case2 貪る者 :2
第六話 疑念
日曜日の夕方。
痛む体に鞭を打って、白崎透華は柏碧人の車を降りる。
「くれぐれも気をつけて帰ってね」
彼は優しくそう言うと、日の沈んだ道を走り出す。
自宅の近くの住宅街は少し閑散としていて、所々の家庭からは夕飯の支度をしている様な香りが漂ってくる。
数分ほど歩くと、少し大きな交差点に差し掛かる。
「……あれ?」
暗さで少し分かりずらかったが、白崎の視界には見覚えのある人物が居た。
見知らぬ車の傍に、向ヶ丘高校の保険医である大宮琥珀が立っている。
車の中の誰かと話をしているようで、内心見てはいけないのかもしれないと思った。
人のプライベートを覗き見ることは極力したくなかったので、白崎は足早に自宅へと向かった。
帰宅後は携帯で黒咲牡丹と連絡を取りながら、勉強をした。
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翌日。
学校に着くなり全校集会が開かれ、土曜日の事故について校長から簡単な説明があった。
白崎らは機関の手回しにより、特に警察や消防からの事情聴取はなく、機関からも関係の無いよう振る舞うように言われていた。
その後、三年校舎は犠牲者となった佐々木詩杏の葬儀ついて説明があったようで、午後には上級生は帰宅していた。
いつもより少しばかり静かな校舎は、何処か事件の重さを物語っているようで、居心地が悪かった。
「……透華ちゃん?」
昼食時、いつもと同じように黒咲と机を合わせ食事をしていると、彼女から声をかけられる。
「あ、ごめん。なんの話ししてたんだっけ」
どうやら白崎は自身が思った以上に上の空だったようで、目の前の黒咲は少し不安げな顔をしていた。
「顔、暗いの……土曜日のこと、だよね?」
黒咲自身も経験した上での言葉だった。
昨日の電話で、彼女は今回の事件が普通では無いことに既に気がついてしまっている。
火災の通報者は黒咲だったが、彼女が見た封域内のことは、消防隊や警察に一蹴されてしまっている。
勿論それは機関の息のかかった上で成り立っていることだ。
機関内でも彼女が浅くも関係者になってしまった事についての会議が会ったようで、現状の決定権を持つ逆神律は「今後一切関わらせないようにする」事を決めた。
残り数日で向ヶ丘高校は冬季休業に入る。
機関の計画では冬休み前までに反転者である逆神澪を発見し捕縛する。
この冬で全てを精算しようとしている。
「えと、うん」
黒咲には申し訳ないと思いつつ、この冬はあまり関わらないようにしようと考えていた。
「黒咲さん、私さ予備校行こうかなって考えてる」
一先ず話題を変える。
急な話題転換に彼女も少々驚いていたが、暗い話題のままではとその話題に乗ってくれる。
「あ、そうだね。もう三年生になるからね……受験もあるし」
白崎はこの話題から、黒咲と距離を取ろうと考えていた。
「冬休み前から行く予定なんだ。だからさ、放課後とかあんまり話したりできなくなるかも……」
そう言うと。黒咲は困ったように苦笑いした。
「……そんな嘘、言わなくていいよ……」
予想外の言葉に白崎の思考は止まる。
「大丈夫。何となく分かってる。透華ちゃんが何かに巻き込まれてるのも……。それが言えないことっていうのも……。私を巻き込みたくないってことも」
悲しそうにそう言うと、白崎の方を見て笑顔を作った。
「ありがとう、透華ちゃん。でもね、これだけは約束して」
白崎の手を取り、じっと目を見つめる。
「絶対に無理しないで」
真剣な顔に変わった彼女は、その瞳に涙を浮かべていた。
「……うん。ありがとう」
白崎は彼女の瞳をじっと見て答えた。
放課後になり、白崎は足早に教室を出る。
腕の怪我はまだ完治とはいかないが、少なくとも傷口は塞がった。
機関の次の作戦が始まる前にやらなくてはいけない事があった。
そんな急ぎ足で出ていく白崎を、紅林は横目で見ていた。
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「律さん、程々にしてくださいね……」
