遠い記憶の香り
季節には一つ一つ匂いがあると俺は思っていた。
ある時期になると、特定の匂いが風に運ばれてどこからか香ってくる。それで春が来たんだと理解できるし、秋になったんだなと、しみじみと思うことがあった。
小学校の頃、学校の帰り道に寄り道した神社から薫ってくる桜の花びらの香りが、俺の中の春の匂いだった。
香りは目に見えないものの、そこに確かな存在感を持っている。
そして時には、かつての記憶を刺激する要素の一つにもなる。
犬が飼い主のことを匂いで認識するように、人も匂いによって、遠い記憶を思い出すことができると俺は思っている。
春の匂いが薫るたびに、俺は近所の神社のことをよく思い出した。
実家の近所にある小さな神社は、俺にとっては小学校の帰り道にある穴場だった。
当時も、そして今でも、そこにどんな神様が祀られているのかはわからないままだが、まだ神様のことを本気で信じていた頃の俺は、毎日なけなしのお小遣いを少しずつお賽銭にして、祈願をしていたものだ。
そして願う内容はいつも同じもの。
「もっと両親が俺のことを見てくれますように」とか「妹だけでなく、俺も玩具がもらえますように」とか。たまに学校でのこともお願いすることがある。
願い事をした後は、境内に一本だけ咲いている河津桜の下のベンチに座って、宿題をしたり本を読んだりして時間を潰した。
時折、巫女姿の女性が境内の掃除にやってくるぐらいで、人通りは全くない。
隣接しているそこそこ大きな公園から、たまに子供たちの遊びに興じる声や散歩中の犬の鳴き声が聞こえるぐらいなので、集中して勉強や読書ができた。
そして夕方の5時を知らせるアナウンスが流れると、ランドセルを持って重い足取りで家へと帰る。
この神社は俺にとってのオアシスであり、何かあった時の避難所であり、唯一の居場所だった。
そう思っていたのも、俺がずっと周囲の人間からは「いないもの」として扱われてきたから、というのもある。
学校には友達と呼べる人はいなかったし、血の繋がった家族でも例外ではなかった。
自分の存在がこの世界に認められていたのは、2歳の時に妹が生まれるまでだったと俺は思っている。
両親にとって俺は最初の子供で、何かと手が掛かったのに比べて、妹は小さい頃からなんでも器用にできたし、なんでも言うことを聞いた。
勉強も運動も芸術も、俺が望んでいたそれら全てが、俺にではなく妹にすべて吸い取られていた。
両親の期待や愛情でさえ、俺ではなく妹に全て注がれていった。
言葉を話すのも、2本足で立ち上がるのも俺より早かった妹は、成長するにつれて様々な才覚を見せた。テストではほぼ百点満点が常だったし、調子が悪くても90点台が基本だった。
絵を描かせれば県で銀賞を取る実力だったし、ピアノだって学校の校歌伴奏をいつも頼まれるほどの実力を持っていた。スポーツだって、運動会の競争ではいつも1等賞だった。
対する俺はいつもその逆。
勉強もスポーツも音楽も絵も平均以下。これといった特技や熱中できたものなんて、これまで一つもなかった。
両親は最初、俺を何もできない子供として哀れみを持って接していたが、やがて問題児として俺を見るようになった。
そう思ったのは、両親の妹と俺に対する扱いの違いからだった。
クリスマスや誕生日には、妹は必ず父と母から1個ずつプレゼントをもらっていたし、両親は妹がやりたいこと、欲しいものは全て与えていた。
俺はやりたいことも欲しい物も我慢させられたし、プレゼントも最初は1個だけだったが、次第に玩具が文房具セットだけになるなど、プレゼントの質もだんだん下がっていき、10歳の頃には必要最低限の服以外、何も買ってもらえなくなった。お小遣いだって、妹は俺の3倍はもらっていた。
両親は事あるごとに、「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」と俺に言った。でも本当の理由は、俺に金と手間を掛けることに嫌気が差したのだと思う。どうせ俺に何をやらせていても、自分たちの望んだ結果にはならないという諦めもあったかもしれない。
