スーパーチートウーマン(偽)
椅子に座り、全身に闘気を掛け巡らせ、瞳を閉じて鍵盤に手を置く。
瞼の裏に思い浮かべるのは、数年前に師から見せられた楽譜だ。その楽譜を見せられた時は、天才と謳われた彼女をしても、唸らざるを得なかった。アップライトピアノでは構造上、音が追いつかずに繋がってしまうほどの連弾やオクターブ跳躍の嵐。話には聞いていたが、まさに超絶技巧の名が相応しいと思ったものだった。
師がその楽譜を彼女に見せた理由は、単純に彼女自身の技術の向上のためだった。どうにも感情表現が苦手だった彼女だったが、師はあまりそこを重視していなかった。いずれ人生経験を重ねれば自然と追いついてくるだろうし、今は技術を高めさせるだけで十分だろう、という。本人が出たがらなかったので大会での賞は何も獲っていなかったが、間違いなく世代トップクラスの腕前を持つ弟子が、師にとっては誇りでもあったらしい。
どうせならピアノだけに熱意を傾けてくれないものか、と少し不満に思っていたのも、弟子たる彼女は気づいていたが。それでも、幼い頃から一日最低六時間の練習を欠かした事は無かったので、師も文句を言いづらかったようだった。本当にピアノへ熱意を傾けている少年少女なら、一日十時間は軽くやっているものだが……そこは才能なのだろう。
それでいて、他にも数多くの習い事をさせられていて、小学生の頃から睡眠時間は平均六時間とか……軽く虐待ではなかろうかと、今更ながらに過去の自分を思い出し、絶対に自分は子供にそんな無茶をさせたりはしないと心に誓うが、聡明な彼女も所詮はまだまだ子供の内という事だろう。優れた才を見せる我が子に優れた教育を存分に与えてやりたいという親心までは理解できていなかった。
もっとも、彼女の両親が彼女に英才教育を施していた理由は、もっと俗物的なものであったのも事実ではあったが。
ルスティニアに来てよりもう二年余り。一年半近くもピアノからは遠ざかっていたせいで、大分腕が落ちているなと、そこは何となく彼女も不満に思ってしまい、そのくらいにはピアノ演奏が好きだったのだなと再確認する。
さて、指慣らしの練習はここまでだ、と彼女は演奏を止め、問題の曲に移る。
まさに鬼気迫るといった真剣極まりない風情で眉間に皺を寄せながら鍵盤に指を走らせる。
流麗な音色が鍵盤から奏でられる中、問題の部分に差し掛かる。
本来の彼女の腕前では、あまりにも速すぎる曲調に指が届き切らないオクターブ跳躍。それを、闘気で強化された超高速移動によって補う。
が――
ズガンッ、という破砕音が鳴り響き、彼女は無表情で演奏を止めてしまう。
彼女の指先は、求められる繊細な闘気コントロールが実現できずに、鍵盤をぶち抜いてしまっていた。
強化された指は破片に傷つく事もなく、彼女はゆっくりと指を引き抜き、大きく息を吐きながら、眉間を指で揉み解す。
(闘気を併用しての演奏だけならできるようにはなったけれど、一定を保つのではなく、気術的にコントロールしながらとなると、やはり難しいわね……)
その間に、何とも摩訶不思議な事に、ピアノの鍵盤は時間を巻き戻したかのように、元の形を取り戻していた。
実はこのピアノ、思考加速結界と同様、彼女の練習用に大魔王様が用意してくれた特別性の魔導ピアノであった。と言っても、実物のピアノに魔導的な処理を施しているのではなく、魔方陣によって疑似物質化している、いわばピアノ結界とも述べるべき代物だ。
“こうなる”事が目に見えていたため、彼女が大魔王様に自らお願いしたのである。甘えすぎているかと彼女自身思わなくもなかったが、多少は他者の手を借りたにしても、自らによって自らを向上させようとする姿勢を、あの女神様が厭うわけがなかった。
しかし、千鶴は即座に演奏を再開しようとはせず、己の手をじっと見つめている。
常人には判らないだろうが、その手の周囲を闘気が高速で移動しているのだ。
