春の暗夜に消える
近所の神社は、相変わらず小さくて古めかしかった。
なめらかな石段も、赤色の禿げた鳥居も、境内に咲いた河津桜も、その全てがあの頃のまま、そこに佇んでいる。
唯一違うこととすれば、訪れる時間帯ぐらいだろう。
最近、アルバイトを終えた後に、またここに足を運ぶようになった。
バイト先からの帰り道は決まってここを通るので、仕事終わりに寄り道してから帰るようになった。
またこの神社に通うのが日課になるとは思いもしなかったが、やはり気分転換にはここが一番落ち着くのだと改めてわかった。
静寂さの中に不気味な闇がずんと居座っていて、近寄りがたい雰囲気が嫌でも境内の奥から吹き出している。
最近、この神社では賽銭泥棒が増えているそうだ。
よくもそんな罰当たりなことができるなと呆れる一方、この深い闇の中では確かに犯行がやりやすいのだろうと合点する。
いや、やっぱりこんな不気味な場所で泥棒なんてやることはないだろうに。よほどそいつは面の皮が厚いのか、もしくはどうしようもないくらい生活に困っているのか。
そう思いながら、俺はかつての特等席だった河津桜の下のベンチに腰かけ、コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチの入ったビニール袋を横に置いた。
去年は暖冬だったとはいえ、やはり夜はまだ冷え込む。
途中の自販機で買った缶コーヒーでしばらく手を温めた後、蓋を開けてゆっくりと中身を飲み込む。
このほろ苦さが、俺の中に残っている悔しさを再び煮えつけていく。
中学卒業後、両親は俺を働かせようとした。
妹を市内の名門私立の高校に通わせたいので、学費の関係上、俺に出す金はもうないと言われた。それどころか、俺に働いて妹の学費と生活費を入れろとまで言ってきた。
「優秀な妹と違って、それぐらいしかお前の存在価値なんてない」とはっきりと言われた。
俺の妹、ヒメコは今でも才色兼備のままだった。
今通っている中学でも学年5番以内の成績しか取ったことがない。運動だって、他の追随を許さなかった。
入部した新体操部でスタメンになったその年、ヒメコの団体は初の県優勝を果たしたらしく、顧問からも歴代エースの仲間入りだとも目されたそうだ。
それだけの実力があるなら、推薦でその名門私立とやらに行けばいいのに、ヒメコが「推薦なんてしたらかっこ悪い」だとかなんとかほざきだしたので、俺は否応なしに中卒で働く羽目になった。
最初は俺も、なんでヒメコのために学歴を捨てないといけないのかと反論した。すると両親は「薄情者」と俺をなじってこう言った。
「兄なんだから妹の夢を応援する気持ちはないのか?」
「ここまで親やヒメコに世話になったのに、恩返しする気持ちもないの?」
俺はとことん呆れてしまった。今までさんざん除け者にされてきたのに、何の世話になったというのだろう。どう恩返ししろというのだろう。
彼らに俺の話が通じないことはわかっていたが、ここまでとは思わなかった。
それと同時に、彼らが俺を捨てずにここまで育てた本当の理由がわかってしまった。
所詮、俺は彼らにとっての奴隷でしかなかったのだ。
その日は大喧嘩に発展したが、母が「長男が暴れて手が付けられない」と電話で警察を呼ぼうとしたため、結局は俺が折れることになった。
むかついたのは学校に行けないことではない。
俺自身、高校に行ってもどうせ今までと変わらないと考えていたから、働こうが何をしようが別にどちらでもよかった。
実の親がやはり救いようのないほど愚か者であった事実を、いつまでも認められなかった自分自身に腹が立ったのである。
愚か者の血だけはどうやら引き継いでしまったのだろう。本当に、自分は大馬鹿者だと自己嫌悪したものだ。
そして、今ではコンビニのアルバイトをして2年目になる。
俺の絶望は、あの頃からあまり変わっていない。
毎日、レジ打ちやら品出しやらに従事して、くたくたになって家に帰ってくる。
残業はほぼ毎日。他のパートやアルバイトの人が急遽休んだ穴を埋めることもしばしばだ。
おまけに、俺が若いからか、アルバイトの大学生連中は俺を見下して、自分たちの仕事を俺に押し付けてくるし、俺の分の弁当を隠したり、俺の私物を盗むなど陰湿な嫌がらせをしてくる。
上司にも相談したが、彼らは俺の言葉よりも大学生の連中の肩を持っている。
中卒の若造より、学のある大人の発言を信じた方が楽だからだ。
そういった嫌がらせを受けながら毎日仕事をこなしているので、体も心にも余裕がない。
仕事と食事と睡眠。そんな最低限の生活しか、今の俺は送れていなかった。
へとへとになって働いた金も大半が実家に持っていかれているわけだし、時折、俺は何のために生きているのだろうと思ってしまう。
自分を否定し続けてきた親や、そんな両親に甘えるのがうまい妹に金を落とすために俺は存在してしまっている。
今の俺にできることなんて、愚痴るぐらいのことしかできない。
コンビニと家。そしてその中間にこの神社。この3つの地点から、俺は動くことができないでいる。
明日も、来週も、たぶん1年後も、これが変わることはないだろう。
ささやかな夕食を食べ終え、明日がまた始まるということの憂鬱を抱えながら、俺はいつも神社から引き揚げていく。
夜道を歩くときは、実家という魔窟から脱却する方法を少しでも考えて歩くことが多くなった。
だが、それはいつも堂々巡りで終わってしまう。
「お前なんて高校に行かせたところで成功なんてできない。時間と金の無駄だ」
以前に父親に言われたその言葉が、否応なしに影を落とす。
人生を成功するためのチャンスすら与えられなかった、という点では奴隷に近いものはあるだろう。
両親も、本気で俺を奴隷と思っているだろうし、このまま奴隷として過ごし、一生を終えるのかもしれない。
どうにかしたくても、今となっては手遅れに思うし、何をやってもダメな気がする。
というか、疲れ果てて考える気力すらない。
思考力なんて、今の仕事には必要ないものだった。
「カズっち、レジのヘルプ入って」
ある日の夜勤。大学生アルバイトのヨシオがバックヤードのドアから顔を出した。俺はカップ麺を啜るのを止める。
「でも俺、休憩中ですよ」
「いいから来いよ。そういう言い訳なんて社会じゃ通用しねえぞ。ったくこれだから中卒は」
ヨシオは舌打ちして俺を睨みつける。
お前だってまだ学生だろうが。と言ってやりたい気持ちをぐっとこらえ、静かに反論した。
「でも、マネージャーから休憩時間中はしっかり休めと言われてますよね」
労基的に休憩の打刻を押している間は労働に値する行為はするなと、店に視察にきたマネージャーが全従業員に言ったばかりである。その場には、ヨシオもいたはずだが。
「何?年上に口答えすんの?あっそ、じゃあ店長には俺からよく伝えておくから」
「いや、わかりました。行きます」
そうまで言われてしまっては行かざるを得なかった。
何故かヨシオは店長に気に入られている。彼は都内の有名大学の法学部の学生だし、見た目も爽やかなイケメンで良い人を演じるのがうまい。
以前も、自分のミスを俺の所為にして店長に報告し、「まあ、彼もがんばってますから」と俺をフォローするそぶりを見せた。
そうやってミスを擦り付けた人間をフォローすることで自分の株を上げる手口をよく使う。だから俺が奴の腹黒さについて語ったところで、「面倒見の良い人間の悪口を言う酷い輩」とみられるのがおちなのだ。
本当にずる賢い男である。
「最初から素直にそう言ってりゃいいんだよ」
バックヤードから出るところで、どんと背中を叩かれた。
「んじゃ、あとよろしくな」
今度はヨシオがバックヤードに入っていく。
そしてそのまま、彼は俺の座っていた席に腰かけてスマホをいじり始めた。
「なんだよ」と彼はこちらを睨む。
「お前が代わりに行くんだよ。ほら、お客さん待たせるんじゃねえよ」
しっしっ、と手で払う仕草で俺を追いやろうとした。
俺は彼に見えないように溜息を吐く。結局、俺の親と同じで、こいつにも何を言っても無駄なのだ。
レジに出ると、いかつい顔の大男が仁王立ちしてレジの前に立っている。その表情は明らかに不機嫌だ。
「お前が店長か?」
俺をぎっと睨みつけ、低い声を発している。
俺はすぐ悟った。またヨシオがミスをしてお客さんを怒らせたのだろう。そして俺に尻拭いをさせようとしているのだ。
こういう瞬間は以前にもあった。俺はひとまず恐怖を押し殺し、右手を左手で抑えるポーズで姿勢を正した。
「申し訳ございません。責任者は現在不在でして、代わりに私が対応いたします」
「本当はいるんだろ?とっとと出せ」
「申し訳ございません。申し上げた通り、責任者は不在でして」
「お前、客を舐めてんのか」
「いえ、ですがお客様がご機嫌を損ねた理由をお尋ねしなければなりませんので」
とにかく申し訳なさそうな顔を浮かべ続けていた。男も一旦冷静になろうとしたのか、舌打ちして商品の入った袋をカウンターに叩きつける。
「さっきの奴が金額間違えたんだよ。ほら」
そう言ってレシートを俺の前に見せつけた。
「拝見します」と言って俺がレシートを受け取ろうとすると、男はレシートをくしゃくしゃに丸めてポケットに突っ込んだ。
「800円だったんだよ、こいつが。いつも500円だろうが」
「左様でしたか、一応確認をいたしますのでレシートを拝見してもよろしいですか?」
「だからさあ」
男はカウンターをばんと叩いた。
「こいつの本来の値段は500円だろ?だから多めに払った300円返せって話だよ。こんな簡単な計算もできねえのか?」
「その確認のためにもレシートを拝見させてください」
「こいつがあんだからいいだろうがよ!」
購入した弁当を指さし、男は大声で怒鳴った。
「お前、自分とこの商品もわかんねえのか?」
それはわかっている。この唐揚げ弁当だが、正確には税抜きで550円であることも知っている。
だがそれは問題ではない。実際に計算を間違えたのであれば返金対応をしなければならないし、そのためにもレシートの情報を確認しておかなければならない。
客観的な証拠なしに、勝手に返金するわけにはいかないからである。
「申し訳ありませんがお客様。お会計ミスであれば、返金対応をしなければなりませんので、その確認も含めてレシートをお見せいただきたいのですが」
「ったく、わかんねえ奴だな」
男はさらにカウンターをバンバンと叩いた。
「じゃあもう金はいいからさ。あと残りの金額の商品よこせよ。それでチャラになんだろ?」
何を馬鹿なことを。と思いつつも、俺は申し訳なさそうな表情を変えない。
「申し訳ありませんが、そういった対応はできかねます」
「ああ?お前らのミスだろうが」
図に乗り出した男はさらに喚きだす。すでに何人かの客は気まずそうに出て行ってしまったし、奥で雑誌を立ち読みしている黒髪のショートヘアの女性は、大きなヘッドホンを付けていて、完全にこちらのやり取りに気づいていないようだった。