白崎は機関のトレーニングルームにいた。
目の前にはいつもの様に白衣を着た逆神律が立っている。
白崎は彼女と共に簡易的なリングの上に上がっており、近くには仮面の少女と、柏が居る。
先日の傷に関しては、最低限の配慮は必要だと柏が言ったが、白崎にはそんな時間は無かった。
少なくとも紅林の隣で戦えるようになる。
その一心で柏の言葉を跳ね除けた。
「よろしくお願いします」
今日は昨日同様、逆神の猛攻を躱し続けるというもの。
傷の完治までは、体力や瞬発力以外のトレーニングができない。
焦りがいいことだとは思わない。
しかし何もしないなんてことは出来なかった。
「白崎くん。キミは無意識にやっていると思うが、今日はキミの発達している器官である聴覚に重点を置いてみてほしい」
逆神はそう言うと白衣のポケットからスポーツグラスを取り出した。
「なんですかこれ……」
渡されたそれを掛けてみる。
「特注品だよ」
楽しそうに逆神は言う。
視界が暗い。というよりも、よく凝らさないと目の前すら見えない。
「この間の封域は確か闇の森だったな。あそこは時間が経てば目が慣れて見えるようになっただろう?」
そう。委員長ー佐々木詩杏の封域は時間さえあれば見ることは容易だった。
しかしこのグラスは違った。
元々見えずらい。
いやがおうにも視界以外の情報で周囲を認知しないといけない。
「なるほど…そういう事ですか」
冷や汗が出る。
この状況で彼女の猛攻を避けるなんて無理だ。
「いい事を教えてやろう。……適合者がなぜそう呼ばれるか」
逆神が動いた。
僅かに見えた視界の情報と音。
前に動いた。その後は
「……いっ」
左足の蹴りが腹に入っていた。
思わず蹲る。
大きく咳き込んだが、すぐに立ち上がる。
思考が追いついていないだけで、音は聞こえていた。
蹴りの方向や距離が測れない。
限られた情報から推測する。
「まだです……」
どうすればいいかは分かった。
「いい気概だ」
逆神が動く。
「話の続きをしよう」
さらに数ステップを踏んだ。距離は少し離れた。
白崎は待つことをやめた。
「適合者の意味だ。勿論御影ら『罪』を扱えるか、これが前提となる。彼らに対して適合できるか。さらに」
逆神がまた動いた。
音が聞こえる。
空気を切るような音。
自身が踏み込んだ足から反響した音。
どこまで音が響いたか。何処で止まったか。
頭を動かす。
数秒前に頭があった場所に彼女の拳があった。
「自身の持つ感覚器の発達についていけるか。ここがより重要だ」
声色は笑っていた。
もう視覚は必要なかった。
グラスの中で目を閉じる。
「そして」
音が消えた。
白崎自身も動き、その音の反響を探る。
「あっ」
盛大にコケる。
白崎が動いた先に足を掛けられていたようだった。
「その能力を覚醒させられるか。だな」
グラスを取ると、逆神が手を差し伸べていた。
「ありがとうございます」
手を取り起き上がらせてもらう。
「なかなか良いだろう?この訓練」
自慢げな逆神。
リングの外から柏が顔を真っ青にして上がってくる。
「白崎さん、大丈夫?」
彼は仕切りに体調や怪我の具合を確認する。
「なんとか大丈夫ですよ」
その後は休憩を挟んで、数回逆神に転ばされていた。
時間はいつの間にか数時間経っていて、帰宅の時間が来ていた。
柏は車を出すため、一足先に外で待つとのことだった。
機関の施設についてはある程度知見が深まってきた。
外から確認すると、一見平屋のようだが、地下部分が広大でトレーニングルームや解読の為の書斎、各種宿泊用の施設など一通り揃っている。
地下の廊下を歩いていると、室内プールが見える。
「ここ、水泳もできるんだ」
思ったことをそのまま口にしていると、プールサイドに誰かが上がってきていた。
ゴーグルを外し、キャップを脱ぎ捨てる。
細い腕に滴った水を軽く落とし、座る。
「紅林……凪……」
髪を前からかきあげる姿に何処か歳不相応な雰囲気すら感じた。
横顔でもわかる整った顔が、どこか憂いを帯びているようで心が揺れた。
紅林が白崎の視線に気づいたのか、窓越しに振り返った。
「……っ」
何故か見てはいけないような気がして、視線を逸らしてしまう。