千鶴はそれを繰り返し続けながら思う。以前に比べれば――それこそ一月前から比べれば格段に速くなったし、強弱の調整もできるようになった。しかしそれでも、演奏との併用を成功させるためにはまだまだ拙い。
単純に超絶技巧練習曲を弾きこなすだけの身体能力を得るだけの闘気を常に維持するのは、実のところ彼女は既に成し遂げていた。が、通常状態で弾ける部分は闘気を用いず、ネックの部分だけ、しかも鍵盤をぶち壊さない繊細なコントロールをするとなると、途端に難易度が桁違いに跳ね上がる。
だが、リドウなら軽くやってのけるだろう。ピアノは彼も専門外だが、仮に自分と同じだけの演奏技術を持っていたら、鼻歌まじりにやってのけるに違いない。
シャイリーから、何度か愚痴っぽく聞かされた事だ――リドウの気功士としての真の凄みは、全ての面がハイレベルで安定している事である、と。特に、コントロールに難があるシャイリーからしてみると、あのコントロールセンスは神懸っている、と。
リドウたちと同レベルの戦闘力に達するには、やはり全てがハイレベルに達しなければならない。どれか一つだけが飛び抜けているだけでは、精々がハイエンド未満にしかなれない。
(先は……まだまだ長いわね……)
気を取り直してもう一度、と鍵盤と向かい合う。その部屋から演奏が途切れたのは、それから二時間後の事であった。
一条千鶴の“ピアノ修業”は主に寝起き後、すぐに行われる。通常の修業で疲労困憊の状態では到底できないからだ。
その後、朝食を取るために食堂へ赴くのだが、そこでばったりカタリナと顔を合わせる事となった。
淡い紫色をしたボブカットに碧眼の白人系で、深窓の令嬢といった儚げかつ優しげな雰囲気の持ち主だが、実態はバトルジャンキーなハイエンドで、今の千鶴が戦えばまず勝ち目は無い。
「おはようございます、カタリナさん」
「おはようございます、一条さん」
ニコリと微笑み合いながら挨拶を交わす。
「お一人ですか?」
と、すかさず千鶴。カタリナと、彼女の恋人にして主のアレクサンドル・ラヴァリエーレは同じ部屋で寝起きしており、食事なども殆ど一緒にしているのを、千鶴はちょっとした羨望と共に知っている。
「ええ、昨夜はお帰りになりませんでした。きっと、ザイケン殿と興が乗りすぎてらっしゃるのでしょう」
と、微笑ましげに言われ、千鶴は胡乱な表情で時計を確認する。自分がギブアップしてから今までずっと闘い続けていたとなると、軽く十時間か。やはりリドウと並ぶ人外連中だ。
何となく大きな息を吐いてしまう千鶴であったが、その瞬間、全身を硬直させてしまう。
「本日一度目です」
丁寧ながらに冷たい男の声が耳を擽り、背後から首筋に感じる物理的に冷たい感触に冷や汗する。
「……ご指導、ありがとうございます、クリスさん」
刃の感触が首筋から消え去ったのを感じ、千鶴は振り返って礼をした。
「いえ。私のような者でも役立てるなら幸いです」
既に卓につき、メイドさんが差し出してきたカップを優雅に傾けながら、相変わらずの無表情なクリスである。
彼はアレクサンドルに頼まれて、千鶴に対して、隙があれば襲えと言われていた。
アレクサンドルは千鶴、恵子、愛奈、この三人娘をそれぞれかなり気に入っており、その中で誰に最も興味を惹かれるかで言えば、それは彼自身が以前に言ったように恵子である。が、戦闘関連で最も力を入れたいと考えているのは間違いなく千鶴だった。
二十歳前の小娘とは思えない冷徹にして深遠な思考能力。彼女の戦闘能力は、勇者級の才能が有る者たちならば、訓練次第で皆が身に付け得るだろうが、彼女の卓越した頭脳だけは、訓練でどうにかなるレベルを超越している。それと彼女自身の戦闘能力が合わさった時の戦闘力は、彼をして目を見張らせるものがあったらしい。
元々、恵子や愛奈に比べて遥かに危機意識が高く、彼女たちよりも戦闘者として遥かに熟達している千鶴をより完璧たらしめるために、過去、暗殺者として世界中の要人たちを震え上がらせていたクリスに、暗殺者対策の訓練を頼んだのだ。
