手紙が届く
次の日も、また次の日も、その次の日も、ヒメコは学校では一人ぼっちだったが、日常では2つの変化があった。
1つは、ヒメコが学校帰りにチヒロさんとハルに会いに行くようになったこと。
チヒロさんたちと一緒にいるヒメコは、どこか生き生きとしていたし、見たところ楽しい時間を過ごせているようだった。
2つ目はリョウジの彼女であの金髪の不良少女、アイリが学校に来なくなったことだ。
アイリがいなくなった理由はわからない。単に病欠となっているようだ。
彼女の取り巻きとヒメコがすれ違うことはあっても、彼女たちはヒメコを無視するだけだった。
どうやら、アイリがいないことでグループのまとまりが薄れているようにも見えたし、そこまでヒメコに個人的に恨みがある連中でもなさそうだ。
気になって、アイリの取り巻きたちの様子を観察してみた。
悪趣味ではあるが、彼女たちの会話も盗み聞きした。
「アイリから連絡は?」
「まだない。既読はついているけれど」
「そういえば、あいつトモチャも更新してなかったよ」
「なんかあったんじゃない?」
会話の内容からして、取り巻きたちもアイリが休んだ理由を知らないようだった。
身近な人間の連絡も遮断しているというのは少し妙だ。
かなりの熱が出て返信するのもしんどいというならわからないでもないが、どうも何か引っかかる。
「ていうか、あいつ前に言ってたじゃん。最近誰かに付けられてるみたいだって」
「じゃあ何?事件に巻き込まれたとか?」
「さすがにそれはヤバいんじゃない?」
取り巻きたちは動揺していた。
最近、リョウジの死がニュースで報道されたばかりである。
この学校でも全校集会が開かれ、下校後の生徒の不用意な外出は避けるようにというお達しがあった。
ヒメコにも昼休みの時に取り巻きたちの話していたことを伝えてみた。
「まあ、あいつらなら所詮はそんなところかもね」
意外とあっさりした回答だった。
「アイリには友人なんていない。自分にとって使えるか使えないか、それで人を見ているような奴だから。あいつらもアイリにとってはただの駒でしかないんだよ。だからアイリがいなくなったら、自分たちでは何もできない。あいつらも、アイリのことをそこまで好きではないんじゃないかな」
どうやら高校生活というのは、俺が思っていたよりもドライな世界らしい。
青春なんて美化した言葉は上辺だけで、実際は希薄な人間関係が交差している味気ない世界なのかもしれない
「でも、アイリがいなくなったのはよかったよ。少しは過ごしやすくなったし」
そこでヒメコはうんと背伸びをした。
今日も校庭から見える空は晴れ晴れとしている。
肌寒いものの、空気が澄んでいるようだった。
ヒメコはどうやら、ただでさえ窮屈な空間が少し快適になったくらいに思っているようだったが、どうもアイリがいなくなったことがヒメコの事件とは無関係とは思えなかった。
そのことをノートに記して伝えてみると、ヒメコは溜息を吐いた。
「かもね。だとしたら、あんたも忙しくなるね」
まるで他人事みたいに言うヒメコに呆れつつも、俺は一つ気になることをヒメコに聞いてみた。
「トモチャとはなんだ?」
取り巻きたちが話していた単語だったが、俺にはなんのことかさっぱりだった。
ヒメコなら何か知っているかもしれないと思ったが、案の定そうだった。
「ああ。あんた、トモチャ知らないの?」
そう言うと、ヒメコは自分のスマホを取り出して、画面をベンチの上に置いた。
「それがトモチャ。色んな人が自分のプロフを作って、掲示板につぶやきとか書き込んだり、相手とチャットとかできるアプリ。女子高生から50代のおっさんまでやっているみたいだけれど、大抵は援交とかヤリモクが多いかな。たまに詐欺まがいな投稿もある。ある意味、無法地帯だよ」
画面にはネット掲示板のように色んなアイコンがコメントを残している。
人の暴言やら投稿者同士での喧嘩、さらには「今夜9時 都内 えん募」みたいな暗号のような文章があったり、卑猥な投稿もちらほらあった。
「軽蔑した?」
ヒメコは目を細めて聞いてきた。
正直、ヒメコがこういうのをしていたとしても、妙に納得できてしまう。
俺が元いた世界のヒメコも、あの性格ならばいずれはこういう事に手を出していたかもしれない。
「変な奴の方が多かったけれど、数パーセントはまだまともな人はいたよ。そういう人とはやり取りしてた。エイドさんもその一人だったし」
空を見上げるヒメコの目はすっと薄く開いている。
まるで、太陽の光に眩しさを感じているかのように。
「無法地帯だとしても、私にとっては良い気分転換だった。自分から個人情報を明かさなければ、ここにいる人たちは良い話し相手になってくれたし。エイドさんは、その中でも特に話がうまくてさ。色々話をしていくうちに、会おうってなった」
どうやら、そのアプリが窮屈な現実に対するヒメコの逃げ場になっていたようだが、俺にはその気持ちが少しわかるようでわからない。
確かに、知らない相手に色々と悩みを吐き出しやすいというのはわかる。
でも、顔も知らない相手にどこまで自分のことを話すべきなのか、俺は迷ってしまうと思う。
ましてや、その相手と直接会うことに不安を感じたりしないのだろうか。
そう問いかけると、ヒメコは眉をひそめながら答えた。
「そりゃあ、最初はやっぱり大丈夫なのかって思うだろうね、普通の人なら。でも、その時の私は追い詰められていたし、自暴自棄だったから。ところで、なんで急にトモチャのこと、知りたくなったの?」
そう聞かれて、俺は素直に、「アイリも利用しているらしい」と答えた。
ヒメコは一瞬固まり、溜息を吐いて項垂れた。
「まあ、あいつならそうかもね。前から援交して稼いでるって話は聞いてたから。トモチャでそういう相手を探していたのかも」
そして、ヒメコはスマホを手に取り、ポケットにしまった。
「リョウジは何も言わなかったのか?」
「どうだろうね。あいつもトモチャをやっていたけれど、その事実を知っていたのかはわからない。というか、私もリョウジからトモチャを教えてもらったんだけど、リョウジもそれで女を引っ掛けようとしてたし」
「恋人がいるっていうのに、大した奴らだな」
「そんなもんでしょ?あいつら、自分以外の人間なんてどうでもいいんだよ。自分が痛くないから、他人に酷いことができる。彼氏だろうが彼女だろうが、ただただ自分の欲求を満たすために繋がっていたいだけ。そんなもんでしょ?」
淡々と話すヒメコもまた、リョウジやアイリと同類だと思う一方で、彼女は他人と群れをなすことを嫌がっているように振る舞いつつも、どこかで誰かと繋がっていたいと思う、寂しい人間だとも思えた。
そのことを説明してやる義理はなかったし、話をややこしくするだけだったので、俺は沈黙を貫いた。
「しかしまあ、アイリもトモチャやってたとはね」
しみじみと呟いたヒメコの言葉に、俺はふと思った。
そして思ったことをノートに書き出す。
「リョウジのプロフとかは調べられないのか?」
もしかしたら、リョウジは死ぬまでに何か手がかりを残しているかもしれない。
しかし、ヒメコは首を横に振った。
「それは難しいね。リョウジから教えてもらった時には、私はまだトモチャはやってなかったから、あいつのプロフはフォローしてない。探せないことはないと思うけれど、たいてい皆、ニックネームでプロフ作ってるから、探すのはかなり難しいと思う。検索機能もちゃっちいし」
まあ、俺もそこまで期待はしていなかった。
リョウジが殺害されるその時まで、自分の死を本気にしていたとは思えない。