他の店員も、我関せずという様子で、こちらを見向きもせずに商品の品出しをしている。
助けをだそうとする人間はいない。
「それとも何か?客である俺が悪いってのか?ええ?」
「そうは申しておりません」
「言ってんだろ!」
男はまたカウンターを思い切り叩いた。
「こんなの時間の無駄だろうがよ!とっとと商品よこせよ!」
時間の無駄という点は同意したいが、そんなに拳を叩いて痛くはないのだろうか。
なんとなく、相手の魂胆はわかる。大方、こちらのミスを逆手に取り、「誠意ある対応」として無料で別の品をかすめ取ろうとしているのだろう。それどころか、丸ごと無料にしろとでも言い出しかねない勢いだ。
こちらとしては謝ることしかできない分、質が悪いクレームである。
どうしたものか、と考えていた時だった。
「てかさ、そもそも間違ってなかったよね?」
いつの間にかヘッドホンをしながら雑誌を読んでいた女性が男の背後に立っていた。
「あたし見てたよ。このおっさんが1000円出してお釣りもらってるところ」
童顔の女性だが、濃い目のアイシャドウと両耳のピアス、黒いパーカーと如何にもなビジュアル系スタイルなので、大人びた雰囲気を感じさせていた。
思わぬ不意打ちに男は一瞬怯むが、すぐに女性に対してすごんで言った。
「ああ?てめえは引っ込んでろ」
だが女性は動じずに右手に持っていた漫画雑誌で天井を指し示した。
「大抵さ、防犯対策でレジが見えるように監視カメラってついてんだよね。レジの打ちミスとか防ぐためにもさ。それ確認すればはっきりするでしょ」
「んなもん確認しなくていいんだよ」
女性の言う通り、その目的も含めて監視カメラはついている。だが確認するためにはバックヤードに行かなくてはならない。バックヤードで勝手に休憩しているヨシオにも頼れそうになかった。
「てかさ。おっさんのやってること、強要罪だかんね。立派な犯罪だから」
「は?」
「もう警察に電話しといたから、あと数分もすればくるんじゃない」
「ちっ、もういいよ」
警察という単語が出たためか、男は商品を掴んでバツが悪そうにあっけなく店を出て行った。
男が完全にいなくなるのを見ると、急に手が小刻みに震えだした。
怖い思いをすれば皆そうなる。俺だって、できればこんな厄介ごとはやりたくない。
それにしても、本当に割を食う仕事だと思う。勘弁してほしい。
「ほい」
男を撃退したその女性は、漫画の雑誌をカウンターに置いた。
「あ、はい、お預かりします」
俺はまたいつもの業務に戻り、雑誌のバーコードを読み取った。
「安心して。警察なんて呼んでないから」
「え?」
女性はにこっと俺に微笑みかけた。
「あのおっさん、たぶん常習犯だね。もう来ないと思うけど」
「はあ・・・あ、すみません、いろいろと」
俺がお礼を言うと、「いいって」と女性はひらひらと手を振る。
「単にあたしがああいうタイプ、気に入らなかったからやっただけ。お兄さんは悪くないよ」
淡々とした口調でそう言う彼女は、なんだか少しかっこよく見えて、俺にもこういう度胸があればと思ってしまう。
「いらっしゃいませー」
すると嵐が過ぎ去ったと判断したのか、ヨシオがへらへらした態度でバックヤードから出てきた。
「あ、俺変わるんで、倉庫お願いします」
「え?」
ヨシオは俺の入っているレジに割り込み、その女性の対応をしようとした。
これもいつものことである。
彼は若い女性客が来ると良いところを見せようとするのだ。
「お姉さん、なんか彼に変なことにされませんでしたか?あの人、平気で女性に手を出す奴ですからねえ」
そして大抵、ありもしない嘘を並べて俺や他の男性店員を貶めていく。そうすることで自分を上げようとするのだ。
彼が容姿端麗というのもあるのか、それを真に受ける客もいて、その所為で俺が白い目で見られることもあった。
「いや、ほんと注意してくださいね。あ、650円です」
無理やりヨシオに追いやられ、俺は溜息交じりに品出しに回ることにした。
「あんた、逃げたでしょ」
「は?」
すると女性は今度はヨシオをキッと睨みつけて言った。
「こんな若い男の子に厄介ごとを全部丸投げして逃げてたくせに。今更ひょっこり出てきて何その態度?年上として恥ずかしくないわけ?」
女性の言葉と威圧感にヨシオは驚いて顔をひきつらせた。
「あ、いや・・・」
「そういう奴、どんなに顔が良くったって、女から見たらかなり最低だから」
こういう展開になるとは思わず、俺も目を丸くしてその女性を見た。
「あんたなんかより、そのお兄さんの方がよっぽど良い仕事してるから。恥を知りなさい」
思わぬお叱りに、ヨシオは何も言えず、固まったままである。
「お釣りいらない」と女性はパーカーのポケットから千円札を取り出してカウンターに叩きつけ、雑誌を掴んで堂々と店から出て行った。
凍り付いているヨシオの顔を覗き見た後、俺は少し胸のすく思いがした。
ヨシオに対する俺の不満を、代わりに一気に吐き出してくれた彼女にお礼を言いたかったが、それ以降、彼女が店に来ることはなかった。
もちろん、こんな出来事はごく稀で、大抵は神経をすり減らして仕事をしている。
昼時は近所のオフィスで働くサラリーマンやとび職の人が弁当を買いに来るし、夜は夜でそれなりに客足もあり、そこそこ忙しい。
残業やらもあって、家に帰る頃には夜の11時を回っている。両親は寝ている時間なので、顔を合わすこともないのが唯一の救いだった。
ここしばらくは家族と会話をしていない。
それが家族の形としてどうかとは思うが、俺としてはその方が気が楽である。
とはいえ、働いている限りはいろんな出来事が起こる。
この間は俺の目つきが気に入らないといちゃもんを付けてきた客もいたし、商品を入れていたビニール袋が小さいと文句を言う老人もいた。
それはまだいい。以前なんて土下座を強要されて、面白半分にその時の写真をSNSにアップされそうになったこともある。あの時に比べたら、ここ最近のクレームなんてかわいいものだ。
今の自分は以前よりも少しタフになった、と思っている。
そんなよくわからない自信もつき始めていた頃に、決定的な事件が起こった。
あの勇敢な女性が現れてから数日後、その日は俺の誕生日だった。
誰も祝ってくれる人なんていないので、過ごし方はいつもの日常とそう変わらないが、何か特別なことが一つぐらいあってもいいのでは、と思わず願ってしまう。
特別な出来事は、思わぬ形でやってきた。
退勤前に店長に唐突に呼び出され、狭い事務室の中で、「ここに呼ばれた理由はわかるな?」と開口一番にそう言われた。
わけがわからない俺に、店長は怒り心頭で捲し立てた。
ここ数日で、店の売り上げの一部が無くなっている。店員の証言からしてお前に疑いがある。
とまあ、そんな感じのことを高圧的に言われた。
間違っても俺はそんなことはしていない。
やったところですぐにばれることだし、そもそも、盗みをするような度胸もない。
それにどうやら、証言をしたのがヨシオとその友人の大学生アルバイト連中だった。
「帰り際にレジに手を突っ込んでいるのを見た」とか「ブランドの財布を自慢したことがあったから、たぶん店の金で買ったものだろう」とか、よくもまあここまでデタラメを思いつけたなと感心してしまうような彼らの嘘が、店長の口から発せられた。
だがこのまま疑われれば、もちろんただでは済まなくなる。
なので俺は一つずつ証言を崩そうとした。
ブランドの財布は持っていないとか、監視カメラをよく見ればそんなことをしていないとわかるとか。
だが店長は俺の言い分は全く受け付けないつもりなのか、「やったと素直に言えば警察沙汰にしない」としか言わない。
さらに店長は俺の家族の話までしてきた。どうやら、妹の学費を払うために店の金に手を付けたとも思っているらしく、「このまま罪を認めなければ警察に被害届を出す。もちろん店はクビだし、今後の就職に影響が出るぞ」と俺を脅した。
店長の話を聞いているうちに、俺は全てがどうでもよくなっていった。
「ならいいです」
回答を求めた店長に対し、俺は言い切った。
「やってもいないことで罰を受けるのは理不尽なので」
全てがどうでもよくなり、そして疲れてしまった。
業を煮やした店長は俺をやっと解放した。時間は深夜を過ぎていた。
そのままタイムカードを切り、帰宅の途に就いた。
別のコンビニで夜食を買い、夜道を歩きながらこれまでのことが疑問として出てきた。
なんで俺はあんな店で働いているのだろう。なんで俺が妹の学費を工面しているのだろう。
なんで俺は命と時間を削っているのだろう。なんで俺は苦しんでいるのだろう。
なんで、俺は生きているんだろう。
神社に立ち寄って、一人でサンドイッチをもそもそと食べながら、だんだんと視界がぼやけていくのが止められなかった。
よりにもよって、なんで誕生日にこんな惨めな思いをしなければならないのか。
目から落ちた雫が、手の甲に一筋の道を作っていく。
そういえば、小さい頃は、よくここで泣いていたよな。
目元を袖で擦った後、サンドイッチの最後の一切れを頬張った。
おにぎりは明日の朝食用に取っておいた。
コーヒーの最後の一口を飲み干し、深呼吸する。
ふと夜空を見上げると、僅かながら星が輝いていた。
「星空を見上げれば、人間の一生で起こる悩みや社会の問題なんて、本当にちっぽけに見える」
なんてことを誰かが言っていたような気がするが、そんなスケールの大きな話をされても、結局は今の人生が手一杯なことには変わりない。
でも、なんだか夜空を見ていると、どこか遠くへ行きたいという感覚になる。
旅行なんて、学校の行事くらいでしか行ったことがなかった。
いっそ、まだ行ったこともない、とてつもなく遠い場所へと行ってしまおうか。そうすればようやく、両親のことも仕事のことも忘れられるかもしれない。
職場にも家族にも自分の居場所を伝えず、雲隠れしてしまおう。どうせ、俺はクビになるんだし。
・・・いや、そんなことをしてなんになるのか。
何より、今の俺には金がない。自分がホームレスになる未来が容易に想像できた。
いっそのこと、本当に店の金を盗んでいた方がよかったのかな。なんて冗談を思ってみる。
ともかくも、逃げるという選択肢は現実的ではなかった。
俺にこの小さな環境から抜け出す力はない。
それならば・・・。
「俺が世界から消えてなくなればいいのかな」
口に出したそれは、ある意味で正解なのかもしれない。
別に、俺がいなくなったところで、誰も困らないだろう。俺の代わりなんていくらでもいると、店長も随分前に言っていた。
両親や妹だってその方が幸せだというのは明らかだ。
この世界にとって、俺は取るに足らない存在。俺がいてもいなくても世界は回り続けるのならば、いない方が誰にも迷惑にならないだろう。
「消えちまいたいな。この世界から」
そうすれば、俺も辛い思いをしなくて済む。まあ、そんな願いを抱いたところでどうにもならないが。
「へえ、面白い願い事だね」
暗闇に響いた俺以外の声に、はっと背後を振り返る。
