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再会の鈴音

その日、神社のいつものベンチで、俺はサクラを待っていた。

河津桜もすっかり散ってしまい、あの美しい薄ピンク色の景色が懐かしく思えてくる。

「お待たせ」

そこに、小さめの段ボール箱を抱えたサクラが現れた。

「ああ、ありがとう。いろいろと手間かけさせて」

「いいよ。君の頼みだし」

サクラは俺の隣に座り、段ボール箱を俺に渡してくれた。

「諸々の設定はこっちでやっておいたから、あとは使うだけだよ」

「ありがとう」

俺は段ボールの蓋を慎重に開けた。

中には、タブレットとしても使える最新モデルの白いノートパソコンが1台と、ポケットWi-Fiが入っている。

「それにしても」

サクラがふっと笑いながら言った。

「最初の報酬で何を買いたいかと思えば、全額叩いてまさかそれとはね。大切に使ってよ」

「わかってる」

先日、買い物のできない俺に代わり、もらった報酬をサクラに再度渡して、これらを買ってもらうことにした。報酬はこの買い物でほとんど使い果たしたけれど、後悔はしてない。

さっそくパソコンを起動する。ヒメコと違ってパソコンなんて高価なものは両親から買い与えてもらえなかったため、中学の授業以来パソコンに触れたことがない。しかもだいぶ時間が経っているから、タイピングだけでも苦労しそうだ。

「まずはちゃんと動かせたね」

サクラがいたずらっぽく笑って言った。

その後、真剣な表情に変わって、俺に問いかける。

「もう一度聞くけど、本当にやるんだね?」

「・・・ああ、やる。考え抜いて出した答えだし」

「そう」

それを聞いたサクラは、さらにフードのポケットを探って何かを取り出した。

「じゃあこれ、あたしからの餞別」

スマートフォンだった。

「通話はもちろん、メールや撮影とかもできるから。きっと役に立つよ。さっそくあたしの連絡先を入れておいたから」

「いいのか?」

「うん。同業者として改めてよろしくね。カズオくん」

サクラからスマホを受け取ると、少し気分が高揚した。

「ありがとう」

「どういたしまして」

サクラは満足そうに笑った。

これで必要なものはひとまず揃った。やっとこれで仕事を始めることができるという興奮で、暫し浮かれた。


俺がやろうとしたことは、サクラのやっている仕事の手伝いだった。

依頼があれば音信不通の親族を探したり、浮気の調査をしたり、誰かとの縁を切るための工作もやることになる。

アケミさんの事件の後、俺は今の自分にできることを一生懸命考えた。せっかく、誰からも認知されていない状態なら、それを逆手に取った仕事をすればいいのだと。

リョウジとオサムたちにしてきたことも振り返り、俺は自分なりのやり方で、困っている人を救いたいと思うようになった。

今の自分の状況はまさにこの仕事にはぴったりだと思う。

俺にできることで、社会から切り離され、苦しんでいる人々を助ける。

それが俺の出した答えだった。

最初のうちは、サクラの指示や指導の下で仕事をこなした。

基本的にパソコンとネット環境があれば、この仕事はできる。

とはいえ簡単なことではない。

しばらくの間はかなり大変な思いをすることになった。

パソコンの操作にも慣れないといけないし、サクラから教えてもらう内容も多かったので、勉強漬けの日々が続いた。

勉強の傍ら、浮気調査から逃げ出したペットの捜索などの小さな仕事を行い、彼女から実践的に様々なノウハウを学んだ。

俺はめげずに、がむしゃらに取り組んだ。

姿が見えない分、追跡や見張りは楽だろうと思ったが、これがなかなか根気と忍耐が必要な仕事だった。

そしてしばらく心と体も仕事に慣れ始めたとき、俺が求めていたような仕事を、ようやくサクラから振られた。

相談をしてきたのは会社員の男性で、上司からパワハラを受けているという内容だった。

かなりの金額をカツアゲされたり、酷い暴力も受けているとのことだった。

証拠を集めて訴えればいいのだが、その社員は上司からの指示でインサイダー取引に関わってしまったらしく、それをダシに脅されているようだった。

「上司の指示だった」という証拠もなかったため、強く出ることができないそうだ。

依頼人には家族がおり、今度2人目の子供も産まれるらしかった。

「もう限界なんです」

その人は涙ながらに言った。

家に居ても、上司から不急の仕事で呼び出され、そのたびに怒鳴られる。土日も上司のプライベートに突き合わされ、上司の家族が行く遊園地のチケット手配(それも上司ではなく男性の実費)やアトラクションの順番待ちのために一日付き合わされることもあった。

家族にはそのたびに「取引先とのコンペがある」と偽っていたらしいが、彼が仕事ばかりで家族を顧みないという印象を妻に与えてしまっていた。

実際のところ、自殺も何度も考えたらしい。しかしそこまで追い詰められても、残された家族のことを思って踏み切れない。

彼に逃げ場はもうなかった。

そこで俺はサクラと一緒に、上司のパワハラの証拠を集めることから始めた。

俺が会社に侵入するのは容易だった。

社内に小型カメラと盗聴器を設置し、着々と証拠を集めた。

証拠の内容は酷いものばかりだった。

その上司は他の社員が見ている前でも、平気で男性の腹を殴ったり、物を投げつけたり、足を蹴ったりなどした。男性曰く、以前は階段から落とされたこともあるらしい。

仕事のことでも本当に些細なことで殴る。時には仕事には関係ないことでも殴る。

「顔が気に入らない」とか「イライラしているからサンドバックになれ」とか、そんな感じのことだ。

態度も言動もまるでチンピラである。

どうやら大学からボクシングをやっていて相当強いらしく、威圧感も相まって誰も口出しをできない状態だった。

見ているこっちも胸糞が悪くなる内容だった。

その他、サクラと会社のデータベースに侵入したり、上司のスマホを盗み見て、メールのやり取りなども集めた。その中で、面白い情報もあった。

その上司が行っている犯罪の数々。例えば、他の社員の私物を漁って財布から金を抜き取っていたり、下請け会社に対する恐喝紛いのやり取りから、納品物の虚偽申告。脱税。さらには経費の横領などなど。とにかく、やりたい放題やっていることがわかった。

