の粉が飛ばないためにも、関わらないことを選択しているのだ。

この世界には、自分を救ってくれるヒーローなんていない。

そう思っていた。

「あっ」

ふと、サクラと名乗る女性から渡された笛の存在を思い出す。

ポケットに手を突っ込むと、固くて小さな感触が確かにあった。

この笛を吹けば、どんなピンチも助かる。

そう言っていたけれど、そんなことがあるわけない。

あくまで気休めのお守りだろう。

けれど、それを手放すつもりはなかった。

気休めとはいえ、シンゴにとってこれは、外の世界と通じ合えた唯一の証なのだから。


体質の問題なのか、それともこれまでの家庭環境によるものなのか、俺は浅い睡眠でも何とかなる。寝る場所も特にこだわりはない。雑魚寝でも、なんなら立ったままでも寝ることはできる。

だから、こういう仕事は俺には向いていると思っていた。

シンゴの家の前で、ガードレールにもたれ掛りながら、朝になるまで眠りこけた。

寝ている間は笛の音も聞こなかったので、今日のところはおそらくシンゴも無事だったのだろう。

早朝にサクラが再び現れて、俺にコーヒーとあんパンを差し入れてくれた。

「張り込みセット、お待ち」

なんてふざけたことを言って、笑いを誘おうとする。

「ごめん、よくわからない」

「えっ?刑事ドラマ見たことないの?」

「いや、知ってるけど、ちょっと古くない?」

とはいえ、ありがたく張り込みセットを頂いた。

「あれから笛は鳴った?」

「いや、一度も」

「そう」

シンゴの住む部屋を睨みつけながら、サクラは自分の分のツナおにぎりを取り出して一口齧りつく。

「きっとあの子もすぐには使わないと思う。けれど、何かあったらちゃんと守ってよ」

「わかってる」

これ以上シンゴに辛い思いをさせるつもりはない。

そういう覚悟で監視している。

「お前はこれからどうする?」

「ちょっと知り合いに声を掛けに行く。信頼できる筋があるから」

サクラはこう見えて広い伝手を持っている。

それなりに顔が利くみたいだし、豊富な情報も持っている。

シンゴのこれからの処遇は彼女に任せておけば大丈夫だろう。

「それじゃあ、今日一日もよろしくね。あっ、あとさ」

サクラは思い出したように言った。

「あの子が笛を吹くまで、誰にも手を出したら駄目だよ」

「わかった」

ひらひらと手を振ってサクラはその場を後にした。

その1時間後、シンゴはランドセルを背負って家を出た。

服装は昨日と同じだった。

シンゴの部屋はまだ静まり返っているから、ケンスケも母親もまだ寝ているようだ。

今は朝の5時だ。子供が外出するには早すぎる。

シンゴはそのまま、とぼとぼと通学路を独り歩いて行く。

こんな朝早くに学校に行くのも、何か理由はあるはずだ。

大方、あんな家を早く出たいとか、登校中に同じ学校の生徒に自分の姿を見られたくないとか、そんな理由かもしれない。

シンゴの後を離れたところから追いかけるうちに、彼の後姿に昔の俺を重ね合わせた。

俺も小学生の頃は、あんな風に小さな背中をしていたのだろうか。

彼は学校でもいじめを受けていると言っていた。

人の悪意というのは、総じて続けざまに降りかかる時がある。

家の中、そして外からでも、どんなに身を守ろうとしても、それが間に合わないくらいの頻度で襲い掛かってくる時があるのだ。

そうやって一人を追い詰めた先に、どんな結末が待っているのか。

悪意を向ける人間はそれをよくわかっていない。

空気を入れすぎた風船のように、いつかは悪意によって鬱積した暗い感情は、ちょっとした衝撃で破裂する時が来る。

そうなってからでは、すべてが手遅れなのだ。

だから、せめてそうなる前に、俺が彼を止める。

サクラが、そうなる前に俺を止めてくれたように。

歩いて10分の距離に、シンゴの通う学校はあった。

この時間ではさすがにまだ登校している生徒はいない。静かな校門をくぐり、広々とした校舎への道を、シンゴは独り寂しく歩いて行く。

シンゴの後に続き、俺も校舎内に入った。

たくさんの靴箱と廊下に並んだいくつもの水槽。生徒たちが描いたであろう、壁に貼られた今月の生活習慣に関するお知らせの模造紙。

学校に良い思いではあまりないけれど、なんだか懐かしさの込み上げる物ばかりだった。

通った学び舎は違うはずなのに、そこから香ってくる匂いも、俺が子供だった頃と同じ匂いだった。

余韻に浸っている間も、シンゴはずんずんと自分の教室に向かって行く。

本来の目的を思い出した俺は、すぐさまシンゴの後を追いかけた。

廊下の奥にある「4年1組」のパネルの掲げられた教室には、まだ誰もいなかった。

教室に入ったシンゴは、ランドセルを後ろの棚に押し込み、一番後ろの真ん中の席に突っ伏して寝息を立て始める。

あんな家では、満足に寝ることもできないのだろう。

まだ小学4年生なのに、家族と同居人の所為で常に気を張っているというのは、何とも哀れだった。

シンゴが寝息を立てている間、俺は教室を少し見回してみる。

後ろの壁には「希望」と書かれた習字が一面に貼りつけられており、赤い墨汁で花丸が付けられている。

シンゴの半紙を探してみると、すぐに見つけることができた。

彼の半紙だけ、角の部分に墨汁がぶちまけられた痕跡が大きく残っている。

「希望か・・・」

一体、シンゴはどういう気持ちで、この二文字を書いたのだろうか。

俺は一度教室を出て、廊下で待機する。

その間も、シンゴの寝顔をずっと見ていた。

彼の母親は、自分の子供の寝顔を見たことがあるのだろうか。

この無垢な寝顔を見たのなら、自分の子供が酷い目に遭っている現状を許しておくことはできないだろう。

俺の親はどうだろうか?

