輪
「ウツロヒ」第4話
-「輪」-
丸い円の中に、一つの顔が映っている。
その顔は、時に哀しげのようでもあり、時に穏やかそうでもあり、
日が進んでいくたびにその表情を変える。
そしてその後ろに映りこむ背景もまた、季節と共にその色を変えていく。
もう一つ対になっている円の中に嵌っているスポンジに、そっと指を当てると、一瞬その形にくぼみ、元の形に戻る。それは、今自分がここにいるという証拠だ。
そう、間違いなく私はここに、今、存在している。
存在しているのに。
シン・・・
静寂に音なんてあるわけないのに、人はそういう表現をすることがある。
音の無い「音」の中。灰色の雲から、白く危うげなモノが落ちてきた。
それは地面に落ちると同時に、儚く消えていく。
まるでそこにはそんなものなど、初めから無かったというように。
それでも尚、降り続ける。
降り続けていればいずれ、その存在が形になることを証明するかのように。
長く伸ばした私の髪に、冷たいそれが吸い込まれ、消えた。
彼と初めて会ったのは、3年前のことだ。
一目惚れだった。別に特にイケメンだったというわけではない。ただ彼の持つ雰囲気に惹かれたとしか言いようが無い。気がつくと自然に目で追い、彼の言動に注意を払うようになっていた。
気持ちを伝えるまでは時間がかかった。
残念ながら気持ちは届かなかった。
しかし、彼は友達になることを約束してくれた。まずそこから始めようと。その時の私にはそれで十分だった。
夜シフトの仕事が終わり、職場を出たのは夜中の2時を過ぎていた。
街は光を失い、いつの間にか雪は止んでいる。積もってもいない。
存在の証明が出来なかったモノ。儚いモノ。
それは叶わない心も同じこと。
どれだけ相手に気持ちをぶつけても、それが形として実になるとは限らない。
再び私は鏡を取り出した。
その輪の中に、仕事の疲れを感じさせる自分の顔が映っている。
少し遅く起きたせいで慌てていたせいか、気付けばいつもより化粧も薄い気がする。
笑顔を作る気にもなれない顔は、まるで仮面のようだ。
人気の無くなった道を歩きだすと、
音の無い世界で、私の靴音だけが響き渡る。
一定のリズムで寒空の中に響く音。今この瞬間はこの音だけが、私がこの世界、この時間に、この道を歩いているという証明になっている。
いつの間にか。
私はまた、彼のアパートの前まで来てしまっていた。
もう何度目だろうか。こんなことをしていても意味が無いと解っているのに、体がここに向かってしまう。もうこんな時間だ。彼が起きているはずもない。
そう、全部解っていることだ。こんなことをしているのはストーカーだということも。
それでも。
アパートの外側についている階段を上る。
トン、トン、トン、トン・・・
足音をできるだけたてないようにしているのに、素材が薄いのか、どうしても音が響いてしまう。通路を歩いて、そのまま一番奥の、彼の部屋のドアまで辿り着く。
ドアを見つめて、私はそのまま立ち尽くした。
無意識にノックをしようとしている自分に気付いて、慌てて手を戻す。
一瞬、覗き窓がチカチカと瞬いたような気がして、ハッとする。
彼はまだ起きているのだろうか。
しかし、やはりドアが開くことは無い。
この、決して開くことの無いドアを開ける鍵はいらない。
ただ彼の心に私が少しでも入り込むための、その鍵が欲しい。
考えるたびに胸が締め付けられる。
どれくらい長くそこに立っていたかは解らない。
結局私はこの日もドアをノックすることの出来ぬまま、アパートを去った。
気持ちを伝えてから暫くは、私と彼は普通にコミュニケーションをとっていた。
電話もメールも普通にやり取りし、会えば他愛のない会話をした。
状況が変わったのは、1年前くらいからだったろうか。