世の中には、ここまで腐った人間がいるのかと、目を疑いたくなるようなものばかりだった。

調べれば調べるほど様々な証拠が挙がってきたため、そろそろサクラは考えていた計画を実行しようとしていた。

計画は簡単だ。

どうせ訴えることができないなら、かなり痛い目にあってもらう。それだけのことだ。

そして計画当日。男性には会社を休むように伝えた。有給は上司の圧力で使わせてもらえないため無断欠勤になるが、それでいい。

もちろん、上司から電話が来るだろうが、一切出なくていいとサクラは伝えていた。

その間に、男性には退職代行を依頼するようにも言っておいた。

そしてその夜、上司が退社する時間を狙って、サクラと俺は上司を尾行した。

さすがに今日はイライラしていたのか、上司は家に帰る前に繁華街へ向かった。おそらく、憂さ晴らしに飲む予定なのかもしれない。

酔っぱらう前に決着をつけることになった。

繁華街へと向かう途中の公園で、待ち構えていたサクラが上司の前にぬっと現れる。

「ねえ、おじさん」

「んあ?」

「おじさん今一人?」

サクラはにっこり笑って続ける。

「あたしさ、友達に約束ドタキャンされて、暇なんだよねー。よかったらさ、どっかで飲まない?」

「はあ?何言って・・・」

するとサクラは上司の耳元に近づいてこう言った。

「お礼に後で、イイことしてあげるからさ」

その発言に上司は警戒していた表情が緩み、にやつき始めた。

「何?お姉さん、逆ナン?」

「まあ、そんなところ。まさか、そういうのに興味ないとか?」

すると上司はサクラの肩に素早く手を伸ばして、抱き寄せた。

「しゃあねえな。付き合ってやるよ」

「ふふ。じゃあ良いお店知ってるから、行こうよー」

サクラは調子よさげに上司と歩き出した。俺はずっと彼らのすぐ背後にいる。

サクラが手を後ろに回して中指を立てているのも、しっかりと見ていた。

そして上司をホテルのある路地に連れて行った。

ここは人通りが少ない。襲うには絶好の場所だが、サクラからは合図するまで手を出すなと言われている。

「もしかしてさ。こういうことばっかしてるの?」

「んー」

上司にそう聞かれたサクラは指を口元に充てて言った。

「おじさんだからかな?」

「はあ?何それ・・・」

「部下に暴力振るったり、会社のお金を横領したりしているおじさんだから、声かけたんだよ」

「え?」

そこで、サクラは上司の手を素早く掴み、さっと捻って上司の身動きをとれなくした。

「いでででで!」

関節技を決めているのか、上司は顔を歪めてわめいている。そこにサクラが腹に膝蹴りを食らわせ、関節技を決めたまま、上司の顔を壁に打ち付けた。

「証拠は全部そろってる。あんたがやってきたこと全部ね。社会や人間を舐めきった悪行の数々、ぜーんぶ、知ってる。本当に最低な人間だよね。あんたって」

「てめえ、このアマ」

上司はサクラを睨みつけるが、サクラはさらに強い力を加えたのか。再び上司はうめき声を上げる。

「証拠は会社や警察にも提出済み。あんたはもう終わりだけど、これまでの行いについて、それ相応の報いは受けてもらう」

サクラはそう言って、上司にもう一度膝蹴りを食らわし、背負い投げをした。

上司は宙を舞って、地面に仰向けに倒れた。しかし、体を鍛えている所為か、倒れてからの復活は早かった。

「この野郎!」

すぐに上司は起き上がり、サクラに襲い掛かった。

そこでサクラから合図が入る。

俺は上司の背後に回り、以前オサムたちを襲った時に使ったバットで背中を思い切り打ち付けた。

「ぐおっ!」

そして倒れ伏した上司に追い打ちをかけるように、バットを振りかざそうとしたが、そこは格闘家なのか、抵抗しようとして見えないはずの俺の腹に倒れたまま蹴りを入れてきた。

「ぐ!」

攻撃を食らい、思わず俺はバットを落として腹を押さえた。なかなかに鋭いキックだったため、腹がぐるぐると蠢いた痛みがあった。

しかし、上司も見えない何かを蹴ったことに、驚いているようだった。その隙を付いて、サクラは上司の腹にすかさず鋭い蹴りを入れ、さらに固め技を決めて動けなくした。

「さあ、今」

サクラに言われ、俺は痛みをこらえながらバットを支えに立ち上がる。

バットがひとりでに持ち上がる様子を見て、上司は目を丸くしている。

サクラが身動きをとれないよう押さえている中で、俺はその上司に容赦なくバットを振り下ろした。

何度も何度も上司にバットを叩きつけていく。

まるでリンチだったが、そんなことを考えたら終わりだ。

俺もサクラと証拠の映像を見た。

目の前のこの男は、こんな目に遭っても文句は言えないことを散々してきている。

下請け会社や部下に対する暴力暴言はもちろんのこと、女性社員へのセクハラ、部下の成果の横取り、自分のミスを他者に擦り付けて怒鳴り散らし、成果を上げた社員を目の敵にして、彼らを貶めるような悪質な工作を行ったこと。そして、俺を容赦なく蹴ったこと。

今はそれだけ考えていればいい。怒りに任せて、とことん痛めつければ。

「もういい」

サクラに言われて、俺は手を止める。興奮の所為で、先程蹴られた痛みは失せていた。

とはいえ、少し痛めつけすぎたかもしれない。

「さて」

完全に動かなくなった上司から手を離したサクラは、しゃがみこんで上司の顔に近づいて言った。

「もし、八つ当たりとかでまた誰かを傷つけたら、次はマジで死ぬから。あたしたちはいつもあんたのことを見ている。これはあんたの自業自得。よく覚えときな」

そう言って、サクラはその場を離れる。俺もバットを持ち、蹴られた腹を擦りながらその場から逃げた。

「しかし、ちょっと予定が狂っちゃったかな」

帰り道にサクラがそう呟いた。

「まさか、あいつがあんなに強いなんて思わなかったよ」

「ああ」

俺も腹を擦りながら言う。先程よりは痛みも引いてきたが、まだ胃の中が痛い。

「お前も、あんなに強いとは思わなかった」

「え?そう?」

サクラはきょとんとした表情で俺を見た。

「格闘術でも習っていたのか?」

「まあ、独学だけどね」

相手はサクラよりも頭3つ分背が高かったし、体格もそれなりにあった。そんな相手を捌いてしまうのだから、本当のところサクラは結構強いのかもしれない。

「それは、お褒めの言葉どうも」

俺の思考を読んだサクラは、上機嫌でスキップし始めた。

それに比べて俺は・・・。

結局、サクラの助けで、しかも一方的にリンチしただけだ。なんというか、情けない。あまり良い気持ちはしない。

「良い気持ちかどうかはともかく」

サクラはまた思考を読んでいった。

「ああいう人間は一方的に痛めつけないとだめだよ。喧嘩してこちらもダメージを受けるようじゃダメ。常に相手よりも有利に立って、とことん思い知らせないといけない。こっちはあんたよりも強い存在だって示すの」