塀の影から、ぬっと女性が現れた。
黒いパーカーと黒髪のショートヘア。あの日、コンビニで俺を庇ってくれた女性が、両手をパーカーのポケットに突っ込んで立っていた。
「君・・・」
ずっと俺の背後にいたのだろうか。何はともあれ、思わず心臓がきゅっと締まるくらい驚いた。
「覚えてるよね?あたしのこと」
「・・・ああ。いつからそこに?」
「さあて、いつからでしょうか」
女性はフッと笑ってはぐらかし、俺の座っているベンチにゆっくりと近づいた。砂利を踏む音が静かに響いた。
「てかさ、さっきの独り言だけど」
「ああ。あれは・・・」
俺は急に恥ずかしくなる。てっきりここには俺以外誰もいないと思っていた。よりにもよって独り言を聞かれるなんて。
「そんなことお願いする人、初めて見たよ」
すると女性は俺の隣にさっと音もなく座った。別の意味でどきりとする。さらに女性は俺の方を横目で見ながらこう聞いてきた。
「なんか、嫌なことでもあったの?」
「え、いや、別に」
「嘘ばっかり」
女性は冷めた目で俺をじとっと見つめてくる。
「だって君、いつも辛そうな顔で仕事してるし」
「いつも?」
「うん、いっつも」
彼女の言動からすると、まるで常連のような口ぶりだが、俺はあの時以外、この人を見たことがない。
「で、なんか嫌なことがあって、この世界から消えたいわけだ」
得意そうな顔で、その人は腕を組む。
まるで俺のことをわかりきったかのような態度で。
女性の知ったような態度に、俺は少しイラっとなった。
「別になんともないですから」
だが、疲れもあって怒る気力が急に失せ、角の立たない言葉を選んで顔を横に逸らすのが精いっぱいだった。
「ふーん、そう」
女性は足をうんと伸ばした後、大げさに立ち上がる。
「でもさ。消えたくらい嫌なんでしょ?今の自分と、この世界が」
なんだか急に真面目な空気に変わった気がした。彼女の方を見ると、思った通り真剣な表情をしていた。
「・・・はい」
小さな声で返事をした。
「そっか」
するとその人は夜空を見上げて溜息を吐く。
「あたしもそうだよ。この世界が、大嫌い」
そして俺の前に立って、じっと俺を見下ろした。
「ねえ」
そして彼女は言った。
「その願い、あたしが叶えてあげるよ」
唐突に、突拍子もないことを。
「は?」
「だから、そのままの意味だよ」
女性はパーカーのポケットに両手を突っ込み、まるで普通のことのように言ってのけた。
「君をこの世界から、消してあげる」
急に背筋が寒くなった。
言うや否や、彼女はポケットから素早く右手を出し、パチンと指を鳴らした。
その音が、異様なまでに境内に鋭く響いた。
その瞬間、急に俺の視界がぐるぐると回り始める。
まるで遠心分離器の中でかき回されているように、平衡感覚が無茶苦茶に狂い始めた。
叫ぼうにも声が出ず、やがて目の前の世界は元通りになった。
気持ち悪さで、思わずベンチから落ちて膝を付いたが、しばらくすると平衡感覚は普通に戻っていた。
立ち上がって辺りを見回すと、あの黒いパーカーの女性がいつの間にかいなくなっていた。
もう一度をきょろきょろと周囲を見回してみても、彼女はいない。
ほんの一瞬だけ目を離した間に、彼女は俺の前から姿を消した、ということになる。
しばらく、俺は彼女を探してみた。
といっても、暗い中を闇雲に探すわけにもいかないので、境内で目が利く範囲だけだ。
彼女はどこにもいなかった。隠れているわけではない、と思う。
気味が悪いが、それはそれでもういいとして、彼女がさっき言った言葉である。
『君をこの世界から、消してあげる』
「・・・まさか、な」
そんなこと、できるわけがない。それこそ、俺が死なない限りは。
変な感覚には陥ったが、現に俺は生きている。
全くもって謎である。
「帰るか」
まだ夜は冷え込む。コーヒーの熱も完全に冷めてしまった。
コンビニの袋を掴んで、境内を出るべく鳥居へと向かった。
その時だ。
ガシャンと何かがぶつかる音が響いてきた。
確か公園側にはフェンスがある。その音だと思う。
思わず振り返ると、夜に慣れた目でそれがわずかに認知できた。
暗闇の中で黒い人影がフェンスを乗り越えようとしていた。
その時、唐突に神社の賽銭泥棒の話を思い出す。
まさかとは思ったが、人影はそそくさと神社の方へと向かっている。
俺は携帯を取り出そうとした。
他人事だが、見過ごすわけにはいかない。
早く、警察に電話を。
「あれ?」
ところが、いつも携帯を入れている左ポケットに手を突っ込んだものの、何も入っていなかった。
まさか、職場に忘れたのか?
いや、帰る前に携帯をいじったのは覚えている。もしかして、さっき地面に膝を付いた拍子に落としたのか?
もう一度、あらゆるポケットを探るが、やはり見当たらない。
地面を探そうにも、さすがに暗い中で携帯を見つけるのは不可能だ。
今も人影は神社の賽銭箱に近づいて、何やらもぞもぞとそこで動いている。
いっそ、大声で誰か呼ぶか?そうすれば逃げ出すかも。
いや、そんなことをすれば逆上した相手に何かされるかもしれない。
今から社務所に行っても、誰かいるとも思えなかった。
どうしよう。どうすべきか。
対応を考えあぐねていた時だった。
「おい!そこ!」
男性の大声が響き、背後から懐中電灯の灯りがパッと俺を照らした。
灯りを持っているのはこの神社の神主の男性だった。小学生の時、何度か会ったことがある。
大声と灯りに驚いたのか。人影はよじ登ってきたフェンスの方に走り出す。
「こら!止まらないか!」
神主は俺を素通りし、人影を追いかけて走るが、距離的に届かず、人影を逃がしてしまった。
「くそっ!今度こそ捕まえてやろうと思ったのに!」
神主は悔しそうにフェンスを見つめていた。
「あのー」
悔しそうにしているところ悪いが、俺はその手にある懐中電灯で、携帯を探してもらおうと声を掛けた。
「ったく!」
神主は憤慨している所為か、俺に気づいていない。
「あのー、すみません」
俺は近づきながらさらに声を掛けた。携帯がないのはこっちにとっても死活問題である。
だが、神主は俺を無視するようにまた俺の横を通り過ぎて行く。
「あの、ちょっと・・・」
俺は後を追いかけて、神主の肩に手を置いた。
すると、神主はびくっと体を震わせてこちらに振り向くが、俺の方にその目線はなかった。
「ひっ!なんだ?」
神主の動きに合わせて、懐中電灯が左右に動く。
「誰かいるのか!」
神主のそんな大声が響き、俺は戸惑った。
「いや、だから・・・」
「なんなんだよ・・・くそっ」
そのまま神主は逃げるようにその場から去ってしまった。
その神主の様子に、俺は茫然となった。
・・・もしかして、俺が見えていない?
まるでそんな状況だった。
この至近距離で、しかも肩に手を乗せたのに、俺に全く気付いていない様子だった。
何度も俺に懐中電灯の明かりを当てていたのに、である。
それにいくら暗くても、俺が彼を呼び止めた声は聞こえていたはずである。気づかないはずがない。
まさか・・・。何かの冗談だよな?
きっとそうだ。何かの間違いだろう。
ここ最近、残業ばかりだったから、疲れているんだ。
勝手に自分を納得させたものの、俺は携帯のことも忘れてしまうほど、動揺しながら逃げるように家へと帰った。
その夜だけはいつもの家路が、いっそう暗くて不気味で、果てしなく遠くにあるように思えた。
そして普段は重くなる足取りも、今だけは速足だった。
今日一日、色々な出来事があったはずなのに、先程の不可解な事象だけが脳内を支配してしまう。
早く家に帰りたい。
そんなことを思ったのは、生まれて初めてだった。
とにかく、1日眠ることができれば、今日のことは一旦リセットできる。今日の不幸は、明日にでもまた考えればいい。
そしてやっとのこと辿り着いた自宅の玄関から、珍しく明かりが灯っていた。
普段、俺が帰る頃には、家の電気は全て消えているはずだ。
だが今は、まるで俺の帰りを待っていたかのように室内から光がぽうっと灯っている。
恐る恐る正面玄関の鍵を開けて中に入ると、玄関だけでなく廊下の明かりまで灯っていた。
そして人の動く気配もしている。
もしかして、両親が起きているのか?
今は深夜を過ぎている。こんな時間まで親が起きていることなんて、今までなかった。
やっぱり、何かがおかしい。
もしかして、コンビニでのあの一件が両親の耳に入ったのかもしれない。
あの店長が、両親に今日の一件について連絡したとしても何ら不思議はなかった。
嫌な胸騒ぎと両親と鉢合わせたくないという思いが混ざり合って、俺は音を立てないように、自室のある2階へと上がった。
薄暗い階段と二階の廊下を通り抜け、一番奥にある狭い自室のドアを開けた。そしてなるべく音をたてないように、静かに扉を閉める。真っ暗なまま、自分のベッドの方向へとそそくさと歩み寄った。
「いてっ!」
ドンと鈍い音を立てて、何かが足にぶつかった。その拍子に支えようと右手がさっと何かを掴んだ。
手触りからして段ボールのようだった。
確認しようと電気を付けると、いつも見慣れている自分の部屋が、そこにはなかった。
部屋中に段ボール箱が積み上げられていて、ベッドがある位置には埃を被ったピアノが置かれ、自分の使っていた妹のお古の机は梱包材で覆われていた。
「なんだよ、これ」
まるで物置のようなありさまだった。
さっと頭を過ったのは、両親がついに俺を家から追い出すために、俺の私物を捨てようとしているという考えだった。
そうであれば怒りが込み上げてくるところだが、よく見ると部屋は埃だらけで、指でさっと段ボール箱の表面をなぞると、ふわっと埃が吹きあがって咽そうになった。
長い年月の中で完全に埃がこびりついてしまったようなものもある。
まるで、何年も人が立ち入っていない部屋の様相だった。
どうも様子が変だった。先日、自分の部屋を掃除したばかりだし、そもそも今日1日だけで部屋がこんな有様になるはずない。
「ヒメコ?帰ったの?」
すると廊下から母の声が聞こえ、パタパタとスリッパで歩く音が響いた。
俺は荷物を置いて、玄関へと向かった。
階段の途中で、寝間着姿の母と鉢合わせた。だが母はこちらに気づかず、ずっと玄関を見ている。
「ヒメコ、帰ってきたのか?」
そこに同じく寝間着を着た父がやってくる。
「変ね。確かにドアが開いた音がしたんだけど」
どうやら、ヒメコはまだ家に帰っていないらしい。
そして2人は、俺ではなくヒメコの帰りを待っていたようだった。
なんだよ、そういうことか。
合点がいくのと同時に、また両親に対する冷めた気持ちが湧きあがった。
ここで声を掛ければ、2人は愛しのヒメコではなく、俺が帰ってきたことを知って呆れるだろう。
その顔を急に見たくなって、俺は声を掛けてみた。
「俺だよ」
だが、2人はこちらに全く目を向けようとしない。
「気の所為じゃないか?」
「でも、確かに音は聞こえたのよ」
演技にも見えないほど自然に無視をする両親に、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