それから今までに千鶴が“死んだ”回数は優に百を上回る。防げたのは僅かに三度だけだ。戦闘力だけが強さではないという事を、彼女は身を以って知らしめられていた。
「流石は音に聞こえた【宵闇】ですね。攻撃されるまではわたくしも反応すらできないでしょう」
「それ、止めてもらえませんか、カタリナ殿」
既に捨て去ったはずの二つ名を言われ、顔をしかめるクリスである。
「ガルフさんとご一緒で、お嫌いなのですか? 二つ名を呼ばれるのが」
「私の場合は紛れもない悪名ですよ。私が名乗ったわけでもありません。もっとも、利用はさせてもらっていましたが」
クリスはティーカップをテーブルの上に置きながら、千鶴へ向けてすっと視線を向ける。
「私にあなたを制するのは不可能ですが、殺すだけなら幾らでも手はある。努々お忘れ無きよう、一条殿」
「はい……ん?」
厳かに頷いた千鶴であったが、直後に違和感を覚えて首を捻るが、すぐにその正体に思い至る。
今までクリスは、三人娘は一律して『~~嬢』と呼んでいたのに、その敬称が変わっていたのだ。
「お認めになられたのですね」
「いえ、それはとっくの昔でしたが、機会が無く、何となく惰性で。ただ昨夜が三度目でしたし、今も本当なら頸動脈にいきたかったのですが、一条殿のご様子からそれは無理だと判断“させられ”てしまったので、ちょうどいい機会かと思いました」
カタリナの言葉にクリスが唇を緩めながら応じたが、どういう意味だろうと眉根を寄せている千鶴である。
「ルスティニアにおいて階級差とは絶対です。格下が格上を侮るような発言をした場合、問答無用で首を切られても文句は言えません。それはリリス教圏でも同じはずです」
そうですね、と目で語るカタリナに、クリスは首を縦に振った。
「難しいものでしてね、権力を持たない実力者にもこの礼儀は適用されるのですが、どこでその境界線が決められるのかは割と曖昧で、本人の実力を具体的な数値にして表せない以上、大体は『自分から見て相手の立場はどういったものか』という意味を敬称に乗せて表すのが一般的です」
故に、大国ですら身一つで滅ぼしてみせるリドウやアレクサンドルであれば、この世に生きる大半の人間は上から目線で呼ぶ権利を有する、と述べるカタリナは更に続ける。
「無論、相手が己を格下として侮っていると判断した場合、“その認識を己の力で正す”のは自由です――ただし、その結果は命を以って贖う覚悟を要されますが」
実力者同士であれば決闘と判り易いが、王侯貴族たちの場合は『己の家』の力を全て用いるのが許されるらしい。これがまた奇妙なもので、己の家の配下として連なる者たちならば全てを用いて構わないが、己より上の者たちの力を借りるのはアウトなのだ。
仮に侯爵であれば、王家や同格の爵位持ちたちの力を借りるのはアウトだが、財力を駆使して集めた冒険者たちを充てるのは構わない。
ただし、もし憤怒から同格以上の者たちの力にまで頼った場合、その事実が明るみに出れば末代までの恥となるほどに、ルスティニアにおける『階級』とは絶対的なものがあった。
「加えて、貴族であれば男女の区別は明確にして表現するのが礼儀ですが、実力者は逆に、男女の区別を無く呼ぶのが礼儀とされています。なので、今後は一条殿、と」
「それは……ありがとうございます」
クリスのような『自分が格上と認識しているイイ男』に認められた事が素直に嬉しくて、千鶴は綺麗に笑って魅せるが、彼の反応は静かなものだった。
「いえ、本来ならもう『一条卿』とお呼びすべきなのでしょう。ただ、リドウ殿にしろカタリナ殿にしろ、あなた方とは『一級下で呼び合ってよい仲である』という優位を捨てるのは勿体ない気がしまして。お許し下さい」
「とんでもありませんわ。どうせでしたら千鶴、と呼び捨てて頂いても構いません」