「・・・まるでヤクザだな」

「まあ堅気の仕事とは言えないからね」

すると、サクラはくるっと俺の方を見て笑顔を浮かべる。

「ともかく、君はまだまだあたしの教えが必要だね」

「そうだな」

この仕事は甘くない。けれど、今はそれで生きがいを見つけていくしかないと思って、取り組んでいこう。

それくらいしか、俺にはできないから。

この時の反省を踏まえ、仕事に対して一層慎重になろう。

いくら姿が見えないからと言って、油断は禁物だ。だから俺自身も自衛の手段を身に着ける必要がある。

サクラに体術の手ほどきを受けたり、毎朝走り込みをするなどして、体力を付けてみようと思った。


そうして過ごすうちに、季節は夏へと向かっていた。

「よっす」

依頼のメールを整理していると、どこからともなくサクラが現れた。

「よお」

俺はパソコンから一旦視線を外した。

「仕事は順調?」

「まあね。そっちは?」

「ちょうど一件片付いたところ」

「そうか」

サクラは俺の隣に座り、うんと背伸びをした。

「いやー、暑いね」

「ああ」

サクラはパタパタと手を仰ぎだした。

梅雨のじめじめした空気がわずかに残っているが、それもあとしばらくすれば落ち着いてくる。

とはいえ、これからの猛暑を思うと、今から気持ちがげんなりしてくる。

サクラは背伸びをした後、額に手をかざして緑に彩られた河津桜を見上げる。

パソコンを一旦閉じて、彼女の視線と同じ方を見上げた。

「夏が始まるね」

「ああ」

俺が世界に消えて、もうすぐ4か月になる。

ここ最近は仕事ばかりだったが、これからは夏休みらしいこともしたいと思っていた。

「明日は雨らしいよ」

「そうか」

俺は天を見上げる。

確かに、生ぬるい風が少しずつ強くなっているように思う。

風が強いということは、雲の動きも早くなる。それが雨の兆しなのだと以前サクラが教えてくれた。

「雨の中で外出とか、だるいなー」

「雨は嫌いか?」

「そうだね。濡れるのが嫌。ていうか、雨が嫌いじゃない人がいるの?」

「まあ、俺はそこまで嫌いってわけじゃないけれど」

湿っぽいさとか、外出に支障をきたす点では厄介だと思うが、雨の日の香りは嫌いではなかった。

小学校の頃、帰宅途中で突然の通り雨に遭い、傘もなかったので近所に咲いていた幅広の葉っぱを一本ちぎって、傘代わりにして家に帰ったことがある。

雨の日の帰り道には、ちょっとした冒険があったものだ。

とはいえ、雨の日はいつもよりも早く自分の家に帰らざるを得なかったから、気分の落ち込みは激しかったけれど。

「あっ」

そこで、急に俺の腹の虫が鳴った。

「もうお昼か」

サクラはくすりと笑って立ち上がる。

「今日は何がいい?」

「じゃあ、今日は唐揚げ弁当で」

俺の食事やら日用品やらは、全てサクラに買って来てもらっている。自慢ではないが、あれから一度も姿が見えないからといって盗みを働いたことはない。

「たまには野菜とか取った方がいいよ」

「ああ、いずれはな」

「いずれって・・・。まあいいや、じゃあ行ってくるから」

サクラは上機嫌で神社を後にした。

そこに巫女姿のアケミさんが鳥居から現れる。

「あっ、サクラちゃん。こんにちは」

「おー、アケミさん。今日もお仕事?」

「うん。今一段落して、これからお昼食べようと思ってたところ」

「あたしもなんです。あ、これからコンビニ行くんですけど、よかったら何か買ってきますよ」

「いいの?いつもごめんね」

「気にしないでください」

「えっと、それじゃあ・・・」

サクラとアケミさんは楽しそう会話を弾ませている。

アケミさんも、あれから心も体も落ち着いてきたようで、俺の知っている朗らかで明るい女性に戻っていた。

今ではまた神社の巫女の仕事をしていて、心療内科にも定期的に通っているものの、問題なく毎日を過ごせていた。

オサムたちも、俺たちにやられたことが相当堪えたのか、それからアケミさんへの接触は全くない。あったとしても、俺たちがすぐに対処することにしている。

とはいえ、それも杞憂に終わっているので、本当によかった。

サクラと話を終えたアケミさんは、箒と塵取りを片付けに社務所へと向かった。

パソコンを自分のバッグにしまった俺は、そんなアケミさんを見て安心する。

とりあえず、サクラが帰ってくるまで、少し休憩しようと思い、ベンチに仰向けになって寝ころんだ。

河津桜の枝葉がちょうど陽の光を弱めてくれるので、昼寝をするにはもってこいである。

昔から、四季の中では過ごしやすい春と秋が好きだった。

容赦ない暑さと、厳しい寒さの間にある、束の間の緩衝の季節。

自然も人も、何かを始める前にゆとりのある時間が必要だと思う。

夏をやり過ごせば再びゆとりの季節になるのだから、今はこの暑さも仕方なく受け入れようと思う。

ゆっくりと目を閉じると、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていくようだった。

葉っぱの香りと、周囲の風の音、そして澄んだ空気。

それは神経をゆっくりと癒し、気持ちを落ち着けてくれる。


・・・チリン。


かすかに響いたその音に、俺は再び目を開ける。

それは間違いなく鈴の音だった。小さくてもはっきりと分かった。

・・・チリン、チリン。

音はこちらに近づいてくる。それも一定の間隔で鳴り響いて。

俺がゆっくりと起き上がり、音のする方向を見ると、彼女がいた。

小さな鈴を付けた白い杖。風にふんわりと煽られる黒くて艶やかな長い髪。

おしとやかな笑みを称えるその顔は、かつての面影を少しだけ残して大人びていた。

思わず、俺は目を見開く。

「あら?」

アケミさんも彼女に気づいて、そっと近づいていく。

「もしかして、ハルちゃん?」

アケミさんの声に反応して、彼女は声がした方向に顔を向けた。

「そこにいるのはアケミさんですか?」

「やっぱり、ハルちゃんだね!」

アケミさんは嬉しそうに「久しぶり」とハルの手を握っていった。

「はい。お久しぶりです」

ハルも嬉しそうに笑っていた。その微笑みは、俺の知るあの頃とは違って、すっかり上品なものになっている。

彼女の格好も、カーディガンにロングスカート、そしてシンプルな中くらいのポーチを下げていて、素朴ながらに大人らしさを感じさせるコーデだった。

「本当に久しぶりね!確か、最後に会ったのって、小学生の時だったよね?」

「はい。今から9年くらい前ですかね」

控えめな声でハルは言った。

そして彼女は片方の手に持っていた小さな半透明な袋を、アケミさんの前に差し出した。

「これ、つまらないものですが」

「えっ!これって駅前の?」

ビニール袋から透けて見える箱から察するに、どうやらシュークリームらしかった。

絵柄を見ると、いつも行列ができている駅前のケーキ屋のものだった。

「高校時代の友達が、そこでアルバイトしているんです。だから少し融通してもらいまして」

「ありがとう!あっ、せっかくだから少しお茶でも飲んでいかない?一緒に食べましょう!」

「ではお言葉に甘えて」

シュークリームの箱を嬉しそうに抱えると、アケミさんはハルの手を引いて、社務所へとゆっくりと彼女を連れて行った。


社務所の窓が開いていたので、外から2人の会話を聞くことができた。

他愛もない会話がしばらく続いた後、やがてハルのことについての話題になった。

「ハルちゃんは今年でいくつになるんだっけ?」

「はい。19歳になります」

「へえ、じゃあもう大学生か」

「いえ、大学には行かなかったんです」

「あ、そうなの?」

アケミさんは驚いた後、何かを察したのか、「ごめんなさい」と謝った。

「いえ、大丈夫です」

しかし、ハルは気丈な声で言った。

「経済的に大学は難しかったですが、高校卒業と同時に仕事が見つかったんです」

「あら、それはおめでとう!」

アケミさんの嬉しそうな声が聞こえた。

「どんな仕事してるの?」

「事務をしています。最近になって障害者を積極的に採用するようになった会社でして。小さな会社ですけれど、周りの人に助けられながら仕事をしてます」

「そっか。よかったね、本当に」

「はい。会社もこの近くなので、最近母とまたこっちに引っ越してきたんです。母も新しい仕事が決まったし、これで少しは家計も楽になるといいんですけれど」

ハルは控えめにそう言っていた。

そうか。ハルはまたこっちで暮らすつもりなんだな。

俺のいた世界でも、そうなっていたんだろうかと、不意に思った。

ともあれ、俺のいない世界でも、ハルは優しい人間として成長していたようだ。

それにこの世界でも、2人に接点があったことは良かったと思う。

俺がいなくてもハルは幸せになって、素晴らしい人たちと出会うことができていたのだ。それだけで俺は満足だった。

「アケミさんはこれまでどうしていましたか?」

「あー、えっとね」

ハルの質問に対し、アケミさんは言葉を詰まらせる。

「・・・実は、ずいぶん前に離婚してさ」

「えっ」

「原因は夫のDVなんだけどね。まあ、証拠もあったから慰謝料ももらえたし、今では全く接点が無くなったからよかったんだけどさ。それで、今は実家に帰ってきて、こうしてまた家の手伝いをしているわけ」