おそらく、無いだろうと思う。

でなければ、「兄妹で注げる愛情に差があるのは当然」なんて考えには至らないはずだ。

俺たちは親に見捨てられた者同士。

その共通点がある限り、俺は彼を守ってやりたいと心底思う。

廊下から続々と子供たちの足音が聞こえて来る頃、シンゴはむくりと頭を起こし、机の引き出しから一冊の本を取り出した。

カバーの所為で、どんな本を読んでいるかはわからない。

やがて、ちらほらと教室にクラスメイトたちが入ってくるが、誰一人としてシンゴの方に目を向ける者はなかった。

クラスメイトが増えてくるにつれて、シンゴの存在は喧騒にどんどんと飲まれていく。

意図的に無視されているにも関わらず、シンゴもそれを甘んじて受け入れていた。

その光景を見て、俺は頭が痛くなった。

俺の中にあるかつての学校での記憶が、おずおずと首をもたげてくる。

胸に手を当てて、軽く深呼吸した。

今と昔も、学校の現実というのは、何も変わらない。

学校とは弱肉強食の世界。

さしずめ、ここはライオンとシマウマが一緒に入れられている檻の中といったところか。

頂点に立つライオンに、シマウマは食われるのを待つしかない。

「おい!コジキ!」

俺の目の前を、堂々とした様子の3人組の男子が通り過ぎる。

彼らはシンゴの教室に入ってくると、彼の机を取り囲んだ。

シンゴは本から一瞬目を離して、彼らの方に視線を向ける。

その目は酷く怯えていた。

「てめえ、昨日は舐めた真似してくれたじゃねえか。おい」

小太りな男子がシンゴの肩をどんと突いた。

「とんだとばっちり食らっちまったじゃねえかよ。責任取れよな」

「ていうか何読んでんだよ。もしかしてエロ本か?」

細身の男子がシンゴの持っていた本を乱暴に奪い取る。

「あっ」

「おーい!みんな!コジキの奴、エロ本読んでるぞ!」

身長の低い男子がそう言って周囲に大声で触れ回った。

周囲はそれを聞いてげらげらと笑い始める。

「最低!」

「これだからコジキは」

「どこで拾ったんだよ」

周囲の男子は面白半分に囃し立て、女子は汚物を見るような目でシンゴを蔑んだ。

「か、返して・・・」

シンゴは手を伸ばすが、太った男子にその手を叩かれた。

「返してほしいなら昼休みにいつものところに来いよ。いいな?」

3人組は笑いながらその場を後にする。

シンゴは居た堪れない周囲の視線の中で、完全に縮こまっていた。

子供というのは残酷だ。発達途中だからこそ下限もわからずに他者を傷つけ、自分のしでかした事態の重みを理解できない。

大人は子供のしたことを過小評価するが、子供だからといって許されないことはある。

シンゴを乞食呼ばわりすることも、そして彼を寄ってたかっていじめることだって許されない。

この教室という名の檻の中には、子供だけの正義とルールが存在してしまっている。

彼らにとっては、ノリは人の命よりも重いのだ。

今の俺に言わせれば、そんなものくそくらえ、である。

しばらくして、担任が教室に入ってくると、周囲は何事もなかったかのように、大人しく席に着いた。

授業中も、シンゴに休まる時間はない。

「シンゴ!何度も言ったはずだぞ!なんで答えられないんだ!」

彼が問題に答えられないことを、担任は容赦なく糾弾し、クラスメイトの前でつるし上げた。

「昨日、先生はちゃんと説明したよな?家に帰って勉強したのか?もしかして宿題だけしかしてないんじゃないだろうな?」

「・・・・」

シンゴは担任の威圧感に負け、俯いてしまった。

「またそうやってだんまりか!クラスの皆はちゃんと答えられるのに、お前だけが遅れているんだぞ!なんでいつもお前は皆の足をひっぱるんだ!」

シンゴは担任の説教を聞きながら、拳をぎゅっと握りしめている。

「もういい!やる気がないなら授業に参加するな!廊下に立ってろ!」

今時、廊下に立たせる先生というのも珍しいが、シンゴは俯きながらそそくさと廊下に向かって行った。

俺は廊下に立たされたシンゴとちょうど向き合う形になる。

「辛いよな」

聞こえることのない声を彼に向けた。

シンゴは虚ろな目で、廊下の窓に映る空を見上げている。

今日、彼は笛を持ってきているのだろうか。

だとしたら、是非とも使ってほしいと思う。

ふと、俺は重要なことを思い出した。

彼に起こっていることを記録に残しておく必要がある。

ポケットに入れてあるスマホにそっと手を伸ばした。

この光景も写真に納めておこう。

少し離れたところで、俺は廊下に立つシンゴに狙いを定め、スマホのシャッターを切った。


シンゴをいじめる連中は、どうやら一つ上の学年らしい。

ちょくちょくシンゴに絡んできた奴らの後を付けて教室を覗いてみた。

奴らは自分のクラスでも威張り散らしていて、授業もまともに聞かずにお喋りに興じている有様だった。

彼らのクラスの担任はまだ若そうだったし、頼りなさげな女性だった。

「ねえ、今は授業中だから」

と言っても、奴らは耳を貸さないどころか、「だってつまんねえし」と切り返す。

俺が子供の時にはありえない光景だった。

担任は何故か、連中には何も言えないでおどおどとしている。

そんな態度だから、彼らに舐められてしまうのではないか、と俺は冷たい目でその光景を見ていた。

ともかくも、奴らの名前はわかった。

太っているカワノというのがリーダー格で、やせっぽっちのアベと低身長のイシイがその取り巻き。

奴らは自分のクラスメイトの一部にもいじめを行っているようだったので、その様子をひっそりと撮影しておいた。

そして時と場所は変わって昼休み。

周囲が机を合わせて給食を楽しんでいる中、シンゴは孤立していた。

目の前の肉じゃがをスプーンで突きながら、一口ずつ具を口に入れていく。

まるで、一口一口を丹念に味わっているかのような食べ方だった。

そんな食べ方なので、周囲がすでに食べ終わっている中でも、シンゴはまだ食事をしていた。

もしかしたら、シンゴはわざとそうやって食べているのかもしれない。長い昼休みの時間を、少しでも浪費するために。

やがて担任が食べ終わり、一瞬席を外すと、代わりにカワノたちがどかどかと教室に入ってきた。

「おい、コジキ!お前いつまで食ってんだよ!」

ニヤニヤしながらカワノたちがシンゴの机を取り囲んだ。

「てか食べるのマジ遅くね?みんな食べ終わってるのにさ。片付けする給食当番の気持ちも考えろよ」

「そんなだから貧乏人になるんだろ」

「ごめん・・・」

3人が囃し立てる中、シンゴは慌てて食事を掻き立てようとした。

「遅えよ!もういいから来い!」

だが、シンゴが食事を終える前に、彼らはシンゴの襟を掴んで引っ張った。

シンゴのお膳が床に散らばり、食べかけの肉じゃがとご飯が散乱する。

「あーあ、またお前、人に迷惑かけたな」

「ホント、お前っているだけで疫病神だよな」

カワノたちはシンゴを罵りながら、彼を無理やり教室の外へと連れ出す。

「い、痛い!」

「うっせーよ!今から約束果たしてもらうからな」

連れていかれたシンゴを追って、俺は校庭の裏庭やってきた。

カワノたちはシンゴを突き倒し、「いつものやんぞ」と言った。

「ほら、早く壁に立て」

そして倒れていたシンゴを立たせ、白い校舎の壁に立たせた。

「腕もっと上げろよ!的になんねえだろうが!」

カワノに言われ、シンゴは嫌々両腕を上げ、股を開いた。

ニヤニヤと笑いながら、カワノたちは各々のポケットから硬式野球のボールを取り出した。

「今日は罰だから、特別に固いやつ持って来てやったよ」

それを聞いたシンゴは恐怖で顔を引きつらせた。

これから起こることが何なのかわかり、今すぐに止めようとした。

だが俺の手を、誰かがぎゅっと掴む。

「駄目。まだ笛を吹いてないでしょ?」

いつの間にかサクラが俺の後ろに立っている。そして、カワノたちはサクラの存在に気づいていなかった。

「いや、でもさすがにこれは・・・」

「あたしたちにはシンゴくんがいじめられているっていう事実が必要。それに・・・」

シンゴに向かって一球目が投げられた。

それはシンゴの顔のすぐ横の壁に当たって跳ね返る。

「くっそー、もうちょっとで大当たりだったのに」

カワノたちはゲラゲラと笑っていた。

俺は自分の腸が煮えくり返るのを深呼吸して落ち着ける。

そして冷静に目の前の光景を見つめるサクラに尋ねた。

「それに、なんだよ?」

「あの子が本気で自分の現状を変えたいって思わないと」

「どういうことだ?」

「あの子は、まだ今の自分に甘んじている。こうなるのは当然なんだって。どうしようもないんだって。彼はまだあたしたちを信用しきれていない」

二球目はシンゴの右足に当たった。

シンゴは苦痛の表情を浮かべる。

「おら!痛かったら泣いてみろよ!どうせ誰もお前なんか助けねえけどな!」

カワノたちは続けてシンゴにボールを容赦なくぶつけていった。

足、腕、そして腹、最終的にはついに顔にまでボールがぶつけられていく。

「あの子はきっと笛を鳴らしてくるはず。自分ではどうしようもなくて、誰かに助けを求めたいって、心の底から願った時に、必ず」

痛みに顔を歪めながらも、シンゴは悲鳴を我慢していた。

「ほら、もう一球いくぞ!」

「くらえ!」

連中はそんなシンゴを見て楽しみながら、ボールを投げ続けた。

シンゴ。頼むから、笛を吹いてくれ。

でないと、俺がおかしくなりそうだ。

「今の君にできるのは、この光景を記録に残すこと、だよ」

サクラはそう言って、俺の頭に手を当てた。

「今、一番辛いのは、あの子なんだから」

俺を頭を撫でた後、サクラはいつの間にかいなくなっていた。

拳を握りしめた俺は、少し遠くに離れて、その胸糞の悪い光景を動画に納めていく。

それから3日間、シンゴは一度も笛を吹くことはなかった。


人間は痛みや絶望から学習する。

自分の置かれている状況がどうにもならないとわかると、抵抗することを放棄してしまう。

サクラによると抵抗は自然権であり、人間が本来持っている権利なのだとジョン・ロックとかいう学者が言ったそうだが、それができるのはほんの一握りでしかなく、大抵の人間は目の前の圧倒的な困難に無気力なってしまうものだ。

俺にはそれがわかる。

かつての俺も、その抵抗できない凡人だったから。

今のシンゴも、DVを受けていた頃のアケミさんも、現実がどうにもならないと学習してしまっていた。

そういう人間は、外部に助けを求めることすらしないことが多い。

サクラがシンゴに笛を吹かせようとする意味も、ようやくわかってきた。

これは、彼の中の問題でもあるのだ。

シンゴは、自分に牙を向く連中だけでなく、自分の中にある無力感とも闘う必要があった。

とはいえ、彼は相変わらずカワノたちにいじめられ、ケンスケと実の母親に虐待を受けている。

どうやったら、彼の中の無力感を打ち消すことができるのか。

俺はもどかしさを抱えていた。

その日も、シンゴは昼休みにカワノたちのプロレスごっこに付き合わされた。

学校が終わると、彼は誰よりも早く教室を出て、カワノたちがいないことを確認して学校を後にする。

そして、あの神社へと俯きながら歩いて行く。

俺はそんなシンゴの後を付けていく。

今日も彼と神社で日が暮れるまで時間を潰すことになるのだろう。

全くもって、もどかしい日々だった。

低い石段を上がり、シンゴはいつものベンチへと歩き出すが、俺もシンゴも途中で足を止めた。

「あら?」

ベンチにゆったりと腰かけていたハルが、さっとシンゴと俺の方を見る。

「そこにいるのは、シンゴくん?それと・・・」

まずいと思った時にはすでに遅かった。

「カズオさんもいらっしゃるんですね」

シンゴはハルの姿を見た後、きょろきょろと背後を見回した。

「・・・カズオ?」

「はい。サクラさんのお仕事の仲間で、私のお友達です」

「・・・そんな人、いないけれど?」

「えっ?」

ハルはきょとんとした様子で、周りを確認するように首を回した。

「おかしいですね。あの人の匂いはするんですが」

「何それ?」

シンゴはあからさまに気味悪がっている。そのまま、回れ右をして立ち去ろうとした。

「あっ、待って」

そんなシンゴをハルは呼び止め、彼女の横に置いてあった紙袋に手を伸ばした。

「実は、職場の人からお菓子をもらったんですけど、よかったら一緒に食べませんか?」

「いや、僕は・・・」

断ろうとした矢先、ぐぐっとシンゴの腹の虫が鳴いた。

それを聞いたハルは、くすっと笑って言った。

「よかった。ちょうどお腹空いてたんですね」

ハルは紙袋からどら焼きを取り出し、両手に乗せてシンゴの方に差し出した。

「せっかくだし、一緒に食べましょう」

和やかな笑顔を浮かべるハルと、照れたように顔を俯かせるシンゴ。

2人の間に初夏の風がすっと吹いた。

シンゴは遠慮がちに近づき、ハルからどら焼きを受け取った。

「・・・ありがとうございます」

「どういたしまして」

ハルはにこやかに笑って、シンゴに自分の隣に座るよう促した。

すとんとハルの横に座ったシンゴは、どら焼きの入った袋をじっと見つめた後に、それを破って中身を取り出した。

「・・・いただきます」

遠慮がちにどら焼きを一口頬張る。その瞬間、シンゴの目が少し見開いた。

「おいしいですか?」

「うん」

ハルが尋ねると、シンゴは咀嚼しながら首を縦に振った。

「よかったです。そのお店、かなり評判みたいなので」

ハルも袋を丁寧に破って、中のどら焼きに口をつけた。

咀嚼する様子がまるで小動物のようであったのは、小さい頃からまるで変わらない。

「シンゴくんは、よくここに来るんですか?」

「・・・うん」

それを聞かれたシンゴはどら焼きを食べる手を止めた。

「私も仕事終わりによく来るです。今日は通院で半休を取ったから、この時間帯にいるんですが」

シンゴの表情が見えないハルは、そのまますらすらと話を進めていく。

「私、シンゴ君くらいの時に、このベンチで母を待っていたんですよ」

それを聞いたシンゴは、ハルの方に顔を向ける。

「母は夕方ごろに仕事を終えて、この神社を通りかかるから、私はいつもここで母がやってくるのをずっと待っていました。今日はどんなことがあったのか、友達とどんなお話をしたのかとか、母とたくさんお話をして帰るんです」

みるみると、シンゴの表情が曇っていく。

親との関係に苦しんでいる彼にとって、仲の良い家族との思い出話ほど、複雑な気分になるものはないだろう。

「でも、本当は」

ハルは食べかけのどら焼きを、膝の上にそっと置いた。

「母に話すような内容なんて、ほとんどなかったんですよね」

シンゴはじっとハルを見つめている。

俺も、これからハルの語る言葉を聞き逃したくなくて、彼女のことを食い入るように見つめた。

「学校に友達はほとんどいなかったし、毎日ひとりぼっちで過ごしていたから、これといった話題なんてなかったんです。でも、母には心配かけたくなくて、嘘を吐いていました。今日は隣の席の子と休み時間に折り紙を折ったとか、給食の時に仲のいい子たちと好きなものと苦手なものを交換っこしたとか」

