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光の海

小学校3年の時に、リョウジは俺たちのクラスに転校してきた。

風の噂では、前の学校で同級生に酷い怪我を負わせたのが転校の理由らしい。

しかし、リョウジは社交的で面白い性格をしており、いつしかムードメーカーとしての地位をクラスで確立していった。

最初の頃は皆、彼を良い奴だと思っていた。最初の頃までは。

1年もすると、クラスはリョウジの支配下に置かれるようになった。

彼はクラス内だけでなく、別のクラスにも影響力を伸ばし、強力なグループを作り出した。

リョウジの言うことがクラスでは絶対になり、少しでもリョウジにとって面白くない人間がいると、いじめのターゲットにされた。

理由はそう、彼にとって「面白くない」というだけ。それだけで苦しみと屈辱を与えられたのである。

そしてターゲットにされたのは、当時の俺のように不器用で気の弱いタイプの人間か、真面目な優等生だった。

いじめの内容についても、初めは嫌味や陰口で、クラスメイトにターゲットを無視するように命令し、次にあからさまな悪口をクラスメイトが見ている前で、本人に対し述べ連ねる。それも友人を装って絡みながら言うので、気の弱い人間は反論しにくい。

そして次第にターゲットの私物を捨てたり隠したりと、実力行使が増えていき、最終的に暴力でターゲットを屈服させて無理難題を行わせる。

すでにこの頃にはターゲットはクラスで孤立しているので、やりたい放題だ。奴はクラスメイトの前で恥を掻くようなことを強制させて、笑いを取ろうとする。

・・・以上全てが、俺の経験している奴のやり口である。

もちろん、教師が見ている前では絶対にやらないし、暴力もできるだけ痣などが目立たない場所を狙って行う。

リョウジは外面だけはとにかくよかった。

運動神経も良く、勉強もできた方だし、率先して先生の手伝いをするなどクラスを引っ張るリーダーの資質を見せつけたので、教師をうまく自分の味方につけていた。

そのため、ターゲットが担任にいじめを訴えても、結局はリョウジの肩を持つので、全てうやむやにされる。そしてターゲットはもっと過酷ないじめを受けることになる。

そんなリョウジの恐怖支配の中、すでに2人のクラスメイトがいじめを受けて学校を去った。

一人は単にいじめられたことで精神を病み、学校に来れなくなった。

もう一人はそのいじめを止めようとした子だったが、リョウジに酷い報復を受けて転校していった。

その2人がいなくなった頃から、俺一人が主にいじめのターゲットにされた。

きっかけは、良くわからない。気づいたらクラスメイトは俺を見て黴菌扱いし始め、さらには筆箱や体操服などが捨てられるようになった。

明らかにリョウジの仕業だとは思っていたが、証拠はなかった。

そんなものがあっても、先生はあてにならないし、親は親で聞く耳を持たない。

一応、両親に報告はしたものの、彼らが放った言葉は予想通りのことばかりだった。

「新しいのなんて買いませんからね」

「いじめられるお前が悪いだろ。親に恥を掻かせるな」

そして最後には、「ヒメコはいじめられてもないのに」とか「お前と違ってヒメコは人望がある」などなど、ヒメコ自慢が始まる。

そんな当てにならない大人たちの所為で、リョウジはさらに俺に無理難題を吹っ掛けてくるようになった。

ある時からリョウジと取り巻きたちは、昼休みに俺を校舎の裏の見えないところに連れ出し、プロレス技の実験台にした。

奴らは関節技も平気で使ってきた。

逃げればどんな報復が待っているかわからないし、リョウジも言っていたが、俺に拒否権はなかった。

最悪だったのは、放課後に彼らに連行されて、本屋で万引きをしろと強制されたことだった。

さすがに何度も断ったが、リョウジの脅しに屈して俺は彼らの欲しがった成人向け漫画の雑誌を数冊盗むことになった。

もちろんその行為はバレてしまい、店側が警察と両親を呼んでの大騒ぎになった。

リョウジたちはすでに逃げていなくなっていたが、両親に連れ帰された時に、本屋の前で薄ら笑いを浮かべる奴らの姿が見えた。

あの憎たらしい顔は、今でも時折思い出す。思い出すたびに、俺はリョウジたちに殺意を抱いた。

その後、両親は理由も聞かずに、俺をしこたま殴って叱った。

その叱り方も、俺のためを思ってではなく、「近所に恥をさらした」というのが主な理由だった。

それからしばらく、俺が成人雑誌を盗んだことがリョウジたちを介して学校中の噂になり、俺は一層肩身の狭い思いをすることになった。

だが、ここまで俺を貶めたにも関わらず、リョウジはそれだけでは終わらせなかった。


万引きの数日後、再びリョウジに放課後に呼びだされた。

この頃には、俺の感覚も麻痺していたため、リョウジの言うことに完全に逆らえなくなっていた。

校門で待ち構えてリョウジたちは、そのまま俺が逃げないように集団で囲み、ある場所へ連れて行った。

途中で見回りをしている教師たちには、俺たちが仲の良い集団としか見えていないらしかった。

というのも、クラスではリョウジが友達のいない俺の友人となってあげている、という設定になっているからだ。

これでリョウジの株も上がっているので、俺がリョウジたちに実際はどんな仕打ちを受けているか話しても、信じてもらえないようになっている。

ともかくも、俺はあの神社の裏に連れていかれた。ハルの姿がまだなかったのが唯一の救いだった。

神社の裏には段ボール箱が置かれており、その横に金属バットが置かれていた。

嫌な予感しかしなかった。

すると、リョウジの取り巻きたちは急に俺を羽交い絞めにしだした。

リョウジは段ボールを開けて、俺に中を覗くように言った。

恐る恐る段ボール箱を覗くと、中には一匹の黒い子猫が入っていた。

「最近溜まってんだろ?だからお前にもストレス発散させてやるよ」

そう言ってリョウジは金属バットを俺に差し出した。

俺はまさかと思い、血の気が引いた。

「俺に何を・・・」

「だからストレス発散だよ」

リョウジはニヤニヤと笑って言った。

「それで何をするつもり?」

「わかってんだろ?」

「・・・ごめん、わからない」

俺の想像の通りであってほしくなかった。

リョウジは舌打ちして苛立った様子で言った。

「お前もわかんねえ奴だな。俺たちが親切にお前のストレス発散に付き合ってやってんだろ?感謝しろよな。あ、言っとくけど、ここでごねても無駄だかんな」

リョウジは直接俺に何をしろとは言わない。おそらく責任回避のためだ。

そういうところも知恵が回っている。

リョウジはグイっと俺に金属バットを押し付けた。

断れば、俺がその金属バットの餌食になるかもしれない。そう思うと、受け取るしか選択肢がなかった。

仕方なく、俺は金属バットを掴んでしまった。

リョウジも周囲の取り巻きもニヤニヤと笑っている。

「ほら、やーれ、やーれ」

リョウジが手拍子を始めると、周りも手を叩き始めた。もう後には引けなくなった。

子猫は段ボールの中から「ミャー」と小さく鳴いている。体は少し汚れているが、黄色い目が愛らしかった。

プルプルと小さな体を震わせて、こちらをじっと見ている。

ここで、俺がこの子の命を奪い取ったとしたら、その後どうなるのか。

きっとリョウジは俺が「動物虐待をした」と学校にチクるだろう。そうなれば、俺は今の学校にいれなくなる。

別に今の学校は嫌いだから、いられなくなったとしても、それはそれで構わない。

けれど、俺が無垢で無抵抗な小さい命を奪ったという事実だけは一生ついて回る。

そうだ。目の前にいるのは、小さくても命なのだ。

懸命に、死に抗おうとしている、純粋な命。

俺と違って、この子にはまだ幸せに生きるチャンスが残っている。

・・・やっぱり、こんなこと、間違っている。

でも、やらなければ、俺が何をされるかわからない。

やっても地獄、やらなくても地獄。俺はもう逃げられない。

「・・・ごめん」

俺は金属バットを握り直し、猫を見据えた。

そこにチリンと鈴の乾いた音が僅かに聞こえる。

「カズヤ君」

そこにハルの声が聞こえた。

俺は思わず振り返る。

周囲も手拍子を止めて声の方を見た。

「そこにいるの?」

ハルは白い杖を付いて、そこに立っていた。

思わぬ人物の登場に、周囲は固まるが、すぐにリョウジはニヤニヤと笑い始めた。

「おっ、この間の障害者じゃんか」

リョウジの声を聞いたハルは、急に怯えた様子になった。

「まだ性懲りもなく外に出てんのな。あんだけ障害者は周りの迷惑になるって言ったのによ」

リョウジのその言葉とハルの怯えた様子から、俺はあることを思い出した。

俺とハルが話すきっかけになった事件。

彼女から白い杖を奪った犯人は、きっとリョウジなのだろう。

「てか友達だったのな、お前ら」

リョウジは俺とハルを交互に見ながらにやついた。

「ちょうどいいや。また俺たちがよーく教え込んでやるよ。お前も良く見とけ」