「それは少々。家名を持つご婦人を名で呼ぶのは紳士として憚られますので」
千鶴から好意を向けられても揺るがぬ冷静さで言い切るクリス。そうでなければ、彼女は決して異性を本心から尊敬する事は無いが。
あまりにもモテすぎてきた千鶴にとって、己に対してきっちり一線を保つ事ができる男たちは基本的にそれだけで尊敬すべき相手だった。リドウ然り、即座に自分に夢中になったりはしない男でないと、恋愛対象どころか、まともに認識すべき対象にすらならないという、面倒くささ極まりない女であった。
千鶴がいつもザイケンたちと修業をしている場所までやってくると、元々普段から彼女たちの修業によりあちこちが抉られたり隆起したりしている場所を、更なる災害が襲っている最中であった。
銀髪の美丈夫が放つ極大の光線が地を削り、着流し姿の鬼さんが放つ斬撃が大地を割る。
僅か一秒の間に数十の刃が交わされ、生み出される衝撃波で周囲が抉れていく。
アレクサンドルが間合いを取った瞬間、カッと眩く光る稲妻が走るが、ザイケンは刀でそれを一刀に斬り捨ててしまう。
雷を斬るとか、冷静に考えれば何たる非常識、と千鶴は虚ろに思うのだが、よくよく考えれば今の自分にも普通にできるかと思うと、遠い世界に来てしまったなと、彼女にも乾いた笑いを誘ってしまう。もっとも、アレクサンドルの雷撃を切り払うのは、今の千鶴には殆ど不可能だったが。
ちょうど間合いを取ったその機に、二人は戦闘を止め、千鶴の方へ足を向けた。
「やはり、勝てませんな」
「五十も生きてねぇ小僧に負けられる程、甘っちょろい鍛え方はしてねぇよ。まあ、外界で呑気に勇者してたにしちゃいい線いってるぜ。ケツに殻のついたひよっこがいれば上等な方だと思ってたからな」
談笑しながらやって来る二人へ向けて、千鶴は挨拶する。
「おはようございます」
「おう」
「うむ」
丁寧に頭を下げる千鶴に、ザイケンやアレクサンドルは鷹揚に応じた。
「んじゃ、始めるか」
「……大丈夫なのですか?」
最近は、千鶴の直接の相手は主にアレクサンドルがしている。だからこそ、まる一日闘いっぱなしだったのにと案ずる千鶴であったが、アレクサンドルはむしろ気分を害された様子で、冷たい瞳で彼女を見下ろしている。
「小娘が、私を案ずるなど二十年は早い」
「……失礼しました」
謝罪しながらも、若干むっとした様子を見せる千鶴に、アレクサンドルは楽しげに笑う。自分を相手に、こうも闘志剥き出しで常に挑んでこれる千鶴だからこそ、彼は好んでいた。
それから始まる模擬戦では、アレクサンドルは魔法を一切使わず、気功士としての力だけで千鶴と戦っていた。
殲滅師であるアレクサンドルの場合、それでは全戦力の半分も発揮していない事になる。それですら、千鶴は彼の上を行けないでいた。
だが、それも当然だ。気功士としての才能で言えば、千鶴とアレクサンドルは殆ど変らないだろう。殲滅師として魔法の鍛錬もしてきたとはいえ、二十年以上も愚直に鍛えてきた彼に、気功士歴二年そこそこの千鶴が及ばないのは道理でしかない。
しかし……
(強い……いや、巧い、と述べるべきか……)
千鶴の勇猛果敢な攻撃を華麗に捌き続けるアレクサンドルであったが、その実、内心は舌を巻いていた。
一条千鶴という名の女の何が最も凄いかと言えば、それは理解力なのだ。一度説明されるか、それとも実演されるかすれば、即座にそれを己の技として反映させられるずば抜けた論理的理解力を彼女は持っている。
無論、段階は経なければならない。『1+1』を理解せずにいきなり二次関数を理解してしまうような、過程をすっ飛ばして結論だけを導き出してしまう意味不明な天才性ではない。それは武術においても同様だ。
だが、段階を追って一から順に積み上げていく場合、普通なら理解するのにとてつもない時間が要されるような事でも、彼女は常人よりも遥かに短い期間で習得してしまい、あっさりと二次関数に到達してしまうのだ。足し算を知って一ヶ月後には二次関数に突入してしまえる圧倒的理解力。
