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黒幕は現れる

火事から一晩明けた土曜日。

俺たちはいつもの神社でヒメコを待っていた。

昼前にヒメコは黒いバッグを背負って現れた。

「遅かったね」

「親の監視がまた厳しくなってさ」

ヒメコはさらっと言い切ってベンチに座った。

「また、勉強勉強うるさく言われてさ。本当に勘弁してほしいよね」

ヒメコは苦笑いする。

「私、今それどころじゃないってのにさ」

そして顔を俯かせ、しばらくしてから震えだした。

「やっぱり怖い?」

サクラがそう尋ねると、ヒメコはこくりと頷いた。

「そりゃ怖いよ。殺されるかもしれないんだから」

そう言った後、急に自嘲気味に笑いだして言った。

「おかしいよね。前まで自分なんてどうでも良くなれって思っていたのに、いざ危険が迫ると体が震えてくるんだから」

「人間だから普通のことだよ」

サクラはしれっとそう答えた。

「そうなんだろうけれどさ。でも・・・」

ヒメコは今の自分に見合う言葉を見つけようとしていた。

けれど、頭が回らなかったのか、もう何も考えたくないのか、口を噤んでまた顔を俯かせた。

「とりあえず、昨日話した通り、しばらくは身を潜めないといけない。荷物はそれで全部?」

サクラがそう尋ねると、ヒメコは頷いた。

「オッケー。じゃあ出発しようか」

サクラはヒメコに手を伸ばす。

その手をヒメコは力なく掴んだ。

そのまま俺たちは神社を後にし、並んで歩き出す。

「両親には何か伝えた?」

「書き置きはしておいた。しばらく友達の家に泊まるって。そんな友達もいないんだけどね」

ヒメコはまた自嘲気味に笑った。

「ていうか、そんな理由でも許してくれないだろうね。正直に話しても、どこまで本気にしてくれるかわからないし」

ふんと鼻を鳴らすヒメコの顔を覗き込みながら、サクラは尋ねた。

「・・・やっぱり親が憎い?」

「そりゃ憎いよ。私を人じゃなくて所有物としかみなしていない親なんて、普通にいらないし」

サクラの問いかけに、ヒメコはまた鼻を鳴らして答えた。

「あいつらは、自分の見栄のために私を思い通りにしたいだけ。だから、いつかは復讐してやるんだ。高校卒業したら家を出て、それで自分の人生を生きて、いつか成功したら親に言ってやるんだ。あんたらの望んだ人生を歩まなくて本当によかったって」

ヒメコはまるで冗談を言うかのように気軽な感じでそう話した。

でも、その目は本気に見えた。

そんなヒメコに、サクラは「ふーん」と興味なさそうに頷く。

「成功って、具体的にどうするつもり?」

「それはまだわからないけれど、やりたいことはある」

「どんなこと?」

「・・・いつか本を書きたいと思ってる」

サクラも俺も、きょとんとなった。

「自分の体験を、いつか本にして出版したい。そういうのって、SNSとかで今話題だし」

「もしかして、それだけで食べていくつもりなの?」

夢を語ったヒメコに対し、サクラは冷静に言った。

「君もわかっているとは思うけれど、そういうのは趣味の範囲でやってみて、意外と反響があったから書籍化したっていうパターンがほとんどだよ。そういう人は別に仕事をやっていて、片手間で本とか書いているの」

「でも、他にやることも思いつかないし・・・」

サクラに言われて、ヒメコは少し拗ねたようになった。

「趣味でやるならいいけれど、それを仕事にするのは、思っている以上に大変なことだよ。商売なんだから、自分の思うような物を書かせてもらえないっていうことはざらだし」

「じゃあ何?私に普通に働けって言うの?」

ヒメコは苛立ち、今にもサクラに噛み付こうかという雰囲気だった。

「高卒の人間にできる仕事なんて、今どき限られているし、そんなんじゃ成功できない」

「そうだね。確かに真っ当な仕事なんて少ないし、稼ぎだってわずかだろうし」

「じゃあどうすればいいっての」

「無理に成功する必要ないんじゃないの?」

サクラは前を見ながら、さらりとそう答えた。

「成功するために頑張るのも立派だけれど、今の君の現実を見れば、それが簡単なことではないことは明白だし、特に具体的なビジョンもないでしょ?そういう時に成功するんだって言っても、うまくいくわけがないもの。まずは時間を掛けることが先じゃない?ある程度社会経験を積んで、自分の能力を磨く。自分の修行の時間を作ってから、何をやりたいかを明白にして、そこから成功に向けて動き出す。焦って成功を追い求めてもしょうがないよ。まだまだ君の人生は長いんだし」

サクラは俺にも言っている感じだった。

そういえば、俺にはそういう未来のビジョンはまだなかった。

今は自分の人生を生きることだけ考えていたけれど、この先どうするべきか、いつかは考えないといけないと思う。

でも、それはまだ先になるとは思うが。

「それに、君には今回の仕事の支払いもあるからね」

サクラはくるっと振り向いて、ヒメコに笑ってみせた。

「・・・あれってマジで言ってたの?」

「当たり前じゃん。ここまでかなり手間暇かけてきたんだから。すぐにではないけれど、いつかは払ってもらうからね」

サクラはそこについては妥協する気はないだろう。

これまでも、しっかり報酬は依頼人に払わせてきた。

女だと舐めて掛かって、報酬を減額しようとしてきた人間も中にはいたが、そういう奴は線路に縛られる刑を受けていたっけ。

「・・・わかったよ」

ヒメコは仕方なさそうにしていた。

どっちみち、今の自分の窮地を救ってくれるのは、俺たちしかいないのだから。


そんなこんなで、俺たちの泊まっているビジネスホテルに到着した。

フロントでサクラがヒメコを連れて何やら話をした後、ヒメコは自分の部屋の鍵を受け取った。

ある程度融通を利かせられたようで、俺たちの泊まっている部屋の隣を空けてもらった。

部屋に入ると、ヒメコは周りをきょろきょろと見回していた。

「悪くないね」

生意気な感想だったが、たぶん内心高揚しているのだと思う。

ヒメコはそのままバッグを置いて、ベッドにダイブした。

その様子を見たサクラはほくそ笑んで言った。

「ホテルなんて久々なのはわかるけれど、いつまでも修学旅行気分ってわけにはいかないからね」

「わかってる」

ベッドに顔を埋めたまま、ヒメコは籠もった声で返事をした。

「それじゃあ、何かあったら連絡してね。カズオはこの部屋に置いとくから」

「はあ!?」

それを聞いたヒメコは勢いよく顔を上げた。

「ちょっと待って!こいつも一緒の部屋に居座る気?」

「大丈夫。彼は覗きとか悪趣味なことはしないから。それは保証する」

笑いながらそう言うと、サクラは部屋を出ようとした。

「どこ行くんだ?」

「ちょっと野暮用」

今回も俺の問いに対し、サクラははっきりと答える気は無いようで、いつものようにまたフラフラとどこかへ出かけてしまった。

野暮用っていうのは、一体何をしているのだろうか。

これまで聞こうとしなかったけれど、今になって気になりだした。


日曜日は憂鬱だ。

今日が終わればまたスドウの小言や嫌味に苛まされる5日間が始まると思うと、胃が痛くなるし、休日が終わりに近づく頃には、頭の中では仕事のことが泡のように吹き出してくる。