「すみません。そうとは知らず」

「いいの、いいの。もう今となってはどうでもいいことだから」

その言葉を本人から聞いて安心した。

本当は未だにあの頃のことを思い出して、苦しんでいるとは思うが、こうして他人に自分の過去のことを明るく話せるだけでも、少しは良くなっているのだと思う。

「まあその時も、サクラちゃんがいろいろと助けてくれたんだけどね」

「えっ、サクラさんが?」

ハルは声を上ずらせた。

まるで、ハルがサクラのことを知っているかのような口ぶりだった。

「うん。弁護士の用意もしてくれたし、今回のDVの証拠もサクラちゃんのおかげて集めることができたんだよ。本当に感謝だよね」

「サクラさんは今どこに?」

「んー、さっき買い物に出かけたから、またここに戻ってくると思うよ。最近この辺りでよく見かけるし、ハルちゃんもこの辺りに住んでいるなら、きっとまた会えるかもね」

「はい。会いたいです」

ハルは元気よくそう答えた。

「ねえ、覚えてる?私とハルちゃんと、サクラちゃんが出会った時のこと」

アケミさんがそう尋ねると、ハルは「はい」と明るい口調で言った。

「覚えてますよ。私が、杖を取られて泣いていた時に、サクラさんが声を掛けてくださって」

「そうそう。それで私も一緒に杖を探したんだよね。懐かしいなー。あの頃に戻りたい」

懐かしそうにアケミさんは語った。

今の話は、俺がハルと出会ったあの日の出来事と同じだった。

唯一、俺の役割がサクラに代わっていただけが違う。

「あっ、ここにいた」

そこにちょうど、コンビニの袋をぶら下げたサクラが現れた。

「何やってんの?こんなところで」

「・・・今、ハルがやってきて、アケミさんと話してる」

俺が正直に答えると、サクラは目を見開いた。そして俺にコンビニの袋を押し付けて、社務所の中に入って行った。

「ハルちゃん!」

社務所の入口からサクラの嬉しそうな声が聞こえた。

「その声、サクラさん?」

「うん!久しぶり!」

その後、サクラの声の甲高い声と笑い声が終始続いていく。

俺はというと、腹の虫もまた鳴り始めたので、とりあえず昼飯にしようと思い、その場を離れた。

コンビニの袋の中には、俺が頼んでいた唐揚げ弁当の他に、ミックスサラダとツナサンドも入っていた。

唐揚げ弁当以外はサクラの分だと思い、俺は袋にしまいなおして、弁当を一人で食べた。

平らげた後も、サクラはまだ戻ってこない。

久々の再会で、積もる話もあるのだろう。

その間、俺はベンチに寝そべってぼんやりと雲一つない青空を眺めながら過ごした。

空を眺めながら、ハルのことが頭の中で何度も思い返される。

この世界のハルは、俺のことを知らない。

俺と出会わなかった代わりに、サクラと出会っている。

そう言えば、先程の話から察するに、ハルはこの町から一度引っ越して、別のところに住んでいたようだった。

つまり、俺がいた世界でも同じ状況だったとしたら、俺の前から突然いなくなったのは、俺の一言が原因ではなく、引っ越しによってやむを得なかったからなのかもしれない。

そう思うと、これまでの罪悪感は少し晴れるが、それでも疑問は残る。

ハルの性格からして、俺に何も言わずに去ってしまうというのは、どうも納得いかなかった。

何か事情があったのだろうか。

「おまたせ」

「ん?ああ」

サクラの声がして、俺はベンチから起き上がった。

彼女は笑顔を浮かべてこちらをじっと見ている。

「もう話は済んだのか?」

「うん。まあね」

サクラがそう言った直後、アケミさんに連れられてハルが現れた。

「じゃあ、サクラさん。また」

「うん。またね」

ハルが手を振ると、サクラも嬉しそうに手を振った。

そのままアケミさんに手を引かれて、サクラは境内を後にしていった。

「さてと」

アケミさんがいなくなった後、サクラは自分の分の食事をコンビニの袋から取り出そうとした。

「あっ」

その時、サクラが変な声を上げる。

「サラダ。食べなかったの?」

ミックスサラダを取り出して、俺の前にずいっと突き出した。

「それ、俺のだったの?」

「さっきも言ったじゃん。ちゃんと野菜食べろって」

「でも、お腹いっぱいなんだけど」

「もー」

サクラは呆れながら、ツナサンドを取り出して一口食べ始めた。

「ハルと友達だったんだな」

俺がそう聞くと、サクラはもぐもぐと口を動かしながら「うん」と答えた。

「俺の代わりに、杖を探してくれたんだってな」

「・・・なんでそれ、知ってるの?」

「さっき、アケミさんとハルの会話を盗み聞きした」

咀嚼していたツナサンドを飲み込んだ後、サクラは「ふーん」と答えた。

「趣味が悪いのはわかってるよ。でも、俺も久しぶりにハルを見たんだし、気になってさ」

「まあ、いいけど」

サクラはいつも通りの表情で、ツナサンドをまた頬張った。

「その、ハルのことなんだけど」

「うん」

「あいつ、この町から引っ越していたのか?」

「まあね。いろいろ理由があって」

「理由?」

「うん。あの子の、父親に関することで」

サクラはペットボトルを手に取って飲み始めた。

ハルの父親。

そういえば昔からハルは父親の話はあまり話そうとしなかった。

なんとなく雰囲気からして聞かれたくなさそうだったので、当時の俺も無理には聞かなかった。

「それは、聞いてもいいのか?」

「そこは君の自由だよ」

そう言うと、サクラは自分のノートパソコンを取り出して、俺たちの依頼サイトを開いた。

まあ、確かにハルの身に何が起こったのか聞くのは、俺の自由だ。どうせ知ったところで、俺には何ができるわけでもないし、何をするわけでもない。

ハルの中には、俺の存在はないのだから。

「いやー、ハルちゃん綺麗になってたね」

そこにアケミさんがまた戻ってきた。

「なんだか、本当にお母さんにそっくりになってたよ」

「そうですね」

アケミの言葉にサクラも目を細めて微笑んだ。

「まあ、あの父親に似てしまうのは嫌だけど・・・あっ」

アケミさんが何か気になることを言いかけた時、突然ある一点の方向を見た。

彼女の目線の先に、黒いランドセルを背負った男の子が歩いている。

着ている服は染みとかでそれなりに汚れていて、体も少しやつれているのが遠くからでもわかった。