立ち去ろうとした時、プールの窓が空く。
塩素のツンとする香りがする。
足をとめ振り返ると、紅林が窓に肘を掛けて白崎を見ていた。
「……あ、紅林さん……お疲れ」
あの日以来ほとんど話していない。
実際白崎は彼女との距離を測りかねていた。
学校内でも特に話すことはなく、話しても機関絡みのことばかりで距離を感じていた。
白崎の言葉に紅林は何処か不思議そうにしていた。
「……凪」
ふと彼女が呟く。
「え?」
どういった意図かは分からなかった。
「凪でいいって私言ったよ。お疲れ様、白崎さん」
無表情でそれだけ言うと、プールの中へと戻っていく。
「……」
そういえばそうだったと思い出したが、知り合って間もない中でそう易々と呼べるわけが無い。
「いやいや、無理だよ……」
ため息をつきながら廊下を進んだ。
建物の外に出ると、既に柏が車内で待っていた。
「あ、きたきた。こっちだよぉ」
気の抜けた声で手を振る柏。
機関内で唯一話しやすいと言える人物だった。
「すみません、待ってもらって」
助手席に乗り込むと、柏は車を走らせる。
「そういえば白崎さん、何だか浮かない顔だけど大丈夫?腕がまだ痛むのかな?」
横目で不安げにしている彼に、白崎は軽く笑って見せる。
「傷は大丈夫ですよ。なんならいつもより治りが順調な気もします」
安心させようとそう言うが、柏はいつものような安堵の表情はしなかった。
「……ということは、また別の問題がありそうだね。凪ちゃん?」
思ったよりも彼の察しがよく、何故か笑ってしまう。
「……柏さんってモテます?」
白崎の返しが想定外だったのか、柏は飲もうとしていた缶コーヒーを口元から離す。
「な、どういうこと……?なんか僕へんな事言ったかな?」
首を傾げながら「そうかなって思ったんだけどなぁ」と困り顔になる。
「いえ、柏さんの言った通りです。……なんかあの子と変な距離感じちゃってて」
率直にそう言うと、柏は優しげな表情で応える。
「そっか。凪ちゃんはね、ちょっと分かりずらいところはあるけど根はすごくいい子なんだよ。あの子も同い年の白崎さんが来てくれたから、きっと喜んでると思う」
そんな気は微塵もしなかったが、彼女の言葉を反芻する。
真面目、運動神経抜群、転入試験での学力、整った容姿。
そして機関。
彼女の人生のことは知らない。
ただ、出会った日の事件の夜。隣にいることに何も言わなかった事。
呼び方は下の名前でいいと言ったこと。
少ない情報から彼女のことをもっと知りたいと思った。
「……だといいんですけどね」
人の過去を他人に詮索するのは失礼だと感じ、また機会があったら本人に聞いてみようと思った。
夜の道を車が進む。
山道を抜け、公道に出る。
ここから先はもう見なれた街だった。
走る電車の明かりを見ながら、窓ガラスに写った自分の顔が見えた。
「……」
白崎の表情はどこか穏やかで彼女自身少し驚いた。
「ここで大丈夫です」
住宅街の近くで車から降りる。
自宅まではすぐ近くだった。
「……今日は楽しかったわ」
柏の車が去った時、聞き覚えのある声が聞こえた。
「え」
校医の大宮琥珀。
長い髪を少し巻き、正しく大人の女という雰囲気で車の中の誰かに話していた。
内心またかと思ったが、違和感があった。
彼女が話している人物。
誰かは一切分からなかったが、代わりに分かるものがある。
「……違う車」
女性に年齢なんて野暮だということは何となく理解していた。
恋愛とはそれぞれの形がある。経験は無いが。
そんな事を考えていると、大宮と目が合ってしまう。
「やば……」
すぐに去ろうとするも、彼女の方からこちらに近づいてきた。
「あら、白崎さん。恥ずかしいとこ見られちゃったわね」
まるでそう思っていないように言う。
「そんなつもりじゃなかったので……」
そっと顔を伏せ謝罪する。
大宮はそんな白崎の耳元に顔を近づける。
「これ、内緒でおねがいね」
艶のある声と、保健室では感じない甘ったるい香水の匂いが何処か背筋を走った。
「もう遅い時間だから早く帰るのよ〜」
軽く頭を撫でられ、大宮は去っていった。