以前、俺の現状を見かねた親戚が、俺の教育方針を巡って両親と言い争いをしたことがある。
すると2人は平然とこう言ってのけた。
「だって、親の愛は有限だもの。妹に愛情が注がれている分、この子には我慢してもらわないと」
それを聞いた親戚たちは怒りを通り越して呆れかえったらしい。
両親がそういう人間なので、当然世間はもっと厳しかった。
学校の先生は事あるごとに俺にこう言った。
「妹さんはとてもいい子なのに、あなたときたら」
両親にも毎日同じことを言われていただけに慣れてしまってはいたが、俺も人間なので傷つかなかったわけではない。
クラスメイトもそれを見ているので、俺を出来損ないとして見ることの方が多かった。
俺はいつも自問自答した。どうすれば皆に認めてもらえるのか。何をすれば、両親は俺を愛してくれるのだろうか。
この頃の俺は、とにかく皆に認めてもらうことで必死だった。全て俺に落ち度があるのだと、常に自分を責めてきた。
その解決方法の一つが、神様にお願いすることだった。
きっと毎日欠かさずお祈りしていれば、きっと良いことがある。あの頃は本気でそう信じていたのだ。
そんなある日、神社に俺以外の「常連」が現れた。
黒髪のショートヘアの女の子で、いつも白のセーターと赤いスカートを来ていた。
俺が学校帰りにやってくる頃には、河津桜の下のベンチの右端にちょこんと座ってじっとしている。
彼女はある日突然現れて、(俺が勝手にそう思っていただけだが)俺の特等席に座っていたのである。
最初は自分だけの空間に割り込んできた邪魔者だと思ったが、彼女の横に立てかけられていた鈴の付いた白い杖を見て、俺は納得した。
その杖の持つ意味はすでに知っていたから、俺は何も言えなくなった。
彼女は俺の足音を聞いてこちらの方を一瞥し、その後すぐ視線を前方に移す。
そしてそこから一歩も動かず、何もしないでその場にいる。
今でこそ恥ずかしい話だが、俺は彼女の存在をウザいと思っていた。
唯一、一人きりになることで安らげる場所に、俺以外の他者が平然と鎮座している。
当時から、俺は人間というものにつくづくうんざりしていたのもあったし、人気のないという理由でこの神社に通っていたのもあったから、彼女の存在は鬱陶しいだけだった。
俺以外誰もいなければ、そもそも俺はストレスを感じないし、何かを言われることもない。
俺にはそういう誰もいない空間と時間が必要だったのだ。
彼女のわずらわしさは、日に日に蓄積されていって、強い嫌悪に変わっていった。
いつか俺は彼女に酷い言葉を言ってしまうだろう。それこそ、俺が今まで他人からぶつけられてきた悪態を、彼女に向けるかもしれない。
もちろん、それは理不尽で圧倒的に俺が悪い。
けれども、毎日周りから存在を否定されてきている俺としては、彼女を一方的に弱い存在と決めつけて、壊しやすいガラスのように粉々に砕きたいと思うようになった。
追い詰められている人間の心理って、こういうものなのだろうか。
彼女はきっと、障害を持っているだけで存在感を放っているのだ。周りから無条件に配慮され、ちやほやされる。
それが許せない。
誰からも相手にされない俺にとっては、彼女の存在が羨ましくて妬ましい。
誰かの配慮無しに生きられない弱い存在であることが、俺の黒い感情を掻き立てた。
得てして、虐げられた人間の怒りは、自分よりも弱い立場の人間に行くものだ。
だが、まだそんな自分にも嫌悪感を持っていた分、俺は少しましな方だったのかもしれない。
理性が愚行を止めていたものの、気持ちの問題は簡単に割り切れるわけではなかった。
それからずっと不満を抱えていたある日のこと、学校でクラスメイトの一人が、俺を強い力でどついたことがあった。
「おい、黴菌が歩いてるぞ」
「黴菌の癖に廊下にいるんじゃねえよ」
クラスメイトは口々にそう言った。他の子どもたちもいたが、俺を見てくすくすと笑っているだけだった。
