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「あれ、ここって割と大きめの印付けてましたよね?」
三階廊下。記憶が確かなら最後に印を付けていた筈のその場所は、少々様子が違っていた。
しっかりと白線を引いていたそこには、僅かに粉の散った跡だけが残るばかりで、線という線は消えてしまっている。
「あーらら。よわいさんや、これは……」
「目測を誤った、ということではなさそうだな。例外速の成長か。……うぅん」
椎華先輩の目配せに、よわい先輩が困った様に呟いて、何故だか悲しげな視線を寄越す。俺に。
「……あの?」
うぬぬ。そんなイノセントな瞳で見つめられると辛いんですけど先輩。
「その、なんというか、少し困ったことになったというか」
本当に困った、というか、どちらかというと隠し事を見付かってしまった子供の様な表情で、よわい先輩はなんだかもじりもじりと体を揺らしている。
「ええと、何があ――」
ったんですか。と言い終わるより先、
「な、なんじゃあこりゃあああっ!?」
廊下の突き当たり、曲がり角の向こうから、なにやら野太い男の叫び声が聞こえてきた。……酷く遺憾なことに、聞き覚えがある。
「間が悪い。校舎に残っていた生徒と接触したな」
廊下の奥へと視線を向けて、よわい先輩が冷静な様子でそんなことを言う。
続けて「行こう」と告げて廊下の奥へと歩を進める先輩方。追いかける俺の足はものすげえ重い。だってそこ曲がったらアレが居るし。
「あの、ほんとに行くんですか……?」
「ああ、急ごう。……椎華、どう思う? 何に『成った』?」
早足を超えて駆け足になりながら先輩達はなにやら話している。内容はよく分からない。
「えー? でも今日は入学式だし、春だし、部活勧誘だしでロクな素材が無かったと思うけどなー。そんなに危なっかしいものじゃないと思うよ。近々でっていうと……あ、そういえばさっき話してたよね」
そこで、くるりと首を巡らせて椎華先輩が俺に視線を寄越した。さっき……? 何の話だろう。
「む。……ああ、そうか。可能性はあるが、サイズがどうにもな……」
そんな呟きを漏らしながら曲がり角の向こうへと消えていく先輩の姿と、その奥から声が聞こえてくるのは同時だった。
「ぬう! 学内を荒らす化物め。良ぃい度胸だ。クフウ、俺のこの肉体美を目の当たりにしても尚怖じけ付かぬというのなら――」
……やっぱりいるよ。……ん? バケモノ?
などと脳裏にデンジャーな単語が引っ掛かる頃には、自分もその場へと足を踏み込んでいた。
「うん、やっぱりそうだったね。いや、よかったよかった。テケテケとか三本足のなんたらとかそういうんじゃなくって」
そこにはあっけらかんとした調子で頷く椎華先輩と、難しい顔して見上げるよわい先輩の姿と、
「な……なんじゃあこりゃああっ!?」
テラテラと輝く、マッチョの下半身が浮いていた。いや、より正確に言うならば――
「なんじゃあこりゃあっ!?」
「ちょっとちょっと、うるさいですよ千草きゅん」
「大事なことなんで二度言いましたよ! えええ、な、なんじゃあこりゃあ!?」
三度言った。
「いやさ、見ての通りだよ。うん、たぶんツチノコ?」
「ツ――ツチ!?」
ツチノコ!?
そう。目の前にはマッチョ。ただし下半身のみ。浮いている。より正確にいうならば、
「マ、マッチョ食われとるうぅっ!!」
天井近くでだらりと弛緩した肌色は、ソレにずるりずるりと呑まれているのだった。現在進行形で。
――ツチノコ。
なんかヘビの親戚みたいの。平べったい。胴体の中心あたりが団扇みたく広がってるらしい。なんかそんなUMA。色は灰色に近い黒で大きさはニ、三十センチくらいだとか。
目の前にはびっしり鱗。うん。
胴の真ん中あたりは扁平に広がっている。うん。
体色はなんか灰色っぽい。うん。
頭部は見上げる程の高さで、全長は――
「デカイよ! 三十センチどこいった!? いやいや、ツチノコって、こんなんでしょ、こんなん!」
両手で必死に目測三十センチをジェスチャーしながら先輩に抗議する。違う違う。アレ俺の知ってるツチノコと違う。
「アレの元になった『綻び』が例外的な速さで、そして過度に成長したんだ。稀にこういうことがあってね。……うん。本当、滅多にないんだよ……?」
ちらりと振り返ったよわい先輩が、もじもじと上目遣いにこちらを見ていた。おとうさんにいたずらの言い訳をするこどもの様に愛らしい。
……勿論許すし。うふふ。先輩カワイイナー。
「……千草っち、分かりやす。あとキモチワルイ」
――ハッ! そうだほっこり父性(?)に目覚めてる場合じゃねえ。どうすんのこれ、逃げる? 逃げるよね!