彼の背負っているランドセルもかなりボロボロで、何か白い汚れも付着していた。

俺たちの座るベンチの方をちらっと一瞥してきたので、アケミさんが「こんにちは」と笑顔で挨拶した。

だが、男の子はちらっとこちらを見てすぐにまた俯いて、無言で足早に神社の本殿へと向かって行く。

「最近、あの子よく見かけるのよね。決まった時間に」

アケミさんはそう言っているが、俺はこの神社に頻繁に来ているものの、あの男の子は初めて見た。

たぶん、ランドセルを背負っている様子からして、学校帰りにこちらに寄ってきたのだろう。

この辺りの小学校の下校時間ならば、サクラの仕事を手伝っていることが多いのでここに来ることはない。タイミング的に目撃していなかっただけだろう。

それよりも、あの男の子の様子に、俺はどこか親近感を覚えた。

「あの子、この辺りの子ですかね?」

俺の気持ちを読んでなのか、サクラが男の子のことについて、アケミに質問してくれた。

「さあ。本当にここ最近やってくるようになったから、私もわからない。でもいつもこのベンチに座って、遅くまで過ごしているのよね」

本殿で手を合わせて祈願をしている彼を遠目に見ながら、アケミさんはこう言った。

「なんとなく、辛い目に遭ってるんじゃないかって思うの。半年前の私と、雰囲気が似ているっていうか」

それを聞いたサクラは何を思ったのか、少し考える素振りを見せた後、祈願を終えて本殿を後にしようとする男の子へと駆け寄った。

何を言っているのかは聞こえなかったが、サクラは男の子に話しかけながら、小さな紙を彼に手渡した。

男の子は戸惑った様子で、サクラと彼女に手渡された紙を交互に見ながら、神社を後にしていった。

「何を渡したの?」

「あたしの連絡先です。何かあったら電話してねって」

アケミさんが尋ねると、サクラはそう言ってまたベンチに座った。

どういう意図で彼女が連絡先を渡したのかはわからない。

けれど、俺もなんだかその少年について、放っておけない何かがあるような気がしていた。


天気予報によると、ここ1週間は曇りか雨らしい。

今日の雨は夜には止むらしいが、次の日も、その次の日も曇りが続くようだ。

こんな体になると、傘がさせないのが少し難儀なところである。

傍から見れば、誰もいない空間に傘が浮いているように見えてしまうので、むやみに傘をさすわけにもいかない。

とはいえ、ずぶぬれで歩くのも嫌なので、俺は丈の長いレインコートと長靴を掃いて外出することにしている。

レインコートのフードを目深に被ってマスクを付けていれば、姿が見えないことはバレにくくなる。とはいえ、あからさまに不審者っぽく見えてしまうから、別の意味で人の注意を引いてしまうから困ったものだ。

その日の昼は仕事はなかったので、ずっと神社の本殿の軒で雨宿りして過ごした。

やることがなくて、たまにレインコートを羽織って人気のない場所をぶらぶらと散歩したりもした。

夕方、散歩を終えて神社に帰ってくると、昨日の少年が津軽桜の下のベンチに座っていた。

ランドセルを背負ったまま、ベンチの上で膝を抱えて縮こまっている。

俺は遠目に少年の様子を見守ることにした。

少年の体はだいぶ濡れていた。

どうやら傘は持っていないらしい。

少年は、ふるふると肩を揺らしている。体が冷え切っているようだ。

俺は茂みにレインコートと荷物を隠し、小銭を持って雨の中、境内の外の自販機へと走り出した。

幸い、この自販機にはまだ温かい飲み物が残っていた。

ホットの缶の緑茶を購入し、俺は少年の背後に忍び寄って、隣にそれを置いてやった。

置く瞬間にコトンと音を鳴らしてみると、少年は顔を上げて缶を見た。

少し驚いた様子で、少年は周囲を見回してみるが、もちろんのこと俺の姿は見えていない。

突然置かれた温かい飲み物に、少年は恐る恐る手を伸ばして触れてみる。

その温かさに、少年は次第に安堵の表情を浮かべて、缶を両手で握りしめた。

「今日は俺の奢りだ」

聞こえない声で俺はそう言ってやった。

彼は昔の俺と同類のような気がしてならない。

どこにも居場所がなく、頼れる人もいない。

勝手に孤独にされて、行き着いたのがこの神社。

そんな風に思えて仕方がないのだ。

そう思えるのも、少年から発せられる表情とか仕草とか、身に纏う雰囲気とか、そういう全てを見ていると、なんだか自分も息苦しさを覚えるからだと思う。

だからきっと、彼は昔の俺と同じなのだと思う。

かつての自分自身を見ているようなもので、なんだか放っておけないのだ。

似た者同士、なんとなく通じるものはあるのか、他人事にできない何かを、彼はたった一人で抱えているようにも思ってしまう。

結局、俺は雨が収まるまで、ずっと彼の背後を見守ってやった。


日が暮れる頃には雨は止んだ。

しかし雨が収まっていくにつれて、少年の表情は次第に暗くなっていった。

時刻は19時を回ろうとしていたが、少年はよほど家に帰るのが嫌なのか、神社から出て行く後姿は本当に陰鬱としていた。

あの少年のことを頭に浮かべながら、俺は今日の寝床へと向かって住宅地を歩いていた。

サクラは今日の仕事を終えて、すでにホテルに待っているらしかった。

彼女が安いホテルを取ってくれるおかげで、今のところ、俺は野宿を強いられることなく過ごせている。

出費はそれなりに掛かっているはずなのだが、彼女の財力にはあまり影響がないらしい。

今の仕事がそれだけ儲かっているとは思えなかったが、どうやら今の仕事以外に投資などしているようで、自然と金が入ってくるようになっているみたいだ。

そこら辺のことはよくわからないが、今の俺の給与も彼女から出ているので、彼女が破産しなければそれでよかった。

サクラも俺の仕事ぶりは評価してくれている。

最近では、俺のことがネットで都市伝説化しているらしかった。

「空飛ぶバット」というのが俺に付けられたあだ名らしい。

夜な夜な街に現れては、脛に傷のある人間に襲い掛かる。ひとりでに宙を舞うバットだから、「空飛ぶバット」なんだとか。

いじめを苦に自殺した高校球児の霊だというものもいれば、常軌を逸した愉快犯だとか、ヒーローごっこを気取っているどっかのバカがやっていることとか、世直しをしてほしい人間による妄想なんて言葉もあった。

