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人影の無い廊下を行く、ピンとした背中を追って歩く。先輩の背は俺よりずっと低いのに、伸びた背筋で堂々と歩く後ろ姿はそんなことを忘れさせるほど凛々しい。
きびきびと歩を進める度に揺れる髪がどこか尻尾の様で、そのギャップが微笑ましい。
ただ――
「にゃん! にゃん!」
俺の視線は、その先輩の頭の上でぴょこんぴょこんと跳ねまわる、黒い物体に釘付けなのだが。
……えええ。何なのアレ。いや、ぴょんぴょん跳ねてるけどあれ、足に屈伸運動の様子が見られないんですけど……。
いや、そもそも俺は何故こんなことに……。
――そう、それは遡ること数時間前。
●
「ヒャッハー! 新入生だぁ!」
入学式が終わり、体育館の扉が開かれてすぐに聞こえてきたのが、世紀末、核戦争後も真っ青なそんな歓声だった。
扉の外には、校舎そして校門へと続く道にびっしりと人垣が出来ている。各種運動部ユニフォームに楽器画材、様々な格好の上級生と思しき人々が、ギラ付いた眼を輝かせながら待っていた。
「君! 良い肩してるじゃないか! 野球部の部室はあっちだ! さあ行こうか」
「え、ちょま、僕は文芸――あ、ちょ、だれ、誰かー! アッー!」
真っ先に扉を抜けた男子生徒が丸刈りのユニフォーム集団によって担がれていく姿を、新入生一同が呆気にとられて見送った。そして皆が一呼吸の後に事態を呑みこむ。
水でも食糧でもない。これは――
「新入生狩りだー!」
ノリの良い誰かが叫ぶと同時、阿鼻叫喚の地獄絵図は成った。
扉の内側で待っていてはジリ貧。バラバラと出て行けば恰好の的。考えは皆同じ。俺達は肉食獣から逃げる草食動物的な集団行動で対したのだった。
要は『俺以外全員囮になってくれ』戦法である。当然だがあちこちで断末魔(?)の悲鳴が上がり、獣共の勝ち鬨が聞こえる。
――冗談じゃない。部活なんてメンドーなものに誰が入るものか。ていうかこの部員勧誘は既に人攫いのレベルだろ自重しろ!
あちこちで空を舞いそのままどこへとも(多分部室)分からぬ処へと運ばれていく同輩達を横目に、俺も人の群れへと踊り出す。目指すは校門、いや、校門なぞ間違いなく張り込まれているだろうから――
「う、うわ! は、放してください! オレは生涯帰宅部と決めて――」
戦線からの撤退ルートを思案している背中に、聞き覚えのある声が聞こえて、思わず振り返った。
ちゃらい茶髪がよく目立つ、同中のタナカだった。必死の形相で身を捩り逃れようとするタナカの体を、屈強な男がガッチリと固定していた。何の冗談か上半身裸で。あとなんかテラテラしてる。
「はあっはっは! そう遠慮するな新入生! 我がボディービル部で君も美しいボディーを手に入れようじゃあないか! たぁのしぃぞぅ!」
「い、嫌ぁあああ!」
ボディービル部とかあるのかよ……。つうかあんたほんとに高校生かよ。
「タ、タナカ……」
あまりに悲惨な元帰宅部同志タナカの様子に、思わず声を漏らしてしまう。しまったと思ったが、案の定。奈落の底のタナカはその僅かな声量すら逃さなかった。
「――モノ、物部! たす、助けてくれ!」
バッカヤロウ! タナカこのやろう!
慌てて黙れとジャスチャーするが、時既になんとやら。有り得ない肉付きのマッチョ先輩は、ぐりんとその太い首を巡らせて俺の姿を捕捉したのだった。
「フゥム。君の友達かい?」
マッチョ先輩が穏やかな(でも低い)声でタナカに問うた。
――やべえ!
全力で左右に首を振り、タナカに否定しろと合図を送るが、タナカが返してきたのは仄暗い表情だった。既に何か大切なものを諦めてしまった表情、そして――
「ええ……。大の親友ですよ」
道連れを欲する、亡者の瞳だった。口元の引き攣った笑みは、そこらのホラーよりキまっていた。
「そぉぅかぁ。それは、是非一緒に青春の汗を流さんとなぁ……」
「ひっ――!」
爛々と輝く目と、にぃっと笑う口元に戦慄する。
や、ヤラレル――!
今後の学園ライフと、その他諸々に危険を感じて背を向けた。プランなぞ無い。とにかく全力疾走あるのみ。
「ぬう! 逃げるとはなんというシャイボーイだ新入生! お前達ぃ! この新入部員一号を部室に案内しておけい!」
「「「サーイエッサー!」」」
背後で軍隊風の掛け声が重なって聞こえた。ちらりと振り返ると屈強なテラテラの半裸集団数名に担がれていくタナカと、アリエネー勢いで突進してくるマッチョの姿が見えた。
「う、うおおおおお!?」
絶対だ。絶対に捕まってはいけない。もしアレに捕まる様なことがあれば、その先に待つのは灰色ならぬ肌色の青春――!
