04. ようやく次の日
明るい日差しを感じて目を開けると、いつもと違う天井が目に入り、
思わず起き上がってから、志岐は異世界に来ていたことを改めて自覚した。
「はあ、やっぱり夢って事はなかったか」
ベッドから降りるとマットのようなものがあったが、石造りの床は少し冷たい。
周りを見回すと柔らかそうな素材でできた靴があったのでそれを履いた。
お風呂に入りたいと思ったが、とりあえずは扉の横にある紐を引っ張った。
すぐさま扉がノックされたので、志岐は扉を開いた。
「お着替えをお持ちしました。これに着替えられたらまたお呼び下さい」
一人の男性が目の前に立っていて志岐の前に衣服を差し出した。
姿勢を正した男性はこの前に集まった人の中の一人だろうとは思う。
他に女性の姿もあったのだけれど、さすがにここには来ないのかと思った。
志岐は衣類を自分から手を出して受け取ると、一歩下がった男性を引きとめた。
「少し待って下さい。聞きたい事があって、その浴室の使い方とかどうすれば?
それに下着もどこにあるのか知らない」
男性は志岐の問いかけに少し困った表情になった。
「下着は向こうのタンスの引き出しの中にございます。浴室に関しては、
私どもはそちらに入る事ができませんので……もう少しお待ち下さい」
男性はそう言うと、志岐に一礼して廊下を歩いていった。
確かに違う世界の人はこちらの部屋の中に入れないと聞いていた。
しかし部屋の機能の説明ができないとは予想していなかった。
志岐は一度部屋の中に戻り、受け取った衣類をベッドの上に置いた。
そしてちらりと見ただけだった洗面所へと向かった。
蛇口らしきものの横に二つの陶器のような塊があった。
一つは上の方が青いモザイクのような光るものが埋められており、
もう一つには同様の赤いモザイクのようなものが埋められていた。
「触れてみればわかるか」
志岐は手を青いモザイク付きの塊にあてると、予想通りに液体が出た。
手で触れてみると水道から出るような水に思えた。
塊にあてていた手を離すと少したってから水は止まった。
反対側に触れてから、出てきた液体に指先だけ触れると、あまり熱くない湯が出てきているのが分かった。
さてお風呂も同様の仕組みになっているのだろうかと思って浴室の扉を開こうとした時に入口の方から物音が聞こえた。
「何やら困っていると聞いたが、シキ、大丈夫か?」
大賢者の声がした。
志岐は部屋の中へと取って返すと大賢者の姿が見えた。
「浴室の使い方が分からなくて」
大賢者は志岐の言葉にそのまま浴室へと向かった。
「そこのカゴの中に脱いだ服を入れて半日経つと、綺麗になっておる。洗浄魔法がかけられているからな。ここのお湯はそこのレバーを上げれば、お湯が適量入る。勝手にレバーは元に戻るから、お湯を抜く時には下に下げる」
志岐が大賢者と共に覗いた浴室には、バスタブだけがあった。
「あの、身体を洗う時にはどうすればいいのですか?」
バスタブはあるけれど、シャワーのようなものもないし、レバーも一つだけだった。
「洗浄の魔法で汚れはすべて落ちるが、必要かね?」
「そもそも洗浄の魔法とは何ですか?」
「書物を読めば書いてある。とりあえずは一度お湯に浸かってみればわかるだろう。
終わったら紐を引っ張って誰かを呼べ、朝食にしよう」
大賢者はそれだけ言うと、さっさと浴室から出て行った。
志岐はお湯につかるだけでもいいかと思いながらも、きていた服を脱いでカゴの中へと入れた。
先ほど大賢者がレバーを上げていったのか、バスタブにはお湯が入っていた。
志岐がゆっくりと足をつけると、ちょうど良い温度に感じた。
そのまま身体をバスタブの中へと沈めると、不思議な蒸気のようなものが、お湯の中からなのか、バスタブからなのか、いきなり立ち上るのが見えた。
蒸気は志岐の方へと向かってくるように思えて構えたが、さすがに危険のあるような事はないだろうと大賢者を信じる事にした。
手を出していると、手から顔から頭の中まで蒸気に包まれたような気がしてきた。
「これって魔法?」
独り言を言っても返ってくる返事はないが、黙ってはいられない。
少し経つと蒸気が薄くなっていき、何もなくなった。
お湯がぬるくなってきたと感じたので、志岐はバスタブから外に出た。
いつのまに置かれたのか、バスローブがかかっていた。
志岐はバスローブを手に取って、身体は濡れたままだったが、そのまま着る事にした。