知らなかった。

でも確かに、俺と話をしているときも、友達の話をほとんど聞いたことがなかったように思う。

「ここで母を待つ間、今日話す嘘を一生懸命考えていたんです。でも、そういうのってとても虚しいものなのなんですよね。わかってはいたけれど、結局やめられなかった。母は私の話を信じてしまっていたから。私が学校でいじめられていないか、母はとても不安がっていたので」

チヒロさんの顔を思い出す。

想像することしかできないが、あの人の心配もわかるような気がする。

障害の所為で自分の子供が普通のことをうまくできないのだから、心配するのが大抵の親というものだろう。

ハルはそんな母の心配事を少しでも減らしたいと、あの頃から考えていたのか。

「でも、そんな私の前に、サクラさんが現れたんです」

そこでサクラの名前が出てくる。

この世界では、俺の代わりにサクラがハルと友人になっている。

「サクラさんは、ひとりぼっちの私に声を掛けてくれて、ここにいる間、ずっと私の話し相手になってくれました。そのおかげで、ここの神社の人とも知り合いになって、私の世界がうんと大きくなっていったんです」

サクラがハルを救ってくれたことはありがたかったが、それが俺ではないことに少し複雑な思いを抱いた。

まあ、この世界には俺はいないことになっているのだから、仕方がないのだけれど。

「だから、あの人は君を絶対に見捨てたりしない。彼女と出会ったその日から、君はもうひとりぼっちじゃないんです」

そして、ハルはシンゴの方に顔を向けて微笑んだ。

「シンゴ君も、サクラさんのことを信じてあげてくださいね」

「・・・うん」

シンゴは間を置いて、ゆっくりと頷いた。

「じゃあ、これ。せっかくだから貰っていってください」

そして、ハルはどら焼きをもう一つ取り出し、シンゴに手渡した。

シンゴはそれを遠慮がちに受け取り、「ありがとう」と小さな声で言った。

その時の彼は、ぎこちなく笑っていた。


それからしばらくの間、雑談に興じる2人を、俺は遠くから眺めていた。

シンゴも次第にハルに心を開いたのか、表情も柔らかくなっている。

そこに、5時を知らせるアナウンスが鳴り響く。

「あっ、もうそんな時間なんですね」

ハルは白杖を取って立ち上がった。

「それじゃあシンゴ君。また今度」

「うん」

シンゴはハルに手を振り、ハルは笑顔でその場を後にする。

「・・・・」

再びひとりぼっちになったシンゴは、ハルに貰ったもう一つのどら焼きをずっと凝視していた。

やがて、おもむろにどら焼きの袋を開ける。

シンゴはどら焼きの味を嚙みしめるように、ゆっくりと一口一口、よく噛んで食べた。

ハルの言葉は、シンゴにはどう聞こえたのだろう。

今回のことを機に、彼の心境に変化があれば良いと思う。

「おーい、コジキ!こんなところで何してんだ?」

そんな時だった。俺たちの背後から、聞きたくなかった嫌味な声がした。

カワノたち3人組がフェンスを挟んで、シンゴのことを凝視している。

シンゴは顔を引きつらせ、どら焼きを隠した。

「ん?今なに隠したんだよ!」

それに気づいたカワノが、シンゴを問い詰めた。

「お前、もしかしてまたエロい本読んでたんじゃねえのか?」

「・・・・」

シンゴはそのままランドセルを持って、その場を立ち去ろうとした。

「あっ!おい!無視してんじゃねえよ!」

カワノたちはフェンスを乗り越え、シンゴを追いかけようとした。

シンゴが立ち去ろうとするよりも、カワノたちがフェンスをよじ登る方が早かった。

「てめえ!どこ行こうってんだよ!」

たちまち、シンゴは境内に侵入したカワノたちに追い詰められる。

鳥居の前の石畳を塞がれ、シンゴは逆方向へと逃げるが、すぐにカワノたちに追い付かれ、腕を捕まれた。

「てめえ、本当に足遅せえよな!」

彼らはニヤニヤと笑って、シンゴの腹を殴り、彼を突き倒した。

その拍子に、ポケットに入れていた食べかけのどら焼きが落ちる。

「ちょうどいいや。今からプロレスの練習しようぜ。なあ」

「い、嫌だ・・・」

シンゴはアベとイシイに羽交い絞めにされると、カワノにもう一度パンチを腹に食らわされた。

「うっせえよ!誰もお前の意見なんか聞いてねえんだよ!」

シンゴはそこでむせ返り、思い切り嘔吐する。

「うわっ!汚ねえ!」

「てめえ、靴にかかったらどうすんだよ!」

アベとイシイに突き倒され、シンゴは3人から蹴られ続けた。

そんな光景を俺はスマホで撮影しつつ、わなわなと胸からむせ返る怒りを堪えた。

ハルのどら焼きは、カワノが踏みつけたおかげでぐしゃぐしゃに潰れていた。


シンゴがカワノに目を付けられたのは、1年前に今の学校に転校してきた時からだった。

ケンスケに何らかの事情があって、シンゴたちは何度か住居を引っ越していた。

今の学校にやって来てすぐに、シンゴはカワノに標的にされた。

最初は、シンゴがぼーっと廊下を歩いていた時に肩がぶつかり、それで難癖を付けられたのがきっかけだった。

「おい!痛えじゃねえかよ!」

「・・・ごめんなさい」

カワノは上級生で体が大きかったこともあり、シンゴは小さな声でそう謝るしかできなかった。

「ああ?聞こえねえよ!何言ってやがんだよ!」

さらに威圧的に接してくるカワノから、目を逸らして黙り込むことしかできなかった。

するとカワノたちはニヤニヤと笑いだし、シンゴの肩に手を回した。

「お前、ちょっと来いよ」

それから、校舎の裏に連れていかれて、身なりや態度を散々貶された後、顔面を拳で殴られた。

それ以来、シンゴはカワノたちの玩具になった。

体が小さい上に気の弱いシンゴは、誰にも相談できず、ただただ彼らに逆らわないように毎日怯えて過ごすことしかできなかった。

ケンスケに殴られる日々に慣れていた所為で、他人の気に障ることをしないよう、無難に生きようと気を配る毎日に、違和感を感じなくなっていた。

シンゴの家庭環境に関する噂もすぐに広まっていき、汚れた服で毎日登校することから、カワノからはコジキとあだ名されるようになった。

貧乏人になったのは自分の努力不足。いじめられるのも、親に虐待されるのも、される側が弱いのがいけない。

カワノたちはそういう考えで、シンゴを容赦なくいじめた。

貧乏人から物を盗ったって罪にはならないといって、シンゴの私物を容赦なく奪い、孤独な彼の友人になってあげていると嘯き、彼をボールの的にした。

最初こそ怒りはあったものの、大人に彼らの蛮行を伝えたところで、誰も手を打ってくれなかった。

「まあ、あいつらにはこっちから注意しといてやるから」

「お前もあいつらにがつんと言わないからいじめられるんだぞ?」

先生たちから掛けられた言葉は、シンゴに現状を諦めろと暗に諭していた。

結局、誰も当てにならないのであれば、どうしようもない。

今、こうしてカワノたちに寄ってたかって蹴られているこの瞬間だって、誰も助けにはこない。

自分は、この世界に虐げられるためだけに生まれたのかもしれない。

そんなことすら思った。

「シンゴ君!」

しかしそこに、立ち去ったはずのハルの声が響き渡った。

カワノたちは動きを止めた。

「あなたたち、何しているの!」

ハルの姿を見たシンゴは目を見開く。

「あ?なんだよ、てめえ」

「てか、障害者じゃんか」

ハルの白杖を見たカワノたちは、ニヤニヤと笑っている。

「別になんもしてねえよ。てめえには関係ねえから失せろ」

「さっきから全部聞こえていたわよ」

ハルは険しい顔でカワノたちを睨みつける。

「シンゴくんをいじめているのは、あなたたちね?」

それを聞いたカワノたちは、シンゴのことをじろっと睨みつけた。

「てめえ、この女になんか言ったのか?」

その後、カワノはアベとイシイに目配せをすると、頷いた2人はハルの背後にそっと移動し始めた。

「いじめだなんて人聞き悪いよな。俺たちこいつの親友なのに」

「3人がかりで殴ったり蹴ったりする相手を親友とは呼びません」

カワノに毅然とした態度で挑むハルを見て、シンゴは「もうやめてくれ」と叫びたくなった。

「ていうか、あんた一人で何ができんだよ。障害者の分際でさ」

カワノがそう言った矢先、アベが思い切り走ってハルに飛び蹴りを食らわせた。

「きゃ!」

ハルが倒れた拍子に落とした白杖を、イシイがすかさず拾う。

「これがなければ何にもできない社会のクズのくせに、偉そうにしてんじゃねえよ」

「駄目!お願い!それを返して!」

「はあ?どうすっかなー」

ハルは地面を這いずっている。

それを見て、カワノたちはゲラゲラと笑っていた。

「やばっ!マジでキモイんだけど!」

「動画撮っておこうぜ!」

「やめて!お願い!」

その様子を見ていたシンゴの中で、ふつふつと何かが湧き上がっていた。

久しく、抱くことのなかった感情が、マグマのように溢れ出て行こうとする。

だが、その感情を抱いたところで、シンゴにはどうすることもできない。

「・・・・」

その場で立ち上がろうとした時、地面に何かがあった。

ポケットにしまっていた銀色の笛が、立ち上がった拍子に落ちたらしい。