良い気晴らしがあればいいのだが、ここしばらくの間は休日は大半を寝て過ごすことが多くなった。

それに、カズオにもあまり会えていない。

サクラの話では、今込み入った仕事をしているらしく、彼も時間は取りにくい状況らしい。

けれども、ハルのことは心配しているし、近々会いたいとも思っていると、サクラが言っていた。

ハルも、カズオに会いたいと思っている。

せめて休日くらいは、一緒の時間を過ごしたいとも。

今日も一人きりの日曜日を過ごすことになったハルは、いつになったらまた2人と会えるのだろうかと考えていた。

「ハル?」

部屋をノックするチヒロの声が聞こえた。

「もう起きてる?」

「うん。起きてるよ」

ハルはベッドからゆっくりと体を起こし、くしゃくしゃになった髪を手でほぐした。

なんだか、今日は横になってもうまく眠れない。

携帯に時刻を読み上げさせると、まだ夕飯の時間までは余裕があった。

チヒロが部屋に入ってくる音がした。

「ハル、大丈夫?」

「え?何が?」

「ここ最近、お休みも寝てばかりだし」

「ごめん。仕事が忙しくて」

「仕事、そんなに大変なの?」

心配そうな顔のチヒロが脳裏に浮かんできて、ハルは心が痛くなった。

「うん。今は繁忙期だから」

あまり母には心配をかけたくなくて、ハルは本当に辛いことは話していなかった。

それに、実の娘が障害を理由に嫌がらせを受けているなんて、母は聞きたくもないだろうから。

「そう」

チヒロの声は心なしか、元気がなかった。

「なんだか、帰ってくる時のあなたの顔、いつも辛そうだったから、ちょっと心配だったの」

きっとチヒロは一部の事実には気づいているのだとハルは思っていた。

昔からチヒロは魔法使いのように、娘であるハルのことに関しては勘が鋭かった。

「そうなんだ。ごめんね、心配かけて」

「いえ、いいのよ」

その時、ハルの携帯がベッドの上で鳴り響いた。

ハルはメロディで誰宛かを判別している。

黒電話の音は、ヒロキからだった。

「鳴ってるわよ」

「うん」

携帯を探し出し、通話ボタンを押した。

「はい。もしもし」

「ハルさん、こんにちは。ヒロキです。お休み中にすみません」

電話の向こうから元気な青年の声が聞こえてくる。

他には、車が走る音とか、信号機の音も聞こえてきた。

たぶん、外にいるのだろう。

「いえ、大丈夫です。それより、何かありましたか?」

「その、特に仕事のことではないんですが、明日の夜ってお時間あったりしますか?もしよかったら食事でも一緒にどうかと思いまして」

「えっ!明日ですか?」

「はい。美味しそうなイタリアンダイナーを見つけたので。せっかくだから、僕が奢りますよ。いかがですか?」

「えっと・・・」

明日は特に何か用事があるわけではない。

でも、男の人と二人きりでディナーというのは、少し抵抗があった。

「・・・すみません。明日というのはちょっと・・・」

やんわりと断ると、ヒロキは少し黙ってしまった。

もしかして、怒らせてしまったか。

気が弱いハルは、相手の機嫌を損ねないかどうかで、いつも神経をすり減らせることが多かった。

「すみません。急でしたよね」

しかし、ヒロキさんは怒るどころか謝ってきた。

「お休みの時にすみませんでした。もしよかったらっていうだけだったので」

「いえ、こっちこそ。なんだかすみません」

「・・・・」

その時、ヒロキが何かを呟いたように思ったが、思いの外、周りの音がうるさくて、ハルはよく聞き取れなかった。

「ヒロキさん?」

「あっ、すみません。まあ、今度お時間あるときでもいいので、また誘いますね」

「は、はい」

「それじゃあ、明日もよろしくお願いします。それでは」

「はい。失礼します」

ハルがそう言い切る前に、電話がプツリと切れた。

その様子を見ていたチヒロは、「誰?」と当然のことながら聞いてくる。

「職場の人。明日ご飯行かないかって」

「いいじゃない。なんで断ったの?」

「うん。その人、男の人だから」

そう言うと、チヒロは「ああ」と納得したように言った。

随分前に、ハルにセクハラをしてきた上司が、2人きりで食事がしたいと連絡を寄越してきたことがある。

それを知ったチヒロが、絶対に付いていくなと怒っていた。

そういう人は、障害のあるハルをカモとしか見ていないから、何をしてくるかわからない。

確かに、女性を酔わせて卑猥なことをする輩がいるというニュースも、よく報道されていたし、ハルはその時から、男性と2人きりで食事に行くことはしなくなった。

ただし、カズオは例外ではある。

根拠はないが、あの人はそんなことはしないという信用はあった。

サクラの仕事仲間というのもあるが、それ以上に、不思議とあの人は信用できると思ってしまう。

「じゃあ、明日は早めに帰ってきなさい」

チヒロはそう言ってきたが、ハルは素直に頷けなかった。

「そうしたいけれど、残業がどこまであるかわからないし」

正確には、残業をどの程度スドウから与えられるかによるのだが。

「残業続きなのはわかるけれど、たまには早めに帰してもらえるように、上司に相談してみなさい。あなた、最近無理してる感じがするわよ」

「うん」

チヒロの言うことはもっともだった。

でも、それを自分で解決できるかは自信がない。

すると、チヒロはハルの手をそっと握った。

「頑張るあなたは偉いと思う。でも、もっと周りを頼っていいのよ。まだお母さんに話してないこともあるんじゃない?」

「・・・・」

やっぱり、母はなんでもお見通しだと思う。

でも、それを今言うべきか、ハルはまだ迷っていた。

「今は言えるタイミングじゃないのなら、言いたくなった時でいいわ。お母さんはちゃんとあなたのための時間を作るから。ね?」

「・・・うん」

母の温かさが、胸の芯まで伝わってくるようだった。

「じゃあ、お母さん、そろそろご飯の支度するから」

そう言って、チヒロは手を離して部屋を出ていった。

明日は、少し上司と話をしてみよう。

ちょっと早めに帰らせてもらって、母との時間を少し作ってみよう。

明日は、それぐらいのわがままも許してもらえる気がする。

なんとなく、ハルはそんな気がしていた。


翌日の正午、ハルはお昼を食べようと、自分の鞄からお弁当を取り出した。

そこに早めの足音が近づいてくる。

すぐにスドウだとわかった。

「あんた、昨日の会議資料、スキャンは終わったの?」

スドウの声は、いつものように嫌悪感を含んでいたが、どこか疲れているような口調でもあった。

そろそろ言ってくる頃だと思い、ハルも準備はしていた。

「はい。ついさっき終わらせて、別の方にクロスチェックしてもらうよう渡しました」

「は?」

ハルの返答に、スドウは眉をひそめる。

「また嘘吐くわけ?あれだけの量、あんたが半日で終わらせられるわけないじゃない」

やはり、終わらない量だとわかっていながら渡してきたのかと、ハルは落胆した。

その仕事を月曜の昼までに終わらせろと言ってきたのは、他でもないスドウである。

「その、ヒロキさんに手伝ってもらったので」

ハルがそれを言うと、スドウは一瞬体を強張らせた。

「はあ?そんなの嘘よ!」

スドウはさらに眉間に皺を寄せた。

そして、あまりにも必死に否定してきた。

「ヒロキくんだって自分の仕事があるはずよ!できるわけがない!」

「で、でも・・・」

「そんなデタラメ吐くとか信じられない!本当にあんたは・・・」

何も言わせまいとする、スドウの威圧的な声は、ハルをいつも怯えさせる。

しかし、今の声は威圧感とは違い、いつもの甲高い声色に動揺が混じっているように思えた。

それを中和するように、柔らかい声が聞こえた。

「本当ですよ。僕が声をかけたんです。あまりにも大変そうだったので」

スドウの背後から書類を持ったヒロキがゆっくりとやってきた。