「てかお前、カズオ菌に感染したじゃん」
「やべっ、そらよ」
俺を小突いた奴は、他の奴の肩にタッチする。
「おい、やめろよ。この」
タッチされた奴は、さらに別の誰かにタッチをしていく。
以前から、俺には相手をダメにする細菌があるらしく、それを俺の名前を取った「カズオ菌」と呼んで、そうやって菌を移していくという遊びが流行っていた。
普段の俺なら悲しいと思うのと同時に「なんてくだらないんだろう」という冷めた思いを抱くだけで終わったのだが、その時はこれまでのイライラが募っていたのもあって、俺は怒りを抱いてしまった。
行き過ぎていく彼らの背中を見て、俺は拳を震わせた。
今、ここで彼らの背後を襲えば勝てる。
衝動的に彼らに殴り掛かることを考えたが、その時たまたま別のクラスの担任が現れ、彼らのことを注意しだした。
その時の先生の注意ときたら、「黴菌呼ばわりされたカズオ君の気持ちを考えなさい」という台詞だけだった。
俺はちっとも嬉しくはなかった。
そんな注意があっても、彼らは俺を貶める別の遊びを考えるだけだったし、俺が置かれた現状は何も変わらない。
誰も本気で、俺のことを考えてくれていないのだと痛感してしまった。
いつしか怒りは、深い絶望に変わる。
結局、神様なんてものはいない。
もしいるとしたら、今俺はこんなに苦しんではいないだろう。
現に毎日毎日、寂れた神社に足を運んで、真面目に祈願を行っているのに、俺の切実な願いは何一つ叶っていないではないか。
前々から疑い始めてはいたが、やっぱり神様なんて、弱い人間がよりどころを欲して作り出した虚構の産物でしかないのだ。
そんな絶望感からか、その日、俺は神社に行く道を逸れてまっすぐ帰った。
もうあそこにいく理由もなくなってしまった。俺の居場所も、別の誰かに取られてしまったわけだし。
それからしばらくは神社を遠ざけるようになったのだが、やはり家は居心地が悪い。
両親は妹にべったりで、俺に話しかけてはこない。これまでは学校のことを積極的に話して振り向いてもらおうとしたが、それが鬱陶しいと怒られて以来、必要最低限のことしか話さなくなった。
どうせ授業参観とか運動会とかの学校のイベントがあっても、両親は俺の時だけは来てくれるわけでもないのだから。
だがやはり避難場所がなくなった事実は、自分が思っている以上に痛手だったらしく、俺は熱もないのに具合が悪くなるなど、不思議な体調不良に見舞われた。
朝起きると頭が痛く、学校へ行こうとすると、腹痛が起こった。
授業中も吐き気に襲われるようになり、終始頭を鈍痛が襲った。
病院に行っても原因がわからないと医師に言われ、両親は俺が学校をさぼろうと仮病を使っていると決めつけた。
本当に具合が悪いのに、学校へと行かされ、保健室を利用しようとしても、先生たちも俺を仮病と疑ってなかなか利用させてくれなかった。
もしかしたら両親が学校に根回しして、俺のことを仮病扱いするようにしているのかとも思った。
どんなに具合が悪いと言っても誰も信用してくれない。
そういう時は絶望がむせ返ってくるような感覚に襲われる。まるでバベルの塔の話のように、俺の言葉だけが周りと通じなくなってしまったかのように錯覚した。
でも確かに、学校が終わりに近づくにつれて、この体調不良はなくなっていくのだ。
自分の中で何が起きているのかわからず、俺は怖くなった。もしかしたら、未知の病気に罹ってしまったのかもしれない。
最悪、一生このままか、もしくは・・・。
俺はこの恐怖を打ち消すにはどうしたらいいのか必死に考えた。咄嗟に近所の神社のことを思い出した。
神様はいないと言ったけれども、この時ばかりはそれにすがるしかない。
学校が終わると、俺は足早に近所の神社へと向かった。
これは俺への神様の罰なのかもしれない。「もう神様なんていないなんて、言わないから、なんとかしてください」そんな風に謝れば、許してくれるだろうか。
境内までの石段を駆け上がると、見慣れた境内の景色に異様な一点があった。