「誰かに助けてもらいたい時にそれを吹けば、どんなピンチでも助かるから」


3日前の夜、サクラが持たせてくれた笛だ。

こんな笛に何ができるのだろうと高を括っていたシンゴだったが、今はこれで助けが呼べるかもしれない。

笛の音に、誰か、他の大人が気づいてくれるかも。

そんな一縷の望みが湧いた。

その笛の齎す結果が予想以上だと分からぬままに、シンゴは笛を吹いた。


「ピィー!」


細い笛の音に、カワノたちとハルがシンゴの方を見る。

「あ?てめえ何やってんだ?」

一瞬、笛の音に驚いていたものの、カワノたちはすぐにゲラゲラと笑い出した。

「てめえ、ついに頭おかしくなったのかよ!」

確かに笛を吹いた。しかし、何も起こらない。

それはそうだ。

こんな程度のことで、何かが変わるなんてことはあり得ない。

むしろ、こんな笛に一縷の望みを掛けたこと自体、おかしかったんだ。

カワノはシンゴに近づき、彼の髪の毛を引っ張った。

「お前、馬鹿だよな!そんな笛で助けでも呼ぼうってか?」

髪を引っ張られる痛み以上に、絶望感の方が胸に刺さった。

「さて、どうしてやろうか・・・」

「ぐあっ!」

その時だった。

アベの身体が突然、何かに弾かれたように吹き飛ばされた。

「えっ?」

「ぐっ!がっ!」

さらに、倒れたアベの顔面が、何かで殴られているように腫れ始め、口から血が飛び散った。

「う、うわっ!」

イシイは白杖を持ったまま逃げようとするが、その瞬間に何かに服を掴まれ、地面に叩きつけられた。

「ぐおっ!」

そして、痛がるようにお腹を押さえ、やがて嘔吐しだした。

その様子を見たシンゴとカワノは、目を見開いている。

「な、なんだよ。どうしたんだよ」

すると、今度は砂利の音がシンゴとカワノの方にゆっくりと近づきだした。

「う、うわあああ!」

カワノはシンゴの髪から手を離し、一目散に逃げ出そうとした。

だが、何故かその場で盛大に転び、何かに引っ張られるようにずるずると地面を引きずられていった。

「ごっ!がっ!」

そして、彼もまた顔面を殴られたように、真っ赤に腫れて鼻から血を流し始めた。

「ひっ!」

全く、何が起きているのかはわからない。

まるで、カワノたちが見えない何かに襲われているかのようだった。

一連の光景を目の当たりにしたシンゴは、一心不乱にその場を逃げ出した。

衝動的に、自分はとんでもないことに巻き込まれたのだという恐怖で、ひたすら走り出す。

あの笛は、単なるお守りなんかじゃなかった。

それどころか、恐ろしい力を秘めていたのだ。

自分は、とてつもないことをしでかしてしまったのでは?という不安が、一気に胸からせりあがってきた。

気が付けば、自分の家の前にいた。

息を切らして、付近の電柱に手をついて一呼吸置いた。

家の方からは、何も音が聞こえない。

まだ、母もケンスケも帰っていないのだろうか。

呼吸を整えた後、シンゴはアパートの階段を昇り、自分の部屋のドアを開いた。

「・・・・」

無言で部屋に入ると、その日は珍しく母がいて、料理を作っていた。

「ただいま」

「・・・・」

シンゴが遠慮がちに挨拶をするが、母は何も返事をしない。

ただ、虚ろな目で野菜を切っていた。

最近、母とろくな会話ができていない。

そのことを寂しく思う一方、今の生活では仕方ないとも思っていた。

自分の部屋に入り、隅の方でシンゴは膝を抱えて蹲る。

殴られるのも痛いけれど、こうして母が辛そうに毎日を送っているのも痛かった。

一つ一つ、自分の中の心が軋んでいくような痛み。

そっちの方が、人に殴られるよりも辛かった。

ケンスケが、奴さえいなければ、全て変わるのだろうか。

だとしたら、奴をなんとかすれば・・・。

その時に笛のことが頭に浮かんだ。

あの笛を吹けば、もしかしたらケンスケも・・・。

そう思って、ポケットに手を突っ込んだ。

ところが、あの笛がない。

何度もポケットに手を突っ込むが、やはりなかった。そして笛を拾わずに、逃げてしまったことをようやく思い出す。

今すぐ神社に戻ろうと思い、部屋を出て狭いキッチンを横切ろうとした。

母は、相変わらず料理に集中しているのか、シンゴの方を見向きもしない。

それでも、そっと音を立てずにシンゴは玄関へと向かって、ドアノブに手を掛けた。

ところが、ドアが勝手に手前に開いて、シンゴは仰け反った。

そして、あの男が目の前でシンゴを見下ろしていた。

「ちっ!どけっ!」

ケンスケに押し除けられたシンゴは壁に頭を打ち付けた。

苛立った様子のケンスケは、狭いリビングに入ると、冷蔵庫を漁り始める。

「おい!酒、買ってねえのかよ!」

ケンスケの怒鳴り声に、シンゴは体を震わせた。

だが、母は静かに包丁を置き、ケンスケにゆっくりと話しかける。

「・・・ねえ、なんで私達の預金、全部下ろしたの?」

「はあ?」

「昼間に銀行に行ったら、預金残高がゼロだったの。あなた、何に使ったの?」

「・・・別にどうだっていいだろうが」

「良くないわよ!」

急に声のトーンを下げたケンスケに対し、今度は母がヒステリックな声を上げた。

「あのお金はあなたの借金返済と、シンゴの学費のために取っておいたのに!」

母はケンスケとは顔を合わせず、台所のシンクを拳で叩いた。

そして、ようやくケンスケと顔を合わせたと思いきや、母は横に置いてあった包丁に手を伸ばし始めた。

シンゴは思わず唾を飲み込む。

「ねえ、何に使ったのよ!まさかまた競馬で擦ったの?」

「おい、落ち着けって」

ケンスケもさすがに動揺し、後ろに下がって母を宥めるような素振りを見せた。

「正直に答えて!またそんなことに使ったの?」

震える手で包丁を向けながら、母はケンスケにジリジリと歩み寄る。

すると、ケンスケは何故か急に開き直った態度を見せた。

「・・・なんだよ。お前に人が殺せるのか?」

「えっ」

「自分のガキもまともに面倒見れない奴に、人が殺せるのかよ。あ?」

すると、ケンスケは不敵な笑みを浮かべて、煙草を取り出して火を付けた。

「ああ、そうだよ。使ったからどうだってんだ。お前のために、少しでも金を増やそうとしてやったんだよ。それの何が悪い」

「・・・認めるのね」

母は震えながらも包丁を向ける手を止めない。

「私たちの金を勝手に使ったって」

「だからそれの何が悪い」

包丁を向けられてもケンスケは挑発的な態度をやめなかった。

「俺たちの金なんだ。俺がどう使おうが勝手だろうが」

「あなたは一銭も稼いでないじゃない!」

「うるせえな!」

すると、ケンスケはいきなり煙草を母に向かって投げつけた。

母が一瞬怯んだ隙に、包丁を奪い取ろうとする。

「やめて!」

もみ合いの中で台所の食材が床にぶちまけられ、テーブルも椅子も倒れた。

母は抵抗するが、体力のあるケンスケには叶わず、包丁を奪われ、ケンスケに頬を殴られた。

「お前が俺と一緒になった時点で、全部俺のものなんだよ。あのガキも、お前の命も」

ケンスケはそのまま床に母を押し倒し、左手で母の腕を抑え、右手で喉元に包丁を突きつけた。

シンゴは、ケンスケを止めたくても、恐怖で体が強張って動かない。

すると、ケンスケがシンゴの方を見て、にやりと笑った。

「おい、お前。こっちに来い」

首をくいっと動かして、ケンスケはシンゴを呼んだ。

「ほら、さっさとしろ」

シンゴはすぐに立ち上がれなかったが、今のケンスケに逆らえば、自分の命も危ないと思い、ゆっくりと立ち上がる。

恐る恐るケンスケの元に向かう中、シンゴはポケットの中を探ってみる。

やっぱりあの笛はなかった。

わかってはいたが、確認せずにはいられない。

「お前、こんな母親が必要だと思うか?」

ケンスケはニヤニヤと笑いながら言った。

奴は母に馬乗りになって、左手で口を抑えている。

母は抵抗するが、ケンスケの力には敵わない。

「こいつは、お前のことをもう愛してないってよ」

その発言にシンゴは目を見開く。

「何をやっても俺たちを怒らせるだけだし、いるだけでイライラするってよ。お前なんか生まれなければよかって、何度も俺に言ってきたよな?なあ?」

母は涙目で首を横に振ろうとするが、ケンスケが力強く押さえつけている。

「お前だって、いざというときに守ってくれない母親なんていらないよな?」

シンゴは首を横に振るが、ケンスケは「嘘言うなよ」と笑っている。

だが、口では笑っていても、目は笑っていなかった。

「母親なんてな、いざとなったら自分が産んだ子供でも鬱陶しくなるんだよ。お前はもう、こいつに捨てられたも同然なんだ。少なくとも、俺と暮らしている時点でな」

この状況をなんとかしたくても、シンゴにはそれをどうにかする力がない。

ケンスケもそれがわかっているから、こんな挑発的な行動をしているのだ。

「お前だってこいつが憎いだろ?だからお前に片を付けさせてやるよ」

ケンスケは右手の包丁をシンゴに差し出した。

何をされようとしているのか、シンゴは察して首を思い切り横に振り、後ずさりする。

母もジタバタと暴れていた。

「大丈夫だって。俺の知り合いに掃除屋がいるからよ。絶対にバレねえから」