その言葉にハルは、白い杖をぎゅっと引き寄せ、後ずさりし始めた。

しかし、背後に回った取り巻きに腕を掴まれる。

リョウジはそのまま白い杖を奪い取ろうとした。

「やめて!離して!」

ハルが悲痛な声を上げる。

その時、俺の中で何かが弾けた。

弾けた瞬間、俺は持っていた金属バットをリョウジの背中に思い切り打ち付けていた。

「ぐあっ」

俺の反撃に周りも驚いたらしく、取り巻きが手を離した隙に、ハルはそこから走って逃げ出した。

「てめえ!」

背中をさすりながらも、すぐに起き上がったリョウジは俺の顔面を殴りつけた。

石が当たったように、頭がぐわんぐわんと揺れ、俺は地面に倒れ伏した。

「何してくれんだよ!この野郎!」

倒れ伏した俺を、リョウジは何度も蹴った。迫りくる痛みと屈辱に耐えようと、神経を集中させる。

しばらく蹴った後、肩で息をしたリョウジは言った。

「てめえ、調子乗ってんじゃねえぞ、根暗のくせに。慰謝料払えや」

だが、俺はそれでもじっとリョウジのことを睨んだ。

もう、お前には付き合えない。

そんな俺の精一杯の抵抗であり、意思表示だった。

「なんだよ?その目は」

リョウジの顔は怒りに歪んだ。そして俺が落とした金属バットを手に持って振りかざそうとする。

「てめえなんざとっと死ねや!」

「おい!コラ!」

そこに怒鳴り声が別の方向から響いた。

リョウジも取り巻きたちも驚く。

「やば!」

「逃げろ!」

「コラ!待たんか!」

リョウジたちは一目散に逃げだし、その直後に箒を振りかざしながら彼らを追いかける神主の姿が見えた。

その直後、俺の体は誰かに抱きかかえられる。

「カズオくん!大丈夫?」

アケミさんだった。ふんわりとフレグランスの香りがして、少し安心した。

「大丈夫、です」

俺はアケミさんの肩を借りて立ち上がった。

「とりあえず、手当てしないと。社務所まで歩ける?」

「はい」

アケミさんに支えられながら、俺は言われた通り、社務所まで歩いた。

そこには目を泣き腫らしたハルがいた。

「ハルちゃんが私たちを呼んでくれたんだよ」

救急箱を探しながら、アケミさんはそう言ってくれた。

ここに来るときに転んだのか、ハルの膝も擦り切れていて血が滲んでいた。

「・・・ありがとう。あと、ごめん」

俺がそう言うと、ハルは首を横に振った。

「また、怖い思いさせちゃったな」

「ううん。大丈夫」

涙を堪えながら言うハルが、なんだか痛々しくて、俺は見ていられなかった。

「むしろ、カズオくんに何かあったらと思うと・・・」

だがハルはそう言って声を詰まらせた。

彼女の涙は、自分のことではなく、俺のためのものだったとそこで気づいた。


アケミさんに応急処置をしてもらった後、怒り心頭の神主のおじさんも戻ってきた。

「ったく、あのガキども。前から注意してやろうと思っていたのに」

どうやらリョウジたちを取り逃がしたようだった。

神主さんが戻ってきたところで、俺たちはアケミさんに、あそこで何があったのかを聞かれた。

リョウジに脅されたとはいえ、子猫を虐待しようとしたことについて、言うのが憚られたが、どのみち明日からリョウジに何をされるかわからないので、いっそのこと俺は今までリョウジに受けてきたことも含めて正直に全て話すことにした。

アケミさんは最後まで口を挟まずに全て聞いてくれた。途中でリョウジが行ってきた悪行の話になると、神主がエキサイトして「あのクソガキめー!」と怒鳴ったが、アケミさんに睨まれると静かになった。

「そっか。辛かったね」

「たぶん、前にハルの杖を奪って嫌がらせしたのも、リョウジたちだと思います」

「そうなの?」

アケミさんが聞くと、ハルはコクリと頷いた。

「あの声は、そうです。私、一度聞いた人の声は忘れないから」

目が見えない分、全てを音に頼っているハルならではの能力というべきか。アケミさんもそれを信じているようだが、溜息を吐いた後に悔しそうに顔を滲ませた。

「さすがに許せないね」

それは怒りを堪えているようにも見えた。しかし、何かやるせなさもあるように見えた。

「リョウジって言ったら、確か5丁目の飯塚さんだよね?」

「ああ、あそこん家は前々から厄介ばっかりだからな」

アケミさんも俺もわかっていた。

リョウジの家の親戚は市の有力者らしく、これまでもそのコネを利用して、リョウジの悪行はもみ消されてきたという噂。

その影響は学校や市の教育委員会にも及んでいるのだとか。

きっと今回も、目撃者はいても証拠がないので、うやむやにされてしまうに決まっている。

「あそこの奥さん、結構きつい性格してるんだよね」

アケミさんがうんざりした様子で言ったように、リョウジの母親は、決して自分や我が子の非を認めない性格の人で、そのくせ他人の失敗はとことん非難する人間として近所でも煙たがられていた。

「でも、このままにしとくわけにはいかんだろ」

神主がアケミさんに言った。

「近所でもかなり悪さしているみたいだし、それにこの子たちがかわいそうだ」

俺たちの方を見て同情的に言うが、アケミさんは冷静に言い放った。

「でも、あの家族に文句言ったところで、あの奥さんは絶対に認めないよ。それどころか、逆ギレするだろうし」

「じゃあどうすんだ」

神主も困り顔になったところで、俺は立ち上がった。

「もういいです」

「え?」

「リョウジのことは、何も言わないでください。あと、うちの両親にも、このことは黙っててください」

「いや、そうは言っても・・・」

「お願いします」

俺はアケミさんと神主に頭を下げた。

どうせ、何をやっても無駄なのだ。学校も家族も、俺の味方はしてくれない。

悪いのは、自分の身も守れない弱い俺自身なのだ。

「・・・わかった」

「アケミ!」

「お父さんは黙ってて」

口を挟もうとした神主にアケミはぴしゃりと言った。

「とりあえず、今回のことは私たちが預かる。ハルちゃんはともかく、君の親には君自身で説明できるよね?」

「・・・はい」

親に本当のことを説明する気はなかったが、俺が頷くとアケミさんは「よし」と言って、奥の部屋からせんべいを持ってきてくれた。

「これ食べて元気出しなよ。ね?」

俺たちにせんべいを持たせて、アケミさんは笑顔を浮かべた。

その日、アケミさんがハルの親に連絡して、彼女を迎えに来てもらうことになり、俺は一人で家に帰ることになった。

帰る前に、俺はもう一度あの黒い子猫の下に行ってみた。

子猫はいなかった。

たぶん、あの騒動で逃げ出したのだと思う。

とにかくも、あの子に何もせずに済んでよかったという安心感に包まれた。とはいえ、明日から俺の日常はさらに最悪になるだろうし、この傷だって親になんと言い訳すればいいかと考えると、途端に憂鬱になる。

明日が恐い。とてつもなく恐い。

その日は、家にたどり着くのにいつもの倍近く掛かった。


次の日、俺は高熱を出した。

両親もさすがに仮病と思わないぐらいの激しい熱だった。

身体はかなりしんどかったが、その高熱のおかげで、俺は1週間ほど学校に行かなくて済んだ。

そして1週間後に熱が引いて、俺は再び学校に行った。

リョウジと彼の取り巻きたちはいなくなっていた。

担任の話によると、リョウジたちは「ある都合」によって、学校を転校することになったようだ。

担任はそれ以上のことは一切触れなかった。

俺と同じく1週間前に彼らも学校を休んだらしい。そして今日になって、突然の集団転校である、

都合については謎だったが、1週間前のあの出来事が関係しているかもしれない。そう思うと、なんだか落ち着かなくなった。

だが理由はどうあれ、クラスはリョウジの恐怖支配からあっさりと解放されたわけで、周囲の雰囲気は殺伐としたものから、だいぶ穏やかになったとは感じた。

とはいえ、俺の状況はリョウジが来る以前に戻っただけであり、相変わらず独りぼっちで過ごす日々が続いた。リョウジがいた頃よりはだいぶましではあったが。


アケミさんに、今回の件を尋ねに行くと、社務所にはあの日の子猫がいた。

どうやらアケミさんがあの後に保護したらしく、しばらく預かることにしたらしかった。

アケミさんが用意した毛布の上でぐっすりと眠る子猫は心底安心しているようで、俺は暖かい気持ちになった。

アケミさんに早速リョウジたちがいなくなったことを話すと、アケミさんは心底驚いた様子だった。

後から神主のおじさんがその場にやってきたので、アケミさんがそのことを話してみると、おじさんは「やっぱりか」と納得したような反応をみせた。

「やっぱりってどういう意味?」

アケミさんが聞くと、神主は渋い顔をして言った。

「いやな。飯塚さんとこのリョウジ、急に精神を病んだみたいに家に引きこもっちまったらしい」

「え?」

「他の家・・・たぶんリョウジたちの友達だろうが、そいつらも同じ状況になったようでな。夜遅くに突然発狂したり、無理やり部屋から出そうとすると暴れまわるみたいでな。いやー、一体何があったんだか」

