7-2.焦燥
授業が終わってから、おれは人を避けるようにそそくさと家路についた。
マンションの前で、羽穏が走っておれに追いついてくる。
つややかな黒髪が汗で乱れている。荒い呼吸のために胸はおおきく上下していた。よっぽど全力で走ってきたのだろう。
「はあ、はあ……やっと追いついた……!」
「どうした、羽穏?」
「どうした、じゃないよ鷺宮くん。一緒に帰ろうと思ったのに先に行っちゃうから……」
「悪い。ちょっとひとりになりたい気分だったんだ」
「これからは、ひとりになんてさせてあげないもん」
羽穏は邪気なく笑った。
「羽穏との約束、覚えてるでしょ?」
「約束?」
「【神託】をあげた代わりに、鷺宮くんは羽穏の正式な彼氏になりました!」
羽穏はそう宣言した。
確かに、前に「羽穏のお願いごとも聞いてね」というようなことを言っていた。
それがつまり、「彼氏」になれ、という意味だったのか。
羽穏はだれがどう見ても美少女だし、性格も頭もいいし、ふつうの男子ならここは泣いて喜ぶところだろう。けれど、おれにはいま色恋にかまけていられる余裕がない。
それでもその「約束」を破るのはためらわれる。おれが羽穏のおかげで記憶をとり戻し、こうして危機に対処できる段階へと移れたのは、事実だから。
「デートしよ、ね、鷺宮くん! いまから!」
「……いいよ。いくらでも付き合うさ」
デートくらいなら問題はないはず。まだ敵の直接的な行動の気配はないのだし、羽穏を巻きこむ可能性は……いまのところ、低い。
「やった! ありがとう!」
文字通り羽穏は跳びはねて喜んだ。
おれも羽穏が喜ぶ顔を見るのは、決して悪い気がしない。
まあ、間違っても彼氏ってガラじゃないけど。
羽穏の自宅の前で待ちあわせすることになった。
羽穏はまだ着替えやらなにやら、準備に追われているそうなので、おれは家の前でじっと立って待っている。
「……お待たせ!」
羽穏が出てきた。
その姿は――壮麗。
闇の色のワンピース。手には漆黒の日傘。いわゆるロリータというファッションだ。腰に差している日本刀【龍魂遍歴】もなかなかどうして様になっている。
「よく、似合ってる」
「えへへ、ありがとう。嬉しい」
羽穏はぴたりとおれの横についた。
【緑の里】に都会的なデートスポットはない。
なにせ、神社や神殿ばかり建っているのだから。
必然的に、のんびり散歩して、そののち喫茶店でちょっと休憩するデートコースが定番……というのはおれの想像だけれども、実際、それくらいしかやることは、ない。
おれたちはここちよい風の吹く土手をゆっくり歩きながら、おしゃべりしていた。
羽穏は会話のなかで【神託】のことに触れた。
「【神託】は、鷺宮くんにどんな知識を授けてくれたの?」
「記憶が、戻ったよ」
正直に答える。羽穏に隠しだてする理由はなかった。
羽穏は自分のことのように喜んでくれた。
「じゃあ、羽穏と鷺宮くんがどんな関係だったか、思い出してくれたんだ?」
「うん。ちゃんとわかってる」
羽穏とは小学四年生の頃に親しくなった。
たぶんはじめて出会ったのは――図書室。本の趣味が一致して、意気投合した。
それから羽穏はいつでもおれにくっついてくるようになった。りむねが迷惑そうな顔をするのもまるで気に留めていなかった。関係はおれが【赤の国】へ去るまで続いた。
「わたし、寂しかったんだよ?」
羽穏はおれの顔を覗きこんでくる。
「鷺宮くんのほかには、あんまりお友達、いなかったから」
「おれも里に帰ってきて、羽穏にまた会えて、嬉しいと思ってる」
「……うん」
ほおを赤らめて目を伏せる羽穏。
「結婚……しようね」
いきなり話が飛躍した。
「いや……それは」
思わず口ごもるおれ。
「羽穏。ひとつ、訊いてもいい?」
「うん。どうしたの?」
「どうして羽穏は……それから、りむねや唯香も、そんなにおれに好意を寄せてくれるんだ? おれなんかより……もっといいやつはいっぱいいると思うんだけど」
女子たちの好意は怖いくらいに強烈だ。
おれは【ザ・システム】の洗脳を受けた、里の裏切り者だというのに。
「デート中に、ほかの女の子の名前を出すのはダメだよ」
たしなめるように言う羽穏。
「鷺宮くんは間違ってる。好きだから好き。理由なんていらない」
そういうものなのだろうか。湧きあがってくる罪悪感が、おれの胸を刺した。
おれは裏切り者なんだ。
おれが会話のなかでりむねと唯香の名前を出したからだろうか。
羽穏はさっきからずっと不機嫌な様子を隠そうとしていない。
「どこかで、休憩でもしようか? 近くに喫茶店とかないかな」
「……もうちょっと、歩いたところにあるよ」
羽穏は低い声で答えた。