しかし、シンゴは顔を引きつらせて後ずさりをするだけだ。

「てめえ、それでも男かよ」

ケンスケは舌打ちをして、包丁を持ったまま、シンゴの手を掴んだ。

「いいから、てめえで片付けるんだよ!とっととやれや!コラ!」

そして強い力でシンゴを引き寄せ、包丁を握らせようとした。

母も暴れ始めるが、やはり動けないでいる。

「ほんの一瞬で終わるからよ」

「やだー!」

シンゴは叫ぶが、ケンスケの力には抵抗できない。

「いやだ!いやだ!」

次第にシンゴは泣き叫ぶが、ケンスケは手を緩めず、シンゴに包丁を握らせ、母親の胸元に包丁を向けた。

「ジタバタすんじゃねえよ!腹くくれや!」

小学生の力では、大人であるケンスケには敵わない。

みるみると包丁が母の胸に近づいていく。

すべてを諦めそうになった、その時だった。


「ピー」


唐突に笛の音が聞こえた。

「あん?」

ケンスケは一瞬気を取られたが、その矢先、彼の体が思い切り吹っ飛んだ。

「ぐあっ!」

ケンスケの体が吹き飛んだことで、解放された母はシンゴに近づいて、彼をギュッと抱きしめた。

「さてさて」

その直後、部屋の奥から、笛を口元に当てたサクラが現れる。

「どうしてやろうかな。まずは」

サクラは倒れているケンスケを睨んでそう呟いた。


撮影をしながら怒りをこらえるのにも慣れてしまった。

相変わらず、シンゴは笛に頼ろうとしない。

それもそうか、と今では思う。

あの笛に信用を寄せるには、あまりに情報が少なかったし、信用に足る要素も少ない。

とはいえ、さすがにイライラはしてきている。

いい加減、笛を吹いてくれ。吹いて、連中を殴らせてくれ。

次第に、俺の中の目的が、シンゴを守ることではなく、目の前の悪を討つことに変わっていた。

サクラはそんなことは望んでいないかもしれないが、このままでは俺の気が収まらない。

だが、そこで思わぬ転機が訪れる。

ハルがカワノたちに危害を加えられたのだ。

それは、幼い頃に俺とハルがリョウジに危害を加えられそうになったあの頃を思い出させた。

気づいたら、スマホをベンチに置いていた。

「これがなければ何にもできない社会のクズのくせに、偉そうにしてんじゃねえよ」

「駄目!お願い!それを返して!」

「はあ?どうすっかなー」

「やばっ!マジでキモイんだけど!」

「動画撮っておこうぜ!」

「やめて!お願い!」

笛なんてもう知るか。これ以上はもう耐えられない。

拳を握りしめて、ゆっくりとカワノたちに近づいていった。

その矢先だった。


「ピーッ!」


シンゴがついに笛を吹いたのだ。

意外なことで、俺は思わずシンゴを見た。

倒れながらも、カワノたちを睨みつけながら、笛を加えている。

「あ?てめえ何やってんだ?」

「てめえ、ついに頭おかしくなったのかよ!」

これで、心置きなく奴らを叩きのめせる。

その時の俺は、笑っていたと思う。

「お前、馬鹿だよな!そんな笛で助けでも呼ぼうってか?」

ひとまず、シンゴの髪を引っ張るカワノは後回しにしておき、まずはハルに手を上げた連中を片付けることにした。

「さて、どうしてやろうか・・・」

名前は忘れたが、まずは痩せっぽっちのガキの顔面を思い切り殴ってやった。

「ぐあっ!」

「えっ?」

そいつが思い切り吹き飛ぶと、すぐさま胸ぐらを掴んで、何発も顔に拳を振り下ろした。

「ぐっ!がっ!」

「う、うわっ!」

一人目の顔を血まみれにした後、白杖を持って走り出そうとしたチビの服を掴み、地面に叩きつけた後、腹を何度も蹴り上げる。

「ぐおっ!」

やがてそいつが嘔吐し始めた後、今度はカワノを睨みつけてやった。

「な、なんだよ。どうしたんだよ」

シンゴとカワノ、そしてハルは何が起きているのか全くわからない様子だったが、その顔は恐怖で歪んでいる。

「う、うわあああ!」

一目散に逃げ出すカワノを追いかけ、奴の服を引っ張って、ずるずると引きずった。

「ごっ!がっ!」

その後、痩せっぽっちのガキと同じように、デブの顔面を何度も何度も殴りつけた。

このときの俺は、心から奴らをボコボコにすることを楽しんでいた。

相手は子供だが、殴ることに罪悪感はなかった。なぜなら、奴らはこうされて当然のことを、今までシンゴにしてきたのだから。

「・・・カズオさん?」

そこにハルのか細い声が聞こえてきた。

俺はハッとなり、殴る手を止めた。

カワノはぐったりしているし、他の2人も倒れてもぞもぞとのたうち回っている。

「一体、何をして・・・」

ハルの存在に気づいた途端、俺の心にブレーキが掛かった。

そして唐突に後悔の念が湧いてくる。

さすがに、これはやりすぎたかもしれない。

これではまるで、俺も奴らと何ら変わらないではないか。

何より、ハルの前で子供を殴ってしまったという現実が、急に恥ずかしくなった。

すると、俺の肩にぽんと軽く手が乗った。

いつの間にか、サクラが俺の横に立っている。

サクラは俺を一瞥した後、何も言わずにハルのもとにゆっくりと近づいた。

「ハルちゃん、大丈夫?」

そしてハルの手を取り、彼女を立たせた。

「サクラさん、何が・・・」

「うん。詳しいことは後で話すよ。とにかく、ここから出よう」

そして、サクラは俺の方に目配せをした後、白杖を拾ってハルを連れて境内を出ていった。

俺はもう一度、周囲の光景を見渡してみる。

カワノたちはうめきながら地面に倒れているし、シンゴの姿も見当たらなかった。

そういえば、殴っている最中に、逃げ出すシンゴが視界に入っていた気もする。

でも先程までの俺は、そんなことすらどうでもいいほどに、ただただ自分の中の怒りを奴らにぶつけてしまっていた。

俺の仕事は、シンゴを救うことであって、奴らを打ちのめすことではない。

きっと、後でサクラに怒られるかもしれないな。

ふと、地面に何か光る物が落ちている。

シンゴが吹いた笛だった。

どうやら、逃げ出す際にそのまま置いていってしまったらしい。

俺は笛を拾い上げ、ベンチに置いたままにしていたスマホも回収し、境内を後にした。

鳥居をくぐってすぐにスマホからメールが届く。

「笛をシンゴくんに持っていってあげて」

サクラからの指示だった。

「わかった」とメールを返信し、俺はシンゴの家へと急いだ。

これからはもっと冷静にならないといけない。

俺は、連中のように暴力で他人を屈服させる人でなしとは違うのだから。

だが、もしまた同じような光景を目の当たりにしたら、俺は冷静さを保ち続けることができるだろうか。

例えば、ケンスケがシンゴに聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせながら、容赦なく手を上げていたとしたら、俺は自分の怒りを自制することができるだろうか。

戒めるように、答えのない自問自答を繰り返していくうちに、シンゴの家の前に着いた。

それと同時に、苛ついた様子のケンスケがアパートに入っていくのが見えた。

もし、この後ケンスケが、どうしようもないくらいに下衆な行動に出たとしたら、俺はどうするべきだろう。

この3日間、シンゴの自宅を張っている中で、ケンスケが何度か面白半分にシンゴを痛めつけていたのは知っている。

力でシンゴを押さえつけ、恐怖で心を支配する奴のことは許せない。

もちろん、そんな奴と一緒に暮らしながら、シンゴを守れないでいる母親のことも。

きっと、シンゴが笛を吹こうが吹くまいが、俺はケンスケに容赦はしないだろう。

そうやって歯止めの効かなくなった自分が、少し怖くなる。

「なーにぼさっとしてんの?」

後ろからパシッと背中を叩かれた。

ハルを送り届けていたはずのサクラが、いつの間にか俺の後ろに立っていた。

「・・・・」

「何?どうしたの?もしかして、さっきの光景をハルちゃんにバレたのが嫌だった?」

「いや、まあそれもあるけれど・・・」

「そのことなら大丈夫だよ。適当にあたしが記憶を消しといてあげたから」

「えっ?」

とんでもない発言に、俺は瞠目した。

「だって、色々と都合が悪いし、ハルちゃんにとっても、その方が良いでしょ?あんな嫌な経験を覚えているよりもさ」

「本当に記憶を消したのか?」

「まあね」

サクラは自慢気に鼻を鳴らした。

本当かどうかはわからないが、これまでのことを考えると、あながち嘘というわけでもなさそうで、俺は空恐ろしく感じてしまう。

「まあ、君が何を悩んでいるのかはわかるよ」

サクラはアパートの方を見ながらそう言ってきた。

俺は申し訳ない気持ちで顔を俯かせる。

「別に謝らなくていいよ。確かに小学生相手にやりすぎた感はあるけれど、そこまで君を怒らせたあいつらも悪いんだしさ」

「でも・・・」

「前にも言ったけれどさ」

突然、サクラの指が俺の顎をくいっと持ち上げてきた。

「君は連中とは違う人間。心もあるし、人の痛みもわかる。君のような優しい人間を怒らせる彼らが悪いの。暴力は良くないって皆言うけどさ、それが抑えられないくらいの怒りが湧き上がる瞬間は誰にだってある。君は、その怒りの中でシンゴとハルちゃんを守ったんだよ。それはそれで、良いことじゃんか」