盲目のあの少女が、砂利の上でに這いつくばっている。
その光景を見て、一気に昂っていた気持ちが冷めてしまった。
俺の足音で気づいたのか、彼女は俺の方に顔をさっと向けた。その顔は涙で赤くなっていた。
「お願い・・・助けて」
そしてか細い言葉で助けを求めたのである。
これまでの彼女に対する不満が頭を巡った。
ここでそのまま踵を返せば、俺の不満は発散されることだろう。
だが絶対に、とてつもなく大きな後悔に襲われるのは目に見えていた。
地面に座り込む彼女に、無言でゆっくりと近づいていく。
「どうしたの?」
彼女を見下ろしながら声を掛けた。
彼女はひきつけを起こしながら小さな声で言った。
「杖を、探してください」
ベンチの方をちらっと見ると、いつも置いてある鈴の付いた白い杖が見当たらない。
「何かあったの?」
目が見えない人が、自ら白杖を手放すことは考えられない。きっと何かあったのだ。
だが彼女は俯いて泣くだけだった。
言いたくない、というニュアンスが伝わってくる。
とてつもなく、彼女が哀れに思えてしまって、これまで自分が抱いていた彼女へのイメージが粉々に崩れていった。
「わかった。一緒に探す」
俺が言うと、彼女ははっと顔を上げた。
「ありがとう」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、感謝を述べられた。
そういえば、人から「ありがとう」と言われたのは随分久しぶりだったなと後から思い返した。
境内をくまなく探して、彼女の杖を見つけることができた。
杖は河津桜の木の、高い枝にぶら下がっていた。
小学生の身長では届かない高さにあったので、俺は社務所に誰かいないか探しに行った。
中でお茶を啜っていたアルバイトの若い巫女さんを見つけ、状況を話して杖を取ってもらうことになった。
巫女のお姉さんは納屋から脚立を持ってきて、それに登って杖を取ってくれた。
「はい。どうぞ」
お姉さんが杖を渡すと、彼女は涙の溜まった目をごしごしとこすった。
「ありがとう、ございます」
彼女の様子を見て、お姉さんは頭を撫でて言った。
「ねえ、よかったらお菓子でも食べていく?この間、町内会の人が持ってきてくれたお饅頭があるんだけど」
少女はこくりと頷き、お姉さんに手を引いてもらいながら社務所に向かった。
「ねえ、君もよかったら来ない?」
巫女さんは俺に手招きをした。
そのまま正直について行くと、お姉さんに「彼女は妹?」と聞かれた。
「いえ、違います。そもそも名前すら知らないし」
「でも一緒にいたよね?この子と」
ここでようやく、俺が彼女を泣かせたと疑われていることに気づいた。おそらくその人の脳内では「兄が妹をいじめた」というシナリオがあったのだろう。
「その子じゃないです」
泣いていた少女も、しくしくと泣きはらしながらも言った。
「その子は、杖を投げたりしてません」
「そっか」
それ以上、お姉さんは何も言わなかった。
社務所に入れてもらい、饅頭をごちそうになりながら、お姉さんがアケミという名前で、ここの神社の神主の娘だという事実を聞かされた。
だがアケミさんは、少女に「何があったのか」は一向に聞かなかった。
とにかく俺達には「お饅頭、おいしい?」とか、「いつもお土産をもらうんだけど、お父さんと2人だと消化しきれなくて」なんてたわいもない会話ばかりだった。
少女も次第に落ち着いてきたのか、今ではおいしそうに笑顔を浮かべて饅頭を咀嚼している。
「君たち、名前は?」
「ハルです。佐藤ハル」
先に答えたのは少女の方だった。なんとなく、この短時間でアケミさんに懐き始めたようだった。
「ハルちゃんっていうんだ。かわいい名前だね。それで、君は?」
アケミさんはにっこりと笑顔を浮かべてこちらを見る。その柔和な笑顔を向けられても、俺はまだ彼女を信用しきれていなかった。
だが、このままでは埒が明かなそうだったので、ぼそりと小さくつぶやく。