聞けば、全国屈指の学業成績を納めていた彼女だが、勉学においては特別に家庭教師をつけたり、塾に通ったりした事は無かったという。本人曰く「教科書を読めば理解できましたので」だそうだ。
論理を知り、現実に反映させる力。それも、頭の中で行われる頭脳労働だけでなく、肉体にまで及ぶ理解力。
彼女の天才性は、本来的な意味で天才とは言えないだろう。常人と完全に隔絶し、常人の理解を遥かに越えてしまうような部分は、どちらかと言えば無いに等しい。
一条千鶴は秀才なのだ。それを本人が自覚しているからこそ、彼女は自分を天才だとは思っていない。
――ただし、桁違いの秀才だ。
論理を知り、現実に反映させるという一点において、常人離れして巧いのだ。そういう意味では天才と言えるのだろう。ただし、相応の時間さえ掛ける事ができたならば、同じ場所に辿り着く事が誰にも決して不可能ではない。そういう意味では、やはり天才と言い切れるかは首を捻るところだ。
だからこそ、それが故に、彼女の『出来』は師の優劣によって決する――極端なまでに。師が多くの物を知る人物であればあるほど、学ぶための時間があればあるほど、彼女は比例して多くの物を際限無く学んでいく。
故に、魔王城に到達して以降の彼女は、世界最高の使い手から余事に構わず一心に学べるおかげで、凄まじい成長を見せていた。いや、敢えて自ら余事を全て忘れる努力をしている、と述べる方がより正確であろうが。
(やはり、巧い)
アレクサンドルは、昨日は通用した攻撃が綺麗に捌かれたのを見て、心から感嘆する。
千鶴を相手にしているといつもの事だが、彼女は一度くらった攻撃パターンは二度ともらわないのだ。無論、彼が本気で攻撃してしまえば、同じ攻撃でも、今の彼女では到底対処しきれないが、身体能力を同レベルで維持している現在は必ずこうなる。そこにも、彼女の学習能力の高さが如実に現れていた。
(この娘と闘う場合、圧倒的な自力での格差がある使い手ではない限り、初見での勝利を逃してしまえば、まず勝ち目は無くなろうな。それに……)
アレクサンドルの横凪の攻撃が千鶴の肉体をまともに捉えた。
悲鳴の声も無く、勢いよくぶっ飛ばされる千鶴。
しかし、悲鳴の声も“上げられなかった”のではなく、“上げなかった”だけだった。
そもそも、アレクサンドルの攻撃が完璧にヒットしていれば、千鶴の胴体は真っ二つになっている。
元々防御用に闘気を割り振っている――のは、気功士ならば普通だ。完全に攻撃だけに全闘気を割いてしまう事など、よほど特殊な状況下でしかありえない。
だが、千鶴は最近成長著しいコントロールで大量の闘気を一瞬でヒッティングポイントに回したのだ。
だからこそ、千鶴の体は吹っ飛んだ。
しかし、それは元から当然の話だ。アレクサンドルは別に千鶴を殺す気など無いのだから。当たっても彼女が死にはしない程度の攻撃しかしていない。
それでも、アレクサンドルも決着がつく程度には本気で攻撃したつもりだった。
が、千鶴は吹き飛ばされる途中で地面に片手をつき、バク転しながら着地すると、即座に偃月刀を構え直した。
(そう。それにこの娘は根性も素晴らしい)
アレクサンドルは、古き日本人が愛するような根性論は嫌いな人間だ。それはこの城に住まう魔王たち、そしてその教えを受けてきたリドウも同様に。
できない事を「根性が足らないからだ」とか、「根性があればできる」とか、『根性』という曖昧な根拠で教え子の不出来を詰り、教え手側の不出来を擁護する意味不明な理屈はアレクサンドルには理解できない。
だが、ここ一番で動揺せずに力を発揮させるのが根性である事は、アレクサンドルも否定しない。軍隊に所属した経験は無かったが、傭兵のために軍隊よろしく訓練をしてくれるキャンプはあり、それには彼も参加した経験はあった。そこではまさしく根性論全開の過酷な訓練が行われるが、それは、負ければ死、という極限状態でも常に冷静さを失わずに力を発揮できるだけの精神力を養うためだ。それが無ければ、どんなに優れた技能を持つ戦士でも、数度も戦場に出れば命を落とすだろう。
