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鈴の音とともに

四季の変わり目には、独特の香りがある。

ハルにとって、それは幼い頃の記憶の中にあった。

例えば、春が訪れると、太陽のぬくもりを一身に受けた、乾いた洗濯物から香ってくる匂いと、風が運んでくる、桜の残り香が漂ってくる。

大人になった今でも、そんな香りを嗅ぐと、自然と気持ちが落ち着く。

生き物である人間にとっても、嗅覚というのは精神の安定には欠かせない要素なのだとハルは思っていた。

凍てつく冬が終わり、再び命の芽吹く春の訪れを感じ始めた頃、ハルは再びあの神社へと足を運んだ。

神社の境内は春の香りで満たされていた。

ここに来るのは何ヶ月ぶりだろうか。

それまでに様々な出来事があって、行くに行けなかったのは否めなかった。

まず仕事について言えば、スドウとヒロキが会社を辞めた。

社内では2人が揃って退職することになったとだけ通知が来ていた。

送迎会をする間もなく、2人は会社に顔を出さずに辞めていった。

2人が揃っていなくなったことについて、詳しい説明もなかったことで、オフィス内では様々な憶測が流れた。

以前からスドウは子供に虐待をしていて、児童相談所にマークされていたから、ついに問題が大きくなって辞めざるを得なくなったとか、実はスドウとヒロキは親密な関係になっていたから、スドウの退職とタイミングを合わせてヒロキも辞めたとか。

