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で、現在に至るわけである。
「あの、加賀美先輩」
先を行く先輩に声を掛ける。
「うん?」
ぱしっと歩を止めて振り返る、先輩のキレの良い動きに、頭の上で相変わらずぴょんぴょこ跳ねまわっていた黒いのが滑り落ちた。
「にゃ、にゃが――!?」
落ちても全然平気そう(素材? 的な意味で)なのだが、先輩は間髪入れず両手で受け止めた。
「ああ、これは失礼しました、にゃんさん」
丁重に頭の上に戻しながら、先輩が言葉を継いだ。
「それで、何かな?」
「ええっと、これからどこに、っていうか、何するんでしょうか?」
「うちの活動内容を実地で紹介しようと思ってね。ほら、さっき部室で説明した――」
ああ、境界がどうとかいう。まぁ、まったく分からなかったんだが。
「あ、あの、加賀美先輩、それなんですが――」
勢いで入部してしまったが、実際部活動に面倒くさいイメージしか持たない俺としては、このまま部員を続ける意志は薄い。マッチョ部の危機もひとまず脱した今となっては尚更。その気になっている先輩には申し訳ないのだが、ここは――
「ん。他人行儀だな。私のことはよわいで良いよ。そうだ、君のことも千草くんと呼ばせて貰おうかな」
「え……? いや、さすがに上級生をファーストネームで呼ぶのは……」
「良いじゃないか。私達は同じ、境界倶楽部の仲間なんだから」
そう言って先輩は先程と同じ様に、曇りの無い笑顔を作った。本当に、嬉しそうな。
部にならない程人数が少ないとマッチョ先輩は言っていた。新入部員の存在が余程嬉しいんだろう。
……言いだし辛い。こんな表情されて、「いや、実はさっきの筋肉ダルマの魔の手から逃れるための方便でした。部活なんて面倒なものに入るつもりはありません」とは……。
「え……。そう、なのか……?」
ぼんやりする俺の視線の先に、俺を見上げる先輩の顔があった。目の前で、貰える筈だった飴玉を取り上げられた様な、驚きと、悲しさの混ざり合った表情だった。
「あっ――! いや、これは」
しまった、よりにもよって声に出てたとは。
「いや、いいんだ。君は正直者だね。ははは」
そう言って寂しげに笑う先輩の様子が、鋭く胸に突き刺さった。本当、申し訳ないことをしてしまった。
「すみません……」
「そうだ。今日この後何か予定はあるかい?」
「いえ、特には」
「それじゃあ、今日一日だけ付き合ってくれないかな。体験入部ということで。ほら、それで君がうちの活動を面倒に思わない、ひいては楽しめそうだと感じたら続けてみるということで、どうだろう?」
「分かりました。そういうことなら」
罪滅ぼし、というわけではないけれど。
「それじゃあ、よろしくね――千草くん」
差し出された白くて小さな手を、しっかりと握り返した。
「ええ、よろしくお願いします――よわい先輩」
俺を見上げるよわい先輩の表情は、少し寂しげだけれど、綺麗な笑顔だった。
●
「それで、話は戻るんですが、何するんでしょう?」
「ああ、そうだったね。ひとまず校内を歩いて回るんだ」
「へ? それだけですか?」
よわい先輩の返答は実に簡潔だった。部活と身構えていた自分が馬鹿みたいだ。それなら全然籍を置いておいてもよさそうだ。
なんて思ったのだが、「いや、まあ、それだけじゃあないんだけどね」と苦笑されてしまう。
「にゃん! にゃん!」
同時に、黒いのが俺に向かって吠えて(?)いた。単純な奴、とでも言いたいのだろうか。……いや、だからお前は何なんだ。
「まぁ、とりあえず歩こうか」
「はぁ」
そう言って歩き始める先輩の後を追って、俺もまた歩を進めるのだった。
歩き始めて暫く、廊下の隅っこで先輩が腰を落とした。
「何です?」
歩み寄って覗きこむと、先輩はブレザーのポケットから何やら取り出しているところだった。
「印をね」
そう言って取り出したそれ――白いチョークで床に直径三十センチ程の円を描いていく。チョークにはご丁寧にグリップが付けられていた。