ルスティニアにおいては、気功士や魔道士という、常人ではどんなに優れた技能を持っていようと、決して敵わない力を得てしまう人間がいる。そのせいなのだろう、常人を相手にしている限り決して死ぬ事が無い彼らはどこか危機意識が低い。勇者とはその筆頭だ。
故に、一度劣勢に立たされたり、予想外の健闘をされたりすると、途端に浮き足立ってしまうし、格上と戦えばあっさりと敗北してしまう。下手をすれば、まともなダメージを受けるような攻撃をされると、それ一発で、死にはせずとも、精神的には終わってしまうケースが本当に多い。
だが、千鶴にはそれが一切無い。
元来、二十歳前の小娘とはとても思えない強靭な精神力の持ち主だったようだが、それ以上に、早々にリドウと出会い、常に彼を傍で見てきたからだろう。
自分が弱く、真の強者を敵に回せば勝ち目は無いという思いを常に抱えてきた千鶴にとって、相手が自分よりも強いからと言って諦める要素にはならず、足掻くためには痛みに構っていられるような余裕など無い、という思いがあるのだ。
(環境に恵まれたな)
再び向かってくる千鶴の攻撃を捌きながら、アレクサンドルは思う。
(いずれ、遠からず、気功士としては私を越えるであろう)
殲滅師であるアレクサンドルの場合、気功士としての鍛錬だけに時間を割く事は無い。気功士として純粋な千鶴なら、いずれは彼を、そしてリドウを越えるだろう。
その時はそう遠くの話ではない。アレクサンドルはその確信を抱いて……薄く笑った。
(随分と……慣れてきたわね)
訓練後、まだザイケンと模擬戦を続けると言うアレクサンドルに若干呆れ顔になりながら、千鶴は先に引き上げさせてもらうと言って、今は城の中を歩いていた。
以前、ここに来たばかりの頃は、訓練後は即座に撃沈していたものだが、今はこうしてサロンに向かおうと思えるくらいの気力は残していられる。撃沈していた頃より肉体の虐め方が足らないという事はないのは、自分の体に掛かる負担から理解できるが、この余裕も成長した証なのだろうか、千鶴にもいまいち判らなかった。
そうして静かにサロンのドアを開けて入った千鶴は、目の前で繰り広げられる世にも奇妙な光景に沈黙してしまう。
「……何やってるの? あなたたち」
彼女の目の前では、恵子と愛奈が、うんうん唸りながら、乙女にあるまじき大開脚をして、床に座っていた。彼女たちが普段着からスカートでなかったのだけは幸いだ。
「あ、千鶴。あんた、ひらーのぺちゃーってできる?」
要するに、百八十度開脚しながら九十度前屈ができるかと、恵子は言いたいらしい。
「別にできますけれど……」
恵子に言われた愛奈も試していたらしい。胡乱な目を向ける千鶴が見るところ、愛奈に比べれば恵子の方が色々と曲がっているが、修業の成果が出たのも多少はあるにしても、以前から運動はさほど苦手としておらず、ダンスが得意だったと言うように、元々恵子の方が体が柔らかかったのは、何となく千鶴には察しがついた。ただ、本職のダンサーや武術家、あるいは体操選手ほどに柔らかい体まではしていなかっただけで。
即座にやってみてという声が返ってきて、まあ男も居ないしいいか、と思いながらやってみせると、おおっ、という感嘆の声が上がる。
「すげーな、流石は反則女」
山中果歩の非常に微妙な評価に憮然としながら千鶴は立ち上がり、無言でお茶を用意して椅子に座る。
「私も柔らかくした方がいいんでしょーか?」
愛奈はまだ床で前屈を続けながら、ようやく四十五度くらいしか曲がらない自分の体を実感し、今後を考えると不安になった様子だ。
……が、それで胸の先が太ももに当たっているあたりが、この童顔でまだ少女と言ってしまっていい娘のある意味凄いところだ……ある意味。具体的には胸囲的な意味で。
