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大魔王さまの居城にて

 魔王城には現在、数名の日本人たちが滞在している。


 その中で、一際異色を放つ人物と言えば、一条千鶴だ。


 容姿端麗にして頭脳明晰な才媛を地で行く娘である。実年齢よりも年上に見られる事が多いが、それは何も彼女自身の大人びた容姿にだけ原因があるのではなく、落ち着いた雰囲気や、洗練された物腰にもよる。礼儀作法を重視される習い事を幼い頃から修めてきたせいだ。


 本人は否定するが、彼女は紛れもない天才だった。何をやらせてみても、あっという間に数多の人間を置き去りにして駆け抜けて行ってしまうのだ。凡人がようやく一歩ずつ登る階段を、まるで二段も三段も飛び抜かして行くように。これで、実の娘に期待するなと言う方が酷だろう、彼女の両親たちにしてみれば。

 しかも悪い事に、受けさせられた習い事のことごとくを、あたかも「できて当然」という風に、彼女は平然とこなしてしまったのだ。

 本人である彼女自身、それを苦とは思っていなかった。実際、数多くの習い事をさせられていた事実それ自体に対しては、彼女も特に不満があったわけではなかった。ただ、他にする事も無いし、という惰性でしていた面は否めなかったが。


 そんな彼女だったが、心から楽しんでいた習い事も幾つかあった。武道と、そしてピアノである。










 魔王城の一室には、音楽室とでも言うべき場所がある。部屋の右端に置かれているガラスケースの中にはヴァイオリンやチェロと言った弦楽器に、トランペットやサックスといった管楽器、他にも木琴や鉄琴まで置いてある。

 こうした芸事をリリステラが好むのを知るザイケンが、外界へ遊びに行くたびに集めてきたらしい。


 そして、部屋の中央から若干左寄りの場所に、堂々たる存在感でグランドピアノも置かれていた。


 魔王城に来てから先、一条千鶴は己の鍛錬に余念が無かった。戦鬼ザイケンに未熟な技を修正され、その後の実戦訓練では毎度のごとく半殺しにされる。更にその後、魔神リリステラによって傷を回復させられ、彼女作の思考加速制御結界を使用しての訓練。休む暇もなく、彼女は己を鍛え続けていた。


 強迫観念すら感じられるその様子に、待ったを掛けたのはリリステラやザイケンだった。


 強くなろうとする事に異議はない。限界まで鍛錬するのは実に結構。実際、彼女たちはリドウをそうやって造り上げてきたのだから。

 しかし、“限界を無視して”やるのは間違っている。それでは体がついて行かない。完成する前に崩れてしまうのがオチでしかない。


 リリステラの回復魔法がある、という説もあるが、壊れてしまった体を元に戻すということは、『壊れ始める前』にまで戻さなくてはならず、せっかく鍛えた肉体が、その時間が、全てパーになってしまうのだ。

 だが、一条千鶴はそれを理解していてなお、やめようとはしなかった。いや、“できなかった”のであろう。


 見かねたリリステラたちは、十日に一度は休養日を作れと“強制”した。

 リリステラたちは、最初は五日に一度を提案したが、千鶴本人が異議を申し立てたために、交渉と妥協を重ねた結果が十日であった――最終的には、これを呑めないようならば、自分たちはこれ以上手を貸せない、と半ば脅迫することで。


 しかし、暇を作らされた千鶴は途方に暮れてしまった。分類的には仕事人間な彼女は、休日に何をしていいのか自分でも分からなかったのだ。隠れて自主トレしてようものなら休養とは見做さないと言われてしまったし(まあ、当然であろうが)。