「どうかなー。調べてみる価値はあるんじゃないの?」
すると、背後からサクラの声がして、俺たちはびっくりして後ろを向いた。
「きゃっ!ちょっ!あんた、なんで!?ていうか、いつからそこに!?」
この展開に慣れていないヒメコは、びっくりして悲鳴を上げてベンチから勢いよく立ち上がった。
そんなヒメコの反応を、サクラはニタニタと笑いながら見ている。
「ごめんごめん。気になって来ちゃった」
「来ちゃったって・・・。ここ学校なんだけれど」
「大丈夫。長居はしないから」
「・・・そういう問題でもないけど」
いつも通りの飄々としたサクラに、ヒメコは呆れた顔を浮かべた。
「それより、そのトモチャってやつ。ちょっと気になるんだよね」
「気になるって?」
「やっぱりリョウジの死とかに関わる何かがあるかもしれない」
「そうかな?あいつ、そこまで律儀に使っていたようには思えないんだけれど」
「でも、あたし達は少しでも情報がほしい状況にあるからね」
あまり気が進まないヒメコに、サクラは妙に自信たっぷりな様子でそう言った。
「そんな偉そうに言うことでもないと思うけれど」
ヒメコのツッコミに同感だったので、俺もやれやれと肩をすくめた。
「ともかく、そのトモチャを調べてみる必要はあるかな」
「調べるって言っても、リョウジのプロフなんて知らないし・・・」
「そうだね。でも彼の恋人は知っているかもしれない」
「えっ?まさかアイリに頼むわけ?」
「その子なら、リョウジのプロフもフォローしてるんじゃない?恋人同士だったなら、何か知ってるかもよ」
「どうだろう・・・」
自信満々なサクラに対し、ヒメコは不機嫌そうに唇を噛み始めた。
「あいつが私にホイホイと情報を渡すとは思えない」
「そうだね。でも人に聞く方法はいくらでもあるから」
サクラはそう言ってふてぶてしく笑った。
何か考えがあるようだが、その手段が荒っぽくないかどうかだけ、俺は気がかりだった。
学校帰りに、ヒメコの案内で俺たちはアイリの家へ向かった。
彼女の家は一つ先の駅にあった。
よくある白塗りの普通の一軒家で、庭先には植木がいくつかあって、色とりどりの綺麗な花がいけられていた。
「シクラメンだね。この時期に花を咲かせる」
俺がそれらを見ていると、サクラがそっと解説してくれた。
この家に、問題を起こしている少女が住んでいるとは、傍から見れば思えないくらい、ごく普通の家だった。
「アイリの母親は専業主婦だから、今もいると思う」
ヒメコはそう言いながら、門の前のインターホンに指をかけた。
インターホンのカメラから隠れるように、サクラはすっと離れる。
生唾を飲み込んだ後、緊張した面持ちでヒメコはインターホンを押した。
家の中からは音がしなかったものの、すぐにインターホンから女性の声が聞こえてきた。
「・・・はい」
「あの、私、アイリの友達です。学校からのプリントを持ってきたので」
「お名前は?」
心なしか、警戒しているようだった。
「・・・シオリです。アイリのクラスメイトです」
「ああ、そうなのね。今開けます」
そこでインターホンが切れた。
「シオリって?」
「アイリの取り巻き。親は顔は知らないはず」
俺の疑問をサクラが代弁し、ヒメコはしれっと答えた。
さすがに、自分の名前を出せば、アイリに不審がられると思ったのかもしれない。
「ふーん。なるほど」
サクラは感心したように笑うと、さっと玄関のドアの横に移動した。
その直後に、ドアが少しだけ開き、アイリの母親が出てきた。
「ありがとう。プリントはここで・・・」
その瞬間、アイリの母親の動きが止まった。
プリントを受け取ろうとしたのか、手を差し出した状態で、まるで石みたいに固まった。
「何をしたの?」
「ちょっと動きを止めただけ。さあ、入るよ」
そのままドアを大きく開けて、サクラはずかずかと中に入った。
「あんた、何者なの?」
サクラに困惑しながら尋ねつつ、ヒメコも後に続いて中に入る。
俺も固まった状態のアイリの母親を一瞥して、家の中に上がった。
そのまま入り口の前の階段を上がる。
「ママ?どうしたの?」
すると、階段の奥から少女の声がした。
間違いなくアイリの声だが、学校にいるときと声の雰囲気は違っていた。
そして、階段からアイリが顔を出し、ヒメコのことを見るや否や、怯えた顔をして逃げ出し、部屋に籠もってしまった。
ヒメコは階段を駆け上がって、ドアの閉まった部屋の前でどんどんと拳を叩きつけた。
「アイリ!あなたと話がしたい!」
「ふざけんな!どうやって入ったんだよ!」
「そんなことはどうだっていいでしょ!良いから開けて!」
「開けるわけねえだろ!バカかよ!」
サクラと俺は、その様子を階段から覗いた。
それから、サクラは俺の方を向いて言った。
「さっき外から見た感じだと、窓の鍵は開いてそうだった」
それを俺に話したということは、俺に侵入しろという意味らしい。
「さすがに高さがあったけれど?」
「一瞬見たってだけだけど、隣の家の間に大きい脚立があったから、それを使えば入れると思う」
どうやら、シンゴの一件の時のように、また窓から不法侵入をすることになりそうだ。
溜息を吐きつつも、仕事だと思って割り切ることにした。
俺はすぐに外に出て、サクラの言っていた場所で脚立を見つけた。
脚立の足をできるだけ長く伸ばし、アイリの部屋の窓に立て掛けた。
「なんでそんなに怯えてるわけ?自分がいじめた相手が家に来たのがそんなに怖い?」
その間も、ヒメコはアイリの部屋の前で、彼女に大声で呼びかけていた。
家のドアが開いているため、外からも2人の声がよく聞こえた。
「うっせえよ!あたしに何かしようったってそうはいかねえからな!」
「そうね。できればあんたに仕返しはしたいけれど、それはまた別の時にする。それよりも、ここを開けて」
「黙れよ!あんなふざけた手紙送ってきやがって!警察呼んでやるからな!」
「手紙・・・」
アイリの発した言葉が気になりつつも、本当に警察を呼ばれそうな勢いだったので、すぐに脚立を駆け上がって、窓から部屋の中を覗いてみた。
私服姿のアイリがドアノブをしっかりと握りしめていた。
俺が勢いよく窓を開けると、アイリは目を見開いて、恐怖で顔を引きつらせた。
学校で他者に威張り散らしているいじめっ子とは思えなかった。
そのまま部屋に侵入すると、物音で誰かが入ってきたと思ったアイリは、悲鳴を上げて暴れだした。
近くにあったものを手当り次第投げるものの、所詮は俺の姿は見えていないため、物は弧を描いて壁やカーテンにぶつかるだけだった。
「いや!やめて!」
ドアの前で蹲るアイリを無理やり押しのけ、ドアを開けてやると、ヒメコとサクラが一気に流れ込んだ。
サクラは化粧品やアクセサリーで埋まっている学習机に向かい、アイリのスマホを入手した。
「くそ!てめえこの野郎!」
まだ暴れるアイリに対し、ヒメコは彼女の頬を思い切り叩いた。
「良いから落ち着けよ!私はあんたと話がしたいだけ!」
叩かれたアイリは、目に涙を浮かべて蹲った。
サクラは俺の方を見た後、窓を指さした。
閉じろという意味だとわかり、俺は窓をゆっくりと閉める。
「なんなんだよ、マジで」
「別に。用が済んだら帰る。あんたみたいな人をいじめるクズと一緒の空気なんてなるべく吸いたくないし」
ヒメコとサクラが蹲るアイリを見下ろす形になっていた。
アイリは肩で息をしつつ、乱れた前髪の隙間から2人を睨みつけている。
「まあとりあえず、あなたがリョウジとトモチャをしてる可能性があるから、ちょっと見せてもらいたいと思って」