彼の声を聞いて、スドウは目を見開いて、恐る恐る振り向いた。

「特に問題はないとのことでした。お疲れ様です」

そんなスドウを横切り、ヒロキはハルの机の上に、書類の束を置いた。

「ありがとうございます」

ハルはヒロキに一礼した後、自分の仕事の成果である書類にそっと手を乗せた。

「それより、スドウさん。さっきのは一体どういう意味ですか?ハルさんに無理な量の仕事を押し付けていたんですか?」

「そ、それはあんた・・・」

スドウが何かを言いかけた瞬間、ヒロキの手が素早くスドウの肩を掴んだ。

そしてヒロキはスドウにニコリと笑いかける。

その目は全く笑っていないどころか、酷く不気味だった。

それを見たスドウは、一気に言葉を失った。

「スドウさん、随分疲れているようですね。あまり無理なさらないでくださいよ」

ヒロキは今度はスドウの耳元に顔を近づけて呟いた。

「あなたには、まだやらないといけない仕事があるんですから」

スドウの呼吸は乱れ、ヒロキが肩を離した瞬間、脱兎のごとくその場から去っていった。

その一連の不自然なやり取りを、ハルは見ることはできない。

ただ、二人の様子にほんの僅かな違和感を感じたくらいだった。

「ハルさん。昨日は急にすみませんでした。お休み中に電話をしてしまって」

スドウが完全に立ち去るのを見届けた後、何食わぬ顔でヒロキはハルに声をかけた。

「いえ、大丈夫です。それより、この資料、ありがとうございました」

「お礼を言われるほどではないですよ」

ハルが一礼すると、ヒロキはいつも通りの笑顔を浮かべる。

「今日は定時で上がられるんですよね?課長から聞きました」

朝礼の後、ハルは上司に定時で帰ってもいいか尋ねていた。

上司の答えは、「特に急ぎの仕事がなければ問題ない」というもので、それ以上のことは言われなかった。

「ええ、すみません。家で用事があって・・・」

ハルがそう言うと、ヒロキは今度はハルの肩に手を乗せて、不敵な笑顔を浮かべた。

「今日も一緒に帰っていいですか?」

「えっ」

この時、ヒロキの距離がいつもより近いように感じて、ハルはまた少しだけ違和感を覚えた。

そして、なんとなく圧を感じる。

「・・・べ、別に大丈夫ですけれど」

「よかったです。では、また後ほど」

ハルの肩から手を離し、ヒロキは颯爽と去っていった。

それ以降、スドウはオフィスに姿を見せなかった。

上司によると、気分が悪くなって早退したとのことだった。

何があったのかはわからない。

そういえば、ここ数日、スドウの様子が少しおかしいとは感じていた。

何があったのかはわからない。

けれど、ハルはここまでの違和感をそこまで深く考えなかった。


6時頃になると、すっかり空は暗くなっていた。

等間隔に並べられた街灯とビルの群れから漏れる明かりがそこら中で煌々と光っているものの、すっかり日が落ちるのが早くなった。

小さい頃、まだ目に光が宿っていたハルは、夜が来ると何故か不安になった。

明かりがなければ、途端に真っ暗な闇が生まれるその時間が、妙に心を落ち着かせなくするのだ。

しかし、常に闇の中で生きている今のハルにとっては、闇に対する不安などはもう感じない。

人の適応能力というべきか、それが日常になってくると、特に何も感じなくなる。

夜も昼も、明るい場所も真っ暗な場所も関係ない毎日に、これまで何も感じてこなかったハルだったが、最近こう思うこともある。

もし、再び目が見えたとしたら、私はどうなってしまうのだろうか。

普通、目が見えたら何をしたいかが先に思い浮かぶものだが、それよりも先に、またこの目に光が戻った瞬間のことをより考えてしまう。

光を取り戻した方がよりよい人生を生きることができるのは間違いない。

しかしこれまでの日常がなくなるということは、これまでの自分の常識と生き方すらも消えてしまうように思う。

光がある人生の方が良いのは言うまでもないが、これまでの人生が全て不幸だったわけではない。

むしろ、光がない分、他の感覚が発達したことで、ハルは別の観点から人や物事を捉えるようになった。

そして、光を失っていても素敵な出会いはあった。

サクラにカズオ、アケミ、そしてシンゴにヒメコ。

この生き方でなかったら、彼らに会うことはなかったかもしれない。

そう思うと、これまでの日常が失くなってしまうことが、酷く空虚に思えてしまうのだ。

「ハルさん」

ぼうっと妙な感慨に浸りながら、会社の出入り口で待っていると、ヒロキの声と足音が聞こえてきた。

「すみません。お待たせしました」

「いえ、大丈夫です」

とは言いつつも、先程バスは発進してしまった。

また次のバスが来るまで、しばらく時間がある。

「今日なんですが、少し歩きませんか?」

「えっ?」

ヒロキからの提案にハルは少し戸惑った。

「バスはもう行ってしまいましたし、次の停留所まで行けば、バスも来ていると思いますので」

「あ、それなら別にいいですけれど」

次の停留所までだったら、そこまで遠い距離ではない。

「じゃあ、早速行きましょうか」

そして、ヒロキがハルの手を掴んで歩き出した。

その時のヒロキの手はなんだか冷たく感じた。

「そういえば、ミヤタ工務店の案件は片付きましたか?」

「あれはまだ少し掛かりそうです。今、データを整理しているところなので」

「そうですか」

それ以降、ヒロキから会話が振られることはなかった。

いつもなら、それなりに話題を出してくるのだが。

それに、ハルの手を握る手が、少し強いようにも思った。

ハルは周りの音で周囲の状況を把握している。

車の走行音、風の通る音、人の足音や街の喧騒。

その全てで今の自分がどこに居るかがわかり、何が起きているのかを把握できる。

しかし、初めて来るところではそれらの情報だけで全てが判断できるわけでもない。

「あの」

「なんですか?」

「そろそろバス停ですか?」

「ええ、もうそろそろです」

ハルは今、ヒロキに手を引かれながら歩いている。

それに、次のバス停まで、初めて徒歩で向かっていた。

つまり、ハルはその周辺の情報をよくわかっていなかった。

歩いて10分ほどで、ハルは立ち止まる。

「どうしました?」

「・・・ここはどこですか?」

今、ハルの周辺では聞こえるはずの音がほとんど聞こえていない。

車の走行音も、街の喧騒も、人の足音も、そのどれもが途中で遠のいた。

今、ハルはどこにいるかが把握できていなかった。

「どこって、もうすぐバス停ですけれど」

「でも、途中で方向を変えていましたよね?緩やかにですけれど」

音以外の感覚でも、ハルは自分の場所を認識している。

ヒロキが途中で緩やかな曲線を描くように歩いていたこともなんとなく理解していた。

「ここ、バス停から離れていますよね?」

ハルの言葉に、ヒロキは舌打ちで返答した。

「ヒロキさん?」

「あんたの感覚を舐めてたな。すまなかった」

次の瞬間、ヒロキの腕がハルを強引に引き寄せて羽交い締めにした。

「なっ!」

「騒ぐなよ。余計な手間をかけたくないんだ」

さらに、嗅いだことのない妙な香りが漂ってくる。その香りが徐々に近づき、ハルの口元が香りのきつい布で塞がれた。

その瞬間、ハルは意識を失った。


ここまでヒメコのことを観察してきた俺だが、その過程でわかってきたことがある。

俺は、元いた世界のヒメコと、こっちの世界のヒメコを同じ人格の人間だと思って見てきた。

なぜなら、アケミさんもハルも、強いて言うならリョウジや俺の両親までも、2つの世界では特に人格に変化はなかったから。

ここでも、彼らは俺の知る人たちだった。

しかし、ヒメコに関しては、俺が知っている彼女とは異なっている。

俺の知るヒメコは、策略家で人の弱みを握ることや懐に入る術に長けており、絶対に自分が物事の中心でなければ気が済まず、その障害になる存在は徹底的に蹴落とすタイプの人間だった。