「だから俺だって言ってんだろ!実の息子のこともわかんねえのかよ!」
俺は階段をどたどたと下って、両親の肩を思い切り引っ張った。
「きゃあ!」
「おわっ!」
あまりに強く引っ張ったので、2人は床に尻餅を付いた。
「いい加減にしろよ!お前ら・・・」
そう怒鳴っていた途中で、俺は壁に掛けられた写真に気が付いた。
「何?今の・・・」
驚いて周囲を見渡す両親を余所に、俺は写真をじっと見つめた。
家族4人で撮ったはずの記念写真。街の古い写真館で撮影したものだ。俺は3歳で、妹は生まれたばかり。その時に撮った写真だった。
左側に映っているはずの俺は、どこにもいなかった。
その部分だけ、ぽっかりとグレーの背景だけが映っている。
そしてむすっと口を結んでいたはずの両親は、妹を抱えながらにっこりと笑っていた。
俺の記憶にある写真と違う。だが、写真の隅っこに書かれた撮影年月日は、当時のものだった。
というか、この写真は今まで廊下に掛けられてなどいなかった。
俺も随分久しぶりに見る写真だ。
何が起こったのかパニックになっている両親を余所に、俺はリビングへと向かった。
リビングの様子はあまり変わっていない。
だが、壁に立てかけられているはずの、ヒメコがこれまで入選して取ったあらゆる賞の表彰状はどこになく、代わりに小さい頃のヒメコの映った写真が数枚、額に入れられて飾られていた。
そして木製のシェルフにも、中学生のヒメコを映した写真があった。
俺の記憶では、家の門の前で紺色のブレザーを着たポニーテール姿の清楚な印象のヒメコが映っていたはずだった。
そこにあったのは、灰色のパーカーの上に黒いブレザーを着崩している金髪ショートヘアの少女が、ポケットに手を突っ込んで不機嫌そうな様子で家の門に立っている写真だった。
右目下の泣き黒子と顔の輪郭からヒメコだと気づいたが、俺の知っているヒメコはそこにはいなかった。
よく見ようと写真に手を伸ばそうとしたとき、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「ヒメコ」
母が妹の名を呼んだ。俺もそっちへ向かうと、リビングの写真に写っている通りの金髪のヒメコが玄関口に立っていた。
「・・・・」
「おかえりなさい」
「・・・・」
「お腹減ってない?今日はカレーだったの」
「・・・・」
母の言葉に、ヒメコは全て無視を決め込んだ。母の様子は、まるでヒメコの顔色を窺っているようで、酷く頼りなかった。あんな母の表情を見たのは初めてだった。
そして両親と目を合わせようとすらせず、挨拶もろくに返さずに靴を脱ぎ始めるヒメコは、まるで同じ名前の別人のようだった。
俺の知るヒメコは、社交的でいつも明るく、帰宅すれば自分から進んで挨拶をするし、常にキラキラした笑顔で今日の出来事を両親に自慢げに語っていた。
こんな仏頂面のヒメコは、見たことがないし知らない。
「おい。こんな遅くに帰ってきて、何か言うことはないのか?」
父もこれまでヒメコに対して怒ることは全くなかった。今は父が、俺に接するときに見せる苛立った表情をヒメコに向けている。
「・・・うっさい」
ヒメコはボソッと言った。その発言に、父はさらに表情を固くして拳を握りしめている。
「こんな時に父親面しないでくれる?ほんっとウザい」
「なんだと!」
「あなた、もういいから」
身を乗り出そうとする父を母は必死で止める。そんな両親を置いて、ヒメコはそそくさと2階へと上がってしまった。
「おい!ヒメコ!」
「あなた、もういいの」
「何がいいんだ?今日こそ話し合うって決めたろ?」
「いいのよ。今はそっとしておきましょう」
懇願する母を見て、父はわざとらしい舌打ちをした。
「まったく、お前の教育がなってないからあんな子になるんだぞ!」
「そうね・・・」
どたどたとリビングへ続く廊下を歩く父を避けた後、俺は何も言わずに俯く母をじっと見つめた。
一瞬、母の憔悴した様子を不憫に思ったりもしたが、俺がこれまで母から邪険にされ続けたことを思い出して、今度は「いい気味だ」と心の中で嘯いた。
授業参観や運動会、その他全ての行事に来なかった母。俺が学校で何をしていたか、誰に何をされたかについても、一切話を聞こうとしなかった。
弁当持参の日だって、母は俺に弁当を作らず、お金だけ渡してコンビニで買ってくるように言った。
親の手作りのお弁当を自慢するクラスメイトの様子を見て、俺がどんな気持ちだったか。
これまでの母からの仕打ちからすれば、やっぱり何の同情も抱けない。いや、抱いてはいけない。
俺は静かに家を出て、とぼとぼと来た道を戻った。
戻りながら、今自分に起きている現象を鑑みる。
おそらく、今の俺は誰からも見えていない。神社の神主は俺に触れられても、まるで誰もいないかのように接してきた。夜の闇で見えなかったわけではない。確かに懐中電灯の明かりは俺を照らしていたし、聞こえる音量で何度も声を掛けた。
そして、いくら俺を無視している両親でも、あそこまで目を合わせない反応は見たことがなかった。
というか、あの家は俺の知っている家ではなかった。
壁に掛けられた写真も、ヒメコの急激な変化も、説明がつかない。
もしかして全部、俺をだますためのドッキリなのか?どこかにテレビカメラがあって、これまでのやり取りを全部撮影されているとか?
・・・いや、そんな馬鹿な話があるか。
こんな手の込んだことを両親がするとは思えないし、する理由が見当たらない。
というかこれはまるで、俺が自分の知らない「もう一つの世界」に来たみたいじゃないか。
SF小説でもあるまいし、そんな馬鹿なことがあるなんて・・・。
信じたくはなかったが、心のどこかではこの現実を受け入れつつある自分もいた。
ひとまず寝床を探さないと。自分の部屋もなくなっていたわけだし。
まさか、こんな形で実家から出て行くことになるなんてな。
駅の方まで歩いていき、漫画喫茶を見つけて中に入った。
そこでも、店員は俺を目の前にして、完璧な無視を決め込んだ。
何度も声を掛けても、全く反応しない。
そこで俺は、本当に見えていないのか実験をすることにした。
入り口付近の本棚で、漫画を選んでいる利用客の隣に立ち、何冊か盛大にその場に落として見せた。
バタバタと音を立てて漫画が床に落ちると、隣にいた人は「わっ」と声を上げて驚き、店員はすぐさま現場にやってきた。
「俺がやりました」
手まで上げて白状したものの、利用者は「勝手に本が落ちた」と店員に説明するばかりで、店員は落ちた漫画を拾いながら、利用者を気遣う台詞を吐いている。
誰も、俺のことを見向きもしない。
ああ、やっぱり見えてないんだ。
それがわかると、俺はその漫画喫茶を後にした。
何はともあれ、あの店を利用することはできないということだけはわかった。
再び神社へと戻ってくる。
ここに最初に来てから1時間が経っていた。さすがに眠いし、疲れている。
これまでの不可思議なことはひとまず置いといて、今は寝床の確保である。
その候補に挙がったのが、やはりこの神社だった。
俺が他の人に見えていない以上、ホテルも利用できそうにない。外はまだ寒いが、野宿しか選択肢がなかった。
実家には戻るつもりはない。あそこにいては余計疲れるだけだ。さっきの漫画喫茶も、空いている部屋を探して勝手に泊まるということも考えたが、途中で人が来れば退かざるを得ないだろう。
原理は不明だが、姿も見えず声も聞こえないくせに、物と人には触れられるみたいだし、もし見ず知らずの人間が俺の寝ているところに覆いかぶさってきたとしたら、それこそいろんな意味でとんでもない事態になるだろう。
そう考えると、寒くても一番落ち着けるのは、ここに間違いなかった。
河津桜の下のベンチで仰向けになると、わずかながら星が輝いている。
この辺りは灯りも少ないから、こうして上を向くとオリオン座とかが見えたりする。
夜空は美しいものの、夜風はきつくてやはり寒い。
ジャンバーぐらいしか羽織るものもないし、温かい飲み物を買おうにも、財布には千円札と17円しか入っていない。
誰かに見られなくなったとはいえ、喉は乾くようだから、きっと腹も減るのだろう。つまり俺は死んだのではない。だから生存活動を維持しなければならないらしい。
今月の給料はまだ先だし、両親に給料のほとんどを入れている分、口座にはほとんど金が入っていない。
この持参金は貴重だ。
というか、本当に見えないなら、いっそ食べ物を盗むっていう手もある。
けれど、それは良心的にも行いたくはなかった。あくまで、最後の手段としてとっておきたい。
それにしても寒い。
手足を縮めて蹲っても、容赦なく冷えてくる。
このまま、寒さに負けたらどうなる?
死ぬのかな?
だとしたら、目を閉じたまま眠るように逝きたいものだ。
まさにこんな調子で、一度目を閉じたら次は天国にいる、みたいな終わり方だとしたら、それはそれで幸せなのかもしれない。
こんな人生でも、最後は幸せ者になれそうだった。
目を瞑ってからどれくらい経ったのだろうか。
よほど疲れが溜まっていたのか、珍しく仕事をしている夢も、実家にいる悪夢も見ることなく、気づけば朝を迎えていた。
腕時計の針は五時を過ぎていた。
普段なら、身支度をして家を出ている時間だった。
「あ、起きた」
ふと、聞きなれた声がした。もぞもぞと起き上がると、俺の体に何故か花柄の毛布が掛けられているのに気づいた。
「早いねー。いつもこんな時間に起きるんだ」
能天気な声の主は、ベンチの前でしゃがみこみ、こちらをじっと見ている。
あの、ビジュアル系の黒パーカー女だった。
「おはよう。こんな場所でもぐっすりだったよ、君」
ふふんと鼻を鳴らし、余裕そうな顔で女は笑った。
「でもさすがに寒そうだなーって思ったから、それ掛けといた」
女が指さした花柄の毛布を、俺は掴んでまじまじと見る。
「で、なんか言うことは?」
「・・・なんで、君がここに?」
「そうじゃないでしょ」
むっとふくれっ面をした女は、立ち上がって花柄の毛布を掴み、俺から剥がした。
「これのお礼。君、あのままだったらさすがにやばかったんだから」
「ああ・・・」
寝起きの所為で、頭がうまく回らない。そこに冷たい朝の風がぶわっと吹き込む。
「さぶっ!」
「でしょ?いくら春になるとはいえ、まだ油断できないんだから」
「・・・ありがとう」
「じゃあ、お礼ついでにさ」
女はパーカーのポケットに手を突っ込み、そこから小銭を取り出して行った。
「お茶、買って来て。うんと熱いやつ」
神社の外の自販機でホットのお茶を買っている間、冴えてきた頭で昨夜のことを思い返す。
俺は誰からも姿が見えなくなった。自分の家族も、自分の知っている家族ではなかった。
それで、俺は家に寝る場所がなくて、外で寝ていた。
「・・・いや、待て」
自動販売機のボタンを押すところで気が付く。
さっきのあの女は、俺のことが見えている。
ってことは、昨日のことは全部、嘘?