「なっ!触んじゃねえよ!」
サクラがアイリのスマホを手に持って見せつけると、アイリはそれを取り返そうと立ち上がったが、その直後にヒメコに腹を蹴られた。
「げほっ!」
「暴れんじゃねえよ!いいからスマホの暗証番号教えろ!」
ここに来てから、ヒメコは俺の知る彼女になっていた。
向こうの世界では、ヒメコはよく俺を口汚く罵ってきた。
そういう態度を見せれば、俺が怖がって従うと思っていたらしい。
まあ、実際その通りだったけれど。
「だれが教えるかよ・・・」
スマホを奪われ、蹴られてもなお、アイリはヒメコとサクラを睨みつけ、そして狂ったように笑った。
「てめえら全員、後で覚悟しとけよ。警察にも言うし、うちらの仲間がただじゃ済まさねえから」
「いや、あなたは警察は呼ばないし、仲間にも何も言わない。というか、今日は何も起きなかったことになる」
「は?」
サクラは余裕の表情をしつつも、冷淡な笑みを浮かべた。
それを見たアイリは、一気に顔を青ざめて尻込みした。
たぶん、始末されると思ったのだろう。
ただ、サクラはアイリの記憶だけを始末するつもりなのだと思う。
以前、ハルにそうしたように。
しかし、その勘違いは効果てきめんだった。
「暗証番号、教えてくれるよね?」
「言っとくけれど、ハッタリじゃないから」
サクラは笑い、ヒメコは親の仇でも見ているようにアイリを睨みつけている。
アイリは項垂れて4桁の暗証番号を呟いた。
早速、サクラがスマホの画面をタッチすると、ホーム画面が開いた。
俺も覗き込むと、確かにトモチャのアプリがあった。
すると、サクラはそれを懐にしまい、ニコリと笑った。
「ありがとうね。これは終わったらちゃんと返すから。そういえば、さっき手紙がどうのって言ってたけれど?」
サクラがそう聞くと、アイリは力なくゴミ箱を指さした。
ヒメコがゴミ箱を漁ると、他のゴミに紛れた一枚の白紙が出てきた。
握りつぶしたのか、紙はくちゃくちゃになっていて、ヒメコが恐る恐る中を開いた。
「・・・これ」
赤い大きな文字で、「絶対にお前を許さない。絶対にお前を殺す」と書かれた文章。
間違いなく、ヒメコとリョウジが受け取った手紙と同じものだった。
ヒメコは震える手でサクラに手紙を渡す。
受け取ったサクラは、じっと手紙を注意深く見つめていた。
「何かわかりそうか?」
俺がそっとサクラに聞くと、彼女は俺の方を見ずに、首を横に振った。
「ひとまずこれも預かっておく。で、この手紙はいつ届いたわけ?」
「・・・1週間くらい前」
サクラの質問に、アイリは小さな声で言った。
だいたい、ヒメコが襲われた時期と同じくらいである。
「これは誰かに相談した?」
「するわけねえじゃん。単なる悪ふざけだろうし」
「でも本心ではそう思ってない。でしょ?」
サクラは人差し指で自分のこめかみを突きながら言った。
「風邪を引いている様子もないのに、こうして家に閉じこもっているってことは、この脅迫が本気だと思っているから」
サクラがそう指摘すると、アイリはバツが悪そうに顔を背けた。
「まあ、あなたのスマホを見ればいずれは色々とわかるけれど、あなたの口から話してくれた方が手っ取り早いね」
サクラが一歩にアイリに近づくと、アイリは体を震えさせた。
「・・・手紙が届いてすぐにリョウジと電話で話した。変な手紙が届いたって。そしたらあいつも同じだって言った」
「ふーん」
「あの時はお互いに、いたずらだと思っていたし、リョウジのやつなんか、こんなふざけた真似するやつを絶対に見つけてやるって意気込んでた。でも、それからしばらくして、ニュースでリョウジが殺されたって・・・」
サクラは退屈そうな目をしてアイリを見下ろし、ヒメコはずっとアイリを睨みつけていた。
彼女のことが相当憎いのだろう。
「だから、怖くなって家に閉じこもっていると」
「・・・・」
アイリは悔しそうに顔を歪めていた。
なぜだが、俺はその様子に嫌悪感を抱いた。
それはヒメコも同じらしく、彼女は俺より先にその嫌悪感が何なのかに気づいていた。
「ねえ、その顔は何なの?」
「は?」
「まさか、なんで自分がこんな目に、って思ってる?馬鹿も休み休みやれよ」
「てめえ、調子に・・・」
アイリはヒメコに掴みかかろうとしたが、ヒメコはその手を強く叩き落とした。
「リョウジもあんたも、自分が今までどれだけ人に迷惑かけてきたのかわかってないんだね!はっきり言ってやるよ!こうなったのは当然の結果!人に恨まれて殺されるのは自業自得!ギリギリまで人のことを追い詰めて弄んで、それで復讐されないと思ってたら、あんたはとんだ大馬鹿野郎だよ!」
ヒメコが声を張り上げるたびに、俺の心臓までも震えるようだった。
俺はアイリが何をやってきたのかは知らない。
でもリョウジがやってきたことはわかる。
俺は向こうの世界のリョウジしか知らないが、こちらの世界でも相当な悪だったことは、ヒメコが奴に殴られたあの日から、確かに感じていた。
そんなリョウジの仲間だったのだから、アイリも相当なものなのだろう。
だから俺はリョウジにもアイリにも同情はしない。ヒメコの言い分は最もだと思う。
だからこそ、引っかかる。
なんで、ヒメコも同じ手紙を受け取っているのだろうかと。
「・・・はっ、ははは」
すると、アイリは急に小さく笑い始めた。
その様子に、ヒメコは少なからず動揺していた。
「てめえだって人のこと言えねえじゃんか」
「は?」
「ミクのことだよ。あいつを売って、リョウジに取り入って、あたしらの仲間になったくせに、人のことは堂々とディスるのかよ。てめえこそどの口が言ってるんだって話じゃんか」
「・・・・」
そう言われたヒメコは、一層と険しい表情になった。
「てめえだって、あたしらとおんなじ人種なんだよ。自分だけ良い子ぶってんじゃねえよ、卑怯者」
「私は違う!」
「同じだよ!」
ヒメコの怒鳴り声よりも、アイリの声の方が大きかった。
そしてヒメコを嘲りと怒りの入り交ざった目で睨みつけた。
「てめえは自分のためなら平気でダチも売る人間のクズだ!もしかしたら、てめえの方が一層質が悪いかもな!自分だけ被害者ぶんなや!」
「このっ!」
ヒメコは怒りに任せて拳を振り上げたが、すぐにサクラにその腕を掴まれた。
「放せよ!」
「その辺にしときな。こんな奴殴っても仕方がない」
「仕方なくないよ!これまでやってきたことを思い知らせて・・・」
「それはもうじき別の誰かがやってくれるって。そうでしょ?」
そう言うと、サクラはアイリの方をじっと睨みつけた。
その視線の鋭さに、アイリはたじろいだ。
ヒメコは悔しそうに顔を歪ませ、サクラの手を振り払うように乱暴に拳を納めた。
「・・・ついで言うと、2人の言っていることはどっちもどっちだね」
ヒメコとアイリを交互に見ながら、サクラは溜息を吐いた。
「正しいとか間違っているとかじゃなくて、これはただの罵り合い。どんなに自分のことを棚に上げて相手を非難しても、自分がやった罪が軽くなるわけじゃない。だって、自分がやってきた罪は自分が一番良くわかっているんだから」
サクラはアイリの前で屈んだ。
「ねえ、人のこといじめて楽しかった?そうやって毎日自分の欲求を満たしてきたんだよね?だったら、これは自分が楽しんできたことの報いだと思うべきだよ。リョウジはその報いを受けた。だから今度は君の番」
そして立ち上がり、今度はヒメコの肩に手を乗せ、彼女を連れて部屋から出ようとした。