しかしこの世界のヒメコは、不器用な上に常に斜め上から物事を見ていて、独りでいることを望みつつも誰かとの繋がりを求めている、そんな少女だった。

頭の回転が早いところは似ているが、こうも性格や行動が異なるのは不思議だった。

生育環境でこうまで人は変わってしまうものなのだろうか、と思いながらも俺は気づいた。

この世界での俺は生まれてこなかったわけだから、彼女は本来俺が被るはずだった被害を、全てその身に引き受けてしまったのだ。

つまり、この世界のヒメコは、俺の生き写しのようなものだった。

だから時折俺は、彼女の感情や行動を理解できたのだろう。

今の彼女は、俺の妹というよりも、もう一人の俺のような存在になっていた。

そんなヒメコは、ベッドの上でうつ伏せになりながら漫画を読んでいる。

傍らには、ポテトチップスとチョコレート菓子の袋、アイスのカップが散乱していた。

一昨日からずっとこの調子である。

「ねえ、ポテチないの?」

不機嫌そうな口調から、「退屈で死にそう」というニュアンスが読み取れた。

しかし、俺にはそれを解消してやる術はない。

せいぜい、こうしてお菓子や漫画を提供してやるくらいだ。

「それが最後だった」

ベッドの傍らのメモ用紙にそう書いてやる。

「ならまた買ってきてよ。それぐらいできるでしょ?補充しといて」

すっかり俺は彼女の小間使いになってしまった。

昨日と今日で、彼女はお菓子を食い漁ると、その度に俺に買いに行かせた。

やれやれと思いつつ、俺は断ることなくそれらを買いに行った。

あくまで退屈そうにしているヒメコへの同情心でそうしているだけで、本当に仕方なくである。

やはりこっちの世界でも、俺はヒメコに良いように使われてしまっていた。

部屋を出て、廊下をしばらく直進し、右に曲がった先にあるフリースペースへと向かった。

飲み物の他に、お菓子やアイスの自動販売機もある。

少し高いものの、これ以外に真っ当な手段で物を手に入れられる場所がない。

小銭を取り出し、ポテトチップスとアイスを買った。

サクラは今何をしているのだろうか。

そろそろ犯人を追い詰める手がかりも見つけているといいのだが。

いつまでもこんな生活を送るわけにもいかないし、俺の財布も軽くなり始めている。

自動販売機から出てきたお菓子とアイスを拾い上げ、そそくさと部屋に戻った。

ドアを開けると、テレビの音が聞こえた。

漫画を読み終えて、次はテレビに娯楽を求めたのかと思った。

しかし、部屋に入るとヒメコの姿はなかった。

トイレかと思い、玄関の横のバスルームを確認するが、扉には鍵が掛かっておらず、無論誰もいなかった。

嫌な予感がして辺りを探ってみた。

ヒメコのバッグは置かれていたが、テーブルに出していた彼女の財布とスマホ、そしてベッドの横にあった彼女の靴が失くなっていた。

「・・・クソッ」

すっかり油断していた。

何度も自動販売機を行き来していたが、その度にヒメコはちゃんと部屋にいた。

すっかり俺は安心しきっていた。

急いでサクラに電話を掛けるが、すぐに繋がらなかった。

次にメールを送る。

「ヒメコが部屋にいない。彼女の財布とスマホと靴が失くなっている」

これはどやされるどころじゃすまないだろう。

このホテルの部屋はオートロックだから、鍵が無い限り外から部屋に侵入することはできない。

彼女の貴重品や靴がないことからも、ヒメコが自分から外に出たということになる。

俺は廊下に出てヒメコを探すことにした。

やはりどこにもいない。

一旦、ロビーに降りようと思い、急いで階段を駆け下りた。

ロビーに降りたところで、サクラから電話が来た。

「もしもし?」

「もしもし?妹ちゃんのことだけど、こっちからGPSを使って後を追跡しているから心配しないで」

「どういうこと?」

「発信器。彼女のスマホに仕込んどいた」

いつの間にそんなことをしたのかはこの際置いといて、今はヒメコを追わなければならない。

「妹ちゃんは国道をまっすぐ北に移動している。たぶんタクシーに乗っているみたいだね」

「どうすればいい?」

「たぶん、自宅の近くに行くんじゃないかな?このルートだとそう思う。とりあえず、そっち側を当たってみて。あたしもなるべく早めに向かうから」

「わかった」

サクラは俺の失態を叱ることなく、終始冷静な態度だった。

単に彼女が優しいというわけでもないだろう。もしかすると、サクラはこうなることを予想していたのかもしれない。

どこまで彼女が事態を想定していたのかはわからないが、ひとまず俺は走り出した。

できる限り、早くヒメコに追いつくために。


タクシーから見える町の様子を眺めながら、ヒメコはずっと思い出していた。

ミクとの出会い、そして彼女からの告白。自分がリョウジとアイリにミクを売ったこと。そしてリョウジと付き合いだしてからの地獄。

人生は運命で導かれるのではなく、自分の小さな選択の結果が連なって出来ているものだとヒメコは思っている。

つまるところ、自分が苦しんでいるのは、自己責任ということになるのだろうか。

そんなつまらない一言で済ませられるのは、どうにも腑に落ちない。

しかし、もっとベストな選択をすることができたはずだという後悔は常にあった。

「はい。着きましたよ」

運転手ののんびりとした声で、ヒメコは我に返る。

「ありがとうございます」

会計を済ませ、自動で開いたドアからヒメコは恐る恐る降り立つ。

目の前には、夜の闇に包まれたあの神社が待ち構えるように佇んでいた。

去りゆくタクシーを見送った後、深く息を吸って、吐き出すと同時に目の前の石段を昇っていった。

境内は真っ暗だった。

スマホの明かりを頼りに、河津桜のベンチを目指して進む。

すると、暗がりの中で誰かが動くのが見えた。

「ミク」

「・・・・」

間違いなく、ミク本人だった。

学校から直接来たのか、制服姿でベンチに腰掛け、ヒメコをじっと見据えている。

「急にこんなところに呼び出して、今更何の用?」

「・・・・」

ヒメコにとっては一か八かの行動だった。

ミクが犯人かどうかはともかく、伝えておかなければならないことがあった。

だから、ミクに一方的にメッセージを送り、カズオの目を盗んでホテルを抜け出したのだ。

「言っとくけれど、謝罪なら受け取る気はないから」

ミクに先にそう切り捨てられ、ヒメコは固まった。

「まさか、本気で謝罪するつもりだったの?自分がもうすぐ死ぬからって?」

ヒメコが固まるのを見て、ミクは嘲笑った。

「あんたも馬鹿だよね。自分の身に危険が降り掛かって初めて謝ってくるんだから。でもそんな謝罪なんて、反省の気持ちがないのはあきらか。それにあんたからの謝罪なんて端からいらないし」

冷たく言い放つミクを見据えつつ、ヒメコは拳を強く握りしめた。

「でも、伝えておかないといけないことがある」

「はあ?何を?命乞いなら聞いてやるけれど?」

ヒメコは俯きながら、ここまで考えてきたことを紡ぎ出した。

「私、怖かったんだ」

その言葉に反応するように、神社にからっ風が吹き、ヒメコとミクの髪をさらっていった。

「ミクから告白された時、どうすればいいのかわからなかった。私としては、普通に異性から告白されて、お付き合いして結婚するのがスタンダードな生き方だと思っていた」

そこまで聞いて、ミクは鼻で笑い始めた。

しかし、ヒメコは怯まずに続ける。

「どうせ、両親に相手の学歴とか職歴を判断されて、彼らの基準から外れたら反対されて、それでもやっぱり結婚してっていうストーリーが、漠然と自分の中にあった。同性から告白されるなんて、まさか自分がそういう状況に陥るとは思ってもみなかった。ミクのことは好きだった。でも、それは友人として・・・」

「うるさい!」

ミクが甲高い声で叫んだ。

「うるさい!耳障りなんだよ!そんな美辞麗句なんか今更どうだっていい!好きとか友人だとか、そんなセリフなんてあんたから聞きたくないんだよ!」

しかし、ヒメコは怒鳴られても怯まなかった。

憎しみのこもった目で睨みつけるミクに対し、ヒメコはただじっと見据え続けていた。

「あのときの恐怖は、友人との関係が崩れることの恐怖よりも、自分が普通の道から外れることの恐怖の方が勝っていたんだって、今になってわかった。私は普通でいたかった。周囲にそう思われていたかった。そんな自分を守るために、あんたをアイリとリョウジに売ったんだって」

そう言い切って、ヒメコはまた目を逸した。

「馬鹿なことをしたってのはわかってる。そもそもあの頃から、私はすでに普通から外れた道を歩んでいたし、今では普通になりたいなんておこがましいとも思ってる。今更謝っても手遅れなのも理解してる。自分が馬鹿なことをしたって罵られて当然だし、こうなったのは当然の報い」