 そこで暇潰しとして目を付けたのはピアノだった。


 だが、棚から牡丹餅と言うべきか、これが実際、やってみるといい気分転換になったのだ。その効果は翌日の鍛錬から如実に表れ、ザイケンが得意そうに言ったものだ――


「武芸と同じだ。力を入れてばっかりいりゃいいってもんじゃねぇんだよ。効率的に抜く事も時には必要なんだ」


 ――と。


 それからの千鶴は、一日の内に一時間ほど、睡眠以外にも、必ずピアノと向き合う時間を作るようになっていた。


 気分転換がこうも重要とは、千鶴は生まれて初めて実感する思いだった。


 と言うのも、彼女は今まで努力らしい努力をした覚えが無かったのだ。


 とは言え、努力知らずと言うわけではない。凡人からしてみれば、勉強に限らず、彼女が何かを学ぶ姿を見て、尋常の努力とは決して思わなかったであろう。

 が、ルスティニアに来るまで、彼女には『必死』になった覚えが無かったのも事実なのだ。


 努力を努力と思う境界線が凡人とは違ったのだ。


 一条千鶴は何もせずにただぼーっとしているのが苦手な女だった。少なくとも眠っている時以外は、常に何かをやらずにはいられなかったのだ。

 しかし、世間一般で『遊び』に分類される事柄にはあまり興味が無かった。それは例えばテレビゲームだったり、同性の友人と何も身にもならないお喋りに興じる事だったり、恋人が居ないのが恥ずかしいからと言って、大して好きでもない異性と交際したり、だ。


 一条千鶴の天才性を敢えて言葉にするならば『価値観の違い』と述べるのが相応しいだろう……リドウやリリステラたちに、余人とは決定的な差が生じる価値観の違いがあるように。


 つまり、実に単純な話だ。千鶴にとっては遊びと勉学にさしたる違いが無かっただけなのだ。


 遊びを努力と思うだろうか? 人によっては遊びにも努力が必要と述べるかもしれないが、少なくとも一条千鶴にとっては違った。少なくとも、必死になった覚えはなかった。


 本人は努力と思わない程度の努力しかしていないのに、数多くの芸事に手を出しておきながら、どれに関しても一級まで上り詰め、勉学でも全国屈指の成績を納めていた、その器用さはやはり天性の才能もあったのだろう。


 また、千鶴は何事も「やるからには手を抜かない」という気質の持ち主であった。彼女の天才性の中には、この主義を成立させるための極めて高い集中力もあったのだろう。


 そのせいで、彼女は部屋に入ってきた人物たちに気づけていなかった。


 もっとも、それは必ずしも、彼女の落ち度ではなかった。何せ、その人物たちは皆、彼女自身よりもずっと長く闘争の世界で生きていた実力者たちであり、演奏の邪魔をしないよう、気配を殺して入室してきていたのだから……。