サクラはニッと笑って俺の頬を軽く叩いた。

「ほら、しゃきっとする。倫理観や理想論だけじゃあやっていけないことなんて、人生にはいくらでもあるんだからさ」

そうは言っても、やはりもう少し自重しなければならないだろう。

怒りは制御しなければならない感情の一つなのだから。

「君は真面目だね」

サクラはそんな俺を見て笑う。

「まあ、あたしもそれを見習わないといけないかもしれない」

「えっ?」

その時、シンゴのアパートから大きな物音がした。

「あまり時間もないね」

サクラはゆっくりとアパートの方に歩き出す。

「行くよ。まだやるべきこと、残ってるでしょ?」

やるべきこと。

シンゴを苦しみから開放してやること。

つまり、その元凶たるべき存在を俺たちが潰すというわけだ。

きっと、ケンスケはあそこにいて、今もシンゴに手を掛けているのだろう。

「・・・ああ」

悩んでいる暇はなかった。

階段を昇ってシンゴの住む部屋に近づくと、物音と男の怒鳴り声が次第にはっきり聞こえてくる。そして女性の悲鳴も。

これだけの音が響いていても、逆に周辺の部屋からは生活音すら全く聞こえなかった。

あまり人が住んでいないのか、住民が極力シンゴたち家族に関わろうせず、息を潜めているのか。それはわからない。

サクラがドアノブを捻るが、鍵が掛かっている。

「うーん。入れないか」

「すり抜けたりはできるのか?」

「まあね」

半分冗談で言ったつもりなのだが、どうやら本当にできるらしい。

「でも、できるのはあたしだけ。君をすり抜けさせることはできない」

「そうか」

その間も物音は部屋から響いてくる。

「裏口に行こう。窓から入れるかも」

サクラは音も立てずにさっと廊下を走り、下へと飛び降りた。

意外な機敏さを見せつけられ、俺は少し驚いたものの、すぐに彼女の後を追った。

アパートの裏側は駐輪場になっており、幸運にも人はいない。

サクラは慣れた様子で塀の上に登り、駐輪場の屋根を伝って窓に手を掛けていた。

「登ってこれる?」

「やってみる」

サクラが通った順序で、俺も塀をよじ登り、屋根に慎重に足を着いて、ベランダへとゆっくりと歩き出した。

サクラが手を引くと、窓はゆっくりと開いた。

中に頭だけ入れた後、サクラは俺に手招きをした。

「ささっ、早く入って」

急ぎつつも慎重に屋根を伝い、サクラが部屋に入ってすぐ、俺も侵入した。

「いいから、てめえで片付けるんだよ!とっととやれや!コラ!」

そこにケンスケの怒鳴り声が聞こえてくる。

「まずいね」

サクラはそう言って、廊下から顔を覗かせる。

「ほんの一瞬で終わるからよ」

「やだー!」

シンゴの叫び声も聞こえてきた。

いよいよ状況は逼迫しているようだ。

「笛、貸して」

廊下を覗きながら、サクラが俺に手を差し出す。

すぐにポケットからシンゴの笛を取り出し、サクラに渡した。

「いやだ!いやだ!」

「ジタバタすんじゃねえよ!腹くくれや!」

俺が廊下に出ると、部屋の奥でケンスケがシンゴの母親らしき女性に馬乗りになっていた。そしてシンゴに包丁を握らせ、女性の胸めがけて刺そうとしていた。

「準備はいい?」

「ああ」

そう答えると、サクラは笛を咥えて思い切り吹いた。

鋭い笛の音が響くと共に、ケイスケがこちらに顔を向けた。

「あん?」

すぐにケンスケのもとに走り出し、その体を思い切り蹴った。

「ぐおっ!」

ケンスケは包丁を持ったまま吹き飛び、壁に頭を打ち付けた。

そして、解放された女はシンゴを抱きしめる。

「さてさて」

そして、部屋の奥からサクラが悠々と登場してきた。

「どうしてやろうかな。まずは」

「な、なんだよ、お前・・・」

起き上がろうとしたケンスケの顔面を、俺は力を込めて殴りつける。

「ぐっ!」

さらに倒れたケンスケから包丁を奪い、奴の胸ぐらを掴んで、何度も殴りつける。

「なっ!がっ!」

ケンスケにしたら、透明な何かが自分の胸ぐらを掴んでいるように見えているわけで、驚きながら俺にただただ殴られ続けた。

12発くらい殴り続けると、奴はぐったりし始めた。

胸ぐらを離した後、サクラは倒れ込んだケンスケに近づき、冷たい目でじっと見下ろした。

「で、今はどんな気分?」

ケンスケにそう尋ねるが、奴は肩で息をしながら、血だらけになった顔でサクラを睨むだけだった。

「シンゴくんも母親も、随分とあんたに苦しめられてきた。今度はあんたが苦しむ番だけど、今回ばっかりはあたしも悠長なことは言っていられない」

突然現れたサクラを見て、シンゴと彼の母親は戸惑っていた

「でもまずは、この場で悪いのは一体誰なのか、はっきりさせる必要がある」

まずはケンスケを指さし、冷たい目で睨みつける。

「大人の力で子供を殴ったらどうなるかなんて、どんな馬鹿な奴でもわかる。つまり、あんたみたいな虐待野郎は、そういう馬鹿よりも馬鹿ってわけ。でも、それと同じくらい許せないこともある」

そして今度はシンゴを抱きしめる母親の方に指先を移した。

「ねえ、いつまでそうしてるつもり?あんたなんかにその子を抱きしめる権利なんてない」

サクラは辛辣な言葉を次々と投げ掛けた。

「その子のことを思うなら、なんでこんな男と早く別れなかったの?この男が恐くてできなかった?そんなことはない。チャンスは何度もあったはず。だけど、あんたはその子よりもこんな人間のクズの方を取った」

シンゴの母は目を見開いて震えていた。

「シンゴくんが殴られている時は自分は殴られない。でも外で問題になれば、自分も罪を問われる。あんたが心配していたのは、ケンスケでもシンゴくんでもなく、自分のことだけ」

「わ、私は・・・」

「逃げるのは簡単じゃない?確かにそうかもしれない。でもその子を守るために、あんたには沢山やるべきことがあった。それをしなかったということは、あんたもこいつと共犯だったってこと。あんたはすでに、この子の母親である資格を失っているんだよ」

複雑な気持ちだった。

彼女もケンスケの被害者であるはずなのに、心の底から同情できない自分がいる。

サクラの言うことは真っ直ぐで正しいのかもしれない。だけど、どうにも腑に落ちないところもあった。

でも実のところ、この最低な状況を作り出したのは、目の前で倒れているこの男である。

そう思ってケンスケを見下ろそうとした矢先、奴が急に起き上がって、床に落ちていた包丁を掴んだ。

「なっ!」

「おらっ!」

ケンスケはサクラに飛びかかった。

俺はサクラを守ろうと奴の体に掴みかかる。

だがその瞬間、掴んだはずの感触が、空気に変わった。

目の前に奴の体は無く、奴が持っていたはずの包丁がすとんと床に落ちた。

サクラは俺の方を見ている。正確には、俺の目の前にいたはずのケンスケを見ていた。

シンゴも、彼女の母親も、目の前で起きたことに目を見開いていた。

「お前、何を・・・」

サクラは俺の問いかけには答えず、またシンゴの母親を見下ろした。

「シンゴくんはね。ずっとあんたを愛していた。ケンスケのことは嫌いだったけれど、あなたのことはずっと母親として信頼してた。あんたにどんなに無視されて、酷く怒鳴られたとしても、また以前のように優しい母親が戻ってくると思って、ずっと耐えていた」

彼女の目の前にしゃがみこんだサクラは、シンゴと母親を交互に見つめた。

「あんたはそんなシンゴくんをずっと裏切ってきたんだよ。彼の受けた傷は、これから一生彼を苦しめていく。その責任はあいつとあんたにある。・・・まあ、あいつはもうこの世界にはいないから、あんたが全てを背負っていくしかない」

シンゴの母親は俯いた。髪の隙間から、わずかに涙が流れているのが見えた。

「だから、その責任を取らせてあげることにした」

そしてサクラは立ち上がり、玄関へと向かって、鍵を開けて扉をゆっくりと押しだした。

「警察にはこのことは知らせてある。証拠もあるから、あんたも言い逃れはできない。仮に法が許したとしても、社会はきっとあんたを許さないから」

そう言い残すと、サクラは俺に目配せをして、首をくいっと動かした。

一緒に出るぞ、という意味だろう。

俺はシンゴたちの横をすり抜け、サクラと共に部屋を出た。


アパートを出てから、サクラはずっと無言だった。

表情も険しく、なかなかに話しかけづらかった。

俺は3歩後ろに続いて、彼女と同じ歩幅で付いて行った。

だが、途中でサクラは地面にしゃがみこみ、蹲った。

「どうした?」

サクラは気持ち悪そうに顔を歪めている。

俺が肩を擦ると、サクラは「ごめん」と謝ってきた。

「ちょっと、気持ち悪くて」

「立てるか?」

そう聞くと、サクラは首を横に降った。

周囲を見回すと、少し先に川と橋があり、さらにその先に自動販売機があった。

「ちょっと待ってろ」

サクラをそこに残し、俺は橋を渡って自動販売機で冷たい水を買った。

戻ってくると、サクラは道路沿いの茂みに嘔吐していたところだった。

「・・・これ、飲めるか?」

「うん」

サクラはまた道にしゃがみ込み、俺から水を受け取って、ごくごくと飲み始めた。

「まだ、気持ち悪いか?」

そう聞くと、サクラは動くのも辛いのか、じっと顔を下に向けるだけだった。

ここにいても仕方がないので、俺はどこか休める場所を探そうと思った。

ちょうど、あの神社からも距離は離れていない。

あそこなら、ベンチもあるし、アケミさんたちもいざとなれば呼べるだろう。

「もう少し我慢しろよ」

そう言って、俺はサクラの前にしゃがみ、彼女をおんぶした。

幸い、この場には誰もいない。

人が宙に浮いているわけだし、このまま神社に着くまで誰かと出くわさなければいいのだが。

迷っている暇もなく、俺はサクラをおんぶして神社へと歩き出した。

汗を流しながら、それでも俺は一歩一歩踏み出した。

彼女のためになるべく振動を与えないように歩いていたため、いつもよりも遅い足取りになってしまった。本当に誰も出くわさないことを祈るばかりである。

ところが、途中の曲がり角で、自転車に乗った主婦と鉢合わせてしまった。

だが、彼女は俺たちのことが見えないかのように、平然とスルーしていく。

「・・・見えるとまずいでしょ?」

後ろからサクラが声を掛けてきた。

「だから、見えないようにしといた」

辛そうな声でそう言った後、親指をぐっと立ててきた。

とりあえず、誰かに見られる心配は無くなり、俺は自分のペースでまた歩き始めた。

サクラは完全に俺に身を預けている。そこまで重くなかったのが救いだった。

「辛くないか?」

「うん」

「あともう少しで神社だからな」

「うん」

たまに声を掛けながら、俺は一歩一歩神社へと近づいていく。

「カズオ」

「なんだ?」

「・・・ありがと」

神社の目の前で、サクラは呟くようにそう言った。

俺は少し照れくさくなったが、これまで彼女に助けられてきたことに比べれば、こんなことは大したお礼にもならないだろう。

「・・・気にすんな」

でも、そのお礼一言が、なんだかとても嬉しかった。

神社の境内を進み、ベンチを見つけてそこにサクラをゆっくりと降ろした。

頭をぶつけないよう、手で彼女の頭を支えて横に寝かせた。

シンゴをいじめていた連中は、とうにいなくなっていた。

でも、まだ彼らの流した血痕が、至るところに残っている。

「水、飲むか」

「うん」

俺はサクラの頭を少し持ち上げて、彼女の口にペットボトルを近づけた。

ちびちびと水を飲み始めた後、彼女が顔をそむけたので、またベンチに横にさせた。


サクラは30分くらい眠った後、ゆっくりと起き上がった。

陽は遠くの方に落ちていて、東の空から暗くなり始めていた。

虫の鳴き声がどんどん大きくなっていく。

「気分はどうだ?」

「・・・少し落ち着いたけど、まだちょっと頭が重い」

「あんまり無理すんなよ」

「大丈夫」

サクラは目を擦りながらそう言うと、残りの水を飲み干していく。

「でも、珍しいよな。お前が体調崩すなんて」

「そりゃまあ、私も生きてる人間だし」

「神様じゃあなかったんだな」

「まあね」

俺の冗談に対する受け答えも、あまり歯切れがよくなかった。

これまでの疲れがどっと出たのか、それとも別の要因で気持ち悪くなったのか。

「私の力も万能ではないからね」

俺の考えを読んだらしく、サクラは答える。

「ここ以外でケンスケにあの力を使ったせいで、無理が祟ったみたい」

「あの力?」

「君に使ったのと同じものだよ」

淡々とした声でサクラは言った。

ベンチに両足を乗せ、膝を抱え始める。

先程サクラが言っていた言葉を思い出した。

「・・・つまり、ケンスケは別の世界に行っちまったってことか?」

「まあ、そんなところ。ただ、君のように絶妙な設定はつけなかったから、おそらく完全に肉体が消滅したか、残っていてもなにかに触れられたりはできないと思う。そうだとしたら、生存活動は難しいだろうね。要は、腹は減るけれど、食べ物に触れられないから食事ができないだろうし」

それを聞いて、俺は少しぞっとなった。

ある意味、死んだも同然である。

すぐに殺されるよりも、じわじわと死を実感することになるのだから、残酷なことこの上ない。

「その通り。奴は別の世界でまだ生きているかもしれない。でも、長くはない。そもそも、別の世界がどんなところかもわからない。以前言ったかもしれないけれど、複数の世界は微妙に違っている。でも、中には大きな変化のある世界も存在する。例えば、人間が一人もいない世界とか、大きな戦争が起こっている世界、とかね」