そしてヒメコはズボンのポケットから、何かを取り出し、ミクの方に放った。

「だから、そっちがケリをつけてよ」

地面に転がったそれを見て、ミクは瞠目した。

「・・・どういうつもり?」

「見ず知らずの誰かに殺られるより、あんたの方がまだマシってだけの話」

ミクはそれを恐る恐る拾い上げる。

キャンプ用品として売られている、折りたたみ式のナイフ。

小さいながらも、扱い方と刺す場所によっては致命傷を与えられる。

柄のボタンを押すと、銀色に輝く鋭利な刃が柄から弧を描いて出てきた。

「どうやるかはあんたに任せる。一発でケリをつけてもいいし、何度も刺しまくってもいい」

「何を考えてるわけ?」

「もう何もかもどうでもよくなった。だから早く終わらせたい。それだけ。それに、私のことが憎いなら、自分の手で片を付けるべきでしょ?」

ミクはナイフを取って立ち上がり、見開いた目でヒメコをじっと睨んだ。

彼女の呼吸は荒くなり、震えるもう片方の手もナイフの柄を握る。

ヒメコは冷めた目でミクを見ながら、十字架を作るように両手を広げた。


サクラのナビ通りに辿り着いた先は、あの神社だった。

どういうわけか、この場所と俺は何かしらの結びつきがあるように思えてならない。

サクラはこの場所にパワーが集まっているかのようなことを言っていたし、俺はたぶんここに引き寄せられやすい性質なのかもしれない。

確かにこの場所にいると、妙な安堵を感じるし、とりあえずここに来れば、何か天啓を得られるような気がしている。

だがこの時ばかりは、いつもの神社が不穏な雰囲気を漂わせているように思えてならなかった。

境内に向かって駆け出すと、丁度、社を背にしてヒメコが両手を広げて立っていた。

そして、彼女と対峙するように、三編みのあの少女が立っている。

ヒメコのかつての友人であるミク。

彼女は何かを構えるように身構えていた。

嫌な予感がしてすぐにミクに接近する。

「うっ!」

しかし、その矢先にヒメコの体がビクンと震え、背筋を仰け反らせて固まった。

「おいおい。そんな自分勝手な終わり方は許されないよ」

ヒメコの背後から、ポケットに手を突っ込んだ不気味な笑顔を浮かべる男がゆっくりと近づいてきた。

間違いなく、ヒメコが街で援交しようとして出会った、エイドだった。

「君にはがっかりだ。結局、全ての責任を投げ出したくて、こんな茶番を演出するなんて」

エイドは固まったまま動けなくなったヒメコの膝を蹴り、彼女を転ばせる。

「ぐっ!」

「君にはこれから責任の分だけ苦しんでもらわないと。そうでないと彼女の苦しみとの釣り合いが取れないからね」

そしてヒメコの胸ぐらを掴み、拳で思い切り顔を殴りつけたのだ。

気づいたら俺は走り出していた。

背後からエイドの後頭部に向けて拳を振りかざした。

しかし、次の瞬間には、腹に強烈な蹴りを入れられ、俺の体は吹き飛んだ。

「ごほっ!」

思わず胃の中のものを吐き出しそうになった。

「それと君。人の背後から襲いかかるとはね。言っとくけれど、俺には君が見えている。あの日、街で彼女と俺が会ったときからずっとね」

エイドは薄ら笑いを浮かべて、俺にゆっくりと近づいてきた。

そして、俺の髪の毛を掴み、地面に押し付けてきた。

しかし、俺も伊達にサクラから訓練を受けていたわけではない。

空いている腕で奴のみぞおちを殴り、怯んだ隙に奴の足を蹴りつけた。

「うおっと」

奴は俺の蹴りをかわし、髪から手を離して距離を取った。

「嗅ぎ回るハエだと思っていたけれど、なかなかやるじゃないか。あの女もそうだが、鬱陶しいことには変わりないけれどね」

余裕ぶった笑みを浮かべるエイドの顔に、底知れない嫌悪感を抱く。

相手の挑発には絶対に乗るな。常にこちらが上であると思わせることが大切だ。

そうサクラから教わっていたから、少しは冷静にはなれた。

「そこに何かいるの?」

「ああ。俺には見えているけれど、君には見えない相手がね」

困惑するミクに、エイドは微笑みかけていた。

その瞬間に殴りかかるが、すぐにエイドにかわされ、直後に後頭部を殴られた。

頭が強烈な振動で揺れ、転がったまますぐに立てなかった。

「残念だが、君の実力では俺には勝てない。それに、逆転もありえないから」

すると、エイドは自分のポケットからスマホを取り出し、俺に画面を見せつけた。

「友人から連絡が来てね。彼女をこちらで預からせてもらっている。下手に何かするようなら、命の保証はしない。わかった?」

スマホの画面には道路に横たわるハルの姿があった。

スーツを着ているし、顔もよく見えなかったが、長い黒髪と鈴のついた白杖が映っていたから、俺にはすぐにわかった。

「そういうわけだから、そこで大人しくしていてくれ。こっちはこれからやることがあるから」

俺は立ち上がるものの、鼻から血が滴っていることに気づいた。

先程、後頭部を殴られた痛みと腹を蹴られた激痛も、まだじんじんときている。

「さあ、それをこっちに」

エイドはナイフを持ったままのミクに近づき、手を差し出した。

「これでようやく君の悲願も達成できるんだ。君の手を汚さずにね。おめでとう」

「・・・・」

ミクはエイドを見つつも、その目は怯えているようにも見えた。

「どうした?」

「もういいじゃん。彼女も本気で反省してなかったら、ここまでしないよ」

「いや。彼女は反省なんてしてないよ」

そう言うと、エイドは倒れて動かないヒメコのズボンを漁り始めた。

そして何かを掴み取り、ミクに見せつけた。

彼女が持つナイフと同じものだった。

「君に刺してもらうと見せかけて、本当は君を殺すつもりだったんだよ」

それを見たミクは目を見開く。

「この子は結局、自分のことしか考えていないんだ。リョウジもアイリも、世界中にいる同じような人種なんて、考えることは一緒さ」

そしてエイドは、ナイフの刃を取り出し、それを逆手に持って、ヒメコの髪を乱暴に掴んだ。

「うっ!」

ヒメコは唸るものの、体が動いていなかった。

もしかしたら、エイドの力でそうされているのかもしれない。

やはり奴もまた、サクラのような能力を持っているようだった。

「ただ命を奪うことはしない。まずは、ミクと同じ屈辱を味わってもらう」

そして、ナイフをヒメコの髪に押し当てた。

「なんで・・・」

「ん?」

少しでもヒメコに危害を加えられたくなくて、俺はよろめきながらもエイドに尋ねた。

「・・・なんで、ヒメコと最初に会った時に、殺さなかった?」

「それはまあ、情報収集かな」

エイドはさも当たり前かのような口ぶりでそう言った。

「手を汚す以上、まず自分が殺そうとする相手がどういう人間なのか知っておきたいからね。もちろん、リョウジとアイリにも、同じように会ってみたさ。おかげで彼らが筋金入りのクズだったのはよくわかった。しかし・・・」

エイドはヒメコの顎を手で持ち上げて、彼女をじっと見つめた。

「この子に関しては、まあ、どちらでもないという感じだった。だから、少し猶予を与えてあげたんだ。もしかしたら、何か面白いことが起きるかもしれないって。でもその結果がこれなら、俺の期待外れだったようだね」

そして、再びヒメコの髪にナイフを押し当てた。

「さあ、おしゃべりは終わりだ。君もよく見ているといい。そして自分の無力さをとくと味わうんだ」

エイドは立ち上がろうとした俺を見て言った。

そんなエイドに向かって、俺は走り出し、思い切り拳を振り上げる。

だが、その一撃も虚しく、先にエイドの回し蹴りが俺の顔面に当たった。

「ぐおっ!」

再び吹き飛ばされ、俺は地面に伏した。

「全く。君は馬鹿なのか?」

そんな俺を、エイドは見下すように睨みつけて、溜息を吐いた。

そしてヒメコを離して、スマホを取り出し、俺に画面を見せつける。

「これが虚仮威しだとでも思っているわけか?俺も舐められたものだ」

そして、スマホを操作して、電話を掛ける素振りを見せた。

「いいだろう。まずはペナルティだ」

周りが静かな所為で、呼び出し音が俺にも聞こえてきた。

「もしもし?俺だ。すぐに彼女を・・・」

しかし、エイドはそこまで言いかけて、ゆっくりと背後を見た。

「残念。そう簡単にいかないんだな。これが」

いつの間にか、奴の背後にスマホを持ったサクラが立っていた。


少し前。

ハルを眠らせることに成功したヒロキは、彼女を道端に寝かせ、両手を背中に回して、両足も含めてガムテープで固定し、その様子を写真に撮った。

この辺りは倉庫などが密集しており、人がほとんど通らないことはリサーチ済みだった。

あとは、この写真を「友人」に送ってから、用意していた車にハルを乗せて、指定の場所に連れて行くだけである。

何もかもが順調だった。

ここまで計画がうまくいくのだから、やはり「友人」のことは馬鹿にできない。

「すみません」

「は?」

しかし、写真を送信した直後に、背後から女の声がして、ヒロキは思わず振り向いた。

その直後に、顔面に強烈な一撃を食らい、ヒロキは地面に倒れ伏した。

グラグラした光景の中で、黒いパーカーを着た女が、拳で殴りつけた状態で立っているのが見えた。

彼女の首には、大きなヘッドホンがぶら下がっていた。

女はそのまま倒れるヒロキに馬乗りになり、もう数発ほど顔面を殴りつけてきた。

「な!ぐわっ!てめえ・・・」

抵抗しようとしたものの、体に力が入らない。

まるで、急に力という力が失われたかのような脱力感に襲われた。

「スマホ、よこしな」

殴られた上に動けなくなったヒロキから、女は強引にスマホを奪い取った。

よく見ると、以前に帰り道でハルを送っていた時に立ち話をしたあの女だった。

彼女とは連絡先を交換し、「友人」の指示通りにその情報を共有していた。

この女の行動は、こちらで把握していたはずだったのに。

女はヒロキのスマホをポケットにしまった。

そして、今度はハルに近づき、彼女の体からガムテープを外して、その顔に手を軽く当てた。

すると、ハルはゆっくりと体を起こし始めた。

「・・・サクラさん?」

「ごめん。助けるのが遅れて」

「助けるって一体・・・あっ」

ハルは思い出したようにはっとなる。

そして、サクラと呼ばれたその女は、ヒロキのことをじっと睨みつけた。

「あんたのことは前から調べさせてもらっていた」

そう言いながら、サクラはハルを助け起こした。

ヒロキは荒く息を吐いて、サクラを睨みつける。

「・・・いつからだ」

「3ヶ月ぐらい前からかな。ハルが職場で嫌がらせを受けている話を聞いて、その調査をしていた時に、あんたの存在を知った」

「何?」

「ハルはあのスドウとかいう女にいじめられている。でも、それはほんの表面的な事実に過ぎない。本当はあんたがスドウを脅して、ハルに嫌がらせをするように指示を出していた。言っとくけれど、これはスドウ本人の証言。私が前に軽く問い詰めたら、しっかり白状してくれたよ」

「あの女・・・」

ヒロキは苦々しい顔を浮かべる。

しかし、まだ体に力が入らない。

「・・・どういうことですか?」

ハルは状況が飲み込めない状態で、サクラとヒロキにそう尋ねた。

「まず、私が調べた情報をもとに、少し推理を加えて話をするけれど」

サクラはポケットに両手を突っ込みながら言った。

「まず、このヒロキって男は障害者じゃない。障害を持っていたのは、彼のお兄さん」

その言葉にヒロキは目を見開く。

「これは私の情報筋と聞き込みによってわかった。スドウは昔、この男のお兄さんを学生時代にいじめていた。お兄さんはADHDと学習障害を抱えていて、行く先々でいじめにあっていた。その所為で不登校になって、それから人間不信のまま引きこもりになっていた」

「やめろ」

「持っていた手帳はお兄さんの物でしょ?2年前、お兄さんが自殺したときにでも手に入れたんだよね?確かお兄さん、自宅で発見されたんだっけ?首を吊った状態で」

「うるさい!それ以上言うな!」

憎しみの籠もった目で、ヒロキはサクラを睨みつけた。

しかし、サクラは一向に怯まずに推理を続けた。

「つまるところ、あんたにはスドウに復讐をする理由があった。ここからは、私の想像も織り交ぜて話すけれど、まず、あんたは同じ職場にスドウが居ることを知ったか、もしくはスドウを追ってハルの会社に来た。スドウは相変わらず障害を持っているハルをいじめていたけれど、あんたはスドウの子供も発達障害を持っていることを知り、ある形で復讐をしようとした。おそらく、あんたはスドウに過去の兄に対する行いを社内や世間にばらすとか言って脅して、彼女にハルをいじめるように指示した」

ここまで言って、サクラは溜息を吐いた。

「・・・私がわからないのは、なんであんたがスドウにハルをいじめさせたのか。復讐なら、直接スドウを苦しめればいいはず。それにハルを巻き込んだ理由がわからない。それについてはどうなの?」

そして、サクラは倒れ伏したままのヒロキを指差した。

「・・・・」

ヒロキはサクラを睨んだ後、ゆっくりと困惑するハルに視線を映した。

「・・・不公平だからだ」

「どういう意味?」

「この女は、目が見えないっていうだけで周りからちやほやされる。困ったときには手を貸してもらえる。なのに、俺の兄貴はそうじゃなかった」

ヒロキの鋭い、憎しみを込めた声に、ハルはびくりと体を震わせた。

普段のヒロキからは想像もできない声だった。

「同じ障害者なのに、見た目でわからないからって、ずっと兄貴はいじめられてきた。障害の所為でできないことを見下され、社会から拒絶され、忌み嫌われていたんだ。兄貴はずっと生きづらさを抱えさせられて、死ぬほど苦しんでいた。最後は鬱病になって、一歩も部屋から出られない人生を送る羽目になった。発達障害を抱えていると言っても、周囲は信じなかったんだ」