 演奏が終わり、軽く息を吐いた千鶴の耳に、ぱちぱちと手を打つ複数の音が聞こえてきて、彼女は思わずはっとする。


「リストの超絶技巧練習曲だな。かなり大胆なアレンジをされてはいるが、見事だ」

「あ、あなたは……」


 と、千鶴は、一目見たら決して忘れられない男に瞠目する。


「俺には細かい事は分からねぇが、そこらのピアノ弾きにできる芸当じゃねぇってのだけは十分理解できたぜ」


 アレクサンドルの周囲では、彼と一緒に魔王城までやって来たガルフたちの姿もあった。


「久しいな、娘。名は……一条、でよかったか?」

「失礼しました。そういえば、私からは名乗っておりませんね」


 千鶴は椅子から立ち上がって、綺麗に一礼する。


「一条千鶴と申します」

「なぜ我々がここに居るのかは訊かんでいいのか?」

「大体の予想はつきますので」

「ふむ、流石だな」

「褒められる程の事では……」


 と、千鶴は見覚えのない女が一人紛れている事に気づく。


「あなたは?」

「あたし? アグリアよ」

「アグリア……さん……?」


 途端に、表情に険悪な色を宿す千鶴に、アグリアは嫌そうな顔をする。


「デカチチ娘から聞いてるわけね。ま、当然っちゃ当然でしょーけど。警戒するのは分かるけど、何もしやしないわよ」

「こいつが何か余計なマネをしたら私が殺す。案ずるな」

「あたしの方が案ずるわ!」


 何やら漫才じみた光景に、千鶴はひとまず警戒心を解いた。


「ガルフさん、クリスさん、カタリナさんも、お久しぶりです」

「おう」

「こちらこそ」

「お久しぶりですね」


 と、握手を交わしている千鶴は、きっちりとアグリアだけは飛ばして、アレクサンドルに向けて手を差し出すが、彼はそれに応えようとはせず、じっと彼女の手を見つめていた。


 千鶴が訝しげに少し首を傾げてアレクサンドルを見上げると、彼の視線がようやく合った。


「プロでも難しいと言われる曲目だが、見事なものだった。手のサイズがもう少しあればよかったな」


 と、アレクサンドルはやっと千鶴の手を取った。どうやら彼女の手を観察していたらしい。


 少し驚いた様子を見せる千鶴であったが、普段の鋭さがちょっと薄れた、本当に心から笑う時の顔で言葉を返している。


「ええ。曲調が好きなのですけれど、私では指が届かないので、私でも弾けるように大分アレンジを入れてます。元傭兵と伺っておりますけど、お詳しいのですね」

「音楽鑑賞が“若い頃”からある唯一の趣味らしい趣味でな。お前の方は、趣味の範疇で納まるレベルではなさそうだが」


 見た目は今でも若々しいのでちょっと妙に聞こえる話だ。


「いえ、自慢できるものでもありません」


 千鶴はふっと軽く笑う。


「技術だけならプロ並みと言われてはいましたが、所詮は“それだけ”です。先生にも常々、それを指摘されていましたし」

「ふむ。確かに、苦手そうだな、お前」


 二人が何を指して言っているのか、他の面々にはさっぱりだったようで、


「何言ってんの? あいつら」


 とアグリアがクリスに訊ねるが、


「さあ?」


 と返されている。


「感情表現ですよ」


 疑問に答えてくれたのはリリステラだった。


「千鶴さんは少しばかり不得手なようですね。それが音色にも表れてしまっているのです」

「お恥ずかしい話ですが」

「とは言え、恋を題材にした曲目なら、とても素敵な音色を奏でられるのですよ。いずれお聞かせ頂くとよろしいかと」


 笑顔でさらっと言うリリステラに、千鶴はぽっと頬を染めて顔をそらした。


「まあまあ! 初々しいですね」


 千鶴の反応に、それぞれが微笑する中、


「けっ。憎たらしいくらいお綺麗なツラしてんだから、男なんてより取り見取りでしょうに、何を初心気取ってんだか」


 それも男心をくすぐる“技”なんでしょ、と悪態を吐いているアグリアに、千鶴が途端に微かに顔を上向かせて、薄っすらと笑いながら見下すようにアグリアを見据える。


「『女の演技』なんて私には必要ないのよ……あなたみたいな“中途半端”とは違って、ね」


 一条千鶴お得意の毒舌が炸裂。既に敬語すら失せ、せせら笑うその姿に、アグリアは顔を真っ赤に染め上げた。


「殺してやる!」


 と気炎を吐くアグリアだったが、側に居たカタリナが背後から、彼女の両脇に腕を通して拘束する。


「おやめなさい」

「放せぇっ! こいつだけはっ、こいつだけはっ、生かしておいたら、今後あたしのメンタルが大ダメージを食らうって、あたしの勘が告げてるのよ!」

「どの道、お前の敵う相手ではないぞ」


 馬鹿にしたような目で見てくるアレクサンドルに、ますます激昂するアグリアだ。


「んなわけあるかっ! 気功士歴二年足らず程度にっ」

「事実だ。先日まみえた時でも、既にお前に届きかねんレベルだったが、今はその時よりも段違いに成長している。が、お前を殺さずに止め切れるレベルでもない。十中八九殺されるぞ、お前」