アケミさんも俺も言葉を失った。

そこに「ミャー」と子猫が鳴いて、よちよちと立ち上がった。

「何か憑き物でも付いたのかもしれないな。こういっちゃなんだが、あのガキども、方々に恨みを買ってたみたいだし」

神主はそう言って溜息を吐いた。

「憑き物・・・」

「まあ、何はともあれ、因果応報ってやつかな」

「お父さん、デリカシーなさすぎ」

アケミさんは神主を睨んだ。

でも、俺は神主の言葉に、何故か胸騒ぎがした。

その時、アケミさんの下にすり寄ってくる子猫を見て、妙なことを思ってしまった。

でも、それは一瞬のことで、やっぱり勘違いかもしれないと、思うようにした。


肩をゆっくりと擦られて目を開けた。

「着いたよ」

サクラは俺を起こして、先に電車から降りていく。

発進のベルが鳴り響いたので、俺もすぐさまサクラの後を追って電車を降りた。

辺りはすっかり陽が落ちていた。

駅を出ると、周囲には飲食店が2軒とコンビニが1軒あるだけだった。

殺風景な景色を前にして、ようやく住んでいた町を脱出できたのだと実感した。

「こっからバスに乗って5分ぐらいで海だよ」

サクラは言った。

「まあ、歩いて行ってもいいけどさ。それか、どっかで一夜過ごして明日の朝にでも見に行く?」

サクラの提案に少し悩んだ。

夜の海も見てみたい気もするが、せっかくなら景色の良く見える昼頃の方がいいのかもしれない。

俺の悩む様子を見て、サクラは何か思いついたのか、「あ」と声を上げて手を叩いた。

「ねえ、この近くに良い場所があるんだ。近くって言っても、少し歩くけど」

「きっとびっくりするよ」とサクラはうきうきした様子で俺を連れていった。


向かった先は山の方だった。

歩いて30分ぐらい経つが、一向に到着する気配がなく、傾斜のある山道をひたすら登っていくだけだっだ。

何故か、こんな時間に俺たちと同じように山道を登っていく車の数が多いのが疑問だった。

「なあ、まだか?」

「もうちょっとだよ」

さっきからこの問答を繰り返している。

街路灯があるとはいえ、暗い山道を歩いていくのは、さすがに勇気がいる。

さらに時間が過ぎたころ、ある建物が見え始めた。

ホテルだった。

外見は洋風で、ピンク色のネオンが輝いている。

清々しいくらい、いかがわしそうな雰囲気を隠さずに聳え立っている。

「良い場所」というのは、まさか・・・。

サクラはその建物へと向かいだした。

ここまで歩いてきたのとは別に、鼓動が高まってくる。

・・・いや、俺は何を考えているんだ。

そんな俺をよそに、サクラは建物の入り口へとは向かわず、建物の隅の「立入禁止」と書かれた札が貼ってあるロープを遠慮なく跨いだ。

「こっちこっち」

サクラに手招きされ、仕方なく俺もロープを跨いだ。

その先にはホテルの外付けの非常階段があり、サクラは遠慮なく階段を上っていく。

サクラの後についていくと、ホテルの屋上へと辿り着いた。

「見てごらん」

サクラが屋上の手すりに駆け寄ったので、俺も近づいてみた。

そして目の前に広がる景色に、思わず目を見張る。

目の前には、街の明かりがひしめくように輝いていた。

「光の海」

サクラは言った。

「夜の静かな海も良いけど、こういう海もなかなか『おつ』でしょ?」

「ああ」

まさしくそれは、文字通りの「海」だった。

山の上の、さらに高い景色からでなければ見ることのできない「海」。

「あの光は、君のいた町の光なんだよ」

サクラの言葉に俺は戸惑った。

「この海を作り出しているのは、そこで暮らして、そこで働いている人たち。あたしさ、この光景を見るたびに、あの町も悪くないと思うんだ」

その台詞に、俺は少し考えてしまう。

俺はずっとあの町から離れたいと思っていた。そんな町なのに、目の前に広がる景色は美しかった。

視野を広げれば、こんなにも素晴らしい景色を見せつけてくるのに、あそこには嫌な思いでしか残っていない。なんだか皮肉だと思う。

そしてこの光の海のどこかで、俺の嫌いな人たちが蠢いているのだ。

この光を生み出しているのが、そういう人たちならば、俺は素直に喜ぶべきなのだろうか。

目の前の美しさとのギャップに、俺は戸惑いを隠せなかった。

「まあさ。難しいことは考えなくてもいいんじゃない?」

サクラは背を向けて手すりにもたれ掛って言った。

「今はただ、頭空っぽにして楽しめばいいじゃん。人間、そういう時も必要だよ。でないとやってられないでしょ?こんな人生」

「・・・そうかもな」

確かにこの景色は、何も考えずに楽しむのが正解なのかもしれない。

それにしても、憎たらしいぐらいに素晴らしい景色である。

なんだか悔しくて、俺は思わず笑ってしまった。

この悔しさに対する感情が思うように見つからなかった。

「何笑ってんの?」

サクラが体を反らしながら顔を覗きこんできたので、「いや、なんとなく」と俺は答えた。

「何それ?」

サクラも笑みを浮かべて、元の体勢に戻った。

「少しは落ち着いた?」

その言葉に、俺はサクラがリョウジの件についてやっぱり怒っているのではと思った。

「すまなかった」

俺はサクラに謝罪するが、彼女はきょとんとした様子でこちらを見た。

「なんで謝るの?」

「いや、だって、さっきのことで怒ってるだろ?」

「別に。あいつはああなって当然の人間だったし」

「でも・・・」

「あいつさ、君がいなかったことで、すでに10人以上の人間を再起不能にしてるんだよ。しかも2人は奴のいじめで自殺しているし」

「え?」

開いた口がふさがらなかった。

「奴はのうのうと生きて同じことを何度も繰り返していた。それどころか、自分のしでかしたことを自慢話にしているぐらいだった。そんな人間だから、あれは当然の報い。というかあれだけじゃ足りないくらい」

「・・・・」

それが真実ならば、そうなのかもしれない。

それよりも俺が気になったのは、俺がいなかったことで大勢が奴に苦しめられ、尊い命も失われたという事実だった。

俺がある意味、奴の防波堤になっていて、本来の被害が最小限に済んでいたとしたら、俺がいなかったことで被害が広がったことになる。

「そう思うことないよ」

サクラはすぐさまそう言い返した。

「でも、俺が苦しむはずだった分が、他の人間に向かったのは事実だろ?俺一人が苦しめば・・・」

「そこまで」

俺が皆まで言う前に、サクラは強い口調で制止した。

そこで、しまったと思う。

俺がいなくなるように望んだのは、俺自身だ。これではまるで、サクラに責任があるようではないか。

「ごめん・・・」

「優しいんだね。君は」

サクラは穏やかな口調で言った。

「でもさ。完全に悪いのは、平気で弱い者いじめをするリョウジだよ。奴がいなければ起きなかったことだし。君一人が苦しんだだけじゃ何の解決にもならない。最悪、君が命を落としていたかもしれない。あんなクズの所為で死ぬなんて、最悪でしょ?はっきりいうけど、君は自分が思っているほど、社会の役に立っていないから」

「え?」

「だから、君が思い悩む必要なんてこれっぽちもない。君は防波堤だとか、そんな大層なものじゃない。誰かを守る力もないクセに、変に気負って責任を感じることないよ。君はむしろ、守られる側だったんだから」