ヒロキは歯を食いしばり、ただただハルを睨むだけだった。

サクラはそんなヒロキを冷たい眼差しで見下ろしていた。

「目に見えるか見えないかだけで、なんで障害者が区別されなければならない?そんなの間違っている。この女だって、目が見えないってだけでそうやって周囲から同情されて、決して存在を否定されたりしない。そんなの、不公平じゃないか。だから俺は教えてやったんだ。この女に、社会の厳しさをな」

「それだったらあんたが自分でやればよかったはず。なんでスドウを使ったの?」

サクラが尋ねると、ヒロキは狂ったように笑いだした。

「あの女なら、障害者を苦しめる方法をよく知っているからさ。あいつは兄貴をいじめていたくせに、自分の子供が最近になって発達障害だとわかってから、急に丸くなろうとしたんだ。それまでハルをいじめていたことも謝罪しようとしていたぐらいさ。あの女は後悔していた。だから、俺は思いついたんだ。改心しようとしている人間が一番苦しむ方法を」

「つまり、スドウを脅迫して、引き続きハルをいじめさせようとしたってわけ?」

「ああ。そうだ」

嫌悪感を抱くようなヒロキの笑みに、サクラは眉を潜める。

「俺はただ言ってやっただけさ。『障害者を殺したいぐらい憎いなら、ずっとそうすればいいだろ』ってな。あいつは嫌がりながらも引き続きハルをいじめていた。結局、ああいう人間はそういう才能には特化しているんだ。いくら反省しようとしたって、それは変わらない性質なんだよ」

ヒロキの話をそこまで聞いたサクラは、肩をすくめて溜息を吐いた。

「・・・なんでですか?」

そのままヒロキに何かを言おうとしたものの、ハルが先に震える声で言葉を投げかけた。

「俺がスドウをそそのかした理由か?それならさっき話しただろう。これ以上何を知りたいんだ?」

「そうじゃないです。なんで、あなたは私をかばったりしたんですか?」

「は?」

「スドウさんをけしかけて私をいじめてきたのはわかりました。でも、なんでその時にあなたは私をかばうような真似をしたんですか?」

ハルは声と体を震わせながらも、ヒロキに尋ねる。

「私のことが憎いなら、スドウさんに立ち向かうようなことはしなくていいのに」

「・・・・」

ハルの問いに対し、ヒロキは目を逸らして黙った。

「・・・エイドの指示に従っただけ、なんじゃない?」

横からサクラがそう言うと、ヒロキは目を見開いた。

「あんたと連絡先を交換した時に、少しバグを仕掛けさせてもらった。そこからあんたの通信履歴を追ったけれど、あんたはトモチャでエイドとやり取りしていたよね?」

ヒロキは答えないものの、態度からして図星であることは間違いなかった。

「スドウへの復讐も、ハルをいじめる方法も、全部そのエイドってやつの入れ知恵じゃない?あんたがそこまで頭が回る奴には見えないし」

「なんだと?」

「さっきハルに襲いかかったのもそう。エイドがそうしろって言ったから。違う?」

「・・・・」

「彼女に恩を作って、信頼関係を築けていれば、用意に近づけるし、誘拐する隙も作れる。だからあんたはハルの味方を演じていた。そうでしょ?」

サクラはまた溜息を吐き、地面に伏したままのヒロキの前でしゃがみこんだ。

「結果はどうあれ、あんたの目論見は失敗した。そして、これまでやってきたことも白日の下に晒される。あんたはもう終わりだけれど、一つだけ言っておきたいことはある」

「なんだ?」

ばつが悪そうに顔を背けるエイドに対し、サクラは見下した顔で囁いた。

「ハルは、あんたが思っている人間とは違う。彼女は彼女なりに、世間の冷たい視線を浴びているし、不条理な目にも遭ってきている。目が見えないっていうだけで、スドウ以外からも厳しい言葉や扱いを受けてきた。あたしは彼女をずっと見てきたから、そう断言できる」

そして、サクラはヒロキの髪を掴み上げ、彼を据わった目で見据えた。

「でもね。ハルはあんたと違って、その不条理をずっと受け入れて、それでも誰にも八つ当たりせずに生きてきた。社会や周囲の所為にすることの方が簡単だけれど、ハルはずっとそれに耐えて、自分の幸福を探して生きていた。あんたと、あんたのお兄さんと違ってね」

ヒロキも負けじとサクラを睨もうとするが、それ以上に強い視線のサクラに負けて、ゆっくりと目線を逸していった。

「ハルにはあんたみたいな人間から教わることなんてない。彼女は強く生きている。あんたは一生、自分を顧みずに、人や社会を恨みながら惨めに生きていけばいい。あんたみたいな小物には、そんな生き方がお似合いだよ」

ヒロキから手を離したサクラは、立ち上がって固まったままのハルの背中に手を回した。

「そのまましばらく、地べたに這いつくばってな。自分が以下に人間の底辺なのか、思い知れば良い」

サクラに背中を擦られたハルの目から、一筋の涙が伝った。

その涙を手で拭い、ハルはサクラに誘われるように、その場を離れた。

体に力が入らないものの、ヒロキは悔しそうに歯ぎしりをした。

遠くに離れていく、サクラとハルの背中を恨めしそうに眺めながら。


「・・・つまり、彼は失敗したってわけか」

サクラの方にゆっくりと振り向いたエイドは、薄ら笑いを浮かべていた。

「そう。あたしが阻止した。そしてあんたはもう終わり」

珍しく険しい顔のサクラは持っていたスマホを投げ捨てる。

彼女は耳に大きなヘッドホンを付けていた。

確か、俺が彼女と最初に会った時も、あんなヘッドホンを付けていたように思う。

異質な感じではあるが、エイドとサクラの相対する様は、まるで西部劇の決闘のようにも見えた。

「どうかな。別にあの女のことはそこまで重要じゃない。あと、君は俺を止められない」

「あんたがあたしと同じだから?」

サクラの言葉にエイドはふっと笑い出した。

「それもあるが、この特殊な場所も関係している」

エイドは両手を広げて、辺りを見回すように回りだした。

「ここはそう。力の集積する場所だ。俺たちが力を使えるのは、ここの存在があってこそのもの。ここで大きな力を使えば、その力の源が暴走して、とんでもないことになる」

まるで道化師でも演じているかのように、エイドの仕草の一つ一つが癪に障った。

サクラに余裕そうな表情を浮かべて、鼻で笑っている。

「力と力。それがぶつかりあえば、俺だけでなく君の存在も消える。それは君も望まないだろう?あそこで倒れている透明人間くんにとってもね」

そして今度は俺を見ずに指を差してきた。

「でもあたしは強い」

そんなエイドの言葉にもサクラは怯まずに奴を睨みつけている。

「あんたも相当な腕なんだろうけれど、あたしだって負けてはいない。立場は互角。いや、むしろあたしの方が有利でもある」

「はあ?」

エイドは呆れたように、顔に手をあてて首を横に振った。

「・・・そんな幼稚な煽り文句なんて、君から聞きたくはなかったな。アイリの家で君を見たときから、君が俺と同じ存在だとは確信していた。確かに、俺と互角だとは思うが、この状況下では俺の方が一歩先を行っているだろ?」