 放せ放せと、カタリナの腕の中で暴れるアグリアだったが、アレクサンドルの言葉が進んでいく内に、段々と抵抗が小さくなっていき、遂には大人しくなり、首を動かして横手の彼を見上げる。


「マジ……?」

「言葉で遊ぶ趣味はあっても、嘘は口にせん主義だぞ、私は」

「くっ……」


 憎悪すら感じさせる目つきで千鶴を睨みつけるアグリア。乱暴な仕草でカタリナの腕を振り払うが、特に抵抗は無く、それは成功する。


「ちっ。覚えてなさい!」


 アグリアはその言葉を残して、独りで部屋を去って行ってしまった。


「こんな時、たびたび思うのですが……」

「何だ?」

「このような場合、覚えておいた方が親切なのでしょうか?」

「後生だ、忘れてやれ」

「Aye, sir」


 割と息の合った二人のやり取りを見ていた他の面々は、ふと思う事があったそうな――何だか兄妹に見える……見た目の系統と性質的に――と。『恋人同士』ではないところがミソだ。










 フランツ・リスト。超技巧派ピアニストとして名を馳せる彼が作曲した作品には、既に彼が没してから百年以上が経つというのに、彼以外は弾きこなせないと言われる曲目も多い。それは例えば、千鶴が先ほど弾いていた曲だ。ヴァイオリニストのパガニーニが作曲したラ・カンパネラをリストがピアノ用に編集した曲で、その名をまさしく超絶技巧練習曲。どこが練習曲なのかさっぱり意味不明なこの難曲は、演奏難易度において最高峰と言われる曲目の一つだ。

 リストは手のサイズが非常に大きな人だったらしい。作曲家が作曲する際に自分の作品を弾く他人の事を考えて作曲なんてするわけがなく、彼の曲にはその手の大きさを存分に利用したものが多いようだ。


 女性としては高身長で、比例して手のサイズも大き目な千鶴だが、流石にリストに及ぶサイズでもない。

 しかし千鶴は別に、何が何でも譜面通りに超絶技巧練習曲を弾いてやろうと拘る音楽家でもなかったので、自分が弾きやすいように独自のアレンジを施して演奏していた。そのせいで半分くらいは違う曲になってしまっているのだが、あくまでも“趣味”としてピアノを捉えている彼女にとっては十分だった。


 リリステラは他の用事があるからと、千鶴が彼らの案内を任されたのだが、そのくらいの頼みを断るわけがなく、リリステラとアグリアを欠いて、一同は魔王城の中を歩んでいた。