他に何も拭けるようなものはなく、着てから思ったが、ローブが濡れた感じもしない。
ものすごくよく水分を吸収するような素材なのかと思ったぐらいだった。
ここは魔法がある世界だから、そういう仕様になっているのだろう。
浴室から外にでると、そこには手を拭くタオルのようなものがあった。
手を拭くタオルがあるならば、バスタオルがあってもいいのにと思ったが、自分で見つけられないのだから仕方がない。
さて改めて目の前にある鏡のようなものを見ると、いつもの風呂上がりと様子は変わらない。
石鹸をつけて洗っていないだけに、匂いはどうかと気になって手の匂いを嗅いでみたが、爽やかな森の中のような香りがした。
髪の毛も一筋取って、同じように匂いを嗅いだが、同じ香りだと気がついた。
どうもあの蒸気は洗浄する魔法から出たものらしい。
志岐は魔法について書いてある書物を読むのが楽しみになってきた。
それから部屋に戻り、持ってこられた衣類の中に下着がないのに気がついて、タンスの引き出しを順番に開けてみた。
一番上には幾つか仕切りがあり、そこに下着類が入れてあった。
そして二番目から下には何やら高価そうな衣服があるように思えた。
下着を取り出すと、バスローブを脱いで、それを身につけ、持ってきてくれた衣類を広げてみた。
着方が分からないような服装ではなかったので志岐はそれに着替えた。
もう一度洗面所に戻って鏡のようなものを見ると、目の前に小さな棚があった。
そこにはヘアブラシと櫛のようなものが置いてあった。
「さっきまで無かったような……気がするのだけれど?」
なにはともあれ、それで髪の毛を梳かして整えた。
手にとった櫛を元にあった小さな棚に戻すと、棚は静かに壁の中へと入っていった。
志岐はため息を一つつくと、元の部屋へと戻った。
それから扉の横に下がっている紐を引っ張った。
扉の向こうで待っていたのだろうか、すぐにノックする音が聞こえたので、扉に手をかざした。
目の前の扉は消えて、先ほどと同じ男性が待ってくれていた。
「ではどうぞこちらへ」
男性が先に立って志岐を案内してくれた。
階段を下りていくところをみると、前に食事をした場所とは違うのだろうか。
志岐はそんな事を考えながらも、階段を下りていった。
「こちらでございます。給仕の者がおりますので何かあればお申し付け下さい」
志岐が部屋に入ると、案内の男性はどこかへと立ち去っていった。
「若様、どうぞこちらへ」
前にゼノと教えてもらった男性が志岐に笑顔を向けた。
志岐はテーブルに近づいていくと、すぐに椅子を引いて座らせてくれた。
「朝食はこちらでお取りになる事になると思います。旦那様はのちほど来られますので、お待ちにならずにお始め下さいとの事でした」
ゼノが一歩下がると、別に控えていたのか白い上着を着た給仕の男性が、志岐の手元にガラス製のようなグラスを置いた。
「お飲み物はどれに致しましょう?」
幾つかの大きなボトルに果汁のようなものが入っているのが見えた。
「よくわからないので、あまり甘すぎないのをお願いします」
オレンジ色のジュースと赤いジュースと紫のジュースと緑のジュースがあった。
色だけ見ても、実際に飲んでみないと味は想像もつかない。
給仕は緑色のジュースを取り上げ、グラスに注いでくれた。
「少し酸味がありますが、甘すぎず酸っぱすぎない果汁です。お口に合わなければ、お取り換えしますので、お申し付け下さい」
見た目は独特な野菜のジュースのように見える中身だが、ここは異世界なのだからと覚悟を決めて志岐は一口飲んだ。
一種類の果実というよりは、ミックスジュースの酸味が強いタイプといった感じの、とても飲みやすいし、後味もよいジュースだと志岐は思った。
続けて一口、二口と飲んでいると、先ほどの給仕が戻ってきた。
「お好みが分かりませんので、いろいろとお持ち致しました。どうぞお好きなのをお取り下さい。足りないようでしたらまたお持ち致しますので」
給仕はそう言って、志岐の前に一枚の白い楕円の皿を置いてから、
その向こう側に幾つかの料理が載った大皿が置かれた。
見た目だけでいえば、炒めた野菜と幾つかのハムのように切り分けた肉だった。
志岐は目の前の皿に少しずつ取って食べ始めた。
どれもこれも少しずつ味は違うものの、食べているとついつい欲しくなる味付けで、
気がついたら志岐はどれも一通りは口にして食べてしまっていた。
ジュースと一緒に食べるのはと思っていたけれど、食べながら飲むと、口の中が