「自分や相手に嘘を吐いても、自分が人を傷つけたって事実は消えない。たとえ復讐されなかったとしても、やられた人間は忘れることなくずっと覚えている。あなたの言い訳なんて、相手にはどうでもいいこと。あなたは罰を受けるしかないんだよ」
途中でアイリの方を振り返ってこう言った。
その時のサクラは、彼女を蔑視していた。
アサミさんを苦しめたあの最低な元夫たちに向けたものと同じだった。
アイリは顔を歪ませながら項垂れる。
俺もそんなアイリを一瞥して、サクラたちと共に部屋を出た。
玄関には未だに固まったままのアイリの母親がいた。
「これ、もとに戻るの?」
俺が彼女を指さしながらそう聞くと、サクラはコクリと頷いた。
その時に気づいたが、ヒメコは泣いていた。
サクラはそんなヒメコの背をそっと押すように触れながら、並んで歩き出した。
俺たちはまた神社の河津桜の下のベンチに腰掛け、しばらく時間を潰した。
「アイリの言うことは、ある意味間違ってない」
ずっと黙っていたヒメコが最初に沈黙を破った。
「2年前、ミクとはたまたま帰る道が一緒で、クラスメイトでもあったから、一緒にこの神社に寄り道したりして次第に仲良くなった。この神社で野良犬を見つけた時、一緒に飼い主を探そうとしたこともある」
少し風が強くて、そして刺さるように寒い。
風はヒメコの声と涙をさらっていくものの、それでも容赦なく吹き付けていた。
「それぐらい私達は仲が良かった。ミクはずっと、私のことが好きだった。でも、それは友達としてではなく、恋人になりたいから」
似たような話を聞いたことがある。
確か、エイドという男にそんな話しをしていたっけ。
あの時は名前まではわからなかったけれど、どうやらアイリにいじめられていた三編みの少女のことだったらしい。
「告白されたとき、私はなんのことかわからなかった。でも、次第に向こうがそういう目的で私に近づいたんだって気づいて、私は距離を取るようになった」
サクラは足を組んでベンチにふんぞり返りながら、川の方を見つめていた。
態度だけではヒメコの話を聞いているかどうかわからないが、その方がヒメコも話しやすいのかもしれない。
「距離を取るようになっても、ミクは思った以上にしつこくて、私への思いは変えようとしなかった。友達でいようって私は何度も言ったけれど、向こうが聞く耳を持たなかったから、段々鬱陶しくなった。一方で、このままだと何かされるんじゃないかって思うようになった」
「それで」
ようやくサクラが口を開いた。
「アイリにそのことを話したってわけ?」
「ううん。最初はアイリじゃなくてリョウジ。同じ頃にリョウジと奴らの仲間と知り合って、この人達なら私を守ってくれるんじゃないかって思った」
そして、ヒメコは両手を擦りながら項垂れる。
その様子は、まるで懺悔のようにも見えた。
「あいつらなら、ミクだけじゃなくて、両親のこともなんとかしてくれるんじゃないかって思った。でも、頼ったのが馬鹿だった。所詮はあいつらは飢えた獣だった。私はあいつらに餌を与えてしまっただけ。ミクの秘密を知ったあいつらは、その日から容赦なくミクを追い詰めて、なぶり続けた」
想像に難くなかった。
リョウジに少しでも弱みを見せれば、奴はずかずかと入り込んで人間性を破壊していく。
血に飢えた獣というのはあながち間違いではないと思う。
「私は最低なことをした。他に手段がなかったなんて、言い訳だってこともわかってる。私も、人から恨まれて当然のことをしたんだから」
俺はヒメコを責めることも、慰めることもできないと思った。
友達を売ったというのは事実だけれど、一方でどうしようもなかったようにも思えた。
ミクにしつこく言い寄られて、身の危険まで感じたというのが事実であれば、それに対して身を守る必要はあっただろう。
誰かに相談するという手段はあっても、内容がかなりデリケートなものだし、かつミクが自身の嗜好を隠そうとしていたのであれば、誰かに相談したところで、どういう解決が得られただろうか。
下手をすれば、ミクの心を壊していた可能性もある。
これは、どう転んでも仕方がないのではなかろうか。
「どんな理由があれ、そのミクって子をあいつらがいじめた事実は変わらないし、あなたが彼女をそいつらに売った事実も消えない。確かにあなたは酷いことをしたんだと思う」
項垂れるヒメコに、サクラは淡々とした口調で言い放った。
「でもさ。人間って、生きているうちにたくさん人を傷つけて生きていく。小さいことや大きいことに関わらず、生きて人と関わっていくなら、それは避けられない運命。問題は、自分の犯した罪と向き合って、後悔と自責の念を忘れないか、だと思う」
「・・・・」
「この世の中、自分のしたことを後悔できる人は少ない。あなたはまだ、自分の過ちを悔いることができてるじゃん。それだけでもまだマシな方だと思うよ」
そこまで言って、サクラはゆっくりとベンチから立ち上がり手でスカートの埃を払った。
「とはいえ、向こうはそう思ってくれていないだろうけれど。とりあえず、そのミクって子も、十分注意した方がいいね」
「え?」
ヒメコは首を傾げた。
「リョウジとアイリ、そして君のことを恨んでいる。これは十分動機になる」
「ミクにそんなことができるとは思えない」
「うん。一人でやったとは私も思わない。共犯者がいる可能性だってある」
「共犯者・・・」
ヒメコは複雑な表情を浮かべる。
俺とサクラはその線で調べてはいるが、まだちゃんと確証があるわけではない。
「きっと、このスマホにヒントはあると思う」
サクラはパーカーのポケットから、アイリのスマホを取り出す。
あそこまで強引な手段を取ったのだから、その手間に見合う情報があればいいのだが。
「アイリのことはもういいの?」
すると、ヒメコは少し不安そうに聞いた。
「あの子のこと、心配?」
「そうじゃない。あいつが何かされても自業自得だと思う。けれど、ミクが犯人なら、私だってアイリみたいになっても仕方がない。私だけ、守られているのは不公平というか」
なんだかんだ言っても、襲われるとわかっている人間をそのままにするのは、気が引けるということなのだろう。
しかし、サクラは容赦なくアイリを切り捨てるつもりだった。
「あたし達の依頼主はあなた。あなたさえ守れればそれでいいの。それに、あなたの依頼は自分を苦しめる存在を無くすこと。だったら、別に問題はないんじゃないの?あたし達は手を汚さずにそれらを排除できるんだから」
「でも、それはどうかと思う」
サクラの考えに、ヒメコは異議を唱えた。
今まで自分以外の人間を憎んできた奴にしては、意外な行動である。
「リョウジを殺した奴を野放しにするのは、世の中のためにもかなり危険じゃないの?それに、決してアイリに同情したわけじゃないけれど、このままあいつが殺されるのは、なんというか、納得が行かない感じがする」
「どうしてそう思う?」
「・・・わからない。少しの間だけでも、仲間だったからかな?」
サクラの問いに、ヒメコ自身も戸惑っているようだった。
おそらく、彼女の中では、過去に親しかった人間が無惨に抹殺されることに、抵抗があるのだろう。
ヒメコも、そこまで非情になれないということか。
しかし、サクラはそれでも考えを曲げるつもりはないようだ。
「犯人は特定の人間だけを狙っている。無差別に人を殺す程、追い詰められているわけでもない。つまり、野放しにしても社会には迷惑はかからない。まあ、あなたには害があるけれどね」
それを聞いたヒメコは俯いた。
「いずれは犯人は捕まえる。あなたが殺される前にね。それまでは、相手を泳がせておくしかない」
サクラの隙きのない言葉に、ヒメコは納得がいかない顔をしつつ、立ち上がって歩き出した。