そしてエイドは倒れ伏しているヒメコに指を差した。

「ぐっ!」

すると、ヒメコは突然苦しみだし、うめき声を上げた。

「下手なことをすれば、君の依頼人が傷つくだけだ。わかるだろ?俺にはまだカードが残っている。君はどうなんだい?」

すると、サクラは地面に視線を落として言った。

「・・・あたしにも切り札があるよ。すでにもう仕込みは終えている」

「へえ、どんな?」

その直後、遠くからサイレンの音が響いてきた。

それも複数の。

音に気づいたエイドは、周囲を見回し、すぐにサクラの方に顔を向けた。

「カズオのおかげで時間は稼げた。あんたの芝居がかった無駄話も功を奏した」

「・・・・」

確かに、俺は事前にサクラから連絡を受けて、相手が卑怯な手を使ったとしても、絶対にエイドに怯まずに突進しろと言われた。

あくまで時間を稼いでほしいからと。

だから、ハルが捕まった写真を見せられても、俺はサクラを信じて時間稼ぎのために、奴に挑み続けた。

でも、その時間稼ぎの結果が、警察に通報というのは、なんというかサクラらしくない。

それまで余裕な顔をしていたエイドは急に険しい表情でサクラを睨みつける。

「まさか、あれが切り札ってわけかい?とんだ拍子抜けだ。君には失望したよ」

「ううん。あれだけではないよ」

「何を・・・」

すると、急にエイドは膝から崩れ落ち、頭を抱え始めた。

「ぐっ!・・・な、何を、した・・・」

「人には聞こえないけれど、あんたとあたしには聞こえる。そういう音を出しているだけ」

サクラは自分が投げ捨てたスマホを指差して言った。

そういえば以前、シンゴをチヒロさんに会わせた時に、サクラがモスキート音に頭を悩ませていたことがあったのを思い出した。

「く、くそっ・・・」

「あんたもあたしと同じなら、こういう音には敏感だと思ってね」

そして、自分のヘッドホンをコンコンと指で突いてみる。

どうやら、あのスマホからなにか特殊な音が出ているらしい。

俺には聞こえないし、ヒメコやミクにも影響は出ていないところをみると、エイドにしか聞こえていないようだった。

そして、サクラがヘッドホンをしている理由も、その音を遮断するためらしい。

サクラはゆっくりとエイドに近づいていく。

「ふ、ふふふ・・・」

しかし、苦しみながらもエイドは笑い始めた。

「こんな・・・こんなことをしたところで、俺は止められない。・・・警察に、突き出したところで、何も、終わりは、しない・・・」

不気味な笑みを浮かべて睨みつけるエイドに対し、サクラは冷静な表情で彼を見下ろした。

「あたしは警察なんて呼んでない」

「えっ」

「あれはたまたまここを通りかかっただけ。本当に時間をかけたのはこっちの方」

サクラはエイドの肩にゆっくりと手を乗せた。

すると、ピンク色のまばゆい光のベールが彼女とエイドを包み込んだ。

「なっ!まさか・・・」

「もう終わりにしようよ。こんな不毛なことは」

光のベールの中でサクラはゆっくりと目を閉じる。

エイドは驚いた顔のまま、動かなくなった。

「サクラ・・・」

何が起こっているのかはよくわからない。

でもサクラがしようとしていることが、彼女自身にとってもあまり良くないことだというのは理解できた。

俺は体を起こした。

「ちょっと!何してるのよ!」

すると、ミクもこれからサクラがやろうとしているのことに危機感を抱いたのか、光のベールに向かって走り出した。

しかし、ミクがその光に触れた途端、彼女の体が後ろに吹き飛ばされた。

「ぐっ!」

吹き飛ばされたミクは痛がりながら、体を起こそうとしていた。

「この結界には誰も触れられない。悪いけど、彼はもう終わり」

同情したような目でサクラはミクを見て言った。

「・・・お願い」

ミクは痛みをこらえるように、むくりと起き上がってサクラの方を見た。

「彼に・・・彼に何もしないで・・・」

懇願するミクに対し、サクラは優しい微笑みを向けた。

「君も新しい人生を歩むべきだよ。贖罪の後にね」

優しい声ではあるが、はっきりとそこには戒めも含まれていた。

「・・・お願い!彼は見逃して!全部、私が招いたことなの!」

ミクは叫んだ。

しかし、サクラは笑みを浮かべたまま、首を横に振る。

「カズオ」

そして、今度は俺の方に向かって笑いかけた。

「この子達をよろしく」

そして右手で俺に軽めの敬礼をした。

これからサクラがやろうとしていることを、俺も止めたかった。

しかし一方で、もうどうしようもない状態なのだとも悟って、そこから一歩も動けなかった。

「・・・・」

何も言えない俺に対し、サクラはニッコリと笑みを作った後、目を閉じて、何かに集中するような表情になった。

次の瞬間、サクラたちの周辺から白い強烈な光が発せられた。

まるで車のハイビームを直視したようなまばゆさだった。

俺は思わず目を閉じる。

そして次には、どこか懐かしい感触に包まれていた。


彼にとって、人間というものは恐怖と憎悪の対象でしかなかった。

鎖で繋ぎ、気分によって殺生与奪をほしいままにする。

自身を締め付ける首輪の強さは、その服従関係を端的に表していた。

生まれてすぐの頃、彼がいる世界は小さな檻の中だけだった。

檻の外にも世界があることは知っていたが、その世界へと抜け出すことはきっと死ぬまで叶わないだろうと理解していた。

彼の周りにも檻に閉じ込められた同胞は数多くいた。

中には体と檻の大きさが合わなくなり、体を無理に縮めて窮屈そうに閉じ込められたままの同胞もいた。

食事と水は1日に一度だけ。糞尿の処理は人間の気が向いたら。

そんな世界にいれば、自ずと自分の生まれた意義を見失い、ただただ命が燃え尽きるまでそうせざるを得ないと学習する。

しかし、彼は違った。

そんな運命を受け入れられず、この屈辱を強いた人間たちを憎んでいた。

人間もそれはわかっていたのか、彼を遊び半分に虐げるために、檻から出して小さな部屋に連れていき、大きな足で何度も踏みつけてきた。

そんな日々を過ごすうちにわかったこともある。

そこは彼らを人間に売るために飼育している場所であること。

そこの支配者はそのために必要な資格を有していないこと。

そして飼育を任されている人間の中には、彼らへの境遇に耐えきれない者もいるということ。

そしてそういう人間は数日としないうちにここを去っていく。

彼はある時、計画を立てようとした。

この施設から抜け出す方法を考え抜き、周囲をよく観察した。

まず、彼を閉じ込める檻から脱出するために、彼は敢えて極度に弱ったふりを続けた。

そして、彼の容態を危惧した人間たちが檻の鍵を開け、彼を中から引きずりだした。

もうこれ以上、生きながらえるのは難しいと人間たちは判断し、彼から首輪を外した。

その瞬間、彼はこれまでの憎しみ、怒り、屈辱を力に変え、人間たちに襲いかかった。

突然の襲撃に人間たちは慌て出す。

彼は特に、自分を面白半分になぶり続けた支配者の首に噛みつき、喉元を噛みちぎった。

その後、口を血に濡らしながら、力の限りその場から逃げ出した。

生まれて初めて目撃する外の世界は、雨が降っていた。

今までの小さな世界と違い、外の世界は冷たくて陰鬱というのが、彼が最初に抱いた印象だった。

ずぶ濡れになった彼は、木造の古めかしい建物に身を寄せた。

その場所は人が神を奉るために造った建物であることは、後で知った。

屋根のある場所で雨露を凌ぎ、そのまま倒れるように眠った。

それから数日間、彼はその周辺を根城に潜伏を続けた。

とはいえ、隠れ続けているだけでは腹は膨れない。

人間がいないことを確認して、時折外に出たものの、食べるものは見つからなかった。

彼を見て話しかけたり、小さな金属の板を構えて彼に何かをしようとする人間は何人かいたが、すぐに逃げることで対処した。

それから、飢餓も限界を超えつつあったある日、彼はある人間の少女と出会った。

その少女は、どこか違っていた。

彼は匂いでその人間がどういうものかを判断できた。

その少女が放つ匂いは、これまで会ったどの人間とも異なり、底しれぬ深い悲しみ、そして果てが見えないほどの闇を持っているようだった。

なんとなく、彼は少女を同志のように感じた。

最初は他の人間と同じく警戒していた彼も、やがて心を許すようになった。

彼女は彼に食事を分け与え、彼は彼女の望むように体を触らせた。

時折、少女は別の同い年ぐらいの少女とその場で雑談をすることもあった。

それでも、彼はしっかりと少女の側で彼女を守り続けた。

少女の手は細く、そして優しかった。

この優しさは、人の悲しみを理解できる者だけが持てる優しさだった。

深い悲しみに囚われていたからこそ、他者の痛みに寄り添える優しさを、少女を通じて彼は確かに感じていた。

彼女と過ごすうちに、彼の心の傷も少しずつ癒えていった。

しかし、ある時を境に、少女は姿を見せなくなった。

その前触れは全く無く、いつものように現れるはずの時間に、少女は現れなかった。

それからずっと彼は自分の縄張りで、少女を待ち続けた。

その時間は、人間にとっては1年という長さであったが、彼にとってはさらに長い時間に感じられた。

やがて、彼はいつまでも少女を待つことができなくなっていた。

これまで人間から虐げられてきた長年の苦痛、そして劣悪な生育環境は、彼の体を知らず知らずのうちに蝕んでいた。

長い長い眠りの末に、彼は自分の体から魂が抜けるのを感じた。

しかし、そこで彼はある別の魂と出会った。

その魂は、いわばもう一つの世界の彼自身であり、その彼もまた、同じタイミングで命を落とそうとしていた。

彼らは、ある取引をすることにした。

別の世界の彼は人間であり、彼らはお互いの記憶と力を共有することにした。

体こそ人間ではあるものの、特別な力を得た人間以上の存在になろうとしたのだ。

別の世界の彼が相当な苦労をしていたことは理解できた。

それこそ、自らの手で人生を終わらせようとしていたくらいなのだから。

この取引は成立し、彼はこの世界で生まれ変わった。

人間になった彼は、再びあの日の少女を探すことにした。

探していくうちに、彼はあることを知った。

その少女は、複数の人間から酷く虐げられ、絶望の淵にいること。

愛する友人に裏切られ、深い悲しみに囚われていること。

なんとか彼は少女と接触すべく、小さな金属の板(人間はスマホと呼んでいる)を使い、少女と接触を図った。

最初は警戒していた少女も徐々に心を開いていき、やがて彼は少女の抱える悩みを引き出すことまで成功した。

そこで彼は約束したのだ。

「君の手を汚すことなく、彼らから君を自由にする」と。

もともと狡猾だった彼は、そのために必要なことは全てやった。

情報を仕入れ、緻密に計画を立て、必要ならば協力者も作った。

その準備には1年を要したが、元の世界で経験した1年とは比べ物にならないくらい、短く感じる時間だった。

全ては、自分に束の間でも安らぎを与えてくれた、あの日の少女のため。

彼女を救うためならば、自分の手を汚すことにためらいなどはなかった。

それが、エイドという男だった。


次に目が覚めると、いつものあの神社だった。

しかし、周囲は昼間のように明るく、そしてベンチの近くに植えられた河津桜の花が満開になっていた。

いつの間にかベンチに横になっていたようで、俺はゆっくりと体を起こす。

そして起きた目線の先に、背を向けたサクラの姿があった。

「・・・サクラ?」

「ん?起きたみたいだね」

振り返ったサクラは優しい笑みを浮かべていた。

あれから何がどうなったのかわからない。

サクラがエイドと一緒に光に包まれてからは覚えているが、そこからどうなったのか、定かではなかった。

それに、あの時はまだ夜の7時過ぎだったし、桜が咲く時期でもない。

「ここはなんだ?」

「ここ?うーん、なんと言うか、あたしの生み出した世界?みたいな感じ。まあ、簡単に言えば、君のいた世界と別の世界の境界線上にある場所かな?」

つまり、俺はまた別の世界に来てしまったということなのか。

「元には戻れるのか?」

「もちろん。でもその前に、少しお話しようかなって思って、君をこの世界に誘ったわけ」

サクラはつかつかとこちらに歩み寄り、俺の横にちょこんと座った。

「さて、何から話そうかな」

サクラはなんだか、言葉に迷っているような感じがした。

なんとなく、俺とサクラにとって、重要な話であることはわかった。

「・・・さっき」

その前に、俺が先程まで見たものについて、聞いておこうと思った。

「さっき、目が覚めるまで、俺はエイドの過去を早回しみたいに眺めていた。なんでそんなものが見えたのかわからないけれど、俺は間違いなく、それがエイドだってわかっていた」