発言に粗はあるが、彼女なりに励ましているらしかった。

「手厳しいな」

「あたし、はっきりと物言うタイプだから」

自然と笑みが零れる。

確かに、無力な俺が気を病むことではないかもしれない。

「まあともかく、奴を打ちのめせて、すっきりしたでしょ?」

「どうかな」

サクラのその問いには、まだ疑問が残る。

もう一度、自分の両手をまじまじと見つめる。

落ち着いたとはいえ、未だにリョウジを殴った時の感覚はまだ拳に残っていた。

人を殴ると自分の手も痛い。けれど、今になって心の深いところが痛み始める。

「それは、君にまだ心があるって証拠だよ」

サクラは優しく言った。

「心無い人にはわからない痛み。それは目に見える傷よりも、誇らしいことだと思うよ」

「そうなのか?」

「うん」

サクラは俺を責めたりする気はない様子だった。人を殴ったにも関わらずである。

「だって、これからは君の好きなように生きろって言ったのはあたしだからね。それに」

「それに?」

「あたしもあいつは憎かったからさ」

サクラは目を細めて言った。

風が唸るように吹いたので、サクラは「寒っ!」と両腕を擦り始めた。

「そろそろ中入る?」

サクラはそう言って手すりから離れた。

「中って?」

「だから、中だよ。ここじゃ寝るには寒いし、どっか部屋の一つや二つ、空いてるでしょ」

彼女はしれっと言った。

「・・・一応聞くけど、ここってラブホだろ?」

「だから?」

サクラは平気な様子で逆に聞いてきた。

「別にそういう目的でなくても利用できるし。もしかしてそういう気分なわけ?」

「いや、別に」

「・・・なんかそれもむかつく」

「どう言えばよかったんだよ」

困り果てた俺を茶化すようにサクラは笑って言った。

「ま、これもなかなかできない経験じゃん。ラブホに泊まるなんてさ。しかも無料で」

気が進まなかったが、さらに冷たくて強い風が吹きつけてきたので、俺も仕方なく中に入ることにした。

屋上の出入り口から中に入ると、サクラに「ちょっと待ってて」と止められた。

「どうした?」

「部屋の鍵を取ってくる。ついでに食べ物も」

そう言いながらサクラは下のフロアに降りて行った。

俺は最上階の廊下で待つことにした。

10分ぐらい待っていると、30代くらいの眼鏡をかけた男が、派手な格好の女といちゃつきながら部屋に入っていった。

なんだか居心地が悪い場所である。

その男女が部屋に入ってしばらくした後、サクラがカップ麺やらお菓子やらを持って現れた。

「ごめん、お待たせ」

サクラは一番奥の部屋の鍵を開けて中に入る。

室内はそこそこ広かった。

ベッドはツインが一つだけだったが、ソファーもテーブルもあるし、電気ケトルも用意されている。

「割といい部屋取れたからよかったよ」

サクラは上機嫌で言った。

部屋を見渡して思う。

ラブホといっても、イメージしたようなものではなかった。

もっとこう、ピンク調の壁紙とか色っぽい明かりのライトとかがあるイメージだったが、なんてことない普通のホテルである。

と言っても、俺はこれまで普通のホテルに泊まったことすらないけれど。

「じゃあ記念すべき初ホテルなわけだ」

サクラが電気ケトルを準備しながら言った。

「なかなかないんじゃない?初ホテルがラブホなんて」

「たしかに、そうかも」

室内で休めることにほっとしたのもあって、思わず笑みがこぼれた。

「あ、先にシャワーでも浴びたら?ご飯の用意しとくから」

「え?」

「だって、ちょっと匂うよ、君」

「マジで?」

俺はすぐに自分の服の匂いを嗅いだ。

「うっそー」

すぐさま、いたずらっぽくサクラが笑う。

「・・・まあ、ともかく風呂入るわ」

飽きれつつも、俺は先にシャワーを浴びることにした。

暖かいお湯を浴びるだけで、なんだか心もさっぱりした気分になる。やっぱりサクラの提案に乗っかってよかったと思えた。


シャワーを浴びた後、俺たちはカップ麺を食べ、菓子を摘まみながらのんびりと過ごした。

こんなにくつろいだ気持ちになるのは久しぶりだった。

家族も仕事も他人のことも、何も気にせずに、心残りもなく過ごせる時間。

俺は今、自由を味わっている。

「ふーん、なるほどねー」

先程からヒメコはベッドの上でふむふむと頷きながら手帳を読んでいる。

「さっきから何読んでるの?」

「えー、別に。仕事のこと」

「仕事なんてしてるの?」

「当たり前じゃん。あたしをなんだと思ってんの?」

サクラはむきになって言った。

「いや、神様とか?」

俺がそう言うとサクラは溜息を吐いた。

「まあ、あたしの正体はともかくとして」

「いやいや、置いとくなよ」

「はいはい、いずれ話してあげるから。ともかくも、あたしも稼がないと生活できないってだけだよ」

「なんの仕事してんだよ」

「キャバクラ」

「マジで?」

「あたし、こう見えても指名上位なんだから。暇があればお客さんとして来てよね」

「いや、客って言っても、俺はいないことになってんだろ?」

「あ、そっか」

それにしても、サクラがキャバクラで働いているとは。

ホステスとして派手な衣装を着ている姿が、なかなか想像できない。

「いいですよーだ。想像できなくても」

サクラは俺にあっかんべーをしてくる。

いい加減、勝手に俺の頭の中を覗くのはやめてほしい。

「やだ」

すぐにサクラが即答してくる。

・・・ああ、サクラのドレス姿が見てみたい。

「いや、それはキモイな」

じとーっとした視線を浴びせられた。

「今度また思考を読まれたら、お前の苦手なことを思うようにしよう」

「うっ、いいもんだ」

ふてくされてサクラはベッドに蹲った。

そういえばそろそろ12時を過ぎる頃だ。

そろそろ寝るか。

「なあ」

「いいよ。寝ても」

サクラは俯せになりながらひらひらと手だけ振った。

「じゃなくて、ほんとにキャバクラで働いてるの?」

「嘘に決まってんじゃん」

「だよな」

それだけ確認した後、俺はソファーに横になった。

するとサクラは起き上がり、こっちをじっと見た。

「ベッドで寝ないの?」

「いいよ。そっちで使いな」

「せっかくのベッドなのに」

そしてまた俯せで横になった。

さすがに、女の子と一緒に寝るのは気が引ける。それに、なんだかこっちの方が良く眠れそうだった。

ベッドだって小学生の頃から使っていた親戚のおさがりの簡易ベッドだったし、親に叱られた時は押し入れに閉じ込められて一夜を過ごすこともあったから、雑魚寝するのには慣れている。