「今日はもう帰る」
その呟いて、サクラの横を通り過ぎ、ずんずんと前へと進み続けた。
俺もその後に続こうとしたとき、サクラに手を掴まれた。
「今夜は帰らないよ。君にも少し付き合ってもらうから」
なんのことかわからないが、サクラはまたふてぶてしく笑っていた。
ヒメコを送り届けた後、サクラは俺を連れて、来た道に戻り始めた。
「なあ、何を企んでいるんだ?」
「企むって酷いな」
大方、アイリに関することなのだろうが、詳細をサクラは語らなかった。
案の定、俺たちはアイリの家の前に辿り着いた。
「で、どうするんだ?」
「別に。今夜は徹夜で見張るだけ」
そう言うと、サクラはアイリの家の向かいにある電柱の下に座り込んだ。
「結局、アイリのことを守るつもりなのか?」
あれだけ冷酷な発言をしていたのに、最終的にはアイリを助けるというのは、どうも腑に落ちない。
「助けるつもりはないよ。ただ、犯人が現れる可能性があるかもってだけ」
「つまり、犯人を捕まえるために、アイリを囮にすると?」
「汚い言い方をするとそうだね」
確かに、それは方法としては間違っていないと思う。
「やり方に文句でもある?」
「まさか」
サクラにそう聞かれて、俺は首を振った。
「いじめをする奴なんだから、助ける価値なんてないだろ?」
俺がそう答えると、サクラは何も言わなかった。
その代わり、パーカーのポケットから、アイリのスマホを取り出して、画面を操作し始めた。
「どれどれ、何がわかるかな」
スマホの画面を操作するサクラは、どこかウキウキしている。
人のスマホを盗み見ているのに、笑っているというのも、なんだか妙な絵ではある。
「君って以外にも皮肉屋だね」
また俺の心を読んだサクラは、俺をじっと睨みつけた。
「それは申し訳ない」
心にない謝罪を述べながらも、俺もサクラと似たようなものだと思った。
人の秘密に触れ、知られたくないものを覗き見る。
そういう行為に、妙な高揚感を得る気持ちは確かにあった。
人のことは言えないくせに、こうしてサクラをおちょくることもできる余裕さえある。
俺はすっかり、グレーな世界に浸かってしまっているようだ。
それからしばらくの間、サクラはアイリのスマホとにらめっこした。
サクラに代わって、俺がアイリの家を監視していたが、今のところは静かなものである。
電柱にもたれかかっていたが、なんだか背中が痛くなったので、俺も地べたに座ることにした。
「ふあー」
すると、隣から大きなあくびが出てくる。
「今の猫みたいだった」
俺が笑いながらそう言うと、サクラは目をショボショボとさせながらまた画面を見つめた。
「まあ、未だにあの頃の記憶は残ってるからね」
「ツナが好きなのもそれが理由か?」
「ツナは人間になってから好きになった」
「へえ、そうか」
ふと、ツナの話をしてみると、妙に香ばしい匂いが漂ってきた。
どこかの家で食事でも作っているのかもしれない。
サクラのあくびに誘われて、俺もあくびが出そうになり、奥歯で堪えるようにした。
雑談でもしていないと、気が紛れない。
「それにしても」
サクラは呆れたように言った。
「今どきの子ってのは、見境がないねー」
「何が?」
「金と承認欲求のためなら、自分の体も安売りするってこと」
「ふーん」
ちらっとスマホの画面を除くと、顔をモザイクで隠した女が制服をはだけさせて、下着を見せつける画像が目に入った。
顔がわからないので、それがアイリなのか、別の誰かなのかはわからない。
「それにホイホイと釣られる男も男だけどさ」
溜息を時折こぼしながら、サクラはスマホに指を走らせていく。
こんな小さな機械の中で、人はなんでも完結した気でいると思うと、どうにも不思議なものだ。
姿の見えない相手とメッセージだけでやり取りして、それで繋がっていると思っている。
周りにはたくさんの人が行き交っているのに、スマホの中でやり取りしている相手だけしか見えていない。
情報でしか見えない相手が、本物だという証拠はどこにもないはずなのに、人はその相手を信じているように思える。
スマホだけで、自分は外の世界と繋がっていると思っている。
いや、それ以外で外の世界と繋がる方法がわからないのかもしれない。
スマホを弄るサクラを見て、なんとなくそんなことを思った。
そして今度は夜空を見上げてみる。
黒い虚空に、煌々と月が存在感を示している。
この世界はこんなにも広いのに、人は小さい画面ばかりを見ている。
それはまるで、以前の世界から消える前の俺と同じようだと思った。
「君はあの子とは一緒になれない」
暗闇の中で、サクラは冷たい眼差しを向けて言い放った。
「どこに行っても、君は独りきり。人並みの幸せなんて、君には高望みでしかないんだよ」
反論しようにも、声が出てこなかった。
「ずっと騙していたんですね」
そして今度は、背後でハルが厳しい視線を俺に向けていた。
「あなたと一緒になりたいって思っていた。けれど、あなたは姿が見えない。それじゃあ意味なんてないじゃないですか。私の純情を弄んだんですね」
違う、という一言が出てこない。
なんで、叫びたくても声が出ないのか。
否定したくても、その事実を俺がどこかで認めてしまっているのか。
そう思った瞬間、これは夢なんだとわかった。
それがわかると、一気に目が覚める。
そして、目の前が妙に明るかった。
目を擦りながら前を向くと、大きな炎がアイリの部屋から上がり、周囲を明るく照らしていた。
そしてアイリの家の前で、サクラがパーカーのポケットに両手を入れながら、炎を見上げるようにして立っていた。
すぐに起き上がり、サクラの隣に立った。
「消防車!」
「もう呼んである」
アイリの部屋から燃え上がる炎を見つめながら、サクラは冷静な口調でそう言った。
俺が家に向かおうとすると、サクラに手を掴まれた。
「何する気?」
「このままだとまずいだろ!」
「無駄だよ。もう手遅れ」
「そんなのわからないだろ!」
「わかるよ。あたしにはわかる」
サクラは俺の方をじっと見つめて言った。
「いくら君でも、あそこに行ったら何もできずに死ぬよ?」
俺はもう一度、炎の上がる部屋を見つめる。
火は背の高さ以上まで燃え上がって、部屋の窓から吹き出していた。
きっと、煙も相当なものだろう。
その時、遠くから消防車のサイレンが鳴り響いてきた。
「もう行こう。あたし達にできることは何もない」
そのままサクラに手を引かれ、俺たちはその場を後にするしかなかった。
ゆっくりと2人で来た道を引き返し、やがて神社へと辿り着いた。
煌々と光る自販機で、サクラは缶ジュースを2本買い、一方を俺に差し出した。
俺は黙ってそれを受け取り、蓋を開けてごくごくと飲んだ。
俺と違って、サクラはちびちびとジュースに口を付け始める。
しばらくお互いに黙っていたが、やがてサクラがおずおずと口を開いた。
「あの時、あたしと君は眠っていた」
俺も、どこまで起きていたのか覚えていない。
気づいたら、夢の中でサクラとハルに責められていた。
「あたしも、どこで眠ったのか覚えていない」
サクラも困惑しているようだった。
彼女にしては、こういうミスは珍しいと思う。
「俺たちが起きていれば、あんなことにはならなかったのか?」
そう聞くと、サクラは缶ジュースに再び口を付けてから答えた。
「なんだか腑に落ちない。あの時、あたしたちは眠らされたような感じがする」
「どういう意味だ?」
「起きていた時に、変な香りがしなかった?」
そう言えば、妙に香ばしい香りがしていたように思う。