ハルも詳しいことは知らない。

しかし、2人が辞めた理由に心当たりはある。

きっと、今回の件にはサクラが関わっているのは間違いない。

何せよ、彼らはハルに謝罪も言わずにいなくなった。

そしてサクラとカズオも、何も告げずにハルの前からいなくなった。

ヒロキに襲われたあの日の夜、サクラに助けられた直後に、彼女からこんなことを言われた。

「まず先に謝っておく。ごめん。そして、絶対に幸せになるんだよ」

まるで飼い猫を捨てようとする飼い主が、最後に放つような台詞だった。

何のことか尋ねるまもなく、ハルは急に意識を失い、気づいたら家の玄関の前に立っていた。

それ以来、サクラには会えていない。

連絡も一切つかなくなり、どこにいるのかもわからなくなった。

それはカズオに関しても一緒で、あれから何度か仕事終わりに神社に行っても、全く会うことができないでいた。

アケミにも所在について尋ねてみたものの、全く知らないとのことだった。特にカズオに関してはその姿を見たことすらないという。

「サクラちゃん、仕事が忙しいのかもね。きっと」

そう言うアケミも、少し寂しい思いをしているのだと、声色からハルは判断した。

それからというもの、ハルは冬が過ぎるまで神社に顔を出さなくなった。

2人が急に姿を消したのには、きっと理由がある。

そう割り切ろうと思い、しばらくはあの思い出の場所に立ち寄る事を避け、仕事に没頭することにしたのだ。

そして、今は3月の初め。

神社の河津桜は散り始めていて、境内に桜の花びらが散乱して、ピンク色の絨毯のように地面を覆い尽くしている。

この神社の河津桜は、春先まで割としぶとく咲くようだった。

しかし、見頃もあと少しで終わるだろう。

河津桜のベンチに向かうと、すでにそこには先客がいた。

「あっ」

ハルの白杖についた鈴の音に気づいて、シンゴはベンチから立ち上がった。

「ごめんなさい。お待たせしてしまって」

ハルが一礼するとシンゴも頭を下げた。

「いえ、大丈夫です」

そして、シンゴはハルの手をゆっくりと取り、彼女をベンチへと誘導した。

「ありがとう」

「いえ、別に」

ハルがベンチに腰掛けるのを確認してから、シンゴも隣に座った。

「あの、これ。よかったらどうぞ」

さらに、シンゴは自分のリュックサックの中から、細長い箱をハルに手渡した。

「駅前の洋菓子店のカステラです」

「あら、わざわざすみません」

そう言えば最近、長崎フェアをやっていて、オリジナルのカステラを販売しているらしかった。

「口に合えばいいんですが」

シンゴは少し照れくさそうにして言った。

最初にシンゴと出会った頃に比べると、彼はだいぶ変化したように思う。

礼儀正しくなり、はつらつと話すようになった。

半年を経て、ここまで成長できたことは嬉しかった。

「出発はいつですか?」

「明日です。もう荷造りは終わったので」

シンゴは姿勢を正してそう言った。

「そう。寂しくなりますね」

「はい」

先日、シンゴから引っ越しをすることになった話を聞き、最後にこうして会って話をすることになった。

現在、一緒に暮らしている親戚の仕事の関係で、町を離れるらしい。

「新しい環境は不安ですか?」

「いえ、むしろ楽しみにしているくらいです」

ハルの問いに、シンゴははっきりとした声で答えた。

「この町には、いい思い出は少ないので、むしろ離れることができてよかったというか」

「そっか」

「でも、ハルさんとチヒロさんにお会いできたことは別です。それにサクラさんたちに会えたことも」

シンゴの声を聞く限り、彼にこの場所に対する未練はないことはあきらかだった。

ハルにとっても、それは喜ばしいことではある。

これから彼が新しい人生を生きていくのであれば、新しい環境に身を置くに越したことはない。

「新しい友達ができるといいですね」

ハルが嬉しそうに言うと、シンゴは少し俯いてしまった。

「シンゴくん?」

「・・・なんかすみません。逃げるような感じになってしまって」

「逃げる?」

「今でもあの時のことを思い出すんです。ふとした瞬間に」

「あの時・・・」

「あいつに、理由もなく殴られた瞬間や、母がその間も何もせずに僕を無視するだけの時間とか、学校に居場所がなかったこととか」