しかしながら、その渦中の人物が定職についていない中卒だということは、誰も知らないわけだけれど。

中には、「夜が歩きやすくなった」とか「実際に幽霊に助けられた」という声もあった。

まあ、他人の評価なんて、今となってはどうでもいい。

世の中の人間は俺のことなんて、所詮その程度しか認知することができないのだから。

しかし、ネットの力は凄まじいもので、最近は仕事でもちょっと暗闇の中でバットを引きずっているかのような音を聞かせるだけで、大抵の輩は怯えて逃げていくようになった。

仮に戦おうとする奴がいても、姿が見えない上にサクラから格闘術を習っている俺の敵ではなかった。

ちなみに、現在はバットを使用することはない。代わりに、バットよりも軽量な折り畳み式の警棒を購入したので、それを使っている。

それはともかく、帰る途中に団地を通りかかったときのことだ。

付近に自動販売機があったので、人気がないのを確認して自動販売機を操作して缶ジュースを買った。

自動販売機にもたれ掛りながら、ジュースを飲んで一息つき、俺は夜空をふと眺める。

今の生活にもだいぶ慣れたし、仕事をすることで充実感は得ている。

しかし、やはり寂しさだけはなかなか拭えない。

特に昨日は、思いがけずにハルと再会したこともあって、俺の心に少し靄が掛かったような気分になる。

この生活をいつまで続ければいいのだろうか。

なんてことを考えたところで、しょうがないのはわかっているけれど。

頭を振って、俺は飲み干したジュースの空き缶を、満杯になっているゴミ箱に押し込んだ。

そして再び歩き出そうとした時、遠くから男女の言い争うような声が聞こえてくる。

声のする方に行くと、近くの団地に辿り着いた。

近づいていくうちに、会話の内容がより鮮明になっていく。

「お前なあ!あんだけ俺が目をかけてやったってのに!」

「もう帰ってください!お金なんてもっていません!」

女性の声はハルだった。

それがわかった途端、俺は駆け足でその場へと向かった。

「このっ!」

「いや!離して!」

夜の団地にこだますハルの悲鳴。

駆け付けた街灯の下で、一人のくたびれたスーツ姿の男が、怒りに満ちた形相でハルの腕を掴んでいた。

俺はすぐさま警棒を取り出し、男の方に歩み寄って行った。

あえて足音を出して近づいたので、男の方もこちらに気づき、こっちに視線を移した。

こちらを見た途端、目を見開いて怯えだす。

「な、なんだ!」

警棒が宙に浮いているように見えているのだから、大抵はこの時点で人は逃げていく。

男も当然ながら、ハルの手を放して尻餅を付いた。

俺が少し振りかざす動作をすると、男は「ひぃ!」と情けない悲鳴を上げて、慌てて起き上って逃げ出した。

そのまま団地から逃げ出す男をしばらく追いかけると、男は「助けてくれー!」と叫びながら大慌てで団地の外へと飛び出していった。

男の背中が闇の中に消えていくのを見た後、俺は尻餅をついて困惑しているハルの傍にやってきた。

何が起こったのかわからず、周囲をきょろきょろと見回しているハルの傍に落ちている白い杖を拾いあげる。

拾い上げた際に、杖に付けられた鈴の音が響き、彼女はこちらに顔を向けた。

「誰かいるんですか?」

ハルの澄んだ声だけが闇夜に響く。答えてやりたいが、俺の声はどうせ届かない。

とはいえ、言葉は通じなくてもハルに杖を渡さないといけない。

そっとハルの手を取った時、彼女はびくっと体を震わせたので、すぐさま俺は彼女の細い手に杖を握らせた。

「えっ?」

戸惑う彼女をそのまま立たせた後、俺は背を向けて帰ることにした。

これでいい。これで、彼女も家に帰れる。

「あの、待ってください」

そこでハルに呼び止められた。

だが俺は振り返らずにその場を後にした。

当然のことながら、この世界では俺とハルは無関係の人間だ。

そして彼女にも俺は見えない。いや、俺が見えない存在であること自体がわからない。

これ以上、彼女に関わることはできないし、何より俺自身が彼女と関わるのが恐いと感じてしまった。

俺が関わっても彼女に良いことなんてない。

こっちの世界の彼女の人生には、俺の存在はいらなかったのだ。

これからも、彼女に俺は必要ない。

その夜、俺は敢えて人気のない暗い夜道を選んで帰った。


朝になり、ベッドから体を起こすと、歯磨きをしているサクラと目が合った。

「おはよー」

お湯を沸かしているのか、ケトルから湯気が吹き出している。

「おはよう」

うんと背伸びをすると、今度は欠伸が出てきた。

「昨日は遅かったね」

「ああ、ちょっと寄り道してて」

「ふーん、珍しい」

ケトルからメロディがけたたましく鳴り響く。

歯ブラシを咥えたまま、サクラはインスタントのコーヒー粉末を取り出し、紙コップに振りかけた。

「寄り道って、何してたの?」

「別に。自販機で飲み物を買ってのんびりしてただけ」

ケトルのお湯を紙コップに注ぎ、プラスチックスプーンでよくかき混ぜた後、俺に手渡してくれた。

「ありがとう」

熱々のコーヒーにゆっくりと口を付ける。

まるで長年付き合っているカップルのように見えるかもしれないが、俺とサクラは男女の関係ではない。

そもそも、そういう関係になったとしても、俺はこの世界にいないことになっているのだから、どうにもならない。

認知されない人間が恋なんてしたところで、結局は不幸になるだけだ。

それにサクラがどう思っているかは知らないが、俺は少なくとも彼女のことは仕事仲間、且つ友人としか考えていないし、それ以上の感情は全く湧いてこない。

それでいいのだ。この自由な生活以上のことを望んでしまうのは良くない。

そう割り切っていた。

朝飯を食べた後は日課のジョギングをする予定だ。

昼から他の案件の調査もあるから、それまでに調査資料の整理もしておかないといけない。

コーヒーを飲み干し、自分のバッグから飲み物とコンビニのおにぎりを取り出して、手早く食事を済ませた。

毎日ジョギングを繰り返していると、すれ違う人間が皆、決まったルーティンを繰り返していることに気づく。

例えば、よく見る学生やサラリーマンはいつも決まった時間にこの道を通っているとか、ある家の前を通ると、2日おきにパンの焼ける匂いが薫ってくるとか、時々夕方になると魚の焼ける匂いがしてくることもある。