ソファーがあるだけ、まだマシだった。

そうこうしているうちに瞼は重くなっていった。


夢の中で父と母とヒメコが、あの神社のベンチで花見をしていた。

満開の河津桜の下で、父も母も微笑んでいて、幼いヒメコも無邪気に笑っている。

ベンチの上には、美味しそうな唐揚げにおにぎり、卵焼きが並んでいた。

それを子供の姿の俺は、遠くで眺めていた。

「ねえ、いれて」

俺は声を掛けるが、家族は聞こえていないかのように無視を決め込んでいる。

「ねえってば」

駆け寄った俺は父の手を取るが、その手を振り払われた。

「うるさいんだよ!」

父は俺を突き飛ばして怒鳴った。

「家にいろと言ったろ!なんでここにいる!」

「・・・ごめんなさい」

俺は謝るが、そこに母とヒメコが冷たい視線を向けて言った。

「あんたなんか、産まなければよかったよ。ヒメコだけで充分」

「わかってるでしょ?あんたなんかに居場所はないんだよ。どこにもね」

そして全員、今度は俺に薄ら笑いを浮かべて言い放つ。

「もう、お前はすでにこの世界のどこにもいない。何も残すことなく、独り寂しく消えたんだ」


そこで目を覚ました。

サクラがドライヤーで髪を乾かしながら、俺の方を見て「おっはー」と声を掛けてきた。

「嫌な夢でも見たの?うなされてけど」

「・・・ああ」

眠ったはずなのに疲労を感じる。やっぱり、ソファーなんかで寝るんじゃなかったと後悔した。

「朝ごはん、そこに置いといたから」

サクラが俺の傍のテーブルを指差した。

見るとペットボトルの水とコンビニのツナおにぎりが置かれていた。

「ありがと」

「さあ、食べたら海行くよ。海」

サクラは俺以上にわくわくしているようだった。

おにぎりを見て、昨晩の夢のことを振り返るが、黙ってもそもそと口にする。

時間をかけてそれを食べ終わり、準備を終えたサクラとホテルを出た。

昨晩歩いた道を今度は下っていく。長い道のりではあったが、山々が連なる景色を見るのは楽しかった。

昨夜は暗くて何も見えなかったが、こんなにも悠然とした光景がそこにあるとは考えもしなかった。

「君の町はこの反対側にあるんだよ」

景色を見る俺に気づいて、サクラが説明した。

「ちょっと離れるだけで、こんな大自然があるなんて知らなかったでしょ?」

「ああ、知らなかった」

今まで、俺は本当に狭い世界しか知らなかったんだと痛感する。

そして、あの山のさらに向こうには、まだまだ未知の世界が広がっている気がした。

そんなことを思いながら、時間をかけて山を下り、駅前に停車するバスに乗り込んだ。

バスに揺られてしばらくすると、「見て」とサクラが窓の外を見るように言った。

言われた通り外を見ると、眼前に深い青色が飛び込んでくる。

「海・・・」

思わず呟いた。

それは、俺のイメージ以上に濃くて広い青だった。

まだ到着していないにも関わらず、初めて見る海に高揚した。

「今日は天気がいいからね。モスグリーンではないみたい」

「天気?」

「うん。海が青いのは、空の青が映って見えてるからなんだよ」

「そうなんだ」

初めて聞く知識に、また一つ賢くなった気になる。

海を見たことで、俺は少し浮かれているのかもしれない。

バスは聞いたこともない停留所で停車した。

降りた途端に、嗅いだことのない独特の匂いがする。

それでも、これが波の音と共に薫ってくるので、海から来ているものだとは察しがついた。

たぶんこれが、潮の香りというやつだろう。

「こっちこっち」

サクラに手招きされ、俺は防波堤を超えて初めての海を見た。

間近で見ると、バスから見えた青さはそこにはなかった。少し淀んだ色をしていたが、それでもまごうことなき海だった。

浜辺には確かにゴミやら流木やらが点在しているが、そこまで汚いわけでもない。

白い飛沫を上げる波のごうっという音が、潮風の吹く音と共に鼓膜を響かせる。

「着いたね。やっと」

サクラも隣に並んで海をじっと見つめていた。

遠く水平線まで続く波間は、かつて聞いた通りの迫力である。

この水面が、無限に続いているように錯覚してしまう。

「ねえ、もっと近くで見てみようよ」

「ああ」

サクラに言われて、俺はゆっくりと歩き出した。

柔らかい砂浜に踏み出すと、じんわりと足が沈んでいく。

歩きづらいものの、その感触も悪くなかった。

近づけば近づくほど、押し寄せては退いていく波の力強さを感じた。

濡れない距離にまで近づくと、サクラは深呼吸しながら両手をうんと伸ばした。

「泳ぐにはまだ寒いけど、春の海も悪くないね。夏と違って、人の喧騒もないし」

確かに周囲には誰一人いない。

俺とサクラだけである。

ただとにかく、風のうねりと波の飛沫だけが響いている。

「それで、念願の海に来たわけだけど」

サクラは俺の方を見て聞いた。

「次は何したい?」

「・・・もうしばらく、見ていたいかな」

「わかった」

俺がその場に座り込むと、サクラも体育座りをした。

今はただ、感傷に浸りたい。

初めてのこの景色と香り、そして音を脳裏に焼き付けておきたかった。

海は不思議だ。

いつまでも見ていて飽きないし、いろんなことがどうでもよくなる。

時間や社会、ありとあらゆる全ての柵から、解放された気分になる。

「もっと、早くに見たかったな」

思わず口に出していた。

もし、これまでの辛い日々の中で、海を見ることができていたら、俺も自分の人生を少しは投げ出さずに乗り切れていたかもしれないと思った。

海には人を元気づける何かがある。

そう言っていたのはハルだった。

ハルは生まれたときから目が見えなかったわけじゃない。ある日を境に、突然彼女は光を失ったのだそうだ。

なぜそうなったのか、理由はわからない。しかしそれからというもの、ハルの両親が離婚したり、生活が一気に困窮したりなど、これまでの日常が一気に崩れだしたのだそうだ。

両親の離婚の原因が自分にあるのでは、とハルは悩んでいた。

それに加えて、急に光を失ったことによる悲しみと日常生活の不便さという大きな壁にもぶち当たっていたため、彼女はふさぎ込んでしまうことが多くなった。

でも、そういう時に、彼女は海を思い出すようにしていたらしい。

「海はね。とっても広くて大きくて、自分がいかにちっぽけなものか教えてくれるの」

ハルは俺に海を見たことを聞かせてくれた。

まだ目が見えていた時に、一度連れて行ってもらったことがあるらしい。

「まだ私は小さかったけれど、今でも覚えてる。お父さんもお母さんも、皆が笑顔の思い出」

ハルはとても楽しそうに海の話をした。

それが彼女の眼が見えていた頃の、最後の旅行だったらしい。

「だからかな。海は私にとっては、特別なものに感じるんだ。今でもさざ波を聞くと、心が落ち着く」

確かに今、俺は思った以上にリラックスしている。

さざ波もそうだけど、こうしてハルと同じ景色を見ることができたというのもある。

ハルの話を聞いて、俺も海への憧れを強めた一人だった。

海を眺めているうちに、俺はある決意を固めた。

「サクラ」

「なあに?」

俺は立ち上がり、考え付いたことを口にする。

「俺にも、やりたいことができた」

「そっか。よかったじゃん」

サクラは嬉しそうに笑った。

「で?何するの?」

ハルのことを思い出して気づいた。

俺は、ハルがやったこと、やりたいと思ったことに憧れを持っていたんだ。

それを経験することも悪くないと思えた。


それからの日々は目まぐるしく過ぎていった。

かつてハルがやりたかったこと、やってきたことについての話を思い出し、それらをノートに書き込んで一つずつ実行していくことにした。

サクラもそれに付き合ってくれていたので、退屈はしなかった。

時折、彼女は仕事と称してどこかに消えることはあったが、基本的に俺のスケジュールに合わせてくれていた。

最初に行ったのはゲームセンターだった。

目が見えないハルはそこで遊んだことはなかったようだが、「楽しそうな音に溢れているから」という理由で、好きだったらしい。

お金はサクラに借りて、何度かUFOキャッチャーやアーケードゲームをプレイして遊んでみた。

サクラはプリクラを撮りたがっていたが、俺が写らないのでは意味がないのでやめた。

楽しかったが、近所の不良とかも利用している場所だったし、騒がしさが半端なかったので、行くのはもういいかなと思った。

カラオケにも挑戦してみた。ハルが小さい頃に一度だけ行ったことがあるらしい。

最近の歌はあまり知らなかったので、サクラの熱唱を聞いてばかりだった。時折、俺でも知っている少し古い曲をサクラが入れたので、彼女と一緒に歌った。

それにしても、サクラは歌がうまかった。彼女の甘いハスキーボイスは聞きごたえがあって飽きなかった。

他にも、少し遠出をしてハイキングをしたり、川釣りもやってみた。

旅行をしたことがなかった俺にとっては、どれも初めての体験である。大自然に触れるということの清々しさを知ることができた。

これまでできなかったことが、存在が消えてしまった今になってできるようになったのは、皮肉にも思える。

それでも、何のしがらみのない自由であることの、なんと心地よいことか。

ちなみに、この間の寝泊りや食費は、全てサクラが持ってくれた。

俺のやりたいことに付き合ってくれるだけでなく、金銭的な援助までしてくれたことには頭が上がらないが、彼女は「いいの、いいの」と言うばかりであった。

とはいえ、彼女にしてもらってばかりでは心が痛むので、何かできることはあるかと聞いてはみた。

すると彼女は当初「気にしないで」と言っていたが、ある時俺にこう言った。

「実は、ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだよね」

それに対し、俺は何をすればいいか聞いたが、サクラは「その時が来たら話す」と言うだけだった。


しばらくしてから、サクラの依頼の内容を知る機会がやってきた。

俺がこの世界から消えて、ちょうど1か月が経とうとしていた頃である。

1か月も自由であり続けていると、当然それ以上の欲求も生じてくる。

誰にも存在を認知されていない以上、話し相手はサクラ以外にいない。

だから、時折すれ違う人たちを見ると、話しかけたくなってしまう。

カップルや友人同士のグループなどを見ると、羨ましく感じてしまうこともある。

彼らには、自分の居場所がはっきりしていて、親や友人からの愛を、それがさも当然のように受けているみたいだった。

すれ違う彼らを見るたびに、少し悲しい気持ちになった。

もちろんサクラがいるだけでも十分ありがたい。彼女は話し相手として申し分ない存在だ。けれど、彼女以外の誰かに認知されたいという欲求は日に日に強まっていった。

いやむしろ、繋がりたいという気持ちに近いのかもしれない。

誰かに認められたい。これは今の俺には贅沢な願いなのかもしれないが、それでも時折求めてしまう。

ともかくも、サクラに呼び出された俺は、あの神社へとやってきた。

すでに桜の花は散り納めており、春の香りもすでにどこかに消えていた。

ほんの短い期間だからこそ、失われるのがとても切なく感じてしまう。

いつものごとく、お決まりのベンチに腰かけて、サクラを待つ。

それにしても俺は一体、何をやらされるのか。

少しの不安を抱きつつ、待ちぼうけている時だった。

チリン、という小さい鈴の音が聞こえた。

思わず、周囲を見渡してしまう。

確かに今、小さくてもはっきりと聞こえた気がした。

でも、周りには誰もいない。

神社の外の道へと出てみると、小型犬を連れた女性が楽しそうに歩いているだけだった。その犬の首輪には、小さな鈴が付けられていた。

犬が歩くたびに、鈴も一緒に揺れてチリンチリンと鳴っている。

それを確認して、俺はもとのベンチに戻った。

この神社で鈴の音を聞くなんて、てっきりハルが現れたのかと思ってしまう。

そういえば、彼女は俺のいない世界では、どうしているのだろうか。

俺と同い年だから、もし学校に通っているならば高校3年生である。

あの時のように、この町を離れてしまったのだろうか。

もしできるならば、今どうしているか知りたい。

あわよくば、また彼女に会いたい。

「ごめん、ちょっと待ってて」

すると神社の入り口の階段下から、サクラの声が聞こえた。

とたとたと階段を駆け上がる音が聞こえ、やがてサクラが現れる。

「よお」

「うん、おはよう」

どうもサクラの様子がいつも違っていた。

なんというか、少し気が張り詰めている。

「何かあったのか?」

「まあね。ひとまず、荷物を運ぶのを手伝ってほしい」

「荷物?」

俺は聞き返すが、サクラは急ぎ足でまた神社の階段を下った。

俺もサクラの後に付いて行くと、階段の下に一人の女性がいた。それは一瞬誰なのか気づけないほど、変わり果てたアケミさんだった。

全体的にやせ細り、顔には気力がなく、少しおどおどして挙動不審になっていた。かろうじて眼鏡をかけていたので、本人だとようやくわかったくらいだ。

かつての優しい笑顔と気丈で健康的な彼女は、そこにはなかった。

「アケミさん、歩ける?」

サクラが聞くと、アケミさんは間を置いて頷き、サクラに支えられながらゆっくりと階段を上がっていった。

サクラは俺の方をちらりと見て、下に目配せした。

階段の下には、アケミさんの物と思しきスーツケースと旅行バッグがあった。

とりあえず、彼女たちが階段を上がっていなくなった後、俺は荷物を持って社務所へと向かった。

社務所の前でサクラは俺を待っていたので、俺は彼女に荷物を渡した。

「うん。ありがとう」

彼女は礼だけ言って、俺を社務所の中に招いた。


室内では、アケミさんが泣き崩れており、彼女の傍で神主のおじさんが寄り添って肩を抱いていた。

「・・・お父さん、ごめんなさい」

「いいよ。今は何も言うな」

神主はアケミさんが泣き止むまでずっと肩を抱いていた。その様子を俺はサクラとじっと見ていた。

確か以前、アケミさんは結婚して実家から離れたと聞いていたのだが、あの荷物から察するに、もしや・・・。

「すまない。サクラちゃん」

神主はサクラに言った。

「少しだけ、席を外してほしい」

「・・・はい」

言われた通り、サクラは社務所から出て行ったので、俺もその後に付いて行った。

なんだか、アケミさんのあの憔悴しきった姿を見ているのが、耐えられなかった。

あそこにいるのは、俺の知っているアケミさんではない。見ているだけで、こちらの胸が苦しくなってしまう。

サクラはいつものベンチに腰掛け、ぼーっと遠くを見ていた。

俺もサクラの隣に座り、しばらく考えを整理させた。

そして数分が経った頃、俺はサクラに問いかけた。

「俺の仕事って、アケミさんに関係あること?」

「・・・まあね」

サクラは普段とは裏腹に、元気のない声で言った。

「具体的に何をすればいいんだ」

「まだ考え中」

そう言って、サクラは膝を抱えて顔を埋めた。

なんだか話しかけづらかったので、俺もしばらく黙った。

だが、口火を切ったのはサクラの方からだった。

「何があったのか、気になるよね」

「まあね。でも、なんとなく想像がつく」

「きっと、想像以上だと思うよ」

サクラはそう言った後、顔を上げた。

「君にして欲しいことは、復讐」

サクラの言葉は冷たくて乾いていた。

「君には相当覚悟のいることをさせると思う。嫌なら別に断ってもいい」

どうやら、アケミさんに何があったのかを聞くには、これに答える必要がありそうだった。

アケミさんの様子は尋常ではなかった。そしてなんとなく、俺と似たような経験をしてきたように感じた。

「聞かせてくれ」

俺はたまらず言った。

「アケミさんに何があったのか」

「・・・・」

そしてサクラは、静かに事の顛末を語り始めた。


アケミさんが結婚したのは今から2年前。

会社員時代に付き合っていた年上の男性、オサムと1年の交際の末に婚約した。

オサムの両親からも歓迎されており、当初は順風満帆な新婚生活を送っていたが、結婚からしばらくしてから、幸せな生活は一変する。

オサムが急に自分の実家に帰ろうと言い出し、アケミさんはそれに従ったのだが、そこから義母のシノブから信じられない嫁いびりをされるようになった。

例えば掃除に関して言えば、わずかな埃でも残っていればアケミさんを罵倒し、執拗に粗探しをして何度もやり直しをさせた。

料理に関しては味付けが気に入らないとして、一口手を付けただけでアケミさんの料理を捨てることもあったそうだ。

そして決まって、「自分の頃はこんなこと許されなかった」とか、アケミさんが片親であることをなじって「やっぱり片親だとろくな嫁にならない」などと一言多い暴言を吐いたりした。