「絶っっっっ対にっ! お断りだああぁあっ!」
八方で繰り広げられる阿鼻叫喚の中、俺の魂からの絶叫もまた、そのひとつとして融けていくのだった。
●
「――はぁっ! はぁっ、はぁ……」
どれくらい走り続けたのか、どこをどう逃げて来たのか全く覚えていないのだが、とにかく人の居ない方居ない方と進んでいたら何やら校舎内に辿り着いたらしい。
「はぁ……。撒いた、か……」
背後を振り返って確認してみたが、肌色の悪魔の姿は確認出来なかった。助かった。
しかし――
「全く人影が無いなここは」
改めて周囲へ視線を巡らせたが、本当に人っ子一人居ない。
廊下は板張りで、建物全体も木造らしい。どこかレトロなこの様子から、ここが学園に二棟ある内のいわゆる旧校舎の方だと理解する。『新』『旧』といっても、どちらもしっかり使われているって話だったと思うんだが。
「こちらは通称『文化部棟』だからな。文字通り文化部の部室が集中している。文化部といえど殆どの部が新入生獲得に出張っているし、積極的に勧誘に走っていないモヤシは部室に籠っているだろうからなぁ」
ん。ああ、言われてみれば確かに。部名の入ったプレートが、いくつも廊下に飛び出して見える。
「へえ。じゃあ新校舎側が運動部棟ってことか。体育館に近いってこともあっての人攫い……もとい部員勧誘ってわけだ――って、何だアレ」
何気なく眺めていたプレートの中、一番手前、目と鼻の先の部屋のプレートが目に留まった。
『境界倶楽部』
何するところなのか、まったく分からん。
「む。そこはやめとけ新入生。うちは大概妙な部活の多いとこだが、そこは中でもダントツだ。何やってるのか誰も知らん。部員数が少なくて実質同好会だしな。終いには放課後、誰も居なくなった後で猫とも犬ともつかぬ獣の鳴き声が聞こえるという怪談じみた噂まであってな」
「はあ。じゃあ、そんな噂のせいもあって人が寄りつかないんですかね」
「あとは、まぁ、こんなところまで逃げ込んで来る奴は中々居ないからな。はっはっは!」
「あははは、は……?」
あ、れ。俺、誰と話してるん、だっけ……?
ぽん、と肩に手が置かれた。ずしりと重い手だった。
「あ、あ、あ……」
ぎぎぎ、と軋みが聞こえる様な動きで首を巡らせた。そこには――
「まあ、そういうわけだから、ボディービル部の部室へ行こうか。新入生、いや、物部クゥン……」
ねっとりとした笑みを浮かべた、マッチョの顔があった。ゼロ距離で。
「う、うわ……、うわああああああ!」
真面目にPTSDになる恐怖体験だった。
「え、遠慮します! きゅ、きゅきゅきゅ急用を思い出したので俺はこれで――」
あまりの恐怖に、言い訳にも逃げ口上にもならないセリフを吐いて再び走――れなかった。
「え、あれ、これ」
違和感に視線を落とした。そこには、
「いつのまにか簀巻きになっとるぅっ!?」
何かマット的なものでロールされた己の姿があった。
「いかんなぁ、物部クンン……。若い内は遠慮はするもんじゃあないぞぅ。さぁ、行こうか」
「ちが、遠慮違います! 入りたくないんです筋肉部!」
「はっはっは! ボディービル部だ」
どっちでもいいわ! というツッコみなどガン無視で、筋肉の権化は軽々とロールされた俺を担ぎ上げた。
「い、嫌ぁあああ!」
「クフゥ。往生際が悪いぞ物部ぇ。心配せずとも夏までには筋肉の素晴らしさ、嫌と言うほど理解させてやるからなぁ」
「ヒィッ! おか、犯されるぅ!」
人生観的な意味で!
嗚呼、さよなら怠惰な日常。こんにちは肌色パラダイス。などと絶望に浸る俺の視界の端で、最寄りの扉が開いた。
「ぬう?」
扉の上のプレートには『境界倶楽部』の文字。詳細不明とされる部(同好会)の動きにマッチョ先輩が反応した。
「騒がしいな」
ゴゴゴ……。なんて擬音が画面内に溢れそうな場面だったのだが、扉からひょこりと顔を出したのは小柄な女生徒だった。
色白で線の細い華奢な体付きは、深窓の――なんて表現がひどく似合いそうな女子だった。落ち着いた様子の瞳を飾る睫毛は、肌の白さもあってかすっと長く綺麗に見えた。
「ふむ……? これは……」
そんな彼女がくっと首を傾ける。髪の色と同じ黒いバレッタで纏められた髪がさらりと垂れた。視線は彼女の頭よりずっと高い位置へ向けられていて、俺とは合わない。ちょうどマッチョ先輩と見つめ合う形だ。美女と野獣と簀巻き。シュール過ぎる画面だった。
「……ああ、騒がせたな境界倶楽部の。新入部員を部室に案内するところでな。すぐ失礼しよう。邪魔をしたな」
――ハッ! 呆けてる場合じゃねえ! 何とかしなければ!
「ちょ、そこの人! 助けてください! これ人さら――もごぉ!」
「はっはっは! 部活動が楽しみ過ぎて動転しているようだな物部ぇ」
速攻でごつい手が口元に張り付いた。ヌルヌルしてるぅっ!
「まあ、そういうわけだから境界倶楽部の。邪魔はしてくれるな」
「はあ。まぁ、他の部活動に無暗に干渉はしませんが……」
「もごぉ!?」
そんな! タスケテー! ……いや、他の部に干渉しない? だったら!
「もご……ぶはぁっ! せん、先輩!」
身を捩ってなんとか口の自由だけを取り戻す。もうこれに賭けるしかない。
「あ、こら物部貴様!」
俺の呼び掛けに、境界倶楽部の彼女が視線を返した。
「入部、入部希望です。一年A組、物部千草、境界倶楽部に入部します!」
部活動なんて面倒だけど、三年間を肌色に過ごすことを思えばどうってことない。筋肉部以外ならこの際何だっていい。
「何ぃ!?」
しまった、と舌打ちをするマッチョ。
境界倶楽部の彼女は、一瞬きょとんと俺を見上げて、すぐに顔を綻ばせた。
「そうか。歓迎するよ――物部くん」
先程までの落ち着いた表情とは違う、少女らしい、花咲く様な笑顔だった。