「ところで、鷺宮くん」
羽穏は立ち止まり、おれの腰のベルトを掴む。
「なんかね、悪い気配がするの」
「悪い気配?」
「わたし、占術とかできるからこういうのには敏感なんだけどね。鷺宮くんの持ちものから、よくない波動を感じる」
羽穏はおれの持ち物を点検しはじめた。特におれの財布が妙に気にかかっているらしい。
現金を全部取りだして中身をひっくり返し、
「……ほら、あった」
目立たない場所になにか貼ってあった。それは――ちいさく印刷された、おれとりむねのツーショットの写真だった。おれが記憶を失う前、ふたりで遊んだときにふざけて撮影したものだ。
「どうしてこんなもの……おれ、自分で貼ったんじゃないぜ」
「明らかにあの子のしわざだよ。こういう陰険なことするんだよね、意外と」
陰険て。
「これは鷺宮くんに不幸をもたらすから、剥がして捨てておくね……ううん、鷺宮くんが写ってるから捨てるのはもったいないかな……もらっておこうっと」
言うが早いか、羽穏は写真を剥がしてしまった。
「あと、バッグも見せて?」
「えーと。りむねの写真がそんなに悪い波動を放ってる?」
「放ってるよ放ってる! 毒電波!」
散々な言いようだ……。
有無を言わさぬ調子なので、おれは抵抗せずバッグを差しだす。
羽穏はバッグを触診し、やがて、
「あった!」
脇のポケット部分から、ファンシーなキャラクターのキーホルダーを取りだした。
「これもおれ、心あたりないんだけど」
「あの子が勝手に入れたんだよ。これ、鷺宮くんの趣味じゃないもんね?」
「……まあね」
「じゃあ捨てるね。……あ、でもこれかわいいから、もったいない。もらってあとでお祓いしておくね? あとで新しいの一緒に買おう?」
「お、お祓い……」
あげくの果てには悪魔扱いされるりむね。
「これでさっぱりしたね!」
羽穏はすっかり機嫌をとり戻した。悪い波動の正体はつまり、りむねの気配だったということか……。どんだけ仲悪いんだ。
「りむねの悪口を叩くの、そんなに楽しいかな――?」
振り返る。
りむねがいた。
その人懐っこい笑顔の底に、得体のしれぬ強烈な怒りの波動を感じるのはたぶんおれの錯覚じゃない。
「そこで、なにをしてるの、騎佳くん?」
「……どうしてりむねがここに?」
「質問に答えてよ。いったい、なにを、しているの?」
「それは」
「それは?」
「つまり、散歩……のようなことを。歩いてた。おれたちは」
「犬の散歩? そこのメス犬のお散歩? それにしてはリードも首輪も見あたらないね」
羽穏の唇がぴくりと動くのが、視界のすみに映った。
「鷺宮くん、ちゃんと言ってね。『彼女とデートしてるんだから邪魔するな』って」
「騎佳くんすごいね、しゃべる犬を飼いはじめたの?」
「鷺宮くん、野良犬のことは放っておいて行こうよ」
「騎佳くん、人の持ちものを盗るようなしつけのなってない犬は、飼っちゃダメだよ」
「……」
「……」
「神器――【赤竜アマディス】【青竜ガラオール】」
「神器――【血碧戦陣】」
「【龍魂遍歴】――」
羽穏は抜刀し、切っ先をおれに向ける。
「鷺宮くん、正気に戻って。野良犬としゃべったら狂人だよ」
背後には二体の火炎竜。周囲に熱波を送りながら、とぐろを巻いてこちらを睨んでいる。
りむねは青光りする短剣を血液から創りだし、投擲の体勢をとる。
標的はもちろん、おれだ。
「りむねは犬よりも猫派だから。その黒いワンちゃん捨ててきて」
おれは両手を挙げて降伏のポーズをとる。
「神器はやりすぎじゃないか。……いや、違う。おれが全面的に悪い」
【オリンピアの祭典】は終わっている。神器を持ちだすのは冗談の域をとっくに超えている。そこまでするほどおれのことを好いてくれているなら、
「ちゃんと、返事をするよ」
ちゃんと、「その気がない」ことを伝えなくてはいけない。
これまでは任務のために、里の人間と関係を良好に保つのはむしろ都合がよかった。
それがいくら不誠実なものであったとしても。
けれど、いまはそうじゃない。おれは【ザ・システム】から与えられた「目的」を捨てた。この期におよんでは、ひとりの人間として真摯に対応するのが人道というものだ。
「わたしのこともお忘れなく――転移、【銀丘】」
世界から音が消え、色彩が変容。
神器【紅弾鳥銃】を手にした唯香が、姿を現す。
「どこから――」
「いつでも、どこでも騎佳さんの行動は把握しています」
まるでここに現れるのが当然といった様子。
「さあ、騎佳さん、だれを選ぶのですか」
「りむねだよね」
「鷺宮くんの彼女は、わたしだけだよ」
ぐいぐいと迫ってくる三人。それを手で制止して、
「ごめん、おれは――」