それが何か関係があるのだろうか。
「あの匂い、どうも引っかかる。催眠効果のある匂いはいくつか知っているけれど、あの匂いはそういうのでもない。でも、なんというか・・・」
サクラ自身もありえないというような感じで語った。
「あの匂いが香った時、あたしが力を使うときと同じ感触があった」
「えっ?」
「おそらくだけれど、別の誰かが力を使って、あたし達を眠らせた」
「それってつまり・・・」
「・・・・」
サクラはそれ以上答えなかった。
俺もありえない話だとは思うが、サクラが言ったことが正しいのであれば、サクラの他に彼女と同じ力が使える人間がいるということになる。
そして、もし意図的にそいつに眠らされたとしたら、そいつがアイリの部屋に火をつけたというのも十分考えられる。
「そうだね。あたしたちを眠らせてから、部屋に火を付けた。そして、あたしからアイリのスマホを奪ったのも、そいつかもしれない」
「えっ?」
そういうと、サクラはパーカーのポケットを裏返して見せた。
「起きたらスマホが失くなっていた。たぶん、放火犯に盗られたんだと思う」
「そんな・・・」
「安心して、必要なデータは全部移しといたから」
それを聞いて、俺はホッとしつつも、得も言われぬ恐怖を感じた。
放火をした犯人は、間違いなく、リョウジとアイリ、そしてヒメコに殺人予告を出した相手だろう。
そして、そいつがもしサクラと同じ力を持っているとしたら、俺はヒメコを守り通すことができるのだろうか。
「確かにそうなると、危険度は高くなってくるね。あたしでも太刀打ちできるかどうか」
サクラは顔を俯かせた。
なんだか、状況はより厳しくなっているように思う。
それに俺たちは犯人よりも遅れを取っていた。
「でも、相手がアイリのスマホを奪ったということは、そこに何か重要な情報が隠されているんだと思う。まだ、勝負は決まったわけじゃない」
そう言うと、サクラは俺に手を伸ばしてきた。
「まだあたし達は戦える。今はやるべきことをやろう」
すでに、普段の天真爛漫なサクラに戻っていた。
彼女のポジティブ主義には、俺も脱帽する。
「そうだな」
一抹の不安を抱きつつも、俺はサクラの手を握り、ジュースを飲み干して空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
ホテルに戻ってから、俺たちは夜通し、アイリのスマホにあった情報を解析した。
と言っても、その作業はほとんどサクラがやって、俺はサクラが得たトモチャの情報を精査するだけだった。
リスト化したアイリのトモチャでやり取りした人物を確認していると、聞き覚えのある名前が目に留まった。
「これ・・・」
ランダムに出力されたリストの中に、「エイド」という名前があった。
「何か見つけた?」
ノートパソコンから目を離したサクラは俺の方に顔を向けた。
「エイドって、確か以前にヒメコと会っている」
「んー、どれどれ」
サクラは再びノートパソコンに目を通す。
しばらくキーボードを打った後、俺の方に画面を見せに来た。
「やりとりを見る限りだと、普通の会話っぽいね」
ノートパソコンの画面には、アイリのトモチャのメッセージの履歴が表示されていた。
「はじめまして」から始まり、アイリの方から「ホ別2万でどうですか?」という返事が来ていた。
「どういう意味?」
「2万円でホテルに行こうってさ」
「ふーん」
どうやら、アイリは相当こういうことに慣れていたみたいだ。
さらにメッセージは続いていく。
「僕なら3万円出せるけれど、どう?」
「いいんですか!嬉しい!いつにします?」
「君の好きなタイミングでいいよ」
「じゃあ来週なんてどうですか?」
最初はそういうやり取りで、それからは他愛もない会話が繰り返されている。
「君は高校生?」
「はい!現役のJKです!」
「いいね。学校は楽しい?」
「まあ、それなりに」
それから趣味のこととか、休日には何をやっているのか、あとは卑猥なやり取りが続いた。
しかし、今から3日前のやり取りを最後に、唐突にメッセージが消えていた。
「メッセージはこれだけか?」
「うん。でもこれは、どちらかがアカウントを消したか、やりとり自体を削除したみたいに見える」
「つまり、意図的にメッセージを消したってこと?」
「たぶんね。君に渡したこのリストは、アイリのスマホに残っていたデータを抽出して出しているから、過去のアカウントの記録も残っている。でも、彼女のスマホにやり取りが残っていたかまではわからない。このアカウントが存在するかどうかもね」
「これ以上はわからないか?」
「そうだね。スマホがあればもう少しわかるんだけれど」
またしても重要な手がかりは得られなかった。
でも、ヒメコと接触したエイドという人物が、アイリともやり取りをしていて、かつ意図的にメッセージを削除した記録があるとすれば、そのエイドに関する情報を集めると、何かわかるかもしれない。
まるで、道に落ちているパンくずを拾いながら、彷徨っているようだった。
「今、妹ちゃんに連絡してみた。そのエイドとかいう人間についてわかることがあるか」
ヒメコから連絡が来るまで、俺たちは少し遅めの食事を取った。
サクラは相変わらずツナサンドを食べ、俺はカップ麺を啜った。
食事中に、サクラのスマホにヒメコからの返信が来た。
「エイドさんのアカウントが失くなっている。たぶん、向こうが消したんだと思う」
短い文章でそう返事が来た。
「いつアカウントが消えたかわかる?」
サクラがそう送ると、ヒメコからすぐに返信が来た。
「3日前までは返事が来ていた。たぶんそれ以降に消したんだと思う」
アイリとエイドのやり取りが消えていたのも3日前だった。
そう言えば、リョウジの遺体が発見されたのも3日前だったように思う。
「偶然とは思えないよね」
サクラは考え込むように腕を組んでいた。
「これ以上、エイドの情報は掴めないのか?」
「うーん。知り合いにちょっとした技術を持っている人間がいるから、その人に頼めば、もう少しわかると思う。もしかしたら、消えたメッセージを復元できるかもしれない」
サクラの伝手は頼りになるが、その人が堅気かどうかは怪しいものである。
しかし、今は少しでも情報がほしいところだ。
「俺はこの後はどうすればいい?」
「もちろん、妹ちゃんの面倒を見ていて。まだ驚異は去ってないから」
「わかった」
とりあえず、今日はできる限りのことはした。
あとは明日に備えてゆっくりするだけだが、先程眠った所為で、なんだか目が冴えてしまっている。
「私も今日は眠れないかも」
サクラも苦笑いしていた。
こんな時は無理に寝ようとしても仕方がない。
「じゃあ、ちょっと大人の階段、昇ってみようか」
そう言うと、サクラは自分のバッグの中から、1本の瓶を取り出して、俺の方に放り投げた。
慌ててキャッチして、瓶を眺める。
この間、サクラが飲んでいたウイスキーだった。
「飲めば少しは眠くなるよ」
「いや、でも俺、まだ未成年だし」
「もうそういうのは気にしなくていい立場じゃん」
とはいえ、なんとなく抵抗があった。
酔うという感覚がわからないし、未知のものに対する怖れとか、良心の呵責もあった。
「君は真面目だねー」
サクラは茶化すように言った。
「まあ、そこが君のいいところだけれど」
俺は瓶を握りながら、ベッドに腰掛けた。
そして、しばらくそのまま、ウイスキーとにらめっこをした。
「なあ、アイリは死んだと思うか?」
「・・・うーん。どうだろうね」
「ヒメコは、どう思うかな」