「そんな世界を見たことはあるのか?」

「いや、ないよ。ただ、そういう世界の仕組みを知識として持っているだけ」

話を聞けば聞くほど、彼女は何者なのかわからなくなる。

本人は人間だと言っているが、それも疑わしい。

「・・・そろそろ、君には話しておくべきかもしれないね」

そういうと、サクラは立ち上がって俺の前に出てくる。

「あたしは、サクラ。以前の世界で君たちに助けられたあの子」

そして、サクラから語られる話を聞くうちに、俺は思い出した。

なぜ、今まで思い出せなかったのかわからない。

でも確かに、俺は彼女を知っていた。

なにせ、俺はあの時「彼女」を殺しかけたのだから。


それは10年前の3月の連休のことだ。

両親と妹は、また俺を抜きに旅行に行こうとしていた。

この頃の俺はすでに、それに抗議することも諦めていたし、両親の言いつけ通り、家で一人留守番をすることにした。

金曜日の朝。起きるとリビングに生活費1万円と書き置きがあった。

「自分たちがいない間も、家事をやっておくこと」

いつものことだった。連休中に買っておくもののリストも書かれていた。

俺はその紙をくしゃくしゃにして捨てたい衝動を抑えて、1万円だけを手に取り、掃除や洗濯など、言われた通りの家事をこなした。

完全に息子ではなく、使用人のような扱いだったが、「何をやってもどうせ無駄」という無力感から、疑問は持てどもおとなしく従うことを選んだ。

家事を終えた後、自分の勉強机に突っ伏して、「自分は何をやっているんだろう」とふと思った。

せっかくの連休。クラスメイトの大半は家族と出かける予定があるらしい。それも小耳に挟んだ程度で、直接聞いたわけではなかった。

それに比べて、俺は家で一人、いつもと同じ休日を過ごしている。

家事と勉強しかやることがない連休。

一緒に遊んでくれる友人もいない。

いや、でも俺には避難場所があるから、決して家の中でしか過ごせないわけではなかった。

神社のことを思い出した俺は、頼まれている買い出しがてら、そこに立ち寄ることにした。

スーパーを出て、買い物袋を抱えながら、いつもの自宅への道を逸れ、神社へ向かう通りを歩く。

川沿いの桜は今日も満開で、老若男女が公園で花見を楽しんでいた。

中には俺と同じくらいの子供が家族と遊んでいる光景も見かけた。

その様子に、俺は悔しさを覚えて歩くスピードを上げた。

神社に辿り着くと、アケミさんが河津桜の下のベンチに座り、お茶の缶を持ってぼうっと空を見上げていた。

「アケミさん」

「あっ、カズオくん。こんにちは」

俺が声を掛けると、アケミさんは素敵な笑顔でこちらに手を振ってくれた。

「今日もお仕事ですか?」

「うん。でも今は少し休憩中。カズオくんはお買い物?」

アケミさんがちらりと俺の持つ買い物袋を見て言った。

「はい」

「そっか。お家のお手伝いして偉いね」

「いえ、別に」

二コリとした笑顔を向けられ、俺は複雑な気持ちになる。

そしてアケミさんはまた空を見上げ始めた。俺も同じく空を見上げるが、雲が漂っているくらいで、特に珍しい光景もない。

「天気が良くて助かったね。今日はお花見日和だ」

「そうですね」

「カズオ君はお家の人と、お出かけとかするの?」

アケミさんのその問いに、俺は自分だけ留守番という真実を、正直に話す気にはなれず、「いえ、特には」と答えた。

「今回は、家で過ごす予定です」

どこかに行くことはあるけれど、今回だけは例外。みたいな感じで言ったのは、単なる見栄である。

アケミさんに、俺の恥ずかしい現実を見せる気にはなれなかった。

「そっか」

アケミさんは優しい笑顔を浮かべた。

「ねえ、じゃあさ」

そしてこんな提案をされる。

「私たちでお花見しようよ。ハルちゃんも誘って」

「えっ?」

「実は私も、今回の連休は予定がなくて暇してたんだよね。だから、ちょっと付き合ってくれると嬉しいな。なんて」

もしかすると、アケミさんは俺の現状をわかっていたのかもしれない。

でも当時の俺は素直な性格ではなかった。

「でも、俺・・・」

「ハルちゃんも喜ぶと思うよ。きっと」

アケミさんはずいっと、俺に顔を近づける。フレグランスの良い香りがして、俺は少し照れてしまった。

「ハルは、来る予定なんですか?」

「まだ誘ってないけれど、彼女も連休中は家にいるらしいんだ」

「はあ」

「彼女さ」

そしてアケミさんは目を細めて言った。

「お母さんがずっと仕事らしいの。きっと寂しい思いをしていると思う。だから、彼女のためだと思ってさ。協力してくれないかな?」

本当の目的は、どうやらハルらしい。

そう言われてしまったら、俺も断るわけにはいかなかった。

だが実のところは、アケミさんは俺とハルの両方を心配していたのかもしれない。

「まあ、そういうことなら」

「はい、じゃあ決まりね。明日のお昼なんてどう?ハルちゃんの家には、私から連絡しておくから」

「はい」

「よーし。明日は楽しみにしててね。ご馳走、たくさん作ってくるから」

アケミさんは嬉しそうに両手を合わせて言った。

俺とアケミさんとハルの3人での花見。

そもそも、誰かと花見をするなんて初めての経験だった。

俺は心なしか、その日の夜は明日のことを考えてしまい、なかなか寝付けなかった。


次の日、起きたのは正午の手前だった。

慌てて掃除洗濯をしたため、食事はできなかった。

寝ぐせもうまく直せないまま、俺は足早に家を出て神社に向かった。

もうすでに2人はいるだろうし、もしかすると始めてしまっているかもしれない。

まさか、こんな日に限って寝過ごすなんて、最悪だ。

走りながら自分を責め続けた。

神社の境内までの小さい階段を二段飛びして駆け上がると、案の定、アケミさんとハルの姿があった。

「あっ」

アケミさんが俺に気づいて手を振る。

「カズオ君。こんにちは」

「・・・こんにちは」

息切れしながら挨拶すると、ハルがこちらに微笑んで「こんにちは」と会釈した。

「すみません。遅れちゃって」

「全然。むしろナイスタイミングだよ」

アケミさんは親指を立てて言った。

ベンチには大きめのタッパーと水筒が2本用意されていて、かわいらしい柄の風呂敷に包まれていた。

「ハルちゃんのお母さんが、今日のためにおにぎりを作ってくれたんだよ」

アケミさんは風呂敷を指さして言った。

「そうなんですか?」

「うん。ありがとね。ハルちゃん」

「いえ。こちらこそ、今日は誘ってくれてありがとうございます。ママからもお礼を言っておいてと言われました」

ハルはにっこりと満面の笑みを浮かべた。

ハルのお母さん、仕事が忙しいのに、今日のためにおにぎりを用意してくれたのか。

感謝の気持ちがある一方で、俺の両親とどうしても比較してしまいそうになる。

「じゃあ、さっそく食べよっか」

「はい」

俺がハルの隣に座ると、アケミさんがタッパーを開けた。

中には唐揚げやミートボール、ポテトサラダに小さめのサンドイッチがいくつも入っていた。

俺の家ではなかなか食べられないものばかりである。

「ちなみに全部、私の手作りだからね」

アケミさんは胸を張ってそう言った。

そして風呂敷の中には、ふりかけが掛かった三角おにぎりが12個も入っている。

「これが鮭で、こっちが昆布、あとこれが明太子だってさ」

どうやらふりかけの色で味付けを区別しているらしかった。

アケミさんから割箸と紙皿をもらい、それぞれ一つずつ取っていった。ハルの分はアケミさんが取り分けてくれていた。

水筒に入った麦茶を紙コップに注いでもらうと、「さて」とアケミさんは手を合わせる。

「それじゃあ、いただきまーす」

「いただきます」

ハルも元気な声で手を合わせて言った。

目の前のおいしそうなご馳走を前に、俺も食べるのが楽しみで仕方がなくなった。

「・・・いただきます」

手を合わせた後、唐揚げから手を付けた。

パリパリの衣の中に、しっかりとした肉感と香ばしい味わいが広がっていく。

「おいしい」

素直にそういう言葉が出た。何せ、唐揚げを食べたのなんて数年ぶりだった。

「ほんと?よかったー」

アケミさんは嬉しそうに笑いながら、ハルが食べるのを手伝っていた。

「どう?ハルちゃん」

ハルにも食べやすいように唐揚げを小さく切った後、箸を持っているハルの手を、唐揚げの方に持って行っていた。

ハルも一口、唐揚げを頬張り、「おいしいです」と目を細めて笑った。

「いやー、そう言ってもらえると、昨日の夜がんばって作った甲斐があったよー」

「ハルのおにぎりも食べていい?」

「うん、いいよ」

ハルの母親が作ったおにぎりも格別だった。

人の手で直接握って作られたおにぎりが、こんなにも美味しいのは何故だろうか。

おそらく、ハルに対する愛情と、俺たちに対しての感謝が込められているからかもしれない。

たった3人の、小さなお花見。けれど、この時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられなかった。