でも、それだと俺が神社で寝ていた理由と結びつかない。
そういえば、あの女と会った時に、変な立ち眩みにあったっけ。
その時から変なことが起こり始めたわけだし。
そうか。俺はあの時、本当は気絶して、そのままあそこで寝てしまったんだ。つまり、昨日の晩のことは全部夢だったんだ。
きっと気絶したのも、疲れが溜まりに溜まって起きたことなのだろう。
そうに違いない。
この時の俺は、こんな突拍子もない推論を信じてしまったのだから、まだ相当混乱していたのだと思う。それだけ、何もかもが異状で、感覚が麻痺していたのだ。
「あ」
そういえば、今朝は5時半から出勤だった。
腕時計を見ると、5時50分を指していた。
すでに20分の遅刻である。
「やばい」
職場に連絡しようにも、携帯を落としたことを思い出した。やはり今探ってみても見当たらない。
本当にやばい。今すぐにでも行きたかったが、自動販売機からホットのお茶がちょうど出てきたところである。
さすがに、あの人に何も言わずに去るのは気が引けた。
「くそっ」
握れないぐらい熱いお茶の缶を慎重に持って、俺は神社へと走り出した。
「お、遅かったね」
女は先程俺が寝ていたベンチに座りながら、能天気そうにこちらを見ている。
そんな彼女の横にお茶を無造作に置き、俺は頭を下げた。
「毛布ありがとう。俺、そろそろ行かないと」
そのまま回れ右をした時、女は言った。
「バイトなら行っても意味ないからね。君はいないことになってるし」
俺は駆けだしそうになった足を止める。
「昨日で充分理解したと思ってたんだけどなー。やっぱり説明しないとダメか」
俺が振り返ると、女は不敵な笑みを浮かべてこちらを見ている。
「わかってるでしょ?君の存在はもう消されたの」
「・・・・」
俺と彼女の間を冷たい風がふわりと通っていく。
俺の心臓が、どくどくと妙に高鳴っていた。
「あ、てか1本しか買ってないの?君の分もついでに渡しておいたのに」
女はお茶の缶を開けて、ちびちびと口を付けた。
「でさ」
お茶を手で握りながら、またもや不敵な笑みを浮かべて女は言った。
「聞きたくない?あたしの話」
彼女の名前はサクラというらしい。
どうやったのかはともかく、サクラは昨日の夜、この神社で俺の「願い」を聞き入れて、この世界から俺の存在を抹消したそうだ。
平衡感覚を失ったようなあの現象から、俺の存在の喪失は始まったらしい。
「簡単にいうと、君はこの世界に生まれなかったことになってる」
飲み干したお茶の缶を横に置くと、サクラは続けてこう言った。
「ある意味、ここは君が存在しなかったもう一つの世界ってことになるのかな。でも安心して。特に大きく歴史が変わったわけじゃないから。相変わらず日本は平和ボケしてるし、アメリカの顔色窺ってばかりだし、少子高齢化は手に終えないくらい進んでるから。君一人の存在が消えたくらい、世界にとっては何の影響もないからね」
「・・・・」
「もう、そんなしょげなさんなって。そんなものだよ。人ひとりの存在価値なんてさ」
皮肉の混じったサクラの台詞は、ある意味納得はできる。
ただでさえ広くて複雑な世界の中では、俺のような凡人以下は簡単に埋もれてしまう。それこそ、天才科学者とかどっかの国の大統領くらいにならないと、世界に大きな影響なんて与えることはない。
まあ、俺一人の人間の存在価値は結局取るに足らない程度であることは痛いほど身に染みている。
今までもずっとそうだとは言い聞かせてきたから、あまりショックはない。
「とはいえ、君のことが周囲に完全に認知されなくなったわけじゃないけど」
そこにサクラは付け加える。
「つまり、すでにこの世界から消えてしまった君が、さっきあたしのために自販機でお茶を買えたでしょ?他の人には存在を認知されていないけれど、物には触れることができる。他にも心当たりがあるんじゃない?」
まるでこれまでの俺の行動を知っているかのような口ぶりだった。
確かに神主の肩には触れられたし、家のドアを開けたり、両親を転ばせたりもしている。
「なんだか、透明人間みたいだな」
「まあ、それとは少し違うかな。透明人間はそもそも存在していた人の身体が透けてしまった話だけど、君の場合は世界から生まれたことにすらなっていないから」
「じゃあ、幽霊とも違うのか?」
「そうだね。死んだわけでもないし」
「でも都合よく物には触れられると」
「まあそこはあたしの力量不足もあるというか・・・」
俺の追及に、サクラはバツが悪そうに目線を逸らした。
「とにかく今の君の立場は複雑なのだよ。一言では言い表せないくらいに」
「・・・・」
正直混乱している。必死に現状を理解しようと彼女の話を一通り聞いたが、今思うのはとにかく「元の自分に戻るにはどうすればいいのか」である。
いきなりファンタジックな展開が我が身に起きてみると、案外そういう思考に陥るものなのだろうか。
「なあ、この現状って・・・」
「無理だね」
「え?」
俺が皆まで言うより先にサクラは答えた。
「悪いけど、すぐにもとに戻すことはできない。それにさ」
サクラは俺の顔を覗き込むようにして言った。
「本当に、あの日々に戻りたいって思ってるの?」
サクラの言葉に、俺は一瞬躊躇する。
「誰からも相手にされず、都合の良い時や嫌がらせの時にしか存在を認知されない。そんな人生に戻りたいの?それに君、今もとに戻ったらまずいんじゃないの?」
「え?」
「君の勤めていたコンビニの店長、絶対に君のこと犯人だって信じて疑ってないよ」
「なんでそのことを?」
「あたしは君のことはなんでもお見通し。昨日が君の誕生日だったこともね」
サクラはそう言って笑った。その笑顔で、俺にまた質問する。
「もう一度聞くけど、君はまたあの搾取されるだけの日々に戻りたい?」
俺は唾を飲み込んだ。
「結局さ。もとに戻っても、君の人生にとってろくなことはないと思うよ。これからも」
俺は何も言えなかった。サクラの言うことは、間違いなく正しかった。
「・・・どうして、俺にこんなことを?」
そもそもの疑問を口にすると、サクラは少し間を置いてこう答えた。
「まあ、誕生日プレゼントかな?あたしからの」
「え?」
思わずサクラの方を見ると、サクラはいたずらっぽく笑っている。
「ともかくも」
サクラはすっとベンチから立ち上がり、こちらに向き直った。
「これは、ある意味君にとってのチャンスになると思うよ」
「チャンス?」
「そう。これからは誰からも縛られることはない。君だけの人生を見つけていくといいよ。それじゃあ」
「ちょっと・・・」
サクラは右手を高らかに上げて、指パッチンをする。虚空に響く弾けた音と共に、強風が突如巻き起こった。
その強さに思わず顔を背ける。そして風が止んで目の前を見ると、彼女はすでにいなくなっていた。
昨日と同じように、ほんの一瞬のうちに彼女は消えてしまった。
次第に、今の自分の現状が現実味を帯び始める。
自分の両手をまじまじと見て思った。
彼女が言ったことは本当なのかもしれない。
俺はこの世界から消えてしまっていて、誰にも見られることがない。
ここは、俺のいないもう一つの世界。
頭を抱えそうになるが、そこで俺は彼女の言葉を思い出す。
「俺だけの、人生・・・」
空を見上げると、夜の気配がだんだんとなりを潜め、少しずつ陽が顔を出し始めている。
新たな一日のスタート。
その光景は、今まで見た景色の中でも、ずっと印象に残るものかもしれないと思った。
駅の近くにあることもあって、勤め先のコンビニは6時くらいになるとサラリーマンやOLたちが朝食やコーヒーを買いに列を作る。
本来ならば俺が対応しているはずのレジに、見知らぬ眼鏡の男が立っていて、笑顔を振りまきながらレジを打っていた。
ヨシオの姿はない。今日は確か、シフトが入っていたと思うが。
「ほらね。君がいなくても、代わりの人がやってくれてるでしょ?」
窓の外から店内を観察していた俺の横に、いつの間にかサクラがいた。
驚いて一瞬たじろぐと、彼女は「ははっ」と笑った。
「てか、今のあきらかに不審者だったよ。見えてないからいいけどさ」
「消えたんじゃなかったのかよ」
「いいじゃん、別に。消えるのも現れるのもあたしの自由なんだから」
すると、彼女は俺の横に立って、同じく中の様子を探るような仕草を見せた。
「・・・あんたは見えないの?他の人から」
「それも自由自在だよ。あたしにとってはお茶の子さいさい」
「なんだよ、それ」
今時、「お茶の子さいさい」なんて言葉は死語だ。
それよりも、今の発言からして、一層彼女が何者なのか知りたくなる。
「なあ、あんたって何者なの?」
「どこにでもいる普通の女の子ですけど」
「そんな言葉で俺をごまかす気か?」
そういうと、サクラは溜息を吐いて俺の方を見た。
「そんなことは今重要じゃなくない?それよりもさ、君はこれから何をしたいか考えたわけ?」
この様子だと、これ以上彼女から素性を聞き出すのは難しいだろう。
「いきなりこんな状況になってもな」
コンビニのガラス窓に寄りかかり、つられて俺も溜息を吐く。
「いろいろ考えたけど、特に思いつかない」
そんな俺にサクラは何かを言おうとしたが、それよりも先に俺の腹の虫が鳴った。
「お腹減ったの?」
「・・・うん」
「ああ、だからここに」
サクラは納得したように頷いた。
確かに俺は腹が減っている。もし俺の姿が見えていないなら、パンの1個や2個、盗っても問題ないだろうと思って来たのも認める。
「・・・やっぱりできなかった」
「え?」
「いくらなんでも、自分が勤めていた店だ。確かに店長は腐った人間だったし、嫌な仲間もいた。でも全員が悪い人だったわけじゃない」
俺はもう一度、店内の様子を見る。
あそこで、一生懸命働いている眼鏡の青年。名前も知らないが、彼のように中には真面目に働いていた人もいた。
店長もヨシオも、その仲間も最悪だったけど、それ以外の人には支えられた思い出もある。
「何?盗む気だったの?」
サクラに言われ、俺は頷く。
「ちょっとは店も困ればいいとは思ったけど、やっぱりしたくなくなった」
そのまま俺は地面に座り込む。
俺はどちらかといえば、良い店員だったとは言えない。
あの眼鏡の青年のように、客に対して笑顔を向けられなかったし、効率よく仕事をしていたわけでもない。
むしろ要領は悪い方だったし、常に無表情でレジを打っていたように思う。
「この店は」
自嘲気味に笑って言った。
「やっぱり俺がいない方が、うまくやれてるみたいだな」
そんな俺を、サクラはじっと見下ろしている。
その顔をよく見たわけではないが、おそらく俺の不甲斐なさに呆れているのかもしれない。
俺はどうやったって、人を不愉快にする才能しかないのだ。
立ち上がって、来た道をとぼとぼと歩き始める。
サクラはそんな俺の後姿を見るだけで、止めることはなかった。
しばらく歩き続けて、また神社に戻ってくる。
ベンチに腰掛け、そのまま時間が過ぎるのを、ただぼーっと待っていた。
そんな中で考えてみる。
今の俺は、何がしたいのかを。
しかし、これといってやりたいことは見つからない。
この18年の人生を、俺は何もしないまま無駄に過ごしてきた。
その理由の一つは、家族や周囲の人間にもあると思っている。
俺は今まで、褒められた経験が少ない。