「・・・カズオです」
「名字は?」
「木戸」
「もしかして、3丁目の木戸さんの子?」
アケミさんは俺の名字を聞いて、さらにこう言った。
「あそこの家の、何て名前だっけ?女の子がいたでしょ?」
「ヒメコですか?」
「そうそう!あの子って、この近所で有名だよね!頭が良くて運動もできて、礼儀正しいって」
アケミさんはニコニコと笑っている。
ここでも、妹の自慢話を聞かされるのかと思って、俺は少し怪訝な顔をして見せた。
「そっか、ヒメコちゃんのお兄ちゃんだったか。ちなみに、カズオくんはハルちゃんとはどんな関係なの?」
「カズオ君は、いつも私の傍にいてくれるんです」
ハルがさっと口をはさんだ。
「特に何かするわけでもないから、最初は不安だったけど、それが一番落ち着くんだってわかって、いてくれるだけで嬉しかった」
アケミさんも俺もきょとんとなる。
「ああ、そうなんだ。カズオ君、ハルちゃんのこと、見守ってくれてたんだね」
「いや、まあ・・・」
ハルの言葉に、俺はくすぐったくなる。
「いてくれるだけでいい」なんて、今まで両親にも、誰にも言われたことはなかった。
その言葉の、なんと素晴らしいことか。
これまで、俺はハルに対しての様々な誤解を後悔した。
それから3人で日が暮れるまでお茶をした後、ハルの母親が迎えに来た。
ハルの母親は背が高くて品がある風体の綺麗な人で、アケミさんと俺に何度も頭を下げてお礼を言った。
「本当にありがとうございます。カズオ君もハルのこと、いつもありがとう」
人に感謝されることがほとんどなかったのに、その日だけで何回も人からお礼を言われることになった。
「じゃあ、また明日ね」
ハルは俺とアケミに手を振り、母親と手を繋いで家へと帰っていった。
その後、俺はアケミさんに謝られた。
「ごめんね、変に疑ったりして。ハルちゃんの反応からして、君がこんな酷い事するはずないのに」
「別に、大丈夫です」
「あの子ね。いつもこの時間にお母さんにお迎えしてもらってるの。たぶん、佐藤さんってこの近所のシングルマザーだと思うんだよね」
それからアケミさんはハルの家族について、知っている限りの情報を少し話してくれた。
ハルの母親は、よく俺の母親も利用するスーパーでパートとして働いており、女手一つで障害を持つハルを育てているらしかった。
聞くところによると、ハルはいつも俺が来る時間の少し前くらいにこの神社に来て、一人でただただ座っているらしかった。
きっと、母親が仕事帰りにこの道を使っているのを知って、迎えに来るのを待っているのだろうとアケミさんは言った。
「少しでも、お母さんと一緒にいたいから、家で待つよりもここで待っていたいんじゃないかな」
それを聞いて、俺は少し切なくなる。
母親が大好きだから、少しでも一緒にいたいと思って、目が見えない現実に負けず、一人でここで待っている。
家族をそこまで愛せるという気持ちは一体どんなものなのだろうか。
「カズオ君が隣にいてくれるのが、本当に心強いんだろうね」
アケミさんの言葉に、俺は自分が間違っていたことを反省した。
ここ最近、俺が勝手にいなくなったことでハルは心底心細かったに違いない。
目が見えない分、その恐怖は俺の想像を超えていたことだろう。だけど、彼女は健気に毎日、母親の帰りを待っていたのだ。
「ねえ、私からもお願いしたいな」
アケミさんはしゃがみこんで、俺の目線に合わせて言った。
「これからも、ハルちゃんの傍にいてあげてね」
断る理由なんてなかった。
俺は力強く、「うん」と首を縦に振った。
それから、俺はなるべく早めにハルの待つあの神社へと向かうようになった。
ハルはいつも同じ場所で座っていた。
少し変化があるとしたら、俺からハルに率先的に話を振ることが多くなったことだろう。
最初は他愛もない世間話から始まり、それ以降はハルが読みたがっている本の内容を読み聞かせたりとか、ハルの勉強を手伝ったりした。
ハルは次第に、杖を失くしたあの日のことを、俺に話すようになった。