そういう日常の、いつも見る景色や人に安心することもあるし、ちょっとした変化があった時は、なんだか小さな発見をしたような満足感を得られた。

普通じゃない家庭に育った俺にとっては、それくらいの幸福がちょうどいい。

ただでさえ、今の生活を手にするほどの大きな変化があったのだから、これ以上を望むのは我儘だろう。

たっぷりと汗を流した後、神社の公園の水飲み場で水分を取り、タオルに水を含ませて体を丹念に拭いた。

気持ちも体もさっぱりした状態で、俺は境内のいつものベンチに腰かけた。

そして、さっぱりした俺を待っていたのは、望んでもいなかった大きな変化の兆しだった。

「・・・えっ?」

神社のベンチに腰掛けた俺の目に、長い黒髪をなびかせて歩いてくるハルの姿が映った。

ハルは白杖をコンコンと叩きながら、神社の本殿へと向かって行った。歩くたびに白杖の鈴が小刻みに鳴った。

そして神社の賽銭箱の前に辿り着くと、ポーチから財布を取り出して、小銭を摘まんで丁寧な仕草で賽銭箱に落とした。

鈴をカシャカシャと鳴らして一礼二拍手をすると、真剣な表情で手を合わせる。

その愁いを帯びた表情に、俺は目を奪われた。

大人になったハルは、本当に美人になっていた。

そうやって一分ほど目を閉じて手を合わせた後、ハルはゆっくりと踵を返し、歩き出した。

ところがハルは急に足を止めて、こちらの方に振り向いた。

そして、その足を俺のいる方向に向けて、ゆっくりと向かってきたのである。

戸惑う俺を余所に、彼女はベンチの端にゆっくりと腰かけた。

そのまましばらくじっと佇み始める。

その姿は、母を待っていた小さい頃のハルの延長線上にあった。思わず出会った頃のことを思い出しそうになる。

俺は何もできずに座っているしかなかった。

音を立てて彼女に気づかれるのも嫌だったので、とにかくじっとしていた。

しかし、ハルの前では意味がなかった。

「・・・そこに、いるんですよね?」

ハルの透き通った声が、静かな境内にすんと響いた。

「昨日も、お会いしましたよね?」

暑さとは別に、嫌な汗が出始める。

目の見えないハルには、姿が見えないことなんて関係なかった。

ハルはすっと立ち上がり、俺の前にやってくる。

「あなたですよね?昨日の夜。あの団地にいた人は」

何も言えない俺に対し、ハルは深々と俺に頭を下げた。

「ありがとうございました」

唖然となる俺に、ハルは早口で感謝を述べた。

「昨夜は助けていただいて、本当にありがとうございます。まさか、昨日今日でここでお会いできるとは思っていませんでした」

「・・・いや」

思わず声を出してしまった。

しかし、その声は彼女には聞こえない。

ずっと沈黙したままだと思ったのだろう。ハルは、顔を上げて戸惑った顔をした。

そんなハルを見ると、なんだか申し訳なく思ってしまい、俺も何か伝えようと考え始めた。

しかし、どうやって彼女に言葉を伝えればいいのか。

いや、そもそもここで彼女と関わりを持つべきなのか。

「・・・・」

するとハルは残念そうな顔をして踵を返した。

俺から返答が来ないことにショックだったのか、それともやっぱり自分の気の所為だと思ったのか。

ハルは俯いたまま、その場を逃げるように去ろうとした。

これでよかった。俺はそう思ってしまった。

この世界のハルは、俺のことを知らない。

この世界に存在しない俺と関わったところで、お互いに何の意味があるというのか。

でも、それはある意味、俺自身のエゴかもしれないと、ここで気づいた。

俺は世界から認知されていないのではなく、俺が世界から距離を置こうとしていた。

俺はハルを追いかけて、彼女の手を握りしめた。

驚いた彼女はこちらを振り向く。

その彼女の手の平に、「どういたしまして」となぞった。

驚いていたハルは、次第に嬉しそうに笑っていった。


「じつはしゃべれない」

ハルの手の平にそうなぞると、「ああ、そうだったんですね」と彼女は答えた。

「それはご病気か何かですか?」

「そんなかんじ」

「そうでしたか。そうとは知らず、すみませんでした」

「だいじょうぶ」

ハルのために、なるべくひらがなで、且つ短くて簡単な言葉を使った。

その間、ずっと俺はハルの細い手を握っていた。

その時は俺も必死だったので何とも思わなかったが、後になってから異性の手を握るなんて体験をしたことに、照れてしまったのは言うまでもない。

「なんでおれだとわかったの?」

「昨夜のことですか?」

「そう」

「ちょっと恥ずかしいですが」

ハルは少し言いづらそうにしていた。

「同じ匂いがしたんです。あなたから」

それを聞いて、俺は納得した。

子供の頃のハルは目が見えない分、耳と鼻がよく利いていた。

足音だけでどんな人間が来るのかがわかるようだったし、一度聞いた声は絶対に忘れなかった。

嗅覚も同じくらい敏感で、人それぞれの体臭などからでも、その人が誰であるかを認識していたらしかった。

たぶんこうして手に書いた文字を認識できるくらいなのだから、触覚も鋭いのだろうと思う。

「なんか、気持ち悪いですよね。すみません」

ハルは少しだけ顔を逸らした。

そんな恥ずかしがるハルを少しからかいたくなった。

「おれ、そんなにくさい?」

「いえ!そういうわけでは!いい香りです!ほんとに!」

「じょうだんだよ」

「はあ、よかったです」

慌てふためいたり、ほっとしたりと、ころころと表情が変わるハルが、何だか面白かった。

「でも、昨日は助かりました。本当にありがとうございます。・・・お礼ができたらいいんですけど」

改めて礼を言われたものの、特に何かを期待して助けたわけではなかったし、俺は気にしていなかった。唯一気にしていることがあるとすれば、昨夜の経緯くらいだ。

「きのうはなにがあったの?」

そう聞いてみると、ハルは黙ってしまったが、しばらくして口を開いた。

「・・・あれは、元同僚なんです」

ハルの声は、少し苦々しかった。

「1か月くらい前に会社を辞めさせられたんですが、私に付きまとうようになって。以前からもそうだったんですけど」

ハルの話によると、その同僚というのが職場でハルにセクハラを繰り返していたらしい。

内容は詳しく話さなかったが、彼女の気の弱さと障害者であることに付け込むような行為だったようで、職場に入ったばかりのハルは、遠慮して周囲に相談できなかったのだという。

だが、ある日を境に、その同僚は会社を辞めさせられたのだという。

「私、昨夜のあの団地に母と住んでいるんですけれど、1か月前から家の前に張り込みをされたりしていて、なんだか私に原因があるみたいなことを言っていたんですが、私は周囲にそのことを相談したこともないので」