あの記憶では、エイドは犬だった。

それも、劣悪なブリーダーの元で飼育されていた、哀れな柴犬だった。

それからミクやヒメコと出会って、体を蝕んでいた病によって倒れ、死ぬ間際に別の世界にいた人間の彼と取引をして、この世界で生まれ変わった。

それは、俺がサクラから聞いた彼女自身の境遇と似ていた。

「たぶん、彼の記憶が君に流入したんだと思う」

「どういうこと?」

「つまり、エイドは君に何かを伝えたかったんじゃないかな?最後の力を振り絞って」

サクラは人差し指をピンと立てて言った。

「最後?エイドはどうなったんだ?」

「・・・彼はいなくなった」

俺の問いに、サクラは言葉を選んだかのようにそう答えた。

「あたしの力で彼の力を奪い、もとの運命に還した。まあ平たく言えば、本来彼は死んでそのままになるはずだったから、その通りに戻したって感じかな」

「じゃあ、エイドはもういないのか?」

「うん」

サクラは自分の足元を見ながらそう頷くと、今度はブラブラと足をばたつかせた。

「君が時間を稼いでくれたおかげで、彼の力を奪えるようにあたしの力で罠を張ることができた。前にも言ったけれど、ここはあたし達の力の源が集まる場所だからね」

俺の頭で理解できるように解釈したとしても、うまく言葉で言い表せる自信はない。

ただ、わかることとすれば、サクラのおかげでエイドを排除することができたことぐらいか。

「さっき、エイドが俺に伝えたいことがあるって言ってたよな?どういう意味だ?」

それを聞くと、サクラは「んー」と空を見上げながら唸った。

「たぶんだけれど、妹ちゃんの友達を、代わりに助けてほしいって頼みたかったんじゃないかな?」

「ミクを?」

「うん。彼にとって、彼女の存在は全てだったみたいだし。これまで人間に散々苦しめられてきた彼が、唯一安らぎを得られたのはあの子と出会ってからだからね」

確かに、彼の記憶を見ていく中で、ミクと出会ったあの瞬間、俺の心も温かくなった感じがした。

それ以外にも、虐待を受けたときの彼の苦しみと憎しみ、そして寂しさと絶望感までもが、俺の中に流れ込んできていた。

もしかしたら、俺が彼の記憶を見ていく中で、彼の感情が俺とシンクロしていたのかもしれない。

「・・・とりあえず、ヒメコの件は一つ片付いたから、次はミクってことだな」

「そうだね」

俺がそう言うと、サクラはなんだか元気がなさそうに頷いた。

俺は気合を入れようと、ベンチから立ち上がる。

「じゃあ、さっさと戻って仕事をしないとな」

「あー、それなんだけどさ」

しかし、サクラは頬をかいて、目を逸した。

「なんだ?」

「・・・あたし、もう君とは一緒にいられないんだよね」

よく見ると、サクラの体の周りに少しずつ白い輪郭ができていた。

いや、と言うより、体が透け始めているように見える。

「エイドを消し去った時、力のほとんどを使い果たしちゃってさ。ごめん」

一瞬、頭が真っ白になる。

そして次の瞬間、それを冗談だと信じたくなった。

だが、サクラがそんな質の悪い冗談を言う訳がないのは知っている。

それでも、冗談だと言ってほしかった。

「ごめん。こればっかりは冗談ではないんだよね」

サクラは寂しそうに笑っていた。

「・・・どうにもならないんだよな?」

「うん」

「消えちまうのか?エイドみたいに?」

「そうだね」

こんな時、普通の人は悲しみで心が溢れるものなのかもしれない。

でも、俺がとっさに思ったのは、サクラがいなくなったことで、俺はどうなるのか、だった。

唯一普通に会話ができる相手がいなくなり、俺はまた世界から存在を切り離され、孤立することになる。

その恐怖と不安が、悲しみよりも勝ってしまった。

こんな時の自分の薄情さを呪いたくなった。

「でも、それも人間らしさではあるよ」

サクラはまた俺の心を読んで、そう答えた。

「だって、自分の人生に関わることなんだもの。誰だって自分を中心に物事を考える。それは悪いことじゃない」

「でも・・・」

「だから、君は考えすぎなんだって」

サクラはふっと笑った。

こうして彼女に俺の性格を指摘されるのは、もう何度目だろうか。

こんなやり取りも、もうできなくなる。

そう思うと、今度は悲しみの方が勝ってきた。

「それで、君に話したいことって言うのはね」

サクラは勢いよくベンチから立ち上がり、両手を後ろに組んで言った。

「君に、あたしがやってきたことを続けてもらいたいってことが1つ目。そして、あたしの力を少し君に分けてあげるってのが2つ目。以上かな」

「つまり?」

「あたしの存在はもう完全に消えてしまう。だけど、少しは君のために力は残しておいた。そして、こんなこともあろうかと、君がこれからも向こうの世界で上手くやれるように色々と準備はしておいたんだ。感謝しなよ?準備するのは結構大変だったんだから」

そしてサクラはいたずらっぽく笑って、今度は俺の横を通って、舞うように境内の真ん中に躍り出た。

「ひとまず、あたしがいなくてもなんとかなるようにはしてある。だから、安心して」

「安心・・・」

そんなの、できるもんか。

だってサクラ。君がいなければ、俺は・・・。

「大丈夫だよ。だって、君は他にも大切な人たちがたくさんいる」

悲しみが押し寄せている俺に対し、サクラはいつまでも眩しい笑顔を浮かべている。

「でも、お前はどうなんだ?」

だからこそ、彼女に聞いておきたかった。

「お前は寂しくないのか?怖くないのか?」

「・・・寂しいよ」

彼女は笑いながらも、声だけは沈んでいた。

「でも、恐怖は割と感じていない。それに不安もあまりない。だって、君はもう独りじゃないし、あたし以上にあの世界できっとうまくやれるって信じているから」

そういうやり取りの中で、次第にサクラの体の透け具合も、段々とはっきりわかるようになっていった。

「最後にさ。あたし、割と君のことは好きだったよ」

サクラは少し照れくさそうにして言った。

「誰かのために一途になるところとか、物事を真面目に考えようとするところとか、相手のことを理解しようと努力するところとか。長所も短所もそういうの全部ひっくるめて」

サクラの告白に俺の鼓動が少し高鳴った。

「・・・えっと、俺もまあ・・・」

「あ、言っとくけれど異性としてじゃないからね。あくまで相棒として」

「・・・・」

「えっ?もしかして、あたしのことマジで好きだった?」

最後の最後でやられたと思い、俺は複雑な気持ちになる。

「マジかよー。まあ、確かにあたしってば可愛い乙女だから、魅力にやられちゃったのは仕方ないかもねー」

「・・・最後まで俺を茶化すわけか」

溜息を吐いた後、自然と笑みが溢れる。

そうだ。

彼女と別れるときは、神妙な面持ちよりも、笑顔の方がふさわしいと思う。

だって、こんな満開の桜の下で、悲しい顔は相応しくない。

「名前通りだな」

名前の通り、眩しくて明るい。

俺が呟くと、サクラはきょとんとした顔をした後、誇らしげに笑った。

「まあね」

彼女の突き抜けた明るさに、俺は救われた。

彼女の包み込むような優しさは、俺を癒やしてくれた。

でも、それはもうここまで。

俺は、彼女無しであの世界で生きていく。

「そろそろだね」

やがて、彼女の体が粒子のようになり、さらさらとどこかへ流れ始めた。

サクラはゆっくりと俺に近づき、俺の手をそっと取った。

「君ならやれる。どんな世界でも、きっと」

消えかかったサクラは、相変わらず優しい笑顔のままだった。

「ありがとう、サクラ」

俺も笑顔を浮かべてみる。

けれど、やっぱりどうしても、涙だけは正直に頬を伝っていった。

「さようなら、カズオ」

サクラが消え去るのと同時に、俺の視界は再び真っ白な光でいっぱいになった。

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