アケミさんは夫のオサムに何度も相談したが、「お袋がそんなこと言うはずがない」「お前の努力が足りない」等と、逆にアケミさんを非難した。

それどころか、オサムもシノブに倣って、アケミさんの家事に口を出して亭主関白を気取るようになり始めた。

アケミさんの料理に対しても、「味が薄い」とか「お袋の料理の方がうまかった」「お前の飯は犬の餌だ」などと、さも舌が肥えているかのような態度で作った料理を批判した。

そのくせ、自分は家事を一切せず、アケミさんにやらせっぱなしだったようだ。

最初の頃はアケミさんも家事を手伝ってくれるようにオサムに頼んでいたが、仕事の忙しさを理由に、オサムは家事をアケミさんに全て行わせた。

「俺と違ってお前は家にいるんだから、家事ぐらい完璧にこなせ」などの横柄な命令は日常茶飯事だったらしい。

その上、「主婦は楽でいいよな。仕事もしないで家でダラダラできるんだから」と嫌味を言い続けた。

アケミさんはそんな理不尽にずっと耐えてきた。それどころか、自分に非があるとずっと思いこんでいたようである。

というのも、アケミさんはなかなか子供ができず、オサムと義両親から執拗に子供をせがまれていた。

特に義父のケンジはこのことにうるさく、子供ができないことをアケミさんの所為だと一方的に決めつけ、「欠陥品」だとか「嫁としての務めを果たせないクズ」などとアケミさんを罵った。

それでもアケミさんはこの仕打ちに耐え続けてきたが、次第にオサムたちの行動はエスカレートしていく。

ついにはシノブもオサムも、アケミさんに直接手を出すようになった。

シノブはアケミさんのことで少しでも気に入らないことがあると平手打ちをし、オサムとケンジは殴る蹴るなどの、もっと酷い暴力をアケミさんに振るいだした。

そしてアケミさんが外に助けを呼べないように、買い物以外の一切の外出を禁止した。買い物の時間もシノブが一緒について見張るようになった。

精神的にも肉体的にも追い詰められていったアケミさんだったが、半年前についに妊娠が発覚した。

これでオサムも義両親も変わってくれる。そんな淡い期待を抱いたアケミだったが、その希望は儚く崩れることになる。

なんと身重のアケミさんに対しても、オサムたちはこれまで通り一切の家事を彼女に全てやらせた。つわりのために気分が悪くなって休みたいと言っても、そんなものは甘えだとして、これまで通りの理不尽をアケミさんに強要した。

暴力もいつも通り続き、アケミさんは日に日に弱っていった。

そしてついに恐れていた事態が起きる。

ある日、具合が悪くて病院に行きたいとアケミさんがシノブに言ったのだが、「甘ったれるな」とシノブは言い放ち、それどころか自身の友人の家に遊びに行くから送り迎えをしろと彼女に命令したのである。

そんなことができる状態ではないため、アケミさんは病院に行かせてほしいと言ったが、シノブは聞く耳を持たなかった。

仕方なく我慢していたアケミさんだったが、ついに立ち上がることができないぐらい、気分が悪くなり、救急車を呼ぼうとした。

しかし、シノブは苦しんでいるアケミさんを見て笑いながら、「そのままとっととくたばっちまえばいい」とまで言い捨てたのである。

その言葉にアケミさんはショックを受けて倒れてしまい、30分後にシノブがようやく救急車を呼んだ。

アケミさんの体調の悪さは、過労によるものだった。彼女は何とか助かったが、お腹の子供は負担が大きかった所為で流産することになってしまったのである。

アケミさんはショックを受けたが、それ以上にショックだったのは、オサムも義両親も揃って彼女を「人殺し」と罵ったことである。

シノブは自分のやったことを棚に上げて「孫を殺した殺人鬼」などとアケミさんを罵倒した。

オサムはさらにアケミさんに離婚届を突きつけ、「いつでもお前なんて切り捨ててやれる」と彼女を追い詰めた。

アケミさんはショックでさらに入院することになった。それでも、彼女は全て自分に原因があると思っていたようである。

自分が至らないから、自分が出来損ないだから子供を死なせた。そう思い込んでいたらしい。

長い地獄のような生活で、アケミさんは完全にオサムたちに洗脳されていた。

一方、病院の担当医は、アケミさんの体に多くの痣があること、そして妊婦なのに過労で倒れたということに疑問を持っていた。

担当医はオサムたちに話をするものの、彼らは「痣なんて知らない」とか「どこかで自分で作ったんでしょう」などと白を切った。過労についても「彼女が自分で望んで家事をやった」と嘘を並べた。

担当医はそれでも疑問に思い、アケミさんに話を聞いた。彼女は離婚届を出されたことと、子供を失ったことで、全てどうでもよくなったらしく、医師に自分が受けてきた仕打ちを全て話し始めた。

医師はそれを聞いて、診断書を書くことにした。


「そこで、あたしが彼女に会いに病院に行ったわけ」

サクラの話を聞いて、正直気が狂いそうになった。

自分の親や妹も大概だったが、そこまで理不尽な行為を平気で行う人間がいるとは思いたくなかった。

サクラはさらに続けて言った。

「もともと、アケミさんに何があったのかは知っていた。だから、ずっと彼女を助けるためにいろんな準備をしてきた」

「準備?」

「うん」

サクラは頷いた後、一冊の手帳を取り出した。あのラブホテルでサクラが読んでいた手帳である。

「例えばこれ、オサムの浮気の証拠が載っている」

「旦那は浮気していたのか?」

「まあね。君もあの日、ラブホで会っていると思うよ。眼鏡をかけた男がオサム」

そこで思い出した。確かにサクラを待っている時に、若い女性と部屋に入ろうとしていた眼鏡の男のことを。

「あいつが?」

「うん。あそこで何度も浮気してた。だから、その現場も写真とかに収めたりね」

そこで俺ははっとなる。

「まさか、お前・・・」

「うん、あのホテルに行こうとしたのはたまたまじゃない」

続けてサクラは「ごめん」と謝った。

俺は何も言えなかった。別に怒る気にはならない。それもアケミさんのための行動だったのだから。

「別に謝らなくていいよ。それより、証拠は他にも?」

「うん。アケミさんと病院で会って、弁護士の用意とかはこちらでするから、酷いことをされている証拠を集めてほしいって頼んだ」

サクラは寂しく笑って言った。

「これがあたしの仕事。実は便利屋みたいなことやってるんだよね。これでも」

「便利屋・・・」

「そう、時には人探しとかもするし、縁を切りたい相手がいるとかの依頼もある。・・・今回のアケミさんの件は完全に個人的な仕事だけど」

「本当にキャバ嬢じゃなかったんだな」

「時々やるよ。まあ仕事の一環でだけど」

ようやく笑顔が戻ったサクラだったが、また深刻な表情になった。

「・・・アケミさんには辛いことだったけれど、退院後に暴言とかの内容を録音してもらった。暴力を振るっている場面も隠しカメラで撮ってもらった。でもね」

サクラはそこで溜息を吐く。

「バレちゃったんだ。それが」

「バレたって、証拠を集めていたことが?」

「うん。で、あいつら、アケミさんを死ぬほど痛めつけて、納屋に閉じ込めた。それに気づいて、あたしはすぐにアケミさんを救出して、病院に連れて行った。で、今こうして実家に戻ってきたってわけ」

「そうだったのか」

俺はなんて言葉を出せばいいかわからない。怒りはもちろんある。アケミさんを奴隷のように扱ったオサムたちに対して、同じ目に遭わせてやりたいという怒りが。

「証拠はどうなったんだ?」

「それなら大丈夫。レコーダーとカメラは壊されたけれど、データは全部私の手元に飛ぶようにしていたから」

「じゃあ、あとは」

「うん。あとは正式に弁護士立てて離婚するだけ」

それを聞いて安堵はするが、やはり怒りはある。そして、それはサクラも一緒なのだろうと思う。

「さっき、復讐するって言ったよな」

「・・・・」

サクラはきっと、これで終わらせるつもりはないのだろう。

「俺は、あいつらに何をすればいいんだ?」

「・・・考え中」

サクラの眼は据わっていた。もしかしたらずっと、自分の中の怒りを堪えているのかもしれない。

「アケミさんは、命の恩人なんだ」

唐突に、サクラは告白する。

「あたしがまだ小さい頃、死にそうになっている時に、あの人は助けてくれた」

「・・・そうか」

俺は具体的に聞かないようにした。

彼女の雰囲気から、その話題がかなりヘビーなものかもしれないと感じたからである。

「だから、今度はあたしがアケミさんを助ける番」

「俺も助けたい」

俺がそう言うと、サクラはこちらをゆっくりと向いた。

「俺も、あの人には救われたからさ。お前が何をするかはわからないけれど、このままで済ましておきたくないって気持ちは、たぶん同じだ」

そう。奴らがアケミさんに行ってきた蛮行は、ただで済まされることではない。

俺も、復讐をしたい。

「・・・ありがとう」

サクラは小さく呟いた。


おそらく、オサムたちは突然いなくなったアケミさんを探しに実家を訪れるであろうと、サクラは睨んでいた。

だからその時を狙って、彼らへの復讐を実行する。

どのように復讐をするのかは、すでにサクラから具体的に聞かされている。内容はおぞましいものではあったが、俺にはためらいはなかった。

リョウジを瀕死にまで追い込んだ実績があるからかもしれないが、サクラの言葉を信じる限り、アケミさんの子供を流産させた上に、彼女を非難するような非常識な人間が、復讐されるのは当然の報いであるとも思っていた。