ハルは悲しそうな顔をして続けた。

「たまに家にも電話が掛かってくるんです。夜中でも構わず。私、なんだか恐くて」

ハルは俯いて声を震わせた。

俺はそんなハルの手を優しく撫でた。

ハルも俺の手をぎゅっと握り返してきた。

「・・・すみません。昨日会ったばかりの人に、こんなこと話すべきじゃなかったですよね」

ハルはそう言って目元を擦った。

「おれにできることはある?」

咄嗟に、手の平にそう書いていた。

「いえ、そんな。大丈夫です。これ以上は、さすがに」

ハルは首を横に振る。

しかし、俺も話を聞いた以上、見逃すわけにはいかなかなくなった。

「サクラならなんとかしてくれよ」

「えっ?」

「おれはサクラといっしょにしごとをしているから」

そう書きこむと、ハルは驚いた顔をした。

「サクラさんの同僚なんですか?」

「おれからサクラにはなしをしてみる」

「・・・ありがとうございます」

ハルは深々と頭を下げた。

「まだ会って2回目なのに、ここまでしてもらって。私、やっぱりお礼がしたいです」

申し訳なさそうにそう言われてしまい、俺は困ってしまった。

この時すでに、俺は望んでしまっていたから。

ハルと、また繋がりたい。まだ繋がっていたい、と。

「なら、きのうのおれいに」

まるで愛でるようそっと、手の平に言葉をなぞった。

「またおれとはなしにきてくれる?」

ハルは驚いていた。

「めいわくでなければ」

「め、迷惑ではないです!でも・・・」

彼女は困惑した様子で、そして控えめに言った。

「・・・昨日のお礼が、それでいいんですか?」

「そのほうがおれはうれしい」

そう書くと、彼女は徐々に微笑み始めた。

「わかりました。私でよければまたお話しましょう。私も、もっとあなたとお話ししたいです」

「ありがとう」

手文字なんて手間のかかる手段で会話をしても、そう言ってくれる彼女の優しさが、なんとも眩しかった。

「あの、お名前は?」

そう聞かれ、彼女の手の平にゆっくりと「カズオ」と書いた。

「カズオさんですね。私はハルと言います。これからよろしくお願いします」

はじめましての挨拶に少し複雑な気分になったが、それでもこの世界でまたハルと繋がりが持てたことの嬉しさの方が大きかった。

「よろしく」

そして俺はさらに付け足した。

「おれはいつも、ここにいるから」

「はい。わかりました」

ハルは声を弾ませ、その清楚な笑顔を一層輝かせた。

こうして、俺の毎日の日課が、また一つ増えることになった。


それからハルは毎日のようにこの神社に現れるようになった。

彼女の仕事が終わる6時以降、俺たちはあのベンチに座って、手を握りながら話をした。

話す内容は天気のこととか、お互いの趣味のこととか、そんな話題から始まった。

ハルとは初対面ということになっているため、彼女の口から語られることが、すでに俺も知っている情報であっても、知らなかったふりをした。

こちらのことが見えていない分、嘘は吐きやすかった。

「カズオさんは、サクラさんとお仕事をしているんですよね?」

ハルにそう聞かれ、「うん」と指で書き込む。

「お二人のお仕事って、あまりよく知らないのですが、普段はどんなことをしているんですか?」

こう聞かれたときはさすがに回答に迷ったが、適当に「まいごのペットさがし」と答えた。

「とても素晴らしい仕事ですね。飼い主にも、ワンちゃんネコちゃんにも、感謝されるんじゃないですか?」

純粋なハルの反応に、俺は少し申し訳なさを感じた。

実際はもっとバイオレンスな要素を含む今の仕事のことを、なおさら話すことが憚られた。

「私は、今の会社では事務をやっているので、そこまで誰かのためになっているわけではないですけど」

「そんなことない」

謙遜するハルに、さらにこう書き足した。

「きっとだれかのためになっているはず」

「いえいえ、私なんてまだまだですから」

元気づけたつもりだったが、ハルは少し寂しそうな顔をして言った。

「私、未だにミスが多くて、先輩に迷惑を掛けることが多いんです。なかなか仕事がうまくいかなくて」

そうは言っても、ハルは今年初めて社会人になったわけだし、今まで労働なんてしたことがないのだから、それも仕方ない事だと思う。

俺もアルバイトを始めた頃は、わけがわからないことだらけで大変だったし、戸惑いや不安ばかりだったのを覚えている。

「ゆっくりなれていけばだいじょうぶ」

と、ハルの手にそう書いた。

「まだこれからだから」

すると、ハルは少しだけ笑顔を作って言った。

「そうですよね。誰だって最初からうまくできる人はいないですもんね。私、頑張りますね」

そう言ってハルは小さくガッツポーズをした。

俺はそんなハルに、「がんばって」と書こうとしたが、やめて別の言葉を送った。

「じみちにやっていればだれかがみてくれている」

「そうですね。確かにそうだと思います」

ハルは力強く言った。

「私、この通り目が見ないですけれど、なるべく自分でできることは自分の力でやろうとしているんです。でもたまに、そんな私に声を掛けてくれる人がいるんです。『何か手伝おうか』って。だから、カズオさんの言葉は、本当にその通りだと思ってます」

ハルは生き生きとした様子で色々と話をしてくれる。

彼女の話を聞くたびに、この世界も捨てたものではないなと感じることができた。

「どうりょうはあれからきたりした?」

さりげなく、俺は先日ハルに襲い掛かった男について聞いてみた。

「いえ、あれから特に何もないです。電話も掛かってこなくなりました」

「よかった」

それはそうだろう。

ハルからその話を聞いてすぐに、サクラにも伝えたのだから。

俺たちでその同僚の居場所を見つけて、軽く脅しを掛けておいたから、たぶんもうハルに接触することはないだろう。

「今、何時ですか?」

ハルにそう聞かれ、俺はスマホに表示された時刻を見る。

「そろそろ7じになる」

「ありがとうございます。では、そろそろ帰りますね」

「またね」

最後にハルの手の平にそうなぞり、俺は彼女の手を放した。

「はい。また明日」

軽く会釈をしてハルは立ち上がり、白杖を握ってゆっくりと歩き出した。

境内を出て行く彼女と入れ違うように、サクラが歩いてきた。

「おー、ハルちゃん。また会ったね」

「あっ、サクラさん?」

「うん、そうだよ。あっ、もしかしてカズオに用事?」

「はい。ちょっとお話をしていまして」

それを聞いたサクラは、俺の方にさっと視線を移し、目を細めた。

「ふーん、そっかそっか」

そしてにやけた後、ハルに笑顔を向けた。

「よかったね。お友達ができて」

「はい。サクラさんもカズオさんに用事ですか?」

「うん。仕事のことでね」

すまし顔を浮かべているハルに対し、サクラはニカッと笑って手を振った。

「じゃあ、また今度ね」

「はい。それでは」

ハルは一礼してサクラと別れる。

サクラはその後姿を最後まで見送った後、ニタニタと笑いながら俺に近寄ってきた。

「いやいや、随分楽しい時間を過ごされていたようで」

「別にいいだろ」

「顔、すごくにやけてるよ」

「マジで?」

俺は自分の顔に触れる。そのつもりがなくても、そう見えてしまったのだろうか。

サクラは隣に座って、バッグからスナック菓子を取り出し、袋を開けて手を突っ込んだ。

「じゃあ、幸せ者の君に、はい」

サクラはスナックを一枚、俺の前に突き出した。

「・・・どうも」

それを受け取って一口齧った。濃密な塩分が口の中一杯に広がる。

「まあ何はともあれ、よかったよ。最近、表情が暗かったしさ」

サクラもスナックを一枚齧りながら、嬉しそうに笑った。

「ちょっと働きすぎだったんじゃない?少しは休憩したら」

「でも、今この時にも困ってる人はいるんだし」

「それで君が疲れちゃってるんじゃ意味ないでしょ。あたしたちは聖人じゃないんだから、息抜きは必要だよ」

「まあ、考えとく」

そう言いながら、俺はバッグからパソコンを取り出した。

その時、スマホのバイブレーションが控えめに鳴り響く。

「ん?あたしか」

サクラはポケットからスマホを取り出した。

一瞬だけ画面が見えたが、相手は非通知になっている。

「はい、もしもし?・・・ん?」

電話に出たサクラは、すぐに困った顔をして、スマホを遠ざけたり近づけたりを繰り返した。

「もしもーし、どなたですかー?」

「どうした?」

「なんか、ずっと無言なんだよね」

一応、サクラは電話をスピーカーで流してみる。

確かに、声は聞こえないが、なんとなく息遣いは聞こえてくる。

「一度切りますねー」

「待って!」

サクラが終話ボタンを押そうとした矢先、男の子のか細い声が聞こえた。

「いたずら電話ってわけじゃなさそうだね。この連絡先はどこで知ったの?」

サクラは足を組みなおし、電話越しの少年にそう尋ねた。

「・・・お姉さんからもらった。黒いパーカーの」

「ああ、あたしか」

ピンと来たかのような表情を浮かべたサクラはこう切り出す。

「もしかして、よく神社に来ている少年かな?」

「・・・はい」

相手は小さな声でそう言った。

「今はどこにいるの?」

「郵便局前の公衆電話」

「あたしがそっちに行った方がいい?」

「うん」

「オッケー。今からそっちに行くからちょっと待っててね」

そう言って、サクラは電話を切った。

そして立ち上がり、バッグに荷物を入れて担いだ。

「場所、わかるのか?」

「公衆電話のある郵便局なんて限られてるからね。このあたりだと一つしかない」

俺も立ち上がり、パソコンをバッグに詰め込んで、サクラに持ってもらった。

「じゃあ行こうか」

サクラは颯爽とした足取りで、境内を歩き出した。



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