言葉を発した瞬間に、シンゴは膝の上でギュッと拳を握りしめた。

「なんで殴られないといけなかったんだろうって、今でも考えるんです。でも、どんなに答えを出そうとしても、納得できなくて」

シンゴは、自分の過去に価値を求めているのかもしれない。

辛い環境を、少しでも「仕方なかった」と思いたいという気持ちは、ハルにも理解できた。

「でも、疲れちゃったんです。昔のことを考え続けるのも」

俯いていたシンゴはゆっくりと顔を上げた。

彼の目線の先には、公園の砂場で遊ぶ幼稚園児くらいの男の子と、その子を見守る母親らしき女性がいた。

「だから、この町を出ていきます。きっと、二度と戻らないです」

「そっか」

固い決意を感じる言葉に、ハルは寂しさを感じつつも、それが今のシンゴにとって最善の道なのであれば、送り出してやりたいと思った。

「すみません。なんか・・・」

「謝らないでください」

ハルは思わずシンゴの頭を撫でた。

「これからは新しい自分になってください。私も母も、ずっと君を応援していますから」

「・・・はい」

シンゴは照れくさそうに笑っていた。

今の私にできることは、彼の背後からその一歩を応援してあげることぐらいしかない。ハルはそう思うことにした。

これから自由になる彼に、心残りを作らせてはいけない、とも。

「僕、そろそろ行かないと。まだやることがあるので」

シンゴは立ち上がり、ハルの方に向き直って、深々と一礼した。

「この場所のことは忘れても、ハルさんと、チヒロさんのことだけは、絶対に忘れません。忘れたくないです」

「・・・ありがとう」

なんだか、ぐっと胸のうちから迫り上がってくるものがあったが、ハルはそれを堪えた。

「それじゃあ」

シンゴは未練を振り切るかのように、顔を上げてすぐに、回れ右をして境内を歩き出した。

だが、途中でハルの方をまた振り返る。

その時のシンゴはどこか晴れ晴れとしていた。

思い出を全てここに置いて、新しい人生を歩む姿は、とても眩しかった。

その表情は、残念ながらハルにはわからない。

けれど、シンゴが前向きに一歩を踏み出そうとしていることだけは、はっきりとわかった。

やがてシンゴの姿が見えなくなり、ハルは深呼吸をして空を見上げる。

心地よい春の風が、安らかな香りと共に、頬を撫でていく。

シンゴもいなくなり、サクラもカズオもいなくなった。

また、ひとりぼっちになっちゃうな。

そう思うと、急に胸に穴が空いたような虚しさが襲ってくる。

今日はもう帰ろう。

横に立てかけていた白杖を握り、ハルはゆっくりと立ち上がった。

白杖に付いている小さな鈴の音が、チリチリと寂しく境内に響いた。

その時、ひときわ強い風がふっとハルの横を通り過ぎる。

そして、香ってきたある匂いに、ハルははっとなった。

そして、石段を一歩一歩上がってくる靴の音が聞こえてくると、唐突に懐かしさがこみ上げてきた。

「まさか・・・」

確信しかなかった。

あの匂いと、あの足音の感覚は、絶対に間違えない。

間違えてはいけない。

考える前に、ハルは鳥居の方に駆け出していた。


駅前のコンビニに入ると、店員は「いらっしゃませ」と朗らかな声で俺を出迎えた。

棚からツナサンドを一つ手に取り、レジに持っていって会計をしてもらった。

若いメガネの店員にブレンドコーヒーも追加で注文すると、その場でドリップしてもらった。

「ありがとうございました」

釣り銭とレシートを手渡しで受け取り、俺は作り笑いを浮かべて「ありがとう」と呟いた。

こうして普通に店で買い物をすることができる喜びを、俺は今でも噛み締めながら生きている。

サクラは俺に様々な贈り物をくれた。

俺がこの世界でも見える存在にしてくれたことはその一つである。

彼女は最後の力で、俺とこの世界を完全に繋ぎ止めてくれたのだ。

それだけでなく、戸籍の取得方法や、その手助けをしてくれるコネクション、そして必要になる資金や書類なども用意してくれていた。

サクラは俺が実質的にこの社会に存在し続けられるための手段も残してくれたのだ。

かつて、俺がサクラの命を助けたことに対するお礼の範疇はとうに超えているとは思う。(俺としてはそもそも命を助けたつもりはなかったけれど)