今回の連休も、ずっと家で家事をするだけで終わるはずだったのに、俺は今、こうして人との繋がりを感じることができている。

「あっ」

すると、社務所の方から、黒い子猫が1匹、こちらの方によたよたと歩み寄ってきた。

あの日、俺がリョウジからけしかけられそうになったときの、あの子猫だった。

「あー、来ちゃったかー」

アケミさんは困ったように言いつつも、笑顔で歩み寄ってきた子猫を抱きかかえ、背中を優しく擦った。

「その猫・・・」

「うん。結局、うちで飼うことにしたんだよね。なんかかわいくなっちゃってさー」

子猫は幸せそうに眼を細めて、アケミさんの膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしていた。

「なんて名前にしたんですか?」

「うん、この子はね・・・」


「・・・あの世界で、君とアケミさん、そしてハルちゃんのおかげで、あたしは命を救われた」

日の落ちた境内で、サクラは俺にそう言った。

「だからなんとしても、君たちに恩返しがしたかったの」

あの日、俺たちの前に現れた黒い子猫は、今こうして人の姿で俺の前にいる。

信じられない話だが、これまでのことを思うと、すんなりと納得できてしまう。

「俺は」

言おうとした言葉がすっと出てこずに、そのまま飲み込んだ。

俺は彼女を助けたわけではない。殺そうとして、結局できなかっただけだ。

リョウジにけしかけられたとはいえ、もう少しで彼女の命を奪おうとしてしまったのだ。

「でも、君は殺さなかった」

サクラは俺の前でしゃがみ込み、俺の手を握った。

「あのときの心境はどうあれ、その事実は変わらない。あの状況で君があたしを殺さなかったのは、君の意思だもの」

複雑な気分になっていた俺の頬を、サクラが突然抓った。

「痛っ」

「もう。命の恩人なんだから、いつまでもしょげない。そういうところだよ」

彼女はニッと笑って、立ち上がり、空を見上げてくるくるとその場で回った。

どうやら、いつもの調子に戻ったようだ。

「そういうわけで、あたしは君に恩返しをしに来た。君の願いを聞いて、あの世界から君の存在を消して、君のいないこの世界へと連れてきたってわけ」

「・・・そりゃあ、ありがとう」

結果はどうあれ、今の俺は割と以前よりも充実しているのだから、助けられたといえば、そうなのだろう。

「ねえ、君はここがどういうところか知ってる?」

サクラは手を後ろに組んで、俺に尋ねた。

「どういうところって?ただの神社だろ?」

質問の意図がよくわからなかったが、サクラは上機嫌で手を広げていった。

「ここはね。あらゆる世界を繋ぐ交差点みたいなところなんだよ」

「交差点?」

「そう。この場所を介して、あたしはいろんなものを別の世界に移すことができる。とはいえ、まだまだ慣れていないことも多いから、君の場合、ちょっとへんてこな感じになっちゃったけれど」

彼女が言っていることの方がへんてこではある。とはいえ、それを信じるしかない。

この場所があらゆる世界の交差点だという話はこの際いいとして、なぜ彼女は特別な力を持っているのか。

そして、猫だったはずなのに、なんで人間になっているのか。

「まあ、それを話すとちょっと長くなるけど、聞く?」

「ああ、時間はたっぷりあるし」

「・・・オッケー」

サクラは深呼吸した後、ベンチに戻って俺の隣に座った。

「それじゃあ、何から話そうかな」

人差し指を口元に当てて、うんうんと考え込む彼女に、俺はそっと言った。

「まずは、お前が人間になった経緯から聞きたい」

「おっ、いいよ」

そして、サクラは自分自身のことをようやく語り始めた。

「複数の世界が微妙に違うっていう話は、さっきも言ったし、以前にもしているから理解できているよね?まさに、君が生まれていた世界といなかったこの世界のように」

「ああ」

「あたしも同じようなもの。君が元々いた世界では、あたしはあの黒猫だった。けれど、こっちの世界では、あたしは人間の子供だった」

「なるほど」

「そして、この世界でのあたしは一旦死んでいる」

「確か、前にそう言っていたな」

シンゴに初めて会いに行った時、そんなことをさらっと口にしていたことを思い出した。

サクラは寂しそうに笑う。

「正確に言えば、自殺したんだけど。理由は色々。親から愛されなかったとか、恋人からDVを受けたとか。ある意味、社会に殺されたようなものだよね」

「・・・・」

「そして、君のいた世界の猫も、同じタイミングで死んだ。以前、君に弟と親の話をしたと思うけれど、向こうの世界の黒猫は、親の見ている前で溺死している」

「ん?待ってくれ」

俺はサクラの話を止めて疑問を口にした。

「あの黒猫は、アケミさんが飼ったんじゃなかったっけ?」

「そうだよ。でもその後すぐに、自分の親猫が弟と現れた。で、アケミさんの元を離れてそっちについて行っちゃったんだよね」

そして、最終的に川で溺れて死んだ。

せっかく、アケミさんの元で幸せになれたはずなのに。

実の親を選んだのは、やはりそれなりに愛情があったのだろうか。

「まあ、生き物ってそういうものだよ。どんなに酷い親だとしても、やっぱり愛情っていうのは簡単に捨てられない。人間も同じ」

すると、サクラは今度は地面に落ちていた木の枝を拾い、それで地面に2本の線を書き、上に猫の絵を、下の線に棒人間を描いた。

「話を戻すけど、上の線が君がいた世界。そして下の線が今の世界。両方の世界で死んだあたしたちは、偶然にも会うことができた」

「えっ?」

「あの猫さん。実は生まれつき物凄い力を持っていたんだよね。人間で言う超能力みたいなもの。君も知っているはずだよ。以前の世界で、リョウジたちがどうなったのかを」

「まさか・・・」

向こうの世界でリョウジたちが突然気が狂ってしまったのは、本当にあの黒猫の仕業だったってことか?

「そう。まあともかく、あの子は最後の力を使って、自殺したあたしにコンタクトを取ってきた」

サクラは2本の線を1本の線で繋ぎ始める。

「自分の命とパワーをあげるから、代わりに君とアケミさん、そしてハルちゃんを助けてほしいって」

線を描いた後、サクラは持っていた木の枝を放り投げる。

「そして、あたしはまた目覚めた。君のいた世界の、この場所で。まあ、あたしがたまたまこの場所で首を吊っていたいたからこそ、できた芸当だけどね」

平然と突拍子もない話を聞かされているが、ある意味、そういう話し方をしてくれているからこそ、かろうじて理解が追いついている。

とはいえ、全部を理解することなんてできないだろう。それだけ、不思議な出来事だらけなのだ。

「・・・今のあたしには、人間だった頃のあたしと、猫だった向こうの世界のあたしの記憶が混在している」

遠くの方を見つめながら、サクラは真顔で言った。

「最初の頃は、自分の知らない記憶が出てきて混乱したけれど、今ならわかる。生きた世界や姿形は違っても、あたし達は同じだったんだって。抱えていた寂しさも、持ち合わせていた性格も大差なんてない。ただ、生きた環境の違いがあったっていうだけで、本質は変わらなかったんだよ」

それを聞いて、ふとヒメコのことを思い出した。

彼女にもそれが当てはまるとしたら、本質的な性格は変わっていないことになる。

ただ、俺が生まれたかそうでないかによって、あんなにも生き方が変わってしまっているのだとしたら、なんとも不思議である。

人生というものは、本当に些細なきっかけでどうとでもなってしまうものなのかもしれない。

「・・・とまあ、ここまでがあたしが人間であるという話でした。チャンチャン」

再び、サクラはいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「あとは何か聞きたいことはある?」

「なら、他にどんなことができるのか教えてくれ」

「んー、基本的に何でもできるよ。自分を見えなくしたり、物を瞬時に移動させたり、人の記憶を都合よく消せたりとか。あと、瞬間移動も」

「さっき倒れそうになったのは、あれか?力を使い果たしたとか?」

「ああ、それね」

サクラは再び地面に描いた線に何かを描こうとしたが、肝心の木の枝を自分で放り投げてしまったことに気づき、描くの諦めたようだった。

「えっと。この場所は複数の世界の交差点なわけだけど、だからこそ、この場所ではあたしの力で物体を別の世界に移すことはできる。でも、それはここだからできることであって、別の場所では基本的に使えない」

「でも、さっきはケンスケを消しただろ?」

「まあね。完全にできないわけではないけれど、その分あたしに大きな負担が掛かってしまう」

先程、気持ち悪さで倒れそうになったのは、無理をして力を行使してしまった所為というわけか。

「気持ち悪さで済んでよかったけれど、最悪の場合、生命力も減るからね」

「それって・・・」

「つまり、あたしの存在も消えてしまう可能性もあった」

それを聞いて、俺は目を丸くする。

「それは冗談か?」

「いや、今回ばかりは違う」

サクラは溜息を吐いて空を見上げた。

夜空に少しずつ、星が光り始めていた。

「さっきもあと少しで危なかった。本当にたまたま、この世界に存在を繋ぎ止められたけれど」

「なんでそんな危険なことを」

俺は少し語気を大きくして言った。

すると、サクラは申し訳無さそうに俯いた。

「・・・ごめん。実は最初からそうするつもりだった」

「えっ?」

「本当は、もっとうまくやるつもりだった。奴をここにおびき寄せて、そして世界から消してやるはずだった。でも、状況はあたしが思っていたよりも酷かったし」

サクラは一呼吸おいて、とんでもないことを話し始めた。

「あいつ、借金のカタにシンゴと母親を売ろうとしていた」

「何?」

「昨日それを知って、早く止める必要があった。でも止めるだけじゃだめ。あいつをこの世界から丸ごと消してやらないと、シンゴたちは一生苦しめられるから」

ケンスケがどこにシンゴたちを売ろうとしたのかは聞かなかった。

聞かなくても、大方の予想は尽くし、それを聞いてしまうと、深い闇を覗いてしまうようで怖かった。

「たとえ売られる事実がなくても、あの男が生きているっていうだけで、彼らは幸せになれない。ああいう奴はしつこいし、絶対に逃れられない。他人を食い物にしてなんぼな連中だからね。だから、こうするしかなかった」

そこまで聞いて、俺は溜息を吐いた。

そして、少しだけ怒っている自分がいる。

「・・・話はわかった。けれど」

そしてサクラの方を真っ直ぐに見て言った。

「そういうことなら、今後は俺に相談してくれ。こんなことでお前が消えてしまうなんて、俺は嫌だからな」

「・・・ごめん」

「今の俺には、お前が必要なんだ。お前は仲間なんだし、俺の大事な話相手だし、それに」

ここで、自分が吐いているセリフに恥ずかしさを覚えた。

なんだか、サクラに特別な思いを持っているみたいに聞こえてしまう。

「ぷっ!はははっ!」

すると、俺の考えを読んだのか、サクラは大きな声で笑い出した。

「いや!別に深い意味はないよ!ただ、いなくなっちまうと色々と困るから・・・」

「はいはい。わかってるって。君は本当に良い奴だね」

サクラはぽんぽんと俺の肩を叩いた。

そして、柔和な笑みを浮かべて言った。

「でも、ありがとう。心配してくれて。今後は君にもちゃんと相談するようにするよ」

「まあ、わかってくれたならいいけど」

「だって、君はまだまだあたしがいないと駄目だからね」

そしてサクラはすくっと立ち上がり、うんと背伸びをした。

「さて、行きますか。あっ、でも話し相手ならあたし以外にもいるじゃん」

「えっ?」

「ハルちゃん、このところ寂しがってたよー。君となかなか会えないからって」

茶化されているみたいで、俺は少し顔をしかめた。

「今度、お詫びに何かプレゼントしたら?」

「・・・わかったよ」

俺もふっと笑って立ち上がった。

サクラと並んで境内から歩いていく。

ともかくも、サクラは今も俺の近くにいる。

消えることなく、今もこうして。

それだけは本当によかったと、心から思った。


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