俺がテストで満点をとっても、読書感想文でクラスの優秀賞をとっても、両親は何一つ褒めてくれなかった。
「100点なんてヒメコは毎日とっている。今更そんなもの見せられても特別じゃない」
「ヒメコは県の大会で入賞したんだ。クラスで1位なんて、大したことない」
「というか、妹と張り合おうなんて、あさましいし、兄として恥ずかしくないのか」
「そんな程度のことで褒めてもらおうなんて、虫が良すぎる」
そんな台詞を吐かれた後、決まってこう言われた。
「これが本当に私たちの子だなんて」
確かに、妹が残してきた数々の功績の前には、俺のやってきたことは霞んでしまうだろう。
それでも、ほんのわずかでもいいから、認めてほしかった。褒めてほしかった。
ヒメコがテストで100点を取った時と、何かに失敗して泣いていた時に語りかけた温かい言葉を、俺にも掛けてほしかった。
どうせ両親には認められない。周囲も俺を見てはくれない。そう思うと、俺は本当にダメな人間なのだと考えるようになったし、もう少し成長した頃には、彼らのために努力することが、なんだか馬鹿らしくなってしまった。
そうやって、今の俺が出来上がった。
努力することを諦め、趣味もなければ自慢できる特技もない。
それだけ見ると、これまでの周囲の環境が、周りに認めてもらうためのチャンスを俺から奪ったことにもなるのだろう。
何かを頑張っても誰も見てくれないし、何かをすれば辛辣な言葉を投げかけられる。それならば何もしない方がいい。
誰からも迷惑にならないよう、ひっそりと息をひそめて生きていけばいい。
俺の人生なんて、所詮こんなもんだから。
「で、考えはまとまった?」
気づけば、俺の前にサクラがいた。俺の勤めていたコンビニのロゴが入ったビニール袋をぶら下げて。
彼女は袋を探って、中からツナサンドと缶コーヒーを取り出した。
「はい。お腹減ってるんでしょ?」
俺は目を丸くした。
そんな俺に彼女は無理やりツナサンドを握らせた。
「まずは腹ごしらえして、それからやりたいこと考えていけばいいんじゃない?」
サクラはニッと笑って、今度は自分の分のツナサンドを取り出し、俺の隣に座った。
「それ、あたしのお気に入りなんだよね。あ、今回は貸しだかんね。ちゃんと返してよ。いい?」
「・・・ありがとう」
俺はぼそりと呟く。
なんだか人から親切にされたのが、ひどく大昔にされたきりだったような気がしてきた。
サクラはツナサンドを咀嚼する俺を見て満足そうにしていた。
「それにしても君、好きだよね。この場所」
ツナサンドを頬張りながら、サクラは言った。
「カズオだよ」
「え?」
「俺の名前はカズオ」
先程から「君」としか呼ばれていないことに気づいて、俺は自分の名を名乗った。
「うん。知ってるよ。それくらい」
「そうか」
まあ、先程まで俺に関する様々な情報を知っていたのだから、俺の名前ぐらいわかっているのだろう。
これまでツナサンドなんて、めったに食べることはなかったが、今まで食べたどの食事よりも美味しく感じた。
「ずっと、この場所は俺にとっての避難所だったんだ」
それから俺はサクラに聞かせた。
いつからここに通うようになって、そこでどんな出会いがあって、どんな別れがあったか。ここの存在にどれだけ救われたのかを。
サクラは全てを聞いてくれた。
ただ頷くだけで、何も言わずに、しっかりと。
話し終えると、サクラは「まあ、全部知ってるけど」と一言だけ呟き、サンドイッチの袋を丸めた。
「でも、ここで野宿はさすがに寒いでしょ?」
「そうだな」
俺はふっと笑って見せる。
自分のことをこうして人に話すのは、久しぶりのことだった。それこそ、ハルにしかしたことはない。
「じゃあ、お腹も満たせたことだし」
サクラは「よっ」と立ち上がり、うんと背伸びをする。
「これからの人生プランを考えようじゃないか」
「ああ、それなんだけど」
「何?早速思いついた?」
「いや、実はまだ何も思い浮かばなくて」
「えー」とサクラは呆れたように言った。
「結構時間あったと思うんだけどな」
「あんまり、やりたいこととか考えることなかったから。これまでずっと」
そういう俺に、サクラは溜息を吐く。
「で、あたしに一緒に考えてほしいと?」
彼女は察しが良い人間だった。
それか、もしくは謎の能力によって、俺の考えていることが読めるのか。
「今のはさすがに言わなくてもわかるよ。てか、謎の能力って、もっと良いネーミングなかったの?」
・・・どうやら彼女は俺の考えていることが読めるらしい。
その「謎の能力」によって。
「だからその『謎の能力』っていうの、やめてくんない?」
「わかったよ」
ふくれっ面をした後、サクラはパーカーのポケットに手を入れて、そこから小さなメモ帳を取り出した。
「まあともかくも、まずはやりたかったこととか、やってみたいこととかを書き出していこう」
「やりたかったこと?」
「そう。なんなら、今だからできそうなことでもいいや。今君は誰にも見られないし、認知されないわけだから、いわばなんでもやりたい放題だよ」
「うーん」
今の自分にできそうなことと言っても、すぐには思い付かない。
「例えばさ。さっきみたいに、万引きだって罪にならないわけじゃん。つまり欲しいものが何でも手に入るんだよ」
「いや、犯罪はちょっと・・・」
「他にも男だったら、女風呂とか女子更衣室とか覗き放題とか考えたりするじゃん」
「しないよ!俺をなんだと思ってんの?」
俺が怒るとサクラは怪訝な顔をした。
「・・・もしかして、男好きとか?」
「いや、なんでそうなる」
「冗談だよ」
サクラはぷっと吹き出して笑った。
「いやー、しかし君は真面目くんだね。でもこんな機会は滅多にないんだよ?もっと欲望に忠実になってもいいじゃんか」
「欲望・・・」
そこで何気なくサクラの方を見ると、彼女は「あ」と何かに気づいて、突然さっと俺から距離を置き、自分の胸元を両手で隠した。
「今、エッチなこと考えたでしょ」
「なわけないだろ!」
「言っとくけど、あたしに手を出したら二度と歩けない体にしてやるから」
俺は呆れて溜息を吐いた。
まるでコントのようなやり取りで無駄に疲れた。
そんな時、ふとあることを思い出した。
「・・・一つだけ、あるかもしれない」
「え?どんなこと?」
サクラが食いつくように、俺の顔を覗きこんだ。
「俺さ。この町から出たこと、ほとんどないんだよ」
これまで小学校の遠足行事とかでしか、この町を出たことがなかった。出たと言っても、せいぜい電車で1駅分の隣町に行ったくらいである。
中学に上がってからは、校外学習とか修学旅行に掛ける金がもったいないからと、両親はそれらの行事に行くことを認めなくなった。
ただ、金がないというのは体裁が悪いので、ありもしない持病とか、適当な言い訳をでっちあげて先生に参加できない旨を言うように俺に指示していた。
俺は馬鹿みたいに、そんな最低な指示に従っていた。
「なるほど」
サクラはふーんと納得したように言った。
「もう実家にも、職場にも、それに社会からも束縛されないなら、自由に好きなところに行ってみたいな」
最初に思いつくことといえば、それぐらいだった。
自由になれたのならば、その証として好きなところに行ってやる。
まずはそれから始めればいい。
サクラは俺の方を見て優しそうに微笑んでいた。
「それで、どこに行きたいの?」
「そうだな・・・」
「せっかくならさ。パーッと楽しめるところがいいんじゃない?例えばディ・・・」
「しっ」
俺はサクラの言葉を途中で遮った。
そのまま俺は立ち上がり、神社の鳥居へ駆け出して、道路へと出た。
「どうしたの?・・・あ」
サクラが追いかけてきて、俺と同じ方向を見て納得する。
俺の視線の先に、昨日の夜に見たヒメコの後姿があった。
黒のブレザーを着崩している彼女は、カジュアルな灰色のリュックを背負い、俯きながらも足早に歩いている。
時間的にも、学校へ向かう途中のようだった。
何故だか知らない。
俺は気づけばヒメコの後を追っていた。
サクラも何も言わずに、そんな俺の後を付いて、ヒメコを追いかけた。
ヒメコは黙々と早足で歩いている。その様子は、何かに苛立っているようにも見えた。
その何かというのが、自分の周りにある全て、とでも言いたげである。
こんなことを思うのは、俺自身にも似たような経験があるからだった。
やがてヒメコは角を曲がり、朝方は開かずの踏切として知られる近所の踏切へとやってくる。
ちょうど左右から列車が来る警告が出ており、車も数台分が立ち往生していた。
他にも、ヒメコと同じブレザーを着ている女の子たちが群れをなして踏切が開くのを待っている。
どうやら、ここはヒメコの通う学校の通学路らしい。
踏切が降りている間、女子たちは楽しそうに会話に華を咲かせている。
そんな周囲の中で、たった一人で踏切の開閉を待つヒメコの存在は浮いていた。
むしろ、ヒメコから「誰も話しかけるな」という雰囲気がにじみ出ている。でも、周囲はそんな彼女には見向きもくれないし、そんな雰囲気に気づいている様子すらなかった。
それからだいぶ時間が過ぎたころに、やっと踏切が開いたものの、その直後にまたカンカンと警告音が鳴り始める。
「ここの踏切、やな感じ」
サクラも不服そうな顔をしている。でも、俺たちはまだ歩きだからいいが、自動車に乗っている人間にとっては、1回に1台しか通る時間がなく、一度閉まれば、ほぼずっと立ち往生されるのだから、そっちの方がたまったものではないだろう。
そんな開かずの踏切を渡ると、やがて大勢の黒いブレザー姿の学生たちが皆同じ方向に向かって歩いている光景が見えた。ヒメコもその群衆の流れに合流するが、やはりそこでも彼女は一人きりだった。
学生の群れは住宅地を抜けて、その先にある白塗りの校舎の方へと進み、コンクリート製の校門をくぐっていった。
ヒメコが校門をくぐるのを確認した後、俺は校門に掲げられた校名を見て目を疑った。
そこは公立高校だった。
「さっきの金髪の子、君の妹だね」
「ああ」
そのはずである。髪型と髪色が変わっていても、顔を見間違えるはずがない。
「何?やっぱり兄として気になる感じ?」
サクラは興味本位で聞いているようだった。
「さっき、俺がいなくなっても世界は変わらないって言ったよな?」
「うん」
「それは、全部がそうなのか?」
「・・・まあ、例外はある」
俺が言いたいことを察したのか、サクラは溜息を吐いてそう白状した。
「場所を変えようか。そこで話してあげる」
ヒメコはそう言って、踵を返して来た道を戻っていった。
もう一度だけ、俺は白塗りの校舎を見た。
本来のヒメコは、電車で1時間近く掛かる私立の名門校に通っていたはずだった。
そして、ヒメコがもっと優秀な進学校に通うために必要な金を、俺が働いて稼いでいた。
それが、俺のいた世界の事実である。
この校舎を目に焼き付けた後、サクラの後を追いかけた。
サクラは近所の大きな公園へと俺を連れて行った。
あの神社の隣にある公園は、もっと小さくて遊具も子供向けだったが、ここは原っぱしかないものの、フットサルをしている大人や犬と散歩に来ている人たちで、休日の昼間はいつも賑わっている。