「椎華、ディフェンダーは私が。ライナーは任せる」
クラウチングスタートの姿勢で待機する俺を余所に、よわい先輩はポイっとグリップ付きのチョークを椎華先輩に放っている。
「はいよー。しかしここじゃ狭すぎるわよ? このジャンボツチノコちゃん、廊下の幅六割くらいは占拠してるし」
あれ? 一体なんのお話をしてらっしゃるのでしょうか? わたくし、早いところスタートサインが欲しいんですけど。
「よし、適当な教室まで誘導する。私が引きつけるから二人はその後を追ってきてくれ」
……え、今なんて? 引きつける? 追いかける!?
「ちょっ、それどういう――」
言うが早いか、よわい先輩は徐に体を捩った。
「はいはい、千草くん、そこに居ると危ないよっと」
後ろから襟首をぐいっと引っ張られてそのまま壁際に。訳が分からず、隣で壁に張り付いている椎華先輩に視線を送ったが、「まぁ、見てなさい」とだけ返される。
目の前にはマッチョを呑みこみきった鱗の怪物。その傍らに白くて華奢な少女が一名。引き絞られた弓の様に右腕を構えたよわい先輩は、今にもその矢を放ちそうだ。
「え、ちょ、まさか」
冗談は止して欲しい。そんなことしたら、色々まずい。色々!
「先ぱ――」
「にゃんさん!」
「ん、にゃん!」
言い切るよりも早く、白い白い、細腕の矢は放たれた。
「しゅら?」
漸く足元の異変に気付いたらしいツチノコモンスターが間抜けな声を漏らした。直後、
「――げぇうっ!?」
ごむん、という生物的にヤバイ音と共に、奇妙な声を漏らし、蛇腹の体を揺らした。
――!?
くの字だ。くの字に曲がってる! ごっくんされちゃったマッチョがやったってびくともしなさそうなごん太ボディーが、くの字である! それもあんな、白くて華奢な先輩の手で!
「……しゅら……しゅららららっ――!」
ぐらりと傾いだ頭を起こし、その視界によわい先輩を収めたツチノコが音を漏らす。そのギョロリとした眼球には、明らかな怒りの炎が灯っていた。
「よし! こっちだ」
その姿を確かめたよわい先輩は、そのまま背を向けて走り出す。
「しゅららららぁっ!!」
その後を追って、巨大ツチノコはびたりと床に伏して蛇行を開始した。信じられない速度で遠ざかっていくよわい先輩に、ツチノコも負けない速度で追随していた。
「ふう、いや、ヘビって素早いんだねえ」
「いや、ツチノコでしょう――って、チッガーウ! まずいでしょうあれ! 早くよわい先輩助けないと! あのままじゃマッチョよろしくごっくんですよ!」
妙に冷静な椎華先輩に思わずツッコむ。まずいまずい。あんな重い物とか運動とか労働とかと無縁そうな『か弱い』を絵に描いたようなビジュアルのよわい先輩が! ツチノコのお化けに追いかけられてるなんて――!
「まぁまぁ、落ち着きなさいよぅ、千草後輩」
「いやいやいや落ち着けないでしょだってあんなちっさくてかっこよくてかわいくて華奢で白くてか弱くてかわいい(二回目)よわい先輩がツチノコお化けに追いかけられて危なくてピンチで危機で――」
「ああ……、なんていうか君はほんと……まぁ、いいか。あのね、千草くん。その華奢でか弱いよわい先輩は今何をしましたか?」
「でっかいツチノコもどきに追いかけられてます!」
「はい。そこじゃなくてもうちょっと戻って」
「椎華先輩にチョーク渡しました」
「はいはい。戻り過ぎ」
「ツチノコぶん殴ってました」
「はい。ツチノコくんはどうなりましたか」
…………?
「……くの字だよっ!」
忘れてたわ! くの字だよ! ごん太くの字でしたよ!
「というわけで、心配はいらないのです。じゃ、あたし達も追いかけるよー」
言って、さっさと椎華先輩は走りだす。というわけでの意味が分からないっ!
「センパイセンパイ! 色々説明不足だと思うんですけど!」
――慌ててその後ろを追いかけながら食い下がる俺に、椎華先輩は「ならば説明しよう!」と、なんか特撮の必殺技解説みたいのを始めるのだった。