 その間、千鶴はアレクサンドルと音楽話にふけっていた。まさかルスティニアで地球の音楽に関して話せる相手が居るとは思わなかったので、彼女も楽しそうに話している。


 その最中、アレクサンドルがこんな事を言い出したのだ。


「闘気を纏って演奏してみればどうだ?」

「え?」

「スピードでもって、サイズの差を補ってみればどうだ? 加減が巧く利くかがネックだな。強弱の調節どころか、下手をすれば鍵盤自体を指でぶち抜きかねんが」


 これを聞いた途端、千鶴は深く考え込み出してしまった。


 流石にそれは考えた事がなかった。どう考えても、それこそ超絶技巧的に繊細な闘気コントロールが求められるからだ。むしろ考えるまでもなかった。


「……文字通りの超絶技巧練習曲になりそうですわね」

「完成した日が、お前が気功士としても一定の完成を見る日であろうな」


 何かを企むように、にやりと唇を歪める千鶴に、アレクサンドルはふっと唇を綻ばせた。


「ところで、リドウと恵子嬢ちゃんもここに居るのか?」

「外界で伝説級の魔物が同時多発しているのはご存知ですか?」

「おお」

「リドウはその件を片づけに独りで行ってしまいました。恵子ちゃんは……この時間帯なら、訓練中だと思いますけれども」

「訓練?」

「拳銃の」

「拳銃だと? あの小娘がか?」


 アレクサンドルが、どう考えても恵子のイメージじゃないというのと、なぜ拳銃を持っているのかという、二重の驚きで微かに目を見張っている。


「ええ。リリステラさんがお作りになったのを護身用に頂いて」

「ほう。魔神がどうやって作ったのかは一々突っ込まんが、あの小娘がな……」


 感慨深げに笑むアレクサンドルは、


「よし、そちらに案内しろ」

「理由をお訊ねしても?」

「私が見てやる。射撃にはそれなりに自信があるのでな」


 アレクサンドルは少し勿体ぶるような仕草で懐から拳銃を抜き出して、引き金の部分でくるくると拳銃を弄ぶ。


「なぜそんな物を?」


 千鶴は若干驚いた様子で見ている。恵子からは聞いていなかったらしい。


「若い頃の名残で、どうも懐にこの感触が無いと神経が落ち着かなくていかんのだ。二十年も実戦では使っとらんし、腕も多少は錆ついておろうが、一応、整備は欠かさずしておった。少しくらいは教えられるはずだ」

「なぜ、そこまでしてくれるのですか?」


 それに対する応えは即座に返ってこず、ただアレクサンドルの唇が、ただでさえ怜悧で酷薄な彼の美貌が、にたぁっと歪むのを見て、さしもの千鶴も若干引いた。

 くっくっく、と含んだ笑い声を黙って聞いていると、


「――リドウを除けば、お前たちの中で誰に最も興味を惹かれるかと問われたならば、私はあの小娘を推す」

「……なぜですか?」


 千鶴は別に、自分が選ばれなかった事に不満があったわけではなく、しかしアレクサンドルが恵子に対して妙な感情を抱いている風にも見えず、何が彼をそうさせるのか、どことなく慎重に訊ねた。


「とても――興味深い。ただ、それだけだ」

「……そうですか」


 静かに相槌を打つに留まった千鶴だったが、内心――何であの子は、こうも人外連中から妙な人気があるのだろうか――と考え、また、それが幸せなのか不幸なのか、今一判断がつかず、心の中で首を捻っていた。










 一同から離脱したアグリアは現在、一人で魔王城の中を闊歩していた。


(……魔神と一緒に居たくなくって、ちょうどいい口実ができたから抜け出してきたけど……これからどーしよ)


 いつの間にか平静を取り戻していたように見えたアグリアであったが、決してそんな事はなかったのだ。


 アグリアにも理解はできる――魔神リリステラは、決して理不尽にこちらを害してきたりはしないだろう、と。

 が、リリステラの人格を完全に信用しているわけでも決してない。欲深き人間とは他者もそうであると往々にして考えるもので、彼女が特別に欲深い女、という事もなかったが、人並み……よりも多少は俗っぽい女であるのも事実だ。いくらリリス教の大親玉とはいえ、“人間”がそこまで悟りの境地に至ってしまえるものなのか? と疑う気持ちがどうしても先行してしまうのだ。リリステラ自身が、なまじ人間と同じ外見を持ち、話が通じてしまうから尚更そう思ってしまう……背中に翼が生える人間、ではあるが。


 アグリアがリリステラを信用している理由。それは――あの存在は、もうそういう“人間の次元”ではない――という厳格な現実だった。

 あの存在の怒りを買ってしまえば、世界のどこに居ようが関係ない――それを実感してしまったのだ。

 リリステラ自身が戯れに言っていた『大魔王からは逃げられない』という言葉、それは嘘でも誇張でもなく、確かな現実だと認識してしまったからだ。


 ――ならもう、お隣さんでも関係ないじゃない――


 要するに、こんな感じに開き直ってしまったのだ。


 が、ずっと視界の範囲内にいられるのは神経に非常な負担を感じてしまうので、口実ができたのをいい事に、さっさと自分から退場させてもらった――これがアグリアの心の内の真相だった。これが普通の人間の反応だ。麻木恵子のように、完全に開き直れてしまう方が異常なのである。