そして、アケミさんに起きた出来事は、きっと真実だと思っている。アケミさんが弱った姿を見てそう信じている。

普通の人間があんなに衰弱するなんて、よほどのことがない限りあり得ない。

そこに日常的に凄惨な暴力も受けていたのなら、なおさら許せなかった。

「この世の中には、報われない怒りが山ほど募っている」

サクラはこう言っていた。

「例えば、実の親が自分の子供を虐待して殺しても、結局何年かでその親はまた塀の外に出てくる。自分の子供を苦しめた上に、死に追いやってもだよ?DⅤやいじめだってそう。現状は暴力を振るっても、加害者は何のお咎めもない。それどころか被害者が全てを投げだして逃げることしかできない。法律があっても、被害者は守ってくれないようになっている。今の世の中では加害者の更生とかに重きが置かれていて、被害者の苦しみや怒りが報われないんだよ。人をさんざん苦しめた人間が、簡単に自分の罪を認めるわけないのにさ。法治国家なんて笑わせるよね。どんなに社会が訴えても、司法は変わらない。変わる気がない。だから、あたしがアケミさんの代わりに彼らに報復する。法律が彼らを完全に罰しないから」

サクラの持論は、ある意味で的を得ているように思った。

確かに、この世の中は自己責任の押し付けあいがなされている。誰かから危害を加えられても、自分自身でわが身を守ることを強いられる。

世の中、それができるほど強い人間ばかりじゃないのに。

「あいつらはきっと、アケミさんのことを執拗に追いかけてくるはず。ああいう連中は、自分の支配欲のために弱い人間を必要としているから」

その言葉には、俺自身の境遇も当てはまるように思えた。

俺の両親もヒメコも、俺という弱い人間が必要だったのかもしれない。俺の人格を下げることで、自分たちの体面を守る。そのために俺が必要だったのだろう。

今ではそう思う。

それだって弱い人間のすることではあるが、許されることではない。

ちなみにアケミさんは、今は実家で療養している。

彼女はオサムたちに監視されていたため、彼らの家にいるときは実家に連絡すらできなかった。だから父親である神主も、サクラにアケミさんの現状を伝えられるまで、自分の娘の状況を知ることができなかった。

神主は心底後悔していた。自分の娘をあんな人でなしの家に嫁ぐことを許してしまったこと、そしてこうなるまで娘を守ることができなかったことを。

神主とアケミさんには、サクラの計画を伝えてはいない。これは、俺たちが独断ですることであって、彼らを巻き込まないようにするためである。

そして俺たちは、あれからずっとアケミさんのいる家の付近を見張っていた。

奴らがいつ現れるか、俺は今か今かと待っていた。

なんだか妙な高揚感があった。不謹慎ではあるが、復讐に対する興奮が隠せない。

そしてついにその時がやってきた。

俺とサクラが、アケミさんの家の外で見張りを行っていると、1台の軽自動車が近くの路上に停まったのを目撃した。

「来たよ」

サクラに言われて、それがオサムたちだと俺は気づいた。

軽自動車の運転席から、以前にラブホテルで見かけた眼鏡の男が降り出すと、続けて60代の男女も後部座席から降りてきた。

3人とも険しい顔をしている。

サクラはその様子をビデオカメラで撮影していた。一応、彼らが強引な行動をとるまでは動くなと言われている。

奴らがアケミさんの家の前に来ると、オサムが家のインターホンを押した。

「大丈夫。何があっても外には出ないように伝えてあるから」

サクラはそう言って監視を続けた。

「はい」

インターホンから神主の声が聞こえると、オサムが口を開いた。

「アケミの夫のオサムです。アケミがこちらにいると聞きまして」

しばらく間を置いて神主が低い声で言った。

「・・・お引き取りください。ここにアケミはおりません」

「いるんだろ?アケミ。この間のことは悪かった。また寄りを戻そう。お前だって戻ってきたいだろ?」

オサムは神主の言葉を無視してまくし立てた。

「何を馬鹿なことを」

そんなオサムにサクラは冷めた視線を向けて小さく呟いた。

「父さんも母さんも悪かったって言ってる。だから帰ってこい。お前の居場所は俺たちにしかないんだから」

「帰ってください。そして二度と来ないでください」

神主は怒りを抑えているかのように、さらに低い声で言った。

すると、オサムの母親のシノブが前にずんと出てくる。

「ふざけんじゃないわよ!この不良品が!」

そして大声で喚き散らした。

「あんたの所為で孫が死んだってのに、その上オサムにここまで言わせてもまだあたしたちに恥をかかせるつもりかい!そもそもあたしたちは結婚に反対だったんだ!それなのにあんたみたいな不良品をありがたくオサムがもらってやっていうのに、この仕打ちはなんだい!」

「そうだ!恥をかかせたんだから慰謝料払え!」

その上、オサムの父親のケンジまでしゃしゃり出て、めちゃくちゃなことを言い始めた。

「前から言いたかったけどな!妊娠で疲れただのなんだの、つわりが酷いなどを甘えたことをぬかしやがって!そんな理由で家事をほったらかしにしていいわけないだろう!これだから片親の子供は!」

「もう行ってもいいか?」

ここまでの流れで、サクラの話に聞いた通りの人間のクズだとはっきりわかった。俺は今すぐにでも奴らをぶちのめしたくなったが、サクラに止められた。

「あともうちょっとだから」

サクラも必死に耐えているのか、唇をぎゅっと嚙みしめていた。

「アケミ。お前の所為で俺たちの人生は大きく狂わされたんだ」

そこにオサムがさらに頓珍漢なことを言い始めた。

「本来ならばお前とお前の親に責任を取ってもらうところだけど、ちゃんと帰ってくるって約束するなら、これまでのことは水に流してやる」

俺は呆れて物も言えなかった。

彼らはさも自分たちが被害者だと言わんばかりである。サクラ曰く、「DVをする連中は自分が被害者だと信じて疑わない」らしい。そして自分より強い奴には迎合するから、弱い者にしか暴力を振るわないことも。

結局、自分のことしか頭にない連中なのだ。

「・・・・」

インターホンからは何も帰ってこない。神主も呆れかえっているのだろうか。

「そっちがその気なら弁護士を立てる」

やがてオサムは怒った顔をして言った。

「とことん苦しめてやるから覚悟しとけよ!クソが!」

「孫じゃなくてあんたが死ねばよかったんだ!」

オサムたちは捨て台詞を吐いて車へと戻ろうとした。ケンジに関しては家の前に唾まで吐いていった。

「はい、オッケー」

サクラはビデオカメラを止めて言った。

「間違っても殺しちゃだめだからね」

「わかってる」

サクラに言われた通り、彼らには生きて、死ぬほど恐ろしい目に遭わせなくてはならないからだ。

用意した木製バットを持って、彼らに歩み寄った。

バットの硬い音が周囲に響くと、彼らはこちらを見て、目を見開いていた。

何せ彼らにはバットが宙を浮いているかのような状態に見えるのだから、無理もない。

「ひいっ!」

真っ先に、腰を抜かしているオサムへと走り寄り、バットで腹を思い切り打った。次に唖然としているシノブにも同じくバットを打ち付けた。倒れた2人を交互に何度もバットで殴った後、驚いて走り去ろうとしたケンジを追いかけ、背中をバットで殴りつける。

「ぐああ!助けて!」

倒れたケンジの首根っこを掴んで引きずり、3人を並べて何度も何度もバットで殴り続けた。

アケミさんがこれまで受けた苦しみを、代弁してやる気持ちで、何度も何度も。

顔面も容赦なく殴ったので、周囲に血が飛び散っていく。

彼らは悲鳴を上げていたが、やがて何も言わなくなり、つぶれた顔で荒く息を吸うだけだった。

「オッケー。じゃあ車に乗せて」

サクラはそう言って、オサムの胸ポケットから車の鍵を取り出し、運転席に乗り込んだ。

俺は用意していたガムテープで彼らの口を塞ぎ、手足をぐるぐる巻きにして縛った。

抵抗されるたびに、俺は彼らを殴っておとなしくさせた。

全員車の荷台に積み終わり、俺が助手席に乗り込んだのを確認して、サクラは車を走らせた。

「・・・免許持ってたんだな」

「いや、持ってないよ。でも運転の仕方はわかる」

俺の問いに、サクラはけろりと答えた。

「本当に大丈夫か?」

「任せてよ」

不安があったが、それでもサクラを信じるしかない。

というか、人を襲って瀕死にさせた後に言う台詞でもないか。

俺は自分で思っていなくても、元々そういう凶暴な性格だったのか。はたまたこれまでの環境が普通じゃなかったから、暴力を振るうことに抵抗もないのだろうか。

どちらにせよ、俺は悪の道を順調に進んでいるのかもしれない。


5分ほど走って、サクラは車を線路沿いの適当な場所で停車させた。

俺たちは暴れる3人を引きずり下ろし、線路内に侵入して、レールの真ん中に仰向けにさせた。

オサムが逃げようとしたが、サクラが指を鳴らすと急に体が固まり、まるで金縛りにあったかのように動かなくなった。

「さて、あんたたちは今誰にも見られていない。だから助けも呼べない」

サクラは芝居がかったような口調で言った。

「次の電車が来るまで、あと5分くらいあるから、じっくりあんたたちと話ができる」

そう、これがサクラの考えた断罪だった。

奴らに死の恐怖を味合わせ、自分たちがしでかしたことへの後悔を植え付ける。

「あんたたちがやってきたことは全部証拠として押さえてある。アケミさんに振るってきた暴力と暴言。あんたたちは処分したと思っているけど、データは全部こちらに残っているから、今更何をしようが手遅れ。それにしても」

サクラはオサムの顔を足で強く踏みつけて言った。

「あんたたち、本当に最低。人間のクズ。社会のゴミってのはあんたたちのことを言うんだ。今までアケミさんを人でなし呼ばわりしてたけどさ、誰がどう見てもあんたらの方が人でなしだから」