「柔らかくて困る事もないでしょうけれど、魔法使いの愛奈ちゃんにはあまり関係ないのではないかしら? でも、何でそんな話に?」
「最初はシャイリーってドSよねー、って話からだっけ?」
女装を止めてから「もうちゃんって止めて」と言われて呼び捨てるようになった恵子が、現在自分がシャイリーから食らっている責め苦を千鶴に教えると、彼女は納得したようだった。
「シャイリーさんって鬼畜攻めが似合いますからねぇ」
「確かに、ありゃ見るからにサディストだ」
愛奈が彼女らしい評をすれば、果歩も迷わず同意する。が、千鶴も否定しようとはしなかった。
「弱者を嬲るのは嫌いでも、調子に乗ってる馬鹿を絶望の淵に叩き込んで嘲笑うのは好きそうよね、あの子」
「あー、分かる分かる」
「可愛い顔してさらっとエゲツナイ事やらかしそうな感じはあるよな」
「皆さんヒドイですね……」
愛奈が乾いた笑いを浮かべるが、フォローには至らないあたり、彼女もやはり否定はできなかったようだ。
「まあ、武の道を志すなら避けては通れない道ね。時間を掛けて柔軟で癖をつけていられるほど余裕がある保証はありませんし」
「まあね」
そこは恵子自身も理解しているので、別に文句があるわけでもないようだった。
そんな二人のやり取りを見ていた果歩が、何やら妙な顔つきで千鶴へ向けて口を開く。
「……お前、変わったよな」
「…………?」
千鶴は疑問の籠った表情で振り向く。
「シャクだけど、お前は華があるからさ、一年の時から知っちゃいたよ。けど、初めて見た時、あたしは少し怖かった。二年で同じクラスになってから、余計にその印象が深くなったね。冗談でしかないけどよ、お前がどこかの秘密研究所が作った機械人間だったって言われたら、ああやっぱりね、ってむしろ納得できたと思うぜ、あの頃なら」
果歩の辛辣とも言える言葉をすまし顔で聞く千鶴だったが、口元で傾けられているティーカップに半ば隠れる唇は柔らかく緩んでおり、気分を害しているわけではないらしい。
聡明な千鶴のことだ。むしろあの頃の自分は、特に同性からはそうした印象を抱かれているであろうと最初から察していたのだろう。
「けどさ、お前、変わったよ。何つーか……前より可愛くなったな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてるぜ。前のお前でも、話し掛けただけで百人中九十人の男は夢中になってただろーけど、今なら九十四人はいけるんじゃね?」
「随分と中途半端な数字ね」
「リーチェン爺さんは別としても、アレクサンドルさん、シャイリーくん、ザイケンさん、ガルフさん、クリスさん――んで若様。お前に妙な感情を向けずにいられる若い男……まあ何人かは見た目だけっつー話だけど、こんなに居るとは本気で思わなかったぜ」
リーチェンを抜いたその六名を百から差し引いた数字だったらしい。
その評価、特に最後の一人の部分でむすっとする千鶴に、やっぱり以前よりも可愛らしくなったなと、果歩は感想を新たにしていた。
「あっちにだって居たじゃん」
恵子がどこか不満そうな顔で会話に参加してくるが、果歩は不思議そうに首を傾げる。
「そか? あたしにゃ覚えねぇけどな」
「芳樹とか」
「はあ?」
果歩は本気で怪訝そうに眉を寄せる。
「どこがだ? あの野郎はむしろ」
「山中さん」
呆れ顔で何かを言おうとした果歩の言葉を、千鶴が氷結の言葉でもって遮った。その静かながらに強烈な視線を受けて、果歩は冷や汗しながら黙りこくってしまう。その内心で、特定の部分はむしろ以前よりも恐ろしくなってるなと、また新たな感想を抱いていた。
「むしろ、なに?」
恵子も訝しげに眉間に皺を作っているが、千鶴の意図を正確に読み取った果歩は一瞬言葉に詰まってしまうも……この女は日本に居た頃から、絶対零度を発動中の一条千鶴に逆らう事ができる、殆ど唯一と言っていい同級生だった。