 そして今、アグリアはこうして魔王城の中を彷徨っていた。


 ――そう、アグリアは絶賛迷子中だった。

 ただでさえ大国の宮殿にすら勝る、無駄にだだっ広い造りなのだ。しかも、色々と考え事をしていたせいで、完全に迷子になっていた。


「ちっ。壁をぶち抜いてやろうかしら」


 自分が迷子になっている事に気づいてから、何度か角を曲がっていると、次第にイライラしてきたようで、面倒になって魔法で壁を壊してしまおうかと呟く。本当にそうしてやろうというわけではなく、不良が気に入らない相手に対して軽々しく「ぶっ殺してやる!」とか吐くのと似たような文句でしかなかったのだが……


「――――ッ!?」


 アグリアは息を呑んでかちんっと固まる。背後に気配を感じる人物の、攻撃性の魔力の波動を感じ取って。


「魔力を練ったら撃つよ。少しでも重心を移動させても撃つ。理解したら、手と口は動かさないで、首だけで肯く。いい?」


 声の主の手のひらの感触を背中に得て、アグリアは頬と背中に冷や汗を感じる。

 声の幼さが示すように、背中に感じるのはかなり小さな手のひらの感触だった。

 しかし、実力の方は、とても子供とは思えない。


(……おそらく勝てない相手じゃない。でも、完全に後手に回ってる今は無理ね)


 アグリアは慎重に慎重に、こくりと首を縦に振った。


「じゃー質問ね。必要以上に口は動かさないで答えてよ。何でここに居るの?」

「魔神に招かれたからよ」

「え? お客様?」

「ま、そうとも言えるかしら」

「ちょ、ちょっと待ってね!」


 何でそんなに慌てているのか、アグリアには分からなかったが、それから数秒の間があった後、背後から感じる魔力の波動が消え失せた。


「あーっ、ご、ごめんなさい!」


 殺気と魔力波が綺麗に失せ、謝罪の言葉を吐き出す声に、アグリアは振り返ると、思った通りに小さな少女が、ぺこぺこと何度も頭を下げている。


「まだおねーさんのこと聞いてなくって……見た事ない人だったから気配消して後ろから様子見てたんだけど、なんか物騒なこと言ってたから、侵入者の敵の人なのかって勘違いしちゃった!」


 どうしよう、バレたら侍女長に怒られちゃう――と、あせあせで呟いている幼い少女。

 声や手の大きさから子供だとは思っていたが、本当にその姿が幼い少女だった事実と、それ以上に、彼女が着るどぎついピンク色のフリフリな衣装に度肝を抜かれてしまう。髪の毛までピンク色なものだから、うっかりすると何か妙な生き物が歩いているようにも見えてしまう。


(十歳くらい? もう少し上かしら。信じらんない、魔神の関係者は化け物ばっかりね……)


「お願いします! 侍女長には内緒にしといてください!」


 先ほどまでの殺気を漂わせた様子から一転して、ぺこぺこと頭を下げ続ける少女の姿に、


「別にいいけど……」

「ホント!?」


 アグリアの観察している限りは、表情も仕草も完全に子供だ。演技という可能性は捨てきれないが、一見する限りでは地っぽい、と判断する。


「ありがとー、おねーさん! どっか行きたいの? お詫びにうちが案内してあげるよ」

「じゃあさ、ここにシャイリーって女の子みたいな男の子も来てるか知ってる?」

「シャイリーくん? うん、いるよ」


 にまっとアグリアの口元が歪む。


「どこにいるか分かるかしら?」

「シャイリーくんも生活サイクルがメチャクチャだからなー。時間が合ってると、明人のとこに遊びに行ってることが多い時間帯だけど……ちょっと待ってね、誰か知らないか訊いてみるから」