さっぱりとして、また食べやすいのに気がついた。
「おお、口にあったようで何よりだな」
後ろから声が聞こえたかと思うと、大賢者がやってきていた。
「気にせずに食べるといい。一人の方が選びやすいだろうから、な」
大賢者は少し笑いながら、前の席に座った。
すぐさま給仕が果汁の入ったグラスを置くと、別の給仕が皿を持って現れた。
「ではごゆっくりどうぞ」
大賢者にそう挨拶した給仕は、志岐の方へと向かってきた。
「もう少しお持ち致しますか? それともデザートをお持ちしますか?」
志岐はデザートにすることにした。
大賢者の食事は決まっているらしく、やはり幾つかの料理の盛り合わせだった。
しかしどこにもパンのようなものもないし、もちろんお米のご飯もなかった。
志岐はなんとなく物足りなく思ったが、お腹はすでに一杯で、デザートも入るのか
どうか分からない状態だと気がついた。
「こちらをどうぞ」
志岐の目の前にフルーツ盛り合わせのようなものが置かれた。
「残されてもかまいませんので、どうぞ無理のないようにお召し上がり下さい」
志岐はやはり一切れずつ全部取って食べていった。
中でも赤いフルーツを気にいって幾つか食べてしまっていた。
「お代わりをお持ちしましょうか?」
いつのまにか給仕の人の声で気がつくと、フルーツを全部食べていた。
「いえ、もう結構です。どれも美味しかったです」
給仕は志岐の言葉を聞くと、目の前にあった皿を片づけ始めた。
「気に入られたようで何よりです。料理人に伝えておきます」
何人かの働いている人をみたが、全員が男性だと気がついた。
前に紹介された時には女性もいたはずだけれど、ここでは男性しか居ないのだろうかと、なんとなく気になって考え込んでしまっていた。
「シキ、ここの屋敷の者との恋愛は禁止だからな」
志岐の考えている事が分かるはずもないのに、大賢者はそう呟いた。
「ここの屋敷の者はどうやってもこの塔には入れない。だからお前の恋愛対象にはなりえない。間違いが起こってはいけないから、男性ばかりにした」
確かこの屋敷で働いている人は、やはり別の世界の人ばかりだからだろう。
なんとなく考えが見透かされているようで、志岐は面白くなかった。
だからといって、別に恋愛をしたいとか、そういう気持ちはさらさらない。
それでもアニメなどでいうメイドさんとかに興味がないわけじゃなかった。
本当にそういう人がいるならば、見てみたいという物珍しさからくる興味はあった。
大賢者という人はそこまで分かるものなのだろうか。
「さてと、向こうに移ろうか」
大賢者は席から立ち上がると、志岐の近くまで来た。
志岐も椅子から立つと、大賢者の差す方を見つめた。
そこには明るいテラスといえばいいのか、庭が見えるガラス張りの部屋だった。
もっとも本当に材質がガラスなのかどうかは分からないけれど。
塔の部屋は高い位置にあるような話だった。その部屋から廊下から出て、ここに来るまでには、階段を少ししか降りていない。
目の前に庭があるというのは一階になっているのだろうか。
「塔とこの屋敷との位置関係は考えるだけ無駄だから止めなさい。
知識の塔というのは、一種の魔法建築のようなものだから」
志岐は大賢者の後に続いて、テラスに置いてあるゆったりした椅子に座った。
すぐ傍の椅子に大賢者が座っており、二人は庭の方を向くことになった。
「塔の内部は、常にどういう仕組みかは知らんが、掃除は行き届いておる。
だから部屋の中は人が入らなくても大丈夫なのだが……さすがに食事は、誰かに作ってもらった方がいいだろう? それでこの屋敷を繋げたのだよ」
塔の内部と屋敷の内部を繋げるとは工事をすればいい。
でも別世界の場所を繋げるのならば、不思議な現象だと思うしかないのだろう。
「どうして屋敷内の人とはあまり接しない方がいいのか、理由はありますか?」
大賢者は少しだけ考えてから口を開いた。
「屋敷と塔との時の流れを変える事も可能だ。塔へ戻る時間を調整すればいい。
いろいろと研究をするのに便利なのでそのようになってしまったようなものだ」
大賢者はじっと志岐の顔を見て言葉を続けた。
「シキ、とりあえずは一人で生活できる能力を身につける事だな。
今のままでは外も歩けないだろう。ここは魔物もいる世界だから、
午前中は文字の読み書き、午後からは運動能力を確かめる事にしよう」
大賢者の言葉から志岐の塔での決められた生活が始まった。