あと、公園を囲むように植えられた桜並木を目当てに、花見をしに来る人もこれからの時期に増えてくる。
「ここの桜も、私は好きなんだけどね」
彼女は俺の隣を歩きながら、蕾が開き始めている桜を見上げて感嘆する。
「君はあの神社の桜が好きみたいだけど」
「ここは人が多くて落ち着かないからな」
そうは言いつつも、ここの桜並木は見事なものらしい。
地元では風が吹くたびに美しい桜吹雪が拝めると有名なのだ。
「で、さっきのことだけど」
「ああ、そうだったね」
サクラが芝生の上に足を伸ばして座ったので、俺もつられて彼女の隣に座る。
「さっきも言った通り、君が生まれなかったとしても、この世界自体には大きな変化はない。けれど、当然ながら君が生まれなかったことで、身近にいた人たちには多少の変化が生じている。例えば交友関係にしても、君と関わっていた人たちが結局、君に出会わなかったわけなんだから、彼らの人生は君の影響を受けなかった別の人生を歩んでいる。ここまではいい?」
「ああ」
要するに、俺と出会うはずだった人が、俺と出会わなかったことで、何らかの変化が生じた、ということだろう。
でも残念ながら、俺がそこまで影響を与えたような人はほぼいない。
「まあ。確かにね。君がいなかったことで大きく人生が変わった人は少ない。彼らはその数少ないケースってこと」
含みのある言い方をするサクラに対し、単刀直入に尋ねた。
「俺の家族にはどんな影響があったんだ?」
「・・・本当に聞きたい?」
何故か答えを聞くかどうか確認するサクラに対し、俺は即決で「ああ」と答えた。
そう答えた理由は、単なる好奇心である。
俺がいなかったことで、彼らは幸せだったのか、それとも不幸だったのか。昨日今日の様子からして、たぶん後者だと思うが、それならばなおのこと聞きたいと思ってしまう。
俺も、だいぶ嫌な性格になってしまったものだ。
「まあ、いいけどさ」
サクラはゆっくりと俺の家族のことを語り始めた。
ヒメコは近所の公立高校に昨年入学したことになっていた。
生まれた頃から、ヒメコは両親にかわいがられてきたが、小学校高学年になると、両親との関係はぎくしゃくするようになる。
きっかけはヒメコに対する父と母の教育方針の違いらしかった。
父も母もヒメコに対して大きな期待を寄せていたというのは、俺がいた世界と同じなのだが、父はそんなヒメコに対し、もっと学力を伸ばして自分の望むような中高一貫の私立に通わせようとしていた。最終的には都内にある父の母校の大学に行かせるつもりだったらしい。
とにかく、ヒメコのためではあったようだが、父は自分が選んだ学校以外は一切認めようとはせず、次第にヒメコへの束縛が強くなっていった。
ヒメコは学校から帰っても、夕食以外の時間は机に向かわさせられ、日々父の課す課題をこなさなければ明日の食事も出されないというペナルティが与えられた。
その課題というのも、小学生の段階で中学校レベルの問題集を全教科行うというものであり、ヒメコは毎日泣きながら課題をこなしていたそうだ。学校の行事があろうがなかろうがお構いなしだった。
もちろん、友達と遊ぶ時間もヒメコには与えられなかったため、自然とクラスで浮いた存在になっていった。
そんな日々の中で、父の暴走はさらに歯止めがかからなくなっていった。
勉強漬けの日々に疲労も限界となったヒメコが、ある日一度だけ学校から帰って転寝をしたことがあったらしい。
それを知った父は怒り狂い、ヒメコの部屋をめちゃくちゃにした挙句、何時間も彼女に怒鳴り散らしたというのだ。
それからというもの、父は何かとヒメコに当たり散らすようになり、それを恐れたヒメコはとにかく父を怒らせたくないという一心で勉強するようになった。
父の怒りは、ヒメコの成績に関するものだけでなく、「表情が生意気」だとか「返事が小さい」などと些細なことにまで発展していった。
そんな父とヒメコのやり取りを、母はただ見て見ぬフリをしていただけだった。
下手に口を出せば自分にも夫の怒りの矛先が向くかもしれないという恐怖からなのか、それとも母自体もヒメコに異常なまでの期待を寄せていたのかはわからない。
ともかくも、俺のいないこの世界でも、両親は毒を吐く存在だったようだ。
父への恐怖と勉強漬けの日々によって、ヒメコは精神的にも追い詰められ、疲労も限界を迎えていた。
そしてそのピークは、ヒメコの中学受験の時に迎えてしまう。
受験当日にヒメコは起き上がることすら困難なほどの高熱を出してしまった。
だがそれでも父は「こんな大事な日のために健康管理を怠った」としてヒメコをいつものように責めたてた。さすがに母もこれはよくないと思ったらしく、父を止めようとしたが、父は母の制止を無視してヒメコを叩き起こし、「這ってでも試験会場に行け」と無茶苦茶なことを言い出した。
父に逆らえなかったヒメコは母に車で送ってもらい、意識朦朧としたまま試験を受け、問題を解いている途中、会場で嘔吐し、倒れてしまった。
ヒメコは病院に搬送され、何とか意識は取り戻したものの、当然のことながら父の期待通りの結果とはならず、受験に失敗した喪失感だけが残った。
父は病み上がりのヒメコを容赦なく罵倒したが、この時からヒメコは両親への失望と怒りを抱くようになった。
仕方なく公立の中学に通うことになってしまったヒメコだが、父はそれでもヒメコに自分の望んだ進路に進むように強要し続けた。
学校では、ヒメコが「受験会場で吐いた子」として噂になっており、いじめられるようになった。
学校と家でのストレスからか、ある時ヒメコは万引きをして捕まり、学校と両親に報告されてしまった。
もちろん父は怒り狂い、痣ができるほど彼女を殴った。
だが、そこから両親に対するヒメコの復讐が始まった。
その日の夜、ヒメコは寝ている父の首を絞めようとしたのである。
気づいた母が止めようとし、父も首を絞められながらも抵抗した。
抵抗されたヒメコは、今度は父を何度も何度も泣きながら殴った。
これまで自分が受けてきた苦しみの分だけ、力任せに何度も何度も。
父もヒメコから殺されるとは思っていなかったようで、さすがに娘に対する恐怖を抱いた。
警察沙汰かと思いきや、彼らは通報はせず、その後ヒメコは遠方の親戚の下に預けられることになった。
あの両親のことだから、警察を呼ばなかった理由も、ヒメコの将来を案じてではなく、一家の恥として大事にしたくないという気持ちが強かったのだろう。もしくは、これまで父がヒメコにしてきた虐待がばれるとまずい、という思惑もあったのかもしれない。
親戚の家に預けられたヒメコだったが、そこでも馴染むことができず、結局、高校生になった頃に両親の家に戻ってきた。両親としても、ヒメコに変化があっただろうと淡い期待を抱いたのかもしれない。
戻ってくる頃には、あのヒメコが出来上がっていた。
誰も信用せず、実の肉親と世の中全てを恨む存在。
今でも度々、ヒメコは問題行動を起こしては両親を困らせているようだった。
父はあんな目にあっても相変わらずだったが、ヒメコに襲われたのが相当堪えたのか、ヒメコに対して以前のように強い態度を取れなくなったらしい。
その分、父の怒りは母に向かっているようだった。
昨夜の通り「お前の教育がなっていない」などと、お決まりの責任転嫁の言葉を日々口にしているようだ。
「・・・どうしようもないな」
サクラの話を聞いた俺は、思わずそう呟いた。
自分勝手にヒメコをコントロールしようとして、その反撃を受けても未だに自分の責任だと気づけない愚かな父も、そんな父を止めようとせず、保身のためにヒメコを助けなかった弱い母も、両親に振り回され、何もかも信用できずに全てを憎み続けるヒメコも。
俺の家族全てが、本当にどうしようもない。
「いい気味だと思った?」
話し終えたサクラは、俺の顔を覗き込みながら聞いた。
「・・・わからない」
これが俺の望んだものかと言えば、違う。
俺も両親のことは憎かったし、ヒメコのことも嫌いではあった。
でもこの世界の家族は、俺のことを全否定して馬鹿にしたり、愛情を与えなかった家族ではない。
同じでもやっぱり違う、別の世界の家族だ。
俺が復讐すべきだとしたら、俺が生まれた世界にいる家族である。
「まあ、そうだよね」
サクラはそんな俺の反応を予想していたかのようだった。
「胸糞悪い話だったでしょ?」
「まあ、いい気分ではないな」
「じゃあさ。気分転換に、お花見でもしよっか」
「え?」
サクラはすくっと立ち上がり、ぱっと手を広げる。
「だってほら、せっかく天気もいいんだし。こういう時はパーッとおいしいもの食べて、昼間っからググっといきたいじゃん?」
「俺、まだ未成年なんだけど」
「まあ、あたしもあんま飲めないんだけどね」
朗らかに笑うサクラにつられて、俺も笑ってしまった。
その時、強い風がごうっと吹いて、桜並木が勢いよく揺れた。
そして薫ってくる、春の独特の匂い。
忘れられない、季節を訪れを感じる、優しい匂い。
俺は、この季節が一番好きなのかもしれない。
昼頃。
近所のコンビニで買ったフライドチキンとポテトチップス、それとコーラをベンチの上に並べて簡単な花見をした。
全部サクラの奢りである。
なるべく人気のない所の方が都合もいいので、結局あの神社に戻ってきた。
「さっきの場所でもよかったのに」
「やっぱり人混みは苦手なんだよ」
フライドチキンを掴み、一口齧りつく。
「それに、周りには俺が見えてないんだろ?食べ物が宙に浮いてたらおかしいじゃん」
「確かにそうだけど」
頷きながらサクラはポテトチップスを一枚齧った。
「そういえばさ。行きたいところがあるんじゃなかったっけ?」
サクラに言われ、俺もその話が途中だったことを思い出した。
「ああ、そうだったよな」
「で、どこに行きたいの?」
サクラは興味津々といった目をして俺に聞いてくる。
「・・・海」
なんだか気恥ずかしくなって、小声で言った。
「海に、行ってみたい」
「え、この時期に?」
内容が期待外れだったらしく、サクラは目を細めた。
逆に、彼女は一体何を期待していたのだろうか。
「まだ行ったことがないんだ。一度も」
両親と妹は俺に留守番させて旅行に行っていたから、俺は遠出を殆どしたことがない。
そんな最初の遠出の候補に、海が思い浮かんだ。
「一度でいいから海がどんなものか見てみたい。あとは潮風とか、磯の香りとかも感じてみたい」
「ふーん」
サクラはなんとなく理解したかのように言った。
「で、どこの海がいいの?」
「この近くにあるか?」
「うん。近くの海なら心当たりはあるけど」
サクラは言いにくそうに続けた。
「言っとくけど、澄み渡った海原と白い砂浜とかをイメージしない方がいいよ。この辺の海はモスグリーンだし、砂浜はゴミが埋まってたりするし。それにまだこの時期は寒いよ?」
「それでもいいよ」
とにかく、どんな感じなのかを知るだけでもいい。
なんならいっそのこと、俺の中にある海のイメージを、現実の海にぶっ壊してもらうというのも一興だろう。
「まあ、そこまで言うなら」
サクラは最後のフライドチキンを指で摘まんで平らげた。
「あ、サクラちゃん」
するとどこからともなく声が聞こえ、横から神主のおじさんが箒を持って立っていた。
「あ、おじさん。こんにちは」
サクラは神主の方を見てにこりと笑った。