「…………?」


 少女の何やら妙な台詞に、アグリアが眉をひそめる。


 が、観察すること数秒の不自然な間があったと思うと、


「あっ」


 少女がポカンと口を開けて自分の背後に視線をやったのに気づいたアグリアが振り返ろうとする――が、それはまたしても叶わなかった。


「魔力を練ったら殺す。重心を変えても殺す。理解したなら、口と手は動かさず、首だけ肯け。分かった?」


 ただし、今回はアグリアの知った声だったが。


「シャイリーくん、もうそれうちがやった。敵じゃないみたいだから、放してあげてよ」

「シュリちゃんが脅されてたんじゃないの?」

「え? なんで?」

「だって涙が」

「え? あ……」


 シュリは自分の目元を拭ってぽかんとする。サリスに後で叱られるんじゃないかと考えて涙目になっていただけなのだが、シャイリーはそれを、アグリアに泣かされている、と勘違いしてしまったらしいと気づく。


「ううん、ダイジョブ。なんにもされてないよ」


 むしろ自分の方がしちゃった立場だし、という内心は笑顔の奥に押し込めるシュリである。


「本当だな? アグリア」


 まだ“許されて”いない彼女は、こくこくと何度も小刻みに首を縦に動かした。


 背中に突き刺さる手刀の感触が消え去ったことで、アグリアは大きく息を吐いて、顎を滴る汗を拭いながら背後を振り返る。


「……お久しぶり、シャイリーくん」

「そーだね。何でここに?」

「単なる成り行き。ラヴァリエーレにくっ付いて来ただけよ」

「ラヴァリエーレ? アレクサンドル・ラヴァリエーレが来てるの!?」

「え、ええ……」


 いきなりキラキラお目々で背を伸ばし気味に自分へ迫ってきたシャイリーに、アグリアはドン引き……


 するのではなく、頬を赤く染めて、じゅるっと生唾を呑み込んだ。


(やっぱ可愛い! ホンットにあたしの好みのちょーど真ん中なのよ、この子! 前よりちょっと男の子っぽい印象の服着てるのが更にグッドっ)


 気づいたら、アグリアは自分でも知らない内に、シャイリーを抱き締めようと手を伸ばしていた。


 が、シャイリーはその手を、ひょいっと避けてしまう。


 が、アグリアは諦めないで、更に手を伸ばす。


 が、シャイリーはそれも避けてしまう。


 それが何度か繰り返されると、


「……何で避けるのよ」

「何でって……反射的に。捕まったら何されるか分からないし」

「年頃の男の子なら、こんな綺麗なおねーさんの体が公然と味わえる機会、みすみす逃すんじゃないわよ」

「自分で言ってりゃ世話ないね――お・ば・さん」

「に、憎ったらしい子ねっ、相変わらず――でもそれがまた可愛いから、おねーさんとっても複雑っ!」


 と、体をくねらせるアグリアにドン引きするのはシャイリーの方だった。


「でぇ、デカチチ娘もいるわけよね?」

「彼女に手を出したら問答無用で殺すよ」

「やんないわよ、今更。メンドくさい」


 アグリアは顔をそらし、手を翻しながら、ふんっと鼻で息をする。


「でも本当に、何でここに? 成り行きったって、自分から進んで魔神に関わりたがるような性格じゃないでしょ、お前」


 これを『普段の行いが悪い』と言うのだろう。シャイリーには、アグリアの口にした理由がどうしても信じられないようで、未だに疑惑の眼差しは解けていない。

 アグリア一人が何かを企もうと、この城で何を為せるとも思わないので、警戒心はあまり見受けられないのは、彼女にとっては幸いだった。彼女としてはシャイリーに嫌われたいわけではなかったので。


