( 序 )
「物、事――いわゆる『存在』というものは、例外なく『境界』により他の事象と分けられている」
ぴったり。という表現が正しいのかは分からないが、四畳半という手狭な部室の中央、生徒用の机二つを挟んだ向かいで、部長――加賀美よわい先輩は切り出した。
「……はぁ」
まぁ、なんというか、とりあえずいきなりで大変申し訳ないのだが、
まったく分からん。
「……つまり――そうだな、例えばこれだ」
言って、椅子に据えていた腰を僅かに上げて、すぐ脇の棚へと手を伸ばす。真っ白なシャツの袖から続く手は、それよりずっと白く透き通っていてどきりとする。
滑らかな動作と共に舞い戻った腕の先、きれいな細工物の様な指が、一枚のルーズリーフをとん、と机へ固定した。
「紙、ですか」
「いや、それも意味はあるが、描かれているものにも注目して欲しい」
とんとんと示す様に人差し指が踊る。
真っ黒い丸太みたいに簡素なぼでぃ。ちょこんと小さく短い四足。ふっくらアンパンの様な頭の上には左右に三角の耳。顔にぽちっとある小さなふたつの白いのは、たぶん目だろう。丸太の端、アンパンの逆サイドにはピンと空を突くしっぽ。
「……猫、ですか」
随分個性的ですけど、とは口に出さなかった。
「…………」
返事がない。え。まさかの不正解?
そっと顔を上げる。視線の先ではルーズリーフを凝視して難しい顔をする先輩の顔があった。
色白で皺ひとつなかった眉根をくしゃりと寄せた姿は、それでも何のマイナスにもならない眩しさがある。
「あ――の」
止まってしまった会話を再開させるべく口を開くと、先輩がすっと顔を上げた。同時に頭の後ろ、高い位置で一つに纏められている長髪がするりと肩に垂れた。
「とにかく、まぁ、これは絵だ」
肩にかかったそれをそっと後ろへ流して、まっすぐに俺を見据えた。僅かにも揺れることのない決然とした瞳に息を呑む。体付きは華奢なのに、先輩の姿勢や言葉はどこか他にはない強さがある気がする。
……ただ、まぁ、この場合使いどころを間違えている気はする。
「それで、この絵が何なんですか」
「紙の上に描かれたものに、私達は触れることは出来ない。その逆も然り、だ」
「まぁ、そうですよね」
「それが『境界』のひとつの形だ。物事の領分と言い換えてもいいかな。この場合は平面と立体の侵されざる棲み分けだ」
「はぁ」
俺の気のない返事を意に介することなく先輩は講釈を続ける。
「そして――」
黒い猫(仮)の描かれたルーズリーフを右手で摘まんで見せる。紙面の真ん中、横向きに鎮座する猫(?)が俺の目の前にある。一拍置いて紙面はくるりと翻って、真っ白な、何も描かれていない裏側に変わった。
「これが――」
裏返しになったルーズリーフの後ろで、先輩の左手が素早く動く。また一拍置いて、ルーズリーフがすっと取り払われて――
「うお!?」
そこには先輩の白い左掌。その上に、何か黒いもの。
丸太みたいな簡素なぼでぃ。ちょこんと小さく短い四足。ふっくらアンパンの様な頭の上には左右に三角の耳。顔にぽちっとある小さな白い目。丸太の端、アンパンの逆サイドにピンと空を突くしっぽ。
先輩の掌の上には、ルーズリーフに描かれていたままのそれが、確かな実体を伴って存在しているのだった。
何だ今の。紙からさっきの絵が飛び出したってのか? いや、手品か? 真面目な顔して何始めるんだよこの人は――
「これが、『境界』の『侵犯』だ。そして――」
混乱と呆れとがないまぜになった思考に溺れる俺にお構いなしで先輩は尚も続けた。
「この方が境界修正の要――」
すっと差し出された白い掌の上。黒い猫の様なぬいぐるみの様なそれ。真っ白いふたつのつぶらな瞳が――しばたいた。
「『にゃんさん』だ」
『――にゃん!』
黒いそいつが元気良く鳴いた。
………………?
…………?
……!
「――は……、はああああああああ!?」
――その日。俺は小学生以来初めて、非帰宅部員となったのだった。