「お久しぶりですね」
「うん、しばらく顔出さなくなってたけど、元気にしてた?」
「はい、おかげさまで」
「ふーん。そうか、それはよかった。で、何?一人でお花見?」
「まあ、そんな感じです」
「そっかそっか。まあ、今日は天気もいいからね」
神主のおじさんは嬉しそうに笑っていた。
2人は知り合いなのだろうか。
「そういえば、アケミさんは元気ですか?」
「ああ、実はね」
サクラが神主の娘さんの話をすると、神主は首筋を掻き始めた。
「アケミは昨年結婚して、今は向こうのご実家で暮らしているんだ」
「そうなんですか?」
「うん。隣町にいるんだけど、最近はなかなか連絡をよこしてくれなくてな。まあ、便りがないのが良い便りって言うし。俺も心配はしてないんだけどね」
そうか、こっちのアケミさんは結婚しているのか。
そういえば、俺がいることになっている世界のアケミさんは、どうしていたのだろうか。
少しだけ気になったが、今となっては確認しようもない。
「まあ、俺も早いとこ仕事切り上げて、パーッと飲むのもいいかな」
「あまり飲みすぎないでくださいね」
「わかってるよ。じゃあ、ゆっくりしてって」
そう言うと、神主のおじさんは笑顔を浮かべながら社務所の方に去って行った。
「知り合いなの?」
神主がいなくなったのを確認して、俺は聞いてみた。
「うん。一応ね」
サクラはうんと背伸びをし、「さて」と言って立ち上がった。
「お腹もいっぱいになったし、行こうか。海」
俺も立ち上がり、自分たちが食べた分のゴミを集める。
それらを纏めて、俺たちは近くのコンビニでそれを捨てた後、駅へと向かった。
サクラによると、近くの海は電車で30分くらいの距離にあるらしい。
そこまでの距離となると、運賃的に今の所持金で問題はないと思う。
「別に気にしなくていいじゃん」
「え?」
思わずサクラの方を見る。
「だって、君はいないわけなんだから、運賃もかからないことになるでしょ?必然的に」
「でも、実際に乗るわけだし」
「だー!もう!そんなに真面目になんなくてもいいんだよ!」
うんざりしたようにサクラは言った。
「いい?はっきり言うけど、この世の中はね。君みたいな真面目な奴が馬鹿を見るように最初からなってるんだよ」
指を立ててサクラは力説する。
「どんなに君が真面目くさって頑張っても、報われることなんて本当に少ないし、それで損して割を食ってばかりなんてくだらないじゃん」
「そんなこと言われても・・・」
「別に不真面目になれとか、悪人になれとは言ってないよ。ただ、たまには適当な気持ちで生きないと、息苦しくて辛いでしょ、って話」
サクラの言葉に、俺は内心思い当たる節があって、それ以上言えなかった。
「わかったなら、細かい事ぐちぐち考えない。いい?」
「・・・はい」
「よろしい」
腕を組んでうんと頷いた後、サクラはまた笑顔になった。
彼女のことはまだあまりよくわかっていないけれど、今は彼女くらいしか、俺の話し相手はいない。
とにかく、彼女の言うことには従っておこうと思った。
それに、サクラが言っていることは全て、なんとなく正しいことのように思う。
俺は今まで、真面目に生きようとして馬鹿を見てきた人間なのだから。
「ん?」
ふと、サクラが急に立ち止まった。彼女はバスのロータリーの方を凝視している。
彼女の目線を追うと、ロータリーの前のカラオケ店から若い男女5人組が出てきたところだった。
全員、黒いブレザーを着崩していて、髪は金髪とか茶髪で、耳にはピアスという、俺がもっとも関わりたくないような出で立ちの連中だった。
「ねえ、次どこ行く?」
「ボーリングとかは?」
駅前で大声で騒いでいるし、声からして知能が低そうだった。というか、あの制服はヒメコが着ていたものと同じである。
なんだか嫌な胸騒ぎがした。
案の定、集団の数歩後から浮かない顔をして店から出てくるヒメコの姿があった。
「ヒメコおせーよ。早くしろよオラ」
チャラチャラした感じの金髪の男に呼ばれ、ヒメコは「うん」と小さな声で俯きがちに歩き出した。
「リョウジー。またヒメちゃんに奢らせたの?」
「だって、俺金欠だし。てかそのためにコイツ呼んだんだから」
「ひっどー」
5人はケラケラと笑っていた。
男の名を聞いて、一瞬俺は固まった。
笑い声をあげるあの面影と、リョウジという名前が、かつての忌まわしい記憶を呼び起こした。
小学生の頃、俺はリョウジを中心にクラスメイトからいじめられていた時期があった。
最初は俺の容姿とか学力とか運動神経を堂々とからかわれるだけだったが、やがて物を隠されたり壊されたり、最終的には暴力を振られて万引きをさせられたりもした。
「・・・行こうか」
リョウジとヒメコの姿を見つけて一瞬固まっていた俺に、サクラは声を掛けた。
彼女が歩き出したので、俺も彼らを無視するように努めて歩き出す。
そう。今の彼らには俺が見えていない。それに、俺はここではリョウジたちと何の接点もない。
とはいえ、彼らが俺たちと同じ方向にやってくると、嫌な汗が止まらなかった。
今はただ、サクラの背中を追うことだけを考えよう。
「ねえ」
だが俺とリョウジたちがすれ違おうとしたとき、ヒメコが彼らを呼び止めた。
「あん?何?」
「・・・ごめん。もう、あんたとは付き合えない」
「はあ?」
ヒメコの言葉に、リョウジが急に友人たちを押しのけて彼女に近づいた。
「てめえ、もういっぺん言ってみろ」
「だから、もうこれ以上あんたとは付き合えない」
リョウジはドンとヒメコを小突いて押し倒した。
地面に尻餅を付いたヒメコを見て、リョウジは不服そうに顔をゆがめる。
「俺の何が不満だよ?なあ?」
「こういうことするからだよ」
ヒメコはリョウジから目を逸らしながら言った。
「気まぐれで殴ったり、いつも私のこと馬鹿にして下げてくるし、今日みたいにあいつらの遊ぶ金だって、私が全部払ってる」
「だからなんだよ。俺の彼女なんだから当然だろうが」
どうやらリョウジとヒメコは付き合っているらしい。
なんとなく話の流れは見えていたが、最悪な性格の2人が付き合うなんて複雑な気持ちではあるものの、ある意味お似合いだとも思う。
とはいえ、今の状況は険悪なものになっている。
「てか、友達に金払いたくないわけ?」
「サイテー。自分のことしか頭にないんじゃない?」
「あんたみたいなブスがリョウジと付き合えてるだけでも感謝しなさいよ」
周囲も口々に聞くに堪えない言葉でヒメコを非難した。
ヒメコは俯いて、かすれた声で呟いた。
「前は優しかったのに」
「てめえが馬鹿だから躾てやってんだろうがよ」
リョウジはヒメコの胸倉を掴み、カラオケ店の壁に押し付けた。鈍い音が響き、遠くにいた人も、リョウジとヒメコをよそよそしく見始めた。
「お、リョウジ。やっちゃう?」
「やめときなって。泣いちゃうよ、そいつ」
連中は笑っている。リョウジは友人たちの前で調子づいているようだった。
昔から、こいつは何も変わっていない。
胸糞の悪い展開ではあるが、俺もサクラも近くで見ているだけだった。
俺は少なくとも、ヒメコを助けるつもりはなかった。
俺を苦しめた人間同士が、いがみ合っているだけに過ぎない。
ヒメコはこの後、酷い目に遭うだろうし、リョウジもこれだけ人が見ている中で事を起こせば警察が来て問題になるだろう。逃げおおせても、次の日にはネットとかで特定されるだろうから、社会的には死ぬかもしれない。
俺の受けた屈辱は、それくらいのものでチャラになるほど軽くはないけれど、放っておけば、2人は自滅するし、俺がやれることは何もない。
そう思っていた。
「なんだ?その目はよ」
だがリョウジのその一言が、俺の腹の底に響いた。
俺をいじめていた時、奴は同じ台詞をよく吐いていた。
ヒメコは胸倉を掴まれながらも、リョウジをキッと睨みつけていた。
その顔が気に食わなかったのか、ついにリョウジはヒメコを地面に叩きつけ、倒れたヒメコを蹴り始めた。
「おお、やっちゃえリョウジ」
周囲が囃し立てている。
まるで、あの時と同じだった。
気づいたら、俺はリョウジに歩み寄っていた。
「二度と舐めた口利けねえように教育しなおして・・・」
笑いながらヒメコを蹴り続けるリョウジの横顔を、力の限り殴った。
思わぬ攻撃を受けたせいで、殴られたリョウジは吹き飛んだ。
「え?」
周囲は目を丸くしている。無理もないだろう。いきなり見えない力が働いて、リョウジの体が吹き飛んだのだから。
「くそっ!誰だ?」
リョウジは立ち上がり、殴った相手を見ようとするが、そこには誰もいない。きょろきょろと周囲を見渡している。
ヒメコも地面に倒れながら、驚いた表情を浮かべていた。
その様子に、「これって勝てるんじゃないか?」と俺は思った。
それと同時に、当に忘れようとしていた復讐心に火が付いた。
「ぐふっ!」
もう一度、俺はリョウジの顔面を思い切り殴った。
そして倒れたリョウジの腹を何度も蹴って踏みつけた。
周囲の顔は恐怖に歪んでいく。
何度も蹴るうちに、リョウジは嘔吐し始めた。
だがそれだけでは俺の気持ちは収まらなかった。近くにあった駐輪禁止の三角コーンを手に取ると、それでリョウジを何度もめちゃくちゃに叩きつけた。
「ひい!」
「きゃあああ!」
リョウジの友人たちにしたら、突然三角コーンが宙に浮いて、リョウジを襲っているように見えているのだろう。
彼らは驚いて蜂の子を散らすように逃げ出した。
最初はうめき声をあげていたリョウジも次第に何も言わなくなり、顔もすでに原型を留めていなかった。
遠くでサイレンの音が聞こえてくる。
そこで三角コーンを持つ手をサクラに抑えられた。
「もういいんじゃない?」
サクラの方を見ると、いたって冷静な表情で俺を見ている。
俺は肩で息をしながら三角コーンを放り投げた。
「立てる?」
サクラはヒメコに歩み寄り、さっと手を差し伸べた。
ヒメコは怯えた顔をしつつも、サクラの手を取って起き上がる。
「さ。もうじき警察も来るし、とっとと帰りな」
サクラはそう言って、ヒメコの背中を押した。
コクリと頷いたヒメコは、痛そうに体をさすりながら、重い足取りでその場を離れて行った。
改めて、倒れて動かなくなっているリョウジと辺りに飛び散った血の跡を見て、急に気分が悪くなった。
胸の奥からせり上がってくる気持ち悪さに、思わず嘔吐した。
吐き出した後、自分の手に付いたリョウジの返り血を見て、さらに血の気が引いてしまう。
そこで肩をポンと叩かれる。
「あたしたちも行こう」
サクラに背中を押され、俺は駅の方へと歩き出した。
改札をそのままスルーして通り抜ける。
途中、駅のトイレで返り血を洗い流し、俺たちは電車に乗り込んだ。
電車の中は閑散としていて、数人しかいない乗客の殆どがスマホを弄っている。
車窓からの西日が、俺とサクラを容赦なく照らす。
少し眩しかったが、勝手にサッシを下ろすわけにもいかなかったので、目を細めて我慢した。
今になって、リョウジを殴った手がズキズキと痛み始める。
道中はお互い、何も話さなかった。
サクラに先程の俺の凶行について、謝りたかったが、彼女は目を閉じてシートにもたれ掛っており、話すことが憚れた。
仕方なく、俺も目を閉じて精神を落ち着かせることにした。
先程の衝動の昂りを沈めるように。