オサムたちは何かもごもごと唸っていたが、ガムテープを外す気はない。どうせ、ろくでもない狂った戯言が返ってくるだけだろうから。

「大体さ。仕事を言い訳に家事も料理も全部アケミさんにやらせといて何様なわけ?どうせ自分じゃ家事の一つも満足にこなせないくせにさ。一度だって料理した事あんのかよ。この時代に亭主関白気取って何考えてんの?その癖、妊婦さんに家事を完璧にしろってさ。王様気取りかよ。そこのクソババアもさ。人の粗を探して楽しかったわけ?細かい埃とか味付けとかにケチ付けてたけどさ。自分はどうなのよ?自分らの若い頃でもあんな理不尽は通らないでしょうが、どう考えても」

サクラはシノブとケンジを睨みつけて言った。

「大体、自分の嫁いびりのために孫も殺せるなんて、どんな神経してるわけ?脳が麻痺してんじゃないのマジで。アケミさんが流産したのはあんたたちの所為。わかる?あんたたちが妊婦に奴隷同然の仕打ちをしてきたから、尊い命が失われたんだ。殺人鬼はあんたたちの方。それとさ。つわりが甘えとか、妊婦は動いていた方がいいとかさ。時代錯誤も甚だしいよ。大体、あんたも陣痛の痛みも知らないくせに、偉そうな口叩いてんじゃねえよ」

しゃがみこんでケンジの頬をぺちぺちと叩き始めるサクラ。

そろそろ電車も来る頃である。

「サクラ」

「わかってる」

サクラは深呼吸して言った。

「結局はさ、あんたらはアケミさんをサンドバッグにしたかっただけ。適当に理由つけて痛めつけたかっただけなんだよ。それでも彼女は良くやっていた。ダメなのはあんたらの方。あんたらみたいなクズの戯言にも、アケミさんは必死に耐えてきた。そんな彼女の心と身体をもてあそんだ責任は取ってもらう」

そこに汽笛が鳴り響き、カーブの奥から電車のライトが迫ってきている。

俺たちがレールから下がると、電車の接近に気づいたオサムたちはじたばたと暴れだした。

「あんたたちのようなクズは、死んだ方が世の中のためになるだろうね」

冷たい視線でサクラは彼らを睨みつけた。

電車は彼らに気づいていないかのようにどんどん接近していく。

無理もない。今の彼らは俺と同じく見えていないのだから。

彼らのひきつった顔が、電車のライトに照らされて、一層恐怖を仰いでいく。

そして俺たちの目の前を、容赦ないスピードで電車が通っていった。

「・・・・」

オサムたちは何が起きたのかわからないような顔をしているだろう。

何せ、いつの間にか、自分の体が隣のレールの上にあるのだから。

電車が通過した後、俺たちは一つ奥のレールに横たわるオサムたちに近づいた。

3人は涙目になって、俺たちの方を見上げている。

サクラはしゃがみこんでこう言った。

「今回はこれで勘弁してあげる。だけど、あたしたちはあんたらを許したわけじゃない。そのうち気が向いたらまた半殺しにしてやるけど、とりあえずは生かしておいてあげる。言っとくけど、警察にチクったって無駄だから。ひとまずは、アケミさんとの離婚を認めて、それ相応の慰謝料を払うこと。支払いをバックレたらただじゃおかないし、今後アケミさんにまた近づいてこようものなら、わかってるよね?」

オサムたちは首を縦にブンブンと振っている。その様子が必死過ぎて、俺は思わず笑ってしまった。

「あたしはいつでもあんたたちのことを見ている。いつだって、あたしはあんたたちを消すことができるんだから、よく覚えておきなさい」

そんな台詞を決めたサクラは踵を返して車道へと戻っていった。その仕草が、無駄にかっこよかった。

とりあえず、俺は3人を縛ったまま線路内から運び出し、そのまま車に押し込んでおいた。車の鍵はサクラが預かり、俺たちはその場を後にした。


彼らを殺さなかったのは、単に死なせるべきではないからではない。

慰謝料等の支払いの問題もあるが、彼らが再びアケミさんに近づいたらどうなるかという恐怖と、いつでもお前たちをどうにでもできる存在がいるという意思表示をするためだった。

死んでしまえばそれっきりだが、日々そういう恐怖を与え続けることで、アケミさんが体験したこれまでの苦しみに近いものを味合わせることができる。

それがサクラの復讐だった。

以前に俺たちが歩いた公園の川沿いで、サクラは思い切りオサムの車の鍵を川の方に投げた。

その様子を見て、サクラもあそこまで感情的になることがあるんだなとぼんやり思った。

自分のためではなく、誰かのために憤って、悲しんで。

彼女をそこまで突き動かす何かが、アケミさんとの間にあったのだと、改めて見せられた。

鍵を投げた後、しばらく立ち尽くしているサクラの横に立った。

サクラは泣いていた。

「・・・ごめん」

袖で涙を拭うと、サクラはフードのポケットから、一枚の封筒を取り出して俺に差し出した。

「これ、今回のお礼」

封筒の厚さから察するに、かなりの額が入っている。

「・・・受け取れないよ。こんなに」

「いいから。君に無茶なことをさせたんだし」

「でも・・・」

「こういう時は素直に受け取るものだよ。ほら」

サクラは無理やり俺の手を掴んで封筒を握らせた。

「わかった」

俺は中身を見ずに、それを懐にしまった。

サクラは深呼吸した後、川沿いの柵にもたれ掛った。

俺は何も言わずにサクラの隣にいた。

なんと声を掛けるべきか悩んでいる、というもあるし、オサムたちへの復讐に加担した気分の昂りを夜風で沈めたくもあった。

「幻滅した?」

しばらくたって、サクラは口を開いた。

「何が?」

聞き返すと、サクラは遠くを見つめながら言った。

「あたしのこと。こんなことに君を巻き込んでさ」

「悪いのはお前じゃないよ」

サクラを慰めるつもりで、俺は自分の考えを口にした。

「悪いのはあきらかにあの3人だし、そもそもあいつらが始めたことだろ?少なくとも俺は、あいつらに対していい気味だと思った。ああなって当然だ」

以前にサクラが言っていた台詞を、俺はそのまま返した。

「本当にそう思う?」

「ああ、実際にあいつらの傍若無人ぶりは、さっきも見たし。アケミさんがされてきたことも納得できるよ」

そして俺もサクラと同じように柵に寄りかかった。

「あの時、3人に襲い掛かった時さ。正直、心がスカッとしたんだ。あいつらに対する怒りで、無我夢中になって殴っていた。それで、もっと殴りたい、もっと痛めつけたいって思った。線路にあいつらを並べたときだって、良心の呵責とか、一切なかった」

これが俺の本音だった。あの時、確かに俺は奴らと同じレベルの人間になっていた。

「これが、本当の俺なのかもしれないなって、思った」

サクラはこちらを一瞥した後、俯いて言った。

「もし、あたしが言ったことが本当のことじゃなかったら、どうするの?」

その言葉に、俺は心の中で驚き、一瞬固まった。

「・・・嘘、付いてたのか?」

すると、彼女はふるふると首を横に振った。

「あくまで、そうだったらって話。今回は本当のことしか言ってない」

それを聞いて安心したものの、サクラの問いかけは重かった。

「・・・あの時の俺は」

しばらく考えた上で、サクラにこう言った。

「お前の言葉が正しいと信じていた。不思議だけれど、これまでの俺は、簡単に人の言うことは信じないタイプだった」

今まで多くの人間の嘘や非常識に振り回されてきた俺は、「他人は平気で自分を騙しにくるものだ」と考えて生きてきた。だからこそ、他者との関りを自ら拒否してきたというのもある。

「でも今の俺には、お前ぐらいしか話し相手もいないからさ。信じるしかないだろ。それに、お前のことは良い奴だと思ってる」

ここまでの一か月間で、借りがあるとはいえ、サクラのことは信用に値する人間だと思っている。俺をこの世界から消した張本人ではあるが、特に俺に害を与える意図は今のところないし、時折不便は感じるが、今のこの状況も悪くないと思っている。

それに、彼女が流したあの涙は、本物だと思った。

「君は優しいね。本当に」

サクラのその言葉には、戒めも含まれているような気がした。

「かもな」

でもその戒めも、今は誉め言葉として受け取っておこうと思った。


それから数日間、俺たちはアケミさんの近くを見張ることにした。

オサムたちがあれに懲りずに何かをしでかす可能性もぬぐえなかったし、アケミさんの様子も気になったからだ。

アケミさんは家での療養がほとんどだったから、時折サクラが外に連れ出した。少しでも早く、これまでの日常に戻すためのリハビリである。

基本的に、家の周囲をゆっくりと散策するのがいつものコースだった。

アケミさんは当初は背後を警戒し、わずかな音でも体を強張らせていたが、しばらくしてその頻度も減っていった。

一方、あれからサクラが弁護士を用意してくれて、正式にアケミさんの離婚が成立した。

アケミさんが辛いのを我慢して集めた証拠も無駄にならず、かなりの額の慰謝料を請求することができた、

とはいえ、金によってこれまでのアケミさんに対する苦痛がどうなるわけではない。アケミさんは心と体に深刻なダメージを負ったのだ。短い時間かもしれないが、彼女の人生の中では、間違いなく取り返しのつかない傷痕である。金で解決できる問題ではない。

だからサクラはさらに、オサムたちの家族を苦しめる方法を考えた。

これまでのオサムたちのやってきた所業を、奴らの勤め先の会社や親戚、交友関係などに全て匿名で暴露した。

ネットの力は強大だ。身近な存在だけに流していた情報が、いつしか世間一般にも広まっていき、彼らの名前や住所、学歴、会社まで特定されていった。

そこからの流れについては、サクラはほとんど関わっていない。しかし、それも彼女は見越していたようだ。

社会的に、彼らは半殺し以上の制裁を受けたことになる。

当然の報いだと思う。

そもそもアケミさんを人並みに愛してあげていれば、こんなことにはならなかったし、誰も傷つかずに済んだはずだ。

なんで、人は簡単に人を愛せないのだろう。

そんなことをぼんやりと思った。

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