「そこに何かあるんですか?」
まぁ、どう見ても何もないんだが。
「まぁ、それも追い追い説明するよ」
「はぁ」
――結局、学園中を回って、同じ様なことを何度か繰り返した。円の大小は色々だったのだけれど。
●
「コーヒーで良かったかな」
「え、あ、わざわざすみません。すぐお金出しま」
差し出された缶コーヒーを前に、慌ててポケットをまさぐる。
「ああ、いいよ。御馳走させてもらう」
「……ありがとうございます」
「あの、境界倶楽部の活動はこれで終わりなんでしょうか?」
夕日が地平線の向こう側へと隠れ始める頃、貰ったコーヒーを啜りながらそんなことを訊いた。
一通り学園内を回った後、俺達は部室へと戻ってきた。それまでにやっていたことといえばあちこちにチョークで丸描いてきただけである。これを部活動と言っていいものなのか。まぁ、面倒のない活動内容というのは実に好ましいのだが、何の意味があるのか解らないというのも、問題な気がする。
「……じきに六時か。そうだね、もう少し時間を置いたら頃合いになるから、後半戦といこう。もうじき他の部員も来るからね」
「え、下校時間近くないですか? まだ何かするんですか」
というか、他に部員居たんだ。
「はいよー。おまちどー!」
先輩からの返答を貰うより先、勢いよく部室のドアが開いて、元気な声が飛び込んできた。
「……誰?」
目が合うや否や、その女子生徒が言った。
「ああ、ちょうど椎華のことを話してたところだ。千草くん、彼女は加島椎華。私と同じ二年生で、部員だ。副部長をやっている。といっても、君を除けば二人きりの部だから、部長と副部長しか居ないんだけどね。椎華、こっちの彼は物部千草くん。今年の新入生で、一応仮入部ということになるかな」
「えと、よろしくお願いします」
よわい先輩からの紹介を受けて、ぺこりと挨拶をしてみる。
「え、何、君入部するの?」
顔を上げると加島先輩がくりりと大きな目を丸くして、俺の事を凝視していた。
「ええと、まあ、今日一日様子見って感じですけど」
「モノ好きだねー君! まぁ、楽しんでいきたまへー!」
答えると、金色に染めたショートヘアをわっと揺らして快活に笑って見せる。なんというか、それだけでこの人の人柄が分かる様な気がする。
(それでそれで?)
「はい?」
挨拶が終わったと思えば、何やら顔を寄せてひそひそと話し始めた。うーん、せわしない。
(君なんで下の名前で呼ばれてんのさ。もしかして入部初日でそういう仲になっちゃってんの!? 手ぇ早過ぎでしょ、この思春期さんっ)
(――!? ちょ、何言ってんですか、違いますよっ!)
いきなり何を言い出すのかこの人は。ていうか、そのイヤらしいニタニタ笑いをやめてください。
(ええー。違うの? つまんないわねえー。……じゃあ片思いなの?)
(だから……)
なんという春色脳。中学生かこの人は。
「む、何の話だ?」
なんにも知らないよわい先輩が、輪の外で不満げな顔を作っている。若干唇を尖らせているのが、申し訳ないが可愛らしい。
「いやね、ちぐさくぅんがさ、よわいのこと――むぎゅうっ!」
間髪入れずにスピーカーの口を塞ぐ。
「はっはっは。いやぁ、先輩方が二人で活動とは大変だったろうなぁ、と」
「ふぅん……?」
「もごもごぅ」
理解した。このかしましい金色クリーチャーは、デンジャーである。
(ちょっと、先輩。あんまり妙なことばっか言ってると、ちょっと口では言えない様なことしますからね)
(いやーん。千草くんのえっちすけっちわんたっち)
(……もういいッス)
「……まぁ、仲が良いのは結構。挨拶も終わったことだし、行こうか。椎華、学内の様子は?」
「ほとんど下校済み。問題無しよん」
どこか不満げなよわい先輩の問いかけに、加島先輩がそんな風に答えた。その内容に満足げに頷いて、境界倶楽部部長は活動開始を宣言するのだった。
「よし、それじゃあ行こうか――境界を正しに」