「……お前が神崎と付き合い始めたって聞いた後、あたしは一度、お前に言った事があったろ。覚えてっか?」
言われた恵子は記憶を辿り、途端に不機嫌そうな顔になってしまった。
「……忘れてた。あれであんたと疎遠になったんだっけ」
ルスティニアに来て二年余り。激動の毎日に、日本で暮らしていた頃の記憶が圧迫され、更に友人と再会できた事が素直に嬉しくて、恵子もすっかり忘れていたが、彼女は以前に恋人と付き合い始めた頃、果歩から「止めといた方がいいと思うぜ」と忠告されていたのだ。
他人の陰口を叩くような行為が元々嫌いな潔癖症な上に、事が恋人絡みとあって、あの時は殆ど喧嘩別れみたいになってしまったのだった、と恵子は思い出す。
「いい機会だ。もうあいつの事は忘れて、新しい恋を探せよ。つかお前、若様のこと好きだろ」
「べ、別にあいつの事なんて」
「嘘だな」
焦って言い訳をしようとする恵子の言葉を、果歩は一刀両断してしまう。
「前のお前だったら、今の状況ならまず神崎の事を擁護しようとしたはずだ。その時点で語るに落ちてるんだよ」
二人のやり取りを傍で聞いている千鶴はすまし顔だったが、こういう雰囲気が苦手な愛奈がおろおろと視線を彷徨わせている。
「いいじゃねぇか、一条と一緒に可愛がってもらえば。どうせハーレムOKなご時世だし、ここに法律なんて無いも同然なんだ。あんな男を女一人が独占しきろうなんて土台ムリムリ。片手で納まるくらいの人数なら上手に捌ける甲斐性あるだろ、あの人なら。一条だって、一生女は自分一人だけ、なんてつもりはねーだろ?」
「そうね。ちゃんと私に構ってくれるなら、あまり口うるさい事は言わないつもりではあるわよ。大体、リドウにそれを求めても徒労よ。そういう感性を持てる育ち方はしていないもの、彼」
「そーなん?」
「永遠に生きられる存在にとって、生涯変わらぬ愛、なんて戯言でしかないらしいわね。同じく、永遠に治まらない憎悪なんてものも。百年単位のスパンで物を考えるからというのもあるようですけれど、頭が冷えればまた好きになったり、友人として付き合えたりという話が、あの方々にとっては至って普通だから、最初から本気で憎み合ったりも“できなくなる”。当然、逆に愛情も。だから、そういう意味では誰か一人に必要以上に執着しようとしないし、束縛しようともしない。リドウも、もし私と男女の関係になった後で私が浮気しても、きっとさして気にしないでしょうね。そういう感性なのよ」
自分も最近ようやく理解できるようになってきた、と言う千鶴に、相変わらず人間離れしたやつ、と果歩が内心で呟いている。
「その中で育ったリドウはそういった感性しか知らないし、自分も最初から魔王になるつもりでいるから、尚更なのでしょうね」
「そんな綺麗に割り切れるもんなのか?」
「牛や豚を食べる事に生理的拒否感を持つ宗教的感性を、あなたは理解できて?」
「なるほど。知識として知る事はできても、うちらには理解できなくて当然、と」
「そういう事よ」
小難しい話をする事で、話を有耶無耶にしてしまおうとした千鶴。その思惑を読み切った果歩も乗った事で、間を断ち切られた恵子は何も言う事ができずに、気落ちした様子を見せていた。
そんな恵子を愛奈が心配そうに見ていたが、掛ける言葉は何も思い浮かばないようで、自分までどんよりとした空気を醸し出してしまっていた。
「おつかれー」
そんな空気を吹き飛ばしてくれたのは、先ほどまで噂されていたドSな美少女風美少年の登場で、いつでも明るい笑顔に愛奈は本気で救われて、思わず涙目で抱きついてしまい、そっち方面には割と純情な彼を盛大に慌てさせていたが、その微笑ましいラブコメ展開に、恵子も思わず笑顔になれる元気がもらえたようで、更にそれを見た千鶴が内心ほっと胸を撫で下ろしており、そしてそんな千鶴を見た果歩は、本当に人間らしくなったなと、ふっと微笑していた。