次第に飽きてきたのか、サクラはまた作業に戻り始めた。
カタカタと、サクラがキーボードを叩く音だけが聞こえてくる。
なんだか、他に話すこともなかったが、この際、一つだけ胸につっかえていることを話した。
「・・・さっき、寝ている時、夢の中でお前とハルが言ったんだ」
「ん?なんて?」
「お前は、俺とハルが一緒になれないって言った。人並みの幸せなんて高望みで、ずっと孤独に生きるんだって。ハルは、俺が姿が見えないことを知っていて、騙していたんだなって俺を責めていた」
「ふーん」
サクラはノートパソコンの画面を見ながら、聞き耳だけ立てていた。
「夢で言っていたことだから、本気にしなくていいとは思う。でも、俺はやっぱり心のどこかで、そう思っちまっているんじゃないかってさ。もちろん、お前の所為だとは思ってない。この自由な暮らしは、お前のおかげで手にできたんだから」
ここまで言っておきながら、俺は自分が何を言いたいのかわからなくなっていた。
ただ、サクラに話を聞いてもらって、気を紛らわせたかったのかもしれない。
「俺はずっと、自分の幸せなんて考えてこなかった。俺はどうやったって、人が当たり前に望むような幸せは手にできないんだって。そしたら、お前が現れて、俺は別の人生を生きている」
瓶を軽く振ってみると、中の茶色い液体が、波を立てて揺らいだ。
それが、部屋の光に当たって、妙に恍惚さを醸し出している。
「なあ、俺は幸せなんだよな?幸せなのに、なんでこんなに苦しいんだ?」
そこまで言うと、サクラはキーボードのエンターキーを軽やかに叩いて、ノートパソコンを閉じた。
「・・・それはね、君が今まで自由と幸福をよく知らなかったからだよ」
そして、サクラは優しい眼差しで俺を見据えてきた。
「これまで君が生きていた世界から、全く生き方の違う世界に来た。だからまだ混乱しているんだよ。これまでの18年の人生と、新しい人生の約半年。あまりにも差がありすぎる。慣れるまで時間はまだまだかかるし、その分の罪悪感は感じるだろうね」
サクラの言う通り、今までの生き方しか知らない中で、急に自由と幸福を与えられたわけだから、その使い道がわからない状態だった。
最初の頃は戸惑いがあったけれど、やがてこの世界での生き方が段々わかってきて、それなりに充実した日々を送っていた。
その中で、この生き方に後ろめたさを感じているのは、まだ俺が今の自分の生き方に戸惑っているということなのだろうか。
「前にも言ったけれど、君にはまだまだ時間はある。自分のために生きるって簡単なことじゃないし、君ならではの辛いこともあると思う。でも、今の君を虐げる人がいないのは紛れもない事実。これからの未来を、もう恐れなくてもいいんだよ。それだけは忘れないで」
サクラの柔らかい笑みに、俺も思わず顔をほころばせた。
「ああ」
そして、瓶の蓋を開けて、ウイスキーを少しラッパ飲みしてみる。
「ぐっ!」
急に喉にかあっとした熱が入って、俺は思わず咽てしまった。
こんな飲み物、今まで飲んだことない。
「ああっ!」
咽る俺に対して、サクラは素っ頓狂な声を上げる。
「なんでラッパ飲みしちゃったの!」
「・・・ごめん。こんなにきついとは知らなくて・・・」
「飲むならコップに入れて飲んでよ!あたしも飲む予定だったのに!」
「えっ」
サクラは俺を心配しているわけではなかった。
そんな彼女に、先程までの感謝の気持ちが冷めていく。
「全くもう!第一、ウイスキーは素人がそうやって飲んでいいものじゃないの!」
「だって知らなくて・・・」
「はあ、君はまだまだだね」
サクラは俺のもとにやってきて、背中をトントン叩いて擦ってきた。
小さい頃から、私は普通の子供じゃないんだと自覚していた。
同じ性別の子に心をときめかせる私を、両親は心配して病院に連れて行ったりした。
今でこそ、LGBTという言葉が広く浸透してきてはいるが、まだまだこの世界では私達のことを異質だと捉える風潮は根強い。
いや、それどころか排斥しようという空気が当たり前に漂っている。
父にとっても、普通ではない私には価値がなかったらしい。
同性を好きになるということは、結婚して子孫を残すことができないから、父はかなり失望していた。
母は父ほど私を蔑ろにしなかったが、私を病人のように思っている節があって、異様に目をかけていた。
父はともかくも、母のことは好きだったが、この愛情は私が普通でないからこそ来ているものなんだと思って、悲しくなるときがあった。
私のような人間は家族間でもまだまだ理解は得られない。
ましてや、外の世界はさらに残酷だ。
だから、私は自分のことを隠して生きてきた。
私のような人間には人並みの幸せを得る権利はないのだと、自分に言い聞かせるようにもなった。
それでも、やっぱり私は人を好きになってしまった。
ヒメコとは帰り道がたまたま一緒で、最初はお互いになんとなく顔を合わせるだけだった。
学校で孤立していた私にとって、友達なんてものは手にしたくてもできない代物だったから、彼女ともそこまでの関係にはならないと思っていた。
ある夏の日。
私はなんとなくだけれど、いつもの通学路にある神社に足を運んだ。
普段、来ることなんてないのに、その日は少し寄り道をしたいと思ってしまった。
たぶん、私は「彼に呼ばれていた」んだと思う。
神社の境内に立派な河津桜があって、その根本のベンチに、一匹の犬が座っていた。
柴犬だった。
首輪は付いていなかったから、野良犬だったのだろう。
私と目が合うと、その柴犬はまるで助けを求めるような顔をしていた。
私は一歩一歩、その子に近づいた。
その子は怯えたように、頭を下げて、及び腰になった。
犬は好きでもなければ、嫌いでもなかった。
でもその子の怯え方はなんだか妙だったから、心配している素振りでその子の前でしゃがみこんでみた。
柴犬はしばらく私をじっと見つめていたけれど、次第に私に敵意がないとわかったのか、向こうからそろりそろりと前足を伸ばしてきて、やがて私の手を舐め始めた。
「何してるの?」
突然、後ろから声がして、私はハッとなり、その柴犬は驚いて逃げてしまった。
「あっ」
追いかけようにも、その子は茂みの中に一目散に走り出してしまい、隠れて見えなくなった。
「あなた、笹川さんだよね?」
私の後ろで、ヒメコは怪訝な顔をして立っていた。
「う、うん」
この頃の私は、ヒメコのことが少し苦手だった。
常に他人を射るような目つきをしていたし、なんだか家庭に問題を抱えているとか、悪い連中と付き合っているとか、少なからず噂が立っていたから。
「笹川さんもここに来るんだ」
「う、ううん。今日初めて来た」
ヒメコに聞かれ、私は目を合わせずに首を振った。
すると、ヒメコは柴犬の逃げた方向を見て、溜息を吐いた。
「あの子、ここ最近見かけるようになったんだけれど、私が来るとよく逃げ出すんだよね」
そして、私の方を見て、ふっと笑いかけてきた。
意外な微笑みを向けられて、私は戸惑った。
「でも、笹川さんには懐いていた感じがしたね。笹川さんは犬好き?」
「えっと、それなりには」
「私もそんな感じ」
すると、ヒメコはスクールバッグをベンチに置いて、どんと腰掛けた。
そして中から購買で買ったらしいメロンパンと問題集を取り出した。
「そう言えば、笹川さんって帰り道同じだよね。家はどの辺?」
「えっと・・・」
家の場所を聞かれて、私は警戒してしまった。
もし正直に答えて、家に押しかけられたりしたらどうしようと思った。
「もしかして、警戒してる?」
「あっ、その・・・」