あの日、ハルがいつものように神社で待っていると、小学生の男子の団体がやってきたそうだ。声からして、そう判断したらしい。
会話の内容から、彼らはある一人の男子をからかっていたそうだ。「お菓子をおごれ」とか「でないと学校に二度と来させなくする」だとか、はっきり言っていじめに近い内容だったらしい。
そしてハルのことに気づき、その矛先が彼女に向いたのだ。
彼らはハルを引きずって一人にさせ、杖を奪って面白半分で河津桜の枝に杖を投げ捨てたのだそうだ。
聞いていてはらわたの煮えくり返りそうな話だった。
だが、ハルは冷静だった。
「いつかは、そういう日がくるかもって思ってたから」
「どうして?」
俺が聞くと、彼女は寂しそうに言った。
「だって、まだこの世界は、私たちには冷たいから」
「私たち?」
「うん、障害のある人は、生産性がないんだって。テレビでも言ってたし、私の学校のクラスメイトも、あの子たちもそう言ってた」
確か最近、テレビで政治家の一人がそんな発言をして問題になっていたように思う。
障害を盾に国民の税金を堂々と消費するのはおこがましい。障害なんてものは努力を怠った人間の甘えだと。
「でも、だからと言って、こんな酷いことをしていい理由にはならない」
「そうだね」
ハルは頷く。
「でも、世の中全部が、カズオ君みたいに優しくないから」
そう言ったハルはずっと遠くに顔を向けて微笑んでいる。
「私だって、望んでこんな体になったんじゃないのにね。やっぱり生きづらいなとは思うよ。でもこの体になった以上、この生きづらい世界でもなんとか生きていかなくちゃいけない」
そしてハルは俺に向き合ってお礼を言った。
「いつもありがとうね、カズオ君。私に付き添ってくれて」
その寂し気な微笑みは、正直見たくなかった。
「当然のことだろ」
だから俺は言い放った。
「だって君は、配慮を受けて当然の立場なんだから。それは甘えとか、努力でどうにかなる問題じゃない。どうやってもできないことがあるなら、できる人が手を差し伸べなくてどうするんだよ。そういう優しさがなくて、どうやって社会が成り立っていくってんだ」
俺はこの時、ハルを元気づけようと必死だった。でも、俺は後になって気づくことになる。
この言葉は健常者からの上から目線になっていたかもしれない、ということに。
「・・・そっか」
ハルはやはり、悲し気な笑みのままだった。
「ありがとう」という感謝の言葉もなかった。
その後すぐ、ハルの母親が迎えに来て、その日はハルと別れた。
それから、ハルは神社に来なくなった。
次の日も、その次の日も、いつもの場所にハルはいなかった。
何があったのかはわからない。アケミさんに聞いてもわからないと首を横に振られた。
もしかして、俺のあの言葉が原因だったのではないか。
俺は不安になり、やがて時間が経つと共にそれは後悔へと変化した。
その頃には、俺の体調不良はなくなり、普通に学校へ行けるようになっていた。
中学生になってからは帰宅経路が変わったことで、神社には近づかなくなった。
中学ではいじめらしいことはなかったけれど、基本的にクラスメイトからの無視は続いた。
露骨にいじめを受けるよりも、存在そのものをなかったことにされることの方が堪えることもあったが、次第に俺は所詮空気なんだと自分に言い聞かせることで、なんとかやり過ごした。
ドラマとか漫画とかで描かれるような青春を享受する権利は、俺の人生には与えられていないと諦めていた。
俺に対する両親の態度も一層冷たくなった。
もはや食事すら俺の分は出されなくなり、1か月分の食費だけが居間に置かれているぐらいになった。
俺は再び、世界から排除されてしまった。
あの時、俺がハルにあんなことを言わなければ、俺たちの関係はずっと続いていたのでは、と数年経った今でも思う。
せめて、彼女にもう一度会って、あの日の真実を確かめて、謝りたかった。
それすらも許されないこの世界を心底恨みながら、俺はいつしか18歳の春を迎えていた。