「別に、本当に成り行きよ。ただ、下心もあったけど」

「シタゴコロ?」

「魔神の住処なら、国の手も届かないだろうしさ。うちの国が潰れるまでは居させてもらおーかなー、と思ってるわ」

「ふぅん。抜けたの?」

「何か色々、メンドくさくなっちゃってね」


 それなら納得いかなくもない、とシャイリー。


「結局、うちの国は月紅一人に滅ぼされたようなもんよね。ま、まだ潰れちゃったわけじゃないけど、時間の問題でしょ」

「ハイエンドに徒に手を出したらこうなるって見本だね」


 馬鹿にしたように、それでいて少し暗い笑顔を浮かべるシャイリーだ。


「うちの上層部が間抜け揃いってのはあんま否定できないけど、あんま落ち度を責めらんない部分はあるわよ。ただでさえ月紅は若いし、ちょっと前までは全くの無名だったんだもん。それでも万全を期して――っても、勇者候補の小娘たちを警戒したって理由も半分あったけどね、ラヴァリエーレまで動かしてもしくじるなんて、考える方が頭おかしいわよ。月紅が異常で非常識だった、それがこうなった最大の要因でしょ」

「それは……」


 シャイリーは、うーん、と唸りながら首を捻るが、


「まあ……そうかもね」


 否定する要素は見当たらなかったようだ。


「ま、異常ってのはシャイリーくんにも言えるけど。あとあの忌々しいくらいお綺麗な小娘もね」

「僕たちはまだ常識の方に分類されると思うけどなー」

「そうね、まだ常識の範疇ではあるわ。でも月紅は訳が違いすぎるわよ。反則とかいうレベルじゃなくって、もう物理的にとか論理的にとかってレベルで有り得ない話よ? ようやく二十歳過ぎたような若造がラヴァリエーレに正面から勝利するなんてね。ラヴァリエーレ本人を除けば、ここ百年内じゃ最強とまで言われた伝説の【剣姫】だって、そこまで理不尽じゃなかったはずよ。まだ若い内に表舞台から姿を消しちゃったけど、当時で今代の【聖帝】よりも多少上、くらいが定説だもん」

「ああ、好きだよね、みんな……」


 と、シャイリーはくすくすと声に出しながら笑みを浮かべる。


「その『誰が歴史上最強の使い手(人間限定)か論争』」

「冒険者御用達の酒場に行けば、必ず一組はこの話題で盛り上がってるし、その内の半分くらいは意見が割れて喧嘩になるのよねー」


 その男たちを思い出して呆れているのか、馬鹿馬鹿しそうに肩をすくめるアグリアに、シャイリーはようやく警戒心を完全に解く気になった。もっとも、あくまでも一時的なものであるのは否めなかったが。


「じゃ、精々この城の住人の機嫌を損ねないように、くれぐれも変な事は考えるんじゃないよ」


 きっちりと釘を刺してこの場を去ろうとするシャイリーに、


「今度一緒にお風呂入りましょーねー」

「寝言は寝て言え」

「一緒に寝てくれるんなら、悦んで、幾らでも耳元であまーく囁いてあげるわよ」

「永遠に眠りたくなければ、寝てる時の僕に、勝手に近づくんじゃないよ。殺気じゃなくても、変な気配させて近づかれたら、間違いなく反射的に迎撃しちゃうから。睡眠時に加減なんて利かないからね」

「うっ……」


 軽口を叩くアグリアは、次は夜這いを匂わせようとしたのだが、それを先読みして忠告するシャイリーによって息を詰まらせた。


「うち、おねーさんみたいな人、何てゆーか知ってるよ!」

「あん?」

「ショタコン――ってゆーんだよね!」

「知らんわ」


 初めて見たなー、と瞳を輝かせて見上げてくるシュリに、アグリアは「ちょっと苦手かも、このおチビちゃん……」と思ったとか思わなかったとか。

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