彼は徐々に、私を避けるようになった。
電話も、メールも返ってこない。それだけならまだ良かった。
ある日、偶然町中を歩いていた時のことだ。
至近距離で彼と出くわしたことがあった。私は普通に微笑んで彼に話しかけた。
彼は一瞬私を見た後、気まずそうに目を逸らしながらそのまま道を去っていった。
それからも何度か、同じ町内で働く私達が出会うことがあった。
そのたびに、いや、回を増すごとに、彼は私を無視するようになっていった。
何があったのかはわからない。でもまるで、私がその場にいないかのように振る舞い、決して言葉も目線も交わすことは無かった。
彼の中では、もはや私が存在していないのだろうか。
友達としての存在ですらなくなってしまったのだろうか。
ここにいるのに。確かに存在しているのに。
そうこうしている内に私は、最近自分の存在というものが、
自分の中で危うくなっていることに気付いた。
その場にいるはずなのに、存在していないかのような、そんな感覚。
そんな感覚を意識するたびに、私はこの丸い鏡を取り出し、その輪の中に映る自分の姿を確認するようになった。
今日も鏡を取り出し、自分の姿を見る。自分はここにいる。
遠くからカップルが歩いてくる。
こんな場所に立っていては、不自然に思われるだろう。
下に向けた視界の中を、2人の足が通り過ぎていく。
特に何事も無く。私の存在に関係なく通り過ぎていく。
他の人にとっても、私の存在は不確かなものになりつつあるのだろうか。
2月。
私は深夜、また彼の部屋の前に立っていた。
これを最後にしよう。
自分勝手な気持ちでこんなことを続けるべきじゃない。
決心していた。
さっきアパートの前に来たときは、天窓から漏れる光が見えた。
それが消えたばかりだから、彼はまだ起きている。
だから今日、このドアを叩いて、これまでのお礼と別れを言おう。
付き合ってもいないのに別れと言うのも変だけど、
そうしなければ自分が前に進み出せない。そう思っていた時だった。
勢い良く、今まで決して開くことの無かったドアが、開け放たれた。
驚いて彼を見つめる。
一瞬、空気が凍りついたような錯覚を覚えた。
何か、何か言わなくては。
しかし、彼の様子は、何も変わりなかった。
いや、彼にとっては変わりの無い風景を見るかのように、
ただ周りを見渡していた。それだけだった。
まるで私が本当に、この場に存在しないとでも言うように。
ドアが、閉まる。
凍りついていた空気が、再び冷たさを湛えたまま元の形に戻る。
私は無言でドアを叩いた。小さく。小さく。
返事は無い。触れた手が僅かに力をこめてドアの上を滑り落ちる。
雪など降っていないのに。
儚いモノが地面に落ち、
その存在を証明することなく、消えた。
暗闇の中で、
私は雪を見ていた。
不思議だ。雪は丸くない。
それなのに、人は雪の絵を描くとき丸い形を描く。
ペンで輪を描くと、それだけで雪にも、ただの円にもなる。
その輪が突然輝いた。
これは何だろう。
明りだ。明りが輝いて、光の輪を作っている・・・
私は、病院のベッドの上で目を覚ました。
さっきまで光の輪を作っていた蛍光灯の光が眩しくて、数回瞬きをする。
暫く状況が飲み込めずぼんやりとしていたが、
その時になってようやく、横からスーツを着た女性が覗き込んでいるのに気付いた。
何か私に向かって話しかけている。
まだ頭がはっきりせず、その言葉がちゃんと耳に入ってこない。
看護婦が来て、スーツの女性と話しながら私の周りで動き回り始めた。
医者を呼んでいるらしい。
私はカサカサに乾いた唇から、女性に向かって言葉を発した。
私は、今、ここにいますか?
一瞬何のことを言っているのか解らなかったのだろう。
女性は怪訝な顔をした後、ゆっくり私に頷き、微笑んだ。
-<「輪」終>-