心を見透かされておどおどする私に対し、ヒメコは怒るどころか笑っていた。
「まあ、確かにそう思われても仕方ないかもね」
そして、一瞬悲しそうな顔をしたように見えた。
「気にしないで。大した質問じゃないから」
そのままヒメコはシャーペンを取り出し、問題集に取り組んだ。
すでに目の前の課題に集中し始めていたヒメコに、私は声をかけられず、会釈だけしてその場を後にした。
それから、なんとなくヒメコのことを気に掛けるようになった。
ああやって、人と話をした事自体、随分久しぶりだったから。
その日から、私はあの神社に足を運ぶようになった。
最初にあの柴犬がいて、しばらくその子と戯れた後、ヒメコが遅れてやってきて、柴犬が逃げる。
その後は、ヒメコと宿題をしたり、ちょっと雑談をしたり、ヒメコが持ってきたお菓子を食べたりして過ごした。
そういう日々がしばらくの間続いた。
話をしてみると、ヒメコは案外良い子だった。
それなりに悩みを抱える、同じ10代の女の子だった。
そして、次第に私の中で、これまで抑え込もうとしていた存在が徐々に首をもたげてきた。
豪胆に見えて繊細な彼女の心。孤独を好むふてくされた態度とは裏腹な、可愛らしい笑顔と人と繋がりたいと思う気持ち。
その全てが、愛おしく思えたのだ。
そう。
私はヒメコに恋をしていた。
彼女は単なる友達としてしか、私を見ていない。
それはそうだろうと理解している。
だから私も、そう割り切ろうとしていた。
でも、一度芽生えた気持ちは、そう簡単には消えてなくなるものではなかった。
その思いに、私はずっと悩まされ続けた。
けれども、ヒメコと一緒に過ごしたあの時間は、悩みながらも愛しい思い出だと、今でも思っている。
少なくとも、孤独を選ばざるを得なかった私が、唯一この世界と繋がっていた時間だったから。
目を閉じて、当時のことを思い返していた。
校舎の3階の家庭科準備室。
窓から吹く風は、いつだって冷たくて強い。
気を許していると、瞬く間にさらわれそうになる。
あの窓から地面を見下ろす度、何度ここから落ちて、楽になろうと思ったことか。
けれど、もうそんなことはどうだってよくなった。
なにせ、また一つ、私を悩ませていた存在が消えたのだから。
昨晩、アイリの家が放火に遭った。
彼女と彼女の家族は死ななかったものの、アイリは煙を吸って、意識不明の重体になったらしい。
彼からのメッセージを読んだ瞬間、ざまあみろ、と心の中で叫んでいた。
でも一方で、その事実を知ってから眠ることができなかった。
不思議と頭が冴えていて、ぼうっとなってしまう。
興奮しているのとはわけが違う。
これは、たぶん恐怖だった。
加害者がいなくなれば、幸せになれると思っていた。
でも、実際はそんなことはなく、ただただ虚無感と緊張に支配される。
リョウジが死んだ直後もそうだった。
私は間違いなく、犯罪に加担している。
直接手は下していなくても、疑われる立場にある。
彼は心配ないと言っていた。
私が疑われることは決してないと。
でも、どこからそういう自信が来るのかはわからない。
彼は、私のことを救うとだけ言ってくれた。
その方法に関しては、私は彼に一任している。
その結果が、リョウジとアイリの末路だった。
彼のことを思い返した時に、スマホが震えた。
「やあ、すまない。今、大丈夫だった?」
電話に出ると、いつものように飄々とした彼の声が響いた。
「うん。大丈夫」
「どうしたの?元気ないね?」
「・・・昨日から寝れてなくて」
「ああ、確かリョウジの時もそうだったね」
私はそのまま窓から顔を引っ込め、壁にもたれながらずるずると座り込んだ。
「別に君は気にしなくていいんだよ。手を下しているのは俺なんだから」
「そうだけどさ」
「もしかして、あいつらに同情とかしてるの?」
その言葉に、異様な冷たさを感じ、私は思わず首まで横に振った。
「全然。それはないよ」
「そっか。よかった」
次の瞬間には、彼はいつものように明るい声色に戻っていた。
「ほだされたって言ったら、どうしようかと思ったよ。まあ、君なら心配ないと思うけれど」
「うん」
あいつらは、こうなって当然のことをした。
これは当然の報いなんだ。
私はそう言い聞かせる。
「アイリは、どうなったの?」
「さっき、病院に行ってきたけれど、まだICUから出てこないみたい。しかしまあ、確実に殺るつもりだったのにね。申し訳ない」
物騒なことなのに、彼が言うと、どうも拍子抜けするのだから不思議だった。
計画では、アイリの部屋に侵入した後、彼女を縛り上げて、目の前で炎が燃え上がるのを見せながら、じわじわと殺す予定だったらしい。
しかし思いの外、すぐに消防車が来てしまい、アイリは煙を吸っただけで済んでしまったのだ。
「まさか、邪魔者がいるとはね」
昨晩、アイリの家の前で座り込んでいた連中がいたらしい。
どうやったのかは知らないけれど、そいつらを眠らせてから犯行を行ったようだ。
「消防車を呼んだのは、そいつらなの?」
「たぶんね。だけど、しっかりと眠らせたはずなのにな。なんでだろう」
珍しく、彼は本気で不思議がっているようだった。
彼からはとぼけた雰囲気を感じるものの、計画は入念に立ててから実行する。
意外と真面目なタイプだし、どうやっているのかはわからないけれど、彼は器用に犯行を行うことができた。
そんな彼でも、予想できないことはあるらしい。
「そいつらは大丈夫なの?」
恐る恐る聞くと、彼は「うーん」と唸った。
「大丈夫ではないよ。何者かわからないのに、間違いなく俺の計画を邪魔している。でも、手を打つことはできる」
「手を打つって?」
「身元はわからないけれど、ある程度情報は掴めている」
「どうするつもりなの?」
「まあ、簡単に言うと、人質だね」
「人質?」
思わず私は声を出してしまった。
そして、周囲に誰もいないかを簡単に確認した。
「うん。誰だって何かを盾にされれば動けないものさ」
さすがに危機感を感じ、小さな声で、ひっそりと彼に語りかける。
「ねえ、そこまでする必要はあるの?」
「なんで?」
しかし、彼はきょとんした声で言った。
「俺は君のためにしているんだよ?憎い相手を一人残らず消し去る。君の願いだったじゃないか」
「だからって無関係な人を巻き込むのは」
「まあ、ある程度の誤算ではあるけれど、別にその人に執拗に危害を加えるつもりはないよ」
なんだか、電話越しに彼が笑っているのが想像できた。
彼は、この状況を楽しんでいるのかもしれない。
「俺には協力者がいてね。以前、彼の願いを叶えてあげて以来、俺に借りがあるんだ。彼の協力を得られれば、なんとかなると思う」
「そういうことじゃなくてさ」
「大丈夫だって。俺は猟奇殺人鬼なんかじゃない」
本人はそう言っても、人を殺している以上、そんな言い訳は警察には通用しない。
でも、彼にとってはそれすらも取るに足らないことなのだろう。
「ねえ、君が俺の提案にのってくれた時に、俺が言ったことを覚えてる?」
私の心配を察してなのか、彼は少し柔らかい口調でそんなことを聞いてきた。
「・・・覚えてるよ」
『俺は君を助けてあげられる。だから俺を信用してほしい』
トモチャで彼に告げられた言葉だ。
あの頃は、半信半疑だったけれど、まさかここまでの事態になるとは思ってもみなかった。
「君は、今でも俺を信じているよね?」
「・・・うん」
今はただ、そう頷くことしかできそうにない。
私が頷くと、彼は無邪気な声で笑った。
「よかった。君はただ信じて待っていてほしい。君が望む未来は、もうすぐそこにあるんだから」