だから俺はせめて、サクラが頼んだ通りに、彼女のやり残していた仕事を引き継いでいる。

仕事のノウハウやテクニックなどをサクラがしっかりと引き継げるようにしてくれていたおかげで、なんとか少しずつ仕事は受けられている。

と言っても、以前と違って姿が見えているリスクもあるから、そこまで危険な仕事はできていないし、まだまだ独立して仕事をやっていけるほど、安定はしてはいない。

まあ、これから少しずつ引き継いでいけばいいか、と楽観的に思ってはいた。

そして、今日はその引き継いだ仕事の一つが山を迎えている。

依頼人に会うために、桜並木の川沿いを歩いていた。

歩きながら、ツナサンドを一口ずつ食べ、コーヒーでさっと流し込んだ。

食べ歩きなんて、はしたないかもしれないが、通行人は誰も気にも留めていなかった。

俺がこの世界でやっと存在が確認できるようになっても、どこか今までと変わらない感じがしている。

すれ違う人々は、俺のことを見ていない。

確かに俺はそこにいるのに、まるで眼中にないかのように通り過ぎていく。

それは俺だけに限ったことではないだろうし、以前からこの世界はそうだったのかもしれないが、せっかく目に見える存在になったというのに、それでは寂しい気もしている。

だからこそ、一期一会であっても、今の俺は一つひとつの出会いを大切にしていた。

先程の店員との簡素なやり取りもそうだし、これから出会うであろう依頼人たちとの関係に至るまで、俺は出会いそれぞれに楽しみを見出して生きたいと思っている。

かつて自分の生きる世界を否定していた俺にしてみれば、大きな成長だと思う。

ふと、遠くまで続く桜並木を見上げてみた。

相変わらず美しい薄ピンクの花を散りばめて、風に揺れるたびにひらひらと花びらが舞っていく。

そして視線を下に落とすと、彼女が芝生の上で体育座りをして待っていた。

「すまん。待たせた」

俺が近づいて声を掛けると、ヒメコはくるっと顔だけこちらに向けた。

「別に。まだ5分前だし」

ヒメコは白いパーカーにジーンズという出で立ちだった。

そして、横には大きめのキャリーケースもあった。

「親とはちゃんと話たのか?」

「一応ね。納得したかどうかは別だけど」

「そうか」

目を細める彼女の横に立ち、俺はバッグから書類の入ったクリアファイルを取り出した。

「これ、新しい家のルールと契約書な。それと」

もう一つ、俺は一枚の茶封筒をヒメコに渡した。

「これは俺からの餞別。大事に使えよ」

ヒメコは封筒を見て、目を丸くした。

恐る恐るそれを手に取り、中身を確認する。

「こんなにたくさん、いいの?」

「色々と最初は金がかかるだろうから。それぐらいはな」

「・・・ありがと」

ヒメコは申し訳無さそうにしながら、封筒と書類をキャリーケースにしまった。

「荷物はそれで全部か?」

「うん。大きな物は諦めた」

「そうか」

これで、ヒメコの依頼は完了した。

彼女は高校を卒業後、親元を離れて都内で家を借りながら、仕事をする予定だった。

借りる予定の家は、サクラのとある知り合いが提供してくれた。

サクラがいなくなってから、俺が代わりに話を進めて、先日ようやく話がまとまったのだ。

「もう、未練はないんだよな」

「もちろん。むしろこんな早くにこの町から出られるだけ、御の字だよ」

相変わらずのヒメコの調子に、俺は少し安心した。

「それで、依頼料なんだけれど・・・」

すると今度は、ヒメコは少し言いにくそうに聞いてきた。

「いつまでに払えば良い?」

「ああ、そのことなんだが。依頼料イコール家賃と生活費にしろってさ」

「えっ?」

「サクラはもともとそうするつもりだったらしい。これからお前が暮らしていく家の家賃と光熱費の約数年分。諸々含めると、それぐらいの金額にはなるからって。だから、毎月ちゃんと稼いだ金額をそういう形で支払うようにってさ」

「は、ははっ」

それを聞いたヒメコは、急に笑いだした。

「なんか、心配して損した」

どこかほっとした様子のヒメコに、俺も自然と笑みがこぼれた。

「・・・最後にお礼ぐらい言わせてほしかったな」

「そうだな」

そして唐突に、ヒメコは寂しそうな顔を浮かべる。

「まあ、感謝の気持ちがあるなら、その分しっかり生きて、毎日それなりに幸福になることだな。それが一番の恩返しだと思えば良い」

「そんなのでいいの?」

「それ以上のことなんて、彼女は望んでないよ」

「そっか」

ヒメコは少し考え込んでいたが、やがて両手で自分の頬を軽く叩き、すくっと立ち上がった。

「じゃあ、新しい人生、楽しんでくるよ」

「ああ」

今日の天気と同じくらい、清々しい表情のヒメコを、俺はそのまま送り出した。

桜並木の川辺を離れ、一緒に駅まで歩いていく。

しかし、途中の神社の手前で、ヒメコは立ち止まった。

「・・・ここまででいいよ」

「え?」

「ここから先は、私一人で大丈夫」

そして、ヒメコは振り向き、俺に深々と頭を下げた。

「ずっと私を見守ってくれてありがとう。ここからは、私は自分の力で生きていきたい」

そして、神社の方に顔を向けた。

「あの人も、そう言っている気がするから」

俺も同じ方に視線を向ける。

目の前で堂々とそびえる鳥居が、陽の光を受けて少し輝いているように見えた。

「達者でな」

それだけ言うと、ヒメコは「うん」と頷いた。

「さようなら、カズオさん」

俺はそれ以上何も言わず、ヒメコの後を追うこともしなかった。

だが、途中でまたヒメコはくるっと振り向いて、俺にこう言った。

「やっぱり、はじめましてって感じじゃなかったよ。なんというか、お兄ちゃんみたいな感じがしてた」

そう言って手を振りながら歩き出したヒメコに、俺は微笑みながら手を振り返した。

俺は今でもお前の兄貴だ、という言葉を飲み込んで。

「さて」

ヒメコの姿を最後まで見送った後、俺はまた鳥居をもう一度見上げる。

俺の新しい人生が始まった場所。

俺にとってのオアシスであり、避難場所でもあった。

ここで多くの出会いと、そして別れがあり、また新しい季節が始まる。

ここ最近、忙しくて立ち寄れなかった。

少し顔を出して、お賽銭でもしようかと、俺は石段を昇った。

だが、一歩一歩踏み出した矢先、乾いた鈴の音が聞こえてきた。

鳥居をくぐった先で、俺は思わず足を止める。

「・・・カズオさん」

鈴の音とともに、最愛の人はまた、俺の目の前に現れた。


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